From 2003-09-01(月)
To 2003-09-29(月)
色は匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせずいろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
ご存じ「いろは歌」。覚めた視線がいと愛し。
僕の方は今年はやけに周りに不幸が多く、気が滅入りがちながらも、「カラーコントラスト」なぞという色合わせの色判断パターンを作ってたりしてました。
今月から通っているジムも週一定休となり、すっかり日課になった体には物寂しい気もするけれど、社長も忙しそうだし、無理は言えない。社長、多忙もいいけど、無理しすぎないように、たまにはお相手を。と伝言如きを書き連ね。
そうそう、いせフィルムより「えんとこ」情報、最新号、届きました。映画「えんとこ」が、中学校の教科書に紹介されたらしく、東京・世田谷にある「えんとこ」の目の前にある梅ヶ丘中学校で上映されたらしい。その感想にまた泣けたりして。
ああ、生きてるっていいな、と思いました。私も私で、何のために生きているんだろう?とか考えてしまったこともありました。けど、生きているだけでいいんですよね。だれからも必要とされてない人間なんていないし、生きていれぱ、きっといい事がある。だれかがきっと私を必要としてくれている、そう考えると気持ちが楽になりました。やりたい事が見つかるまでゆっくり探していけばいい、そこでもしかしたら友達に助けてもらうこともあるかもしれない、それでもいいじゃん。
今日は震災忌。「出来る」人ばかりに重きを置き、「出来ない」人を軽んじるそんな世相を見直したいもの。人間いつかは「出来なくなる」のだし、それが積み重なり文化になるのだから。
今月も徒然に「いろは歌」書き綴ります。
先日亡くなられた町内会の長老さんの葬式にて、お坊さんの説教は「縁(えにし)」について。例えば、着物、昔は糸紡ぎから始まり、仕立てまで人手を経て、今着ている物があり、これが着られなくなれば、ほぐして坊主の袈裟にした。それが使えなくなった時、雑巾にし、最後は塗り壁に埋め込んだ。それが無駄なきまでに使い果たす「縁」。
今語られる「縁(えん)」と全然意味合いが違いますよね?
「カラーコントラスト」に書き加えた「光の色」。光の三原色と色の三原色は違う等の意見もありましょうが、どうも色即是空、理屈のような気がする。
色にこだわるなを色とはなんぞやと読み替え、偶像崇拝に陥った罠であり、三蔵法師が苦難の旅をし、色即是空を教わった教訓が西遊記として読み替えられたのと同じく自然の色の応用に過ぎないような。
中川信夫の名作『地獄』は前半、現世の地獄絵巻が繰り広げられ、登場人物全員死んで、後半、その縁が地獄でも繰り返される。
ネットを調べると死出の旅路をたどるによると以下のように判定会議が行われ、地獄(道)、餓鬼(道)、畜生(道)、修羅(道)、人(道)、天(道)へと輪廻転生すると書かれてある。
更に三途の川の向こう岸なんて読むと人間というものは自分さえよければという勝手気ままな存在だ。それでは本当に人間を生きたとは言えないということの喩えが地獄であり、人は死んだら必ず地獄を通過しなければならないらしいとされている。
現世の縁の再現、望みますか?
色即是空。気楽に生きていきませんか?
関わりある縁(えん)ある人ともたれ合いながら。
具志堅用高が負けた理由はアイスクリームだったとか。厳しい減量の末、唯一の楽しみであったアイスクリームを禁じられ、試合中、アイスクリームの事しか頭になく負けた。
人を活かすのは社会であり、社会が枷になってはいけない例のように思うのですが。
1954(昭和29)年9月26日、台風15号による洞爺丸事故。多くの人命(計1420名)が失われ、船は転覆した。相前後して岩内町で大火。
映画(原作水上勉)は岩内町大火のどさくさ、強盗に押し入り、洞爺丸事故に紛れ、海を越え、下北半島・恐山に逃げ込んだ犯人(三国連太郎)が娼婦(左幸子)にかくまわれ、逃げ延び、成金となり、恋い慕い、過去を清算して追いかけてきた娼婦を絞め殺す物語。
地位、名誉に溺れ、過去の汚点を拭い消そうとする人の業であり、どんなに強い意志を持とうとも這い上がれない「飢餓海峡」がこの世には存在する。
もう大分昔に見た映画だけれどもその話の骨格はしっかり頭に残っている。
ふと長谷川伸『瞼の母』での子を捨て、女将になった母に逢いたさでやくざものになった息子がたずねていくとその風体にたかられるのではないかと追い返す人の性と重なり合う。
「そんな姿でたずねてきてお母さんといったって、誰が喜んで迎えてるもんかね。ゆすりたかりと思うのが関の山」
「親子の名乗りがしたかったらかたぎの姿でたずねてこいといいなすったが、笑わしちゃいけねぇぜ。親にはぐれた小雀が、ぐれたを叱るは無理な話よ。愚痴じゃねぇ。未練じゃねぇ。たずねたずねた母親に、せがれと名乗って貰えぬような、こんなやくざにゃ誰がした。」
「親の心子知らずとは言うけれど、子の心親知らず。たずねたずねた母親が楽な暮らしをしていればいいが、もしも苦しい世帯ならせめて何かの足しにと汗水流し貯めた金。 こんな薄情な人と知っていたら、俺ぁ、はるばるたずねてくるんじゃなかった。」
「上の瞼と下の瞼を重ねれば、優しかった母親がいるのにそれをわざわざ汚してしまった。」
今、更に「飢餓海峡」は荒波だっていませんか?
「俺バカだから」という謙遜語。
何故「バカ」だといけないのだろう?
「バカ」だと騙されるから?
騙す社会が悪いんでしょう。
ずるがしこくなるより「バカ」の方が遙かにましという論法も成り立つわけで。
中島みゆきさんもアルバム『miss M』(1985年作品)で「熱病」という歌を歌っていますです。
ずるくなって腐りきるよりアホウのままで昇天したかった
「バカ」と「アホウ」を一緒くたにするなとお叱りの向きもありましょうが、先祖の徳島・阿波踊りの血が騒ぐ。硬派は「よく出来ました」で終わりますが、軟派はそこから始まります。
「バカになる」と言うでしょうが。
障碍者問題で一番問題なのが先天性vs中途なんじゃないかな。中途は先天性と遮断された環境でいきなり仲間入りさせられるんだから。そして、多分一番深刻なのは中途。
高齢化問題もこの点だと思うけれども、その他にこのように思う理由。
身近に過労による片目失明1、交通事故による松葉杖1。障害発生時、どちらも暗中模索しているのが判った。
先天性は初めから出来ないから出来る事が判らないけど、中途は出来る事が出来なくなるから苦しむ。オリヴァー・ストーン監督トム・クルーズ主演『7月4日に生まれて』(1989年作品)をじっくりみれば、その苦悩は判るし、一連のベトナム後遺症映画はこの点を描いている。
そして、なんでそれぞれの障碍の横のつながりがないかというとお互いの障碍の共通項がないから判りようがない。つまりは健常者と障碍者の関係。これは日本だけではないと思う。
おそらくだるまさんだとて、ヘレン・ケラーだとて、失われた機能が残っている人の不便さは理解し得ないし、想像し得ない。
想像可能なのは健常者といわれる機能が機能として活用できる人ではないのかな?
だから、障碍者問題は健常者の問題。読み間違わないように書くけれども、仮になんらかの障碍ある人も別な障碍にとっては健常者。
「無用の用」の便利さを認識していなければ、苦労が待っているだけ。
「この世に無駄なものなんかない」とはそういう意味なのではないだろうか?
アフリカ、マリのサリフ・ケイタをご存じですか?
アフリカでも有数の名門の家柄出身ながら、アルビーノゆえ、家族からも疎まれ、放浪し、他人の施しを受けて暮らし、最下層として蔑視されているグリオという吟遊詩人となり、完全に家族から見捨てられた人。
首都バマコのホテルの専属歌手となったところから芽が出始め、1987年、パリ録音『SORO』で一躍、世界トップクラスの歌手となられた方。
アルビーノで弱視という苦労を背負い、自ら最下層の人々のメッセンジャーと感じ、歌い続けている。
アルビーノのミュージシャンとしては以下の方々があげられます。
日本でも河原乞食が芸能の源流のように世界各地、芸能は何故か疎まれていた。そして、その中で個性溢れる障碍者達が世に出て行った。
サリフ・ケイタもそのひとりです。
昨日2003年9月26日午前4時50分、十勝沖地震
十勝、えりもに親戚達がおり、心配してましたが、皆、無事との事。漁師さん達は午前5時って、もう家を出ている時間と聴き、何かカルチャーショック。
札幌は携帯回線がパンクしてたようですし、案外、被害が大きかったらしいのにびっくり。都市化を急ぎすぎ、安易な宅地造成をしたためだとか。
奇しくも洞爺丸台風「50回忌」。七重浜の慰霊碑<つぎつげよ われらが祈り とこしえに>
争う餓鬼世界から信じ合う、認め合う人間界へ。
文明が本来の「人間をサポートする、人間を繋ぐ」役割を果たす事を望みます。
先日の地震の余波である苫小牧のタンク火災のニュースを見ながら、母と札幌中島公園が住宅地に不向きであるがゆえ、公園整備され、創成川は豊平川の治水対策、大通り公園や創成川は火災拡大防止の意味がある話などなどを話したりしました。
今は合理主義がまかり通り、無用の用を忘れかけた社会。合理主義って、事起これば、非合理になる事を伝えたいものです。
ふと思ったのですが、「思考の限界」って考えられているのですかね。時間では何十分集中すれば何十分休むという授業時間が参考にしたというものがあるでしょうが、ひとりが何人分も仕事を任されるとか、時間以外の要件も増えてきているように思え、「思考の限界」をまともに考えなきゃいけないような気がしているのですが。
通例ではもちろん自己責任でしょうが、障碍含めた人間として考えたならばどうなのか、能率主義が巧みにこの部分を自己責任に置き換えたような気がしましたし、手抜き、お茶を濁す事が駄目なのか。その人の思考の限界を見極める相手方の判断基準は問われないのかと考えますし、『無理をさせ、無理をするなと、無理を言う』的風潮が更に加速していないのかとも思ったりしています。
「思考の限界」を越えると人間は神経保護に走る事を忘れていないだろうかと。