計呂地郷土史
第2章

昭和の小漁師top湧別町史湧別町年表
目 次第1章第3章第4章!第5章第6章第7章第8章第9章第10!11!12章第13章

個人情報保護のため、個人名の表記部分については割愛しています。


第2章 行 政

第1節 部落の写り変わり    第2節 人物紹介

第1節 部落の移り変わり

(1)開拓のはじまり       計呂地は、佐呂間町界にある標高408・7米の計露だけを分水嶺として、サロマ湖に注ぐ本町第3位の計呂地川の流域に広がり、東西3・5`、南北11`余にわたる細長い原野にひらけた部落である。
 この原野の開墾は、明治33年、佐呂間湖畔の志撫子から11号線に至る、106万4554坪が実測され、86区画の貸付告示に始まった。
 測量隊に加わっていた藤永栄槌が、現地の実情をくわしく知っていて、先ず、適地7戸分の貸付を受け、37年、上川郡当麻から入植、翌38年、芭露から、大沢三右ェ門、大沢音松、長屋熊太郎、上湧別から渡辺由太郎、村井熊吉、伊藤常吉、次いで、39年、下湧別市街から如沢元蔵が、それぞれ入植した。
 このように、開拓初期の通弊は、交通事情から、明治末期まで辺地のこうむらねばならない宿命であった。
明治39年、2級町村制施行により、28部の組合制で、組長を行政末端とした組織を、部長制による20部落にあらためた。
 40年7月、19部芭露部落から志撫子伊藤の13戸が独立して計呂地一帯は21部落と呼称された。
当時の組長、官選部長として、藤永栄槌、渡辺由太郎、大沢三右ェ門、大沢音松、長屋熊太郎らの名前が語られているが任期などについてはさだかでない。
 明治40年、子弟教育のため、共同出役によって、6号線、渡辺由太郎の所有地に、計呂地簡易教育所を開設その後、入植者は増加、43年、上湧別村分村により、13部制、床丹部落を分離して計呂地は11部落となった。
 大正2年、志撫子を分離、この年に、志撫子のほかに東芭露、西芭露も独立したため、15部制に変更され、14部落を呼称した。
 大正10年に132戸を数えるに至り、昭和4年、12月の村会で、数字の部落名が、まぎらわしいことから現在の漢字の字名に改正され計呂地と呼ばれるようになった。

如沢スミ談
開墾地全部に麦を作付けし、もっぱら自家用に備えることにしたが、入植者が増加するに従い、それらの人々のすすめもあって販売した。主人は木挽職だったので、床丹浜などに出稼ぎし、賃金を得て家計費を賄った。
(2)大正時代の行政と地域  未開の原野に入植した人々も苦節10年を経過し、生活するようになると、地域の特性を踏まえ地域としての将来展望に立って、道路・学校などの公共施設の整備や、神社・お寺の建立を考えるようになった。
 具体的には、部落構成単位毎に共同義務をを分担する事から始まり共同作業による労力奉仕等も組織的に行われるようになり、それに行政の配慮が加わって、地域は末端行政の単位機能を備えるようになった。
 大正3年には11号以南に植民区画を行い、翌4年にはそれが告示され、5年には入植者が入り始めた。
と、同時に商店を営むものも出始め、当時の記録によると、柏旅館・稲毛豆腐・アゲ・コンニャク店・南場・岡山・太知等の各商店が進出している。
 また、大正6年には教育所が尋常小学校に昇格している。当時の地域戸数は123戸・児童数120名・2学級編成であった。
 翌7年に行われた第7回村会議員選挙には、地域代表として藤永栄槌が区民の結束により見事当選を果たした。
11年には11号線に巡査駐在所が設置され、ついで14年には診療所が開設(立花医師)され、徐々にではあるが、計呂地発展の礎が築かれていった。
 さらに、15年に行われた村会議員選挙には、地域代表として大澤重太郎(27歳)が初当選を果たした。
農産物では、薄荷・豆類・亜麻等の販売作物が盛んに栽培され、農家は各戸農耕馬を飼育し、馬の利用により農作業も能率的に行われるようになってきた。
 このように諸事情が好転し、入植者も明るい見通しの下に意欲的に仕事に取り組んでいけるようになった。
そして地域住民は、大澤議員の活動を通して行政に夢を託し、地域の発展を求め、公共事業に進んで協力し、乏しい財布から寄付金を出す者もあり、自然に地区の共同体としての性格をより強固なものとしていった。
 
(3)昭和初期から
    終戦までの推移
    下湧別村第3青年団                 大正時代から昭和の初期はまさに薄荷全盛時代となり、薄荷耕作を目的とした移住者が多かったようである。
薄荷が主要作物をしての位置を保った理由の一つには、交通の便が悪い地域としては、生産物が軽量で運搬が容易であったことのようである。
 昭和10年念願がかなって鉄道が開通し輸送事情の好転で、麦類、豆類、馬鈴薯、其の他農作物の商品化が促進され農業経営に好転をもたらした。
 また、馬車や馬橇による木材の輸送は姿を消し、駅土場には山のような木材が野積みされ、連日貨車積みの人夫で賑わうようになった。これに伴って造材業も活気を帯び産業開発に画期的な役割を果たした。
 また、駅を中心として市街が形成され、正に文明開化の時代となった。
 しかし、12年に日華事変が起こり応召兵多数を送り出すようになり、続いて16年には太平洋戦争が始まり、戦時下の農業は物資その他の統制により生産に著しい影響を与えた。その上、生産力の中核となる働き盛りの男性は応召により戦争にかり出され、農業生産に欠くことの出来ない肥料まで配給制となり自家肥料(堆肥)の増産を強いられるようになった。
 昭和17・8年になると人手不足は深刻になり、小中学生まで援農として勉強を投げ打って軍需作物の出荷割当完納に励んだ。
 また、耕作に一番頼みの綱としている農耕馬まで軍馬として徴発され、農家を護る老人や婦人は最悪の事態におかれた。
 この頃になると、日常生活も戦時体制となり、男子の服装はカーキ色の国民服に統一され、足にはゲートルを巻き、戦闘帽を着用した。婦人は上っぱりモンペ姿となった。また男子の長髪と女子の長着・化粧も追放の声が高まり美容業者はそのあおりをうけてさびれた。
 衣料品の如きは極度に不足を来し、イラ草を刈りだし出荷してイラグサ生地の還元を受ける有様だった。
 家庭用品もすべて配給となり、町内・地区内一括配給制度であったため、実行組合長はもっぱら生活物資の配分に忙殺された。
 20年7月にはアメリカ軍の本土上陸に備え、在郷軍人、翼賛壮年団、婦人会、青少年を統合して湧別国民義勇隊が結成され、村長を隊長として本土決戦を決意し、特に青年男女は早朝から藁人形を作り、会館等に集まり連日竹槍訓練に励んだ。20年8月に広島、長崎に原爆が投下され、15日遂に敗戦となり5ヶ年にわたる太平洋戦争は終わりを告げた。
 
(4)分村問題興る  昭和19年の村議会で分村決議が行われたが、戦局の変化や終戦の混乱で伏せられていた。ところが21年に再び議題にあがり、下湧別村を湧別地区・芭露地区・計呂地地区に分割する3分村の決議がなされた。
 引続き翌22年の村会に具体的実施方法が提案されたが、住民の意向、その他を参酌し慎重な答申を要すと思考するので、暫時保留に願いたいとの発議により保留され、23年1月になって再度提出された。
 同案に対し「三分村決議のまま実行に移す」と諮問委員会は答申した。
 しかし、分村地域側議員の考えは、新村が経済的に自立できる可能性がある場合にだけ分村が実施されるべきである。
という慎重論が支配的であり、分村発想当初の地域格差の解消などは第二義的なものになってしまった。
 もろもろのことを受けて23年5月の村議会で決議の実施可否を諮問した結果は、
  「財政調査の結果は分村後の住民負担の過重なることが予想されるにつき、分村は白紙に還す。」
 という議決変更がされ、村民の関心事であった分村問題は終息した。
 なお床丹(若里)地区は間村以来隣接する佐呂間村に経済的依存度が高く、村の中枢が遠隔なため不便解消と経済的負担軽減を図るため、地域住民の自主的判断の結果佐呂間村に編入する機運が高まり、昭和25年に編入された。
 この時に、当計呂地地区にも編入呼びかけ運動が盛んに持ちかけられたが、当地区としては、基本的には村を分割しないで、地域格差解消の方法として出張事務の要請を行うことになった。
(3)役場計呂地出張所及
   出張所員名
住民の行政に対する要請が受け入れられ、出張所を地域の中核拠点地区に開設し周辺住民の便利を図ることになり、24年に芭露出張所から分設し、計呂地・志撫子を管轄に開設された。
 出張所には職員が常駐し、納税・墓地及び火葬場・印鑑登録・妊産婦・国民健康保険・国民年金・転出入・水道使用料及び手数料・災害発生報告などについて、その手続きや交付、あるいは出納業務を行い、役場まで出向く不便は解消された。
 【歴代出張所員】
  氏  名        期    間      
井田 光一
野村 敏子
宍戸 源治
井尾 朋史
小林 政治
吉竹 正雄
杉本 邦男
阿部 松男
大口 秀和
阿部 松男
 林  勝弥
如沢 英一
 自23・3・27  至26・4・1
 自26・4・6   至31・6・4
 自31・6・4   至31・10・1
 自31・10・1  至33・4・1
 自33・4・1   至35・1・1
 自35・1・1   至35・10・5
 自35・10・5  至37・5・1
 自37・4・21  至37・5・1
 自37・5・1   至46・1・4
 自46・2・1   至50・11・20
 自50・11・25 至55・10・25
 自56 ・4・1   至 現 在

(6)戦後の復興  終戦により、国内は復員者や外地からの引揚者の受入に混乱状態が続き職業難、食糧難という厳しい状況下におかれ縁故者を頼りかろうじて当座の飢えを凌ぐという人も少なくなかった。
 また、衣料品の不足は益々深刻化し、これを自給するために緬羊の繁殖に取り組み、各戸4・5頭の飼育がなされ、家庭で毛糸づくりや手編みの衣服をつくり冬希間のの厳しい寒さを凌いだ。
 23年に佐呂間に北海紡績工場が設置され、当地は近距離のため大いに還元製品を利用し衣料不足に耐えることができた。
 その後化学製品の進出により、35年頃から羊毛の生産は減少の一途を辿り、多くの緬羊はジンギスカンとして食膳をうるおした。
 一方自由経済の復活と共に豆類は相場の花形となり、小豆などは「赤いダイヤ」と言われる程の高値を呼んだ。
 国内情勢も23年からの連続方策と米国の食糧援助により、食糧事情も安定してきた。農村にも復員者が戻り労働力が回復し、生産は戦前に復旧し、物資も急速な生産復興により25年頃から計呂地市街は、理髪店・呉服店・パチンコ店・劇場・鉄工場などの商店を開く人が増加し、30年には円山鉱山の発掘が始まり再び活気がみなぎってきた。
 当時の戸数は246戸で人口は1564人・小・中・児童数325人に達し、地域住民の熱意と協力は教育面にも及び、近代校舎建築(現校舎)がなされ、管内各方面よりモデル校舎として参観者が相次いだ。
 しかし、一方では農産物の自由化が進み、輸入による国内生産の過剰現象が価格の暴落を招き、雑穀を生産する農家には不安をまたらし始めた。
 その上、20年代後半より冷害凶作が相次ぎ、戦後緊急開拓者として入植した人達には国の補助はあっても、現実の生活は非常に厳しく、経営が成り立ち難いどころか入植前の夢も消え離農者が続出し始めた。
 45年に米の生産調整が実施されると、水田の休排耕が進み、町内3023f(37年共済組合資料)の水田の殆どは姿を消し酪農に転換された。さらに農業機械が大型化し機械革命が進行すると、農業の先行き不安からも離農者が続出した。
 農業は大きな転換期にさしかかり、離農者の後地取得など一層選択的拡大が促進され酪農全盛時代に入ってきた。
(7)過疎化現象  30年代にはじまった国の高度経済政庁政策で第1次産業が低位置におかれ、若年労働者を中心とした人口の都市(他産業)流出や、離農による転出現象が進行した。
 特に34年から44年間の10年の現象が著しい。住民戸数の移動状況は次のようである。
(8)戸数の移動状況
 年 度    戸  数    年 度    戸  数  
昭和 5年
 〃15年
 〃25年
 155戸
 177戸
 235戸
昭和34年
 〃 44年
 〃 54年
 〃 60年
 251戸
 160戸
 122戸
 119戸

(9)居住者の変遷       一覧(世帯主)   順不同       昭和61年3月31日現在
 初代世帯主    初代世帯主   初代世帯主   初代世帯主 
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
121
122
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
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341
342
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345
346
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348
421
422
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430
431
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569
570
571
572
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574
575
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577
578
579
580
581
582
583
584
585
586
587
588
589
590
591
592
593
594
595
596
597
598
599
600
601
602
603
604
605

宇佐美達雄
加藤文次郎
小島孫四郎
稲毛 惣八
本田 茂吉
稲毛惣三郎
沼沢 清松
渡辺 兼十
前田  豊
両瀬助次郎
中原 関治
中原 良平
新海忠三郎
新海市太郎
羽沢常太郎
折田
長野礼三郎
長岡 久治
小林 槙蔵
相楽 満雄
桑原 藤吉
洞口吉兵衛
村松 藤太
如澤 元蔵
櫛部 金助
杉本 仙吉
小林 儀作
牧下 ヨウ
柳場 勇助
益田 トキ
阿部 三義
長屋 末光
山原安太郎
佐藤久次郎
中村 松象
木村 清志
藤原 貞義
板野 英誉
木村  実
洞口善次郎
大出 辰造
江藤 巡査
千葉喜代治
長屋熊太郎
中山 繁馬
森田 竜吉
飯坂 辰治
大澤三右衛門
大野 乙松
大野福次郎
篠森 要吉
大草 大勝
板谷利三郎
大出 理八
太知 勝治
大橋 銀蔵
亀田 梅吉
阿部銀次郎
山原 宮蔵
塩見 賢二
新海忠五郎
森田金太郎
福井 惣吉
小熊 重八
 嵐  由松
板越
仲 豊三郎
中山佐太郎
 林  金重
澤田吉次郎
澤田 定雄
相模猪佐美
渡辺 芳良
鈴木  要
越田 正男
長谷川寅次郎
本田 巻雄
細谷 是良
武田 栄八
柴田 粕蔵
中野松太郎
宮地 三郎
宮地 正信
村井 敏雄
及川
伊藤  伝
粥川  博
宮地酷二郎
小林 正男
武田 栄七
佐藤 義章
如澤 次郎
中川 敏雄
浪江 重松
梅津興三郎
浪江 国雄
小林 忠男
稲毛 満穂
伊藤  弥
鈴木 幸一
伊藤  茂
尾張 倉茂
梅井 政義
福井 徳重
武田 清吉

谷本  隆
作間つや子
伊藤 清子
佐藤丑之助
崎池けい子
佐藤  清
倉茂 節男
石黒 和夫
愛洲 紀子
奥谷 久夫
宮内 文夫
永井 俊郎
清川 樟一
田元 重一
三島 通敏
掃部 弘逸
中川 洋子
金山  優
山崎 明弘
袴田 信郎
由利 資朗
富永 史朗
横山 宣義
岩井 義明
石川  忠
北村 英夫
星賀  徹
菅原 信良
佐久間 豊
中田 紀子
高井 栄作
窪内 裕子
牛来  裕
杉本 正典
内永 周太
石垣 正公
浅利 有子
西功一・美恵子
細谷 是良
大澤  栄
丹野 岩男
長谷川時男
高橋 昭司
西岡 梅次
竹中 英雄
茂木  昌
松野
水谷
小林
内藤 昭夫
橋本  忠
薄井 俊夫
阿部猛・Y子
中村 英俊
佐々木俊夫
小倉  豊
吉野 哲由
中野
杉本 春蔵
羽根坂多六
 角  繁蔵
西澤松太郎
大川
佐藤  広
馬場スミ子
堀川トシ子
山城 敬男
小林
小林スミ子
河村  栄
橋本 文男
澤山 賢一
眞木 克則
高橋 裕之
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
123
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
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181
182
183
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189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
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288
289
290
291
292
293
294
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
458
459
460
461
462
463
464
465
466
467
468
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472
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492
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494
606
607
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610
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612
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616
616
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632
633
634
635
636
637
638
639
640
641

黒川 玉吉
小野 鶴松
菊地 茂吉
菊地 清吉
佐藤 運吉
佐藤 実次
大澤市次郎
中谷 平助
伊藤 鹿吉
山本
藤井
山田 為助
直井政五郎
稲毛 清治
直井 常松
鈴木 久作
井関 春吉
金井万次郎
長屋 宮市
諏訪間治吉
古井戸
三島関太郎
森田利太郎
橋詰豊次郎
前口 善蔵
山田新太郎
山田粂之助
長岡 辨治
田村 実春
庄司弥次郎
佐々木昌三
桑原 喜平
西村 重勝
岩田 政一
菊地 万治
中谷倉之助
大出 辰蔵
如澤 睦男
小林ふじえ
今野興四夫
南場 米三
木村久兵衛
茂木 信義
中山 重蔵
藤永 豊信
 林  彦喜
新海 六郎
向井 吉英
三浦 勝治
佐久間柾屋
洞口善次郎
斉藤  亨
中原庄兵衛
木村久兵衛
木村 貞一
木村 東一
木村運三郎
佐藤(大工)
越田
小林 儀作
金井万次郎
玉井 留吉
原田孫四郎
金井万次郎
山原 米吉
南場  均
神田 半七
高木栄次郎
市川 清水
木幡  豊
中村  進
藤永 新作
中村 仲蔵
阿部 善吉
本田 末蔵
中村  覚
鬼越 加蔵
福島新太郎
斉藤 甚八
福井 覚治
中村 秀男
高橋 辰蔵
中村秀之助
橋本 政利
谷脇 峯松
伊藤 常吉
伊藤 米吉
村井 熊吉
宮地勇太郎
浪江 鶴松
鈴木
宮下 常松
越田 栄吉
橋本 嘉平
大草藤五郎
 柏 軍蔵
南場 米三
上田 彦八
根本 慶蔵
中林 留吉
小熊 重八
伊藤 庄治
村井 秀一
宮地 治吉
上西 政一

宇田 克己
宇羅 幸二
岡田 裕昭
北村 泰子
城地  広
大島 一郎
 辻  栄子
茂木 信義
須佐 勝治
五島 守也
井上 繁雄
岡山 久雄
村上益太郎
村尾 篤逸
小野寺 武
眞壁利右衛門
岩本
石渡 要助
菊地小太郎
古沼 義雄
今井
篠森 要吉
 栄 慶太郎
橋本 政利
 星  敏治
斉藤 武雄
川村キノエ
西浦市太郎
加藤 幸三
福士重太郎
藤原
中山 兵作
荻原清兵衛
成田
橋本 弥市
 柏  軍蔵
古屋 泰寿
深谷 忠男
阿部 六郎
上野 輝三
須田 国雄
阿部 五郎
小林 吉則
長谷川信政
小林  実
水野  栄
杉野 義雄
 脇   邁
野上  修
澤口 重信
小林 甲朔
十河 哲一
大橋 吉一
岡本  弘
前川 謙一
田中 清豊
小野寺
小野
角田  寛
浪江 良夫
山原 達雄
中塚 礼子
原田
武田  明
桑田
大平  茂
大原 富治
石岡 陽三
甕岡  皎
石田 太一
村上 光生
井沼  忠
森谷治三郎
志村 秀男
21
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本田 栄作
諏訪間仙蔵
千葉喜代治
笠井
牧下 房吉
西向 甚内
松田惣兵衛
本田  繁
鈴木権十郎
諏訪 熊蔵
岩間 伊蔵
岩間 正巳
中谷 定雄
金沢 耕三
永江 重雄
宇佐美六二郎
岡田利太郎
菊地 三郎
山田 元雄
羽田佐太郎
石川 武男
玉井 留吉
山下 栄助
鎌田 潤三
前野 豊春
熊谷粂二郎
木幡  豊
岡田利太郎
前野 慎蔵
田村右ェ門
杉本信次郎
佐藤金次郎
堀口為次郎
鍋下 勝一
武田 栄八
根本小四郎
渡辺 忠治
田村 忠吉
小野 忠雄
石内菊次郎
平戸 義男
梅井伊太郎
中村 義美
桑山 正盛
福井 辰也
吉村
本田弥太郎
渡辺武四郎
関野貞三郎
小林 弥作
岡崎又兵衛
伊藤辰之助
伊藤 正二
伊藤 庄恵
鈴木 清徹
藤永 栄槌
岡山次郎吉
小野喜三郎
藤永 荘槌
藤永 政光
田畑 つよ
稲毛 惣七
高橋 俊雄
岸田 景親
松永 怒助

関戸きんの
木曽三四郎
松村 友茂
橋本 要吉
後藤徳三郎
櫻井 忠治
伊藤金十郎
古岡 荒雄
遠藤 幸三
佐藤  翕
佐藤 よし
南場宇之吉
三木 長人
福本 為雄
伊藤 友範
古沢 周吉
鈴木 彦佐
竹沢 トラ
宮田定次郎
宮田チヨノ
佐藤 武志
宇野 光則
桑原 宗英
野谷 正雄
忠島加東太
上野 礼次
忠島 キク
渡辺 正雄
桑田 仁慶
横関 善蔵
吉川 芳美
島地 武雄
渡辺千代子
佐藤  實
佐藤ツユ子
熊谷 信敬
品川 義郎
黒川 政夫
西野 栄一
安藤 憲治

大澤重太郎
 林  勝弥
追永 寅松
高橋仙太郎
小野 直司
藤原 啓助
山田  実
大澤  栄
木村 重雄
吉村 義時
野村  清
長田 政雄
澤西 武雄
大川
桧山 宏治
金森金次郎
西浦初次郎
柿崎 浅吉
阿部 松男
鈴木 松次
阿部
如澤 英一
村口 初男
高畑 清弘
桑原 キヌ
大甕 清美
井口 文男
稲熊 富雄
今野興四郎
渡辺 正明
大場栄三郎
柴田 澄男
粥川  勇
尾山 正明
大出 理一
吉田  保
小野  巌
石岡 亀亮
東海林昭義
加藤 正利
菊地 利明
高橋 一雄
細田 政夫
中村 節夫
 谷  重光
大出 辰造
関戸 テル
 泉   暸
前野  浩
鍵山 久一
阿部 勝行
野崎  昇
森谷 孝一
八巻  努
小池  司
前田  晋
宍戸 忠悦
鵜野 光雄
板野  覚
牧下 義光
堀川トシ子
茂木 洋一
伊藤ソノ子
加藤由美子
遠藤 慶助
小林 平八
石井
伊藤 五郎
渡辺 英雄
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楠木兼次郎
安藤 重作
信田福太郎
犬飼重太郎
永江新次郎
渡辺 仁助
千葉 武志
野尻
江崎 チヨ
佐藤 勇吉
粥川興三郎
山田 為助
間島重次郎
板野 政市
小西利三郎
岩間 覚蔵
小針 勘助
岩田 浅吉
原田孫四郎
鈴木権十郎
羽田佐一郎
前田 幸松
丹野 堅三
新海幸二郎
本田善兵衛
羽田 省吾
黒川  武
山原 虎市
渡辺  一
洞口 正喜
洞口 義雄
阿部 秀吉
如澤 次郎
山腰 三作
窪田 広衛
大場 多七
大場興八郎
村井綱次郎
村井初次郎
桑原 喜平
小池源左衛門
渡辺由太郎
渡辺  一
矢吹吉太郎
篠原三十郎
小野寺宇平
田中 重土
越田 安信
細谷 是良
菅原 幸平
茂木仁太郎
関野 留作
関野 徳雄
庄司弥次郎
茂木 清一
鬼越 三郎
 筧  政治
庄司勘次郎
茂木 清孝
相蘇  勇
只野由右衛門
 仲 豊三郎
高広  章
只野忠五郎
藤原 定吉
中山伊勢馬
田中
池田
蝦名 はま
佐藤 武志
近江幸之助
高井 三郎
鈴木 広嗣
佐藤 あい
高井 熈子
引地 政志
田村なみ子
中村 シナ
種市 一夫
近江 信衛
横井 佳夫
五十嵐悦子
南場 静重
中山 敏秀
中山 敏夫
草野 清子
高井 靖稲
 西  興作
高井 弥生
成中 永勝
高谷桂太郎
田畑津賀子
西村  晃
大内  尚
豊田 信成
徳田 洋子
大畠 繁利
中島 八郎
直井 照美
江渡 恵美子
岩岸 順子
鈴木  喬




 筧  政治
原田 敏雄
山原 正夫
蓮沼  清
今井 外松
高橋  静
山原安太郎
関戸章・テル
永井 平治
長岡 勝治
宮下キクエ
原田小四郎
豊田 キミ
沖山 信男
山原 久勝
沢田 定雄
間島  勇
橋本
福原 毅一
佐々木権太郎
西沢 利秀
西澤 (兄)
野尻よしえ
村上 養一
青山 富和
鬼越チヨ子
中林源太郎
稲毛 満穂
鈴木 喜一
斉藤  武
村松  登
江崎フキ江
後藤 政則
 西  栄一
多田 直敏
木村 茂雄
吉田 春也
(10)昭和の冷害凶作年  昭和元年・6年・7年・9年・10年・16年・20年・22年・28年・29年・31年・32年・39年・40年・46年・51年・58年
59年大旱魃(76年ぶり)
思い出
          渡辺テル子
  今から80年前の昔、私の父は上湧別屯田兵の戸主となり、大任務を受け上湧別5中隊2区五鹿山の麓に入隊した。
 私は明治38年、日露戦争の只中父が出征中生まれたのです。その年に日露戦争が終わり、父は大任を果たし無事に帰還してきました。
 喜びと共に将来について考えた末、農業の見通しを立て、ひとまず家族を上湧別に残し広大な大自然林の奥地計呂地6号線に入地致しました。夢と希望を抱いて開拓に村づくりに生涯をかけて邁進したのです。
 その頃、計呂地の山里にも藤永栄槌氏・伊藤常吉氏が先駆者として入居されて、父は次の入植者のようでした。
 私は2歳で父母に抱かれて計呂地の人となったのです。
開拓に大望をもって、忙しい中に子育、並大抵の苦労ではなかったと、つくづく当時を偲び父母の苦労を思い出しています。日常生活の必需品はもとより、マッチ、鉛筆一本買うにも湧別まで行かなければならない状態でした。父は、馬の背中にラクダというクラを乗せ、それに食料品、衣類などをしばりつけて、小笹の萌る細道を手綱を引いて熊の出没する5里の道を往復したそうです。家族の者は父が帰るまで心配で、帰宅してはじめてほっとしたそうです。
 熊についてのお話ですが、明治39年頃のことですが、父の不在中、熊が餌を求めて家の周りをうろつきだしたそうです。馬が恐ろしがって小屋中暴れ出したので、母は熊だと気がつき、とっさに対策を考え、金の音が嫌いだということを思いだし、金の洗面器をがんがん叩いて音を出し、馬の首には風鈴(昔の馬の首につける鈴)をつけてみたら、しばらくして馬は落ち着きを取り戻しおとなしくなったそうです。母は「ああ命拾いした。」とほっと胸をなでおろしたそうです。
 当時の私の家は、1軒の小屋に人間と馬が共同で住んでいて、戸の代わりにムシロを1枚下げて暮らしていたんです。
 これも熊の話ですが、母が祖母の墓参りに、2歳の私を背負って湧別へ行く途中、今の芭露国道の久保さん付近で熊が2頭道路に出て立合のけんかをしていたそうです。2頭は母の姿に気づいて深い笹の中にばっさり飛び込んで音もしなかったとか。さぞかし恐ろしかったことと思います。
 とにかく、裏山で熊がほえると前の山にそれがこだましたとか、秘境の奥地、未開拓地であったことが想像されます。
 今の世の中では、観光地に多額の費用をかけて熊牧場などをつくって見物人を呼んでおります。
 恐ろしい思い出は未だあります。私が物心ついた6歳頃だったか。長屋ミヤエさんという友達の所へ遊びに行って帰る途中、先方から異様な風俗をして、弓のような物を持った7・8人のアイヌの集団に出会いました。何も知らない私は驚いて力一杯大声を出して泣きながら家に飛び込んだ記憶があります。今、思い返してみても、2度とない昔の体験は肌に残ったまま,後生忘れることが出来ません。
 我が家の住居は先に記したように粗末な掘立小屋で1間あまりの室しかありませんでした。暖をとるにはイロリと言ってストーブの代わりに木を割って寄せ火をつけて焚きました。
主食は麦でしたが、ご飯をたくのもイロリでした。
 また、当時の風俗は、帽子・手袋・足袋・ポッコ靴・もも引・着物等で、これらはすべて、母の手づくりでした。母は仕事に追われ、睡眠や食事の暇もない生活であったと思います。どこの家もこのような生活だったようです。
 このように不便な不自由な家庭でも、それぞれ工夫して、家内一同温情と思いやりで心暖まる楽しい、しかも味のあるわが家でありました。
 明治40年には教育施設も出来、教育所と称して5号線(渡辺の土地)に粗末な掘立小屋で、30坪くらいの土間の教室が出来ました。
 机・腰かけなども工夫してこしらえ、1年生から6年生まで1教室で先生も1人で教えて下さいました。
 明治44年頃、計呂地3号線、今の3角道路(若佐線入り口)の両側に南場商店と柏旅館が出来不便さは解消されました。また、移民の人もぼつぼつと増えてきました。
 サロマ湖の磯の香りがほのぼのと軽い風に乗ってくる思い出は今も変わらない風景であり味わいであります。
 大正元年には私は1年生に入学しました。家では子供が大勢なので、私は子守をしながら妹の手を引いて通学しました。風呂敷に石盤・石筆を包んでそれを背負い登校しました。少しは字も覚えたようでした。お弁当は焼きだんご等で皆に羨ましがられました。遊び道具は茶碗のかけらをおはじきにしたり、、あやこ、縄とびをしたりとても面白かったことが記憶に残っています。
 このような粗末な生活が体づくりには適当していたのか、私は1年生から6年生まで学校を休まず精勤賞をもらいました。
 この頃より計呂地のあちこちに入植者が増え、春になると開墾の笹を焼く煙がうららかに上り、黒く焼けた笹の葉が空高くふわふわ飛んでいる風景が、当時の苦労を思わせ、忘れることが出来ません。
 当時の主な農産物は薄荷・麦類でした。薄荷の草取りは座りこんでとるのです。秋になると刈り取ってハサに掛け乾燥させます。そして自分達で考案した蒸気釜で油をとったものでした。
 子供心に薄荷の蒸留が1年中で一番楽しみでした。
 薄荷釜の下に火を焚きつけたり、夜食の御馳走をこしらえて食べたりそれは楽しい思い出でした。
 蒸留した油は一斗缶に入れて、一年の収穫として私共の生活を支えていたのです。
 大正5年になると、現在の8号線に学校が落成しました。
1教室で、先生は南場宇之吉先生一人でした。そのうち若者達も文化に目覚め村に男女青年団が組織され産声をあげました。元道議会議員のAさんも向学心にもえた若い青年でした。
 私もそれなりの青春があったのでしょうが、ぼうっとして今かえりみればつまらない青春となって残っております。
 16歳の頃、一年中家族が食べる麦を春先に一人で7俵位立ウスとキネでついて乾かし貯えておいたものでした。その1・2年後精米所が出来本当に体が楽になりました。
 当時の輸送手段は、ドンコロ・馬車・馬そり等で、もっぱら馬に頼っていました。
 厳寒時にはサロマ湖の氷上を馬そりに木材をどんと積んで湧別まで運搬しました。それで得た収入が冬中の小づかい銭でした。 
 私もこの頃は結婚していました。湧別の浜市街まで、主人が木材搬出をし、生活費に当てたものでした。
 金を得るには大変な苦労が伴います。今では空に海に陸に、すぐれた交通機関が発達していて、時代の変化はちょっと表現できかねます。
 しかし、山では今も昔も変わりなく、春になるとカッコ鳥が鳴き、凍てつくような厳寒時にはオホーツクの海に流氷がやって参ります。
 昭和10年には鉄道も開通しました。多くの先人は苦労を重ねて工事に取り組み完成にこぎつけたようです。
 計呂地の鉄橋をつくるにも、人を使い果たし幾人か埋めているといううわさも耳にしました。
 うちの主人や、隣の人達も冬の生活費を求めて、朝の2時から馬そりをもって現場に行きました。一冬働いて80円の賃金をもらい、財布に入れた時初めて金持ちになった気分になり、主人と喜びを分かち合いました。
 そのうちに計呂地にも郵便局が出来ました。
 こうして過ぎ去った75年を回想する時、遠い昔話のような思い出となって残っております。
 戦後、文化・経済が飛躍的に向上発展し、今の日本は世界の先進国になりました。私達の住む北海道の計呂地も例外なく住み良い郷土となりました。これも、部落民の努力の賜で今日あることを感謝しております。

第2節 人物紹介     第1節