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愛しさ足らず

From 2003-10-08(水)
To 2003-12-18(木)


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歌でしか言えない


愛しさ余れば憎さがつのる あれは嘘っぱち 愛しさ足らず

中島みゆき「笑ってよエンジェル」より
(アルバム『歌でしか言えない』(1991年作品)収録)

先日、札幌で就労支援ネットワーク研修会というのに参加しました。大阪市職業リハビリテーションセンターの関さんや内閣府参事官(障害者施策担当)の依田さんの話は「障碍者」という価値基準を増加させていくのではなく、如何に「障碍者」という垣根を取り払い、障碍者も生活者として補償させていくかを大変判りやすくためにもなりましたが、障碍当事者達のパネルディスカッションがとても素晴らしいものでした。

身体、知的、精神それぞれの立場から語る就労の現実と今後、身体の立場として僕も壇上に立ちましたが、知的、精神の置かれている現状を生の声として聴け、大変有意義でした。

「所得保障」や仕事時の通院許可、人として当たり前の権利を話しているだけなのだけれどもね。

ある意味、ピアカウンセリング的このような場がもっと必要なのではないか、「障碍」という概念をなくすという事が「健常」という概念をもなくさなければ何も変わらないとも思う。

関さんが「誰のためのサポーターなのですか?」とあるサポーターに聴かれた場面、頼りにされている人が社会の「不自由な事がいけない」価値観を認めては何も変わらないと思う。

トッド・ブラウニング監督『フリークス』(1932年作品)を僕が高く評価する理由は人が人を蔑視し、たぶらかす愚かさを描いた映画だからですし、映画好きになった切っ掛けの作品。ヴィクター・フレミング監督『風と共に去りぬ』(1939年作品)。時代にほんろうされるスカーレット・オハラのDisability(社会的障碍)とImpairment(身体的障碍)を考えてみるのも一考かと。

日本の現代社会の根本問題は「自信喪失」なんじゃないのかな。かつて日本にもピアカウンセリングし合う環境はありました。山田洋次監督男はつらいよ』(1969年作品)でさくらが寅のピアカウンセリングをしていたように。

説教を説き伏せると読み替えた現代社会。説教は説き教える、物を語る意味で、受け取る側の判断に委ねられます。「見守る事」人間に出来る事はこれしかないのに「裁き」たがる。

失われた社会を取り戻し、本当の意味の豊かな社会を持ちたいですね。


それにしても政令指定都市の中で障碍者雇用枠を設けない札幌市って、なんなんだろうと、思い返してもいます。愛しさ足らずどころか愛しさすら持ち合わせない市政なんだろうか?


2003年12月18日、札幌市も来年度から障碍者雇用枠を設けるとの事、新聞報道されてました。

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喜劇 女は度胸

森崎東監督喜劇 女は度胸』(1969年作品)


清川虹子母さんがどっかり腰据えた物語。

「女はご飯と一緒に涙を飲み込むもの。男は酒と一緒に涙を飲み込むもの」

家族崩壊、核家族化の始まり、フォークが流行り、女達が「私も人間」と声高に語り始めた時、古い女は出ていく子供らを見送り、酔いつぶれた駄目亭主に布団を被せる。

「あぁ、私は豚だよ」「汚れた物は元には戻らないのさ」

自由勝ち得た女達は古い女達を振り返ったでしょうか?

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喜劇 男は愛嬌

森崎東監督『喜劇 男は愛嬌』(1970年作品)


オケラ大将渥美清がごろつくドラマ。

時は高度成長期。トラックで長屋に突っ込んだにもかかわらず、長屋を取り壊したい成金地主に取り巻き、突っ込んだ家の娘を成金地主に押しつけて、結納金をかすめ取る算段をする。結婚すりゃ足腰立たぬ父親もカリエスの弟もそして、少年院帰りの娘も幸せになれるとうそぶいたりして。

「やり直しの出来ない人生なんかない」

しかし結果はかすめ取るつもりが相手の方が上手。結局、金の工面で身売りに走る娘を見かね、夜中、こっそりトラックを動かし、家を壊し、トラックを売っぱらった金で娘一家を助ける。娘を更生させようとして、自分も前科者になってしまった弟に娘を譲り、自分はアフリカ行きのマグロ船に乗る。

「男は愛嬌」自分の本心証さずにチンピラぶったやくざもの。金欲にまみれながらもオケラのまんま。不器用ながらも情がある。

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森崎東監督『高校さすらい派』(1970年作品)

弱きを助け、強き者に立ち向かう少年院帰りの森田健作。

流れ着いた私立高校は金欲まみれの教師の集まり。それに立ち向かう高校生達。 大人は都合の悪い事をことごとく読み替え、ある時は暴走族まがいの学生を、ある時は警察を言いくるめて高校生達を弾圧にかかる。

指折り数えればこの高校生達も今は50代の団塊世代。読み替え糾弾がいつのまにやら。

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森崎東監督『喜劇 女は男のふるさとよ』(1971年作品)

「あくどい事して金儲けしなきゃいけない世の中、貧乏って事は悪い事していないって証拠だよ。」

人のいい夫婦が営むストリッパーの置屋「新宿芸能社」。

自分の有り金叩いて尽くしてくれて、恩に着せない男を惚れた女。男は実は高度経済成長の成金で親戚一同金の争いを始めた事に嫌気差し、女房子供捨ててきた身の上。それを婚礼の時まで隠していた事に腹を立て、いなくなる娘。

「99本当でも肝心のひとつが嘘ならあの子はそれだけで嫌なんですよ。肝心のひとつが本当なんていうそんな人間なんかいないのに。」

大学受験に落ちた高校生が公園で死のうとしているのを抱き締め、体を与えれば死ぬ事を思いとどまると思い、アオカンする娘。それを警察はわいせつ物陳列、不法侵入として取り締まる。

「何とか陳列って何を陳列したって言うんですか?お菓子を恵んであげるのはよくて、お菓子も買えない貧しいあの子が体を与えたら、犯罪なんですか?寂しい国ですね。この国は。」

親以上に親身になり、体を張ってかばい通す。「この子等だって人間」当たり前のこんな叫びを何故見過ごしてきたのだろう?

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森崎東監督『喜劇 女生きてます』(1971年作品)

知恵遅れでさんざん辱め受けた子が裕福な家の足の不自由な息子に見初められ嫁ぎ、その子に逢いに行く置屋女将。素知らぬふりして、敬語使うその子。他人扱いされ、寂しく帰る女将を載せた車を追い、裸足で裏口から飛び出し、手を振る子。

「礼儀作法をしつけられたんだろうね。邪魔しちゃいけないよ。手だけ振ってあげよう」

養護学校の幼なじみでやくざものとストリップ嬢の腐れ縁。焼き餅焼きで甲斐性なしの男に殴られも蹴られても別れられない女。せんべい布団で幼い頃と同じく手を繋ぎ合い、寄り添う二人。子供をおろした事にも気付かず、悪態つく男に愛想つかし家を出る女。女が欲しがってたテレビをくすね、また拘置所のご厄介になる男の出所を出迎える女。

人の事をとやかく言うのは勝手だけれども、その人の奥底には誰も踏み込めない。それぞれ生きているのだから。ただ見守るだけ、それしか出来ない。

出所した男が口ずさむ『インターナショナル』「立て飢えたる者よ」「私知ってる。その歌」女はそういい、男の手を握りしめる。それしか出来ない。


この後、森崎監督はみなしご女スリの『喜劇 女売り出します』(1972年作品)、どもり男とジンマシン女の純愛を描いた『女生きてます 盛り場渡り鳥』(1972年作品)を発表してます。特に10数年前に横浜の場末の映画館で見た『女生きてます 盛り場渡り鳥』はどもり男演じる山崎努の思うように意思を伝えられず、大暴れする場面は未だに記憶に残っています。(DVDにならないかなぁ)

「ころころ変わるから心。」

このシリーズ通して出演している森繁久弥のこの言葉、そう、画一的に考えられないのが人間。「どっこい生きている」それが人間らしさであり、ドロドロゲロゲロの世界からは未来永劫抜け出せないと思う。画一的合理的対人関係が深まればなおの事。

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森崎東監督黒木太郎の愛と冒険』(1977年作品)

「大人のオモチャ」屋、エキストラ、聾夫婦、人間不信の女教師、風俗嬢にヒモ、飲んだくれて汚物を片付け横死する老人、ガダルカナル戦で生き残った砲兵隊長。ステレオタイプにこの世の貧しさを寄せ集め、敗戦直後、割腹自殺遂げた兄の「遺書」をこれらの人々に重ね合わせた想いあふれすぎの失敗作。

日の丸つけたジープを止めにかかる警官に
「どうして日本の車が日の丸つけちゃいけないんですかぁ?」
田中邦衛演じる黒木太郎の愛と冒険。

「こういった無気力で怒りを失った現代では・・・」
「そうですかぁ?僕なんか、ずらり並んだ乗用車の天井を見ると、舵で片っ端からぶち破ってやろうという衝撃を感じるのですが。」

映画祭のディスカッションで放った森崎監督の静かな怒り。

現代も戦争。この貧乏人達を忘れ、浮かれきっている社会。
それは割腹自殺遂げた兄への哀悼の意であり、喜劇から怒劇へ昇華。

襟には栄ゆる山吹色に 軍の骨幹、誇りも高き われらは砲兵、皇国の護り

「砲兵の歌」より

犬死にせしもの達への恋文であり、「ニワトリはハダシよ」「大人のオモチャ」屋財津一郎の捨てぜりふは弔い合戦すら出来ない気弱な市民のぼやきにも聞こえてくる。

見せかけの幸福、人並みの幸福。
そんなもの糞食らえ、人並みに生きようとして殉死した人々に自分らしさを求めぬ社会は人並みの幸福さえも食い物にしていくのだろうから。

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森崎東監督生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』(1985年作品)

紅花落水、この言葉を知った映画であり、始めてリアルタイムに森崎作品に接した作品。

アイちゃんですよ。ご飯食べたぁ。

ゴザ騒動で沖縄を飛び出し、片や旅回りのストリッパー、片や原発ジプシーが原発銀座の娼婦、原発労務者、パスポート奪い取られたフィリピーナをかくまう話。

原発銀座の娼婦アイコは今まで出会った人の名を呼び上げて、旅回りのストリッパーは男に抱かれるたびに「逢いたいよぉ」と呟く。

一銭、二銭の葉書さえ、千里、万里と旅をする。
同じゴザ市に住みながら、逢えぬこの身の切なさよ。

「十九の春」より

溺れた時は浮かび上がろうとしてはいけない。沈むところまで沈んで、力いっぱい蹴る。そうすれば浮かび上がる。

狂言まわしの首切られた高校教師のこの説教も本気で溺れたことのない半端な奴らの戯言。

結局殺されるアイコと原発労務者の白々しいシュプレヒコール。

溢れる情熱みなぎる若さ!協同一致団結ファイトォ!!

白々しくともそれにしがみつかねば生きられない。カップラーメン与えて、喋るなよと言えば喋らない人間達なのに、やましいお上は許さない。

難を逃れたフィリピーナが強制帰国される船の上、シュプレヒコールをまた叫ぶ。

生きるって、食べる事。生きるって、逢いたい事。

紅い花も落ちれば水。どんなにご都合主義の社会にあってもひとりひとりが紅い花。

アイちゃんですよ。ご飯食べたぁ。

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わたしの子供になりなさい

難民認定求める家族が離散の危機に


連日、ねばり強く報道続けるTBSのニュースに共感しつつ、この国の冷たさ、法あっての人という価値観は絶対おかしいとも感じ、このニュースをここにも書き記します。

TBSのニュースページがいつまで活きているかははなはだ不安なので、概略記すと、都内に住む父がミャンマー人、母がフィリピン人の家族が難民認定認められず、家族離散、それぞれ自国へ帰れというお達しがなされたそうで、軍事クーデターにより「難民」として、国外へと逃れてきた父親は「帰国すれば逮捕されてしまう」身の上。日本生まれで日本語しか話せない子供達は母と共に母の故国フィリピンに強制送還される恐れが出てくるらしい。

父親の働く会社も支援し、難民認定求める訴えを入国管理局に申請しているけれども見通しは暗いとか

この国は危ない
何度でも同じあやまちを繰り返す 平和を望むといいながら
日本と名の付いていないものにならばいくらだって冷たくなれるだろう

中島みゆき「4.2.3」より(アルバム『わたしの子供になりなさい』(1998年作品)収録)


11月26日、TBSのニュースでミャンマー人一家送還問題が国会でも取り上げられたらしく、暗にフィリピンに押しつけるのが妥当だろうと政府の国会答弁。この国の人権意識が見え隠れ。


年越して、3月5日、TBSのニュースでミャンマー人一家に滞在許可の朗報。


2005年1月18日

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)による難民認定を受けているトルコの少数民族クルド人、退去強制処分の取り消しを求め最高裁で係争中であるにもか関わらず、東京入国管理局、同日午後の飛行機でトルコに送還されたことを明らかにする。

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ミルトン

「レノンとマッカートニーに捧ぐ」


久々にブラジルの歌姫エリス・レジーナが歌う「レノンとマッカートニーに捧ぐ」を聴いてます。オリジナルはミルトン・ナシメントのアルバム『ミルトン』(1970年作品)収録曲。

こんな風に替えて歌う事も出来るでしょうね。

君たちは知らない この日本のごみ溜めを
怯える事などない 孤独ももう必要ない
毎日は生きるための日だ

日本のレノンとマッカートニーに捧ぐ。

さよなら三角 また来て四角 今度逢う時はなおさら深く

中島みゆき「笑ってよエンジェル」より
(アルバム『歌でしか言えない』(1991年作品)収録)

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徒然なるままに : 過去記事 2003-10-08 掲載 2003-12-18 加筆
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