From 2006-09-28(木)
To 2006-11-01(水)
『海ゆかば』に掲載の「内田吐夢『血槍富士』」に加筆。
国家社会主義が強まった戦前日本で、愛国の名の下、若き頃、数奇な運命を歩み、戦後、経を綴るように、映画という夢を吐き続けた人、内田吐夢。戦前の作品群はほとんど残されておらず、戦後の作品も有名作以外はなかなか観る機会のないのだが、戦後復帰第一作『血槍富士』に続き、復帰第二作『たそがれ酒場』もDVD化されるという。
内田吐夢自身、戦時中、自ら望んで当時、革命のための中国侵攻とされていた今の中国東北部、満州に残留し、「(自作を評し)個人が国家や家庭の中で、誠実に生きようとする意志であろう。(略)したがって家族制度の上部構造である国家がその一員としての誠実さを、国策に収斂してしまうのは、自然な成り行きだろう」として、満州での日本軍の功績を追い続けた「満映」に在籍した。
しかし、敗戦で捕虜となり、中国軍の1948年の長春解放の演説を聴き、献身的に満州国人民の幸せを願っていたという上司・甘粕正彦の自害を看取る役目まで授かり、これら「満映」時代の出来事には帰国後、口を閉ざし、一切触れようとしなかった。
マキノ雅弘、伊藤大輔、小津安二郎、溝口健二など旧友の尽力で、やっと映画を撮る気になったのが『血槍富士』で、飲んだくれの若様に仕える槍持ちがつまらぬ事から殺された主君の敵討ちをしなければならい羽目になるという話。「忠義忠君」の馬鹿馬鹿しさと無意味に死んでいった戦友たちへの思いが「海ゆかば」に込められている。
海ゆかば みづく 屍(かばね)
山ゆかば くさむす 屍(かばね)
大君(おおきみ)の べにこそ 死なめ
かえりみはせじ
中山介山原作の『大菩薩峠』3部、吉川英治原作の『宮本武蔵』5部、近松もの『浪花の恋の物語』から『妖刀物語 花の吉原百人斬り』『恋や恋なすな恋』にいたる封建被差別窮民、落盤事故を描いた『どたんば』、武田泰淳原作、アイヌウタリの『森と湖のまつり』、水上勉原作、洞爺丸台風を題材とした流民の物語『飢餓海峡』と骨太に自らの「自己批判」を写経するかのように描き続け、念願の『乃木大将』を映画化を果たせぬまま、遺作『真剣勝負』で病の床から「草の色(コントラスト)が変わってしまう!」と武蔵、梅軒決闘シーンの取り残しを気にかけながら、1970年8月7日、英霊たちの元へ旅立たれた。
『たそがれ酒場』(1955年作品)は敗戦の焼け跡から復興し、高度成長に入る手前くらいの頃の新宿西口の「思い出横丁」にいくつかあった“ヤキトリキャバレー”をモデルに、民謡から、クラシック、ジャズとごちゃ混ぜの音楽が流れる中、アメリカ進駐軍と共に生きた庶民の生き様を描いた物語で、音楽の中にある政治性を描いた作品という。
『たそがれ酒場』のリメイクとして作られたという『いつかA列車に乗って』のキャッチフレーズ、「人生は忘れ物を探す旅。」内田吐夢監督は日本人の忘れ物をを教えるために、映画を撮り続けた人なのかも知れない。
岩波の記録映画から監督人生をスタートさせた黒木和雄さんは低予算の自主制作の映画畑でその生涯を終えてしまわれた。
1970年代半ばの『竜馬暗殺』(1974年作品)、『祭りの準備』(1975年作品)は片や幕末、片や高知の田舎町を舞台にした青春群像劇を見せ、『原子力戦争 Lost Love』(1978年作品)では翌年公開のアメリカ映画『チャイナシンドローム』などよりいち早く原子力発電の危険性をドラマ化させていた。
1988年の『TOMORROW 明日』から始まる戦争レクイエム三部作は『TOMORROW 明日』(1988年作品)がナガサキ被爆前日の生活を、『美しい夏キリシマ』(2002年作品)が監督の戦争体験とも云われる敗戦間近の宮崎霧島の生活を、『父と暮らせば』(2004年作品)がヒロシマ被爆で生き残った女性の生活を、淡々と追う事で、生活としての戦争を描いていた。
遺作となってしまった『紙屋悦子の青春』は劇作家・松田正隆が自らの母親の実話を基に書き上げた戯曲の映画化であり、戦争レクイエム三部作の延長線上、ある家族の卓袱台(ちゃぶだい)に戦争を見た作品。
それは行く当てもないのか、年老いた老夫婦が病院の屋上で昔を懐かしむかのように始まる。
昭和20年の春、鹿児島の片田舎。桜の花が満開に咲く家に、父母を空襲で亡くし、兄夫婦と共に暮らす紙屋悦子。
仲の良い兄夫婦は些細な口げんかを他愛なく繰り返し、悦子の見合い話を相談したりする。
一見すれば、今と何も変わらない普通のホームドラマ。
兄の元には、工員を兵隊に取られ、人手不足なのでと、熊本への単身赴任の話が舞い込む。これとて、今もありそうなお話。
悦子の見合い相手が、悦子が秘かに慕う兄の後輩で海軍航空隊に所属する少尉の親友であり、見合いの席、親友を連れてきた少尉が気を利かせ、いなくなるというのもまたよくある話。
こんなよくある話が積み重なり、特攻隊として、死の出陣を命じられた少尉が、出征前に挨拶に立ち寄り、親友に悦子を託す少尉を見る時、この映画が描く時代が、戦時中、そして、その後の歴史を知る我々にはもう少しで敗戦の時、死の出陣をしていく少尉の姿である事に心痛める。
挨拶終え、出征する少尉の後ろ姿に桜の花びらが見事に散る。
桜の木はその昔、墓標も立てられなかった貧しい庶民を埋葬したところに植えた木だとか。「花咲爺ぃ」で死んだ愛犬の遺灰をまく事で桜の花を咲かせたのも、この故事から来るのだとか。
兄嫁が食事中、「爆弾にあたらないために、らっきょうと赤飯を食べろ」と云いつつ、「らっきょうはらっきょうらしく、赤飯は赤飯らしく食べたい。爆弾にあたらないために食べたくはない。」とこぼす。
「車にあたらないために、物が上から落ちてこないために」これもなんだか今にありそうな話だが、今も危険と隣り合わせと思えば、あの頃の平和の方が平和だったのかも知れない。
過ぎた時を思い返す老夫婦を取り巻く殺風景な風景に画面は戻り、老夫婦は懐かしい波の音を思い返す。
黒木和雄さんは、天才的センスを持ち、その若さのために出征を余儀なくされ、帰らぬ人となった山中貞雄の映画を作りたいと語り続けていたそうだけれども、その山中貞雄の遺作となった『人情紙風船』はどんなに人情があっても紙風船のように扱われ、死んでいく庶民の哀感を描いた映画だった。
『紙屋悦子の青春』は時が過ぎ、あの戦争の頃の青春を思い返すしかない老夫婦に、今の「卓袱台を失った戦争」を映し出しているように思えるのだけれども、もはや監督に聴く事は出来ない。
我々が年老いた時、我々はどんな景色にたたずむ事になるのだろうか?桜の花びらが見事に散る風景は無理なんだろうなぁ。
「人間宣言を録音した若者はどうしているかね?」「自決しました」「手を差しのべてくれたろうね」「いいえ」。
映画『太陽』はここで終わり、自ら現人神(あらひとがみ)である事からの開放を求め、人間宣言した昭和天皇が思うに任せられない苦悩を観客に提示する。
ロシアを代表する映像作家アレクサンドル・ソクーロフ。「20世紀を動かした人物の4部作」の3作目として、昭和天皇を取り上げ、1本目『モレク神』のヒトラー、2本目『牡牛座』のレーニンとは異なるカリスマを描いた、と語っている。
ヒトラーは自分の作り上げた物の崩壊が分かり切っているのに、状況を無意味な悲劇に導き、多くの人々を道連れにした男と捉え、レーニンは「死」に抵抗し、権力にしがみついた男と捉えていたのに対し、映画『太陽』の昭和天皇は、悲劇的状況からの脱出する別な方法として描かれている。
欧米でも、アジアでもない、島国、強いて言えば、イギリスによく似ている日本人論から作られた映画であると監督はいう。
ちなみに4部作の4人目はファウスト。ゲーテの「ファウスト」とトーマス・マンの「ファウスト博士」をミックスしたものを企画しているらしい。
映画『太陽』に話を戻すと、敗戦間近な頃、昭和天皇は着せ替え人形のように国家首脳陣との御前会議では軍服を着、海洋生物の研究をする時は学者姿になり、空襲の知らせを聴くと従長に導かれ、地下の待避壕に移る。
生きながらにして、神と奉られる現人神である昭和天皇には、自由はなく、常に見守られ、国家を背負わねばならない。開戦の決断を下した訳でもなく、同盟国ドイツのヒトラーとも面識はない。なのに、苦しい戦況下、陸軍大臣の本土決戦の用意を聴かされ、国民の平和を願うと示唆するしか術を持たされていない。
映画『太陽』における昭和天皇は、当時、兵隊に我が子を捧げた母親たちが言い聞かされた「我が子は国の稚児」と同じく、現人神としての存在価値を持つ国の稚児のように描かれる。
昭和天皇にとって、悲惨な防衛戦を聴かされていない分、民間人大虐殺の東京大空襲は海洋生物が国民を殺す悪夢であり、敗戦はその悪夢から解き放たれた時間だったのだろう。
現人神が人間天皇になろうとした時、それまで天皇の国家に使えた者たちはおそらく如何に天皇を守り抜くか動いたのだろう。悲劇的状況からの脱出。昭和天皇はそれを現人神からの自由と考え、側近は人間天皇の保護へと動く。
焼け落ちた日本国土を昭和天皇が見て回られたのは敗戦の翌年。国民への気遣いが、人間天皇を守り抜く新たな天皇の国家は、昭和天皇の良心によって創られる。アレクサンドル・ソクーロフ監督は、昭和天皇の無垢さをおとぎ話のように描きたかったと語る。
今上天皇の「君が代と日の丸は『強制でない方が望ましい』」発言やサイパン島戦没者追悼での韓国人慰霊塔に立ち寄られた行為を、我々国民が如何に受け止めるかが、映画『太陽』の返信になるのだろうと思う。
スポーツで骨折し、長期欠勤をしていたアルバイトの学生が復帰、まだ片足を引きずる痛々しい感じで出勤してきた。その学生に骨折時の話から治療の話といろいろ聴くうち、興味深い事を教えてくれた。
手術が嫌で、自宅療養の自然治癒を選択した学生は、痛みも和らいだ頃から、腹筋が落ち始めたのを気にして、筋肉トレーニングを再開したのだそうだけれど、経過検診で病院に行くと、骨折した箇所の治りが遅いと、担当医師が首を傾げており、もしやと思い、始めたばかりの筋トレを中断したという。
治そうとする身体の治癒力が、筋トレにより筋肉を造る方にエネルギーを奪われ、治りが遅くなったためだろう、と学生は判断したようだ。
出産間近い女性従業員にその学生が「カルシウムは取て、すぐ身体に役立つ訳ではなく、将来の蓄えとして取るべき」というような話をしており、先の身体の治癒力の話とこの話は相通じるのであろうし、身体の負担に対する安静のバランス感覚が人間にとって一番大切な事なのだろう。
この頃、よく聴かれるスローライフを、男性の更年期に詳しい石蔵文信さんが医学面から論じた新聞コラムをずっと読んでいるのだけれど、この学生の話もスローライフの大切さなのだろうなぁと思う。
新聞コラムの話をいくつか紹介すると、老眼や勃起不全、更年期など中高年から始まる体の変調は、身体からのスローライフ提案であるらしく、同時に心拍数も大概はスローライフになるそうである。けれども、なかには自分の歳を顧みないで、若い時と変わらない心拍数を示す人もいるらしく、中高年にとってはこちらの方が身体に無理がかかりやすいので心配であるとの事。
この国は無理をする事を美徳とする向きが強く、中高年の健康基準も、自分の健康で判断するのではなく、人と比べて、自分は健康と安堵し、自分を励まし、無理をする。生活を楽しむゆとりを持てないライフスタイルが当たり前になってしまっているという。
中高年の自殺大国でもある日本は、この健康を気にかけすぎ、生活を楽しんでいないように思える傾向が、大きな要因であるようで、身近な人が「死にたい」などと悩みを漏らす時、「馬鹿な事を考えるな」と話題をそらしてしまい、現実逃避してしまう日常が問題のようである。
「死にたい」と漏らす人の奥底には「死ぬほどつらい事」があるから、「死にたい」と漏らすのであり、それを聴いてやる事が肝心であるのだろうし、その聴く行為が聴く方にとっても自分の生活を見つめ直すきっかけとしてのスローライフになる。
人に負けまいとする事が、相手を殺し、自分を殺している。そんな当たり前の事が見失われ、自ら時間に追われる生活を作り出しているのでしょう。
知り合いのインストラクターから聴いた話ですが、がむしゃらに筋肉を鍛えても、脇腹の贅肉は絶対に取れないそうで、この贅肉の事を、愛し合う時に互いにハンドルのようにつかむところから、「ラブハンドル」と呼ぶそうで、相手が掴みきれない「ラブハンドル」も身体からの危険信号なのだそうだ。
あなたの身体はあなたの物であって、あなたの物ではない。自分の身体を知る事の大切さがスローライフなのかも知れません。
以前、知人から「血圧は個人差があるのに、相対的に高血圧を判断するのはおかしい」という話を聴かされ、なるほどねと思った想い出ある。
似たような話が早稲田大学教授の池田清彦さんの新聞コラムに書かれてあり、知人のこだわりもここから来ていたのかなと思ったりもした。
高血圧の基準値は日本高血圧学会が定義しているらしく、1999年までは高血圧の基準は最高血圧が160mmHg以上か、最低血圧が95mmHg以下であるならば高血圧と診断されていたものが、2000年より最高血圧が140mmHg以上か、最低血圧が90mmHg以下であるならば高血圧と診断されるように変わったそうで、日本人の血圧は変わらないのに、高血圧人口は1600万人だったものが、3700万人に急増したという。池田清彦さんいわく、「科学的事実は変わらなくても高血圧患者を増やせる政治的決定」がなされたのである。
その事を正しく指摘した書籍として、2002年に医学書関連で話題となった近藤誠医師の「成人病の真実」(文藝春秋)があるようで、その辺を調べると「社会問題勉強会」なるサイトを見つけた。
ここでは更に、「高血圧治療指針が更に改悪された」と題し、予防の名の元に「65歳以上血圧目標140に」とする新治療指針が2004年10月10日付けの日経新聞に掲載された事が記されている。
書籍「成人病の真実」に関しては、「成人病の真実」というコーナーが設けられており、予防医療の実態とでも言うべき話が紹介されている。
ここでも紹介されている書籍「成人病の真実」の目次を記しておく。
サイトの紹介記事をざっと読んでみての感想だが、「生活習慣病」と言い換えられた「成人病」は、病状が現れなければ、投薬、治療の必要はなく、逆に投薬、治療を受ける事で副作用による悪化が出る場合もあるそうである。
定期健診を行い、「基準値外なら病気」と診断する事により、投薬、治療にすがりたい患者の気持ちにつけ込み、切らなくてもよい患部を切ったり、飲まなくてもよい薬を飲む事で、「悪化しなくて良かったですね」と信頼を得るシステムが予防治療のようである。
これがはっきりした自覚症状がある場合に対しての投薬、治療ならば適切であるだろうけれども、自覚症状もない健康体に対しての政治的決定で病人を作り出す実態に愕然とする。
それは元を正せば、医者という権威に我が身をゆだねすぎ、投薬、治療を絶対的に信頼する我々の無知がつけ込まれた話であり、自覚症状が出ていないのに投薬、治療を進められた時はまずは疑いなさいという事で、言われるがままに従うと、働き得た地位、財産が自分の健康体とともに奪われていくというごくごく当たり前の結論でもあるのだろう。
今回調べていて、昭和57年6月16日に日本短波放送から放送されたという「日本人の高血圧症(対談)」も合わせ読み、20年前はこのような誠実な対談がラジオで聴く事が出来たのだなぁと思いもするのだが。
まずはすぐに切りたがる、薬を出したがる医師は要注意した方がよさそうである。
9.11の同時テロ事件のときに、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだことを"カミカゼアタック"と呼ばれた事を、日本政府もマスコミも民間も誰も何もクレームをつけなかった。
特攻隊「神風」は民間人を殺していない。
ハリウッドに殴り込みをかけ、全編英語で話が進む「The Winds of God -KAMIKAZE-」を今井雅之さんがつくるきっかけだったそうだ。
ライフワークとなった「The Winds of God」は、1988年より国内外で上演され、1995年には最初の映画化、戯曲として作られた脚本も小説化された神風特攻隊のお話で、現代の若者が敗戦間際の特攻隊基地にタイムトリップし、死なざる終えなかった特攻隊員たちの気持ちを知るというもの。
札幌でも映画上映の初日に合わせ、舞台も公演されたようだが、時間の都合がつかず、舞台は見に行けなかったが、映画版を鑑賞した。ニューヨークのグランドゼロから始まる映画は1945年の日本にタイムトリップしたハーフのアメリカ人が軍国日本人となる話でとても面白かった。
今井雅之さんは、アメリカ人はテロを"カミカゼアタック"と呼ぶように、"カミカゼ"をテロと思っていると語り、その理論で云うならば、人類史上最大のテロは"ヒロシマ""ナガサキ"の原爆だろうと問いかけ、「あれはテロじゃない」とアメリカ人はいうのならば、"カミカゼ"だってテロじゃないと語る。
アメリカ人が日本人をどう見ているか、それは主役がタイムトリップして、日本人となり、鏡で自分の姿を見た時、「チャイニーズ」と叫ぶ一言に集約されてる。
1945年の8月にタイムトリップした主役は歴史の知識がないのか、敗戦の日を把握しておらず、死に急ぐ若者たちに何故死ななきゃならないと問うだけで、間もなく戦争が終わる事を叫ばない。
「国のために生まれ、国のために死ぬ」事を美徳と学び続けた特攻隊の若者たちは、教えられた事に疑いを持ちつつも、逆らう術もなく、死ぬ意義を探り続ける。特攻命令を下す上官たちも軍の命令に背く事も許されない状況下、ただ、彼等を叱咤しつつも、見守り続ける。今井雅之さん演じる主役はわずかでも共に生きた者たちが死にに行く姿を見続け、死んではいけないと叫び続ける。
「肉体が死んでも、魂は生き続ける」
映画のテーマとして、リーンカーネーションの輪廻思想が語られ、死に行く仲間は「次に生まれる時は平和な時に」と言い残す。「アメリカが憎いのでも、日本が憎いのでもない。人間が憎い」特攻隊員たちは戦争の悪玉を見抜きながらも、肉親のため、美しい郷土を守るため、死んでいく。
「お前の肉体は今のものだ」死に急ぐ者たちを止める主役の声は空しい。
特攻隊「神風」は民間人を殺していない。
映画では日本の航空自衛隊にある何台かある零戦を貸しても貰えず、アメリカに残っている零戦を借り受け、ロサンゼルスで飛ばし、撮影したフィルムが使われている。
若者たちが「神の風」と信じ、一緒に道行きした零戦は、プロペラ音を響かせ、美しく空を舞う。
美しいものを破壊し続けるもの、それは人間の不寛容さ、人間の傲慢さであり、戦争であるのだろう。
「平和すぎて自分というものが見えなかったよ。
平和すぎるから平和じゃなかったのかもしれないね。」
「The Winds of God -KAMIKAZE-」のキャッチコピーはこう綴られ、「生きる勇気」の大切さを語る。
「奈緒ちゃん一家の故郷、北海道で上映の輪を広げようと、札幌の友人たちが企画してくれた上映です。ぜひ足を運んでみて下さい。」
2000年に同級生で脳性麻痺の友人、遠藤滋さんを撮り続けたドキュメント映画『えんとこ』が伊勢真一監督との出逢いだった。それ以来、新作が出来るたびに、お知らせのダイレクト・メールを頂いている。
伊勢監督の姪御さんで、てんかんがあり、知的な障害を持つ奈緒ちゃんを25年間撮り続けたドキュメントの新作、『ありがとう』の上映のお知らせを頂き、また、伊勢監督のごつい身体とつぶらな瞳にお逢いできると、会場に足を運んだ。
1作目『奈緒ちゃん』(1995年作品)はあいにく見逃しているのだけど、2作目となる『ぴぐれっと』(2002年作品)は、我が子と同じ境遇の子供たちが暮らせる場所を作ろうとするお姉さん夫婦と、その意志を受け継ぐ奈緒ちゃんの弟さんの記録だった。
新作『ありがとう』の上映前、「家族の問題点ばかり取り上げるのではなく、家族のありのままの姿を捉えたかった」と語る伊勢監督の言葉通り、映画はお姉さん家族の様子をつぶさに捉えていく。
定年間際のお父さん、ちょっと弱音を吐くようになり、涙もろくなったお母さん、弟、記一くんは家を出る気持ちを固め、奈緒ちゃんもお母さんたちが作り、記一くんが取り仕切る作業所「ぴぐれっと」のグループホームに仲間入りして、家を出ようとするそんな時。
長くは生きられないと思っていた奈緒ちゃんも32歳。家を出る奈緒ちゃんを手放したくないと語るお父さん。アイロンがけを教えるお母さんもしつこいくらい「ひとりでしなきゃ駄目よ」と奈緒ちゃんに言い聞かす。25年前、断りなしに無駄遣いをし、飲み物を買った奈緒ちゃんをきつく叱っていたお母さんの今の口癖は「私たちが死ぬ前に」。
弟、記一くんも仕事としての前に、身内として奈緒ちゃんの自立を気にかけ、「負けんなょ」とそばに寄りそう。一番弱い奈緒ちゃんが家族をまとめてくれた。
前作『ぴぐれっと』では、名曲「ジョニーが凱旋するとき」が力強く流れていたけれども、新作『ありがとう』ではArnold von Bruckの"AVE MARIA"が祈りのように全編に流れる。
「育み、育まれる家族のしあわせ」1作目『奈緒ちゃん』のキャッチフレーズは、奈緒ちゃんの口癖、「ありがとうは?」に育つ。
「家族って終わらないのよね」旅立つ子供たちを見送った後、お母さんはしみじみ語る。
2006年、横浜の片隅に生きる家族の記録は、更に新たなドキュメントを記録しているという。
えんとこ、遠藤さんの「ありのままの命にカンパイ!!」を奈緒ちゃん一家と伊勢監督は実践しているのだろう。
東京国際映画祭にて、この春亡くなられた今村昌平氏の追悼特集として、その全作品の上映が行われるらしい。
東京国際映画祭 特集上映 今村昌平追悼特集
札幌では蠍座というミニシアターが、それに先立ち、数ヶ月に渡り、今村昌平追悼特集を行っており、その映画歴の折り返し時期で、これのみDVD化されていない『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』を観に行ってきた。
今村昌平氏は松竹から日活に移り、猥雑なまでに人間くさい喜劇を撮り、「生きることは、恥ずかしいことです」とよく語った川島雄三の元、映画を学び、監督になった人。
第4作の在日朝鮮人少女の綴り方を映画化した『にあんちゃん』(1959年作品)で文部大臣賞を受賞するも、「このような賞をもらうような作品を作ってはいけない」と自戒し、次作では、典型的な日本人に見立てた、横須賀の米軍基地の寄生虫のようなやくざたちの重喜劇『豚と軍艦』(1961年作品)を発表。その後、ひとりの女が戦後、タフにしたたかに生きる様を昆虫観察のように描いた『にっぽん昆虫記』(1963年作品)、強盗に強姦されても、夫にはかばわれず、それでも家に縛り付けられ、開き直る女を描いた『赤い殺意』(1964年作品)、都会の性風俗の閉鎖性を突いた『人類学入門』(1966年作品)、盗み撮りという手法で、婚約者が蒸発し探しあぐねる女性を心まで裸にさせるドキュメント『人間蒸発』(1967年作品)を作る。そして、作品歴前半、日活での集大成として作られた『神々の深き欲望』(1968年作品)は南の島の村社会を舞台に日本人の性文化を解き明かす野心作であった。
『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』は1970年に撮られ、その後、テレビの未帰還兵を追ったドキュメント「棄民」シリーズを撮り、映画と疎遠になる頃、作られた作品。
牛の撲殺を行う被差別部落に生まれ、暴力亭主の手から逃れて、戦後まもなく横須賀に出て来て、米兵相手のバー“おんぼろ” のマダムをしながらも、逞しくアッケラカンと生き抜く女が戦後25年間のニュースフィルムを観ながら、自身の生々しい生き様を事もなげにあからさまに語る。
原爆投下、玉音放送、政治犯釈放、2・1ゼネスト中止令、帝銀事件、下山事件、三鷹事件、松川事件、朝鮮戦争、金ヘン景気、警察予備隊、公職追放解除、保安隊、砂川闘争、売春防止法施行、三池闘争、樺山さん死亡事件、浅沼事件、皇太子御成婚パレード、ベトナム戦争、羽田闘争、東大闘争。
ある時は傍観者、ある時は当事者として、語られるマダムの戦後史はニュースフィルムのナレーションを無視して、生々しく息づく。
「米兵から国民を守るために駆り出された公娼」と呼ばれた女は米兵を手玉にとり生き抜き、“おんぼろ” のマダムとなり、米兵とともにアメリカへ移住する。
荒波に揉まれ、品位というものを喪失してもやむない激流の時代、父権も夫権も見る影なく希薄化し、したたかさと逞しさを女に求めたのは、この映画の頃だけではなく、今も続くはず。
今村昌平氏の長い沈黙に入る時に作られたこの映画は、その後、映画に戻っても以前のような辛辣なメッセージを描かなくなり、それでいて、猥雑なまでに人間くさいドラマを描き続けた監督の社会に対する最後のメッセージだったのかも知れない。
「サヨナラだけが人生だ」
恩師、川島雄三の評伝を作り上げた今村昌平氏もまた川島雄三と同じく、この言葉を愛し、川島雄三の元へ旅立ち、生き乞いする人間たちを観察しているのだろう。合掌。
あなたが仕事に行き、働くと、その賃金から例えば、施設利用料として1割負担を強いられたら、どう思いますか?
厚生労働省は10月から障害者自立支援法の一環として、受けた障害福祉サービスの9割は国と自治体から支給され、残りの1割を原則自己負担とする事を法律で定めました。その適用範囲として、福祉施設や自宅での身体介助、生活訓練を位置づけているのですが、障害者の多くが働く場としている小規模作業所や授産施設などもその範囲内の対象になってしまったために、働くとサービス利用料1割負担というおかしげな事態が発生してしまったようです。
以前、障害者施設で訓練と称し、労働をさせていた、簡単に云えば「ただ働きをさせていた」として、マスコミが「訓練?労働?」と大きく報じた事がありました。障害者の労働価値の軽視は、このように前々よりよく指摘されていた事ですが、その指摘も踏まえずに、国が率先して、障害者の労働権を損なう施策を提示する事が理解できなく、北海道の地元メディアでも「現場から批判が噴出」という記事が紹介されていました。以下、新聞掲載のコメントをカギカッコで括り、ご紹介しよう。
厚生労働省生涯福祉課就労支援係の担当者は「自己負担は指導員の配置やバリアフリーの職場環境など一般企業にはない福祉的支援の対価」と説明されているようですが、それに対し、「働く環境の整備は福祉政策なのか、労働政策ではないのか」とする北星大学社会福祉学部(障害者福祉法)の田中耕一郎助教授は、「自己負担させるというのは障害者の働く権利を認めていないことになる」と指摘しています。
札幌市障害者小規模作業所連絡協議会(札作連)理事長は、「施設の運営費の9割は国や自治体から支給されており、即座に施設の運営が立ち行かなくなるとは考えにくく、働く障害者の手取りが減るだけであり、賃金アップを図るようにしたいが、元々経営が厳しい小規模作業所の努力だけではどうにもならない」と実態を説明されていました。
小規模作業所に通う障害者の今までの手取りはひと月2、3万円が精一杯という現状が多く、自己負担の発生で、他の障害者自立支援法による負担と合わせると1万円は減るとの事。
アメリカのリハビリテーション法508条【Section508】などから考えれば、厚生労働省の福祉政策と労働政策のはき違えは恐ろしく時代錯誤のような気がしますし、この現場無視の感覚で一般の労働政策が行われていたらと思うとちょっと恐ろしいとも感じてしまいます。
この冬は灯油高も話題となっており、北海道内の市町村では一部行われている福祉灯油などの補助もない政令指定都市・札幌での障害者の越冬はかなり厳しいものになりそうだ。
先日、柳田邦夫氏の「国家賠償で続く国の敗訴」と題された新聞コラムで「安全重視の行政に転換を」なる見出しが付けられた記事を目にした。
最高裁で国が被害防止の安全対策を強制しなかった怠慢(規制権限不行使)と断じて、原告に損害賠償支払いを命じた判決が3件。
地裁段階でも同じように国の怠慢(規制権限不行使)による被害発生・拡大の責任、国が支援すべき疾病の認定の形式主義を問う裁判で、国に損害賠償を命じたり、不認定の取り消しを命じたりした判決が7件。
これらの判決はいったい何を意味しているのか。柳田邦夫氏は「所管省庁が違うのに、誤りの本質は同じ」として、「官僚の経済成長や産業の保護育成を優先し、住民や働く者の健康や命を二の次に考えてきた事」を指摘、「政治の圧力、官僚の自己保身、出世主義、官僚世界(省庁内)の空気や価値観がはたらいていた実態」を正す事を求めている。
更に、行政の機械的過ぎる「冷たいお役所仕事」が、今、財政難によるサービス切り捨てと絡み合い、なおも住民や働く者の健康や命を二の次にしてしまっているとも見ている。
氏は「戦後一貫して続けていた経済成長優先の施策を住民や働く者の健康や命を優先に考えなければならない」と説いているが、筆者が思うに、経済成長優先の時でも国際社会に市場を求めずに、発展し続けたこの国の閉鎖性が、公害やアレルギー、労働改善など犠牲を強い、国民の生活が二の次となる政治、行政を作ってしまったのだろう。科学や技術の発達が進むに連れ、それに伴う政治的決定の成熟がなされなければ、科学や技術を使いこなせない社会になるという事だろうし、その反省として最近の司法判断からの提言は、判決文にして、政治的決定の過ちを正す結果になったのだろう。
柳田邦夫氏が「乾いた三人称の視点」から客観性を考慮しつつも住民や被害者に寄り添う「潤いある2.5人称の視点」を提案されているが、「旅立つ子への祈り 映画「ありがとう」」の映画監督、伊勢真一さんの著作「カントクのつぶやき」にて、鷲田清一さんと対談で話されている「人はひとりがひとりを背負い込む事が出来ない構造になっており、第三の視点がなければ、人は支えられない」と同じ視点のような気がする。
また、スタジオジブリの高畑勲監督の映画『柳川堀割物語』というドキュメンタリーで描かれていた柳川の昔の街作りとして、堀割という人為的なものを町民上げて大切に利用し、自然との共存を図った政治、行政の知恵が描かれていた。
司法からのこれら提言は、生活基盤を求める生きた政治、生きた行政を生み、育てる意識改革と捉えた方がいいような気もし、政治、行政が企業などの暴走の歯止めをかけられなかった公害問題など過去の過ちを不問にし、国際競争の名の元、国民の生活が二の次の政治、行政を続けていると、「美しい国」になるどころか、新たな環境汚染が進み、この国は何もなくなってしまうように思えてくるのだが。
無理矢理冬を生きてた
そんな気持ちがした
何かをひとつの色に 閉じ込めていた
めぐる生命の音が聞こえる
そいつに乗れば 素敵な事だろういろんな顔を見せてよ まだ見ぬ俺の
たやすく決めつけないさ 自分の事を
めぐる生命の音が聞こえる
そいつに乗れば 素敵な事だろう(USENの音楽ダウンロードサービス『OnGen』試聴購入可能)
iTunes Music Store 山辺に向いて(iTunesインストール済みで利用可能です)