From 2005-11-02(水)
To 2005-12-28(水)
そんなわけでこの子のやる事は
右から左の両極端
あるときやいじけた自閉症
舞台かわれば 甘えて好き勝手
黒か白だけ グレイは見えず
被害妄想のパラノイヤ
誰ぞこの子に愛の手を岡林信康「誰ぞこの子に愛の手を」より
[アルバム『誰ぞこの子に愛の手を』1975年作品収録]
1970年前後の70年安保闘争時、フォークの神様、岡林信康さんは被差別部落問題から安保闘争の社会を問い、反体制運動での近代化イデオロギーのぶつかり合いに嫌気さし、イデオロギー云々より前に、自然回帰が大切だろうと歌い上げるけれども、近代化イデオロギーに乗っかった自然回帰、「ディスカバージャパン」が一世風靡する。
そんな時代に岡林信康さんが歌った歌が「誰ぞこの子に愛の手を」。サーカス小屋に預けられた母なし子が、大きくなり、身勝手な大人になるという哀れな話。
日本は高度経済成長のリスクとして水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、光化学スモッグなどの公害が蔓延していたのだけれども、その後の景気安定、昭和元禄時代を迎え、公害問題も忘れ去られていった。
その後、日本では社会問題化されなかったアレルギー、アトピーなどが経済先進国の主要問題となり、欧米ではアレルギー、アトピーなどが最重要の障碍問題とされているという。
今、日本では「五感喪失」なる問題が表面化してきているらしく、「子供を上手に触れない親」、「スキンシップが極端に苦手な子供」、「味がわからない味覚障碍」、「生活の匂いを拒絶する無臭化傾向」など、「五感喪失」をレポートし続ける山下柚実さんの報告に詳しい。
目の前で友達が転んでも、ただ笑ってみているだけで、「痛そう」、「大丈夫?」といった「感覚的共感」が湧き起こってこない小学生など、数十年前なら、押しくらまんじゅうで「感覚的共感」を持つ人達には理解出来ない状況が今の日本社会に育ちつつあるという。
それではというわけでもないようだが、「五感産業」、「感性工学」などが産業界の話題を集め、食品の新食感、映画館の甘い匂い漂う仕掛け、携帯電話の「着ぐるみ」など五感を意識したデザインが打ち出され、総務省も五感を通じて臨場感を味わう「超臨場感コミュニケーション」技術の開発に着手すると発表されたけれども、山下柚実さんは「造られた」五感刺激で自然の五感が再生されるのか、「感覚的共感」を育む事の方が大切なのではないかと、問う。
40代後半を迎えた僕が子供の頃は、「自然」を知る年寄り達がおり、社会の暴走を押しとどめる役目をしていたように思うのだけど、近代化イデオロギーのぶつかり合いの中、育った現代人は「感覚的共感」という「自然」を理屈で組み立てようとしてはいないだろうか?
「自然」を軽んじ、「理詰め」で考えようとする大人達の安易さが今の社会の最大の問題だと思うのだけれども。
新型インフルエンザ対策で議会に8000億円超の拠出要請したアメリカ国家戦略と渡航自粛や休校のほか、新型に変異する恐れがある高病原性鳥インフルエンザウイルスの鳥での監視など多様な措置を検討する日本政府。
国益がなんなのか判らぬ国も哀れだけれど、数年前の「この状況に何年我慢出来るでしょう」的な政府系のコマーシャルに民意示さない国民も悪いのでしょうね。
「誰ぞこの子に愛の手を」
先日、11月3日、訪米中の石原慎太郎東京都知事のワシントンでの講演語録がスポーツ紙に載っており、検索すると琉球新報滝本匠特派員の報告として同じ内容のものを見つけた。
「中国にとって一番目障りな日米安保をたたくために、もし核を落とすなら沖縄に落とすだろう。あるいは東京を狙うだろう」
「もしまともに中国と戦争したら、人命を尊重する限り(戦死者に頓着しない中国に)絶対アメリカは負ける」
「戦争に対して戦争で報いるのではなく、経済的に中国を封じ込めていく方法しかない」
「米ソ対立の冷戦構造の時以外にはるかに危険な緊張の高い状況に置かれた」
この人の思考はおそらくデビュー時の太陽族小説の頃と何も進歩していないのだろうなぁと思ってしまう。悪く言えば、批判闘争の左派が保守になっただけ。
政界進出に一役買った弟・裕次郎の方がはるかに保守であるための革新を見据え、生き抜いていたようにも思う。
石原慎太郎氏が親友と主張していた三島由紀夫氏も最近の改憲論のせいか、ニュースによく取り上げられているが、三島由紀夫氏も自身の肉体的コンプレックスから自己探求の末の右派思想形成であり、石原氏を軽薄な人物として取り合わなかった形跡がうかがえるというし、左派の人々との文化交流も活発にされた方で、政治家の保守とは別次元の右派であり、右派文学者として行き着いたのが「自決」だったように思う。
そんな折り、芥川龍之介原作、豊田四郎監督『地獄変』(1969年作品)を観た。映画の出来は中村錦之助、仲代達矢のオーバーリアクションとこの世の地獄絵図を描ききれなかった豊田四郎の技量不足の失敗作だけどお話は凄い。
この世の地獄を観ずして、極楽を望む大殿様とこの世の地獄を知らしめようとする絵描き・良秀。生け贄の我が娘を目の前にしても競い合う賢者たちの愚かさこそ地獄。
「己の地獄を観よ」という芥川龍之介の語録にも面白いものがあるのを松岡正剛の千夜千冊で知り、一部紹介しておく。
「人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。」
「正義は武器に似たものである。武器には金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。」
「強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。弱者とは友人を恐れる代りに、敵を恐れるものである。」
「年少時代の憂鬱は全宇宙に対する驕慢である。」
「言行一致の美名を得る為には、まづ自己弁護に長じなければならぬ。」
「消火は放火ほど容易ではない。」
「危険思想とは常識を実行に移さうとする思想である」
「我々の生活に欠くべからざる思想は、或は「いろは」短歌に尽きてゐるかも知れない。」
石原慎太郎東京都知事のみならず、今の日本人が保守に対し、如何に軽薄なのか考えてみたいもの。
テレビで流されていたカンボジアの文化遺産復興のニュースに自国の誇りをかいま見たりもするのです。
「嫌だけど、これしかないでしょう。」
フランスの移民系の若者達の暴動騒ぎで、若者の一人がテレビでこう語っていた。
フランスの移民受け入れは植民地化していたアフリカ諸国の独立時期から始まったと言われているが、第二次大戦後の戦死者、戦傷者による労働力不足を補うために移民受け入れせざるおえなかった事情もあるようで、その後、アルジェリア独立戦争、ベトナム戦争でも流民を受け入れた経緯があり、その二世達に対する経済失策が今回の暴動とされている。
アメリカ合衆国などは第二次大戦後の黒人の都市部進出によるリズム&ブルースなどの黒人文化発展とともに民権運動が激化した事はよく知られているところで、その後、ベトナム戦争ではプエルトリコ系の流民がニューヨークを拠点にサルサ・ムーブメントを作り出し、異文化コミュニケーションの有り様が問われもし、戦争後遺症者、障碍者の社会進出も行われた。今回のフランスの騒動にはアメリカは一線を置いているとも言われているが、イラク戦争での「グリーンカード兵士」や、ハリケーンで一番の被災者になったニューオリンズの黒人などを刺激したくないというのが本音だろう。
移民、難民など流民の問題は先進国の労働人口の問題とクロスし、被差別な扱いを受けた者たちが元凶を作った土地で労働人口補充の役割を担うという皮肉な構造を生み出してきた歴史がある。
そして、その流民達が文化の担い手にもなっていき、アメリカのブラック・パワー、フランスの1990年代のアフリカン・ムーブメントを生み出してもおり、ここでもショービジネスを動かす白人社会と文化発信者の有色人種達の間で著作権をめぐる争いを引き起こしてもいる。
1960年代以降の先進国の少子化傾向が顕著に労働人口として現れようとする今、アメリカの民権運動、フランスの暴動は今後の先進国の流民に対する主要課題となるのであろうし、少子化著しい日本の異文化コミュニケーションの有り様が問われてくるだろう。
国立社会保障・人口問題研究所の資料「少子化の現状と将来の見通し」をみると日本は65歳以上人口割合20%を来年2006年に迎え、2014年には25%、2033年には30%に達し、少子化著しいイタリア、韓国を押さえ、超高齢者社会ナンバー1となるとされており、少子化始まる前に産まれた30代の生活環境もセーフティネット削減、人員整理などで、多産になる要因もない現状、アメリカに習い、異文化コミュニケーションを身につけねばならないであろう。
「受諾」と「拒絶」、異文化コミュニケーションを同化させる事で安定を図る「国家理念」が問われてくるのだろうし、更には先進諸国民衆の「中流意識」が問われてくるのではないだろうか。
季節の変わり目、以前より歯茎から出血していた歯が割れ、歯医者にかかり、そのせいか体調崩し、風邪引いてしまう最悪のコンディションの中、中島みゆきさんの新譜『転生』が出る日、無理して街のCDショップに買いに行く。
帰りの地下鉄の中、歌詞カードに目を通し、歌人中島みゆきらしい詩の連なりに、近年、セルフ・カバーや日の当たらない人々の恋歌のアルバムを出し続けた人の「今の風景」をかいま見たよう。
帰宅後、ネット検索し、新譜『転生』の背景として2004年1月に上演された“夜会VOL.13「24時着 0時発」”で歌われた歌達であることを知り、“夜会VOL.13「24時着 0時発」”のモチーフが宮澤賢治「銀河鉄道の夜」であり、『転生』の意味を飲み込めた気がした。
忘れ去れたものたちを預かる「遺失物預かり所」。
帰れない者と帰る気のない者の違い「帰れない者たちへ」。
なにも疑わず素直にレールを進んでいく者たちに馴染めず、決められ歩くのが悔しかった者の目に映る「線路の外の風景」。
表裏ねじれ続く「メビウスの帯はねじれる」。
選べる未来はひとつだけ当たり、選び間違いなかったか、選び損ねたか疑心案気の「フォーチューン・クッキー」。
裏表どちらが表か判らないカードゲーム「闇夜のテーブル」。
名付け主とて、血の色とて幾百万、誰に尋ねる術がある「我が祖国は風の彼方」。
一生でたどり着けなくとも、命のバトンを掴み、願いを引き継いでいけ「命のリレー」。
ありえないノスタルジックなホテルを追い求める「ミラージュ・ホテル」。
産まれた川へ舞い戻る鮭の如く、涙を過去に、生まれ直せ「サーモン・ダンス」。
本当の事は無限大にある、すべて失くしたとしても、すべてが始まる「無限・軌道」。
棄てられた者たちの恨歌を歌っていた歌姫は棄てた者の悔やみを歌う事で、この世の輪廻をあらわにする。
宮澤賢治の童話「なめとこ山の熊」で描かれる熊によるイヨマンテ、死んだ人間を神の国に送る儀式のような世界を中島みゆきさんは思い描いているのかも知れない。
「イランカラップテ」(はじめまして)
原日本語であるアイヌ語で「あなたの心にそっと触れさせてください」
出世曲「時代」のようにみゆきさんは時代を一巡し、「サーモン・ダンス」を踊っているのかも知れない。
脳性麻痺のせいか、子供の頃から歯医者によくかかっており、奥歯のほとんどは義歯。歯茎のトラブルより右側奥歯の上の被せていた歯を全部取り、ブリッジにする事になった。
歯のかみ合わせが姿勢に影響与える事はよく知られていると思うけれど、僕の場合、20年ほど前に左奥につけた入れ歯がどうもすべてに影響しているようで、左側が噛みにくいから右側の歯に負担をかけ、それが全身のバランスをも崩したような気もする。
元々、脳性麻痺による右腕の不随運動で肩こりがひどく、小さい頃、近所の指圧師が治療を試みてくれたけれど、ほぐしても翌日には元に戻る状態でお手上げだったものが、30歳過ぎた頃には立ち仕事という勤務状況もあり、腰、足にまで肩こりの影響が現れ、ある年の秋口、くしゃみにより、背中から腰、足に激痛が走り、一月半、歩けなくなったりもした。
その後、普通に暮らせるまで回復したのだけれど、先のくしゃみ以前あった足のしびれはなくなり、腰から足にかけ、筋上に痛みと代わり、圧迫していたものが取れ、筋の痛みとなったのだろうなどと思っていたものだった。
歯茎からの出血も同じ頃からだったように思え、肩こりがひどくなると出血もひどくなっていた。
今でも取れない左首筋の筋違いも先のくしゃみの衝撃で、ジムに通い始め、ほぐれていく身体の痛みを辿ってみると、左首筋から背中右、心臓の裏手近く、そこから右腰に行き、肛門付近を通って左足に繋がるルートが判るようになってきていた。
ひどい時は肛門付近が圧迫かかり、便通にまで影響が及んだりもした。
歯茎のトラブルで弱った体力のせいか、風邪をもこじらした時、寝ている時でも下痢に見舞われ、何度もトイレ通いをしたりし、ジムで腹筋をしようとしても寝転がれず、右腰の痛みが再燃したりもした。
頭蓋骨とあご骨のバランスが他の身体のバランスを保つ肩、腰の骨格に影響与え、それを繋ぐ筋肉に無理な負担をかける。それを放置していると、栄養を保持する消化器系や循環器系、呼吸器系にも悪影響を及ぼす。
障碍とは異常なのではなく、バランスを保とうとし、過剰なるフォローから来るものなのでしょう。
バランスを無視した生活を続けると身体は過剰なるフォローを始め、障碍を生む。
個々人のバランスをかく乱し、経済性を追求する社会は「障碍」というリスクを背負い、社会医療費を増大させ、ひいては社会のバランスを崩す。
高度経済成長時より無理され、社会の部品となり、生き抜いた人々はおそらく僕のように自分という小宇宙と闘い、暮らしているのでしょう。
「勤労感謝」とは権力持ちたがる人間にでもなく、技にすがる己にでもない、自分という「小宇宙」に感謝する日。
あなたも身体の痛みに耳を傾けてみませんか?
[Gracias a la Vida(人生よ、ありがとう)]ビオレータ・パラ
先日、11月25日付北海道新聞「卓上四季」に太宰治と三島由紀夫の初対面の時の話が載っていた。
三島がエッセー『私の遍歴時代』に「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言うと太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく言う。「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」。こんな記述があるそうなのだけど、長らく太宰の担当編集者だった故・野原一夫さんは『回想太宰治』にて、自分の記憶とかなり違う「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」。吐き捨てるように言って太宰は顔をそむけたと回想しているそうである。
太宰も三島もコンプレックスとプライドのせめぎ合いに生きた人であり、コンプレックスとプライドの一致を模索した太宰に対し、三島はコンプレックスを克服する事こそプライドと考えた人と僕は思っている。だから、三島の「きらい」は太宰に対するコンプレックスの表れであったのだろう。
けれども、両者ともなれ合い、もたれ合いで自分をさらけ出さなくてすみ、何か事あるとつぶし合いをする日本社会のモラルに踊らされた人達でもあるように思え、コンプレックスを認めれば認めるほど社会のモラルから隔絶された太宰とプライドを社会に求め、得られなかった三島は似ているのであろうし、最も日本的でもあるのだろう。
日本社会自体、その近代化は世界に対するコンプレックスから古い伝統文化は劣ったものという考え方が明治期よりある。その最も判りやすい例として音楽教育があげられ、地域文化である子守唄や盆踊りを学校では教えず、洋楽の唱歌を教え、「日本の遅れ」を正す事が国益と考えられ、それが「遅れたアジアを導く」侵略の正当性にもなり、鬼畜米英と言いつつ、敵国の文化を考察せぬままの戦争にも邁進し、敗戦を迎える。
NHK-BSで連続放映されている木下恵介監督の映画はセンチメンタルに描きながらも、日本人の残酷性を映し出おり、監督曰く、「近親溺愛、近親憎悪」が日本の悲劇であると語ってもいる。
欧米では仲良くなるまで相手を見るのに対し、人との距離の取り方を判らない日本人はすぐに仲良くなって喧嘩するとはよく言われる事だが、昨今の「小さな政府」政策は過度に自由競争を煽っているだけで、異文化混在の大陸思考を身につけぬまま、単なるギャンブル社会になりはせぬかと案じられてしまう。
NPO、NGOが政権交代激しい国政からセーフネットを守り確保する第三の政府の役目を果たしていたり、企業が社会に利益を還元する社会奉仕を行うのが常であり、お金の価値を無意味化する地域貨幣が様々試みられている欧米のような「人が生きる」社会意識がこの国では成熟していないのだから、声高に叫ばれる「人権」も社会のモラルから作り出そうとするのだろう。
「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」と米紙ニューヨーク・タイムズに揶揄される日本と対照的にアメリカ社会で生き残るため、母国のカンフーを取り入れ、成功し、アジアのヒーローとなり、今やその誕生日にボスニア・ヘルツェゴビナで自由の象徴と銅像になるブルース・リーを比べてみれば判る。
コンプレックスから隣人愛に目覚めようとしないこの国の実態は「ウサギ小屋」と言われる住宅政策を問題とせずに耐震性の落ち度を責め合ったり、三浦展著『下流社会』のベストセラー、「貯蓄なし世帯2割強」、「有給休暇の消化率は半分」という最近のニュース報道にも現れていると思う。
「踊りながら、殺されていく」と『下流社会』の書評にも書かれていたけれど、社会のモラルに頼らない個々人のモラルから発せられる自由を模索する時なのだろう。
12月6日と翌12月6日の北海道新聞に「揺れる歴史教育・05教科書採択から見えたもの」と題する記事が前後編として掲載されており、前編は「戦争観」について「愛国」になびく若者の事が書かれていた。
日本が起こした従軍慰安婦や対中戦争などの過去の過ちなど「日本悪玉説」を心の奥底でずっと苦々しく思っていた若者が「新しい歴史教科書を作る会」の幹部の執筆した「従軍慰安婦」を否定する論文を読み、身体が震えるほど感動した。長年の欲求不満が解消され、勉強会に参加するようになり、「良い国民でありたいから」と述べる若者達の話が多面的に掲載されていた。
その記事中、北海道大学公共政策大学院の遠藤乾助教授の言葉として「国際競争が激しくなって経済的、社会的格差が生じ、将来、自分が他人と置き換え可能な歯車に過ぎない『負け組』になるという不安が広がった。その不安を、国家という大集団の中に自分の存在意義を見いだすことで、解消しようとしている。」と分析している。
この記事と後編の「教師の苦悩」が対になった記事構成は、教える難しさ、教わる側の屈折に、「新しい歴史教科書を作る会」がどのような影響を与えているのかを問うものなのだか、どうも「新しい歴史教科書を作る会」の論理矛盾を感じるのは僕だけだろうか?
従軍慰安婦や対中戦争は日本の政治の過ちであり、巧みな目くらませで国民を共犯者に仕立て上げたのに、国家の責任を国民に「愛国」の名の元、単に責任転嫁しただけなのじゃないかと思ってしまう。
そして、今日に続く日本国憲法、連合国押しつけ論だって、当時草案を着手された憲法問題調査委員会のメンバーは日本国とGHQの板挟みで「民主主義」を盛り込んでいいのか悪いのか思案に暮れたとの関係者の証言もあるようで、戦時中の国家権力の怖さを知っている者ならば、GHQが逆に後押しして作られたものが日本国憲法という方が、理屈に合っていると思う。
子供は国の宝であり、我が子は国に捧げてこそ名誉、「お国のために死んでこい」が戦時中、「忠国」の教えであり、「生きて帰ってこい」と言おうものならば、憲兵隊に捕まる時節であった。
何故、今、若者達が「愛国」というより、「忠国」になびくのかは、先の遠藤乾助教授の言葉通りと思うけれども、横の繋がりを見失わせ、縦の繋がりを強調する競争原理に向かわせるやり方、遠藤乾助教授の言葉を借りれば「大集団の中に自分の存在意義を見いだすこと」とはパブロフの犬ではないのかな。
開戦の日を迎え、新聞紙上で「満州鉄道」の記事が載っていたけれども、食糧不足で悩む国民が「正当な手続きで領土化した」とされる中国東北部・満州に渡り、ひたむきに働いた人々の同窓会が今でも行われているという。
敗戦で国に見捨てられ、捕虜となり、何年も帰国を許されなかった人達にとって、「忠国」なんか糞食らえ、生まれ故郷の山や川、親兄弟が恋しかったのは当たり前の事だろうし、生きて帰れた事が「愛国」じゃないかと思ったりする。
来年は団塊の世代定年ラッシュの元年となり、昨今の経済弱者を増やす改革ラッシュはやりづらくなる前にやっちゃおう的打算に思えてくるのだけれど、「押しつけ」諸悪論を言うのなら、米軍基地問題でも「主権」を示して貰いたいもの。
リストラ対象の沖縄米軍をつなぎ止めるための日本の懇願という説もあるようですが。
こやし少なきゃ土地枯れる。こやし多けりゃ土地腐る。
マーケットを狭め続けようとする世情知らぬのDr.パブロフは高齢少子の将来、どんな「忠国」の餌を差し出してくるのだろうか?
「私たちは国民に望んではいない。国民が私たちに望むのだ」
オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督『ヒトラー 最期の12日間』より
先日来の足腰の痛みをやわらげるために、通いつけのジムでストレッチをしていると、そこに詰めているマッサージ機のアシスタントさんが話しかけてきて、「身体の話」談義に花咲かせました。
持病の脳性麻痺は「赤ん坊の脳梗塞」であり、出産トラブルにより障碍を持ち、脳の一部が壊死しており、周りの細胞がその部分の細胞の代替を努め、機能回復している事。仮に成人になってから同じ程度のトラブル(脳梗塞)に見舞われれば死に至るもので、その後遺症として不随運動から来る自分の体の様々な状態を聴いて貰い、アドバイスをいただき、健康業界の「身体」に対する研究の奥深さを知りました。
運動などでは身体が活性化し、プラスイオンが多くなり、血行が鈍くなる。単純に云えば血液が錆び付くので、その後にリラクゼーションが必要であり、このジムのインストラクターの方から以前お聴きした過激な運動では筋肉に乳酸が発生するので、運動後の入浴などでは乳酸を散らすようにお風呂の中で軽く手足を揺すってあげればよいと同じなのだろうなぁと思いました。
また、肩こりは首が前にのめるからなるのであって、あごを引くように心がけたり、マッサージや暖めるなどして首の負担を軽減するのがいいという事で、首筋と腰は神経の密集地帯であるがために、十分注意が必要との事。
確かにパソコン操作などで、首が前のめりになり、あぐら姿勢だから、肩、腰、足に負担かかっているし、脳性麻痺により結構顔を前のめりにする癖があるから肩こりになるのだろうなぁと。
マッサージ機のマイナスイオン効果のお話は機械が作り出すマイナスイオンには疑心案気あるので何とも言えないけど、自分の身体を休めるゆとりを持つ大切さがリラクゼーションなのでしょう。
身体を鍛える腹筋運動にしても効果的なトレーニング法が考えられており、ここ10年そこそこでも腹筋運動のやり方は様変わりしたとインストラクターの方にお聴きしたりもしますし、運動とリラクゼーションの相互効果が自然治癒を高め、予防治療にもなるのだろうけど、リラクゼーションの医療面での評価って、相も変わらず未知数故、認められていないのだろうか?
入浴、アロマテラピー、マイナスイオン、瞑想、リラクゼーションCD、マッサージなど、五感を豊かにする民間商法は盛んで、このジムのように入浴施設とスポーツ・ジムという組み合わせも増え始めている昨今、パソコン、携帯、電子レンジなど電磁波を発生させる物に取り囲まれ、食事管理ともども自己管理せねばならない要因が増える今、予防治療、介護の面のみならず、日常生活、労働環境でもリラクゼーションの重要性がもっと語られてもいいのにと思う。
高度経済成長期の日本映画など観ると会社内でのリクレーション活動が映し出され、社員の健康管理も会社が考えていた形跡は伺えるのだけど。
先日、NHK-BSで放映されていたフランスの名女優ジャンヌ・モローが監督したドキュメンタリー『リリアン・ギッシュの肖像』を観た。
アメリカ映画の父といわれるD・W・グリフィスの元で映画生活を始めた女優リリアン・ギッシュの語りは映画黎明期の「新しい文化」を作るという当時の気概を伝えており、大変面白かったので、知りうる限りの映画史の逸話を交えて、紹介します。
映画黎明期は「映画とは何が出来るのか」が世界中の映画人により熱心語られ、ソビエト(現在ロシア)のセルゲイ・M・エイゼンシュテインによる「モンタージュ理論」は絵コンテよりどのような角度から捉えれば、観客に伝えたいものを効果的に伝えられるかが考察され、“オデッサの階段の虐殺”『戦艦ポチョムキン』(1925年作品)で実践させたのは有名である。
リリアン・ギッシュがD・W・グリフィスの映画に参加したのも南北戦争の悲劇とK.K.K.の誕生を描いた『國民の創生』(1915年作品)でたかだか10数分の見せ物に過ぎなかった映画が物語を語れる芸術であることをグリフィスが実証させた頃で、ギッシュはこの映画で黒人青年と恋仲に落ちる娘を演じていた。
続く、古代バビロンの崩壊、キリストの受難、聖バーソロミューの虐殺、ストライキで職を失った青年と乙女の純愛の4つの時代の不寛容を描いた『イントレランス』(1916年作品)ではシンボライズされた永遠のゆりかごを揺する母を演じられていたが、この映画の古代バビロンの栄華に満ちた情景を再現させるため、世界中の絵画、彫刻の芸術家を集めた話は、後に『グッドモーニング・バビロン!』(1987年 パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督作品)で知られるところ。
同日NHK-BSで放映されていた『散りゆく花』(1919年作品)はボクサーの父に虐待され、異国の地で阿片に溺れる中国商人と巡り会い、束の間の幸福もままならず、父に殺される幼子をギッシュは演じるのだが、ギッシュは「私に幼子は無理」と固辞するのをグリフィスは「その悲運さを表現出来るのは君しかいない」と抜擢され、ギッシュの何気ない仕草を、グリフィスは映画の中で活用し、幼子の哀れさを表現した。
インタビュー役のジャンヌ・モローが自身、ルイ・マル監督の元から巣立つ時、一抹の寂しさがあったが、リリアン・ギッシュは育てて貰ったグリフィスの元を離れるのは寂しくなかったかと問うと「彼とは3年の付き合いだったから、それ程でもない」と契約社会で生きてきたためか、ドライに言うけれど、その後、巨匠グリフィスがハリウッドから相手にされなくなり、孤独な日々を過ごしている事を聴いた時は「寂しかった」と語っていた。
この後、映画技法はオーソン・ウェルズによる遠景の人と近景の物とをピンぼけさせずに見せた『市民ケーン』(1941年作品)や総天然色カラー映画『風と共に去りぬ』(1939年作品)などその表現領域を深めていき、日本映画では小津安二郎の遠景の麦穂をピンぼけなしに見せる手法や溝口健二の長回し、黒澤明のダイナミックなアクション、カメラアングルなど国際的にも評価され、更には映画は光の芸術であるため、黒を見せるのが一番難しいカラー時代となり、黒を表現する技法も編み出され、映画黄金期を迎えていった。
もうひとつの映画の主役、シナリオではシークエンスを組み立てる手順として、起承転結の大箱から、小箱へと細かなシーンに割り込んでいき、割り込んだシーンにおける登場人物の心の移り変わりをメモ書きしてから作品を作り出すシナリオ作成法が編み出され、現役最高齢である新藤兼人監督がよく言われる「山のような資料から必要なものを絞り込むのが創作」の効率化も考え出されていった。
1950年代のテレビの出現で娯楽の王者に陰りが出始め、1980年代のMTVによる映像のプロモーション化で「伝える」ための映像が「見せる」だけの映像へと移行していき、映画人の中には「映画の死」が語られ始めた頃、『リリアン・ギッシュの肖像』は作られた。
「映画はサイレントに戻るべきです。言葉があるから世界は理解し合えないのです。」
リリアン・ギッシュは繰り返し、こう語り、最後にこう締めくくる。
「得る事を望むべきではない。与える事をすべきです。与えれば必ず返ってきます。」
現在、新しいメディアとして登場したコンピューター・ネットワーク。我々はどれだけコンピューターを知り、コンピューターの可能性を追求しているだろうか?そして、コンピューターを愛しているだろうか?そして、利用者の利便性を考慮しているのだろうか?
既存価値のコンピューター移植に埋没し、付加価値を加える事には熱心でも、コンピューター文化を構築させようとするW3Cの仕様書等の文書の日本語訳集や高齢化社会のニーズを指し示す日本提案の新・国際標準「ISO/IECガイド71」が出されているのをどれほど知れ渡っているのだろうか?
付加価値加える事により、IT機器はどんどん便利さを増すように感じるけれども、それと同時に利用者の健康被害も多々聴かれるようになって久しく、ある種、麻薬的な快楽のみを求めさせる道具になってはいないだろうか?
世界の映画人がある時は資金提供の制作者の目を欺き、映画を文化にする気概を示したような熱心さとは利用者と如何に繋がるかという「伝える」というこだわりがあったからだと思う。
スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(1968年作品)、身勝手な人間達の命令に叛乱起こすコンピューターHAL。人は人が作りだしたものに対して責任持ち、使いこなす術を見いだすコンピューター文化黎明が今なのではないだろうか?
「型破りってえのは型を持っている人間の言うことなんだ。形も何もないヤツラがやれば、いいかい、それは形なしって言うんだよ。」
守田勘弥 言(養父の教え[玉三郎エッセイ集])
大勢の人が集まる場でてんかんの女性が倒れている場に遭遇した事がある。連れの男性が女性を介抱し、タンカーが来るのを待ちわびる時、周りの人達から「こんなところに連れてくるな」と耳を疑いたくなる罵声が飛び出した。言葉は刃物となり、倒れた女性、介抱する男性に突き刺さった事だろう。
別なある日、地下鉄に乗っているとシルバーシートに若い男の方が座られ、それ程窮屈でもないのに隣の高齢者が「ここはシルバーシートだよ。若いんだから立ちなさい。」と男性に指摘する光景に出くわしました。男性は胸ポケットから身障者手帳を差し出し、内部疾患である事を告げると高齢者の方は決まり悪そうに口ごもっていた。
障碍を持つ人達の苦悩って、ここら辺なんだろうなぁと何年も前の出来事なのに妙に心に残っている。
先日ニュースで流されていた悪気なき失神ゲームでいつも特定の人が、首を絞められ、気絶するかのような。
「障碍者を生み出す戦争には反対」は障碍者自身の否定に繋がるのではないかというねじくれた意見を耳にした事もあるのだけれど、誰も好きこのんで「障碍」を抱えているわけではないんですよね。だから、「障碍」をダシに使われと「差別するなぁ!」となるわけだろうし。
「障碍」と「障碍者」の区分け。ここらがなかなか一般に馴染みがないのかなとも思ってしまう。
障碍の区分けには多様化する障碍別と程度による区分けがあり、行政などの対応のまずさによる苦悩は程度による区分けの方が大きいのじゃないかと思う。
簡単に記せば、以下のようになるのかな。
重度障碍は保護手当は多種あるけれど、身の回りの介護面に問題が多く、最近の障害者自立支援法により、金銭的問題をも抱えるようになった。
中度障碍は保護手当はほとんどなく、年金のみが生活の糧で、仕事面でも重度障碍者に重きを置いた障害者の雇用の促進等に関する法律により、企業に対する給付金、雇用達成率のメリットが少ない分、求職企業も困難。動けるのだから働けるだろうという偏見に悩まされる。
軽度障碍は大概、就職は出来てはいるけれど、年金すら貰えない認定が単なる刻印のような役目になってしまっている。
どれも企業、社会の「性善説」に頼ったもので、それでいて、行政窓口などに助成申請などで行くと利用者は「性悪説」的対応をされてしまう。いつぞやなど、助成対象になっていない交通助成がされているのを行政窓口に問うと開き直り、誤って出し、使った分の返還を求められ、非がこちらにあるかのような対応をされた経験もある。行政窓口に相談に行く時は知り合いと一緒に行くといいといわれる由縁なのだろう。
身体障害認定基準[PDF]などを調べると等級別指数表というものに沿い、合算指数の結果、等級が定めらる。一例を挙げれば、「右上肢のすべての指を欠くもの」は3級に該当し、ここで言う中度障碍程度。視覚の場合だと、全盲だと重度障碍と認定されるけれども、片目失明や弱視、色盲、色弱だと中度障碍、軽度障碍と判定基準は医師の判断で分かれてしまう。
仕事の多忙、食生活の乱れから片目失明した友人が、失明当初真っ直ぐ歩いてるつもりでも見える方の側にだんだん寄っていく危うさがあるのに、担当医より障碍認定の話を聴かされておらず、僕に問うてきた事もあった。
欧米がガイドラインを示し、個々の裁量にゆだねるのに対し、マニュアル至上のわが国は結果重視、過程は問わない社会のように思えるのだけど、個々人に対する対応のまずさはここら辺から来るように思えてくる。
複雑多岐に及ぶ障碍を持った者の法律、行政窓口、そして、一般の関心事の低さはマニュアルを知る者のみが勝ち組である社会の縮図といえそうに思え、知らぬ者は転がる石のように悩み苦しむのでしょう。
せめて膨大にあるマニュアルを利用者が使いこなせるガイドライン、総合窓口、情報網が欲しいと思うのですよね。社会優先で動くシステム、次の失神ゲームの標的はあなたなのかも知れませんし。
高田渡さんの事を僕は何も知らない。亡くなられた時、流される話題が気にはなっていたが、アルバムを聴きたいなぁと思いつつ、CDを入手することなく、時が過ぎた。
日本映画チャンネルで彼のドキュメンタリー映画『タカダワタル的』が放送されており、すぐに録画、やっと高田渡さんと逢う事が出来た。
映画は若き日の高田渡さんの映像から撮影当時、55歳の高田渡さんの映像に繋がれ、彼の生活を追う。
猫のいる家から「出稼ぎ」に行くように音楽好きの連中のいるコンサート会場に出向き、カップ酒をあおりながら、ギター抱え、「今メガネ探して貰ってんだけど、知らない唄ではないからナントカ歌えるよ」と歌い始める。
ぼくとつとした歌いっぷりにも何も気負いはない。
コラム・松村宏のNEWSな顔・新宿で35年前の反戦歌「自衛隊に入ろう」絶唱にも書かれているけれども、反戦歌であるはずの「自衛隊に入ろう」を聴いた当時の防衛庁から高田さん本人に自衛隊のPRソングに使用させて欲しいとオファーがあったとか。なんとタカダワタル的逸話。
彼に魅了され、この映画の企画者となった俳優、柄本明さんが曰く「彼のように生きようと思っても無理。欲の場所が違う」
お顔はしわくちゃのふけ顔になってしまったけれど、それが男の顔は履歴書。しわくちゃのふけ顔からのぞく優しいまなざしは、優しさ故に老けた証なのだろう。
「歌って、とっとと帰ります。」
ホームレスの悲哀を歌った代表曲「生活の柄」のように眠りたいために歌い、そして、寝に帰る。おそらくタカダワタル的欲望とは酒と猫と音楽と「よくぞこんな男についてきてくれた」奥様を愛せる空間を守る欲。
2005年4月3日、北海道白糠町でのライブの後に倒れて入院。4月16日、入院先の北海道釧路市の病院で死去。死因は心不全。享年56歳。
“国の認めない人間国宝”と謳われた高田渡さんは死ぬまでタカダワタル的であり続けた人。
機械文明が押し寄せた1930年代、オートメーション化された工場で人間は機械的作業を強いられ始めた頃、チャーリー・チャップリンの名作『モダンタイムス』(1936年作品)はその光景をシニカルに描いていた。
休憩の無駄を省くために、昼飯さえ、機械に食べさせる。
先日、NHK週刊こどもニュース:ロボットがお手伝い!未来の福祉で紹介された食事介護ロボット、それは『モダンタイムス』で機械社会の象徴のように描かれていた機械と似たものだった。
食事介護を必要とされる利用者は「気兼ねなく食べられ、みんなと食事を楽しめる」と話されていたけど、何か割り切れない物を感じた。
同じく、ニュースで流れていた介護や災害救出などで期待されるとする着用ロボット。脳の指令で筋肉と同じ働きをするというロボット服を着る事により、筋肉疲労や筋肉の軟弱化など弊害はないのだろうか?と取り越し苦労で観てしまう。
そんな折り、思い起こされるのは2002年第6回DPI世界会議札幌大会の時にアメリカから来られた車椅子使用者による札幌トイレ事情の話。
札幌のトイレを見て回られて、車椅子でも無理なく使えるトイレは一カ所しかないと指摘され、その一カ所のよい点として、便器の周りにある手すりの取り付け方が固定式ではなく、壁側に折りたためるため、車椅子を横につけ、便座への移動がひとりで用を足せる。
近年のハイテク万能と捉えがちの風潮の中、ハイテクに頼る前にこんな何気ない工夫で出来る事ってまだまだ残されているのじゃないだろうか。
札幌発と言われる点字ブロックの突起の頭を平らにし、滑りにくくしたユニバーサル・デザインなどその好例はたくさんあると思うし、共用品推進機構が推し進める共用品開発の方がこれからの高齢化社会にとって有意義に思えるのだが。
先日の北海道新聞コラム記事に「勝者は"資本"で、敗者は"人間"」という見出しがあったが、資本と同じく、ハイテク依存の強い日本人が、ディスカッションを好み、自分を高めようとする欧米では浮いて見えるという話を耳にする。
コンピューターに仕事を奪われる時代が現実化する今、"もの"に対する依存が強まる中、本来の人間の価値を見いだせる場の確保が大切なのかも知れない。
それとも『モダンタイムス』のラストのように恋人とふたり、機械化する社会に背を向け、「何とかなるよ」と歩き去るチャップリンのように個々人が幸せ探しを求めるしかないのだろうか?