From 2004-02-23(月)
To 2004-03-07(日)
父ちゃんの為なら エンヤコラ
母ちゃんの為なら エンヤコラ
も一つおまけに エンヤコラ今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
札幌市の福祉除雪って対象者本当にいるのかしらと思いつつ、度重なる大雪にエンヤコラだけれども、引き続き、メーリングリストの話題をば。
島国根性って、蜘蛛の糸ですなぁ。
数年前、地元新聞のトップを飾った障碍者授産施設の「訓練」か、「就労」か。対価を決める権利はもちろん雇用主にあるだろうけど、そこに利権が絡むと正当な対価はないに等しくなる。
「訓練」として安くこき使い、社会には「いい子ちゃん」ぶれる。正当な第三者機関が入ればいいといったって、蜘蛛の糸なんだから、お互いべたべたくっついている。
北海道はそんな授産施設の雇用者の自殺なんかもあったところで、よくは知らんけど、障碍者団体もぶら下がり健康器なんだろうなぁと思っています。
そして何も地元のみ責めても仕方なく、何故子宮摘出が正々堂々と行い得たかもこの蜘蛛の糸状態を温存しようとする吸血鬼さん達にはよくお判りでしょう。
「あなたは誰のサポーターなんですか?」
「働く」論理を悪用した島国根性なおさにゃ厚労省の提案する「在宅就業」の議論なんて単なるスパイラル。
ジェームズ・キャメロン監督『タイタニック』(1997年作品)をやっと見ましたけれども吸血鬼さん達には釈迦に説法かと。
世の中何も進歩などしていない。生きるためなら、「ハイル、ヒットラー」でも「大日本帝国万歳」でも喋り、生き残りゲームにむかう人の性を生き残しゲームに書き換えるプログラムは価値の変革から始めなければ何も変わらない。
貨幣の再分配、あるいは衣食住の社会負担が行われれば人の欲の幅は変わりませんかね。
「働くこと」が「食うこと」を満たすのみの大衆心理に依存したままでは社会発展なんかないと思うし、もたもたしているとアジアン・マフィアに全部持っていかれちゃうと思うのだけど。
大雪の後に家の前の道路の除雪に間に合わすため、うずたかく積もった雪山崩し。過酷さ求める社会だこと。(笑)
「エレファントマン」見ました。
封切り当時はピンと来なかったところもあるけど、五体満足のかたわ振り、うまく描かれてますね。
もっと突き詰めれば実験動物は五体満足であるとなるのだろうけど。
けど、何故、ラストは死を暗示させるのだろう?
養われている負い目なのかな?
養われていても、対等であろうとしても無理を強いられる。それが身体的障碍の背負わされた十字架なのかも。
見た目の障碍は怪奇ですが、その実、心理なのです。
プライドはどこまで棄てられるのか、プライドを棄てる事でプライドが生まれる。それは無我であり、ありのままでしょうね。
デビット・リンチに美学があると僕は感じませんから、映画『エレファントマン』も僕の中では印象薄かったのですが、今回見直し、題材「エレファントマン」はとても参考になった。
映画『カスパー・ハウザーの謎』が好きなのはカスパー・ハウザーはプライドを持たぬ事がプライドを棄てられない五体満足に殺される。そして、自然の野山が映し出され、アルビノーニの「アダージョ」が流れるから。この部分で、ヘルツォークに美学を感じる。
究極、植物人間に我々がうろたえるのはプライドを持つ事がプライドと錯覚している自分と出会うからでしょう。そして、一番うろたえるのは見せかけのプライドで築かれた国家社会。
経済的障碍を作り出す事は国家社会にとってメリットでもデメリットでもある。あがかぬホームレスのプライドは見せかけのプライドを脅かし続けるから。
究極の死刑制度、アウシュビッツは権力者の脅えであるのだし。
『さようならCP』ラストの横田さんの言葉。
何もできない映画を撮るといった気持の中にも、やっぱり、何か自分がやればできるんじゃないか、こういう映画をすることができるんじゃないか、というようなそういう考えが、初めから僕の中にあったと思うのよね。
それが映画つくっていくという過程で、そういったものが、もののみごとにぶっこわされちゃった。
何て言うかさ、結局僕は、保護、色んな意味でね、保護されて、保護、保護、守られていくことでしか生きられないんじゃないかと思う。
そういう意味で、これまでやってきた過程で、何かこう、自分が本当にからっぽになった。
正直言って、これからどうやっていったらいいか、わかんないような、そんな気持になっています。
個人の見せかけのプライドの破棄の難しさ、しんどさと共に見せかけのプライドの破棄を出来得ない社会の愚かさを今、感じていますし、映画『えんとこ』はありのままを追求する事でこの課題をクリアしたとも思える。
「集団的無意識」がアウシュビッツを温存させるか否かにかかっていると思います。各種障碍を黙殺する事は社会の死に繋がるのじゃないのかな。
自然は『タイタニック』が描くように暴れ出したら、執拗に襲いかかるものなのだし。
例えば純粋に欲得ぬきに愛したい人がいる。
欲得を愛に絡める事を嫌う人。
けれども、人は糧を得て、愛を得る。
糧を得る事を欲得と見間違うと糧を得ようとする人を欲深き人と見間違う。
身体的障碍より経済的障碍の方が行き違いが多い由縁。
身体的障碍に対する施策って経済的障碍を考慮しているのだろうか?
身体的障碍に対するケアの前に経済的障碍の問題点を洗い出して欲しい。
働くことが可能なのに働かない人
働くことが可能なのに働けない人
働くことが不可能なのに働く人
働くことが不可能だから働けない人
糧を得る事と欲得のボーダー位置の読み間違えはないのか。
経済界、政界、自治体、支援団体、それぞれの集金能力主義が糧を得る事と欲得のボーダー位置の読み間違えていないのか。
支援費の介護保険統合云々でえんとこ遠藤さんがそれ以前に選ぶ権利を訴えるために札幌までストレッチャー使い訪れた事がこだわりとしてあります。
「学校教員をして蓄えあるから選ぶ権利なんて言えるんだ」という遠藤さんに対する批判。
経済的障碍を重視しようしない身体的障碍ケアの問題と感じるのですが。
身体的障碍の社会参加を身体的障碍ケアは本気で考えてますか?
ケア云々以前にまずはケアありきの差別撤廃を考えるべきでしょう。
欲得を愛に絡める事を嫌う人は愛を愛して、人を愛していない。
違いますか?
愛憎になれない関係だから、介護サポートは辛いのです。介護サポートはあくまで人と人。支援とは全く異なるもの。うちの従妹も母の介護に来ていて、他の家での介護の辛さをこぼしていく。
この辺を行政はどれだけ把握しているのだろうか。十把一絡げ、病院介護の反省もなきままにまるで物の売り買いの如く、お見合いさせる。
えんとこ遠藤さんが札幌で訴えていた事は介護を必要とする人が利用者として介護してくれる相手を見つけ出す自由であり、行政と介護業者に保護して貰うものではない。
見つけ出す自由なのだから雇った相手との愛憎トラブルはやむなしだけど、お仕着せで愛憎トラブルは腹が立つ。
その心理を理解できますかという事。
保護ではなく対等を望む由縁もそこにあり、それ故に障碍者の社会参加が実現できる。
DPI(DISABLED PEOPLES INTERNATIONAL)の「障碍者が医者を必要としているのではなく、医者が障碍者を必要としているから、障碍者は消費者である」
この理論を実現できない社会は日本だけなのでは?
富と名声得た者達は同時にそれを失う恐怖に怯え、あがき続ける。あがけばあがくほど失う恐怖は増殖し、皆疲れ切った顔。聖書で人間の道徳の"汚れ"を意味するカエルの雨が空から愛に飢えた人間達に降り注ぐ。
よくできた映画とは思うけど、長い。
カエターノじゃないけど、わめき立てる英語は犬の言語のように耳につくし。『バトル・ロワイアル2』で深作欣二監督が遺言の如く若いスタッフに「君はそんな悲惨なラストを望むのか」と問いかけたようにこの映画は、悪戯に現代の醜さを提示する。
自虐的にならねばならない社会で自虐的プログラムを押し留める提案が今望まれているのに。
すべての生き物の屍が地上を埋め尽くした世界で生き延びたい者はいるのだろうか?
故国を棄てる男と付き添う女。
ナチス・ドイツ侵攻の日、死にかけた赤子を生かそうとする庶民。
文明が疫病(単なる風邪)を運び、生き残ったアマゾン原住民は文明の中で生きる事を決意する。
女優のつかの間の安息。
医者もいない過疎地で間違って飲んだ薬の副作用と戦いながら、胃の洗浄をして貰うため車を走らす男。
先の大統領選、二つの陣営に何があったのか。
高度成長下の北京。棄民の引っ越しは続く。
久々劇場に足運びました。
いろんな生き方があり、世界はある。当たり前なのに見落としがちないろいろな人生。短くも長いそれぞれの人生。
以前、国際交流基金の映画祭で観たエチオピア映画でおぼろげに覚えているのだけれども、少し気になり、当時のパンフレットを引っ返してみた。
「搾取する地主を殺した男は英雄ではなく裏切り者として裁かれる」簡単に書くとこんなあらすじで旧大陸諸国の封建制を描いているとも言える。
昨今、話題になっているオウム判決、鳥インフルエンザなどでこの封建制を感じています。
僕もよく世代論にいってしまいがちなのですが、世代論ってそれぞれの育った時代の反映で、いってしまえば「マインドコントロール」ですよね。
オウムのマインドコントロールはおそらく戦時中の日本のマインドコントロールに似ているのじゃないでしょうか?仲間意識を植え付けつつ、互いに監視する隣組。
麻原を障碍者の視点で見ていくならば、障碍者の置かれた環境を逆手に取り、信者を障碍者の立場に追い込んでいった。頼れる者を自分とする事でアイデンティティ・ゲームを行ったのじゃないかな。そして仮想の敵としてバブルに浮かれる国民に標的合わせた。
似たようなマインドコントロールは日本では戦中の戦意高揚、戦後の復興、高度成長の所得倍増と巧みに共通意識を持たせ、仕組まれたシステムがあるとも思います。
オウムの功罪を問う時、得てしてオウムという組織のみを責める構造を作り出したのも日本的といえば日本的で、裁くのみで何故信者が集まったのかが分析されていないように感じますし、そして、今マスコミでいわれている日本政府の危機意識の欠如も問題と思います。
昨年の韓国の地下鉄火災では事件の真相究明を社会の責任として追及し続けた韓国マスコミの意識に感服しましたが、日本のマスコミはどうも及び腰ですよね。
危機意識という点で似た事例として三宅島噴火があり、噴火直前まで避難勧告を発令せず、島民は自費で島を脱出したとか。『三宅島島民たちの一年 岩波ブックレット』
日々起こる事件を個々人の犯罪と捉えるだけではなく、社会に落ち度はなかったか、再発させない社会性をマスコミや著名な方々が述べられる事を望みたいですね。
「魔女狩り」だけでは解決し得ない事件が多発している自覚を政府関係者は持って欲しいものですし。
国の自助努力、求めたいものです。
自由恋愛も認められなかった時代、ひたむきに愛し合った父と母。「文化革命」で引き離されても愛を貫いた二人。その父が死に、母は古式ゆかしい葬儀を父のために望む。自由になった今、父母の若い日を振り返る者はいないけど、母の願いを叶えたい。
観ていて、倉本聡脚本『前略おふくろ様』を思い出した。「若い奴は俺の若い時を知ろうともしないだろう。俺は入れ歯なんかちゃぷちゃぷ洗い、説教してやる。俺にもひたむきに人を愛した日がある」父母の生き様、祖父母の生き様、どれだけ知っていますか?父にも母にも若い時があった。そしてひたむきな時があった。僕は忘れたくないなぁ。前略おふくろ様。
中国の山村、一か月の代用教員にあてがわれた女の子。いくらも年の違わぬ子供らを教える事もままならず、担任教員との約束「生徒がひとりもやめなかったら褒美をあげる」をひたむきに遂げようとする。
生徒の一人が家の借金のため、幼いながら都会に出稼ぎに出され、代用教員である女の子はその子を連れ帰そうと都会へ出る。
近代化進む中国、田舎の貧しさが少し強引ながらも浮き上がる。
田舎の子等のひたむきさを国は見逃しているのでは。そんなメッセージが近代化終えた日本では更なる教訓になるのでは?
幼い頃、失明した女の子。継母に金持ちの振りをして取り繕う男に押しつけられ、男の方も初めは継母に気にいられるべく女の子を面倒みる。失業中で自分の食い扶持にも困っているのに、女の子には大見得芝居。嘘で塗り固められた仕事。けれども女の子にとっては始めての優しさ。「嘘から出た誠」
これ以上、優しさに甘えられないと一人旅立つ女の子。男はトラックにはねられ、瀕死で病院に運ばれる。女の子の実父を騙り、書いた手紙。「きっと苦労が報われる日が来る」
中国には日本のよう高度成長を遂げないでと祈りたい。
「無理しないで」
昨日の長嶋監督脳梗塞のスポーツ各紙の見出し。
「無理させないで」じゃないかな。
ひとりに無理させないようにみんなで作り上げる。
長嶋監督の損と日本社会の損の違い、認識していないんじゃないかな。
クラシック指揮者来日でびっしりスケジュール組まされ、帰国後死亡という世界的に有名なジンクスもありますし。
小泉コイさんが「日本に投資を」CM、海外で展開始めたそうだけど、ひょっこりひょうたん島村長ひとり目立つ島に誰が投資するのだろう?村民のかまどを案じ、知恵比べしているなら投資価値があると思うのだけれども。
ガンバレ!ニッポン
何度か僕も ぐれかけたけど やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一 母ちゃんの唄こそ 世界一