From 2004-08-06(金)
To 2004-10-04(月)
背なにかくれて のぞいてみせる 寂しがり屋の 哀しみを
酒と嘘で 笑わせて 前の席へ 誘い出せ
中島みゆき「うそつきが好きよ」
(アルバム『みんな去ってしまった』(1976年作品収録)
遅ればせ、『ラスト サムライ』観ました。
時代考証云々で手厳しい批判があるけど、「物語」って時代考証云々よりそのテーマなんじゃないかと。
ここんところ、『座頭市』『キル・ビル Vol.1』『ラスト サムライ』と観ているのだけれども、「一生盲目で暮らせ」と悪人の目を潰す座頭市を時代劇と観ちゃいかんと思うし、「やくざ社会」を日本社会のように描くのはけしからんと怒る『キル・ビル Vol.1』批判も飾り付けばかり気にして、中身観てないじゃんと言いたくなる。
今、読み返している中上健次、梅原猛の『君は弥生人か、縄文人か』は封印された歴史学をひっくり返す為に時代考証から語っているのであるのに対し、上の映画群は人間の感性から既存概念をひっくりえそうとしているような。
「熊野」「アイヌ」を時代考証から除外せざる終えなかった柳田国男の時代考証のあやまちを正す事により、もっと自由な「日本」のあり方を見つめようとする中上健次、梅原猛の視点とインディアンを打ち負かしたアメリカが武器輸出で帝国主義の基礎を作ったその相手が維新前後の日本であるとする荒唐無稽さの『ラスト サムライ』の視点はおそらくは共に現代。
あり得ない組み合わせをどんどん提示し、読み替えられた歴史観を更に麻痺させ、自然中心主義がモラルであるという時代考証を作り上げるのは「記紀神話」作りに似ていなくもない。(笑)
『ラスト サムライ』の批評で一番頷けるのは『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の日本版というもの。アメリカ人にとって武士道は物珍しさしかなく、物珍しさゆえ、憧憬深い。描かれている武士達はインディアンであっても、アイヌ・シャクシャインであってもいいわけで、だから、武士達が暮らす村がロッキー山脈の麓みたいであってもおかしくないし、ラストの闘いが二百三高地と関ヶ原の決闘であってもいいわけ。(笑)若武者がちょんまげ切り落とされる場面とインディアンの頭皮の皮剥の話がオーバーラップする由縁。
ちょんまげが"とさか"のまねで、鳥(天との交信)になろうとする願望だろうとするは中上、梅原ご両人の話であり、アメリカ・インディアンのモヒカンとちょんまげの関連性も気になりますが。
『キル・ビル Vol.1』は無国籍映画の本場日本物を知る僕としては物足りなかった。武士道を描いたものとしては近々DVDでも出る五味康祐 原作 森一生監督作品『薄桜記』は傑作。赤穂義士外伝で、市川雷蔵主演、タランティーノ美学なんかぶっ飛びますよ。
アテネ・オリンピックで日本人選手の活躍で沸き立つこの頃、カンヌ国際映画祭で柳楽優弥君が男優賞受賞で評判の是枝裕和監督作品『誰も知らない』を観てきました。
シングル・マザーに育てられ、親の身勝手で子供達だけの生活をせねばならなくなった家庭。
親の身勝手もさることながら、この環境を社会に知らしめれば、子供達の生活はばらばら分断される。観ていて、それぞれ里子に出され、成人して再会する、ロバート・マーコウィッツ監督『ロングウェイ・ホーム』(1981年作品)を思い出しました。
親の身勝手、社会の身勝手が子供達の生きる権利を奪い取る。
アテネ・オリンピックの日本人選手達が自分の競技の出来を応援に駆けつけた親に求める姿と重なり、子にとっての親、親にとっての子を感じずにはいられない。
そして、オリンピックで輝かしい成果を挙げた選手に生涯の生活保障として、年金を出す第3世界諸国のグローバルな中でのナショナリズムに比べ、日本は「メダル取り」のみ褒め称える。
人間なんてそんな器用な生き物じゃない。取り柄を褒め称え、伸ばすのが社会の役目。その役目を果たせず、社会という型にはめ込もうとするから、悲劇が起こるし、過去のオリンピック選手のメダル質入れなどという恥ずべき事が起こってしまう。
日本を本当に誇りに思うのなら、身勝手な中流意識に満足などせずに各自を認め合える「豊かな国ジバング」を作り上げて欲しい。
政財界の世襲家族の親ばかで世界に誇れるものなど何も生め出せないのだから。
田辺 聖子原作を素材に映画化した作品、オークションでDVDゲットし、観ました。『誰も知らない』もさりげなさがインパクトだったけど、大学生恒夫と乳母車に乗った足の不自由な女の子ジョゼの恋愛物語、これもさりげない心のひだを積み重ねた映画。
「お前は壊れもんや。」
ジョゼをかばい育てる祖母の言霊がジョゼを障碍者にしていく。その奥底には「壊れもん」に対するこの国の社会意識が大きく横たわる。ジョゼを愛そうとし、結局逃げ出す恒夫。「壊れもん」振りを思う存分押し出すジョゼのラストの姿は孤独でしかない。
比べられる韓国映画『オアシス』が社会意識を打ち破ろうとする意思があるのに対し、この映画は小市民は社会にさからえない現実を突きつける。
「お前も壊れもんや。」
こんな言葉をジョゼは社会に対し、吐き返したいだろうと僕は思う。
「隣のオッちゃんに乳揉ませたら、ゴミ捨ててくれるようになった」
「そんな事しないで、福祉の人に頼めばいいじゃん」
「福祉の人が来るのは昼や。ゴミは朝や。間に合わん」
10年前話題となった「マルコムX」。監督スパイク・リーの語り口はラップ調でマルコムXの生涯を追いかけ続ける。白人至上主義とそれに追随、もしくは黒人至上主義の黒人によって殺されるマルコムX。
『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』でスパイク・リーは「ゴアvsブッシュ」を撮るのだけれども、黒人排斥による勝利は今のイラク侵攻に繋がっている。
マルコムXの黒人至上主義から白人至上主義者弾劾への思想の変化がスパイク・リーの思想にも影響与えたのだろうなぁとにんまり。
マルコムXと同時期、殺されたサム・クックの「チェンジ・ザ・ゴナ・カム(Change Is Gonna Come)」が劇中流れるシーン、スパイク・リーはマルコムXとサム・クックの同じ志向性を描き出しているのだろう。
映画に行った ダウンタウンに行った
人がぼくに何度も言った だめだ、ここに来るなと
サム・クックの「チェンジ・ザ・ゴナ・カム(Change Is Gonna Come)」より(「Keep Movin' On」収録)
国の威信のみでベトナム戦争の殺戮が続けられた事を国民に公表しろ。しなければ、核弾頭ミサイルを発射する。
ロバート・アルドリッチ監督「合衆国最後の日」
威信を守る為に用意された使わざる兵器、核。その安全保持のルールを作り出せずにいる現状、ミサイル基地占拠はおとぎ話ではない。
冷戦といわれた時代の大国の弱点を暴いたこの映画を今の現状下、DVD化は嬉しいですね。(ただし、画面は半端なトリミングされたものですが)
ただ、現実、威信を守る為の「核抑止論」もテロの時代には無意味なのも事実で、核抑止論者自らが無差別虐殺の爆撃を行ってもいる。おそらくはこの「地球への爆撃」が人間の生息環境をも破壊していっているのでしょう。
威信に固執する人間に幸あれ。
「僕から逃げようたって駄目さ。だって地球は丸いんだもん」
フォーリーブス「地球はひとつ」(「ザ・ベリー・ベスト・オブ・フォーリーブス」収録)
メインパソコンのハードディスクがいかれ、Dellのサポートに問い合わせ、3年パーツ保障の適用を受け、まずは一安心というところ。
先週に引き続きの台風来訪で、今日は風が強いので、大人しく自宅にいて、「家計からみる日本経済」の著者橘木俊詔さんの8月19日付けの北海道新聞記事を読み返してみました。
「『進む日本社会の階層・階級化』『機会の平等』阻む所得格差」と題された記事。親の職業を引き継ぐ世襲する人が増え、階層の固定化、階級化が進んでいる現状を分析しています。
「竹中平蔵さんは『確かに貧富の差は出るが、機会の平等を進めるべきだ』と貧富の差を認める言い方をした。でも、大きな所得格差など結果の不平等を放置すると、結果的に機会の平等が阻害されていく」
それは生まれ落ちた環境で結果の不平等が決まっており、「自分の努力と能力のたまもの」と思うのは高い収入を得ている人。“竹中路線”のような結果の不平等を認める意見が、人生のスタート時点から不利な状況にいる層を含め、指示されているように見えるけれども、「支持ではなく、むしろサイレントです。桐野夏生の『OUT』を読みましたか。あの世界ですよ。夜も汗水垂らして働いて、考える余裕もないほど生きるのに必死なんです」
多くの映画、音楽もこれらの点を延々取り上げており、岡林信康「チューリップのアップリケ」もすでに60年末期にこの状況は歌われている。
経済弱者への無関心、経済的社会的地位の安定した層への「こび」で得た中流家庭は安定得るために、生活環境を犠牲にして、所得を得ている。さらにはローン地獄でその所得の大半は利息として消えていく。生活環境の犠牲とは環境破壊でもある。
「いま日本は、北欧やドイツ、オランダなど中欧グループのような不平等の少ない国家に行くのか、アメリカ、イギリスのような国を目指すのか、重大な岐路にたっていると思います」と橘木俊詔さんは言われている。
80年代半ば以降、税制が高所得者に有利になるように最高税率が大幅に下げられた時点より、70年代の世界にまれにみる所得格差の少ない国は「自助努力」が正しい生き方になってしまったのでしょう。
アジアの亜熱帯化、北米の亜寒帯化はおそらくこれからますます加速的に進むでしょう。このまま、社会保障なきに等しくでいいのか。向き合うべき敵を見c間違わないようにしたいものです。
昨日、札幌は洞爺丸台風と同じ進路をとった風台風に襲われ、今日、道庁横を歩くと木々が倒され、その爪痕のむごさを改めて実感しました。そして、昨日は水上勉さんが亡くなった日。映画化された名作の数多くを拝見しており、今日、改めて、内田吐夢監督『飢餓海峡』(1965年作品)を見返しました。
「帰る道ないぞぅ。戻る道ないぞぅ」
敗戦時、日本は今では信じられない飢餓の社会。主食のお米さえも配給制で、それでも満ち足りない時代。そんな頃に起こした犯罪を飽食となりかけた時代、尋問されたとしても信じては貰えない。「きれい事いうな!」飽食の中に忘れ去られた飢餓。飽食であるが故の飢餓。この映画を見返して、飢餓を克服するために飽食のみを求めたこの国の貧しさを改めて実感しました。
水上さんの作品で映画化された主なものを並べると以下のようになります。印象に残っている作品は金閣寺炎上させた吃音僧侶と幼なじみの遊女の話『五番町夕霧楼』、盲目の三味線弾きの旅芸人女に群がる男達の話『はなれ瞽女おりん』。寺に引き取られ、妾になった女を慕う僧侶の話『雁の寺』。いずれも日本の貧しさの中、女、かたわを食い物にする男達とその女、かたわを純粋に慕う人間の葛藤の世界。
飽食を過ぎ、過食に入り、少子高齢になった日本社会。水上さんの死去の知らせは風台風の自然の説教と共に忘れてはいけない出来事に感じます。
Dellサポートより、パソコンが帰ってきて、システム復元に追われる日々、先日の台風被害で倒れたアンテナも寿命のようで、いっその事とケーブルテレビを引く事に。月々の支払がまた重くなる。。。
ガルシア=マルケス「族長の秋」、やっと読み終えようかとしているこの頃、池田小事件の宅間被告処刑のニュース。
「死」は裁きではないですね。「死」は救いです。「老い」が裁きなのでしょう。「老い」を醜いと感ずれば感ずるほど、「老い」の裁きは重くなります。族長に君臨した者が「老い」を怨み、「死」を願う話を読むほどにそう思えてきます。
今回の処刑は国が加害者を救い、被害者の声を抹殺したのでしょう。「無知の涙」を味合わせてこそ、裁きなのに、裁く方が無知なのだから、どうしょうもありません。
また、「『10年で治安悪化』86% 不法滞在増加などが理由」というアンケート結果が内閣府から出されたそうですが、理由は我になし。高齢者虐待、幼児虐待、オレオレ詐欺。みんな人ごと、そんな風に読みとれるのは勘ぐりすぎでしょうか?
南米で感涙される感性お持ちの首相ならば、日本のおかしさ、判ってもいいと思うのですが、どうなのでしょう?
太平洋戦争時、731部隊の生体実験は「生きたまま」故、裁きであり、その残忍さを承知の上の犯罪でもあるのでしょう。
チリの作家ホセ・ドノーソの「閉じられたドア」
寝ているのが生き甲斐の青年が「寝てばかりいてはいけない」という社会のルールに苦悩する話。
数ヶ月前に読んだのですが、なんか日増しにこの小説の奥深さが頭に離れません。
夢の中に出てくる閉じられたドアの向こうを見たいがために「死」を選ばずに「生き」て「夢」を見る事を選んだだけなのに。
なぜ「寝てばかりいてはいけない」のか。
誰の迷惑になるわけでもないのに。
働きたくても睡魔に襲われ、働けない青年の苦悩は誰にも理解されず、ラスト、物乞いしに昔の上司の家を訪れ、その勝手口で幸せそうな寝顔で凍死する。
美しい水死人-ラテンアメリカ文学アンソロジー 福武文庫 収録
[Gracias a la Vida(人生よ、ありがとう)]ビオレータ・パラ
「人間にとって自尊心ほど大切なものはない。国家の存立も、勇気も誠実も、煎じ詰めれば総て人間の自尊心に帰する。八百長をすれば自分の人間としての価値を失うことになる。」
赤狩りでハリウッドを追われたエイブラハム・ポランスキーが脚本を書き、ロバート・ロッセンが監督した「BODY AND SOUL」(1947年映画作品) から影響を受けたもののエッセンスを、ロバート・アルドリッチ監督は日々、看守による虐待に堪え忍んでいる囚人たちが寄せ集められ、看守のアメリカンフットボールチームの腕試しに作られた囚人チームに受け継げさせ、楽しげに殴り合い、ボールを看守の急所に叩きつける。
日本人の一般サラリーマン、生涯あくせく稼いで2億円。
八百長正義で使い果たす戦争コストが1時間あたり740万ドル(8億2900万円)。
日本人4人の人生が1時間で使い果たされる。
自尊心、ありますか?八百長、好きですか?
勝者も生きられぬ自然を望むのか、
みんなが生きられる自然を望むのか。
未来は白紙である。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
思想は紙であり、実践は人間にあり。
初めて3作、通して観たけど、面白いですね。
アインシュタインから学ぼうとする姿勢が好きです。
「はたらく」事で「たべる」事と「病む」事を維持しなければならないドッグレース。「たべる」事と「病む」事の面倒を見ていた家族制が「はたらく」事をメインとする社会で解体されつつある時、その家族制を保持しようとする世襲家族と保持出来ない庶民の問題は深まるばかりで、「貨幣」の「集金」「分配」の仕組みをコントロールできる「社会」が家族制の保持、あるいは「たべる」事と「病む」事の面倒の補償をしなければ、様々な精神的、肉体的「障碍」は拡大していき、人間の生存環境をも破壊する。そんな風に思うのですが。お偉いウソつきさん達、そこまで考えているのでしょうかね?
生き地獄にあうのは子供らだから、関係ないじゃ、死刑に処された方と同じに思うのだけど。
鉄鋼産業で財と地位と名誉を築いた一族がその弱みにつけまれ、ナチズムに利用され、築いたものはそっくりナチズムに乗っ取られ、地獄に堕ちる物語。
「赤狩りに夢中になり、本当の敵を見過ごしていた。」
財も地位も名誉も我が身を守る術ではあり得ない。
ナチズムに懲りたのか、ヨーロッパで語られ始めた「地域貨幣」は馬鹿なブルジョワジーのマネーゲームにのらない資本の流通のあり方ではあるように思えますが、マネーゲームの罠にはまる危険性も感じています。
この世の諸悪は甲斐性なしのブルジョワジーであり、万人に裁きを下す天変地異が数年間続かなければ判らないのかも知れない。「環境無限」神話など「おとぎ話」にすぎないのだから。
最後まで生き残り、この世の地獄を拝める身の補償。財と地位と名誉が与えてくれる「栄誉」はそれしかないのでは?
「老い」も「病」も「死」も自然の摂理。「お金」がなしえるのは人間社会の血液的役目のみ。「お金」蓄えられなくとも苦しみあり、「お金」蓄えられたとて苦しみあり。社会全体、脳梗塞に陥らない術を現代人は判っているのに、やろうとしない。
それが「原罪」なんじゃないですかね?
叶えられない願いを抱いて
ある日 男は夢になる
好きよ 好きよ 嘘つきは
牙の折れた手負い熊
中島みゆき「うそつきが好きよ」
(アルバム『みんな去ってしまった』(1976年作品収録)