From 2004-03-16(火)
To 2004-04-15(木)
君の傷みの深さは わかる筈も無い
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そうさ僕は僕 君にはなれはしない
ひとり闘うのを ただ見つめているだけ岡林信康「君に捧げるラブ・ソング」アルバム『街はステキなカーニバル』(1979年作品初演)
90年バージョン、USENの音楽ダウンロードサービス『OnGen』試聴購入可能
iTunes Music Store 君に捧げるLovesong’90(iTunesインストール済みで利用可能です)
岡林信康の事を書き綴った時から、今ではなかなか入手困難なアルバムをオークションなどで入手し、聴くこの頃。
最新自主制作アルバムの『歌祭り』(といっても2001年のものしか持っていませんが)が今の岡林を聴け、一番馴染むんだけれども、アルバム『BEAR KNUCKLE MUSIC』(1990年作品 USENの音楽ダウンロードサービス『OnGen』購入可能)で初演の「エンヤトットで行きまSHOW」がなんか馴染んでいます。
それにちなんで、最近知った企業との提携を意味するアフィリエイトを始め、そのサイトに「アフィリエイトでいきましょう」なる名称を与えました。『BEAR KNUCKLE MUSIC』ではエンヤトットを歌う心情を岡林自身歌っており、それは自分のありのままの生き方宣言なんですよね。
アフィリエイトがうまくゆくかどうかは判りませんが、人の命を天秤ばかりにかけ、お金をちらつかされる現状はたまらなく嫌で、ありのままの生き方を書き綴る事で、見に来られた方達が読み終えた後、寄り道をして頂き、好きな物、欲しい物を手に入れられると同時に僕にも紹介料が入るこのシステムは「金は天下の回り物」にもなりうるのじゃないかと思っています。
アクセシビリティ、共用品、そして、アフィリエイト。今までの社会システムが軽んじていたこれらの可能性、掘り下げたい物です。
誰ぞこの子に愛の手を(笑)
銭の深さにゃ縁無いけれど
惚れた深さを威張りやしゃんせ
旅も半ばを とっくに過ぎて
こんな大事を やっとこ知った
松本光春『アフィリエイトではじめる!ホームページウハウハ副業生活』と河邑 厚徳 グループ現代『エンデの遺言 -「根源からお金を問うこと」』を入手し、読み始めています。
アフィリエイト自体、買い手と売り手の間に存在していた口コミという情報を商品化した情報商品なだけであって、それほど複雑な事柄もないので、『アフィリエイトではじめる!ホームページウハウハ副業生活』の方は入門書的で難しくないのですが、その切り口はユニークです。(アフィリエイターの現実に対する対処法が弱いという批判もありますが。)
著者の考察はアルバイト、株、不動産、著作出版、インターネットにこれらを当てはめ、更にインターネットではオンラインショップ、会員制サイト、アフィリエイトと検証していく。
情報商品のノウハウであるけれども、僕としてはアクセシビリティ的視点が無意識に入っているのにほくそ笑んだりします。そして、単にビジネス形態としてアフィリエイトを捉えると既存の企業のポイントサービスの二の舞にもなるだろうなと思ったりもする。
『エンデの遺言 -「根源からお金を問うこと」』この視点をアフィリエイトに絡めない事には先はないでしょうね。
文化の自由、法の平等、経済の博愛。
国家資本主義と民間資本主義は地球環境をお金に換えて、滅亡に導く。貨幣も物と同じに老化しなければいけない。そうせねば孫子の代に多額な債務と汚染された地球が残るのみ。
「第一章 エンデが考えてきたこと」を読んだまとめですが、「自由、平等、博愛」をひとまとまりのものとして考えようとするから、おかしくなり、上記のように分けて考えるべきであり、お金という物がそのどれにも属さないところにミヒャエル・エンデの問いかけはあり、「老化する貨幣」を提案している。
もっと考えれば、貨幣の増殖を浴する社会組織は時間泥棒といったら言い過ぎでしょうか?折角のインターネット、社会組織のためにあるのではなく、個々人の老化する貨幣製造機になれば、社会組織の意義が自ずと変わるのかも?と思うのですが如何なのでしょうか?
とはいえ、今月末の支払、どうしたものかと思案するこの頃ですが。。。
誰が乗っても"はるうらら"のまま。昨日もWINSで売らないのか聞かれました。
老若男女、障碍あろうがなかろうが馬を応援する馬券場の客の風景も乙なものですよ。
「俺は馬が好きな訳じゃなく、馬券が好きなんだ」という人もいれば、「馬券買いすぎて帰りのバス賃使っちゃったからこの馬券返す」とだだこねる爺ちゃんもいる。具合悪くなり、タンカーで運ばれ、帰りのタクシーを用意しても家に帰っても邪魔扱いされるから、WINSに戻ってくる人もいる。
ありのままの人間ってうっとうしいけど、僕は好き。
「馬券あたった」って話もした事のない僕に話しかける人。
「やめるなよ」と何気に言ってくれる人。
競馬警備アルバイター25年もやってれば嫌気もあるけれど、やっぱり僕は馬券場が好き。
河邑 厚徳 グループ現代『エンデの遺言 -「根源からお金を問うこと」』「第二章 エンデの蔵書から見た思索のあと」を読むと実に社会人の労賃の3割から5割は「利子汚染」のために働いている事になる。まさに「時間泥棒」であり、雇用創出なんか無理。
ヨーロッパでは
預金者が投資先を選び、利率を決める「ソーシャルバンク」
自己申告制の「報酬と労働の分離」
など「利子汚染」の回避策を草の根、マイノリティ的に行っているようだけど、シルビオ・ゲゼルから始まる「地域貨幣」の日本の現状はどうなんでしょうか?
「報酬と労働の分離」を文字通り実践しようと、ひとつの銀行口座にそれぞれの収入を振込み、自由に引き出して使うという実験を行っているグループもあります。[P80]
「経済の博愛」とは究極こういう事なんでしょうが。。。お金の呪縛から逃れるための荒療治なんでしょうね。
いよいよ金策苦しく、のんびり屋の僕もどうしたものかと思案に暮れています。そんな昨今、ふと思うのは亡き従弟の事。
ススキノで「Soul Cop」という飲み屋をやっていた亡き従弟が金策に困り、幼なじみに金の無心をしました。
「おまえは好きな事をやって、息詰まったんだろ?」
幼なじみは金を貸しませんでした。
従弟の葬儀の時、その幼なじみは半狂乱に泣き狂っていました。
思いやる試練なのでしょうが、例え金を貸す事で従弟が自堕落になったとて、生きていれば説教も出来る。お金のモラルが大切なのか、人の命が大切なのか。
この話を聞いた時はやはり人事だったんだなぁと思うこの頃。
アメリカビジネス社会ではアフィリエイトプログラム、イサカアワーなどの地域貨幣、消費も投資であるから配当を得るべし、「ポイントバック」「キャッシュバック」の大元の発想。
これらがメビウスの輪になっているのかな?
「おれおれ詐欺」ですっかり人に信用を持てなくなっている日本人って「おれおれ詐欺」のメビウスの輪にはまっているような気が。
アフィリエイトプログラムでもビジネス業界のご都合主義が見え隠れしているようですし。
一方的な契約打ちきりに
報酬額の変更
不透明な承認(自己購入でも拒否されました)
短期間で圧力団体でも組合でも作れませんかね?
イサカアワー(Ithaca hour)のような地域貨幣の日本の実践例、あれば知りたいところです。
僕が中学3年の時、癌で入院した実母は吃音治療のため、僕を東京に行かせました。
実母の癌が全身転移し、「ロックインシンドローム」。吃音治療に東京に行かせた僕の帰りを待ち望み、我が身の衰えを気力で跳ね返していたと聞きます。けれども治療を中断させ、僕を呼び返す事はかたくなに拒んだ。母の生きている証だったのでしょう。
そして、ベッドに寝ては起きあがり、起き上がっては横になる自分自身でも体の安定が取れない状態だったそうで、呼吸も困難となり、みかねた医師が気管切開したとの事。結果、予測しなかった血液の逆流で窒息死したようです。死後、解剖結果を聴くと膀胱と眼球、背骨数本以外癌に侵されており、ある意味、体力の衰弱を考えると止む終えない結果。
人間の生きようとする気力と体力の闘いに医学がどれだけ力になり得るかが人工呼吸器をつける、つけないなんじゃないかとずっと思っています。
人間の生きようとする気力に対し、親身になる。それを語られない事にはモルモット実験と何ら代わりがないでしょうね。
原作者ミヒャエル・エンデが激怒したというウォルフガング・ペーターゼン監督『ネバーエンディング・ストーリー』(1984年作品)
確かに叶えて欲しい夢が「仕返し」なのは頂けないし、悪の人浪グモルグは余計な気もしますが、夢と希望は人間の子供が作り出すもの。それを破壊する「無」が大人達であるんでしょうね。
大人達が夢と希望を望まない限り、人間の子供は「無」に飲み込まれていく。『エンデの遺言』を読んでいると『ネバーエンディング・ストーリー』の「無」が『モモ』の「時間泥棒はしあわせ泥棒」になり、「問題の根元はお金にあるのです」となるのがよく判る。
毎週2%の税を取られるからババ抜きのように使われるスタンプ貨幣。
地域の消費を地域の利益に還元するイサカアワー(Ithaca hour)。
旧東ドイツの通帳取引、交換リングデーマーク(döMak)。
スイスの交換リング協同組合銀行ヴィア銀行(WIR BANK)
肥大化していく標準貨幣の利息は「無」なのにあたかも有益なように利息のための労働を浴し、第3世界の飢餓と戦争を起こし、武器を作り出す。
大人達が夢と希望を大声出さなきゃいけないって事でしょうね。「標準貨幣にこれ以上依存、肥大化させるなと」
「人々はお金を変えられないと考えていますが、そうではありません。お金は変えられます。人間が作ったのですから。」
ミヒャエル・エンデ『エンデの遺言』222ページ
「エンデの遺言」最終の第5章では「お金の常識を疑う」として、この世のマネー・システムをグローバルに分析。
「お金」の話って利子が貰えれば、楽できるという錯覚と何にでも取り替えられるものを与えるのだから説欲の報酬を貰えて当たり前という考え方が主流なんでしょうね。
庶民の金銭感覚から国際取引で国の貨幣を維持させるため国際通貨基金(IMF)への投資の依頼、IMFによる構造調整プログラム、社会の安全ネットへの支出の抑制が強要され、貨幣を維持させる仕組みを書き連ねている。
庶民のささやかな欲が国際レベルになると強欲になる。
「こうした事が許されるなら、急いでいる者は余分な時間を持つ者に左右される事になるだろう。後者は急いでいる者から道路を妨害する事で貢ぎ物を取る事が出来る。ちょうど自分の車で渋滞を引き起こし、報酬が支払わなければ車を動かさないというようにである。」
(ディーター・ズーア)
通貨の機能が交換の媒体、価値の尺度、価値の保存のみならず、投機的利益の道具、支配の道具という本来の機能を阻害する機能が現在の外国為替の98%で動かされ、財とサービスはわずか2%しか使われていない点を通貨ユーロの企画運営にも関わったベルナール・リエターは指摘し、1971年の米国ニクソン大統領によるドルショック、英国サッチャー首相の金融規制緩和政策、そして、コンピータリゼーション。これらが相まって今の金融システムがある。
その破局は1930年代のある意味、欧米限定の世界恐慌以上になるかも知れない。
減価する貨幣システム、歴史上このシステムは古代エジプト、中世西欧に実在し、その遺産は歴史的遺産として今も残り続けている。
通貨、貨幣に価値を見いだす社会は取引することに意味を持ち、結果であるものに対する執着をなくす。ものが価値であり、貨幣は道具という当たり前の価値観を見失ったところに現代の問題点があり、過程にこだわり、結果をおざなりにする風潮にもこれは言えるのではないでしょうか?
エンデの「お金とは何か」は結局、「お金を利用する人とは何か」という問いであり、「金は天下の回りもの」としなければ地球はお金が一極集中して脳梗塞に陥ってしまう。お金の分散化の方法論を説いているのでしょう。
道具を如何に活用し、負け人なしの社会を作る。それがエンデの遺言であり、ガイド71で語られる再利用の進めにも繋がるのじゃないかなぁと思っています。
小泉年金改革は面白い局面迎えているけど、基礎年金拡充じゃなきゃ、国民総玉砕の道をまっしぐらのような気もしています。
貯金に課税を。
だいぶ前、注文していたベニー・モレー(BENNY MORE)のコンプリート・ボックス「Grabaciones Completas 1953-1960」、繰り返し聴きながら。
結局、お金が「障碍」を生み出すんでしょうね。
おっとり人間がせっかち人間に雇われ、嫌み言われればそれは障碍になるわけで、おっとり人間が自分の性格を好きか嫌いかの問題とは別次元の話でもある。
社会は「わたしの障碍」にどれほど関心があるのでしょうか?
そして「社会の障碍」を「わたしの障碍」に押し付けているのでしょうか?
以上のように「わたしの障碍」を考える時、当人の身体的障碍が直接的に障碍になるのは性格との相性くらいで、「わたしの障碍」はこだわる私にあって、経済社会システムはこだわる私に追い打ちかけているだけのような気がする。
「支援費云々」で「支援費」は私にとって通り過ぎる金であり、それを得る介護ビジネスの問題だと思う。
当人は「支援費」24時間保障されず、アウシュビッツされましたとマスコミに騒いで貰えばいい事なのであって。まぁ、死ねば関係ない事だろうけど。
「家計からみる日本経済」(橘木俊詔 著作)なる新書で「今こそ分配について考える必要がある、という認識に至る経済分析と、そこを出発点に具体的な提言」と語られる今、一方的に落ち度を責め立て、自助努力を則す愚かな社会は是正すべきなのでは?
「金は天下の回りもの」例えば、1万円を10人に廻せば、10万円の経済効果があるけど、独り占めすれば1万円の価値しかない。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話。
「政府貨幣」などという姑息な事を考えずに、迫り来る金融恐慌の防波堤としての「地域通貨」その国際版ともいうべき「テラ通貨」をもっと国、自治体は考えた方がいいのでは?非課税にこだわる団体は論外と思うけど。
超自然主義から生まれたボレロを歌うベニー・モレーはひたすら「愛」を歌っているのに。
「蓄え」は「地球滅亡」を招く。だから、アフィリエイトでいきましょう。(笑)
道路が社会の血管で流れるお金が血液なら、自然に起こる貧血症
喜納昌吉&チャンプルーズ「番長小(ばんちょうぐわー)」『喜納昌吉&チャンプルーズ』
彼の地を思い、我が身を案じ。
ペルー領事館事件
食べていくための仕事にひと休みして 私はTVをつけた
眠らぬ旅のあれこれを 生まれた街で癒そうと試みていた明日にはこの街にも雪がちらつくだろうと
季節はずれの天気予報が流れていた
明けきった5時半の空に目を細めて チャンネルを変えた中継という文字 そして私の瞳に爆風が噴きつけて来た
長い間に見慣れてしまっていた白く平たい石造りの建物から
朱色の炎と石くれが噴きあがる瞬岡だった
ゆらゆらと熱のかげろうはあがり
やがて白い煙から土色の煙となって建物から噴き出していた昨日までと今日は違うものなのだと
人はふいに思い知らされるのだね蟻のように黒い人影が走り込む 身を潜める 這い進む 撃ち放つ
どうせTVの中のことだと考えることもできず 考えないわけにもいかず
ただ私は誰が何を伝えようとしているのか
それだけに耳を領けた それだけに耳を領けた大きな救急車が扉を広く開けて待ち構え続けている
担架に乗り 肩にかつがれ 白い姿の人々が運び出される日本人が救けられましたと 興奮したリポート
ディレククーの声もエンジニアの声もいり混じっている人質が手を振っています元気そうです笑顔ですとリポートは続けられている
その時ひとかたまりの黒い姿の人々が担架を囲んでとび出して来るリポーターは日本人が手を振っていますとだけ嬉々として語り続ける
担架の上には黒く煤けた兵士
腕は担架からぶら下がり 足首がグラグラと揺れる
兵士の胸元に赤いしみが広がる
兵士の肩に彼の銃が ためらいがちに仲問によって載せられる
担架はそれきり全速力でいずこかへと運び出されてゆく日本人が元気に手を振っていますとリポーターは興奮して伝え続ける
黒い蟻のようなあの1人の兵士のことはひと言も触れない ひと事も触れない日本人の家族たちを喜ばせるためのリポートは切れることなく続く
しかしあの兵士にも父も母も妻も子もあるのではなかったろうか
蟻のように真っ黒に煤けた彼にも 真っ黒に煤けた彼にもあの国の人たちの正しさを ここにいる私は測り知れない
あの国の戦いの正しさを ここにいる私は測り知れない
しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろうこの国は危い
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
日本と名の付いていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう慌てた時に 人は正体を顕わすね
あの国の中で事件は終わり
私の中ではこの国への怖れが 黒い炎を噴きあげはじめた4.2.3.…… 4.2.3.……
日本人の人質は全員無事
4.2.3.…… 4.2.3.……
4.2.3.…… 4.2.3.……
(アルバム『わたしの子供になりなさい』(1998年作品収録)
素朴な疑問。
救出側って誰なんでしょうかね?
戦争終結宣言後、人の国で銃を発砲する外人さんなのでしょうか?
「テロ」やってるのは外人さん達で武装勢力は「レジスタンス」なんじゃないのかな。
「4.2.3.」収録の『わたしの子供になりなさい』に「命の別名」という歌があります。水戸事件のドラマ『聖者の行進』(1998年作品)の主題歌。
繰り返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
(アルバム『わたしの子供になりなさい』(1998年作品収録)
イラクの人達が「テロ」から解放される日を願い。
韓国イ・チャンドン監督『オアシス』(2002年作品)、観てきました。
前科者の青年と脳性麻痺の女性が、世間の無理解に苦しめられながらも互いの愛をどこまでも純化させ貫き通す姿を痛ましくもピュアに描いた衝撃のラブ・ストーリー。
キャッチ・コピーにあるように
「誰も彼らの愛を理解できなかった。
誰も二人の世界を認めたがらなかった。」
前科男と脳性麻痺女が全裸で絡んでいれば、強姦と見なし、脳性麻痺女は保護され、孤独が良しとされ、前科男は変態のレッテルを貼られる。
「ロミオとジュリエット」が社会のおかしさを認識しながらの悲劇だったのに対し、この現代版「ロミオとジュリエット」は社会のおかしさを社会自体認識していない。だから、刑務所から出された前科男のラブ・レターも社会の同情、劣情、欺瞞と再度立ち向かわなきゃならない二人を暗示し、終わる。けど、二人に悲壮感はない。今と同じなだけなのだから。
脳性麻痺女が身体的障碍などなくなる幻想シーン。あれは幻想じゃなく、前科男にとっても脳性麻痺女にとっても身体的障碍など関係ない証なんだろうと思いました。
それにしても脳性麻痺女演じる女優さん、リアリズムの極致をやっているけど、よだれを流さない分、芝居だなぁと感じた僕は偏屈です。(笑)
会議は踊る。されど、会議は進まず。美空ひばり「お祭りマンボ」にならなければいいが。
おじさんおじさん 大変だ
どこかで半鐘がなっている
火事は近いよ スリバンだ
何をいっても ワッショイショイ
何をきいても ワッショイショイ
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
ソーレ ソレソレ お祭りだおばさんおばさん 大変だ
おうちが留守だよ からっぽだ
こっそり空き巣がねらってる
何をいっても ピーシャラヒャ
何をきいても テンツクツ
ピーシャラピーシャラ
テンツクツテンツクツ
ソーレ ソレソレ お祭りだお祭りすんで 日が暮れて
冷たい風の 吹く夜は
家を焼かれたおじさんと
へそくり取られたおばさんの
ほんにせつない溜息ばかり
いくら泣いてもかえらない
いくら泣いても後の祭りよ
岡林信康の歌にこんなのがあります。日本の子供らは幸せですね?
闘う親父は今頃、シアトルで何を考えているのだろう?
母なる大地埋め立てろ 煙の工場でモノ作り
他国に売ってゼニ稼げ 食い物なんぞは買えばいい
母なる大地を切り刻め カラダを売るようなものだけど
慣れてしまえぱ何のこと 今じゃガキでもカラダ売るああ我が祖国、日の本は 小金のうなる朝日楼
お金を生まぬ無駄な物 愛する国から消してやる
あの山削れハイウェイ コンクリートでメイキャップ
煙は進歩のバロメーター お水や空気が汚れても
他所から買えばええじゃないか 金で買えないものはないああ我が祖国、日の本は 小金のうなる朝日楼
今じゃ世界のAクラス 朝から頬張るハンバーグ
小学生の成人病 健康ブームにダイエット
病気を知らぬは野蛮人 文明人はデリケート
夏には冷房、冬暖房 お天道様など知りまへんああ我が祖国、日の本は 小金のうなる朝日楼
アルバム『BEAR KNUCKLE MUSIC』
(1990年作品収録 USENの音楽ダウンロードサービス『OnGen』試聴購入可能)
iTunes Music Store 我が祖国(iTunesインストール済みで利用可能です)
今書きとめたい歌 君に捧げる LOVE SONG
岡林信康「君に捧げるラブ・ソング」アルバム『街はステキなカーニバル』(1979年作品初演)