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サラヴァ(祝福あれ)

From 2004-01-07(水)
To 2004-01-227(火)


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サラヴァ

サラヴァ


今年こそ安定収入確保せねばと思いつつ、新年早々、トレーニングに出掛け、子供の頃に帰ったようにトレーニングに励むお仲間達を見て、本来、みんなこんな風に生活したいんだよなぁと思ったりして。


参加しているメーリングリストにて、ちょっと悪態風のご挨拶。望むのならばあがかなきゃね。

真冬の夜の夢。

人手不足なのに合理化の音頭にのり、リストラ敢行。
ベンチャー支援でバトルロワイヤル。
経団連の親父が「年金なんか50%もいらない」発言にも大騒ぎにもならない国ってやっぱ、おかしい。
ストレス発散のゆとりしかないから国際事情に疎くなり、自分探しのボランティア。

バカな国民が支持する首相だから、冷戦構造温存してカモってやれ。
ブッシュは恐らくそう思っていると思うのだけれど。

20年前、「社会参加」の空騒ぎに踊らされ、結局食い物、ペットにされたストレンジ・フルーツは土に帰るしかないのかね。

地球の裏側ブラジルでは『サラヴァ』(ピエール・バルー監督2003年作品)というDVDで片田舎のじいさんアダン・グザレパラダが
「悪ふざけはやめよう。ソクラテスとプラトンは最初に茶番劇に参加した哲学者。」
とも歌ってましたけど。
「革命家がなんでバチカンの銀行を襲わないのか」とも。(笑)

WHO(世界保険機構)に絶滅品種に指定して貰えば、動くのかな。
天災が日常の積み重ねである事を忘れた学者達。
金色夜叉がなぜ夜叉なのかの研究が必要かと。

上から読んでも、下から読んでも「ヨノナカバカナノヨ」

世迷い言で歳を取る。

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時計じかけのオレンジ

スタンリー・キューブリック時計じかけのオレンジ』(1971年作品)


そのメーリングリストで高齢社会の話をしていて、医療問題に話が及びまして。

乳腺外科を看板に掲げてはいけないといって無関係な産婦人科が癌検診し、つまみ食い。

世界に遅れを取り戻すための未経験の医師でも実績作りの腹腔鏡手術で人体実験。

現場知らずの合理主義 看護婦の24時間3交代の過酷労働

リハビリ主体の臨床医学だから金がかかり、つまみ食いも横行する。
世界はピアカウンセリングに移行しているのに。

このように書き、「時計じかけのオレンジ」って実はこれを描いていたんだろうなぁとふと思い、おそらく30数年ぶりに再見。

癌で死んだ実母に連れられ、中一の時に封切りで観ており、連れて行った実母が映画を見終わった後、感想を聴いてきて、
「初めは連れてきて失敗したと思ったけれども、見終えて連れてきてよかったと思っているよ」
このように話された思い出深い映画。

レイプ魔に強制的に残虐な映像を見せつけ、吐き気する条件反射を植え付ける治療。結果、被害者から復讐にあい、自衛本能も発揮できずに無抵抗になってしまう。

封切り当時、キューブリック自身が性描写に厳しい日本に対し、皮肉を込めて、すべての股間に黒丸を施した映像もクリアになってたDVD、見終え、母は何を僕に教えようとしたのだろうと思ったりもする。(笑)

映画の感想サイトなんか見て回ると「人間なんて所詮暴力的な生き物」とあるけれども、キューブリック自身醒めている分だけラストのピアカウンセリングの描写が気にかかるのだけれども。

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中島みゆき「夜会2004」

そして、「愛」だって「暴力」

先日、スポーツ紙で知った僕のカリスマ、中島みゆきさんの今年の「夜会」。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフに、テーマは「命のリレー」で、『何度でも生まれ変わっておくれ、そしてまた、ともに走ろうね』と願いを込めてとか。

やっぱりこの人、好きですね。同じ暴力なら、こんな暴力ふるいたい。
「ゾンビのように生まれ変わっておくれ。」彼女なら言いそうだけども。

「仮の宿など戻りたくはない。お前も早く来い。」死に人達から愛想笑い返されそうだけど。

「夜会」で歌われているという「二隻の舟」から[アルバム『EAST ASIA』(1992年作品)収録]

風の中で波の中で、たかが愛は木の葉のように
わたしたちは二隻の舟、ひとつずつの、そしてひとつの

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愛の亡霊

大島渚愛の亡霊』(1978年作品)


メタファーの帝王、大島渚の国際進出第2弾「愛の亡霊」を観て、何で経団連の親父の上の発言がおかしいか判ってきた。

同じ肌色、同じ言語を使う者同士が共食いして成り立っていた社会は限界なんだよと言う事だろうね。経団連の親父は共食いしか頭になく、国際社会を見ていない。今は国際社会で例えば「日本」はどのように見られているか、どこが好かれているのか、「日本」というブランド作りをしなけりゃ駄目なんだよという事なんだろう。

高齢者、障害者のニーズへの配慮ガイドライン「ガイド71」
これを提言できるだけの社会環境が整っているのかは一例で、「日本」はこんな国であるというブランド意識があれば、高齢社会、生き残れるのじゃないか、なんだろう。

小泉改革に欠けているのもこの点であり、「国際基準」を「共食い」感覚に当てはめたって、カスしか残らない。「日本」の独自性を打ち出し、世界の日本に対するニーズをまずは知らなければ先に進まないような気がします。

大島渚が古典悲劇に日本の負の部分を折り込み、売り出したように。

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日本の障害者

障碍者古今東西


先のメーリングリストでの話題の総括?

今の社会整備の前提として、優性思想がある。

ただし現実の障碍者は優性思想上の障碍者など一握りであり、僕も含めて医療ミス、公害による劣性遺伝などに起因する先天性障碍が大半。そして、社会環境による精神障碍が急速に増加してもいる。
「いつ職場でカミングアウトするかが問題」精神障碍の悩みとか。

優性思想は劣性の定義として明治期に犯罪者の統計を取り、思考能力で振り分けると人間の大半が劣性になる当てはまるがために身体的劣性で判断下したのが始まりで、アウシュビッツ、関東軍の愚考にまで及んだもの。

ちなみに脳性麻痺の長老花田春兆さん著書『日本の障害者―その文化史的側面』(中央法規出版)によると日本で障碍者はシンクタンクの役割を果たしており、人間の業のブレーキ役を務めていたとか。シンクタンクの役割を果たせなくとも、「福助」(不具助)に象徴される店番を務めていたらしい。

けれども江戸中期の「座頭金」など特権を悪用、利用する輩が現れ、高利貸しの棒引きなどの政府の施策も裏目に出て、天災による死傷者も多かったとか。

この頃だと推測されるけど、「姥棄て」が行われ、庶民に「ポックリ願望」が広まっていった。


共産主義、社会主義の破綻と同じく、自己矛盾で崩壊する過程を資本主義も辿っているらしい。

消費者のニーズを消化し、次なるヒット商品を生み出す過程もその周期が早くなり、更に多様化する事により、資本側が追いつかなくなり、解体する。映画のハリウッドなどがその典型。


イデオロギーで括れる時代は終わったのにこの国は未だイデオロギー。
極右と極左の目指すところは一緒。ご都合主義が混じるから、多政党になるだけで。

お隣の半島をみればイデオロギーの愚かさ、十分に判るはずなんだけれども。


50年代、60年代の世界秩序回復期を経て、ベトナム戦争でアメリカは死んだとされています。
アメリカによる南米軍事政権国家群への裏支援。世界各地に対する物流攻撃。 その対抗策として、90年代、冷戦終結を期にマイノリティに進んだEC、世界各地の自国文化保護条例発令。すべて受け入れは日本の位のもの。

そして現在、まだまだこの世は餓鬼世界かと。

  • 自殺者多発の北欧諸国
  • 若者の親離れから老人の孤独死問題のフランス
  • そして、世界情勢知っていながら、ドイツで破棄された介護保険を導入する日本

望みは果てしなく何処へでも毒をまく やがて自分の飲む水とも知らずに。

中島みゆき「風にならないか」より[アルバム『LOVE OR NOTHING』(1994年作品)収録]

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ストレート・ノー・チェイサー

セロニアス・モンクストレート・ノー・チェイサー』(1988年作品)


ロックが死んだ一日を描いた『ローリング・ストーンズ・イン・ギミー・シェルター』のシャーロット・ズウェリン監督、ジャズ・クラブでピアノを弾いていたっていう前歴があるらしいクリント・イーストウッド製作総指揮。ジャズ・ピアニストで、名曲「ラウンド・ミッドナイト」の作者、セロニアス・モンクの生前のフィルムを編集したドキュメント。

スウィングからモダンへ移行する過渡期、「ビッ・パップ」の時代、わざと音程を外し不協和音を出し、微妙な間を取るその指使いから「高僧」とまで呼ばれた奇人。

警察にジャズ・メンが目の敵にされていた時代、友人バド・パウエルの麻薬使用をかばいクラブ出演の演奏許可証を取り上げられ、投獄されたり、マイルス・ディヴィスとの共演でマイルスからクレームつけられ、怒って演奏中断した逸話など奇人変人の代名詞にもなりそうな人柄。

その実、自分の演奏に対して神経質になり、重い躁鬱を患っていた。映画はそんなモンクの演奏前後のフィルムを綴っていく。

始めての海外公演、ピリピリするモンクに演奏終了後の割れんばかりの喝采。はにかみながらも嬉しそうなモンク。

恐らくこの人は黒人という意識の前にアーティスト、いや自己完結へのこだわり、それしかなかったのではないだろうか?

突如、音楽活動をやめ、復帰することなく、1982年愛妻の見とられ死んでいった。チャーリー・パーカージョン・コルトレーンを見守り、見送り、自分はその指使いと同じく、不協和音を奏でながらも、突如、静寂に入った人。

こんな生き方したいですね。

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団塊の世代に捧ぐ

徒然書き綴り、今、世の中を引っ張る団塊の世代の方々が一番問題なんじゃないかと思ったり。高度成長からバブル崩壊まで激動の時代を生き抜いてきた苦労は判るけれども、人間味を忘れてはしませんか?そして、効率性のみ求め、人間味を持つ事がビジネスでは甘い事と読み替えていませんか?

これからの高齢社会、単に少子化でピラミッドが上にスライドするわけではないです。食糧難を経験しているあなたたちは基礎体力があるから、生き抜くでしょうが、その後に生まれた飽食世代は寿命は短くなると予想もされています。つまりは生き残る苦難を味わうのはあなたたち。

頭でっかちのひょうたん人口構成比が今後の日本を待ちかまえている。

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モダン・タイムス

チャールズ・チャップリンモダン・タイムス』(1936年作品)


チャップリンの「モダンタイムス」を観たく、レンタル。
これも中学の頃、観た想い出があるのだけれども、今観ると当時の新鮮みがなくなっている。

ベルトコンベアに巻き込まれてもボトルを占め続けるチャップリンはいいのだけれども、失業、就職難と次々降りかかる災難は社会が悪な点ばかり。チャップリンの視点って、この程度だったのかとちょっと落胆。

やはりチャップリンは短編がいいのかな?
最後のサイレント『街の灯』(1931年作品)は何故サイレントでなければいけない作品に全盲の女の人とのラヴ・ロマンスを選んだのかも疑問あるんですよね。

バスター・キートンは好きなのですが。お勧めは天災が起これば人間などただ逃げまどうのみ。その事を描いた映画『蒸気船』(1928年作品)

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エスニック

月10万円の赤字を埋めるべく、いろいろバタバタしていてここの更新を怠っていました。あちこちで書いた事、まとめてアップ。まずは一つ目。

テレビニュースで知ったのだけれども、国内アーティストのアジア向けCDが逆輸入され、国内市場で物議を醸しているとか。

ニュースサイトを調べてみると「日本では3000円程度のCDの海外専用版が、逆輸入され2000円程度で売られることもある。」これって海外には安く、国内に高くという共食いの発想だと思うのだけど、参加メーリングリストで「音楽障壁」に反対する理由(PDF)を教えて頂いた。

要は国際競争には自信なく、仲間内を相手にしていたいだけの話。

日本ってエスニックを見下す傾向が強く、最近だと女子十二楽坊がエスニックぽく日本の曲をやると喜ぶけれども、そこからビジネスアイデアを頂く発想がないように思う。

バート・バカラックがエスニックをうまく取り込むような発想が出来ずにいるし、日本の良さの海外評価を分析できないでいる。そんな気がしています。

今、若者が民謡や今風着物の着こなしなどで自国文化を消化しようといるような感じがするれども、この国の業界は果たしてその感覚を理解し得ているのだろうかとも。

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見えないものと見えるもの

デファクトとデジュール


「福岡県医師会、脳性麻痺児に1000万円給付へ、国内初の無過失賠償制度。
産婦人科医、妊産婦などが財源負担」

こんな話が出ているようで、国益を「海外で金をばらまく事」と解釈するこの国は銭が絶対のようでそれならば「白い巨塔」に障害年金補助を義務づければいいだけの事のようにも思える。

アメリカは銃社会で、日本は金社会。
ともに海外にまでばらまきたがるデファクト志向。

未集金で国保を傾けさせる省庁が担当だから、回収可能かは判りませんが。

障害年金支給一人あたり月額30万かな?(笑)


石川准先生の新著『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』読み始め、フリーウェアはデジュール志向だなぁと思ったり、理性はデファクトだし、感情はデジュールと思ったり。

「障害・障害学の散歩道」No.12『障害学を語る』刊行より

第2章で石川准は「健常者が見ている者は健常者が捏造した障害者です。健常者は障害者とは出会っていないのです。そしてそのことに気がついていません。ひたすら無知なままです」

「健常者」を「人」、「障害者」を「他人」とするとなお明確のような。

デファクトとデジュールの鍵は「対人社会学」のような気が。

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生かすという考え方

人は「生きている」のではなく、「生かされている」のだという考え方。

この事を軸に考えていくと、何となく今の世相が見えてくるように思えます。
例えばイラク派遣。

「危険だから行かせるな」が主な反対意見のように感じるのだけれども、そもそも何故「行かせる」のかが問題なんじゃないだろうか?

「危険だから行かせるな」ならば東京はそろそろ大地震が来るかもしれないし、テロが起きるかも知れないから「行かない」と同じなのではないでしょうか?

「行かせる」事を僕のもう一つのこだわり、デファクトとデジュールで考えるならばデファクト、アイデアでしかないように思えます。あるいは米国に要請されてというアイデア以前の発想。

デジュール、ブランドならば「行かせる」事の意義が重要になる。「行かせる」事により、イラクの人はどのような期待を寄せるのか、期待に背いた場合、どのような報復が帰ってくるのか、意義が明確ならばイラクの期待も調整される。軍服着ていく意義が何なのかも考慮すべきでしょうし。「行かせる」事に日本独自の考え、ブランドがあるならば「行かせる」意義はあると思います。

そして、この事は人に「生き方」を求めるだけの世相にも言えるのじゃないでしょうか?今、考えるべきは「生かし方」何じゃないでしょうか?

昔、映画『喜劇 あゝ軍歌』(前田陽一監督1970年作品)で靖国神社から息子の魂を取り返そうとするお婆さんが描かれていましたが、「死んでまで国にご奉公しなければならないのか」お婆さんのこのセリフが今も記憶に残っています。靖国神社というアイデアだけで、日本国というブランドになり得ない理由。

国はイラク派遣命じられた自衛隊員の「生かし方」を考えるべきであり、「犬死に」させてはならないし、「犬死に」させるような国益を損ねる行為をしてはならない。

国民の「生かし方」を考えるべきは国であり、それをしなければ愛国心など生まれ得ないし、各人も人の「生かし方」を考えなければ、自分も生かされないとも思います。ただ単に「生きている」というマスターベーションだけであって。

赤子は人肌を感じ、生きようと思うものだし、何故死にたくないかは自分を認めてくれる人がいるから。
まとまりなくなりましたが、御一考を。

日本国憲法 第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

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男と女

サンバ・サラヴァ


ヴィニシウス・ジ・モラエス[Vinicius de Moraes]バーデン・パウエル[Baden Powell]ピエール・バルー[Pierre Barouh]共作『男と女』(クロード・ルルーシュ監督1966年作品)挿入歌

みんなが幸せになりたいと思っている。
私は笑うのが好きだし、他の人が楽しんでいるのをじゃまする気はない。
けれど悲しみのないサンバなんて酔えない酒と同じ、
私の好きなサンバじゃない。
歌が嫌いな人もいれば、流行だから聞くだけの人もいる。
金儲けの為に歌を利用する人もいる。
私は歌が好きだ。
だから世界を駆けめぐりその根っこを探しあてるんだ。
そうして今ここにやっとたどりついた。
サンバこそは最も深い歌だ。
これこそ歌だ。

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徒然なるままに : 過去記事 2004-01-07 掲載 2004-01-18加筆
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