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子守唄

From 2005-07-17(日)
To 2005-08-11(木)

ポックリさん

亡き実母の命日が近づいてきた。実母の享年と同じ歳になり、生き急いだ母の人生を想う。戦争で頼れる兄、可愛い弟を亡くし、戦後は口減らしで札幌に働きに出、好きな人と結ばれず、実家の家計難に身ごもった子を産む事をあきらめ、仕送りし、また、人を愛し、身ごもり、この子をおろすと一生子供は授かれないと産んだのが僕。それはひどい難産だったそうで、首にへその緒が絡まり、仮死状態の出生。母は半狂乱になったそう。

なんとか生き延びた子のために父と結婚。我が子の利き手に障碍あるのを知り、また、家族して札幌へ。忘れられぬ実父との密会による認知の懇願。普通の小学校に入学させるための教育委員会への懇願。そんな無理が祟ったのか、僕が10歳の時、乳ガンとなり、片乳房切除。数年後、再発。我が子の不自由さを気にかけ、ガンが全身転移しても生きようとした。

法律なんか救ってくれない。生きるために働き、出逢い、愛し、生きた。

そんな事を思い返し、ポックリさんを調べると「ポックリさん」とはこの世に思い残さない「大往生」の事であり、未練残す「安楽死」などではないとの事。

ポックリさんであった母に抱かれ、聴かされた若き日の夢が僕の子守唄。

海よお前は 覚えているか
若い船乗りの夢の行方を
海よお前は 覚えているか
そして帰らない小舟の数を

中島みゆき「海よ」より
[アルバム『私の声が聞こえますか』(1975年作品)初演
アルバム『おとぎばなし-Fairy Ring』(2002年作品)再演]

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柳川堀割物語

帳尻あわせ


「鳴かぬなら、殺してしまえ」の世の中、有識者とは無知な人なりとつくづく思うこの頃。

食糧自給率の帳尻あわせ、竹中平蔵氏の元による経済財政白書「小さな政府」論。金で済む事を済まさずに金で済ますべきでない事を金で済まそうとする。

いちゃもん都知事のフランス文化批判発言などはそういう前に役所の訳判らない創作外来語の排除を行ってからして貰いたいし、対外関係悪化させる口実作って、国防費アップ狙う魂胆なら許し難い。国防費は国防費で少子高齢の将来を考えずに新しい兵器開発に予算を計上したがっているようだし、これじゃ「小さな政府」論の根っこがかいま見えるというもの。

幕藩制の世の覇者は富が土地にあったがために有識者をかき集め、治水対策に底知れぬ知識を注ぎ込んだ事は高畑勲監督の『柳川堀割物語』を見れば判る。おそらくは幕藩制の世の有識者は物事を論理づけるために自然の摂理を十二分に学んだのでしょう。

どうも今の世の有識者はハブリックを理解しておらず、幕藩制の世の覇者の悪しき点のみまねている気がする。

それは自然に寄らずとも金で動く社会であるからであろうが、結果、自然と対峙せざるおえない貧者たちの声を聴かなくなったし、効率優先で、人の苦労を軽んじるようになった。

NASAの安全管理軽視の問題はTBSのニュースでもやっていたから、トラブルでディスカバリー搭乗者は命拾いしたのだろうと思うし、スティーヴ・マックィーンも被害者といわれるアスベスト被害への国の対応の遅れも効率優先、ハブリック意識なしの産物でしょう。

今朝の新聞に原爆投下阻止できずのアインシュタインの手紙寄贈の記事がありましたが、ハブリックであろうとする組織体ほど、暴走すると歯止めは利かず、「正義」すら「毒薬」に変貌する。戦後民主化運動はその愚かさを踏まえた上でのあらがいだったのだろうと。

ハブリックとは個々人であり、個の尊重とは対話でしかない。

組織がただ単に往来の場であれば、自ずと人は本能を研ぎ澄ませ、人との関わりのあり方を見いだすのじゃないだろうかと。

今の世の有識者の帳尻あわせは自然を荒れ狂わせ、自然と対峙せざるおえない人々に更に何重もの苦労を背負わすだけ。

もっと自然と対峙する人たちの声を聴き、自然の摂理を知って欲しいもの。

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バッシングはタブー

「バッシングはタブー」なる新聞記事読み、映画『バッシング』配給目途たたずの小林政広監督のぼやき、拝見。
[ボクの映画渡世帖 小林政広]

8ヶ国上映決まっているのに臭いものにフタのこの地は寂しい国やね。

どさくさ紛れの上映で済まされるのも嫌だけど。

映画『バッシング』

バッシングされた女性の日常を追った映画でカンヌ映画祭出品作品。
カンヌでは映画以前に何故バッシングされなきゃならないのかに質問集中した。評判を聞く限り、是枝裕和監督作品『誰も知らない』と同じ、スキャンダラスな映画ではないようで、ヒット要因ないから配給先が二の足踏んでいるとか。

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岡林信康「毛のないエテ公」

自分を大切に出来ない人間が嫌いなんだろうなぁと何となく自分の書き連ねた事を通し、思いながら、岡林信康の歌詞カードをむさぼり読む。

発禁処分になった多くの歌を持つ岡林、その最初の歩み、URCレコードの音源の大半はネットオークションを探すしかないのが現状。URC時代の岡林自作曲32曲ライブ盤『狂い咲き』もCDショップ在庫限りのよう。

反体制と歌いつつ、その実、体制側がご都合主義でフタしたがっている事を歌っただけの歌たち。

もしも差別がなかったら
好きな人とお店が持てた
部落に生まれたそのことの
どこが悪い なにが違う
暗い手紙になりました
だけど私は書きたかった

岡林信康「手紙」より
[アルバム『わたしを断罪せよ』(1969年作品)収録]

チューリップのアップリケ」と並ぶ部落被差別を歌った歌も共に発禁処分になったそう。

その後、岡林は自分を見失うほどの多忙なスケジュールをすっぽかし、蒸発。長野の知人宅でボブ・ディランとジュディ・コリンズのアルバムをむさぼり聴き、翌年、「私たちの望むものは」を含む『見る前に跳べ』を発表。

おまわりさん言ってやろうか
あんただって便所のハエさ
あんたが真面目な事はよく判る
おまわりさん俺の心にも
あんたと似たところがあるさ
だけどそれではきっとダメなんだ
そうだろう

岡林信康「おまわりさんに捧げる歌」より
[アルバム『見る前に跳べ』(1970年作品)収録]

けれども、反体制の組織化での内輪もめに嫌気さし、『俺らいちぬけた』を発表。反体制から反人間を歌う。

恐れ多くも エテ公の分際で
お天道様の 声も聴かず
おもちゃのように この星をいじくる
ああ 恐ろしい事よ

エテ公のくせに エテ公でないような
つらをしたがる 毛のないエテ公
お天道様に 背を向けて
そのうち そろってのたれ死に

岡林信康「毛のないエテ公」より
[アルバム『俺らいちぬけた』(1971年作品)収録]

今日の新聞コラムにマルクスの「分裂なき共同体」思想としての『資本論』を展開する『マルクス入門』著者今村仁司氏のコラムが載っていたけれども、人間学としての経済理論の構築は35年前に日本文化においてとっくに提言されていた事であろうし、くだらん円滑権力主義が混乱招く故になきものにしたから、日本の混乱は肥大化するのだろうと。貧富格差が掠奪闘争を招くのは赤子だって判っている事なのにね。

来年何が出るかは 知らねえが
とにかく殺しのテクニックだけは
なんでもあるから 全然心配ねぇ
ありがたいのは 文明の力
偉いもんだよ人間は
頭のできが ちょいとちがう

岡林信康「偉いもんだよ人間は」より
[アルバム『俺らいちぬけた』(1971年作品)収録]

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スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐

ダース・ベーダー


掠奪からお国自慢に衣替え出来るかの国際化。

「無駄な抵抗は止めなさい。君たちは包囲されている」
去年の岡林師匠のライブでのお言葉。

新聞コラムによるとジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』のダース・ベーダーのモデルはブッシュらしい。(笑)

白地に国民の血潮染めるこの国は郵政民営化のお家騒動、労基法違反の賃金未払い急増。キャッチセール張りにしつこく電話セールスするNTT系。天下り何故悪いと国のおんぶお化けの経団連。総スッカンのNHKの受信料支払い世帯のみの受信検討。

誰も「公共」を理解してないジャン。(笑)

色つき絵には 高く取り
白黒絵には 安く取る
されど もぐりの 客めらは
金も払わず 絵を眺め
御上は バヒトを 使いつつ
悪者をさぐり 続けるなりけれ
えぬ・えち・けい

岡林信康歌「NHKに捧げる歌」より
[アルバム『見る前に跳べ』(1970年作品)収録]

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岡林信康「性と文化の革命」

一度団地の中を歩いてごらん
どこの家庭も子供は二人か三人
何人子供を作るのかを
きめるのは給料で二人じゃない
だからどこも子供の数は同じ
もしもみんなが好きなだけ子供を
つくる金とひまと場所をよこせと
さわぎだしたらさあたいへん
人は増えるはやとわにゃならぬ
きっと誰かさんはあわてるだろう

岡林信康「性と文化の革命」より
[アルバム『見る前に跳べ』(1970年作品)収録]

抑圧社会からの解放、公民権運動からベトナム反戦運動と文化大革命の時代、日本もバイブル、ウィルヘルム・ライヒの『性と文化の革命』の影響を受けた時代で、ウーマン・リブ、ゲイ・カルチャーが日の目を見たのもこの頃。

岡林信康なりの「性と文化の革命」解釈は社会構造論になっているのだけど、当時思春期だった僕は性の解放が抑圧社会からの解放である事はキューブリック『時計じかけのオレンジ』でなんとなく理解していた。

今も岡林の批判した論法をお偉方が信じているとは思えないけど、野田聖子議員の出産トラブルでの「子供を作るのがこんなに大変だとは思わなかった」なる発言はインスタント世代もここまで来たかぁと驚愕したもの。

人の痛みをわからない上に、「暇」の感覚が欧米のバカンス並みにならないケチで貧しい国では金も暇も与えない利己主義経営を認めてしまい、単身赴任なる流刑、リストラもまかり通り、気がつけば少子高齢。

経済産業省の「少子化時代の結婚産業の在り方に関する研究会」の報告書の記事には笑ってしまったけれども、判らないという事は恐ろしい。

おそらくこの国のエリートは70年安保時のプライベートをパブリックに高める「性と文化の革命」なんて理解不可能なのかなぁと。

だけどみんな知らないうちに生きてる
誰かさんの都合のいいように
そんなお前にしこんだのは
おやじおふくろそして先公
テレビ新聞週刊誌マスコミさ
今日も町をあやつり人形どもが
でかいつらしてふらふら歩いてく
だれかがくしゃみをしたらみんなが
かぜをひいてしまうような
とてもよくできたお笑いさ

岡林信康「性と文化の革命」より
[アルバム『見る前に跳べ』(1970年作品)収録]

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竹田の子守唄 名曲に隠された真実

守り子唄


守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

岡林信康デビューと同時期、関西フォークの赤い鳥が歌い、大ヒットした「竹田の子守唄」。この曲もまた一時期、放送禁止、発売禁止が暗黙のうちになされていた。ちょうど日本がバブル景気に浮かれていた頃。

この曲の秘話はBeats21 Archive高野山講演「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」藤田正「竹田の子守唄」というメッセージ・ソングに詳しいけど、藤田正さんの著作『竹田の子守唄 名曲に隠された真実』を読むと子守り奉公に出された娘等のブルースであった事がよく判る。

封建社会が崩壊し、近代化していく日本は貧富を生み出し、貧しい家庭のまだ年端もいかない7、8歳の娘たちは裕福な家に奉公に出されていた。奉公先ではいびられ、それでも負けじと守り子たちがその嘆きを歌にしたもの、それが「守り子唄」。

この子死んでも
墓いはやらん(墓の中に入れない)
焼いて粉にして 白湯で飲む

ただ えみこ著『唄で命をつむいで』より

似たような内容の子守唄は全国に点在し、五木の子守唄で有名な五木村のサイトには五木の子守唄のエピソードをまとめたものがあり、正調五木の子守唄が聴けたり、嘆きを歌った歌詞の意味、子守唄のいわれなどがまとめられている。しかし、この五木村もダム建設により存続問題が発生しているという

おどんが打っ死(ち)んだちゅうて
だいが泣いてくりゅうか
うらの松山蝉が鳴く

遠く離れた所に子守奉公にきて私が死んでも
だれも悲しまない
ただ蝉が鳴くだけ。

また、東南アジアにからゆきさんとして売られていった娘たちの故郷の歌、島原の子守唄を英語で聴かせるサイトもある。[『サンダカン八番娼館 望郷』]

世界の二割の人が世界の八割の金を有し、日本もそれと同じ割合で貧富格差がある。

花ある風景で紹介されているNPO法人日本子守唄協会協力『子守唄よ、甦れ』。これを読もうと思っています。

技術最先端、実用無関心のこの国の歴史を知るために。

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無理が通れば道理引っ込む

おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと
盆が早よくりゃ早よもどる

子守奉公も盆で年季が明ける
盆から先はこんなところにはいないぞ
盆が来りゃ、恋しい父さん母さんがいる古里にすぐ帰る

「五木の子守唄」より

私の脳はなぜ虫が好きか?』の養老孟司さんの新聞コラムは実に判りやすい。養老さんは以下の三段論法で話を進める。

  • 子供は自然
  • 大人は便利さを追い求める
  • 子供は便利さの中で自然である身体と便利さ求める心で揺れ動く

自然を忘れた大人に非がありますなぁ。(笑)
養老さんは子供を作る歳でもない自分が出来る事は子供たちを自然に帰すよう心がけるとの事。

で、僕なりの現代論としましてはプライベートとパブリックの分離。「プライベートを仕事に持ち込むなぁ」はジキルとハイドの薦めでして、パブリックでプライベートを潤したい御仁たちは口先のジキルとハイドになればいいのだけれど、労働者諸君は心身共にジキルとハイドにならなきゃならん。生きる上でお金が必要で、お金を得るため、勤労奉仕しなければならない現状、「無理が通れば道理引っ込む」はまかり通る。国民総部落民化であって、やはり部落解放を考えなきゃならんのじゃないかと。壊れるのは自分であり、壊す方は忘れるものですから。

自然に帰るべきは大人、そう思うのですよね。

岡林信康が今も歌い続ける初期ナンバー

いつのまにかわたしが
わたしでないような
枯葉が風に舞うように
小舟がただようように
わたしがもう一度
わたしになるために
育ててくれた世界に
別れを告げて旅立つ
信じたいために疑い続ける
自由への長い旅をひとり
自由への長い旅を今日も

岡林信康「自由への長い旅」より

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子守唄よ、甦れ

母恋歌


母親は子守唄を歌えなかった。

子守唄よ、甦れ』の巻頭県談「子守唄は『いのちの讃歌』」を読んでいて、日本は国益重視のシステムを壊す術を持たぬまま、現代に至ったのだろうと感ずるところ。

日本は古来、防人の国。
武家、貴族は義経、一休の例もあるとおり、子は生まれるすぐ国の稚児として、母親から引き離され、乳母に預けられた。今上天皇までの皇室もこのシステムで、女は子を産む道具。「万葉集」など大人の恋歌はあれども、子が育つ歌は一編もなく、言い換えれば、「産めよ、増やせよ」を薦める歌集。

貧しき庶民とて、母は生活の糧を得るため、近所の子供、年寄り、不具者に子守りをゆだねたのだろう。

巷には「お江戸の子守唄」などの寝かせ歌と「お月様いくつ」などの遊ばせ歌が広まる。

文明開化の近代化、特定階級のみの国の稚児意識は庶民にまで広められ、これぞ国にとっての民主化、五体満足は国の稚児として、兵役合格。貧富格差から守り子文化が生まれたのもこの頃で、男はお国のため、女は子作り、子供は子守りという社会システムが成り立った。

極貧の庶民は養い切れぬ身ごもった子を間引くために冷水につかったり、腹を石で叩いたりもし、産んだとしても国に捧げる子供。母親の苦悩は子守唄になり得なかった。

地蔵菩薩が閻魔となり、死者を裁く地獄信仰はおそらくは生まれても人にして人にあらずのこの国のシステムへの恨みから生まれたものなのだろう。

高度成長から安定成長に移る1970年前後、障碍持った子を母が殺す事件があり、日本の障碍者運動の先駆けとされる脳性麻痺青い芝の会の「母よ、殺すな」運動は運動体の主催者たちが親となった1990年代には「子よ、殺すな」に変わっていき、昨今の児童虐待、高齢者虐待へ繋がっているようにも思えてくる。

物と金の豊かさに惑わされ、日本人は個の自由を顧みることなく、今日があるのだろう。

バブル期以前、日本の民衆気質に「騙されねぇぞぉ」という気運があり、自分たちのルーツを知ろうとする動きの一端が『子守唄よ、甦れ』制作者たちなんじゃないかなぁと。

詩人、エッセイストの松永伍一さんの母上が残された辞世の句。

暗きより暗きに移るこの身をば
このまま救う松かげの月

それに対し、松永さんは手紙を書く。

わたしを生んでくれてありがとうございました。

対談の終わり、「生きている事が当たり前の時代」にいずれ人類が滅ぶ時、その鎮魂歌は子守唄なのではないかというお話をされており、ただ単に個々人死す時、子守唄が鎮魂歌なのだろうと思う次第。

この本の編集後記に大企業の偉い方々に子守唄を弾き語りする機会があった時、大企業の偉い方々も目頭押さえ、あちこちでハンカチを手にされていたとか。

寂しい世の中、寂しいと言わない事が罪なのかもと。

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運が良けりゃ

山田洋次運が良けりゃ』(1966年作品)


身体の凝りをほぐすために通い続けているフィットネスクラブ「Gradness Sports Park」にボクシング・リングが備え付けられており、トレーニングの様子をずっと見続けているのだけれど、頭で覚えた事を体で覚え、それを頭で覚える。この繰り返しなのだろうなぁと感じています。

小さい頃から体育の時間は見学とされていた僕としてはストレッチしながらも、リングやスタジオでトレーニングする人たちの姿を見るのは童心に返ったような気分で気持ちいい。

昨日作業しながら見た山田洋次監督運が良けりゃ』もなんか懐かしい時代を思い返させて貰った。

人情物でもきまじめさが強く出てしまいがちな山田洋次監督も初期の頃のアバウトさは定評あるのだけれど、『運が良けりゃ』は古典落語を題材とした時代劇。ろくに調べもしないマスメディアが近年の一連の時代劇で「山田洋次初の」なぞと論評しているようだけど、こんな傑作を無視しちゃ駄目ですよね。

出演メンバーたちが幼き頃、テレビで親しんだ方達である事と古典落語という反骨精神溢れる日本文化を僕は子供の頃、よく観ていたのだなぁ。

運が良けりゃ』に描かれる古典落語は「ラクダの」「寝床」「黄金餅」「付き馬」など。中でも「ラクダ」「黄金餅」は凄い話で「千字寄席 ところでそろそろ志ん生かな。: 落語のあらすじ」でその内容は判る。

映画ではこの二つの話をくっつけいたのだけど、簡単に紹介すると「黄金餅」は金を残し、死ぬのは死んでも死にきれない人が金を餅にくるみ、食べ、窒息し、死ぬ。映画はここまでだけど、落語ではその死体を坊さんが腹かっさばき、持ち逃げするという「悪銭身に付く」話。「黄金餅

「ラクダ」は長屋の嫌われ者が死に、誰も香典を払いたがらず、大家に葬儀一式持たせようと「嫌だと言ったら、死人にかんかん踊りを踊らすぞ」と脅しかけ、それに動じない大家の家で死人のかんかん踊りが繰り広げられるという、「嫌われ者の末路」なる話。「ラクダ

あの頃の日本にあったバイタリティはどこに行ったんだろう。仕事の合間、時間を作り、自分を鍛える熱心さは失われていないのに。

便利さも安易さも利用しながらも、信じられず、どのようにバイタリティを出せばいいのか判らないのが現代なのかなと思ったりもして。

大学時就職活動の時、ハローワークで「もう少し障碍が重ければ、雇用助成で就職先があるかも知れないけどね」と無い物ねだりされた。「もう少し障碍が重ければ」これから障碍に負われる方々、ここがポイントかと。(笑)

己を知り、自国の文化を知る。海外じゃ常識な事が粗末にされる国だからおかしいんだろうけどね。

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レクチャー

寝ろってばよう
寝ろってば寝ないのか
この餓鬼め

根元的な子守唄、「寝かせ歌」は縄文期、生活の糧を得るためには子供を寝かしつけるのが合理的と広く広まったらしく、弥生期、農耕技術の発展と共に生活にゆとり生まれ、子と遊ぶ「遊ばせ歌」が生まれたのではないかという話。

福祉専攻している学生から「施設に研修に行くのだけれども、障碍持つ人とどう付き合えばいいのか」なる珍問を問われ、以下のようなレクチャーしました。(笑)

背の低い人が届きそうにない高い場所にある物を取れなく困っている。これが障碍であって、高い場所に手が届かない事とその人の人格を一緒くたに語っているんじゃないのかい。

近代化と共に便利さ、安易さに享受する方々が奉公制度の悲哀歌「守り子歌」が判らないように、現代人も便利さ、安易さがゆとりと誤解しているような。

「寝場所のコンビニ化」なる新聞コラムも見かけましたが、バンパイアーのように自分が生きる事のみ追い求める時代になってしまったのかなと。

障碍とは何か、子供とは何か、老いるとは何か、自然とは何か、レクチャーすべき事は山ほどあると思うのだけど、逆レクチャーが流行のような気も。

構造改革ならず、改革の構造化、崩壊なるかの昨今、思う事。

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社会というお化け

やはり日本人は社会というお化けに取り憑かれているような。
社会が良くなれば生活が良くなると信じている。
「南無阿弥陀仏」のように。(笑)

昨今、太平洋戦争振り返る映画を続けてみられ、思い返すにはやはり、心に残る名作は『ビルマの竪琴』なのかなと。僕が観ているのはチャコちゃんのお父さん安井昌二のもので中井貴一のものは未見なのですが。

正義の名目でアジア諸国に侵略し、その欺瞞に悩み苦しみ、日本を捨て、一僧侶になり、ビルマ(ミャンマー)に残る兵士。

中国反日抗議の際、「私たちの世代がやった事ではない」と在中日本人が語る言葉の冷たさが今も脳裏から離れない。人の苦悩を知ろうとしない者、自分の環境を顧みないのだろうと。

「人権」はわずらわしいから法案先送り。
「人権」盛り込まれれば、仕事が増える。
「人権」は自分の権利なのに、社会というお化けとどう同行二人するかで軽んじられる。
お化けにとってはありがたや。

金で買われた奴隷だけれど 心は俺の物

岡林信康「くそくらえ節」より

奴隷と思っていない奴隷ほど鬼畜になりたがる。

ミンミン蝉は「恋しさ」求め、鳴き続ける。
「清き一票」は「人恋しさ」なのか
「こっちの水は甘いぞ」なのか。

天知る、地知る、我が知る。

有難や有難や 有難や有難や
金がなければ くよくよします
女に振られりゃ 泣きまする
腹がへったら おまんまたべて
寿命尽きれば あの世行き
有難や有難や 有難や有難や

守屋浩「有難や節」より[CD]

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風詩

岡林信康「陽炎情話」


勧善懲悪と義理人情の責め気合い、お家騒動を市井の民に印象づける選挙手法が吉と出るか、凶と出るのか。新たなる9.11が気になるところ。

単調なリズムの農耕唄、網引き唄は外国人にみっともないと禁じ、騎馬唄教え続ける自国民植民地化教育。国際化とは自国文化を捨て去る事。

若い頃、日本語のロックが可能か挑戦し続けた岡林信康さんは今、日本の民謡にこだわり続ける。ライブでも日本には生活から生まれた多様なリズムがあると実演してくれた。

ソーリャ ソーリャ

ヤンサノエー ヨイヤマカショ

ヨイヨイ ヨイヤマッカ ドッコイ サノセ

ええじゃないか!ヨイ!ヨイ!ヨイ!

ああ しょんがいな

ああ デレレコデン

らっせーら らっせーら

この世の議論は国家などに代表される組織論と個々人の生き方の個人論におそらくは分かれるのだろう。『子守唄よ、甦れ』で「100人の人には100人の母がいる」なる言葉が書かれてある。日本独自の義理人情の文化は個人論から発生したはずなのに、組織論で使われると本質が全然違ってくるように思える。欧米かぶれの勧善懲悪は論外としても。

組織を運営しようとする人たちは日本の文化に流れる個人論をしっかり理解して貰いたいもの。個々人の繋がりが日本の誇れる文化だと思うから。

花を咲かせて 又散らす
見えぬ手よ 真なら
連れてゆきゃんせ どこまでも
この命 あずけたや

ああ しょんがいな

燃えて切なや 限りある
この命 愛おしや
叶うものなら咲き乱れ
散る日まで抱き合うて

ああ しょんがいな

岡林信康「陽炎情話」より
アルバム『風詩』(1998年作品初演)

今の僕と同じ歳で亡くなった実母の命日。盆の入りを前にして。

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子守唄よ、甦れ

動物行動学


子守唄に関わるであろう話があったので追記。

今年度の国民生活白書[PDF]に関する記事を読んで気にかかった「地域で子育て論」

子守唄よ、甦れ』にて財団法人日本動物愛護協会理事長の中川志郎さんの「動物たちの子守唄[ツルの子育てから見えたもの]」ツルの人工孵化と自然孵化の違いが書かれている話を読み、動物行動学なるものを知りました。

ツルの話は感動的な内容で、人工孵化したツルは成長し、繁殖期を迎えてもつがいの相手を仲間と思わずに攻撃にかかる。自然孵化は孵化の際、卵の中の雛と親鳥が互いに鳴き合い、親子の絆を築くという報告。そして、孵化して、、最初に目にした生き物を親と覚える「刷り込み」という本能から人工孵化では自分をツルと思わない「心理的雑種」という現象を起こすとか。

動物行動学の代表者コンラート・ローレンツは更に『文明化した人間の八つの大罪』なる本を書いており、その書評[PDF]を読むと動物行動学から考察した人間社会学ととらえる事が出来るのじゃないかと。

よせばいいのに浅知恵都知事がこの本の引用を答弁した話も見つけましたが、親のゆとりを考慮していないように感じる国民生活白書[PDF]は危険な気がするのですよね。

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徒然なるままに : 過去記事 2005-07-17 掲載 2005-08-13 加筆
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