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蛇を夢見て

From 2004-02-02(月)
To 2004-02-20(金)

シルビオ・ロドリゲス『蛇を夢見て』

一日闘う者がいる。良い人間だ。
一年闘う者がいる。より良い人間だ。
何年も闘う者がいる。とても良い人間だ。
一生闘う者がいる。不可欠な人間だ

ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht

おお、おお、おお
一匹殺せばもっと大きいのが出て来る。
おお、おお、おお
もっと大きな地獄を消化しながら。

シルビオ・ロドリゲス Silvio Rodriguez

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見えないものと見えるもの

配慮の平等


石川准先生の新著『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』、読み終えました。

モラルはノルベルト・エリアス『文明化の過程』より「人がどう見るかから始まっている」から障碍者の行動が醜く見えると指摘し、ソムリエ田崎真也の『サービスの極意』の話を引用し、
「お客は自分をホストしたもの、ビジネスはアシストでなければならない」をこれからの社会のあり方に据えていたり、
1994年にピューリッツァー賞を受賞したケヴィン・カーター写真「ハゲタカと少女」をめぐる報道すべきか、救うべきかを分析し、先進国の国民は自分達の加害性を隠蔽すべく、カーターを批判し、自殺に追い込んだとする話。

セックスと規定をピストン運動のみにするのは如何なものかとし、五木寛之氏がの『サイレント・ラブ』の中で紹介されていた「ポリネシアン・セックス」を挙げ、セックスの多様化を提言する事でALSとか筋ジスとか頸椎損傷のピストン運動=セックスへの劣等感をも拭えるのではないかとする。
スキンシップもセックス論。

「オークション活用」として、多様な情報商品(自分のエッセイやマニュアル、自作パソコンなど)が今後出品されるのではと書かれており、見えない相手を信じる社交性、地域貨幣の思想などから、社交、非社交、脱社交というコミニケーション形態の分析を行い、
社交とは演技と本心がボーダレースになるもの。
非社交は個人の世界。
脱社交はその中間で具体的にいえば、人の話に付き合い、付き合いきれずに聞き流す状態。これが聞くのを打ち切ると非社交になる。

更に具体的な話として介護に来て非社交を決め込むサポーターや逆に介助されて非社交を押し通す障碍者。そのような環境でのコミニケーションのあり方を分析している。

確かに一通りの管理社会の個々人のスパイラルは書かれているのだけれども、「肩書き」の重みは書かれていないような気がしました。

バブル時、うちの叔母の収得した宗教法人格をめぐり、投資家が「あんたがその窓から飛び降りてくれるのを待っているんだよ」と言われたとか。

日本は「肩書き」重視。「肩書き」が金になる。
なんぼ技術を身に付けて、知識を身に付けても「肩書き」が伴わなければ趣味の世界。

まずは「肩書き」ありき。
「小泉純一郎」だから出来るのではなく、「総理大臣」だから出来る。「重度障碍者」だから、助成金受けられる。
「もうちょっと障碍程度が重ければね」と大卒就労時、僕がハローワークで言われたセリフ。「たまに言葉つかえ、利き手が半端に動くから」営業も事務も駄目じゃ「障碍者」の肩書きも「社会人」の肩書きもあげられないよ。そういう事なんですよね。

アイデンティティ(存在証明)する、しない以前にアイデンティティを収得する権利さえない。

「肩書き」ない半端物はのたれ死ね。そういう事なんでしょう。

昔、映画『金魂巻』(井筒和幸監督1985年作品)で世界の餓えた子供達への募金箱を奪い取り、袋だたきに合うホームレスなんてありましたがね。

そして、数年前、札幌駅のひとりのホームレスにパトロン社長がお金をあげているニュースを観ました。

こんな提案、出しているのだけれども。消費貨幣に困っている人を食い物にし、のたれ死にさせた方がこの国は安定するのでしょうかね。


仮にお金を欲しい人に月定額を支払うNPOを作ったとする。
個人サポーターは1万円、企業サポーターは10万円。
定人数にその収入を単純に割り振るもの。
消費貨幣に困っている人に投資貨幣を施せる人の貨幣を流す。
消費貨幣に困っている人は消費するだろうから、貨幣の流通は滞らない。

こんな変則的な地域貨幣もどきの運用法はいけないのだろうかと?


漠然と考えると社会というシステムの合理化で組織システムの保護をかけたまま、合理化するならば人員の合理化になってしまうわけで、純粋に社会というシステムの合理化を進めるならばこのような単純なシステムを構築をすればいいのだと思う。

「所得保障」なんかも障碍年金なんかみていくと200万円台半ばで打ち切られるようでおおよそ200万円台半ばから300万円台が日本国憲法の第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】 にあたるのではないかと感じています。

組織システムの保護の観点を貫くとしても生存権を保障しなければおかしく国があらゆる組織を巻き込んで作り出すべき社会システムなんじゃないかと思ってもいます。

消費貨幣の投資貨幣への悪用が経済停滞の根本原因と思われますから。

組織システムの活性化は別問題でしょうし、仮に上のシステムが国レベルで行われたとしても知的障害者施設などでの横領など行われるバブル時の再現ならば日本は本当に駄目な国でしょう。貧者依存社会だという事になりますから。そして、軽度障碍が多いホームレスや今の社会システムからドロップアウトしたフリーター、フリースクールの方々にまで及ばなければ駄目でしょう。その見返りは恐らく税の基礎控除、各種基礎年金、生活保護が必要なくなる。「マネーゲーム」のルール作り、切望します。

ただし、所得保障と生活保障は別物。24時間介護が必要な方もおられるのですから。新潟の監禁事件が責められて、24時間介護に税を使う事にためらわれる事がおかしいと思わない事がおかしいのですから。


とはいえ、月年金8万弱、アルバイト代8万強で、今までは何とか食いつなぎの仕事が入ってきていたけど、このところ、じり貧状態。

半端な「障碍者」の上、「自律神経によるひきこもり」の母を抱え、「アクセシビリティ」という世界では通用するのに日本では未確定な「肩書き」を取り組む身の上にはこの冬の寒さは身に応えるというものです。

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自然とコンピューター

このところの大雪でこんな事を感じてます。

自然とコンピューターは差別もしなければ、配慮もしない。
差別するのも配慮するのも人間。

今の世の中、「働く」事により搾取する弱者依存、貧者依存。
「共用」はその不便さを知る弱者依存、貧者依存。

「金」にすがるか、「知恵」にすがるか。
デファクト or デジュール。

社会は依存する者がいなくなった時、次なる弱者、貧者を作り出す。
自然とコンピューターは壊れる時、誰彼かまわず壊していく。

人間って刹那的快楽を求める動物なんでしょうかね。

「力だけで心まで縛れはしない」 中島みゆき『EAST ASIA

そうありたいと願って。

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働かざる者喰うべからず

観念論が続きますが。

日本の価値基準は「働かざる者喰うべからず」だと思うのだけど、如何でしょう。「働く」定義として文化的な活動もはぶかれていると思うのですが。

そして、青い芝の「障碍者殺しの思想」ってこの価値基準への異議申し立てだったんじゃなかったのかなと思っています。

石川准先生の新著『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』にも出て来るヨーロッパの文化的な活動を支えたパトロン文化が何故日本に生まれないのかと合わせ考えていますが、どうなんでしょう。

ピアカウンセリングによる障碍者の文化的な価値への変革が行われているヨーロッパってパトロン文化の継承なんじゃないかな。

日本のサポーター達は文化的な価値への変革が出来るのか興味深いところでもあります。

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評判ゲーム

改めて『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』を読み返すと石川さんはパトロン文化の可能性を検証している事がよく判ります。

フリーウェア、纏足(てんそく)、絵描き。

「マネーゲーム」から「評判ゲーム」へ。
フリーウェアのパトロンの巻き込み方が再度読み返し、面白い。

音楽業界のクラシックの如く、私はこれだけ社会貢献をしていますよ。私の面倒みている障碍者達の作品を見て下さい。

こうなればしめたもの。

更に、オークションの項で触れられていた情報商品。
障碍者達に当てはめれば、日々の悩みや社会観、それらを情報商品として認めるパトロンが現れればそれに超した事はない。

その可能性を石川さんなりに模索しているように思えるのだけれども、どうなんでしょうか?

そして、思い返すに西洋のパトロンの中には個性を引き延ばした実績が見あたるのに、東洋はどれもこれも山椒大夫に何故なってしまうのでしょう。学歴社会なんてもろ纏足(てんそく)ですし。

就労支援なんかも悪く言えば山椒大夫
クライアント -> サポーター -> 当事者
トップダウンで「働く」定義が変化していない。

当事者 -> サポーター -> クライアント
意識としてあるべき形と現実を結びつけるには「働く」定義を変えなければならないんじゃないかな。

似たような流れとして、80年代の日本映画界で金も口も出す角川商法と金だけ出す荒戸源次郎商法がありました。最近、また荒戸源次郎が復活したようでマイノリティ文化の道筋が模索されてもいるのかも知れませんね。

ちなみに石川准さんの『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』に書かれてあるゲームの規則、「評判ゲームにもとずく贈与文化」の三つのタブーは必須かも知れません。

  • プロジェクトを分裂させない
  • 非公式修正をしない
  • 貢献者リストをねつ造しない
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財界

昨日、財界の関連図が地元紙に載っていて、このような仕組みは欧米にはみられず、政界への献金を再度認めさせようとする動きがあるとか出ていましたが、刹那的じゃないのかな。

「働く」事が人を欺き、自分を欺く事なのでしょうか?「良い事」して金を稼げないから「"時間"どろぼうは"幸せ"泥棒」なんじゃないのかな。財界の発想の転換が望まれますね。

「働かざる者喰うべからず」財界の方々に向けられた言葉かも。

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出る杭は打たれる

日本って「出る杭は打たれる」依存社会じゃないのかな?能力主義が活かされているならば視覚障碍の優れた感覚、聴覚障碍の観察眼、脳性麻痺の工夫性など、もっと活用しているはずです。

一方、北欧諸国の自殺者急増を考えると自立社会を目指したが故に自分の意思が求められ、依存するものがない人が追いつめられているのじゃないだろうか?

人間、突出した能力は誰しも持っているもので、それを如何に引き出すかが文化のような気がしています。

教育でもオールマイティを望む今の日本のやり方と個々人関心ある事を引き出す自由教育があり、欧米は早い時点から自由教育ですよね。

僕自身は普通学校だったのでオールマイティ方式の中で担当教員の方々が結構自由教育的発送あり、それに惹かれてこうなったのですが、養護学校なんかの教育方針はやはりオールマイティを求めているのか気になっています。

案外、養護学校の方が期待感が少ない分、自由教育が行われていたのかもとも思う。

そして、僕の場合は大学卒業時の就職活動の時に就職に必要だからと「障碍者手帳」を貰い、「障碍者」にさせられました。つまりは教育がいくら自由教育であったとしても働く環境が画一的ならば個性を伸ばす社会にはなり得ませんね。

だから、僕はドロップアウトして知人の紹介でアルバイト暮らしを始め、今でいうフリーターになったのですが。

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オルフェ

ジャン・コクトーオルフェ』(1949年作品)


きみを知る前の人生を忘れてしまいたい。ぼくはきみから始まり、きみで終わる。きみがすべて…

ジャン・コクトー 著『ジャン・マレーへの手紙

生まれるまでに私は24年間生きた

ジャン・マレー 著『私のジャン・コクトー- 想像を絶する詩人の肖像

パトロンというより共生的なジャン・コクトーとジャン・マレーの『オルフェ』を観直し、裁きに屈せず自己犠牲に生きるラストはやはり感動的。そして、いろいろ調べていると「松岡正剛の千夜千冊『白書』ジャン・コクトー」を見つけました。

ジャン・コクトーの生き方、生き様がよく判ると思いますし、誰がゲイで誰がヘテロなのかなんていう週刊誌的思考などどうでもよくなってくる。

2003年は暮れようとしているが、ジャン・コクトーのペニスの雄叫びはいまなお、まったく収まってはいない。では、ぼくが一番好きなコクトーの言葉を書いておく。「私は人々がオリジナリティーにこだわることが大嫌いなだけなのである。」

このページの最後に書かれている言葉、気に入りました。

社会に合わすか、それとも自分を活かすか。自分を活かすにはその戦略は。

ルイス・ブニュエル「自分が嫌でなければ何をやってもいい」と合わせ、考えているのですが。

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わたしを断罪せよ

岡林信康「それで自由になったのかい」


あんたの云っている自由なんて ブタ箱の中の自由さ
俺たちが欲しいのは
ブタ箱の中で より良い生活なんかじゃないさ

岡林信康「それで自由になったのかい」アルバム『わたしを断罪せよ』(1969年作品)より

日本の障碍者解放運動もここから始まったと記憶しています。

コクトーが指摘したのもこの点でしょう。だから、「私は人々がオリジナリティーにこだわることが大嫌いなだけなのである。」なのだと。

私達の発想の中には一人で頑張る「自助努力」が染みついているのかも知れません。志同じくする人々が社会の中でムーブメント作る発想がない。組織を作っても社会のコピーで組織員を管理したがる。石川准さんのこだわる「管理される心」なのです。

コクトーが生きたフランス芸術の世界にはムーブメントがあった。そして、以前書いたブラジル・トロピカリアもムーブメントなのです。

コカコーラを飲むように世界を飲み干す

アメリカ文化に依存し、仲間内で出る杭を打つのではなく、
アメリカ文化を消化して、国際人としてのムーブメントを立ち上げる。

現状がこうだからでは、時代に押し流されるだけ。時代は変わるもの。変えていくムーブメントを作りませんか、といいたいのです。ムーブメントは一人では出来得ませんからね。

それとも「魔女狩り」を容認し、共食い社会を維持しようとあがきますか?障碍者がムーブメントとなる要因は今、数多く出揃いました。後は「戦略」だと思うのですが。

帆を立て 張りつめた矢を運ぶ
波間を漕ぎ
詩を詠み 確かな支柱を視野に
祈りをやめよう

カエターノ・ヴェローゾ「ゼラ・ア・ヘーザ」アルバム『ノイチス・ド・ノルチ 北の熱い夜』(2000年作品)より

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狂い咲き

岡林信康「くそくらえ節」


夕方のニュース番組の特集でサリン事件の追跡調査、国も都も行っておらず、米国で追跡調査がまとめられているのになんで日本は作らないのかと言われているそうですね。

さっすが国民総玉砕ニッポン、銭にならん追跡調査なんて無駄ですよね。危機管理なんかくそくらえ?

なんで無駄金つかってガイド71なんて作ったの?見栄でしょうか?(笑)

岡林「狂い咲き」聞き始め、ちょっとハイテンション

ある日政治家シェンシェイが新聞記者に発表した
正義と自由を守るため、戦争をしなくちゃならないと
ウソこくな!この野郎。こきやがったなこの野郎。
おまはん等がもけるためにわてらを殺すのけ

岡林信康「くそくらえ節」アルバム『狂い咲き』(1971年作品)より

35年経っても言う事同じって、なめてんのね。(笑)

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混血こそ文化

参加メーリングリストで「民族」をどう捉えるかを教えて頂いたのだけど、「白」「黒」「黄色」という色の政治性、人種の色分け、確かにそうですけれども、インド人は白人が黒くなったという説もありますし、イタリア人は黒人という話も聴いた事があります。また、新大陸のインディアン、インディオは黄色。新大陸発見は黄色なのです。

色の政治性もご都合主義的に読まれている感もあり、一番大事な「ラテンアメリカの白人、黒人、インディオ(黄色人種)の混血が多数を占めていたため、混血文化が生まれた」を見落とす可能性もありえませんかね。

いろんな色がいて、混血していったから今の文化があります。ブラジル、インドネシア、ナイジェリアは人種のるつぼであったがために多様なポップスが生まれた。

反面、ゲルマンのクラシック、北米ポップスは単一の優位性を維持しようとしつつ、他の民族の音階、リズムを取り入れなければ維持できなかった。

混血ありきから色の批判があるべきで色の批判のみ話題にすると「日本単一民族説」にはまるように思います。

けど、モンゴリアンって民族より思想で分断されやすいの何でだろう?

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岡林信康「私たちの望むものは」

障害者の問題は日本という社会の問題でもあるんですよね。70年安保時の連合赤軍の内部崩壊。いわゆるセクト主義。島国根性。

国の方はこれを国民性と読みとったのか、様々な問題を分断し、それぞれの解決策を提示していった訳です。

だから、日本という社会の問題が全く棚上げされてしまった。今は5人に一人が高齢者。これがますます比率が高くなる。棚上げしたつけがこれから始まる。

障害者の中にもおそらく似たような問題が出てきていないのかな?高齢云々以外でも。多様化する障碍のフォローアップもそうかも知れない。

ビジョンなくしてそろばん勘定だけの対応を国がやり続けると恐らくそのつけは弱者、貧者に回ってくる。

島国根性は同質性であると共に「井の中の蛙大海を知らず」でもあり、世界の孤児になる可能性もある。

中国の好景気で国内総生産(GDP)があがったと喜んでいないで、足固めして貰いたいものです。

ガイド71に託されたビジネスのあり方は世界で如何に活用しようか考えられているのに、提案国がバブル期の気持ちを抜け出せずに企業有利の発想しか持っていないところに問題があると思う。

障害者を抱える団体も団体有利だけだとセクト闘争を再現するでしょう。「バカと一緒に活動したくない」ノーマライゼーションが語られた80年代、そのような声が聞かれましたよ。

混血こそ文化。「書を捨てて街へ出よう」初心を思い出して下さい。

国民は70年代よりは「ブタ箱」の居心地の悪さ、判り始めていると思います。こびる事なき差異を認めさせる共生。「共用」の文化、単純に言えば不便さの工夫を文化として持つ障碍者の提案が望まれているのではないでしょうか?

私たちの望むものは 生きる苦しみではなく
私たちの望むものは 生きる喜びなのだ

私たちの望むものは 社会のための私ではなく
私たちの望むものは 私たちのための社会なのだ

私たちの望むものは 与えられることではなく
私たちの望むものは 奪い取ることなのだ

私たちの望むものは あなたを殺すことではなく
私たちの望むものは あなたと生きることなのだ

今ある不幸に留まってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ

私たちの望むものは くりかえすことではなく
私たちの望むものは たえず変わってゆくことなのだ

私たちの望むものは 決して私たちではなく
私たちの望むものは 私であり続けることなのだ

今ある不幸に留まってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ

私たちの望むものは 生きる喜びではなく
私たちの望むものは 生きる苦しみなのだ

私たちの望むものは あなたと生きることではなく
私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ

岡林信康「私たちの望むものは」アルバム『狂い咲き』(1971年作品)より

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生きている価値

「出来なくても生きられる」生き方は商品価値がないのでしょうかね。

出来る人の対価、所得保障された人の対価が絶対なのかでしょうか。
働きたいという意欲は誉められる事なのでしょうか?
働く事に条件多い環境の方が問題なのではないでしょうか?

「生きている事」が価値だと思うんですけど、どうなんでしょう?
不便さの工夫を文化として生きている人々に価値を見いだせない社会は不便さを見失った社会とも思えるのですがね。

先日ニュースでやっていましたが「何でもサリンにせいにするな」といわれている被害者の方の話、軽度障碍の見えないつらさは賃金制度の過酷さと思うのですがね。

神様にお願いしたい ただひとつ
未来も わたしのものにしてください
幻滅に逃げることのないように
他の文明に生きなくてもすむように

アルゼンチン/レオン・ヒエコ 「ただ神に願うことは」より

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わたしを断罪せよ

岡林信康「山谷ブルース」


人間は弱いもの。弱いから社会を作ったのに、個々人に強さを求めてしまうようになった。強くなれない分、障碍者は人間なのかも。

「欲」「うぬぼれ」「ねたみ」「そしり」
社会がそれらを鎮める役目を果たさず、助長させる役目になっているから、今、国際的に社会の無価値化が考えられるのだと思います。パンドラの箱の如く、個々人の中に封印された「愛」を導き出すのは個々人の努力なんでしょう。

今日の仕事は辛かった あとは焼酎あおるだけ

岡林信康「山谷ブルース」アルバム『わたしを断罪せよ』(1969年作品)より

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徒然なるままに : 過去記事 2004-02-02 掲載 2004-02-21加筆
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