2003-04-25(金)
正直、この監督好きではないのですが、『全身小説家』(1994年作品)は作家井上光晴という偉大な嘘つきと取っ組み合ったためかなかなかいい。
原一男が何故好きでないか。
それは「やらせ」で「ドキュメント」を撮っているから。
『さようならCP』(1972年作品)は青い芝の連中と「やらせ」という共通項で成功した作品。
片や「差異」であるという主張、片や「やらせ」で「ドキュメント」を撮るという手法がうまくいった。
青い芝・横田さんの奥さんが怒り、「原さんの家庭はどうなんでしょうかねぇ」と詰め寄った事を逆手に取った『極私的エロス・恋歌1974』(1974年作品)なんかは自分と同棲していた女が米兵との子供を沖縄で産むのを今の奥さんと共に撮影しにいく話。「やらせ」がすべて原一男という男に跳ね返ってくる凄さがあったから面白くあった。
『ゆきゆきて、神軍』(1987年作品)になると天皇に向けてパチンコ玉を発射したりする"神軍平等兵"を名乗る男、奥崎謙三にあおられてか、原一男の「やらせ」もえげつなさを僕は感じてしまっていた。
これはテーマが良い、悪いではなく、「ドキュメント」の姿勢。とはいえ、封切り時に観た印象ですから今観るとどうなのかですが。
ところが『全身小説家』は井上光晴の「虚構はリアリティーにあり」から始まり、井上光晴の現実としての闘病の記録と『自伝』の虚構化された話の真実追究。原一男の「やらせ」も出る幕なく、「ドキュメント」とはなんなのか、真実とはなんなのかが問われてゆく。
ちょうどガルシア・マルケスの「ノンフィクション」は「フィクション」、「ルポルタージュ」における「リアリズム」を読み終えた後だけあり、なるほどねとも思いました。
井上光晴曰く
「自分の都合の悪い事は忘れて、つじつま合わせするのが人間であり、文学」
その井上光晴が選んだ文学の主題が部落民、在日などへの差別。
テリー・ギリアム監督『バンデットQ』(1981年作品)の「悪は自由の代償として必要」ではないけれども井上光晴亡くなられ、その葬儀にて瀬戸内寂聴の
「死して悪霊となり、この世を見守り下さい」
この映画、人生の先輩の勝ちと観た。
「折角生きてるんだから、やりたい事やりゃあいいんですよ」
井上光晴の言葉は今の我々にするどく矢を放ちます。
生きて、悪霊になりますか?(笑)
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(極楽より冒険)