From 2006-11-03(金)
To 2006-12-18(月)
太平洋戦争の転機となったという硫黄島の戦い。クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作のアメリカの立場『父親たちの星条旗』を観てきた。
その激戦は草木を枯らし、島の形さえ変えるほどの爆撃といわれているが、すりばち山に登り、星条旗を掲げた米兵6人もその激戦に翻弄され、3人が死に、3人が国に帰る。
映画は国に帰った3人が英雄と祭り上げられ、勝利のための戦費を調達する戦時国債キャンペーンに駆り出され、アメリカ各地を廻る中、フラッシュバックとして甦る戦闘場面にて、3人の英雄の内面の葛藤が描かれる。
甦る硫黄島の戦闘場面は、地獄絵のように悲惨な殺し合いが繰り広げられる。
英雄と呼ばれたくない英雄たちは、戦場を知らない愛国者たちにある意味脅され、英雄たちを演じる。この英雄たちがかき集めた資金で、おそらくはヒロシマ、ナガサキのピカドンは生まれたのだろう。
北海道新聞の一面広告で紹介されていたのだが、日本軍の総指揮官・栗林忠通中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」を書かれた梯(かけはし)久美子さんのお話で、すりばち山に掲げられた星条旗の逸話として、旗を立てるために使われたポールは、飲み水のない硫黄島で籠城続ける日本軍の雨水を地下壕へ引き込むための、命のパイプだったそうである。
人間の命を支える水がない硫黄島は、米軍の情報分析官の判断では、上陸前、どんなに多く見積もっても1万3000人の兵士しかいないとされたが、実際は2万人あまりの日本兵がいた。
勝てない戦場で、ここで米軍を食い止めなければ、郷土の身内が米兵の餌食になる。栗林中尉はこの無謀な戦線の指揮を任された時、この戦場の意義として、バンザイ突撃を許さずに、徹底したゲリラ戦を選び、パイプから得られる雨水で部下の命をつなぎ止めた。
米軍上陸にも降伏せず、日本兵は地下壕からの射撃、それに応戦する米兵は手榴弾を地下壕へ次々と投げ込む。
すりばち山に登った米兵達は星条旗は用意していたけれども、それを立てるポールがなく、そこに埋もれるパイプを引き出し、星条旗を掲げた。
命の水を奪われ、なおも郷土の身内を案じ、死んでいった日本兵たちとここで描かれた米兵たちの想いは同じなのだろう。
硫黄島に上陸し、無邪気に海辺でパンツ一枚となり、波と戯れる青年たちは、束の間、生きる事を謳歌し、国のための殺人兵器として死んでいく。
あれから60年。ベトナム戦争を描いた映画『ベトナムから遠く離れて』では戦場を知らない愛国者たちが「貧乏人に負けるはずがない」と語っていたし、数年前、イラクの首都バグダットでフセイン像を引き倒した兵士たちは硫黄島と似たようなパフォーマンスをしていた。
地球のいたるところを爆撃支援するのは、おそらくは戦場を知らない愛国者たちなのだろう。
今やブラジルを代表するアーティストで、昨年の日本公演でも、その素晴らしい歌声でファンを魅了したカエターノ・ヴェローゾの新譜が日本国内でもいち早く発売された。(UNIVERSAL MUSIC JAPAN)
2000年の『ノイチス・ド・ノルチ』以来の6年ぶりのオリジナル・アルバムで、長年連れ添った奥さんとの離婚にまつわると思われる歌や身近で亡くなった友人を歌った歌などをまとめたもので、タイトル「セー(Cê)」は「あなた」と近しい人を呼ぶ簡略語。
大人となり、仲間とバンドを組む長男モレーノとその友人ペドロ・サーをメイン・メンバーに据えたこのアルバムは、様々な「あなた」が歌われ、最後の曲「英雄」では「わたし」という「あなた」への問いかけとして、ヨーロッパとアフリカというふたつのルーツを持つ混血(ムラート)としての苦悩が発露され、「人権的民主主義を確立するために、100%黒人になりたい」と語りかける。
64歳を迎えたブラジルのロックンローラー・カエターノが息子世代と自分の歌を奏でる事により、音楽そのものも古びれずにロックしている。スノビズムがはびこる世相を嫌い、カエターノはこのアルバムをロックと括らせずに、自分であり続けるその生き様を息子世代に引き継ごうとしているように感じられる。
「ブラジリアン・イン・ロンドン」にてご紹介した朋友ジルベルト・ジルがメインとなって行われているトロピカリア展(ブラジル・サイト)への関わりなど、自分たちの若い頃のムーブメントを今に伝える活動と同時進行で行われた今回のレコーディングを終え、カエターノは「成熟」という語句に対して、「若かった頃には思わなかったほど、実はものごとをする時間というのは多いと知る事」と語り、「やりたかったことを、やろうとし、完成させた」アルバムと自負もしている。(雑誌LATINA11月号カエターノ・ヴェローゾ特集よりインタビュー発言のみ引用。)
当初、全曲ポルトガル語の、全部サンバ、自作の未発表曲で固めるつもりだったアルバムは息子世代の連中と語り合ううちに、私的なアルバムに変わり、「愛」も「憎悪」も丸抱えにした曲が並ぶものとなった。
トロピカリア・ムーブメントで最もバッシング飛ばしたのは仲間であり、自分もまた仲間をバッシングした。
その後、ジョアン・ジルベルトが幾度となく救いの手を差し伸べてくれ、朋友ジルベルト・ジルは人気歌手のジョルジュ・ベンと組み、ファンキーなアルバム『ブラジリアン・ホット・デュオ』で、「フィーリョス・デ・ガンジーを見に来るようにさせてやって下さい」と「ガンジーの信奉者たち」を軽やかなサンバ讃歌を歌ったのに対し、カエターノは内省的に「地球よ。おまえを忘れることは決してないだろう」とインドのシタールをバックに「テーハ(地球)」を歌った。
「愛」と「憎悪」で揺れ動いた自分史をおそらくカエターノは息子達と共有したかったのだろう。
「憎み合う事」と「愛する事」を別物として語るのではなく、「憎むほどに愛する事」「愛するほどに憎む事」を、このアルバムで、例えば自身のスキャンダラスな愛妻との別離を歌ったであろう「別人」「僕は後悔しない」を入れたり、「僕が羨ましいと思うのは/長寿とマルチブル・オーガズムだけだ」と歌う「男」の歌詞のように今まで以上にきわどい言葉を並べる事で表現したのだと思う。
カエターノは老いることなく、さりとて、次の世代の活躍の場を奪うことなく、恩師ジョアン・ジルベルトが自分たちをエスコートしてくれたように、息子世代のバック・サウンドと競うように自分の持てる毒を新譜に織り込み、息子世代と享受する。
今、東京国際フォーラムでは、カエターノの恩師でボサ・ノーヴァの法王、ジョアン・ジルベルトのライブが残すところ、11月8日、9日に行われるけれど、脈々と語り継がれる郷土の誇りを我々も学びたいものである。
バブル期は無駄にお金が乱舞した訳でもなく、バブル期だったから出来たであろう事も多々あり、日本のルーツの掘り起こしもそのひとつだろうし、その中にここでの話題、江州音頭の初代桜川唯丸の唯一のアルバム『ウランバン』の発売もあった。
発売元のWAVEレコードがなくなり、長い間、幻の名盤になっていたこのアルバムが、ボンバ・レコードというマイナーレーベルから、オリジナル+未発表ライブ録音+新録音のCD2枚組というグリコのおまけ以上に貴重なものをつけて、先頃、目出度く復刻と相成った。
発売当時、湾岸戦争が始まり、アントニオ猪木、河内屋菊水丸らとともにイラク・バグダットにおりました佐原一哉(「童神」の古謝美佐子さんの旦那さん)は、帰国後、「黒い雨」という童謡を作りました。ちょうどクエートの重油まみれの海鳥がニュース映像で流された頃の事。
初代桜川唯丸のアルバム『ウランバン』には江州音頭でお馴染みの「さのせ」や「花尽くし」などとともにこの「黒い雨」も録音されている。
唯丸師匠は、敗戦後、9歳にして音頭取りの弟子入りをし、翌年には寝屋川の櫓に立つ傍ら、今風に云えば「店頭販売」のタンカ売りで修行を重ね、1974年、唯丸会を結成、近江・滋賀県をルーツとする江州音頭に、ギター、ドラム、シンセサイザーなど持ち込み、革命児の威名を取られた方。
一方、江州音頭はその歴史を紐解くと、奈良時代(8世紀)の修行道にまで遡るらしく、平安時代に入ってきた仏教のお経の節「声明(しょうみょう)」。そこから影響を受け、山伏が山岳密教の祭典の文章に発展した「祭文(さいもん)」を元祖とするそうで、室町から江戸期にかけて、「歌祭文(うたざいもん)」、「念仏踊り(ねんぶつおどり)」、「歌念仏(うたねんぶつ)」、そして「音頭」へと発展してきた日本のダンス・ミュージック&ラップの原点とも云えるもの。
唯丸師匠はそういう歴史観を踏まえ、日本数千年の大ヒット曲「般若心経」を織り込んだ「唯丸節」を盆踊りで披露し、一大ブレイクを迎え、破竹の勢いで、東京錦糸町へ東下りをする。当時人気のグループ「上々颱風」のレコードにゲスト参加、このアルバムのレコーディングにまで相成った次第。
勢いはそれに留まらず、アフリカ・スーダンに江州音頭のような音楽があると、イギリス・グローブスタイルからCDを出した演歌歌手、アブドル・アジース・エル・ムバラクさんとのジャパン・マネーによる奇跡のジョイントが東京で行われ、更にはこのアルバムを聴いたエジプト、アリ・ハッサン・クバーンさんが「さのせ」のカバーするなど、歌が地球の丸さを証明した日々でもあった。
阪神大震災直後、唯丸師匠は体調崩され、二代目に音頭取りを引き継ぎ、引退され、今は四柱推命をなさっているという。
「仏供養の盆踊りは先祖が帰ってきているかなんて解らない。踊る人の単なるストレス解消だけかもしれない。でも毎年来るという事は何かちょっと心の平安に深いところで結びついているのかも知れない。」(ライナーノーツ、インタビューより抜粋)
桜川唯丸師匠は般若心経にも、今、生業とする四柱推命にも心の平安を見出しているという。
様々な曲が連なる「唯丸節」は「敷座」「口上」から始まり、「般若心経」を間に、童謡、民謡、浪曲が入り乱れ、「悪魔除け」で終わる。
アルバムタイトル「ウランバン」はサンスクリット語で仏教の経典の一つで、直訳すると「つりあげる」という意味。「盂蘭盆(うらぼん)」「お盆」の元になった言葉。今回出された『ウランバン DX』には「般若心経」が3バージョン、入っており、新録音の「般若心経」は唯丸師匠の今の世に対する祈りのように唱われる。
合理性で心の平安を見失い、格差乱世の現代、「般若心経」の本が売れていると聴くが、桜川唯丸師匠いわく「心の駒に鞭当てて一生懸命に努めましょう」とするこのCDに心の平安を求めるのも悪くはないと思う。
初回限定で四柱推命鑑定券無料も付いているので、心の乱れを観て貰うのも、よい年迎えるのも極楽への一里塚になるだろう。
インターネットを介してのインターネット文学が盛んになっていると聴くインドネシア。彼の地はヨーロッパの人間達が訪れる以前から海のシルクロードの十字路(クロスロード)として、華僑、アラブ商人などが行き交う異文化コミニケーションの拠点として繁栄していた土地。ちなみに陸のシルクロードの十字路(クロスロード)はアフガニスタンで、人類史を知る貴重な遺産が存在しているがゆえに、大国が入り乱れるという話もある。
十字路(クロスロード)ゆえに、豊潤な音楽が無数に発達したインドネシアは、世界最古とも云われるポップス、さざ波を刻むような小型のギターが奏でるクロンチョンという音楽を生み育てた土地でもあり、その成り立ちと激動の20世紀の変遷を音で辿ったCD「クロンチョン歴史物語」がワールドミュージックの良質なアルバムを提供し続けるオフィス・サンビ−ニャから36ページに渡る詳しい資料を掲載し、発売された。
その音源は勉強的な側面を抜きにしても、安らかな環境音楽であり、暖かな南国の癒しにも似た心地よさが時空を越え、こちらに伝わってくる。
このCD他、手元にある資料で簡単にクロンチョンの歴史を紹介すると、アラブの端の国・ポルトガル人がインドに辿り着くため、船旅した大航海時代に、船旅には邪魔にならない小型のギターを奏でるリズムが、長旅で巡り会ったアフリカ・アラブの人々の娯楽と入り交じり、インドネシアに辿り着いたという。それは同じような過程で伝わったブラジルのカヴァキーニョ、ハワイのウクレレのように、インドネシアでは、物売りが鳴らす短冊形の鉄片を数枚紐でかけた風鈴のような道具、クロンチョンを思い起こす事から小型のギターをクロンチョンと呼び、その音楽をもクロンチョンと呼ぶようになった。そこには故郷を思い返す郷愁の音色が満ちあふれていた。
16世紀に礼儀を知らない海賊のように押し寄せてきたポルトガル人たちの一部はジャカルタにほど近いトゥグーという居住区に居を構えたが、100年後、更に野蛮にこの土地を植民地化するために訪れたオランダ人がやってきた時、ポルトガル人たちは故国に逃げ帰る事も出来ず、インドネシアの人々と混血していき、クロンチョンという混血音楽は確立されていったという。
20世紀に入り、欧米のレコード会社が世界中の民族音楽を録音して廻った出張録音の時、クロンチョンの楽団の音も録音され、その楽団の写真も残されたが、インドネシアと呼ぶには顔かたちが西洋人の楽団メンバーのこの音楽の特異性が記録として残される。(ジャケット写真参考)
ラジオ、映画というメディアによる文化侵略も20世紀前半は、物量的におだやかで、ジャズやルーツが一緒のハワイアンをまねたクロンチョンが生まれ、異種混合していくその音楽は雑食的に穏やかながらも華やかさが彩られていく。
1940年代、日本軍の侵攻により、敵国音楽であるジャズやハワイアンを禁じられたのは、日本本国と同じで、その演奏は、一種、鎖国文化のように再び質素なクロンチョンとして独自性を増し、奏で始めたといわれるが、残念ながらそれらを録音したレコードは未だに発見されていないと云う。
戦後、独立、スカルノ大統領の元、多民族国家であるがゆえに、どの民族の音楽とも特定されないクロンチョンは国民音楽として、保護され、国の誇りとして、質素となったクロンチョンの音楽性は高まり、その後、スカルノ大統領失脚後、スハルト大統領になって以降、西洋化政策のため、<国民音楽>の肩書きを奪われるまで、その優雅さを深めていく。
更に西洋化政策の後は多種多様にあるインドネシアの音楽と混じり合い、更にはロックの洗礼を受け、モダン化していく。
著作権の関係上、西洋化政策後の音源はここでは聴く事が出来ないが、様々な荒波の時代に揉まれ、インドネシアの人々と共に苦楽を共にしたクロンチョンという音楽は、今でもさざ波を刻むようなその根本の音楽性を壊さずに生き続けている。
「あの小船がこの川の歴史を物語る」
日本占領時下、故郷を思い返す郷愁の音色が満ちあふれ、日本兵にも歌われ、戦後日本の街中にも流れたヒット曲「ブンガワン・ソロ」の歌詞のように永遠に郷愁を奏で続ける。
八重山諸島の古典民謡の歌い手、大工哲弘さんは1990年代、2枚のジンタ・アルバム『ウチナージンタ(OKINAWA JINTA)』『ジンターナショナル』で、日本の懐かしい歌をチンドンのリズムと八重山の三線のリズムを交え、「今」に甦らせた。
あれから10年。大工哲弘さんにお孫さんが出来たからとかで、新作『ジンターランド』ではその路線を引き継ぎ、子供たちに日本の美しさを歌う事で教えようとした中山晋平、野口雨情などの童謡運動で作られた歌たちを集め、大阪チンドン通信社の方々と歌っている。
「ジンタ」とは明治の初期に軍楽隊と共に日本に入ってきた西洋音楽が、明治中頃、民間の楽団によって大衆化され、生まれた音楽スタイルで、サーカスのテーマ曲「美しき天然」のように、「ジンタッタ、ジンタッタ」という独特のリズムから“ジンタ”と呼ばれるようになり、街頭宣伝をするチンドン屋に受け継がれていった音楽。
八重山諸島は地理的には沖縄本島の西、台湾、中国に近い島々だが、八重山諸島と日本本土(ヤマト)に伝わり、沖縄本島には伝わらなかった律音階が残る土地。「君が代」のメロディもこの律音階の音列の中にあり、アジア圏で最も広範囲に分布している音階だそうで、片や、中国大陸から、片や、朝鮮半島を経て、伝わったと云われている。
更には、西表島にかつて炭坑があり、そこにヤマトから多くの炭坑夫がやってきて、流行歌や唱歌などの“ジンタ”を歌い残し、それが八重山流にアレンジされたり、替え歌になったりして、島の人たちに歌われるようになっていったという歴史もあるそうで、戦後、方言撲滅運動が起こった時に「方言の唄がダメならヤマトの唄を歌おう」ということで、ジンタがよく口ずさまれたという逸話もあるそうだ。
(大工哲弘の我ったージンターランド - 沖縄の読み物一切 by ウルマックス)
アルバムは、野口雨情が、産まれてすぐに亡くなった長女を悼み作られた「シャボン玉」から始まり、学校の歴史で習うような英雄史ではない、父や母、祖父、祖母が語り継いだ名もない庶民史としての「歌」を今に甦らせる。それはアットホームな夢物語ではなく、おとぎ話の残酷さにも似た生きる辛さを子供たちと共有させる流行り歌の数々でもある。
西郷隆盛の切腹を悲しむ「一かけ二かけ(西郷隆盛娘です)」、この世のむごさを歌った「船頭小唄」、おうちがだんだん遠くなる「あの町この町」。
「雨降りお月さん」「砂山」に込められた中山晋平、野口雨情たちが童謡運動で訴えた「大人は童心に返れ!」。
刑務所、鑑別所の囚人たちの間で歌い継がれた歌を集めたCD『鉄格子哀歌』から拾われた軍隊=囚人ブルースの「可愛いスーちゃん」、朝鮮従軍慰安婦の眼差しから語られたという「満鉄小唄」のイントロ、つらい浮き世を綴ったアルバムは子供たちの一心に歌う「シャボン玉」に”ジンタ”がかぶり締めくくられる。
貧困の辛さを乗り越えてきた大工哲弘さんの想いは、日本が唯一「総中流化」になった1970年代に子供だった貧困を知らない世代が大人となり、貧しさを共有しようとしない「今」、ジンタ・アルバムの3枚目を作らせたのかも知れない。
昨年のアルバム『転生』は、宮澤賢治の童話を甦らせたような歌たちでまとめた中島みゆきさんだったが、今年の暮れの贈り物は子守歌歌い。『ららばいSINGER』。
デビュー曲「アザミ嬢のララバイ」から同時代を生き続けた者として、「世の中のテンポはどんどん速くなるけど、時々は休んで欲しい」というみゆきさんのメッセージは素直に頷ける。
近年の中島みゆきは『プロジェクトX』の「地上の星」というイメージが強いけれど、このアルバムは原点回帰を意識され作ったと云われる。
デビュー当時、みゆきさんは「世界歌謡祭大賞」に自作「時代」が輝いた時、自分を見守ってくれたお父さんを亡くし、故郷へ帰りたくても帰れない想いを歌った「ホームにて」を作っている。おそらくみゆきさんの原点はここにあると思う私は、新譜の『ららばいSINGER』の歌たちにワーキングプアと呼ばれる位置に属す大人たちへのエールを感じ取る。
9月に静岡県掛川市で開かれた吉田拓郎とかぐや姫のコンサートに飛び入りし、「自分のお客がいない」会場で、団塊世代を中心とした観客を前に歌った時、みゆきさんは「ああ、『プロジェクトX』のファンの方達と一緒だ。」と思われたそうで、長年続けているラジオの深夜放送のDJとして、寝ずに頑張る方達へ送り続けたエールは「子守歌」という結論に辿り着いた。
アルバムには岩崎宏美、工藤静香らに提供した曲のセルフカバーも何曲か含まれているが、インパクト強いのはTOKIOに提供した曲のセルフカバー「宙船(そらふね)」。
「お前が消えて喜ぶ者に、お前のオールを任せるな!」と叫び歌う歌はそのストレートさゆえか、若者たちの共感を得ているという。
また、「地上の星」のみんなへの応援歌ともいえる「重き荷を負いて」は与えられた仕事をひたむきにやる人の報われない想いが「がんばってから死にたいなぁ」と歌い放たれるし、みゆきさん自身の幼い頃のニックネームを題した「とろ」は「何とかならないか」と思っていても不器用なとろくさい自分はいるのよねと、「他の人はどうしてなんでも出来るのだろう」と問いかける。
「歌ってもらえるあてがなければ、人は自ら歌人になる」と歌い締められる「ららばいSINGER」はそんな今の時代の「地上の星」たちの眠りを誘う。
「年老いる事で、自分ひとりで出来る事は小さく、他の人の一言でポンと回復してしまうような」そんな寄り添い合いながらも励まし合う歌をみゆきさんは送ってくれ、生きる上で必要な事を提示してくれた。
いつまでもいてくれるとばかり思い込んでいた。
いつでも、ふいに人はいなくなる。
映画監督伊勢真一の監督のつぶやき・「昌造」にこんなフレーズが書かれてある。
1995年1月17日午前5時46分、神戸市内に激しい揺れと一昼夜に渡る火災が襲った。この映画は最も被害の大きかった長田区で被災され、一念発起してツアープロのプロゴルファーになられた古市忠夫さんの物語である。
映画はプロゴルファーの最終テストの日の午前5時46分から始まる。
何もかも失ったあの日あの時はすでに12年前になろうとしているのに、この映画の古市さんのように「あの時刻」に必ず目を覚ますと語られる方とネットを通し、知り合いになり、改めて、あの地震の爪痕の奥深さを知らされた身にはこの映画のオープニングの午前5時46分に身震いする古市さんは何となく理解できる。
前半、映画は過酷なまでにむごい自然の残酷さを延々描き続ける。
手を伸ばせば届く人を助けられない。「私はいいから逃げてくれ。」という叫びに身をのたうち回す被災者。そこへ更なる余震があきらめろとばかりに襲い来る。
「いつでも、ふいに人はいなくなる。」である。
三日三晩燃え続けた鷹取商店街は995棟が全焼、105名が命を落とす。
「災害に強い街」を訴え、動き回り、復興の足がかりが整った後の古市さんの脱力感と奇跡的に残ったゴルフバッグ、古市さんは生かされている事に生きようと決意する。
映画では深く描かれなかったけれど、災害被災者の苦難は復興にあるだろう事は災害メーリングリストで、復興支援の現場の話を聴かされ知っていた。
災害が起こるたびに、民間復興頼みで、支援が後手に回る国や行政は云うに及ばず、「被災で物がないのだから、これを使ってくれ」と送られてくる使い古し。丁重に「ご好意だけで」と断ると、「人の恩を受けられないのか、贅沢な」と罵詈雑言云われる支援センターの方々。このような現場のニーズを聴かない「善意」に憤りを感じる事もしばしばある。
唐突にも思える古市さんのプロゴルファー志望の原動力もおそらくは志半ばで死んでいった方々と復興支援の心労から来るものであろう。
事ある毎に「おおきに、ありがとう」を口にする古市さんと同じように、知り合った神戸の方もまた「ありがとう」をよく口にする。
「ありがとう」。それは助けられた人の感謝の言葉であり、生かされている感謝の言葉。
阪神淡路大震災から来年年明けで12年。当時の記憶は薄れ、映画に撮される今の神戸市内も他の都市と変わらず不気味な高層ビルが建ち並ぶ景色に様変わりしてしまっている。
「ありがとう」を忘れた時、人は過酷なまでにむごい自然の残酷さと向き合うのだろうか?
映画は亡き河島英五の名曲「生きてりゃいいさ」で幕を閉じられる。
仕事柄、公衆の場の汚れのチェックが習慣になっているのか、とあるビルの男子トイレの小便器の上に、「一歩前へ」というシールが貼られてあるのを見て、用を足す上でのマナーをこれほど端的に指摘したセンスに感服し、写真を撮らせて頂いた。(写真)
トイレに関するマナーは行く先々、それぞれ清掃が苦労のようで、工夫凝らした張り紙などをよく目にし、それを読むのが楽しみになったりもしている。
親の遺骨を預けてある禅宗のお寺さんのトイレには、以前はしゃれた短歌もどきの標語で、しっかり手を合わせ、たれこぼしを戒めるものが張られてあったのだが、改装と共にはがされたようで、残念である。
小便器の前の汚れは、若い人ならば、便器に衣服を近づけるのが嫌なのか、少し離れがちに便器に相対するし、高齢者ならば、便器との距離感が掴めない場合もある。それにほろ酔い気味の場合など、余計気を配る事を忘れがちになったりもする。そういう方達の立ち去った後は、たれこぼしで結構ビシャビシャになっていたりするもので、後に使う者にとっては足の置き場に困ってしまう事もしばしある。
先日、テレビで「ターゲットシール」なるアイデア商品が紹介されていたが、このようなトイレ事情を反映したものなのだろう。小便器の下部真ん中に的となるデザインされたシールを貼る事で、そこに命中させようという男の心理を掴んだもので、たれこぼし防止にもなり、なるほどねぇと思ったりもした。
しかし、トイレ清掃の手間を楽にするアイデアではあるだろうけれども、人件費軽減をのみ考える向きは現代トイレ事情を知らなすきるだろうと思う。知り合いのビル清掃の方に聴くと、ここ数年、トイレの汚し方は目に余るものがあり、目に付きにくい場所だからか、老若男女問わずのだらしなさだそうだ。
特にひどいのが大便器の個室の汚さで、今は立ち上がれば、自動で水が流れ出すトイレもあるからだろうか、排泄物をそのままにして、水も流さず、出て行ってしまう御仁もおり、その後に入り、人様の汚物とご対面させられる場面が多々ある。また、テロ対策でゴミ箱が少なくなったせいか、買い物をして、トイレの中で着替え、古着を投げ捨てていくケースなども見受けられ、「トイレはゴミ捨て場ではない」という張り紙を目にする事も多くなってきた。便利さゆえに他人に対する配慮がだんだんなくなっているのはケイタイ文化と同じだろう。
先日など小便器の上に菓子パンの食いかけが放置されており、別な小便器を使っていると後から来た利用客もその菓子パンが放置されている小便器を避けていた。
「社会は我が家」的傾向は何もトイレのみに限った事ではなく、時間に追われているのか、生き急いでいるのか知らないが、電車内での化粧、食事などする若者たちが挙げられるが、リッチに街中の温泉浴場で常連面した年配者が、風呂の湯船の中で、歯を磨いたり、ひげを剃ったり、平然と行っていたり、どこでも痰を吐くのも若者たちも年配者も変わりなく、みんな「社会は我が家」という感覚が主流になってしまったのかと思ってしまうし、場所をわきまえない若者たちより、場所をわきまえ、悪びれない年配者の方がたちが悪いとも思う。
これは何も仕事柄、気になる事などではないだろうし、利用者として誰もが感じている事だろうけど、互いに注意し合う事が、これまた老若男女問わずに「逆切れ」で難しくなったご時世、もっと語られるべき事だろう。
先の禅宗のお寺さんのトイレには「正法眼蔵」という禅語録の「第五十四 洗淨」にある以下の件が書かれたポスターが貼られてあった。
「ただ身心をきよむるのみにあらず、國土樹下をもきよむるなり。」
身なり美しくしても、周りへの気遣いを忘れれば、身なりが汚いのと同じという説法美学のひとつであり、禅寺ではトイレを「ご不浄」ではなく、「洗淨」と語り、三黙堂(さんもくどう)として、禅堂、浴室、東司(とうす、トイレの事)あるいは食堂(じきどう)を身体を清める場とされていた。
動物と同じ諸行を行うは「畜生」、動物すら行わないことをするは「鬼畜」という説法もあり、「美しい国」云々が語られる昨今、世の中の美しさが自分の美しさである事に務めようとした先人の教訓を今一度、思い返しても罰は当たらないと思う。
ギリシャの巨匠として知られ、昨年、20世紀へのオマージュ・シリーズの第一弾として、新作映画『エレニの旅』を発表した映画監督テオ・アンゲロプロス。
世界に先駆けて、DVDでの全集が発売されるなど日本においても根強い人気のあるこの監督の過去の名作4本が、ミニシアターで世界の名画を30年に渡り、配給、上映し続けるフランス映画社のBOWシリーズ30周年を記念するスペシャル上映会の一環として企画されたBOW30th映画祭in下高井戸シネマにて、12月16日(土曜)から12月30日(土曜)までの期間中に上映される。
上映が予定されているアンゲロプロス作品は、フランス映画社いわく、新作『エレニの旅』は下高井戸でも上映して間もないので外されたけれども、アンゲロプロスの名を世界に知らしめたギリシャ現代史『旅芸人の記録』と沈黙4部作とも云われているうちの3本『蜂の旅人』『霧の中の風景』『こうのとり、たちずさんで』。これを見逃したら、スクリーンでアンゲロプロス作品を観られる機会はなかなかないので、これを機にアンゲロプロス作品についてご紹介しておこう。
アンゲロプロスの映画技法は、長回しで捉えたカメラアングルと、ギリシャ現代史に神話的話法を持ち込み、世界観、歴史観、社会観を不偏なものにまで高める一貫した手法を貫いている。
新作『エレニの旅』では、たかだか2世紀にすぎない近代国家、国境理念がどれほど人々を隔て、争わせ、いくつ国境を越えれば帰り着く家にたどり着けるのかという現代人の苦悩を物語っている。
『エレニの旅』パンフレットに書かれた監督のメッセージには「物語はオデッサに赤軍が入場した1919年に始まり、現代のニューヨークに至る」と記され、「エレニの夫は、太平洋戦線のオキナワで死ぬ、その前に見た夢の事を彼女に手紙で綴る。」として「地に降る涙のように」と結ばれる。ギリシャ人を極東の地で死なせた者たちへの問いかけ。家族すべてを失ったエレニは云う。
「銃弾一発はいくらです?命ひとつはいくらです?」と。
アンゲロプロス監督はその出世作『旅芸人の記録』にて、イデオロギーに翻弄される現代ギリシャをたったひとつの出し物、ギリシャ神話の復讐劇だけを演じる旅芸人一座を通して描いてみせた。
メタクサス将軍の軍部独裁、ドイツ軍の侵攻、英軍の進駐、右翼王党派と左翼パルチザンの内戦とめまぐるしく変わる時代の生き証人たちを当時まだ戒厳令下の中、ゲリラ的な撮影を行い、作られたもので、4時間に及ぶ大作。
そのアンゲロプロスは1980年代、『旅芸人の記録』他の集団劇の現代史三部作から個人をテーマにした沈黙四部作へと向かった。
今回上映される『蜂の旅人』『霧の中の風景』『こうのとり、たちずさんで』を含むこれらの作品を作った動機として、「歴史が沈黙している」と述べ、個の時代のユートピア探しとしてこの3作品と『シテール島への船出』の沈黙四部作は作られたという。
「歴史が沈黙している」とは監督自身の言葉を拾っていった『霧の中の風景』パンフに寄稿されている川口敦子さんの文章を再録すると「瞬時に何かを感じ印象を刻みつける事になれてしまっている現代では、例えば喜びも凝縮された瞬間的なもの」「拡張された瞬間、息を吐き吸うまでの"間"を人々は好まない」とし、「自律的呼吸を奪われている。自分で呼吸出来ない状態、いや呼吸という概念すら失ってしまっているのが現代」と提示している。
マルチェロ・マストロヤンニが蜂飼いとして、蜂と共に現代をさすらう『蜂の旅人』、まだ見ぬ父を訪ね、ふたりの幼い姉弟がドイツへのいくつもの国境を越える事を強いられる『霧の中の風景』、「一歩踏み出せばよそか、死か」国境線の町で難民で記憶なくした初老の男マルチェロ・マストロヤンニを訪ねるジャンヌ・モロー『こうのとり、たちずさんで』。
ECの辺境で、民主主義発祥の地ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスが世に問うのは、EC統合の動きで内なる安定と外壁作りをしていく西欧資本のエゴ。
「20世紀はサラエボで始まり、サラエボで終わった。」
日本人の手によって作られたドキュメント『テオ・オン・テオ』のインタビューでアンゲロプロスはこう答える。
「いつか二人で、河の始まりを探しに行こう」
『エレニの旅』において、エレニが夫との約束を成し遂げられなかったものを見定め、現代の孤独を知るよい機会に恵まれた東京の方達がうらやましいとつくづく思う。
スタンリー・キューブリック監督作品の映画に『2001年宇宙の旅』という映画があった。
人類創世記、猿人が謎の石版“モノリス”に触れる事で、手元にあった骨を武器とし、仲間を打ち殺し、その骨を放り投げると、その骨は宇宙船となり、近未来の話が始まる。その宇宙船、木星探査船ディスカバリー号でコンピューターHAL9000に無茶な命令を下した事からHAL9000の異変が始まる。
世は、映画『2001年宇宙の旅』に描かれたようなコンピューターを操る人間の時代。インテリジェント・デザインとでも云いたくなるような人間万能主義が幅を利かせ、迷信、まやかしとして、節操を重んじる宗教は怪しげなものとされ、宗教なき宗教が態勢を占めるまでに至った感が多分にある。
子供達はゲームがリアルな社会であるかのように、人は死んでもリセットすれば、生き返ると思い込み、近所の遊び友達が転んでも、助け起こす感覚がなくなり、転んだ人は自分で起き上がるものと信じている。
大人も街中にある遊技場では喫煙コーナーで灰皿付のゴミ箱の横にしゃがみ込み、マンガなどを読みふけり、手先の感覚のみで腕を伸ばして、吸い殻を灰皿の横に置く。たまに起き損ねて、吸い殻がおむすびころりんゴミ箱に落ちて、紙くずに引火しても、コンピューター化の技術で、シュシュシュと消せると信じて、何食わぬ顔で立ち去っていく。
国家資産の8割が2割の人間が所有していて、下流社会と云われても、また云われちゃったと怒りもしないのに、年末年始に役所が10連休になるという話に、役所がそんなに休んでいいのかと、便利さを求めて、連休中の役所業務の確保を求めたりする。
先日のニュースでは「友引の火葬場営業へのニーズ」を唱えるNPOの話が載っており、「友引」は迷信で根拠がないから、火葬場営業をしろという。
「友引」の根拠云々より、太陽暦になる以前、「友引」が葬儀関係の休日であった事の意義を再発見せずに、やはり便利さのみを求めている。
そんなに今の世の中、便利さが大切なのだろうか?便利さを求めるがゆえに互いの絆が壊されたのじゃないだろうか?
携帯電話が出始めの頃、四六時中監視されるという反対の声は、やはり便利さでかき消され、トイレで脱糞しながらも、接客応対する声もしばし聞こえてくる。
便利さを求める裏にはそれに応えようとする労働が生じる。仕事量は増え、手取りが増えたとしても、休む時間は確実になくなっていく。
休みの日、ボケェっと外をぶらつき、自然に接していた時間がなくなり、小鳥が鳴いているか、星が瞬いているかさえ判らなくなり、気がついたら、天変地異の真っ直中になっていたりすれば、便利さがくれた贈り物と、その時、人はやっと自分の愚かさに気がつくのかも知れない。
つくづく、猿人が投げた骨が舞い降りて、頭をぶっ叩かれた方が今の世の中幸せだったのかと思うのだが、頭をぶっ叩かれたら、身を守る事を考える事しかしないのも人間だろうなぁと思ったりもする。
クリント・イーストウッドが「世界が忘れてはいけない島がある」として、作った硫黄島二作。その日本から見た硫黄島『硫黄島からの手紙』を見終えた。
イーストウッドは出来れば亡き黒澤明にこの映画を撮らせたかったと語っており、劇中でも、黒澤映画のオマージュか、戦乱の宿場町を思わせる硫黄島の部落が描かれもしていた。
制作途中でも日本側に監督も任せたく、人選にあたったようでもあるが、結局、ご自身でこの映画を作られた。
作られている間も日本側のスタッフ・キャストと入念なミーティングを重ね、イーストウッドの思い描く日本人観はより現代的な日本人像が造られたようである。
現代の遺骨発掘から始まる映画は61年前の硫黄島にタイムスリップする。
二宮和也が演ずる西郷の語りで、硫黄島の日本軍の絶望的死闘は始まるが、この西郷の文句を言いつつも従ってしまい、上官に逆らえないキャラクターは今まで日本映画で描かれなかった兵士であり、今の日本人が「あの時代」に行ったような感覚を覚えてしまった。
映画の感想をネットで読んでいくと、中村獅童が演ずる伊藤のような盲目的な愛国者に対する批判が聞かれ、「あんな士官はいるはずがない」と、語られていたが、日本のかつての戦争映画などはどちらかというと、洗脳され、盲目的な愛国者になった伊藤のような男たちの悲劇を取り上げていたのだが。
盲目的な愛国者の死を尊べと云うのと、その死を忘れるなという見解の違いが戦後の「あの戦争」をどう捉えるかの争点だったけれども、今の日本は逆らえない人間をキャラクターに据える事で「あの島」を語ろうとしたのだろう。
そして、戦後日本にあった厭戦観をイーストウッドは理解していないのか、テーマは『父親たちの星条旗』と同じく「生と死」に重きを置かれているように思う。
英雄という立場で国家に利用される『父親たちの星条旗』、支援なき攻防に追い込まれる『硫黄島からの手紙』。
明らかにイーストウッドは泥沼化するイラクを視野に入れているだろうけど、それを支持する盲目的な愛国者たちに戦場の死の舞を見せつけたかったのだろう。
映画では自然の過酷さは描かれなかったけれども、硫黄臭のする硫黄島での洞窟堀りは想像絶する任務であったことだろう。
その硫黄島も今、この3か月で約20cm隆起していると、国土地理院から発表があったという。
自然は壊れても自然のまま、そこで人が暮らせるかどうかの問題なのに、温暖の暮らせる環境が当たり前と思われ、経済優先の競争を激化する人間たちは、平和維持の大義の下、地球を空爆する。
来年、もしかすると硫黄島は「世界が忘れられない島」になるのかも知れない。