2003-05-28(水)
ミヒャエル・エンデ『モモ』(1973年作品)の有名なセリフ。
高校時代かつあげをし、粋がっている奴に付き合う気弱な奴。
粋がっている奴は何処までも粋がり、気弱な奴は何処までも気弱。
大人となり、それぞれの道を歩むけれども行き着く先は惨め。
実生活での北野武がやっている不器用人間に活躍の場を与える「救い」が欲しい。
聾唖の恋人たちの映画『あの夏、いちばん静かな海』(1991年作品)に抱いたいらだちと同じいらだちがある。
俺たち、どう生きていきゃいいんだ!
何か北野武自身がもがいているようにも取れる。
そこがヨーロッパで北野武が支持される由縁なのかも知れない。
何故か泣けてきた。
『サイクリスト』(1989年作品)『カンダハール』(2001年作品)のモフセン・マフマルバフ監督と偽り通した実在の男の裁判劇。
数日間自転車を乗り続ける事が出来れば、病床の妻の治療費を稼げる。その賭けにのったアフガン難民の男の話『サイクリスト』が繰り返し出てきて、裁判中、庶民の願いを賭けにする社会が悪いと彼は言う。
私はマフマルバフ監督を尊敬し、
一時、マフマルバフ監督になりたかった。
マフマルバフ監督だと信じられる自分が嬉しかった
就職難で庶民に「自信」も「希望」もない今、つかの間、自分の尊敬する人になりたい。詐欺未遂で訴えられた彼は淡々と語っていく。
刑を終え、マフマルバフ監督自身、出所に立ち会った時、彼は大泣きする。そして、被害者宅の元へ。
ささやかな虚偽。ささやかな見栄。
悪ガキの話『トラベラー』(1974年作品)の事も彼は語っている。
授業もロクに聴かず、サッカーに夢中になる少年が写真を写す振りをして、人を騙し、金を貯め、テヘランにサッカーを見に行く。並んでもチケットは手に入らず、ダフ屋に高いチケットを買わされる。やっと入ったけれども試合時間まで時間あり、テヘラン市内を見て歩くうちに疲れ、寝てしまう。気がつき、戻るとサッカーは終わっている。
全部自分が悪く、要領悪いけれどもそれが何でいけないんだ?
『クローズ・アップ』の男の問い。
出来の悪いのを個人の責任にし、「頑張る事」が正しい事と考えていないだろうか?
忙しさにかまけて、人と人とのふれあいがおろそかになっていないだろうか?
人と人とのふれあいが機械的になっていないだろうか?
「間引かれる子の目印 気付かれる場所にはない」
中島みゆきさん「吹雪」[アルバム『グッバイガール』(1988年作品)収録]の一節が思い起こされる。
"時間"どろぼうは"幸せ"泥棒