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ECサイトのお勧め商品カタログ|映画好きのBS/CSガイド

歓喜の歌

From 2004-12-01(水)
To 2004-12-30(木)

『おお、友よ。このような音ではない!』
シラーの頌歌「歓喜に寄す」より

Bank Band『沿志奏逢』(そうしそうあい)

Mr.Childrenの桜井和寿さん、音楽プロデューサーの小林武史さん、そして音楽家の坂本龍一さんが設立したap bank。その運営資金を「稼ぐ」ための商品アルバムは中島みゆき「僕たちの将来」[アルバム『はじめまして』(1984年作品収録)]から始まる。

僕は見知らぬ海の向こうの話よりも
この切れないステーキに腹を立てる

人間は遠方に行く事があっても、その生活範囲はおそらく半径10キロ程度でしょう。そんな限られた生活レベルから自然エネルギー、省エネルギー、環境に関するプロジェクトを考えたいとするコンセプトはあるべき動きと思う。

限りないもの それが欲望
流れ行くもの それも欲望
終わりないもの それも欲望

井上陽水「限りない欲望」
[アルバム『断絶』(1972年作品収録)]

11曲のカバーの最後、「歓喜の歌」の遠藤賢司の替え歌が歌われ、そのコンセプトは方向付けられる。

全ての生物は僕らを噛み砕かんと
復讐の眼を光らせ心中をせまる
天地は僕らを同化せんものと
大気は僕らをおしつつまんとす

優しきものほど怒りは大きいもの
その怒りがひとつの優しさも
消し去った時にはもう終わり
さあ今こそ歌おう歓喜の歌を

遠藤賢司「歓喜の歌」
[アルバム『歓喜の歌』(1973年作品収録)

カバーの一曲、このアルバムの機軸となった曲。中島みゆき「糸」。オリジナルは知的障碍に対する虐待を取り上げたテレビドラマ『聖者の行進』(1998年作品)主題歌。

こんな糸が なんになるの
心許なく ふるえた風の中

縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます

中島みゆき「糸」
[アルバム『EAST ASIA』(1992年作品収録)]

「『命のお値段』は確かにあり、努力しても報われない不条理も確かにある。」新聞のコラムにこんな事が書かれていたけれども、それをもっとも忌み嫌うのは組織社会のお偉方ではないだろうか。

忌み嫌う事を言い続ける事、それが生きる価値であり、お偉方の『命のお値段』を算定する自由がもっとあっていいのじゃないか。

「情報は民主主義の通貨である」米国の消費者運動家ラルフ・ネーダーは言ったとか。

英才教育で「勝ち残る」事がすべてとなった資本主義に埋没させられた民主主義を見直す動きが静かに胎動しているような気がするのですが。

IT産業がうさんくさく見えるのは「情報」がうさんくさい価値しか持たないからではないか。

新聞のコラムに書かれていたこの言葉が今の僕の「お気に入り」でもあります。

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What a Wonderful World

ルイ・アームストロングWhat a Wonderful World(この素晴らしき世界に)」(1968年作品)


アクセスログを見ていて、「What a Wonderful World 歌詞」で訪れる方が多く、世界の音楽をまとめた「What a Wonderful World」に対訳を載せてみました。

残念ながら、対訳にある語りの入った「What a Wonderful World(この素晴らしき世界に)」のアルバムは入手困難のようですが。

ルイ・アームストロングは黒人民権運動に組しなかった人で、白人びいきとも揶揄された人ですが、晩年、「What a Wonderful World(この素晴らしき世界に)」やビートルズのカバー、ディズニー・ソングを歌った事は静かな黒人民権運動なのかも知れません。

先日の新聞コラム『「団塊の世代」って何』。団塊の世代が定年を迎え始める「2007年問題」労働人口、年金、福祉が深刻になるという話から「世代論」で語ると社会全体不安神経症に陥るだけ。個々人、好きに生きていいのじゃないかという提案を記したものなのですが、その中に長田弘さんの『一日の終わりの詩集』の引用があり、そうかもねと思ったりもしています。

こんにちは、と言う。
ありがとう、と言う。
結局、人生で言えることはそれだけだ

けれども、社会、組織を組む人はこれではいけないのだろうとも思う。

毛利元就の「三本の矢」の喩えではないけど、知恵を寄せ集めてこそ、社会、組織。まして、国際競争で打ち勝とうとする企業体が人件費を節約するのは自殺行為でしょう。国際競争で打ち勝ったとしても、喜び分かち合う同胞をなくす事になるだろうし、そのためには「下働き」を求めるシステムではなく、個々の知恵を汲み上げるシステムが大切なんだろうとも思う。

先日、やっと観た自己挑戦映画、リュック・ベッソン監督『グラン・ブルー -オリジナル・ヴァージョン-』。この中に描かれる日本企業は意気込みが先立ち、試合に臨む前にくたばってしまう。世界は日本企業のもろさを見抜いているなぁと苦笑しもしましたし、もっと「What a Wonderful World」「この素晴らしき世界に」という意識があってもいいとも思う。人員を合理化し、勝ち抜くのが素晴らしいと思っていませんかね。合理化しても自分(自然)には勝てず、富ある社会など望めないし、「下働き」ですむ事をさせるためにコンピューター技術が開発されたのだから。もっと「人間らしさ」をこの国は知るべきでしょう。

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春夏秋冬そして春

キム・ギドク春夏秋冬そして春』(2003年作品)


謝れば済むらしい道警さん公金使い込みやら、おそらくは「2007年問題」対策であろう集金システムの強化なのに使い道を明確にしない所得減税撤廃など、エリートさんたちのやる事はわかんねぇーなぁというこの頃、日本列島地質活性化期の揺れる大地の上、『ウルトラマン』のおっさん、実相寺昭雄監督の観念3部作など観てまして、『ウルトラQ』のエロス版といった感じで面白く、『無常』(1970年作品)『哥(うた)』(1972年作品)の禅問答になるほどと思ったりしています。

「地獄絵は種々多彩であるのに、極楽絵には迫力がない。快楽は地獄に潜む欲を満たす瞬間のエクスタシーであって極楽には事後の“無”しかない」
「その“無”とは“涅槃”という時間も空間も無い停止した絶対の快楽だ!」
「意識も無いのに快楽か?」
無常』より

「『形』が残れば、『魂』は蘇る。」
「『魂』なぞ死滅したのさ。」
「それではなぜ死なない」
哥(うた)』より

曼陀羅』(1971年作品)はアジ論争のディスカッションが強すぎ、少しきつかったけど、
「『愛』ではなく、『仁』」
日本の原風景を求めると日本人のアメリカナイズがよく見えてくる。

そんな折り、韓国映画の奇才、キム・ギドク監督春夏秋冬そして春』を観てきました。

人生を四季にたとえ、描いた映画、「老いは富」と実感出来ました。幼年期に流れる「般若心経」模した歌、「チョンソン・アリラン」の絶唱が流れる冬の場面。人生、輪廻転生。それぞれあがき、それぞれ悟ればいいのでしょうね。

日本せまいぞ ラリパッパ
タンナラリラヤ ラリパッパ

長谷川きよし心ノ中ノ日本(心中日本)」より

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砂の本

ボルヘス『恥辱の世界史 不作法な式部官 吉良上野介 』


桜散る庭 内匠頭 自害され
雪の降る夜 内蔵助 本懐遂げる

お馴染み「忠臣蔵」をアルゼンチンの名士、ボルヘスがその著作『恥辱の世界史』(『砂の本』収録)に「不作法な式部官 吉良上野介」として書き記しているのはよく知られたところ。

奇妙にねじくれた博愛主義、黒人を救い出し、よそに売りつける「恐怖の救世主」海難で死んだ息子になりすまし、親孝行し、財産を頂く「真と思えぬ山師」金品得るためなら手段選ばぬ「女海賊」シカゴ・ギャングのプライド争い「不正調達者」殺人のための殺人を繰り返したビリー・ザ・キッド「動機なき殺人者」イスラムの忌むべき邪説を流した覆面の予言者「仮面の染物師」

歴史に残る悪党たちの中に吉良上野介は語られる。とはいえ、吉良上野介の無礼極まる行動を云々するのではなく、内匠頭の怒り、内蔵助の味方も欺く見せかけの醜態を誉め讃え、末尾はこう結ばれている。

これが四十七士の物語の結末である。・・・とはいえこれには真の終わりはない。なぜなら、自らはおそらく忠義ではないが、今後もその望みをまったく捨て去るわけでもないわれわれ凡夫が、言葉で彼らを讃え継ぎ続けるであろうからだ。

大衆文化として種々の逸話が添えられた「忠臣蔵」もいつしか「愛社精神」に読み替えられ、その事自体が『恥辱の世界史』に値するとも思われるのだけれど、中国の「梁山泊」日本の「忠臣蔵」。モンゴリアン文化の王道は庶民にある事を思い返したいもの。

「年金など50%もいらない」
「たかが選手」
「私に聞かれても判るわけがない」

敗戦から夜なべして築き上げ国民公平所得実現と引き替えの水俣、イタイイタイ病、ぜんそく、光化学スモッグ、戦後25年記念の公害乱立時代、横の結束を求め、脳性麻痺青い芝、成田三里塚も動いたけれども「列島改造論」で押しつぶし、辿り着いたは家計に恩恵なし、投資が沸き返ったバブル景気。

豊かさ知らない国の桃源郷探しは地獄巡りにもなりかねない。先人が守り抜こうとした心の豊かさは海外で再生されるだけなんて、寂しくありませんかね。自称「愛国者」の皆様方。

もっとも、死後の世界を信じる仏教と死後の世界を信じない儒教、死生観の異なる双方をどちらも取り込み、ごちゃ混ぜにした国だから、原風景なんて判るはずないですがね。(笑)

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ベートーヴェン交響曲第9「合唱」

フルトヴェングラー-ベートーヴェン交響曲第9「合唱」


ベートーヴェン交響曲第9「合唱」をもっとも感動的に指揮した指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

ベートーヴェンはフランス革命とは無縁の自由主義弾圧の地、ウィーンでこの曲を作曲し、検閲が厳しく、自由を求める詩を用いることは許されない状況であったため、すでに古典となったシラーの詩を歌詞に使用したとされている。

地にひざまずいたか!諸人よ!
創造主の存在に気付いたか!世界よ!

自由を希求する歌であり、「おめでたい」歌とは意味合いが違い、反ユダヤ的思想の持ち主ヴァーグナーの指揮によってその真価をはじめて明らかにされた。

ナチスが台頭し、ドイツに住む芸術家たちは亡命したが、フルトヴェングラーはドイツに留まり、音楽活動を続け、VIP待遇の特権を活かして、ナチスの政策非難をし、政府高官と交渉しては、多くのユダヤ人を強制収容所から救出したり、その国外亡命を助けたりした。けれども、外国からみれば、彼もまたナチスの文化政策の一枚看板であり、ナチスに都合よく利用された人でもある。

ナチス政権下の音楽会でのベートーヴェン交響曲第3「英雄」の演奏、ヒトラー自殺のニュースで流されたヴァーグナー「ジークフリート葬送行進曲」

最近復刻された1942年4月19日、ヒトラー誕生日前日のベートーヴェン交響曲第9「合唱」の演奏では指揮終わり、興奮醒めやらぬフルトヴェングラーに客席より握手を求められ、それに応え、相手がゲッベルス宣伝大臣だと気付き、渋い顔をするという逸話も残り、その模様を捉えたニュース映像もDVDで観られるらしい

フルトヴェングラーは毎年ヒトラー誕生日前日の音楽会を仮病の診断書で避け続けていたけれど、この年は診断書を書いて貰えなく、渋々の演奏指揮をしたとか。

ドイツ敗戦後、彼は「戦犯」の扱いをうけ、「非ナチ化」が済むまでは演奏活動禁止の処分を受け、1947年、ベルリンで「歴史的復帰」を果たす。演目はベートーヴェン交響曲第5「運命」と交響曲第6「田園」それに「エグモント序曲」

戦時中、唯一の心の慰めであり支えであったフルトヴェングラーの演奏を聴きたく、ベルリンの市民たちは、戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。

ナチス政権下のベートーヴェン交響曲第9「合唱」は希求であり、戦後、歴史的名盤となるバイロイト音楽祭の「第9」はナチスのたまり場と化していたバイロイトでの「歓喜に寄す」なのでしょう。

厚い雲の切れ間から光が差し、やがて、光が覆い尽くす。この演奏の「歓喜に寄す」の始まりの箇所を言葉にすればこんな感じ。

地にひざまずいたか!諸人よ!
創造主の存在に気付いたか!世界よ!

演奏はピークに達し、めくるめくスピード感!
人に命を与えられたのではなく、自然に命を与えられた。
当たり前の道理が見えてくるでしょう。
与えられた命に糧を。
人の自由とは競い合う事ではなく、手を取り合う事なのだから。

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人間の約束

吉田喜重人間の約束』(1986年作品)


女である事を誇示しながらも失禁する寝たきりの祖母、あちこちで奇行繰り返す祖父。もてあまし気味な家族。

社会的地位もあり、喰うに困らぬ一家で祖母の変死が起こり、警察が介入してくる。

「祖父さんたちはもう人間じゃない、動物なんだから、一カ所にまとめて社会が「動物園」のように管理すりゃいいんだよ。」

合理的に考えたがる孫を殴りつける息子。しかし、現実と向き合えなく、かつての愛人のところへ入り浸る。

介護する嫁は入浴させた祖母が風呂に沈みかけるところを一度は助けようとするが、そのまま手を離す。自分では「殺したい」気持ちの方が強く、祖父に助けを求めてしまう

「私もあんな風になるのかなと思うとやりきれなくて。」

人間が決めた「人間の約束」を守り切れなくなった動物に我々は如何に対応すべきなのか。

「人間の約束」が強固な社会ほど、深刻な問題なのでしょう。

早くに実母を亡くした僕も母が年老いる姿を見なくて済んだと思う気持ちと、今、一緒に暮らす養母の「老い」と向き合わねばならないという気持ち、そして、自身の「老い」を誰に託すのだろうという不安。

核家族から個人化へ突き進むこの国ではもっと真剣に考えなきゃいけないよう思えてきます。

予算を組み、介護ヘルパーの充実で済むような問題ではないし、「人間の約束」で見失われた「人間の尊厳」を問い直すべきなのでしょう。

収支決算でははじき出せない「ゆとり」の問題のように。

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スーパー・サイズ・ミー

モーガン・スーパーロックスーパー・サイズ・ミー』(2004年作品)


「経済って、けっきょく金持ちとか大企業が大もうけするように出来ていて、政治もそいつらがもうかるように、いっしょうけんめいやってるんだろ?」

話題になっているらしいジョン・K・ガルブレイス著作のビジネス本『悪意なき欺瞞』も気にかかるのだけども、ファーストフードで腹ごしらえして、『スーパー・サイズ・ミー』観に行きました。

アメリカでファーストフード業界最大手の「マクドナルド」に「自分たちが肥満になったのはハンバーガーが原因」と訴え起こし、「大量に食べたのは本人の責任」と棄却された裁判のニュースを観た監督が本当に自己責任なのか、会社責任なのかを実証実験をする映画。

ルールは一日三食全てハンバーガー、一ヶ月間食べる事と、店員に「スーパー・サイズ」を勧められたら、断らない事。

映画は監督自らの人体実験と平行して、巨大ビジネスに成長した外食産業の政治、経済、教育面での影響力をさながらラップ風、あるいはゴダール風に並べ立てる。

外食産業が使う子供をターゲットにした広告宣伝費の桁外れさに比べて、健康的な栄養バランスを提唱するわずかな広告宣伝費とのギャップ。外食産業が不利益被らないための立法への介入、冷凍食品を給食に出し、手間を減らし、ブッシュ政権が提示した学力低下を防ぐための休み時間削減する詰め込み教育。

黙っていても体を動かさないから「ブタでバカなアメリカ国民」は出来上がる。

更にはアルコール中毒、麻薬中毒と同じく、マックメニューには脂肪や砂糖に習慣性、中毒性があり、監督も実験中盤、イライラして集中力がなくなり思考能力が落ちていき、マックメニューにありつくと解消される中毒症状を映し出す。

アメリカの肥満問題では胃の摘出手術の模様も映し出され、監督自身も体脂肪率は11パーセント増加、肝臓はフォアグラのように肥大し、コレステロール値は危険領域の225に突入し、ドクターストップがかけられる。

それでもなんとか完走し終えた監督の体調回復はその後、10ヶ月以上を要したとか。監督自身、「ベジタブル」は得てではなく、「ベジタブル」になれとはいわないけど、外食産業が栄養バランス、分量、添加物、食べ合わせの効能などに配慮した食の提供、サービスのあり方を考えなければ、消費者は病院行きか、墓場行きになりますぜ。こう締めくくる。

日本風に言えば、「食べ続けたら、死ぬでぇ」「よーく考えようぉ、体は大事だよぉ」とでもなるのでしょうか。(笑)

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短篇集

中島みゆき「帰省」


思うにユニバーサルデザインって無理する事ではなく、無理しない事なんじゃないかなと。無理しない方策、それは自然、ユニバーサルに沿った社会のあり方であり、それでも障壁ある場合はバリアフリー用具を活用出来る環境作り。

あくせくして権力得たところで自然の摂理に勝てるはずはなく、がんばる事で、逆に人間の生きる場所をなくしていっている。

忘れてはいけない事。それは自然の恩恵で活かされているという事。

先人は朝の目覚めが誕生であり、夜、床に着く時、明日の誕生を夢見ながら、眠りについたといいます。

遠い国の客には笑われるけれど
押し合わなけれりゃ街は 電車にも乗れない
まるで人のすべてが敵というように
肩を張り肘を張り 押しのけ合ってゆく

けれど年に2回 8月と1月
人ははにかんで道を譲る 故郷からの帰り
束の間 人を信じたら
もう半年がんばれる

中島みゆき「帰省」短篇集』(2000年作品)より

浅き夢見し。がんばる人は自然にあらがっているんじゃないかな。それに対する自然の仕打ちを僕はおそれます。

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徒然なるままに : 過去記事 2004-12-01 掲載 2004-12-30加筆
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