From 2003-08-06(水)
To 2003-08-20(水)
お盆近くになると桜川唯丸『ウランバン(ULLAMBANA)』(1991年作品)聴きたくなる。
「黒い雨」から先の「唯丸節」敷座、口上、ちゃっきり節、諸城寺の狸囃子、般若心経、ブンガワン・ソロと続き、ケーケー尽くし、油絞り、神崎与五郎東下り、聖者の行進、馬子唄、そして、悪魔除けと続く怒濤の快楽はいつ聴いても心地よい。
廃盤なのが悔やまれる。
知り合いの方のサイト掲載を拒んでいた『自己史』なるものをウラボンにあわせて、自サイトに載せてみたくもなった。実母の命日(8月12日)も近い事だし。人間誰しも『自己史』顧みれば、社会の一般論なんか当てにも役にも立たない事が判るのじゃないかな。
ヒロシマを体験しなくとも。
とはいえ、少し考え中。。。
『ULLAMBANA』聴くとネーネーズを聴きたくなる。(笑)
ネーネーズのアルバムで一番好きなのがこれ。
ロックに島唄ラップにレゲエ
「あめりか通り」
風の吹きよに身をまかせ 命ぬびぬび暮らさびら
「コザ dabasa」
あなたの生まれたその国に どんな花が咲きますか
「黄金の花」
神が与えた宝物 それはお金じゃないはずよ
都会の夜をさまよいながら 島唄寂しく泣いてるだろう
「真夜中のドライバー」
現代風の曲を沖縄の旋律と波打つ歌声で見事に表現するこのアルバムはまさにオキナワン・チャンプル。
八重山の大工哲弘さんの新譜『蓬莱行』なんかは音楽の桃源郷〈ユートピア〉を目指してブラジルの心ミルトン・ナシメントの名曲「トラヴェシーア(Travessia)」を八重山節で歌ってますが。(笑)
「未承諾広告」というメールやしつこい勧誘の電話。案外、大手企業からのものが結構ある。悪徳業者とまでは言わないけれども、この手のものに対しては大手であろうと調べる必要性は確実に増えてますね。これとて「大手だから安心」という社会の一般論が通用しなくなってきている事例に思える。いわゆる「自己責任」の重要性です。
そして、今話題の金融機関の本人確認なきままの払戻ミスなど「自己責任」出来得ない範囲の社会のフォローアップも望まれる。「アクセシビリティ」を売りにするにしても「利用できる」「理解できる」だけでは駄目だと思うし、「信頼できる」ものとは何かの議論も望まれるところです。
利用者も今何故「アクセシビリティ」なのか、自分が望む「アクセシビリティ」とは何なのかもっと知って欲しい気がします。とはいえ、僕自身、模索しながらこう感じているのですが。
W3C(World Wide Web Consortium)がなんであるか、DPI(Disabled Peoples International)がなんであるのかこれすら一般的に理解されていないという現状も気になりますし。
むやみに、国際機関だからいいのではなく、果たして利用者側に立っているのか、僕が書き続けるこだわりはそこにありました。国際機関のガイドラインを利用者側からみて善し悪し判断し、推奨するもの、補足すべきものを提言していく。いわば、受注から発注への思考転換が大切なんじゃないでしょうか?
知人から紹介された『Designing With Web Standards』WaSP(The Web Standards Project)の本ですが、アメリカ人は国際基準のガイドラインを消化すべく取り組む力がある。受注から発注への思考転換、文化的活動とはこういう事なのだろうと思う。
日本だってiモードという発想を展開できるのに、世界基準をベースにしないから訳のわかない方向に進んでしまっている。仕様が二転三転して迷惑を被るのは利用者だという事を忘れないで欲しいし、「アクセシビリティ」という理念が何故語られ始めたのか、関係所管は十分考慮して欲しいところです。「自己責任」ばかり押しつけるのではなく。
インドのガザル歌手でご夫妻のジャグジート&チトラ。
古典ガザルの詩人『ミルザー・ガーリブ』の伝記ドラマのサントラを聴いていて、改めてペルシャ、インド地域の思想を考えさせられる。
「心は石や煉瓦ではない」、そして
何も存在せぬ時
何も存在せぬ時神は存在した
何も存在せずとも神は存在したはず
我が存在ゆえに打ちのめされる
我存在せずば災難も存在せぬはず悲嘆のあまり頭が麻痺していたなら
打ち首にされても苦痛を感じず
体から切り離されていなかったとしても
ただ悲嘆にくれていたはずガーリブが死んだのは随分前のこと
しかし今でも思い出される
よく言っていた
「もしこうだったなら良かったのに」と
ガザルは冷酷で残忍な女性を恋い慕い、服従する男の恋歌。
冷酷で残忍な女性は神とも解釈され、神との合一を追求するとも解される。
ジャグジート&チトラのガザルは穏やかに歌われるけれども、これがパキスタンのカッワーリーになると主唱者が歌い始め、その弟子達が反復しあい、どんどん盛り上げていく。
1990年に東京で観たヌスラット・ファテ・アリー・ハーンなどは一曲15分から30分。観に来ていた在日パキスタン人の方々が徐々に興奮していき、立ち上がり、舞台袖で踊り出し、トランスト状態になっていく。
我が身は我が身であって我が身ではない。
そんな世界なのかなと思い返しています。
映画 『クラッシュ』(奥山和由監督2003年作品)
レーサー太田哲也さんがレース中の多重衝突による瀕死から奇跡の復活をとげたドキュメンタリー映画らしく、テレビで紹介されていました。
余命72時間以内と言われていた太田哲也さんが意識を取り戻された時、焼けただれた自分の顔を見、生きる気力も失せた時、奥さんが呼びかけた言葉。
「私のために生きて」
瀬戸際に立たされた時、人は自分を必要とする人のために生きるのかも知れない。
何となく、えんとこ 遠藤さんの詩をここに載せたくなった。
あなたは生きてますか?
君が今やりたいことを、まっすぐに人に伝えながら、
出来ないことは、みんなに手伝ってもらって、
堂々と生きてゆきなさい。
先回りして、人がどう思うだろうかとか、
これはいけないことではないかとか、
勝手にひとりで考えてやめてしまう必要なんかないんだよ。
自分から逃げていては、何も始まらない、
そうして、自分が決めてやったことの結果を、
どんなことでもすべて自分で生かしていったら、
その時はきっと、いつの間にか、
ますますすばらしい君になっているだろう。
それは、人に迷惑になるどころか、逆に人と人とが直接、
そのいのちを生かし合って生きる、
本当の人のあり方を、君に関わる全ての人に身をもって示して、
それを実現してゆくことになるんだよ。
だって、
君はひとりで勝手に何かをやってゆくことなんてできないだろう?
8月12日。実母の命日、養母と二人で墓参りに行ってきました。
実母は終戦直後、実家の食い扶持を稼ぐため、札幌に出てきたそうです。そして、知り合いの飲み屋などで働き、仕送りし続けた。好きな人が出来、妊娠してもうまくはいかず、悪い事に実家のごたごたのため、生まれる子供の養育費に考えていたお金も実家に送金せざるおえなく、堕胎した事もあるそうです。
僕の実父とも実父側の家庭の事情で結婚までいたらず、医者よりこれ以上子供をおろすと一生子供が授かれなくなると言われ、実家に帰り、僕を産む事にしたらしい。
僕が生まれたのはその実家。出産時、お腹の中で動き回っていた僕はへその緒に首を絡めてしまい、出て来る事が出来なく、鉗子というちょうどはさみのような器具を使い生まれました。
鉗子は今では使用禁止の器具とかで、赤子の頭を挟んで取り出すもの。はさみ具合では目に刺さったりする危険なものです。僕の場合は首筋の後ろを引っ掻き、えぐったようです。鉗子の痕はおでこのところとこの首筋に今もしっかり残っている首筋の方はその後、縫い合わせたようでもあります。
へその緒で首絞めたわけだから、窒息状態の仮死状態で生まれ、冷水とお湯に交互に入れられ、息吹き返したとの事。
母は親戚の紹介で養父と結婚。
2,3歳の頃、親戚からリンゴを貰う際、右手を握ったまま貰う様子に母は気に病み、札幌の病院へ僕を連れて行き、鉱山で働いていた父もこれを機に札幌へ。札幌の生活が始まりました。
小学校入学時、養護学校入学を薦められたそうですが、母が教育委員会などに尋ねていき、診断書等を揃えて、普通の近所の小学校に入学。
その母も僕が中学3年の時、乳ガンで他界しました。けっこうひどい言語障害もあった僕が東京のどもり治療を望み、母の承諾得て、東京へ行っていた矢先の事。
危篤間際、母は親戚に僕を呼び戻す事をかたくなに拒み、亡くなりました。死後、解剖した時、眼球と膀胱以外すべて癌にむしばまれ、生きていたのが奇跡とまで言われてます。
おそらく、障害を克服した我が子の帰りを待ちわびていたのでしょうね。
母が亡くなる時の話は『病』というシナリオの形で残してますが、葬儀の記憶は僕にはありません。
その後、父は養母と結婚。
糖尿にかかり、任せられていた仕事も借金おわされるような劣悪環境で、養母の説得により、退職。共稼ぎをし、僕を大学まで出してくれました。
けれど、養母も父の糖尿の食事療法とパートに出ていた職場の人間関係、それらに神経すり減らし、自律神経と更年期が合わさり、身心的に外出不可能な体に。
そして、僕がくしゃみより椎間板ヘルニアになり、やっと歩けるようになった雪の日、父は雪かきしに外に出、体調おかしく家に入り、急死。
父の死が急でショックだった母も大分落ち着き、昨年は生まれ故郷に帰る事も出来ました。
赤の他人のふたり。思えば実の母との年月の倍一緒に暮らしている。
今日は心静かに一日過ごしたい。
敗戦忌、如何お過ごしですか?
先日、Amazon.co.jpの売上ギフトで買ったちあきなおみ『VIRTUAL CONCERT 2003』母と一緒に聴いてました。
話題の「朝日のあたる家(朝日楼)」
わたしが着いたのはニューオリンズの朝日楼という名の女郎屋だった
あばずれぶった歌いっぷりは凄いですが、やはり僕はませガキだった頃、大好きだった歌「喝采」
いつものように幕が開き 恋の歌うたうわたしに
届いた知らせは黒い縁取りがありました
好きな男が止めるのも聴かず、歌謡界に入った自分。その人が亡くなった知らせを受け、葬儀に出、また、舞台に立つ。実話であるこの歌。
それでもわたしは今日も恋の歌うたっている
喪った哀しみを糧にし、バネにし、恋歌を聴かせる。
人間、出来る事ってそれしかないんだよね。
旦那の死後、芸能界を引退したちあきさんの恋歌、懐かしさを誘うのは何故?
#それにしてもカッティング、下手すぎ。
そして、若い方々のちあきさんのイメージはタンスにゴンのコマーシャルと物まねタレントのヤツなんだろうね。
本質を風化させているのがメディアにあるとは思うけれども、メディアは受け狙いであって、本質は広く浅く教養を身に付けた大衆なんだろうと思う。
物事深く考えない人間を作る教育する社会の大衆。
閣僚の無責任発言もこれが根元的問題なのかも。(笑)
週末は帰省ついでの親戚の来客ラッシュ。先週は所用あり、やっといつもの週明けを迎えた感じでこちらも久々、トレーニングに行ってきました。
主催MLでのメールの書き方の話があったので少し。
日本は手紙という文化が廃れ、電話が主流となった国。欧米のメール文化が入ってきて戸惑い気味何じゃないかね。という話。
肉食主体文化に菜食主体文化があわせなきゃならない一例のようにも思えるけど、よく考えれば肉食主体文化は手紙と電話の共存を果たしていたからメール文化が産まれたわけで、悪いのは主体性ない菜食主体文化だとも言える。
日本は元々雑食文化なので、ブラジル・カエターノ・ヴェローゾの言葉「アメリカを食べて、ブラジルを太らせよう」を真似、「日本を太らせよう」でいいのではないかな?と思う。文化を創るのは自分達という事。
しかし、これとても言い換えれば「アメリカン・ドリーム」の亜流。果たしてこの地に夢は花開くのかは謎。って、クラーク博士が100年前に説教した事じゃん。(笑)
「青年よ、大志を抱け」
野次ってばかりいないで、仕事すれって?仕事下さい。。。トレーニングしている暇あるのかと自問。けれども、健康と生活を秤にかけなきゃならない事になおかつ疑問。
僕がこだわり続けるアクセシビリティ。それは人間とは何なのかなのだと思う。ウェブアクセシビリティがコンピューターとは何なのかを「障碍持つ人」が使う事を想定して話を進めているように。(だから、特定障碍だけへの配慮は無意味にも思えてくる)
「人間、形あるものであり、壊れやすいもの。それ故のアクセシビリティの普及。」だと思う。競争社会が本来、人間にとって幸せなのか。
だいぶ前、「般若心経」の日本語訳を読み、『「般若心経」唱えまひょう』を書きました。人に「垣根」などないんじゃないか。「垣根」を作り、差別を生み出す事で儲ける輩もいます。ご先祖様の歴史はその事を今に伝えている。人間の幸福、それはやはり向田邦子さんの「幸福」だと思う。人と同じである幸福よりも人とは違う幸福を見つけ出す時、人は人を知ろうとするのではないか。
原爆忌から敗戦忌、そして、震災忌へと続く日本のウラボン、自分を顧みる一月にしてみてはどうなのだろうとふと思います。