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ECサイトのお勧め商品カタログ|映画好きのBS/CSガイド

失われた時を求めて

From 2006-01-04(水)
To 2006-04-16(日)


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バンザイなこっちゃ!

岡林信康「バンザイなこっちゃ!」


いつのまにかわたしが
わたしでないような
枯葉が風に舞うように
小舟がただようように
わたしがもう一度
わたしになるために
育ててくれた世界に
別れを告げて旅立つ
信じたいために疑い続ける
自由への長い旅をひとり
自由への長い旅を今日も

岡林信康「自由への長い旅」より

牧師の息子に生まれ、フォークの神様とあがめられた岡林信康。その彼が自己史を振り返り、趣味としている事、スポーツの事から音楽人生、郷土の話を綴った新刊『バンザイなこっちゃ!』を読み終えた。

家庭菜園、ドイツ鳩、金魚の趣味の話は岡林信康のこだわり方の話で、この人の物との接し方がよく判る。

スポーツではイチローへのエール、岡林流プロ野球改革案、子供の頃、あこがれた力士・栃錦と弱い横綱とさげすんでいた吉葉山が背負っていた戦争の痕を知った話、そして、岡林信康自身もトレーニングを積んだ事のあるボクシングの話。ボクシングは単なる殴り合いの強い者のスポーツではなく、弱い者が強い者と互角に戦うスポーツであると、輪島の話を織り交ぜながら、語られ、団塊の世代ならではの人生観を醸し出す。

牧師の息子というレッテルが嫌で、飛び込んだ山谷ドヤ街。地獄極楽の山谷体験から生まれた「山谷ブルース」。知的障碍の子供達の作文から生まれた「チューリップのアップリケ」。フォークの神様というレッテルの重さから逃れるように過ごした山村生活で知った演歌の魅力。美空ひばりとの出逢い。期待を裏切ったお陰でどんどん離れていくファンに試行錯誤繰り返す日々。イギリスでキング・クリムゾンのロバート・フィリップに「いいかげんに俺達の真似はやめたらどうだ。日本のロックを聞かせてみろよ」と侮蔑的に浴びせられた一言から始まるエンヤトットミュージックの模索。そして、日本で受け入れられずにアメリカ・シアトルにその評価を求めに行き、踊り出す黒人のおばちゃんのぶるぶる揺れる大きなおケツに自身を得、日本でも石川さゆりなどが取り上げ始めた今日まで自己史秘話が綴られる。

歳月重ねなければ知り得ない話は、もうじき60歳になろうとする岡林信康の視点から家族の話、郷土の話へと進む。

父は閉鎖的な村社会から抜け出すべく、肉体労働を辞め、キリスト教伝道事業を行っていた宣教師、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの住む滋賀県近江八幡に移り住み、牧師となった人。岡林信康は父が捨てた肉体労働を山谷体験を通じ、知り、農村へ向かった。知らず知らずのうちに身に付いた讃美歌のメロディは岡林の作る歌に深い影響を与え、逆に日本的な音楽に岡林は魅せられていく。

岡林曰く、「ひとつのテーマを解くための、共同作業を」親子二代でしていたのではないか。

家庭薬「メンソレータム」を資金源とし、戦後、マッカーサーに、天皇を戦犯として裁く事を思いとどまらせた歴史的役割を演じたヴォーリズ。「西洋文化による啓蒙運動とキリスト教伝道は違うものなのに」自虐的な著書『失敗者の自叙伝』を書き残した宗教家の考察を通し、郷土近江八幡を振り返り、同じく近江を拠点に、志半ばで倒れた織田信長論にまで話は及ぶ。利権貪る宗教団体を排斥し、天守閣ではなく、天主閣とした安土城を建立し、活発な近隣国との貿易をも目指したとされる織田信長論ではその先進性を高く評価している。

岡林信康はずっと「自由とは何かを」を問い続ける人で、「それで自由になったのかい」「自由への長い旅」などの歌に歌われる延長線上の考察が、エンヤトットミュージックであり、その過程がこのエッセイ集には繰り広げられるのだろう

そのひとつ。美空ひばりと豪遊した日々、ひばりさんはよく「あんたは片手間で歌をやろうとしている」と山村に引っ込み、コンサート活動を行っていない岡林に説教したという。「しょせん歌は表現手段。道具でしかないものに人生や命をかけてられるかい」と反論した岡林だが、「今、私は歌の道具が私であり、歌が私を道具として使ってくれるという考え方」に辿り着いたと書く。

岡林の言わんとするところは「枷」の中にあるから「自由」であり、「枷」を意識しない「自由」、「枷」に依存する「自由」は単に我が儘なのだろう。

それは肺炎、気管支炎を起こし、うつ状態がひどくなり、禁酒を始めた岡林が振り返る「酒によって奪われていた楽しみや喜びが姿を現す。」物に溺れず、物を愛おしむ話に繋がると思う。

本書の最終章で岡林が読み、感銘受けたとして、以下のような話が綴られる。

幼い頃、ボートピープルとして、戦火のベトナムから難民船で脱出した女性が重いうつ病を抱えるようになったのは難民船の思い出。船中、飢えと渇きで父が死に、同じように飢えに苦しむ人達が、少女の目の前で、父の肉をむさぼり食うという光景を目の当たりにした。治療時、女性は「私を食べて生き延びるんだ、死ぬんじゃない」という父の幻影を観、癒された。

究極、人間はプラス思考がなければ生きられない。不便さから工夫は生まれても、便利さは失わなければ不便さを知り得ない。岡林流人生論はこんな様々な人生訓から成り立っている。

「バンザイなこっちゃ!」(素晴らしい事だ)。ヴォーリズが口癖のように言っていた言葉を用い、「私はようやく歩き始める。」でこの書を閉じられている。

人生に勝ち負けなどはない。ただ、歩み続けるだけ。岡林信康の旅立ち宣言を読み、「お楽しみはこれからだ!」と元気出る年明けを迎える事が出来た。

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働く過剰 大人のための若者読本

『いいかげん』にしなさい


先日1月10日の北海道新聞に東大社会科学研究所の玄田有史助教授による「ひきこもり、ニートに悩む若者たちよ 大事なのは『いいかげん』」と題されたコラムが載っていた。

幼い頃から「意味を考えましょう」と先生や親から言われ続けた元ひきこもり経験者とのやりとりを綴った物だが、「働く意味」が見つけ出せずにいる経験者に「意味なんてそんなに考えなくていいよ。もう少しいいかげんでいいよ。」と助言したところ、「きちんと統計的に証明されてますか?」と問い返されたという。

玄田有史助教授の言われる『いいかげん』さの必要性は読んでいて、理解は出来るけど、『いいかげん』を許さない社会システムの本音と建て前がある以上、『いいかげん』さを当事者に求めては無理なのじゃないだろうか。

社会システムの本音はそのシステムの中に入り、『いいかげん』でいい部分を認識出来てこそ言える話であって、システムの中に入る建て前では『いいかげん』さは隠された物。

就労であれば、「何がしたいか」「何が出来るか」の他にその人間の人柄、健康状態、資格の有無、ある程度、年を重ねていれば職歴、そして、厳しいところでは近親者の犯罪履歴。門前払いを言い渡す条件は山ほどある。

それをくぐり抜けたとしてもシステムの中での能力には関係ない駆け引きの術なんて言うのも出てくるから単に『いいかげん』で片づく話ではないはずである。

生活費にも苦労している僕を見かねて、親身のなってくれる方からクリック報酬のGoogleアドセンスの活用法を教えて頂き、このサイトの広告掲示を工夫してみましたが、やはり人には親身のなってくれる方が大切なのであり、相身互いの関係が最小の社会でもあるはず。

『いいかげん』になれる人間関係がそれを取り巻く社会の目を気にして、厳しくなるからひきこもり、ニートという環境に逃げ込む人達がいるのでしょうし。

赤子が生まれ落ち、生きる実感を得るのは人肌に触れ、そのぬくもりを感じた時だとか。仮に人肌に触れる事ない赤子は生きる実感を感じ得ず、息絶える。

競い合う前提となる『いいかげん』になれる関係が希薄になりつつあるから、職場での精神疾患を抱えた方が増えられているのだろうし。

とにもかくにもこの冬の灯油高、大雪で、心身共に疲れ果てるこの頃。経済紙面で灯油高、大雪対策でデフレ脱却に前進の昨年末のニュースが鬼のように思えてくる。

以前、地下鉄で学生風の方達が交わされていた会話。「灯油代節約に部屋で腹筋している」それで済めばいいのだけれど。

『いいかげん』にしなさいと自然に言ったところで変わるべくもなく、『いいかげん』にしなさいと言うべきは『いいかげん』に無数の条件を付ける社会なのだろうと。

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恍惚の人

豊田四郎恍惚の人』(1972年作品)


映画『恍惚の人』を観たのは封切り時の1972年。まだ中学生だったのに、強烈なイメージが残っている。

翌年、実母が数年前にかかった乳ガンが全身に転移し、満47歳で壮絶な死を迎えたイメージと重なりあっているからなのかも知れないし、母が死んだ時、老いて恍惚となる母を看ずにすんだという気持ちもおそらくは映画『恍惚の人』から受けた老いのイメージなのだろう。

過食。痴呆。幻覚。徘徊。人格欠損。ネタキリ。

再見した映画『恍惚の人』で老人はその身体に支配されるが如く、動き回る。それに付き合わされる嫁が癇癪起こしながらも、介護し続ける美しさは、その14年後、吉田喜重監督人間の約束』で老夫婦の「恍惚」に付き合わされる嫁の「殺したい」願望へと変わる。

1970年代、安定成長に向かい始めた時期、おそらくはまだ家族の絆が守られていたのであろう、共稼ぎする嫁の介護への不満は家族に向けられ、家族も嫁の苦労を手助けする、そんな「ゆとり」が感じられる。

長寿が語られると同じ頃、語られ始めた「恍惚の人」。『人間の約束』では「人間の尊厳」として、老婆が殺される。無策に等しい高齢者問題は家族介護から施設介護、介護保険と恍惚の人の「人間の尊厳」を語られることなく、たらい回しにされ、介護の苦悩から解き放たれたい家族もまた、その合理性に身をゆだねていく。

死んだ婆さんの骨を食べ、国道をひた走り、便所に籠もり、あさがおを壊し、自分の便にまみれ、家の風呂で溺れる。

老人性痴呆は理性で押さえ込まれていた人間の欲望の現れとも言われる事があるが、映画『恍惚の人』の主人公も真面目一徹で生き抜いた高度経済成長の落とし子だったのだろう。

癌で亡くなった実母も転移した癌の痛みなのか、ベットに寝ては起き上がり、起き上がっては寝る。まさに身体に支配されたあげく、痰がのどに絡んでの死。

人は最期は身体に支配されるのだろう。

恍惚の人に対するケアを調べると映画『恍惚の人』で描かれた介護のしんどさは、痴呆とどうやって共存して行くか、痴呆になった自分たちがどうやって社会の中で家族と共に生きていくか、といった視点へと変わり、松井久子監督『折り梅』なども作られているようではある。

うちの話をすれば、更年期障害から自律神経失調症を患った後妻としてきた母は、数年前、雪かきの時、心臓発作でポックリ死んだ父の死を「あんな大きな身体で寝込まれていたら、こちらが参ってしまう」と受け入れていたが、心理的ショックで自律神経失調症がひどくなった時期もある。

「恍惚の人」を介護した嫁も今はもしかすると「恍惚の人」。自律神経失調症を抱えた母の老いを思うとやはり苦しくなる。

働き、子孫を作り、そして総ての器官が疲れ果てて破損したとき、そこに老人病が待っている。癌も神経痛も痛風も高血圧も運よくくぐりぬけて長生きした茂造のような老人には、精神病が待ちかまえていたのか。
有吉佐和子原作「恍惚の人」より

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もののあわれ

古来、「もののあわれ」として物の本質を捉えた日本文化は、「すべての物は魂はある」とするアイヌ文化とも相通じる「物や事にも心があり、それが我々の心と共感して一体化していく」とする思想性において、世界の著名人から一目置かれるものであったのだが、年明けから続く様々な不祥事発覚は「もののあわれ」を忘れ去った現代日本をかいま見るようで嘆かわしく思う。

物には依存すると人を破滅させる魔力が潜むとされ、具体的な話をすれば、例えば事故で車椅子生活を余儀なくされた場合、足の神経が生きているならば、車椅子から松葉杖、松葉杖から自力歩行へとリハビリが施されるのだけれど、これは車椅子、松葉杖への依存がせっかく生きている足の神経を使わず、足の筋力をも衰えさせる事に由来している。

人の身体は便利な物に馴染み、依存しやすい体質があるため、車椅子、松葉杖に限らず、コルセットでも腹筋は衰えるし、眼鏡などを視力悪くない人が使うと目によくないとされるのもこれにあたるだろう。

こうした補助器具のみではなく、あらゆる物が人の依存心により、人を惑わすのであり、その物の本質を捉えた上で、物を使いこなす術が人には大切となってくる。そうしなければ、物と一緒に自分をも見失う結果となる。

先にご紹介した岡林信康『バンザイなこっちゃ!』には裕福な人の便は栄養の取りすぎで吸収されない栄養がそのまま、排出され、こやしとしては宝となるという話が書かれており、貧乏な人の消化器は食べた物からより多くの栄養を身体に取り込もうとするから、排出される物もカスしか出てこず、こやしとしては適さないという。

甘やかされた筋力と過剰に働かされる消化器で、裕福な人ほど、肉体的には生き抜く力をなくしていくという理屈となる。

その裕福さを支えるお金にしても、お金があるから出来るのであり、例えば金融恐慌のようにお金の価値がなくなれば、裕福さは失われる訳で、お金中心、お金依存、拝金主義はある意味、価値障害者と言えなくもない。

社会中心の考えがはびこるのも社会というものに対する依存心であって、よく目にする議論で、対論出す相手を社会のモラルを持って責める手法があるのだけれど、ご本人の発する言葉はご本人のこだわりから生まれるものであり、論議を聴いていると社会のモラルを利用しているに過ぎないケースがまま見受けられる。

社会とは善悪なんでも呑み込むウワバミであり、その中で自分の暮らす場の確保が大切なのであって、相手を通し、自分と出会い、如何に自由を確保するかが重要になってくるようにも思えてくる。

「人の振り見て我が振り直せ」
人は他人を通してしか自分を知る事が出来ず、他人を粗末に扱うならば自分をも見失う。

自分をコントロール出来るのは自分しかおらず、自分を知るために人に出会うという基本的なゲームの規則を忘れた「もののあわれ」達が世間を騒がしているのだろう。

自分の障害とうまく付き合うとは物との付き合い方にあると思われ、物に振り回される自由は自分を見失う「もののあわれ」でもある。

「ハローワーク」という外人にも判らない和製英語をどうどうと公共機関名にするこの国がアジアの中で英語学力が北朝鮮に次いでワーストというのも頷ける話だし、国際性を最先端と読み違え、国際社会が求める日本語障壁への対応がおざなりとなったJIS X8341「高齢者・障害者等配慮設計指針−情報通信における機器,ソフトウェア及びサービス−第3部:ウェブコンテンツ」などの過ちはこの国が国に固執するがゆえに、当たり前として忘れてしまった「物の価値」に気付く事が「人の価値」を思い起こす手がかりであると思うのだが。

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単騎、千里を走る

チャン・イーモウ監督単騎、千里を走る』(2005年作品)


「渡る世間は鬼ばかり。それでは人は鬼なのか?あなたは鬼なのか?そうじゃないだろう」と節分の日、新聞の一口コラムに書かれていた。各人が、鬼になるか、仏になるか、試されているのだろうなぁと感じ、世の中変える事は出来なくとも、自分の世界を守る事は出来るのじゃないかとも思った。

そんな折り、高倉健が中国映画の巨匠チャン・イーモウと組んだ『単騎、千里を走る』を観た。期待が大きかった分、物足りなさは感じられたけど、年老いても高倉健さんは高倉健さん。不器用に、一本気に中国大陸を動き回る高倉健を観られる事を喜ぶべきなのかも知れない。

映画の批評サイトなどを見て回ると、「今時、こんな日本人がいるのかね」というコメントを目にするけれども、要領のみ身につけ、全身でぶつかる事を今の日本人すべてが忘れ、なくしてしまったとは思いたくないし、不器用な高倉健さんが健在であるように、「やくざであっても心までやくざになるな」の任侠映画の高倉健に焦がれ、不器用に生きている人達はたくさんいると思う。

映画は親子の断絶をした息子が重病である事を知り、息子が生きた世界を知りたく、単身中国大陸に渡る初老の男の物語。

ハイテク機器が至る所で使われけれども、それは言葉の壁、地理的壁を越えるための道具としてのみで、人と人が繋がるのはハイテク機器だけでは完結しない。お互いの意思確認を丹念に描きあげていた。

劇中ナレーションとして古典文学「三国志」の関羽にまつわる仮面劇「単騎、千里を走る。」のようにお互い仮面を付けて生きてきたのではないかという問いは中国山村の村社会のコミニケーションに描かれるかつてどこにでもあった風景に還っていく。

経済発展進む国、中国で忘れ去られようとしている民衆達を描き続けるチャン・イーモウは高倉健という日本の遺産を登場させる事で、モンゴリアンが忘れようとしている心の風景を模写したのかも知れない。

何かの本で、「自分がいなければ出来ない事は自分一代で消え去り、自分がいなくても出来る事は語り継がれる」という話を目にし、自分の地位名誉に固執するあまり、後継者育成されない今の世の有識者の愚かさはモンゴリアン大衆の心の豊かさを封印しているのだろうと思ってしまう。

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力道山

負けず嫌い ソン・ヘソン監督作品『力道山


札幌オリンピックの頃、日本人は大人しい。応援が下手なる海外の評価が話題になった事がある。

そんな日本人が敗戦から立ち直った高度経済成長期に、街頭テレビのプロレス中継に熱狂し、夢と勇気を託した男、力道山。その半生を描いた映画、ソン・ヘソン監督作品『力道山』を観た。

大切なものを奪い取られた男はその大切なものを奪い返そうと人生に勝負をかけ、負けず嫌いとなる。奪い取られた境遇を憎み、賭けるべき夢を与えてくれた世界を信じるその姿は日本が近代化を追い続け、自分のルーツを見失った姿にオーバーラップする。

貧しい境遇から抜け出すはずが、単に一人勝ちし、仲間をも敵にしてしまう。

力道山が追い求めた物、それは「笑顔」であったはずなのに、アメリカナイズしていってもこの国では「笑顔」には巡り会えなかった。

劇中、力道山の寄付活動の話も少し描かれるのだけれども、社会価値感として、良くて美談、悪くすれば売名行為としてしか受け止められない土壌では力道山の行いは慈善事業としてしか評価されなかったのだろう。

近代社会になり、国家という価値観が生まれ、国家理論で相争うモンゴリアン社会は、渡米し、力道山が体得したであろうアメリカン・ドリームを理解出来ずに今日まで至ったのではないだろうか。大きな社会が小さな国家を支えるのに、その基盤を作らずに、改革論議が花開き、近代化と同じく、鉄火場のやくざ社会を構築する。「悪平等」の繰り返し。

波乱に富んだ人生を送った力道山。映画に描かれなかったが、38度線の国境に阻まれ、生涯会えずに終わった兄との逸話。北朝鮮生まれを公にせず、会話も日本語で通した男が、板門店を訪れた際、兄弟恋しさに素っ裸になって北に向けて母国語で「ヒョンニーム(兄さん)」と叫んだ話。

綺麗事のスローガンが並べ立てられ、互いの不干渉が相互隔離という新たなアパルトヘイトを作り出しているといわれる今日、暗黙のモンゴリアン・ナショナリズムを煽り立てようとしたかのような力道山的なパワーも映画と同じくセピア調に色あせた想い出に終わるのだろうか。

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1973PM9:00→
1974AM3:00

親父達の若き日


岡林信康が細野晴臣、松本隆、伊藤銀次、矢野誠などいわく付のミュージシャンをバックに従えて、1973年大晦日から1974年正月にかけておこなった年越しライブ『1973PM9:00→1974AM3:00』が初CD化された。

日本も昨年の中国のようなデモが繰り返され、アメリカの反戦、反ベトナム運動と共に、反安保、反基地化で学生達が荒れた時代、被差別問題をフォークギター片手に歌い、世に出た岡林信康はボブ・ディランに傾倒し、「日本語ロック」を模索する細野晴臣、松本隆、大滝詠一、鈴木茂等はっぴいえんどを従え、発表した『見る前に跳べ』はそのロックサウンドに、反体制フォークを熱望する聴衆から総スッカン喰らう。

「自分たちは日本のリスナーに向けて歌う以上、日本語を使うべきだ。日本語がロックのビートに乗りにくいのは事実だが、それはクリアすべき技術的問題に過ぎない。欧米のミュージシャンたちから学ぶものは、そのオリジナリティを生み出す姿勢であり、表面的な形ではない。」
前田祥丈「"日本語ロック"の放った新しい衝撃」より(レコード・コレクターズ1993年7月号掲載)

「アコースティック対エレクトリック」「日本語対英語」「フォーク対ロック」そんな図式化された対立論で音楽を区分けしようとする雰囲気があった時代、はっぴいえんどはボブ・ディランに対するザ・バンドのように岡林信康とのコラボレーションを期待されてもいたが、はっぴいえんど自体の音楽はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)的な音作りで、ありふれた様々な情景を歌った歌詞をヴィヴィドに浮かび上がらせていった。

しかし、日本語はロックに向いていない。インターナショナルなマーケットでの理解や成功を考慮するならば英語で歌うべき。英語で歌うバンドを評価すべきなどの批判も多く、その活動はCSN&Yに習い、お互い干渉し合わないソロ活動の尊重を重んじ、わずか2年で終わってしまう。

岡林信康も『俺らいちぬけた』で「偉いもんだよ人間は」「毛のないエテ公」など自然に逆らう人間達を歌い、蒸発事件を起こし、復帰の後、三島由紀夫を歌った「まるで男のように」、学園紛争の裏話を歌った「ホビット」を含む『金色のライオン』レコーディングの後、行われたのがこのライブ。

公害、石油危機・モノ不足・大手商社の買い占め、金大中事件、日航機ハイジャック、ベトナム戦争終結、ひとつの時代が終わった1973年から1974年にかけて、歌われた実況録音はドライブする岡林の歌と解散したはっぴいえんどの細野晴臣、松本隆など寄せ集めのバックが見通しきかない閉塞感から一生懸命開き直ろうとあがく記録のように響いてくる。

岡林信康のライフソング「自由への長い旅」は声がよれよれとなり、アンコールで歌われるボブ・ディランの「I SHALL BE RELEASED」では泣きながら歌う。

日本人としてのアイデンティティ探しをした親父達の若き日の記録の復刻。

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Verdad Tropical (Best-Seller)

禁じることを禁止する


軍事政権下の1960年代末のブラジルでムーブメントを起こした「トロピカリズモ」関連の書籍が出版され始め、日本でも数冊翻訳本が出版されているようである。「トロピカリズモ」の旗手で昨年来日され、その美声でファンを魅了したカエターノ・ヴェローゾがその自伝として、1997年に刊行された大著「Verdade Tropical」を連載で紹介したオリジナルアルバム復刻CDのライナーより、カエターノ・ヴェローゾの話を中心に少しそのあたりの話を再掲載にてご紹介しよう。なお、この大著は国安真奈氏の翻訳作業が進められているとの事である。

人種の差別も少ないブラジルは世界で最も豊かな土地と欧米では昔からあこがれられていた。

アメリカ寄りの軍事政権時、1960年代末、政権に歩調あわせるようにエレキギター排斥運動が起こった世論に対し、「禁止することを禁止する」と歌い始めたカエターノ・ヴェローゾ。

それはイギリスの「怒れる若者達」やアメリカの反戦、反ベトナム、埋もれた文化の掘り起こし運動、そして、先に「親父達の若き日」でも紹介した日本の反安保闘争などに呼応する動きのひとつだったのだろう。

「自分たちも守りに徹している場合ではない。たんなるプロテストソングのイデオロギー・スローガンや、エレガントなだけのコード展開や狭量なナショナリズムを超えた、ブラジル音楽を真に革新するムーブメントを旗揚げするには、同士を募り、積極的な討論の機会を設けるべきだ」

同胞ジルベルト・ジルのこの言葉に対し、カエターノは、ブラジル音楽を自身の思想の表現法とする可能性を前に「自分は少しグラウベルに、少しジョアン・ジルベルトになれるかもしれない」と考え、大いに興奮したという。そして、この「少しグラウベル、少しジョアン・ジルベルト」という稚拙な表現が、実は「自分が自分自身になる」という意味を持っていたのだと悟るまでに、それほど時間はかからなかった。

軍事政権下の逮捕、投獄による抑圧、南米他国の虐殺を知る身にはその後のイギリス亡命時、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ、どこへも出掛けようともせず、家にこもりきり、逮捕時の早朝、玄関のチャイムの音が家の呼び鈴に怯えるといった形で残っていたそうだが、それを救ったのは恩師ジョアン・ジルベルトの尽力での帰国だった。

イギリス亡命時、ローリング・ストーンズ、ミック・ジャガーのステージパフォーマンスから観衆と渾然一体となる術を学んだり、「犬の言語」にしか聞こえなかった英語をマスターしたりし、帰国後、英語文化の侵略に対して「英語の爆撃に対してプロテスト」として「まともでない英語」を突き返してやる戦略から、アフリカ・ナイジェリアの音楽との出逢いを経て、内なるアフリカ、内なるブラジルの掘り起こしへと論理を深めていく。

「名前のない国」アメリカ文化を「食べて」
「国のない名前」ブラジル文化を肥えさせよう

「優しい野蛮人」と自分たちを称した、カエターノ・ヴェローゾ、その妹マリア・ベターニァジルベルト・ジルガル・コスタのバイーア四人組は反発していたブラジル民衆の気持ちをそうして捉えていった。

1990年代、ブラジル社会は中流化し、ストリートチルドレン虐殺、映画にもなったカランジル刑務所の大虐殺など陰惨な事件が多発した時、カエターノ・ヴェローゾは「サンバがサンバであった時から」という歌を歌う。

「サンバは死にはしない」と歌ったその歌は自分だけが裕福なのが本当に裕福な社会なのかの問いを人々に問いかけたのだろう。

「私たちブラジル人にとってカエターノは知能。ミルトンは心臓。シコは内蔵。ジルは…。」そのまま彼女はにやりと笑って自分の股間を指差した。

オリジナルアルバム復刻CDのライナーに書き添えられた中原仁氏はブラジルの友人が誇らしげに自分の国のミュージシャンを語る姿に「僕はそれまでの何倍もブラジル人のことが大好きになった」と書かれ、「カエターノやジルに相当する日本の音楽家が、果たしていたのだろうかと。」と問いかける。

国際的視点に立った自国アイデンティティに対する誇り。「世界のゴミ捨て場」と言われる地はその貧しさゆえ、世界で最も豊かな土地とあこがれられる所以なのかも知れない。

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フェラ・クティ 戦うアフロ・ビートの伝説

権力は文化を嫉妬する


「権力は文化を嫉妬する」のだろうか。『親父達の若き日』『カエターノ・ヴェローゾ:禁じることを禁止する』と同時期、1973年、アルゼンチンにて軍事クーデターでプロテスト・シンガーソングライター、ビクトル・ハラがギターつま弾くその手首を切り落とされ、処刑され、日本では業界の自主規制が活発で、発禁処分を免れ、例え世に出たとしても流行りに流される河原乞食扱い。骨抜きにされた文化は再販ルールの下、流通業界が儲かる仕組みを作り出した。

今の異常気象のルーツともいうべき、植民地政策で名産品ばかり作らされ、砂漠が広がり、枯れ果てた大地アフリカ。その中でもナイジェリアは石油産油国という資源に恵まれた土地で、世界各国の往来が盛んであるがゆえに、ブラジル、インドネシアと並び称される音楽大国。

この地に生涯絶対自由主義を貫き、ネオ植民地主義者から弾圧され続け、屈しなかった男フェラ・クティがいた。昨年、エイズ救済関連でスポットあたり、60枚近くのLP音源がCD復刻されもした、その伝説の男の生涯を綴った本『フェラ・クティ 戦うアフロ・ビートの伝説』を紹介しよう。

1960年代のアメリカの黒人民権運動の最中、アメリカに渡り、ジェームス・ブラウンのファンク・ソウルに刺激受け、「アフロ・ビート」を作り出したフェラ・クティは、植民地化により、作られた国境、作られた民族にこだわることなく、パン・アフリカンの実現を訴え、ネオ植民地主義の政府をやじり、大統領選にも出馬し、共鳴者とカラクタ共和国なる共同体を築くけれども、その巨大化していくカラクタ共和国に脅威を感じた国軍は襲撃、暴行、母親を二階から投げ落としての虐待死、弾劾裁判と執拗にフェラを弾圧し続けた。

時は飢餓問題で世界から注目集めた1970年前後のビアフラ戦争後のナイジェリア。

ネオ植民地主義者たちの言いなりに盲目的に動き回る思考停止しただらしない兵士たちをヴゥードゥ教の死んでもなお襲いかかるゾンビーにたとえ、こき下ろすフェラの歌『Zombie』(1976年作品)、「アフリカ人は糞を運んだりしなかった。」と自分たちのアイデンティティを訴える『I.T.T.(International Thief Thief)』(1979年作品)、みな明快にダンスミュージックのビートで歌われ、地元民のみならず、世界中に支持された。

国民の質の高さこそが、その国を偉大で重要なものとするのだ。ほんの少しの人々が偉大であっても、残りの国民がそうでないなら、十分とは言えない。私はこうしてここに座って、あっちではあのアフリカ人がこんな素晴らしい事をした。こっちでは違うアフリカ人が偉大な仕事を成し遂げた。という知らせを耳にしたいんだ。それが私の望みなんだ。
フェラ・クティ『フェラ・クティ 戦うアフロ・ビートの伝説』より

そのフェラ・クティの晩年、西洋文明と闘う心のよりどころをアフリカ呪術に盲目的に求め、活動は鈍くなる。西洋文明とともにアフリカ文明の過ちをも考察出来れば、もっと別な結論が見いだせたのかもと思ってしまう。

晩年、自らエイズという事を知らずに、「新鮮な肉を食べているのだから、エイズになるはずがない」と固く信じ、未発表ながら「コンドームを使うな」という歌まで作ったというフェラ・クティ。

彼をそこまで追いつめたのは巧みに仕組まれた西洋文明の呪縛であり、因習と西洋文明のタックルなのだろう。

現代、臨床医学でも漢方と西洋医学のよい点を合わせる試みがあるように学問も西洋文明一辺倒ではなく、因習から学ぶべき点を見いだすべきなのではないだろうか。あるいは因習と西洋文明の類似点を洗い出し、排斥するような考察が必要なのだろうなぁと思う。

1997年8月2日、アフリカ起源と因縁つけられたエイズで死亡とされるが、直接の死因は数え切れない拷問の後遺症などの合併症に苦しんだ末の心臓麻痺。享年58歳。

経済的には貧しいけれども、文化先進地の悲劇は、開発により失われていくものの象徴であろうし、そのツケは人類存亡にまで波及するだろう。有り余る資本を争わせるのではなく、投資する先として、資本社会の恩恵から除外された世界の人々に見いだした時、蔓延する貧しさから来る疫病、掠奪は少なくなり、人々はそれぞれの文化を謳歌し、それが文化交流、人類延命に繋がると思うのだけど。

権力は争いを好み、世界に心中を迫る。

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徒然なるままに : 過去記事 2006-01-04 掲載 2006-04-16 加筆
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