From 2003-06-02(月)
To 2003-06-09(月)
数年前に患ったヘルニアと肩こりが少し辛い。
イラン、アッバス・キアロスタミ監督のジグザグ3部作、見終えたのでまとめて。
前述『ホームワーク』(1989年作品)が何故出来たか判るような作品。
「始めてのお使い」風に子供の冒険譜を記録していますが、学校と家庭の認識のずれがすべて子供に重荷を背負わせるという話。
先日5月29日のニュース「教諭に注意され飛び降りか 千葉で小5女児重傷」もそうだけれども、タイトルのきっかけになったのも教師のきつい叱り方。ビデオを見ていて、先の事件で教師が小5女児に浴びせかけたセリフ、「おまえが一番嫌いだ」と言いたくなった。
それぞれの家庭の事情を考慮しつつ、学校というものがあって欲しい。
前作『友だちのうちはどこ?』のロケ地イラン北部大地震後、出演者の安否を知るために作った映画
こちらの思惑を見事破られ、主役の可愛い男の姿は拝めず。
恐らくはそんな見方しちゃあいかんと言っているんですね。
「死んだ人は死んだ人」
「アンテナついたから、今晩はWカップの試合が観られるぞ!」
「Wカップは4年に一度。地震は40年に一度」「地震の翌日、結婚しました。
親戚に知らせたら喪が明けるまで許されませんから」
何があろうと何が起ころうと生きなきゃ駄目!楽しまなきゃ駄目!
地震5日後の災害地で生きている連中達のたくましく生きる模様が映し出されている。
前作『そして人生はつづく』の裏話。
「地震の翌日、結婚しました。
親戚に知らせたら喪が明けるまで許されませんから」
こう語った新婚さんは実は一途で不器用な愛を告白し続ける男と返答しかねる女の関係だったとか。
そして、撮影現場には『友だちのうちはどこ?』の可愛い兄弟が見に来ていたとか。
こんな服、今の娘は着ないという服を着せられ、死んだ人の数も誇張される虚構。
無断での結婚など許されないどころか「家なし、学なし」は結婚相手とすら認められない現実。
虚構と現実が混ざり合い、
伝えたい情報を効果的に伝えるための虚構と変えていかなければならない現実。
要は如何にデフォルメさせ、現実を伝えるべきなのか。
これはG.ガルシア・マルケスの「ノンフィクション」は「フィクション」と相通じる。
そして、映画は終わり、現実は続く。
果たしてあの男は恋を本当に成就したのかどうか。
現実と虚構の違いを見極めるアッバス・キアロスタミの手法はあざといとも受け取られかねなく、それが映画だとも言えなくない。
この後、『桜桃の味』(1997年作品)『風の吹くまま』(1999年作品)と続くのだけれどもジグザグ3部作の間に作られた『クローズ・アップ』(1990年作品)の方に僕は引かれます。
ジグザグ3部作の後に映画鑑賞歴ブランク埋めでやっとみました。
いいねぇ。
自分のやりたい事を人に押しつけたって、うまくはいかない。
自分のやりたい事は自分でしなければ駄目!
死ぬかも知れないその人の願望を成就させられ得るか、この難題もとても重い。
「リングに上がればどっちも死ぬかも知れないんじゃ」
原田芳雄のこのセリフ、ハンディあるなしなんか関係ない。
そいつがやりたい事をさせればいい。そう僕は受け取りました。
このドラマ、脚本の粗さ(話のぶつ切り、話の飛躍)は気になりますが、知的障碍の方を取り巻く環境は的確に描かれてます。引き取る作業所、これが現実ですね。
知っていた作業所でも年金横領もあり、補助政策におんぶにだっこの末、そのお金の当てがなくなり、自殺した経営者がいました。
別な作業所では仕置きは当たり前のこと。
以前の新聞記事にも「労働?訓練?」見解食い違いで放置。
老舗授産施設にて障害者が訓練の名の下に低賃金でこき使われている。
一昔前、知的障碍者通所施設の建設で地域住民エゴが本音「地価が下がる」建前「知的障碍が危険」で住民運動もなされましたし。(HBCテレビドキュメント『狼がやってくる?』1984年作品)
そして、ドラマを見て感じた事。
知的障碍の裁判所での発言価値って無効とされるのですか?
禁治産者と同じ扱いなのかな?
これが法文化されているのならば、知的障碍者の人格権は尊重されないわけですよね。
中島みゆきさんの主題歌『命の別名』
(アルバム『わたしの子供になりなさい』(1998年作品)収録)
「命に付く名前を「心」と呼ぶ」
司法に命はあるのだろうかと思ってしまうし、そして、日本って鎖国してましたっけ?と言いたくなる。
世界の“知的障碍”に対する価値基準が、学習障碍など広範囲を差し、それゆえ“知的障碍”のボーダーは定義できないとされており、パラリンピックでも“知的障碍”としての種目はなくなったし、全障協提供のテレビ番組で「イギリスの知的障碍者雇用」の 知的障碍者によるレストラン経営というドキュメントがだいぶ前、放映されてもいましたが。
もし今、世界の“知的障碍”に対する価値基準が、日本で適用されたならば、とんでもない読み替えなされるでしょう。
「水戸事件とは」での
「こいつらは国が認めたバカだ」
強行採決するしか能のない国会議員のずるがしこい先生方に読ませてあげたい。「国が認めたバカ」は世界では「人権侵害」と言うはずですけれど。
それとも、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督『ソドムの市』(1975年作品)にあこがれてるのかな?殺さずにいたぶり続ける事。
繰り返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも中島みゆき『命の別名』より
(アルバム『わたしの子供になりなさい』(1998年作品)収録)
そんな憤慨している折、『えんとこ』(1999年作品)のいせフィルムから『ぴぐれっと』(2002年作品)北海道の上映会のお知らせが届きました。
- 2003年6月22日(日) 北海道・北広島市 北広島市芸術文化ホール
- 13:30〜 監督講演有
- 北広島市図書館フィールドネット運営委員会
- 問合せ先 北広島図書館
- tel 011-373-7667 fax 011-373-6664
日曜か。。有休とって行こうかな。
イラン・イラク国境付近で黒板背負い「教え売り」する教師達。
国境を不法に行き来するクルド難民達にとって「教育」は必要なのかどうか。
大きな荷物を背負い、国境警備の銃撃に右往左往する人達にとって、教師達はただ邪魔なだけ。
“私は貴女を愛しています”とブラックボードに書く一教師。
アッバス・キアロスタミが一貫した庶民派の視点があるのに対し、『サイクリスト』(1989年作品)『カンダハール』(2001年作品)のモフセン・マフマルバフとその娘サミラ・マフマルバフの視点はどうも単なる社会派に思えてくる。クルド難民達、アフガン難民側の気持ちを知り得ているのか、はなはだ疑問。
まぁ、クルド難民達、アフガン難民側の作り手が現れ得ぬ現状しては代弁者としての意義は大きいのかも知れないけれども、『クローズ・アップ』(1990年作品)『そして人生は続く』を撮っていた頃のアッバス・キアロスタミの虚実入り乱れた作法での代弁者の立場に共感してしまう。難民当事者から作り手が現れたとしてもその人はエリートであり、代弁者であるのだし。
虚像で自分の考えを、実像で現実を。その混ざり具合が判らなくなり、何が『虚』で何が『実』なのか、観る者に錯乱与えるカタリズム。
教師に教えを請い、銃撃に合い、死ぬ子供。
クルド難民達、アフガン難民の『現実』は永遠に霧に包まれるのだろう。
“私は貴女を愛しています”と書かれたブラックボードを背負わされたまま。
おそらくはマフマルバフ親子の視点はそれに気付いているのだろうが、難民側の問題ではなく、我々を取り巻く社会にこそ、問題があるのだと思う。
再度、手元に残っているビデオを観ました。
単純に言えない事柄が描かれてます。
住民に対し「愛」を説く行政。「村八分」をほのめかす町内会長老。
「福祉」はどろどろしたものであり、はいずり回らなければならないものと語る福祉関係者。
ノーマーラゼーションが語られた時代、全国規模で「愛」を説く行政が結局「強行処置」に踏み切り、施設と地域住民を対立させる構図。
バカと一緒に活動できるか。気違いと一緒に活動できるか。障碍者組織間の差別意識。
薄ら寒い日本社会の福祉政策が果たして20年を経た今、何が変わったのか考えさせられます。
追記、追記で長くなりました。閑話休題。
僕も辛いといってばかり言っておらず、まずは筋トレ始めます。
マッサージ・チェアはやりすぎると不随運動と同じになってしまい、逆に凝りを誘発するらしいし、マッサージ師による指圧もその人の揉み癖がつくらしく、結局は通う羽目になるらしい。やはり、一番いいのは自分自身による健康管理だとかいいますから。
そして、現実は続くのだし。