From 2003-07-09(水)
To 2003-07-18(金)
伯父が亡くなったりで何かとバタバタしたひと月。40代半ばになるといろいろあります。。
通夜の席でのお坊さんの説教は「菩薩」について。
「○○のために」を行いなさい。
けれども「○○してやったのに」になるべきではない。
「徳」と「欲」の違い。
ビデオ鑑賞も中国、香港物をまとめてみていました。
密かに作品を見続けています。
やくざ男の純愛に香港ポップが流れる。いやぁ、恥ずかしいけど、好きです。(笑)
人を愛せない男と愛を引きずる男。ハードボイルドに泣く女達。ラテンオールドナンバーも渋くマッチしている。
地球の裏側で別れる同性愛の恋人。愛の旅から降りられない男と途中下車する男。
ウォン・カーウァイは恋愛の角度から人を捉え続けている。
金城武の出世作だけど、ここでの金城はアホだ。(笑)
誕生日前日、失恋し、コンビニで期限切れの缶詰を棄てるのはもったいないと文句言い、貰ったパインの缶詰30缶をたいらげる。それでも虚しさ収まらず、やめときゃいいのに飲みに出掛け、吐きまくる。吐き気収まった時、目にとまった女を口説くけど、実は女香港マフィア。けれども金城君、自分と同じく失恋したのだと思い込み、一緒に飲みまくる。女が眠いというのでホテルに連れ込むが、本当に寝てしまい、テレビに映る古い映画を観ながら、またポテトやらを食べまくり、夜が明け、女に何もせず、寝顔観て、帰る。
四半世紀生きたと腹ごなしに走り回るその時、今は懐かし、ポケベルが鳴り、女香港マフィアから「おめでとう」のメッセージ。
恋する金城君、この頃はぽっちゃりだったんだ。(笑)
後半の恋は「ホテル・カリフォルニア」ばかり聴く女の子と物に語りかける警察官の話。警察官の留守の時にその部屋で遊び更ける女の子。水で溢れかえった部屋に入り、「部屋が泣かれると始末に悪い」とぼやく警察官。恥ずかしさから警察官をすっぽかす女の子の置き手紙を読むのが恐いと雨降る街角のゴミ箱に棄てるけれども気になり、拾って、ずぶ濡れで読めなくなった手紙を気にする警察官。
人間、恋をしている時が一番幸せなのかも。
なお、続編的作品『天使の涙』(1995年作品)では金城君が期限切れの缶詰を食べ過ぎて、失語症になった役柄。しゃべれぬ分だけ身体で訴え、それは暴力的とも受け取れるけれども、恋する人間は失語症であるとも言えるかも。
『鉄道員(ぽっぽや)』の浅田次郎原作の映画化。
不法入国した中国女と偽装結婚した男。その中国女が田舎町で身売りしながらも
一途に偽装結婚した男の事を慕い続け、死んでいった。
“私が死んだら、会いに来てくれますか”
遺書ともいうべき一通のラブ・レターに思い馳せる物語。
森崎東の怒りは静か。こういう社会を提供してしまっている立場であるからだろうか?
「なんで病院に見せなかったんだよ」
「一日何万もする注射うって、死ぬの待たせるのかい?」
身売りさせるキャバレーのママの開き直りも貧しさにつけ込む社会の一員である自覚からか弱いし、お金欲しさの彼女たちにとっては自分の命より母国に残した家族への送金が大事。死ぬつもりで日本に来たのだから。
札束でぶん殴られれば、黒が白になる社会。70年代のしたたかな庶民もまた高度成長、バブルと感覚麻痺させられてしまったんだろうか?いいや、高度成長、バブルの恩恵もなく、身を売る貧しさが判りすぎるからのママの開き直りととりたい。
この小説は韓国でも『パイラン』として映画化されているそうな。
そして、この作品以降、森崎東がメガホンをとっていないのも寂しい気がする。
1900年代、京劇一座に棄てられた男の時代に翻弄され演じる「覇王別姫」の四面楚歌そのままに生きるドラマ。
このようにしか生きる術を与えられなかった男の大河ドラマはある意味、誰にでも起こりえる人生ドラマとも思えてくる。
ドイツ、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督『es[エス]』(2001年作品)での大金欲しさに数日という軽い気持ちが「看守」と「囚人」に分けられる事により、互いに枷を掛け合い、憎しみ合うようになる人の業。
「社会」とはなんなのか。「社会のおそろしさ」の回避はどうすればいいのか、考えさせられます。
ドイツ敗戦後、ヒトラーの葬式にワグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」が流された事実。それはドイツ国民のヒトラーに対する素直な気持ちであり、後から暴かれていったナチスの本性を知るに到った時の苦悩をも感じます。
戦後処理を曖昧にすませ、騙し続けられる国民の方が遙かに恐ろしいとも僕は思う。
「恋」を描けるけど「愛」を描けないとされるウォン・カーウァイ。
間借り人としてお隣さんになったカップル二組。双方の夫と妻が浮気をしている復讐に密会重ねる二人。しかし、一線は越えられず、プラトニックなまま時は過ぎる。
「キエレメ・ムーチョ」「キサス・キサス・キサス」ラテンボレロのオールドナンバーをバックに「愛」にならない「恋」が描かれる。
そして、時が経ち、振り返る二人それぞれもまた過去に恋している。
人間、「愛」することは出来るのだろうか?「恋」を成就した段階で「愛」と錯覚してはいないのだろうか?何となく、そんな事を考えてしまいました。
腐れ縁の断ちがたい「愛」を描いた成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年作品)をふと思ったりもして。
花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき
成瀬巳喜男はその作風から「やるせ泣きお」と呼ばれてました。
黄河のほとりで琴を奏でる盲目の説教師弟。
師匠の方は「1000本の弦を切ったとき琴の中から目が見えるようになる処方箋が取り出せる」を信じ、琴を奏で続け、その歌は争いさえも治めてしまう村人から神様のように扱われる人。
弟子の方は人の血の匂いを嗅ぐと発作起こす師匠のみを案じつつ、村の娘と恋仲になり、目明きを好きになってはいけないと師匠に咎められる。
「1000本弦」伝説は伝説であり、そんな処方箋など存在せず、弟子の恋仲の娘は村人の咎めにより、自殺する。
ほとんど映像美で綴られるこの物語は難解であるけれども、
「自分の目で見なさい。自分の耳で聞きなさい。自分の肌で感じなさい」
手本など何もない、このメッセージに共感覚える。
「芝居は終わってから判るもの」
映画のタイトルの元となっているのは、仏陀の言葉らしいく、「人生は琴の弦のようなもの。張りすぎても緩めすぎてもうまくいかない」みたいな言葉らしい。
「人はいつ、人になれるのだろう?」
『人生は琴の弦のように』の中で歌われる歌が心に残ります。
正直、判らなかったけど、惹きつけられた。
文革直後、山奥に赴任させられる国語教師。
教科書もろくに配布されず、子供達は教師が黒板に書いた物をノートに書き写し、授業を進めている。
その教科書とて教条主義の代物。
習った文字をノートに書きためる利発そうな少年に指摘され、国語教師は子供達に作文を書かす自由教育を始める。
そんな教え方も上の方にマークされ、又異動を命ぜられる教師。
利発そうな少年は辞書をも書き写し、明日の出来事さえも作文にしようとする。
異動する日、教師は少年に宛てて、もう人のものは何も書き写すなと書き残す。
水墨画タッチの映像は淡々と語られていく。本来の教育のあり方、人のあり方を映画は語っているように思える。
『さらば、わが愛/覇王別姫(はおうべっき)』(1993年作品)のメンバーが1920年代の上海と蘇州を舞台に封建社会から資本主義へ移り変わる時代の男女の愛憎劇を描きあげたもの。
社会の仕組みが移り変わっても根底にある財閥はしたたかに生き延び、男女の愛憎さえ食い物にする。描きたい事はよく判るけど、『さらば、わが愛/覇王別姫(はおうべっき)』で語り尽くされた気がする。
昨日久々に見た深作欣二監督『仁義の墓場』(1975年作品)
親分に刃物向け、兄弟分を刺し殺す一見仁義なき男 石川力也の社会に刃向かう壮絶な生き様と死ぬ前に刻まれた墓標の「仁義」の文字。「仁義」とは何なのか、「仁義の墓場」は何処なのか、問い返す方が僕としては好き。
大笑い、三十年のバカ騒ぎ
以前見た時は石川力也自身の辞世の句と読みとったけれども「仁義の墓場」となった社会に対する川柳と取れなくもない。
秦の始皇帝の暗殺劇を描いた大作。
盲目の少女を殺してしまい、人を殺さぬと誓った刺客と人を殺さずして天下統一すると誓った皇帝。
皇帝はその地位を守るため、殺戮を繰り返し、刺客は棄てた剣をとる。いつの時代も王様は裸であり、刺客を射止めても笑う刺客に「何故笑う」と怯え続ける。
刺客の方の逸話、「子供を助けて欲しければ、俺の股ぐらをくぐれ」この話、何故か知っていた。秦の始皇帝に関連した話だったんですね。
近松門左衛門の「冥途の飛脚」を現代になぞらえ、
出世のため、恋人を棄てた男がその恋人の自殺未遂ですべてを棄て、気がおかしくなった恋人と道行きする話。
やくざの親分が約束果たせず未だ待ち続け、しかし、相手の顔も忘れてしまった老女と逢い引きする話。
アイドル歌手の追っかけがそのアイドルが顔に深傷負い、再起不能になっても逢いたくて我が目を潰し、会いに行く話。
それぞれが脈略なく語られていく。
持てる物をすべて投げ出した者達の物語。
会社が潰れそうな婿入りのサラリーマン。
その家にある日、お前の父親と名乗るホームレス風の男が転がり込む。長いし始め、追い出そうとすると「親を追い出すのか!」と開き直る男も妻の母の入浴をのぞき見した事がばれ、素直に出ていく。
けれども、近所のホームレス達の中に混じり、すれ違う息子にご挨拶。酔っぱらいのサラリーマンにホームレスを野次られ、殴られる父。それを見かね、家に連れ戻す息子。
父は家の手入れ等、女達では手が回らない日常の事を片づけるが、孫に「ちんちろりん」を教えたり、息子が飼っていた鶏を殺し、食べたり、傍若無人。
訳ありで離れて暮らす母がそんな父に「あんたの子じゃない」と言い聞かせると父は「他人の家に邪魔するわけにはいかん」と出ていこうとする。
そんな時、父は倒れ、入院。末期の肝硬変。病院内でも好き勝手やり、死んでいく。 その亡骸の腹巻きの中、密かに隠していた鶏の卵が孵り、ひよこが鳴く。
結局、会社が潰れた息子は父の遺骨を川にまく時、「仕事、探さなきゃな」と妻に言うけれど、妻は「何とか生きていけるわよ」と励ます。別の舟には父と関わった女達が騒いでいる。
1足す1が2にならない事もある。
1足す1が2でなければならない道理などない。
人間って、そんなんだと思うし、1足す1が2でなければなららないとするから、角が立つ。
人間、万事塞翁が馬。
人生は琴の弦のように。