From 2005-02-17(木)
To 2005-04-11(月)
「私の血の中に走る宇宙の粒子は、天体の力の無限の世界だ。」
インカ帝国の二人の皇帝の名を芸名としたフォルクローレの巨人、アタウアルパ・ユパンキ。その著書の一冊『インディオの歌』を楽天フリマで見つけ、高値だったけど、購入。読み始めています。
自らの言葉によれば1900年頃「風」として生まれ、あとで人となり、「私はごろた石の生まれ」とも歌う事もあれば、晩年は「私はもともと木だった」と確信した御仁。
世の中、六曜記載は「人権配慮欠く」から迷信はなくすべきなる珍説がまかり通っているようで、太陽暦の7日周期の合理性の方が「人権配慮欠く」と考えようとはしないらしく、迷信とは「経済効果の妨げになる事」なのだろうなぁと思っています。
バイクで南米を旅し、貧民たちを見聞きし、反体制に目覚め、キューバ革命の後、地位に安住することなくアフリカ、ボリビアと渡り歩き、アメリカ特殊部隊の支援を受けた政権に殺されたチェ・ゲバラがファッションとして流行る昨今、カフェインで飢えと寒さを乗り切ったインディオたちを知らずにコーヒーをたしなむ我々。
迷信忘れた人々が「天体の力の無限の世界」にひれ伏す時を知るべきなのかなと。
相も変わらず、障碍者関連の施策は「保護されたフロンティア精神」を美徳とし、東京都は「公共」の迷惑行為の条例導入を検討し始め、「見て見ぬふり」の通報義務を押しつけるとか。ゲシュタポ精神復活というところでしょうか?
新たな迷信に翻弄される群衆。
日本人はいつからご都合主義なだけの損得勘定で発言するようになったのでしょうかね。一方で今年のサラリーマン川柳は自虐の悲鳴に満ちあふれているというのに。
何をやったったって自然は残ると思っている。自然は残るが人間は残らない事を「迷信」と共に忘れてる。
自然が与えた命を操る権利が社会にはあるのだろうかとユパンキは書で、歌で問いかけているのでしょう。活動を制御する「迷信」の復活が望まれるところだよね。
この世には神様よりももっと大切な物事がある
他人の暮らしをよくするために
血の唾を吐く人間を一人もいなくする事だ
つもる苦労と牝牛の群れが
同じひとつのわだちをたどる
つもる苦労は俺たちのもの
牝牛の群れは他人のもの
蓄えた金を自然の怒りに返納するような事を起こさないためにも分け合いたいもの。そして、生きる事の邪魔(バリア)をするな(フリー)。集金システムが分配システムに変貌する事が人間社会の延命策でしかないのだろうとも思ったりします。
イギリス紙が「北海道」を評した文句
連日のニッポン放送株のニュースにうんざりしていませんか?
昔、両親からご飯時、「お米はお百姓さんが汗水垂らし、作ったもの、粗末にしてはいけない」と教わったように、ニッポン放送株を巡るフジテレビとライブドアの争いは多くの人々からかき集めたお金を粗末に扱っているように思え、今の経済界のバーチャル・マネー、利子に対する見果てぬ野望の奥にそのバーチャル・マネーを生み出さなければならない今後の日本人の姿が見えるから不快感を感じているのかも知れないなぁと思っています。
原因が結果を生み、原因を作り出す。因果応報。
野次馬的に評する政財界、マスコミはその点を理解しているのだろうか?今の日本は「お金の公共性」に対する認識が薄いように思えます。
先日の新聞に「現代は半病人時代」健康に不安のない人の方が異常とか、現在、ベテラン教員が70%近く、若い教員はわずかで、来年からの団塊の世代定年で人材不足になるが、少子化のため、人件費は引き下げ、低賃金で過酷な聖職をする人はいるのか、将来的ビジョンはまだ示されず、といった記事。
寝に帰るだけの家庭が増えている一方、生活保護世帯も増え、職が見つからずにホームレスになる人たちも増えている。
この現実を知ってか知らずか、「京都議定書・家庭の取り組み」二酸化炭素排出削減で窓にビニールを張りましょう。
もっと地に足のついた相互扶助の社会、セーフティ・ネットの構築を真剣に考えて欲しいもの。
いま変わるべきは仕事中心の社会であり、個々人の技量を社会の枠に収めようとする日本社会は個々人の精神破綻を招くだけ。
物の豊かさに溺れ、自然の摂理を忘れた我々の将来が案じられます。
先日の吹雪の日、立ち聞きした市役所での職員の会話。
「もう一回雪祭り出来ますね。」と若い職員に「冗談じゃない」と上司と思われる人の返答。
素の言葉の自然さを実生活でも活かされればなぁと思ったのですが。
恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
そこに描けないものが 君たちを殺すだろう
間引かれる子の目印 気付かれる場所にはないどこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
どこにも残らぬ島なら 名前は言えない
かつて義太夫劇が舞台で再生したように、歌舞伎の名作の中から現代的な可能性を再検討して、映画のスクリーンで紹介するということは、私のように歌舞伎から映画に入った者の一人にとっては、一つの使命ではないかと思うのです。
市川雷蔵語録より
庶民芸をフィルムに刻み、生き急いだ市川雷蔵の映画祭が札幌でも行われ、観たかった作品、数本、観てきたのを風邪気味静養中にまとめて。
日本のルネサンスにこだわり続けた映画作家、増村保造と組んだ『好色一代男』(1961年作品)。
井原西鶴原作の骨格となる女性絶対主義、この世はおなごがいてこそ成り立っている。おなごを泣かす社会は悪い社会や。今の怪しげな男女平等より絶対的価値観である故に素晴らしい。それに引き替え、男女平等はスケベ根性丸見えにも思えてくる。『好色一代男』の絶対的価値観でもどうしてもスケベ根性は出てくるのだから。(笑)
同じく増村保造と組んだ有吉佐和子原作『華岡青洲の妻』(1967年作品)。
世界で初めて全身麻酔によるガン手術を行った華岡青洲。その麻酔薬の実用化のため、人体実験を志願する姑と妻の葛藤。妻は盲目になり、手術への功績で人々から賞賛されるが、妻は人前から身を隠す。女たちの確執を知りつつ、黙認し、麻酔開発に精根尽くした華岡青洲の姉妹たちはみなガンで命奪われた。責めも誉めも無意味な事。
綿密な時代考証で知られる巨匠溝口健二とただ一度組んだ『新・平家物語』(1955年作品)。
平安末期、公家が荘園で富を独り占めし、庶民を召し抱える武士、寺院が度重なる飢饉で年貢も取れず、食い扶持まで困る世の中。庶民の苦しみがダイレクトに社会を動かし得た時代。今風にいえば、市井の人々の生存権をどれだけ知るか産官学の甲斐性が世を変えた。これは喉元の熱さに身を震わせる吉川英治原作の清盛のお話。
そして、モダン作家市川崑と組んだ島崎藤村原作『破戒』(1962年作品)。
部落に生まれた事をひた隠し生きなければならない教員が「破戒告白」せねばならなくなる状況に追い込まれる。
「あなたを信じる方が周りにおいでになる。日本中に理解者は無数に存在する。普通に生きればよいのです。」
運動家である夫を失った細君から励まされ、彼は慕った運動家の意志を継ぐ。
市川雷蔵さんもおそらくは使命感に燃えて生きたのでしょう。37歳で直腸ガンにより死亡。無理をしたのか、自然に生きたのか。それは本人とて判らぬ事かも。判る事はそんな生き様があったという事。
輝く石が わたしに叫ぶ
もう降参しろ!....と
わたしが
わたし自身を 殺している間に
アタウアルパ・ユパンキ
『インディオの歌(風の歌)』より
肩こりから来る頸椎の圧迫感が何となくしんどい。
ご無沙汰しているインストラクターさんに相談のって欲しいところ。
君の行く道は 果てしなく遠い
だのに何故 歯を食いしばり
君は行くのか そんなにしてまで
[2006年9月13日書き改め]
日本の「貧困」に対する相対的尺度が稀薄となり、「格差」で片づけていいのかというようなシンポジウムの案内を紹介した新聞記事を目にした頃、『若者たち3部作』のDVD化発売を知った。
『若者たち3部作』は、開局間もないフジテレビが1970年前後の社会問題を一家族の家庭を通し、見据えたものの映画化で、劇団俳優座の総出演で作られたものの、公開当時、内容の地味さとその政治性に対し、映画メジャー各社から配給を断られ、市民団体が自主上映という形で各地上映、その主題歌も大ヒットしたといういわくつきの映画。
対立する長男(田中邦衛)と三男(山本圭)、ふたりのイデオロギーの対立で語られていた映画の背景も、テレビドラマ「ひとつ屋根の下」がこの映画を原型としたと知ったならば、「如何に生きるか」「如何に人と繋がるか」をイデオロギーとして捉えてしまう価値のナンセンスさを改めて感じ、人との繋がりを疎外して来たのだと思う。
1970年前後、日本は敗戦からの復興、高度経済成長と生活改善が図られていったけれども、庶民の働く時間は今では信じられないぐらいの長時間労働を強いられ、それと引き替えに豊かさを授かった時代。各地の公害問題も多発し、更なる経済成長、列島改造論か、日本らしさを取り戻すディスカバージャパンか揺れ動き、ドルショックとともに経済成長に向かったのはこの後の事。
映画の主役一家は戦中戦後と亡くなった親に変わり、兄弟を育てた土建業の長男。体力だけが自慢の運送業の次男。大学に行き、学生運動に参加する三男。原爆被害者を好きになる長女。大学受験に嫌気をさす末っ子四男と取り巻く人たちの物語。
長女に、原爆被害者の件で「カタワの子が生まれたら苦労するのはお前」と長男は反対するが、妹を思う三男は原爆被害者に関する書物を読みあさり、それに反論する。
「GHQは「原爆病」なんてあり得ないと宣言している。自分たちのやった事へのまやかしだろうけどね。GHQがいなくなった後、「ピカ」は感染する、子供はカタワが生まれるという噂が流れ、被爆者は孤立していった。カタワの子が生まれる確立は99%ないと言っていいし、そのような遺伝子を持った人たちはすでに亡くなられている。たとえ、カタワの子でなくたって、いつ、交通事故に遭うかも知れない。そんな世の中なんだよ。」
人間の価値が「損」「得」の金で換算されるような風潮が生まれ始め、人一倍苦労した長男は「金の大切さ」「学歴の大切さ」を日々口にする。それと相対する三男。
「金より人間が大切だろう。こんな紙切れに振り回されるなよ。」
「母さんが死ぬ時、欲しいといった金と兄ちゃんの欲しいと言う金は違うだろう。」
生きるための金を忘れ、金で将来を買えると信じる人々はおそらく今も同じ。
映画は二部、三部に進むに連れ、暮らしが豊かになっていく兄弟たちと社会問題のギャップを映し出し、「家族」の個別化が進んでいく様子を映し出す。
今、「ワーキング・プア」と呼ばれる働けど楽にならない若者たち、年間3万人強の中高年者の自殺はおそらくはこの映画のように、それぞれが悩み苦しんでいるのかも知れない。「首根っこ押さえられて、どうすりゃいいのかわかんない」映画で次男がぼやいた言葉すら表に出せなく、屈折し、はき出しているのだろう。
転ぶ事をおそれ、老いてなお、「如何に人と繋がるか」という過去のあがきを忘れてしまった昔の「若者たち」が目を覚まさない限り、今の「若者たち」の転んだ苦悩は広がるのだろう。
人間は弱いもの、弱いから争い、弱いから探り合い、弱いから殺し合う。それでは獣たちと同じで人間ではない。
転ぶ事と向き合わなくなった現代、「貧困」の価値は見失われ、この映画にあった「如何に人と繋がるか」の論争はなされなくなり、「幸せ防衛」のバッシングが流行る。
荒れ狂う学生運動、公害問題はなくなった代わりに、弱者虐待、環境温暖化が顕著になった現代。
あの頃と今と変わったのは便利な機械が増えただけで、悩める人間は何も変わっていないのだろうと。
道は嘆く
人々を遠く隔てる罪のさがを
アタウアルパ・ユパンキ
『インディオの道』(ゴールドパックBEST[初期録音集]収録)
憲法改正の改憲論が進んでいるらしい。
「国土を守る」ならば環境に配慮する行政・企業規制をすべきだろうし、
「国民を守る」ならばセーフティネットの整備し、「産めよ、増やせよ」を唱えるべきだろう。
敵を知らずして闇雲に闘わせ、負けた日本魂の継承ならば自ずと先は見えている。「世界一」になって何をしたいか判らぬほどの愚考はなく、社会貢献として文化事業に取り組む世界の常識をも利害でしか読めないならば、改憲論も絵に描いた餅。
敵は我なり。人々は自然と同じくなすがままに変わり、あるがままにあるという事を肝に銘じて欲しいもの。
「国を愛する心」は「国民総玉砕」ではない。
自由になりたくて孤独になりたくない
放っておいてほしい 見捨てないでほしい
望みはすばしこく何処へでも毒をまく
やがて自分の飲む水とも知らないで
だれにも置き去りにされたくはない
だれをも置き去りにさせたくはない
我が身可愛いと心は揺れる
あてにならぬ地図を持ち ただ立ちすくんでいる中島みゆき「風にならないか」より
[アルバム『LOVE OR NOTHING』(1994年作品)収録]
唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世
うすまさ変わたるくぬウチナー
次ぬ世や何世やが何世やが
ひるましむん ブチゲー治しぬサーター湯
ぬーがぬーやらむる判らん
ぬーがぬーやらむる判らん照屋林助「むる判らん」
『沖縄漫談 平成ワタブーショウ』より
大阪生まれの沖縄人。生涯、自由をこよなく愛し、戦後混乱期の沖縄に漫談で笑いを提供し続けた方。
御上がころころ入れ替わる沖縄は御上頼みは通用しない。けれども、大和の地と違い、沖縄魂はあくせくしない。「明日出来る事は明日やろう」裏返せば「今日の幸せを満喫しよう」
おそらくは世知がない世の中を尻目に大往生されたのでしょう。
東京大空襲60年目の日に75歳で亡くなられたそう。合掌。
日本の文化意識が娯楽 (funny[おかしい])で留まらず、教養 (interesting[面白い])に目を向けるのはいつの日なのだろう?
文化人の意識は大正デモクラシーあたりから娯楽の中に教養を織り込む思考がなされているのに、文化を伝えるメディア側の意識は依然、娯楽に留まっていないだろうか?
20世紀の日本の文化遺産ともいえる音楽、映画も戦前のものはヒットしたものとて、保管状態悪く、現存するものの傷みも著しい。
世界は20世紀の文化遺産として、音楽、映画のデジタル復刻が盛んであるのに、我が国は名匠の作品の復刻がかなり遅れている。
それに留まらず、他国の名作映画のDVD化も状態の悪いものを高値で提供していたりする。「にっこり微笑んでごらん)」の「DVD FAQ」などに書かれているのがおそらく日本のメディア界の実態でしょう。Public Domain(社会全体の公共財産)の認識がほとんどないのでしょう。
日本映画専門チャンネルで特集組まれている成瀬巳喜男監督などもスペインでデジタルDVD復刻なされており、日本は遅ればせこの夏に復刻開始とか。そして、世界の巨匠溝口健二監督作品などは復刻の噂すら聞こえてこない。溝口健二作品は先の『新・平家物語』もオランダに依頼し、デジタルリマスターしたというのだから、日本のデジタル技術のお粗末さも判るというもの。
前置き長くなったけれども、前々から観たいと思っていた木下恵介監督の『日本の悲劇』が中国で復刻されていると知り、ようやくゲット。観る事が叶いました。
DVD復刻状態としては中国語、英語の字幕切り替えは可能だけれども、字幕オフに出来なかったり、フィルムのつなぎ合わせでおかしい箇所があったり、不備も目立つのだけれども、観られないよりはまだいい。
『日本の悲劇』
東条英機、天皇裕仁から戦後混乱期の映像をカットバックで絡ませ、子供らを溺愛する母親が棄てられ、自殺するまでをドキュメントする物語。
子供らを育てるためなら何でもする親。そんな母を憎みながらも、子供らとてそんな親になっていくであろうという暗示。何でもする親の理解者は肉親ではなく、他人であるとするラスト。
日本は島国であるが故に、近親憎悪と近親溺愛が入り交じり、民主化のさまたげにもなったのでしょう。石坂洋次郎原作、今井正監督作品『青い山脈』なんかもそんな民主化を妨げる日本の風土を捉えた映画でした。
深沢七郎原作、木下恵介監督『楢山節考』、森鴎外原作、溝口健二監督『山椒大夫』。このあたりの日本の原風景としての文化遺産の見直しがしたいところですが、木下恵介監督作品は全集という形で復刻が始まったものの、手軽に出来ない文化の貧しさが恨まれるところ。
二人で暮らせば 駄目になる
別れりゃなおさら 駄目になる
星があわないせいなのか
広い夜空に ながれ唄
日本狭いぞ ラリパッパ
タンナタラリヤ ラリパッパ
人は、登り道、降り道のある、石と空の牢獄のなかで生きている。
アタウアルパ・ユパンキ
『インディオの道』より
気がつけば氷河期かと思うほど、遅い雪解け。なんやかや慌ただしく過ごしながらも、黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』のエイゼンシュテイン張りの映像で物語るモンタージュ手法に改めて、感心したり、成瀬巳喜男監督の『妻として女として』の妻と愛人の葛藤とて、子供らの葛藤には足下も及ばない大人のエゴという論法はまさに正論だなぁと思ったり、はたまた、高畑勲監督の『柳川堀割物語』で描かれる日本古来の自然と共に生きる人間の知恵は「使い捨て」の合理主義より遙かに理論的であり、人と人の助け合いがなくては自然に押しつぶされるこの世の摂理を20年前の柳川の人々は挑戦したのだろうと思ったりしてました。
相も変わらぬニッポン放送株ニュースで責め側のホリエモン君がNHKで「人生の勝ち負け」なぞという愚かしい発言をしたようで、「人生の勝ち負け」は悼まれ、弔われるのかどうかが勝敗だろうと思ってしまうわけで、高齢者が金に固執するのはある意味やむえないけど、まだ三十路越えで「人生の勝ち負け」を口にする世間知らずなのだなぁと。「人生の勝ち負け」よりもよきビジネス相手を募ろうとするアフィリエイト・プロバイダー「LinkShare(リンクシェア)」の最低支払額撤廃の「毎月払いきりサービス」の発想の方が遙かに世間を知っており、さすがはビジネスの本場企業と思うのですが。
そうこう思っていても取り立ててこのページに書き足す事もないままでいたのだけれども、またにぎわい始めた韓流映画で『春夏秋冬、そして春』のキム・ギドク監督に対する評の中に「ルサンチマンの矛先を監督自身にも向け」なる一文を目にし、とある場所で「ルサンチマン」なる言葉を知った身にはなるほどねと思っているところ。
先の『姿三四郎』の有名な「命の杭」ではないけれど、「杭なけれぱ溺れ死ぬが、その杭のありがたみを人は忘れる」金に溺れ、物に溺れる現代社会、「命の杭」を見極めるために己に対し、ルサンチマンの刃を向けてはどうなのかと。
- ルサンチマン
腹をすかせた狐君、支柱から垂れ下がる葡萄の房を見て、取ってやろうと思った が、うまく届かない。立ち去りぎわに独り言、『まだ熟れていない』」
(『イソップ寓話集』中務哲郎訳・岩波文庫より)
韓流映画で気になる作品のご紹介。
札幌でもレイトショウ公開のようで僕自身、DVD発売まで見られないかなと思うのですが。
素晴らしすぎるほどPublic Domain(社会全体の公共財産)の意識ないサイトなので内容紹介ページも。(笑)
(とはいうもの見出し部分にあたる箇所が画像altなしですが)
韓国人権委員会が<ヒューマン・ライツ=人権>6つのお題提供とか。
イム・スルレ監督作品
就職のため容姿に磨きをかけるよう叱咤激励を受けた太った女学生は。
チョン・ジェウン監督作品
おねしょの罰として母親は少年をパンツなしで外に放り出し、近所の住民から塩をもらってくるように命じるが、近所にはインターネットの性犯罪者公表サイトで犯罪者として名前が掲載された男の家が。
ヨ・ギュンドン監督作品
脳性麻痺を抱える男の11のエピソード。
邪魔するのは誰?
パク・ジンピョ監督作品
英会話の発表会でうまく喋れない我が子に「愛の鞭」
みんなあなたのためなのよ?
パク・クァンス監督作品
接客態度のなっていない美人係員に対して、お客様が「その顔なら、他にも仕事はいくらでもあると思っているんだろう」
韓国人に間違えられるネパール人。
言葉の壁は偏見を助長し、精神病院などをたらい回し。
<ヒューマン・ライツ=人権>あるのだからは「認めて」ではない。「邪魔するな」。
正しいヒューマン・ライツ、理解出来るかも。
38度線上の共同警備区域(JSA)で起こった射殺事件を描いた名作「JSA」。訳判らず15年監禁され、監禁ビジネスから復讐の相手を見つけ出す執念劇「オールド・ボーイ」。それに上の「平和と愛は終わらない」を監督したパク・チャヌクの復讐3部作第一作
聾唖の青年が腎臓障碍に苦しむ姉を助けるべく、闇世界に入り込む「復讐者に憐れみを」も気になるところ。
『もし、あなたなら 6つの視線」DVDレンタルして、観ました。
オムニバスに多い、玉石混合ですけど、共通テーマは「思いこみ」でしょうね。個々人に対し、先入観や社会価値が先走り、個々人と接しない事。それが「バリア(邪魔)」なのかなと。
「人間皆同じ」じゃなく、「人間みな違う」という社会価値が必要なのでしょうね。
20年ぶりくらいに中島みゆきライブに行って来ました。
20代の頃は好きな歌が歌われると感動物だったのが、40代半ばになると割とさめて、中島みゆきさんの仕草を楽しめるまで距離を持てるようになった自分と出逢えたという感じ。
そして、思うにみゆきさんのライブって、聴くライブで、合唱するライブじゃないなぁと今更ながらに。「君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」なんて、合唱したら怖いですし。(笑)
流れゆけ流れてしまえ
立ち止まる者たちよ
流れゆけ流れてしまえ
根こそぎの土用波愛の重さを疑いながら
愛に全てをさらわれてゆく伝え損ねた言葉のように
雨をはらんで土用波がゆく
愛のもろさに傷つきながら、愛の危うさにあぐらかく人々を見放し、愛を求める歌姫。
帰りの地下鉄で勤務帰りの年配者がアメリカのピックマーケットぶりを賞賛する会話を小耳に挟みつつ、アメリカのすごさは愛の本質を知り尽くし、偽りの愛と本物の愛のせめぎ合いをマーケットに反映させた個人主義なのだろうなぁと思ったりして。
先日、読み終えたアタウアルパ・ユパンキ『インディオの道』。慕われ、道に暮らす女が貧しいながらも家庭に収まるが、姑との確執、夫の保身、それらが積み重なり、毒殺されかかる。
いま、彼女は、人間に対する、家庭に対する、家族というものに対する恨みに燃えていた。
ルーナ・アルパカマスッカ -人間は歩む土だ-
主人公の女性は悩み抜き、非人間的な暮らしを棄てて、道の上に戻る決意をする。どんなに孤独であっても、偽りの愛よりは自由である。
明日がある人は幸せだよ。
死にものぐるいに生きる華僑と社会の仕組みの中、生きる日本人の友情の物語。「明日」のために欺きあう社会を棄て、友に会いに行く日本人。
これらを思い起こすと、人の幸せは「明日」なのではなく、「今日」なのだろうなぁと。
地平のはしから地平のはしまで
皆、流星のひと走りほら、流星がまたひとつ
君は願いを言えたかい香川 新潟 大阪 宮城 姫路 山口 袖ヶ浦
流れる星よ
いつか最後にどこたどりつこうというのだろうか。中島みゆき「流星」
[アルバム『LOVE OR NOTHING』(1994年作品)収録]
みゆきさんのライブで涙こぼれた歌はさすらう歌い手と長距離トラックのおっちゃんの歌。
プライベートこそがパブリックなのだろうと。
「私の血の中に走る宇宙の粒子は、天体の力の無限の世界だ。」