From 2005-09-26(月)
To 2005-10-29(土)
一番欲しいものはなんですか
命賭けても守るものはなんですか
時代という名の諦めが
心という名の橋を呑み込んでいくよ
道の彼方にみかけるものは
すべて獲物か 泥棒ですか自由に歩いてゆくのならひとりがいい
そのくせ今夜も ひとの戸口で眠る
頼れものは どこにある
頼られるのが嫌いな 獣たち
背中に隠したナイフの意味を
問わない事が友情だろうかこの世 見据えて笑うほど
冷たい悟りもまだ持てず
この世 望んで走るほど
心の荷物は軽くない
救われない魂は
傷ついた自分の事じゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
最新テクノロジーとしてもてはやされているインターネット。
「バリアフリーを推進していくなかで、今はウェブアクセシビリティがテーブルの上にあるといったところでしょうか」なる批判もあり、建築業界などでは当たり前になりつつあるユニバーサル・デザインへの考察が最新テクノロジーでは一番遅れているのでしょう。
メモリーと悪戦苦闘したコンピューター知識人がGUYのマジックでコンピューターの基礎知識を忘れたかの如く。
このところ、様々な調査結果が新聞をにぎわしており、日本企業の社会貢献意識の低さや世界大企業の温暖化対策への取り組みが消極的など生きる基礎知識が現代社会は欠落しているのだろうなぁと思っています。
テキスト画像につき、読み上げは不可能かと思われますが、ページ内リンクのPDFは読み上げは可能かも知れません。
国民の豊かさの国際比較2005年版
個別指標で日本の順位が高かったのは
平均寿命(第1位),病院ベッド数(第2位),乳児死亡率(同率第3位),
国土に占める森林面積比率(第2位),15歳生徒の科学力(第2位),
国民の高学歴率(第3位),特許取得数(第3位),日刊紙数(第2位),
国民1人当たり情報通信支出(第4位),GDPデフレータ上昇率(第1位)
などである.
逆に順位が低かったのは
医師数(第27位),国民1人当たり国際観光収入(最下位),
生徒・教師比率(第26位),経済成長率(第29位),
国民1人当たり輸出額(第28位),国民1人当たり輸入額(第28位),
財政バランス(第28位),国民1人当たり政府累積債務(最下位)
などになっている.
昨日のテレビニュースでは今の社会は子育てに配慮する環境が不十分で、健常な「男の仕事」のあり方が変わらなければ少子高齢化は歯止めなく進むとされてました。
今、日本は第三の開国を迫られていると言われてますが、アジアからの民主化という黒船でしか変わらないのであれば、情けない話ですね。過去二回の開国でも民主主義は根付きませんでしたし。
今、問われているのは「改革なくして成長なし」ではなく守る物は何か、「保守」のあり方なのだと思うのですよね。
「映画が文化であることを忘れた人が多すぎるのではないか。それが時流だ−ではすまされない問題だと思う」
幼時に肋骨カリエスを病み、成年までもたないだろうといわれるほど病弱だった映画監督豊田四郎が晩年、言い続けた言葉。
豊田四郎生誕100年を記念してその作品群が放映されている。
戦前、ハンセン氏病を取り上げた小川正子原作『小島の春』(1940年作品)、傷痍軍人の恋愛物、山口さとの原作『わが愛の記』(1941年作品)、戦後の結核患者の話『わが愛は山の彼方に』(1948年作品)、いち早く老人性痴呆を世に問うた有吉佐和子原作『恍惚の人』(1973年作品)など生活弱者をよく取り上げ、文芸作品の巨匠とされる豊田四郎監督。
その豊田四郎の生誕100年を記念してその作品群が東京国立近代美術館フィルムセンターでの連続上映を皮切りに、VIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズでも上映され、日本映画専門チャンネルでもこの9月より12月まで連続放映が始まっており、代表作、織田作之助原作『夫婦善哉』(1955年作品)の他に川端康成原作『雪国』(1957年作品)永井荷風原作『ぼく東綺譚』(1960年作品)有吉佐和子原作『恍惚の人』(1973年作品)のDVD化も決まっている。
世界で日本映画の巨匠と知られる黒澤明、溝口健二、小津安二郎に続き、先に生誕100年で再評価され始めた成瀬巳喜男が庶民の哀感を描いた作家ならば、豊田四郎は日本の風俗を描き続けた作家。
これを機に、海外で進んでいる日本映画の掘り起こしに遅れを取ることなく、日本文化の足跡を見直してみてはどうだろうか?
全作紹介無理としても、及ばずながら、気にとまった作品を何本か、今の日本文化に照らし合わし、紹介出来れば。
まずは、猫をこよなく愛する庄造を取り巻く二人のをんな。いや、三人のをんな。『猫と庄造と二人のをんな』(1956年作品)
谷崎潤一郎の実体験をモチーフにしたという原作の映画化をやっと観る事が出来た。
息子の手綱を握っている母、浪花千栄子は原作以上に金の亡者のちゃかり者。そんな母がいなきゃ何も出来ない庄造を、駄目男をやらせたら天下一品の森繁久彌が大熱演。母と張り合い、庄造を自分のものとせんとする先妻、山田五十鈴はその押しつけがましさ故、三行半を突き付けられ、家から追い出され、先妻に隠れて庄造が付き合っていた女が後妻として転がり込む。この後妻、香川京子はへそだしのホットパンツ姿のセクシーないけいけガール。資産家の娘らしく、母親も取っつきづらいが、お金のためとあっけなく、後妻を入れてしまう。
それを知った先妻は庄造への未練半分、自分の意地半分で、後妻に庄造が後妻を愛するならば、こよなく愛する猫リリーが邪魔になるはず、引き取りたいと誘いをかける。その手に乗るかと意地張る後妻も庄造のリリーへの偏愛に我慢ならず、先妻にリリーを引き渡す。
誰も自分を愛さずにそれぞれの見栄と意地で自分を奪い合う情景に庄造は愛するリリー求めて、先妻の居候する家に行く。関西弁のまくし立てと終いにはをんな同士の取っ組み合いの喧嘩。庄造の人間嫌いはいい迷惑のリリーに向けられる。
見栄と意地で最先端技術の商品が次々売られ、それに乗っかる消費者は身ぐるみ機械仕掛けのあやつり人形の昨今、追い打ち駆けるように携帯向けテレビサービスも始まるとか。貧民知らずのマネーゲームはまくし立て、取っ組み合いを残したまま、人間嫌いも受け継ぐような。いい迷惑は使い捨てられる機械と自然なのかも。
明治の頃、ドイツ思想の影響を受け、日本は家父長制を確かなものにすべく、性別特性論、性別分業論が持ち込まれたという。
女であり、貧しさ故に高利貸しの愛人になるお玉、高峰秀子は無縁坂に家をもらって住んではいるが、高利貸しの奥さんの影に脅える日々を送っている。そんなある日、毎日坂を散歩しにやってくる大学生、芥川比呂志に恋心を抱くが、彼もヨーロッパへの留学が決まり、旅立っていく。自由に飛び立つ雁にもなれない女のささやかな抵抗。
原作者、森鴎外もエリートという立場からこういう境遇の女がいる程度の描写しか出来ず、鴎外の分身とされる大学生もお玉の内実には立ち入らない。
映画もまた、古い日本の因習を忠実に映し出し、観る者に雁の飛び立つラストを突き付ける。
戦後の日本は戦争体験から私生活主義が平和主義と一体化して、今日に至るという。個人対個人の個人主義は育たず、自分は個人であり、その私生活を死守するけれども、相手は社会という価値で判断下す。その私生活主義はフェミニズムを嫌い、一見男女平等の今日、キャリア主義によって、性別特性論、性別分業論へ舞い戻ったとも云われている。
井原西鶴研究を一生の道楽としていた豊田四郎が思い描いた女性観はおそらくはこの映画『雁』に映し出されているのだろう。
いつも日曜日、仕事帰り、人混みを歩き回った身体の凝りをほぐすためにススキノにあるジムに行き、ストレッチをして、併設のカプセルホテルもある温泉で一服するのだけれど、その前にいつも地下街にある食堂で腹ごしらえする。
このところ、さっぽろ地下街という場所柄か、中国からの観光客がこの店に多く訪れているようで、何度か、僕も中国からのお客さんと同席する機会を得た。
店は調理場を取り囲むカウンターのみで、天丼、焼き豚丼を作る店長とお客が対面する形になっている。
店長はテレビなどで得た中国の情報を中国からのお客さんに話題作りとして、話しかけたりしており、少し前、若い女の子の二人連れに「北京の平均月収をテレビでやってたけど、本当?」と話すと、「そんなに貰ってない。よほどいいところに勤めている人の話」と返事が返ってきていた。
この前の日曜は年配のご夫婦二組が入ってきて、またまた、店長のお持てなしを聴く事が出来た。年配のご夫婦二組も料理が気に入ったのか、「名刺が欲しい」と言いだし、店長は「名刺はないけど、これあげるね」と紙切れになにやらメモを書き、手渡した。
満足げに帰る中国からのお客さんに店長は「再見」と中国語で見送る。
気に入った店を口コミしようとする中国からのお客さんと「再見」と見送る店長。 当たり前の人付き合いが妙に懐かしく感じられた。
行きつけのジムでも運動の基礎であるストレッチを念入りに教えるインストラクター達に愛着感じているのはそのためなのかなと思ったりして。
国連教育科学文化機関 ユネスコによる「生命倫理と人権に関する世界宣言」案が医療行為の世界共通基準として採択されるニュースが先日発表され、「人は人であり、物でもなければ、部品でもない」という当たり前の価値が打ち出された。人が人を隔てず、人が人である世界、それはおそらく人を人として認め合う社会構築なのだろうけど、何も難しい事ではないような気がする。
グローバル化し、隣国の方々が大勢お客様として訪れ、急激な少子高齢を迎えたこの国の現在、国、民族、健常者、性別、学識など狭義に固執したナショナリズムは弊害を招くだけであり、ナチズムと同じ末路を辿るだろうし、経済偏重は温暖化を推し進め、絶滅したマンモスの追従となるのだろうと。
「社会ありき」から「人ありき」「我ありき」の自然に帰る事が今求められているのだと思う。社会偏重の時勢、市井の「再見」を意識した人付き合いを軽視しすぎてはいないだろうか?
10月6日の逢坂誠二衆院議員(元ニセコ町長)の衆院総務委員会での初質問「国が善かれと思った政策でも地方の実態に合わないことが多い。私が国会議員になったのはこの乖離(かいり)を埋めるためだ」という意見は正論だと思うし、地方の市町村合併への疑問に対し、麻生総務相から「検討に値する」と前向きな答弁も立派な受け答えだなぁと思ったのだが、本日10月7日の荒井聰衆院議員の郵政特別委員会での質問「本当に郵政民営化問題というのは日本の国益に本当の意味でつながっているのか。これはひょっとすると、アメリカの国益につながってるんじゃないか、と心配をする人もおられるわけです」に対しての小泉首相の答弁「民営化に対してそういう悲観的な見方をされるから、今回の選挙で民主党は大幅に議席を減らしたんだと思われます」。
一国の首相がこんな問答にもなっていない受け答えでいいのかなと思いつつ、まぁ、それを良しとする結果があるのからなと思ってみたりする。
もしかして、この国で一番無駄な給与を貰っている人が合理化後のビジョン、景気の安定を示さずに、公務員合理化を叫んでいるかなと思うと、三文芝居の喜劇映画にも見えてくるけど、ニューヨークでの反戦デモ逮捕の時に民衆から「世界が見てるぞ」という野次が飛んだように、ここでも野次を飛ばします。
改憲論議で、「憲法前文」、自民党最終案判明というニュースも流れていたけど、確かに文面は美しい。堅苦しい言葉の羅列の感ある現日本国憲法よりわかりやすくもある。
「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に」
美しい島々を守る気はあるのだろうか?とも思うし、「和を尊び」「独自の伝統と文化を作り伝え」をどれだけ実践、保護にしているのだろうか?とも思うのだけど。
国家概念に夢託す方々は国家も釈迦の手のひら、地球の中の一員であり、個々人という雑草の寄り集まりが国家である事を念頭に、その理念をいち早く条文化した現日本国憲法に恥じぬ物を考えて貰いたいもの。
やはり、「世界が見てるぞ」なのだから。
先日の新聞書評で以下の三冊が同じページに載せられており、中国、韓国のモンゴリアン・パワーの位置づけが考察される時代になったのだなぁと思ってます。
僕より年下の第六世代の時代となった中国は世界標準に意欲的であり、華僑知識人の祖国帰りも活発化しており、欧米との国際標準化大競争への意欲とその危機感薄い日本社会への警告を記した
岸宣仁(きし・のぶひと)著『中国が世界標準を握る日』
日本で使われるハッカーがクラッカーと混同されているので、語弊招くけれども、社会を貧富階層で分け、考えるのではなく、情報誘導を意図するベクトル階級と本来共有すべき情報の確保を目指すハッカー階級に分けて考えるべきとする
マッケンジー・ワーク著『ハッカー宣言』
裁かれた反乱者たちが国立墓地に埋葬される事により、殉教者となった韓国光州事件の総括から盛典儀礼で終わる事を良しとせずに、近代化イデオロギーに依拠する限り、「新たな全体主義」に転じる可能性を指摘し、「国家主義の呪縛」から脱する事を訴えた
文富軾(ムン・ブシク)著『失われた記憶を求めて 狂気の時代を考える』
同じ日の紙面に韓流ブームの素地を作ったとされる映画会社シネカノンの李鳳宇(り・ポンウ)さんのインタヴューで「身近なところで、イデオロギーで衝突する悲劇をたくさん見てきた。人を何かで分ける事だけは避けたいと思っていた。」
今の日本における価値観のどうしょうもない古さは付加価値を追い続けてきたデファクトスタンダード思考によるものと思われ、「国際標準化競争」の本質はかつては得意としていた物を使う本質を探るデジュールスタンダードなのに、付加価値と読み間違えているところにあると思え、本質を問い続けるモンゴリアン・パワーの動きは日本が世界にその存在感をアピールした文化思想と同一なのではないのだろうか。自分たちの先人達が大切に培った文化思想を軽視し、流行に流される事こそ、お粗末な流行の言葉で言えば、「負け組」。日本が自分たちの生き抜いてきた歴史を顧み、人が生きる上での大切なものとはなんなのか、それを妨げるものはなんなのかを見つめ直さなければ、「負け組」は現実味を帯びてくるのだろうなぁと思う。
人を知るものこそ、世界を制すのだと思いますから。
アルゼンチン生まれでフランスで文筆活動したコルタサルの代表作「石蹴り遊び」より
「いくら人生が我々に宿命的に与えられたものだからといって生きようと努めなければならないって事はないさ。しばらく以前から大勢の人が、生命と生物とは別物だってことを気づき始めただろう」
「おそらくあらゆる感情のうちで、ほんとうに我々のものでないのは希望だろう」
「きみを強くしているのは、きみにとって未来など存在しないという事だ」
「不条理とは不条理に見えないって事」
上下巻の分厚い本の上巻をだいぶ前に読み終えたのだけれども、最近の新聞コラムに「努力、我慢のマゾヒズムがお調子者に一撃されたのが現代日本であり、お調子者が道を示さなければ、ニートが増えるだけだろう」というようなものが書かれていたけれども、戦後思想の根幹とも言えるニヒリズムとシニシズム、更にはシュールリアリズム、超自然主義で、現代日本を見るのも一考かと思いもする。
強さで対峙するのではなく、弱さで対峙する論法もあるわけで、ボルヘス「砂の本」のように過去の自分と語り合う事で今の自分の虚栄が見えてくる場合もある。
身の上を知ればこそ明かせない悲しみもある
通りすがりの人なればこそ言える罪状もある
愚かな望み、愚かな暮らし、愚かな悔いの繰り返し中島みゆき「カーニバルだったね」より
アルバム『心守歌』(2001年作品)
人の愚かさを自戒する事から今の幸福が見えるのかも知れない。
昼、街に出ようと歩いていると、インド系のご婦人に「この辺に歯医者、ないですか?」と尋ねられた。ご婦人の押す自転車の後部座席に可愛い顔の子供が乗っていた。僕は知ってる歯医者を身振り手振り交え、教えると、ご婦人、「その歯医者、上手ですか?」と聴く。
近所に外国人のコミュニティ・センターが近いせいか、いろんな肌の色の外国人を見かけるけれども、直接話したのは初めて。
そんなやりとりの後、新聞コラムで前東京入国管理局長の坂中英徳さんの話を思い出した。
世界でもまれなほど急激に少子高齢化が進む日本。
「外国人を受け入れて『大きな日本』を維持するか、拒んで『小さな日本』へと歩むのか。二者択一を迫られます。」
著書『入管戦記』で描かれる『大きな日本』の将来像は外国人コミュニケーションが市民権を得て、街を作り出し、政界にも参画している。
日本は国の推計では再来年から人口が急減し、2050年には1億人を切り、2100年には半減するとされており、国連推計だと、労働人口維持には2050年まで毎年60万人の移民受け入れが必要となるだろうと指摘されており、坂中英徳さんの思い描く『大きな日本』は夢物語ではなく現実問題として考えなければならないだろうし、危機感持ち、数年前から外国人労働者受け入れ拡大を提言する経済界にしても、従来の「アジア蔑視」「安価な労働力の穴埋め」という発想では差別対立を招き、失敗するだろうとも指摘している。
「日本人は外国人を受け入れられますか」
だいぶ以前からコマーシャルされていた異文化コミュニケーションを真剣に受け止めなければならない時代となったのだろう。
「くたばれコロニー論」と題し、1983年に僕は札幌で「養護学校はあかんねん!」(1979年長征社制作)、「ユリ子からの手紙」(1981年今村プロ制作)を単独自主上映しました。その時の企画趣旨をテキスト化してみました。
20年たった今日、「自立支援法」で将来を案じる障碍者達と何が違い、何が良くなったのか。
20数年の間、耳にし、新聞で読んだのは
「障害者年金、施設職員が横領」
「訓練か、労働か。訓練の名の下に低賃金でこき使われている施設障碍者」
少子高齢化に向かう今日、当時は騒がれなかったアトピー、アレルギー、ファーストフードによるドライマウス、味覚障碍、パソコンによる色覚障碍、ウォークマンによる聴覚障碍、職場環境による精神的躁鬱、ひきこもり、自閉
多種多様な障碍と個々人、闘っています。
企画趣旨文中のなか、「健常者に障碍者への対し方を知らせなかった国」は単に「障碍者への対し方を知らなかった国」なのではないかとも思え、セーフネット経費節減は先々の読みが甘いと感じもしています。「知らなかった」ではすまない、余計な医療負担増加をも招かせない。セーフネット経費確保策を論ずる事が、将来的国家運営論になりはしないでしょうか?
「土地」と「人」あっての「国」なのですから。
「島国」の発想と「大陸」の発想の違いとして、「島国」は「立場」を重んずるけど、「大陸」は「自分」を重んずるという違いを最近感じています。
「国破れて山河有り」
「島国」はおそらく理解しがたいものなのでしょうし、僕もようやく理解出来ました。
「立場」を重んじてもそれは一時のものであり、結局は「自分」を重んじなければ生きていけない。
そして、「隣人愛」という事を「島国」はなんか胡散臭く感じてしまうのですが、「隣人愛」とは相手を知る「自己防衛」であり、「転ばぬ先の杖」。「施し」「福祉」の視点が違うのはここら辺なんじゃないのかと。
日本が「島国」意識を強めたのはどうも近年のような気がしますし、もしかすると「権力」の「島国」と「庶民」の「大陸」があったのかなとも思っています。
「旅は道連れ、世は情け」
「島国」意識でいじめられた「庶民」の連帯が「大陸」意識を誇示したのかなと。それは「地球」の恩恵という発想でもあるでしょうね。
赤穂浪士の忠義忠君の読み替えや日本軍国主義の隣組などの「権力」の悪用というのも忘れてはならないと思いますが。
昨今の世情の動きは、個々人の価値観で「島国」的対立を作り出すのか、「大陸」的連帯を生み出すのか、それが問われているような気がします。
王族の生まれながら、アルビーノ(色素欠乏症)ゆえ、家を追われ、歌い手となったアフリカ・マリのサリフ・ケイタの新譜『ムベンバ(先祖)』での大陸的歌声に耳傾けながら。
先日、テレビで札幌の学生達がポーランドのアウシュビッツ博物館を訪れたニュースが流されており、展示されている犠牲者の脱がされた衣服の山、使われていたメガネなどの小物の山に、主を失った物達の叫びがテレビ画面から感じられ、胸締め付けられた。
同じ頃、新聞コラムで紹介されていた国際基督教大学の森本あんり教授がキリスト教雑誌「信徒の友」十月号の連載エッセーに書かれていた、今上天皇の最近の公式の場での意図的とも取れる「平和」「反戦」行動を考察した「平和のシンボルとなった天皇」の記事を詳しく知りたく、森本あんり教授のサイトを見つけ、探したけれども、本論はまだ未掲載ながら、その前に書かれた「靖国神社を知る」を読ませて頂き、小泉総理の靖国参拝が誰のためのものであったのか、再度、思いをめぐらせた。
世界金融恐慌から始まった各国の不況対策で、より深刻なドイツはナチズムを生み出し、日本では政財界の金権腐敗に軍部が乗っかり、大陸進出を企む事に異議を唱え、決起した将校達の叛乱、昭和維新と言われる二・二六事件の鎮圧から、軍国主義へひた走ったとされている。
飢えに苦しむ農村部の救済を求めた将校達は、「天皇陛下万歳」と叫び、同胞に銃殺され、暴走する軍部は「有色人種差別に闘う八紘一宇の思想」の元、建国した満州国が国際批判を受け、国際連盟を脱退し、日本は孤立へと向かい、中国の社会を正す義勇の徒は、アジア蔑視へ変貌し、それに異を唱えるアメリカに対し、真珠湾を奇襲する。
「産めよ、増やせよ」が誉め讃えられ、「贅沢は敵」と金目の物は軍事用品製造に徴収され、今で言う町内会は「隣組」として、背後支援の日課を負わされ、国体に背く「非国民」を見つけ出す役目を果たし、若者には栄えある召集令状「赤紙」を届け、出征を祝うのが慣わしだった。
軍隊では「捕虜は恥、捕虜になるなら、自死せよ」なる命令が出されもし、戦況苦しくなると、兵役免除されていた大学生などに、資源不足から行きのみのガソリンを積んだ特攻機で、敵艦にあたる神風特攻隊の役目を負わせる。
なお、厳しくなり、本土空襲を受ける羽目になって、「一億総玉砕」のスローガンの元、沖縄では女学生のひめゆり部隊全滅、サハリンの真岡郵便局電話交換手の自決、そして、ヒロシマ、ナガサキ。
天皇の御言葉が発せられたのはそれから間もなく。
靖国の御霊にもなれずに「愛国」の名の元、亡くなられた方の遺品を積み上げれば、アウシュビッツ博物館のもの以上にうずたかく積み上げられる事でしょう。
更には強制的に帰化させられ、各地の鉱山に送り込まれ、戦後、帰られなくなった朝鮮、韓国の方々、戦前、貧しい農村から東南アジアに売られていった女達、からゆきさん、若い軍隊兵士の慰安のために付き添わされた従軍慰安婦をも含めると恐ろしい数の命が犠牲となった戦争。
みんな死にたくなんかなかった。生きたかった。けれど、それが許されなかった。死んで靖国の御霊に奉られる栄誉などより、生きたかったのだろうとつくづく思う。
小泉総理はこの先人達の生き様に哀悼を捧げ、不戦を誓ったと言う。
しかし、今日、日本はかつてない少子高齢化。その上、国民一人あたり1000万円からなる負債を抱え、国政の切り詰めが見直されており、国民福祉のセーフティネットの削減が連日報道されている。
数値目標とされていた400時間の労働時間もサービス残業やフリーターの過重労働で帳尻合わせされていると言われる現状、職場環境における精神的躁鬱が問題化されているし、欧米では社会問題とされているアトピー、アレルギーの国の対策不備、食生活の欧米化における様々な体調不良が表面化しつつある現状、セーフティネットの削減はあの「生きたくても生きられなかった」先人の子孫の子絶やしに繋がらないのだろうか?
今、必要なのは国民のゆとりであり、この国を思い、この国の将来に道筋つけるのならば、豊かさ得た「勝ち組」の方達に協力仰ぎ、より一層の社会貢献をして頂き、豊かな国を目指すのが本道ではないのだろうか。
残念ながら、日本のトップ企業の社会貢献度は世界レベルに比べても劣るらしいですし。
十把一絡げの近代化イデオロギー対立は冷戦後、十人十色、グローバル化した世界は第三世界の躍進とともに、互いの価値の違いを認め合い、多様な文化発展が求められる術を模索し、人間の本質を探る動きへと変貌しようとしている今日、仮に他国依存で日本再建を目論んでいたとしても、他国も自国維持に必死の時代、日本国民は減少するだけでしょうし、日本独自文化は死滅するでしょう。
「一億総玉砕」の悪夢を子孫に残さぬためにも、国、企業は国民を活かす場を与え、独自文化再構築を考えなければならないのでは。
人活きるところ、文化あり、文化あるところ、活気あり。
文化統制を企んだヒトラーの最期を見取った秘書の告白を映画化したオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督『ヒトラー 最期の12日間』で、ナチズム指導者達は、爆撃音鳴り響く中、酒を酌み交わし、酔い潰れ、こうほざく。
「私たちは国民に望んではいない。国民が私たちに望むのだ」
今日のマネーゲームを戦争を引き起こした金融恐慌に例える見方もある。戦争は国対国の装いをした呈したもうひとつのマネーゲーム。強者のおごりが国を滅ぼすゲームなのかなと。
「戦後とは戦前である」という言葉がありますが、今日の将来を60年前の戦争で見通してみてみる試みも必要でないのかと。
『ヒトラー 最期の12日間』を作れる国がうらやましいという見解もありますし。
この頃よく耳にする歌で気にかかっていた歌のフレーズ「泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー」を元に検索し、沖縄のネーネーズの元メンバー古謝美佐子さんが元歌と知り、無性に聴きたくなり、amazon.co.jpのギフト券もあったので、amazon.co.jpを調べると、古謝美佐子さんの入手可能なアルバム2点の一枚『天架ける橋』に探していた「童神(わらびがみ)」が入っていると判った。
そして、もう一点の方のタイトルが『黒い雨』。まさか、あの曲?音楽専門雑誌買わなくなり、すっかり疎くなった音楽情報を調べるのも面倒で、シングルリミックスの低価格でもあり、一緒に購入。
昨晩、手元に届き、さっそく『黒い雨』をかける。
雨が降る降る どんと降る
お空はまっ暗 鉛色
どこから降るのか わかりゃせぬ
古謝美佐子さんのアルバムはスタジオ・バージョンとライブ・バージョン、それにアカペラ・バージョンが収録されており、ライブ・バージョンでは古謝さんの語りが入る。CDには語りのテキストが記されていないので、聴き取り、要約をご紹介しておく。
「私の住んでいる街、嘉手納には東洋一といわれるアメリカ軍の空軍基地があります。その基地の中でたくさんの人が働いています。その外で私たちは住んでいます。」
「飛び立ったアメリカ機が何回か落ちました。その落ちた中で一番凄かったのが、私が小学校低学年の時にB-52という黒い翼の飛行機が落ちた時でした。その時はまさに戦争を体験していない自分が「あぁ、嘉手納がやられたんだ」と思いました。」
「その怖かった思いを忘れる事はないです。」
古謝さんのお父さんは基地への出勤途中、軍のトラックにひかれ、亡くなられたという。古謝さんが4歳の時。
父の面影を抱いて生きてきた古謝さんも初孫を授かる歳となり、作った歌が「童神(わらびがみ)」
「童神(わらびがみ)」の解説、「沖縄では物心つくまでの幼児は、純白で何物にも汚されていない、神の魂に近い心を持つ」
似たような話を永六輔さんが『週刊金曜日』連載の「無名人語録」で「平均すると七歳から八歳で、日本人であることを意識し始めるんだそうです。つまり、七歳以前ならみんな国際人です」と語られていたのを思い出す。
天からの恵み 受きてぃ此ぬ世界に
生まりたる産子 我身ぬむいて育てぃ
イラヨーヘイ イラヨーホイ
イラヨー 愛し恩産子
泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー
太陽ぬ光受きてぃ
ゆういりヨーや ヘイヨー ヘイヨー
勝さあてぃ給り天の恵み 受けてこの地球に
生まれたる我が子 私こそがお守りして育てる
愛しい私の子 泣くんじゃないよ
お天道さんの光受けて
どうか良い子に
どうか何事もなく育ってね
古謝さんの「童神(わらびがみ)」に込められた平和への願いが祈りの如く、流れている。