計呂地郷土史
第4章 商 工 業
第5章農業関係団体
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第4章 商工業      第2節第5章第1節第2節第3節第4節第5節第6節

 うっ蒼として昼なお暗い樹林、丈余の雑草、巨熊が咆嘩し老孤の鳴き叫ぶ中での開拓生活は、文字どおり筆舌に尽くし難い困苦を伴うものであった。
 特に生活必需品の購入については、遠く湧別浜・4号線へ道らしい遠も無い中を買い求めに行かなければならなかった。
 明治37年、藤永栄槌が雄志を抱いて原始の大地に第一歩を踏み入れてから8年の歳月が流れた明治44年に、南場商店が現在の国道238号線と、道々計呂地〜若佐線の分岐点付近に開店した。酒類・タバコ・食料品・学用品・雑貨等を取扱った。
 当時の住民戸数は42戸で、開拓農家40戸、教師1戸、商業1戸であった。
 計呂地発展の途上ではいろいろな業者が生まれた。中でも澱粉工場のない頃は、動力機械を移動して澱粉をつくったり、小規模の工場を作って生澱粉の委託製造を行う業者もいた。
 現在では柾屋根は珍しいが、開拓当初は割柾が多く、後に突柾も使用されてきた。当時は農業の傍ら、これを製造・販売したり委託加工を行ったりする入もいた。
 また「てんびん棒」や箱を背負って鶏卵の買入れに各戸を回ったり、古着等を専門に売る入なども出てきた。
 また、冬期木材運搬の人を相手に「おやき」を売る人などその後入植者の漸増と共に各所に商店が聞かれた。
 昭和10年計呂地駅の開設によって、駅を中心にして市街が形成され商店等が増加した。また農林業の進展に伴い木工場・澱粉工場・娯楽施設も営業を始め活況を呈したが、昭和36年を頂点として、林業の衰退、農家の離農、酪農経営への転換により工場・商店が逐次姿を消した。
 このように多種多様な人々が住民の生活にかかわってき、私たちの生活の向上・安定に一翼を担ったことは忘れることができない。
第1節 商店・理髪店他
(1)開拓当初から
    鉄道開通まで
 南場商店 柏旅館 太知商店 岡山商店 稲毛豆腐店 前野商店 大沢商店 阿部精米所
 篠森家畜商 如沢精米所  南場商店 岩田豆腐店 稲毛鉄工所 佐藤鉄工所 中谷精米所
 組合配給所 今野装蹄所 亀田旅館 木村精米所 荻原飲食店 月山商店
(2)鉄道開通後  イ、商 業
 岡山商店 前野商店 大沢商店 篠森家畜商 南場商店 佐藤鉄工所 今野装蹄所 古屋商店
 荻原商店 木村食堂 斉藤精米所 追永商店 柏旅館 福士魚店 林商店 農協計呂地支所
 農協購買店舗 山田装蹄所 小野鉄工所 栄新聞販売所 杉本理髪店 小野パチンコ店
 石渡パチンコ店 中林商店 星板金店 今野商会 橋本呉服店 村松豆腐店 柴田商店 西商店
 中央劇場 斉藤理髪店 豊田商店 大甕商会 古屋産業 渡辺商会 伊藤商店 鈴木家畜商
 真壁新聞販売所

 ロ、工 業
 斉藤精米所 長岡加工所 石渡木工所 如沢澱粉工場 金森組 柴田木工場 農協加工場
 北斗澱粉工場 西本工場 円山鉱山 丹野建具店 君津木工場 一成農林KK 丸寿斃死処理場
 
(3)現在の商工業  イ、商 業
 大沢商店 古屋商店 農協計呂地支所購買店舗 西商店 一成農林KK 荻原新聞販売所
 渡辺技研工業KK 鈴木家畜商 荻原産業 北海道鈴木畜産斃獣処理場
第2節 工 業 最初に戻る
(1)木工場  原始の密林で、木挽職が、枕木、砲床材、角材、板、舟材などを木挽鋸で挽割りしたのが製材のはじまりである。
 その後、ガスエンジン付き丸鋸で、移動製材が盛んに行なわれるようになった。
 移動機による製材は芭露より移転して来た林と云う人(通称、髪林と呼んでいた)が現計呂地駅ホームの東側で製材を始めたのが最初である。
 其の後昭和23年に柴田粕蔵が自宅前(現浪江国雄宅)の国道東側に小屋を建て移動機による製材を行い、また11号入口の所へ移動し製材を行った。また石渡要助が19号、現新海康夫宅前沢で移動機による枕木等の製材を行った。
 昭和21年、石渡要助は工場坪数160坪、動カ104馬力、年間素材消費量25、000石位、職員4名、工員19名の石渡本工場を設立、一般製材、チップ生産にあたった。
 後、昭和36年8月、君津木材株式会社と改名、45年まで操業が続けられた。
 昭和30年には、西木工場が設立、工場坪数70坪、動力45馬力、職員2名、工員7名、年間素材消費量6,000石、38年3月には、一成農林株式会社と改名、一般製材やチップ材の生産にあたり、現在も操業されている。
(2)柾製造  トド松の豊富だった開拓当初は、自家用柾として、手割り製造が盛んに行われていた。
 その後およそ昭和13年頃、7号線に小野一男が自宅の所で石油発動機を使用して機械柾の製造及び賃加工をはじめた。原木はもっぱら白樺、白楊が使われた。
(3)木炭製造  木炭は大正8年頃から、開墾地で焼却処分にしなければならない樹木の一部を原料に、農家が副業として作り、1俵35銭から50銭程度で当時の下湧別、武士方面へ売りに歩いたのがはじまりのようである。
 大正10年頃には、伊藤庄二、伊藤辰之助、鈴木清徹らが、7号線付近に炭窯を作った。
 ヨシを刈り、みご縄をなって、女、子ども達が炭俵作りにあたった。
 炭1俵、1円から1円50銭程度で、下湧別の剣持商店と取り引きを行なうなど、特に、伊藤庄恵は、焼子まで頼んで、大々的に規模を広げた。 
 その後、昭和の初期に入り、両瀬、板野、丹野、前田らも加わり、次第に木炭製造をする人が増えてきた。
 昭和17年、時局の要請によって、普通木炭、ガス木炭の生産増強が強調された。
 戦後、農作物の脱穀に、木炭ガスを利用した発動機が使われたり、トラック、バスなどにも広く用いられた。
 しかし、昭和34、5年頃から、石油類、プロパンガスの急速な普及で、消費の減退を招き、現在では、生産する者がみられなくなった。
(4)精米所  計呂地の開拓は明治37年から始まり、当初精米所はなく各家庭にて手臼、足踏臼、水を利用したバッタ臼、精粉はもっぱらひき臼を使い精麦、精粉をした。大正8年に阿部善吉が11号の処に水を利用し水車で各戸の精麦をしたのが精米所としての始まりのようだ。水車利用は大正13年まで続いた。大正14年には如沢元治が石油発動機で11号の道路上の処に精米所を建設し昭和3年まで精麦、精粉を行った。
 昭和5年には10号線の処に中谷倉之助か発動機で精米、精麦、精粉を行い19年まで続けた。
 昭和10年には計呂地市街に斉藤武雄が大型発動機で精米、精麦、精粉工場を建設し46年まで続けた。
 昭和15年以降部落の戸数も増加し利用者も随分多くなった。昭和23年には農協の精米所が新築され、電気利用モータで大規模に行うようになった。斎藤精米所も電気利用に切替え、計呂地,志撫子領地良いの全面加工がなされた。
(5)澱粉工場  馬鈴薯は開拓当初より作られていたが、澱粉に加工する程の面積もなく、また澱粉に加工する工場もなかった。
 したがって秋寒くなってから馬鈴薯をコモの上に広げてシバラしその中に馬鈴薯を入れて一日に一回水を替え、何日も繰返して晒し、其の後乾燥し手臼で小さく砕き、ひき臼で粉にして団子等作り食膳を賑わした。
 年度についてさだかではないが、昭和15、6年頃床丹の沢井惣市が石油発動機で11号川の所で澱粉の摺落し加工を行ったのが計呂地としての始まりのようである。
 その後19年、20年と長岡勝治が現神社下の川の所に小規模ではあるが工場を建て石油発動機で賃摺加工を行い多くの人に利用された。
 21年には如沢元治が7号線入口の所に大規模な澱粉工場を建設し、地元、遠くは羽幌町よりの工員20名近くが9月より操業し、ピーク時には30、000俵位、1俵60s、澱粉にして1袋30s約9、000袋の出荷をした。
 35年頃より馬鈴薯の作付も次第に減少し37年に閉業するに至った。
また澱粉の消費の多かった26年には、6号線人口の所に北斗産業が工場を建設大規模な澱粉の加工を行ったが、原料の不足等により、29年には閉業を余儀なくされた。
(6)精油所  太平洋戦争中、戦後にかけて食用油が不足し農家は作物として亜麻を耕作していた。亜麻の実は油が多量に含まれているので、その実を圧搾機で採油した。長岡勝治が23年より28年まで自宅横の工場で製油加工を行い多くの農家が利用した。
(7)鉄工場  昭和初期に入り移住者も次第に増加し昭和5年には150戸余りに及んだ。同年稲毛実が6号線の所に鉄工場を建設、農機具、馬車道具等の製作、修理を営み13年まで続けた。
 計呂地奥地にも次第に農家が増加し、昭和5年に10号線に佐藤金次郎が稲毛同様の鍛治作業を経営した。戦前、戦後にかけて追材作業は馬搬で行われ夜遅くまで作業に追われた。
永らく続けた鍛治作業も38年閉店した。
 更に市街には鉄工場がなく不便をきたしていたが、小野直司が市街に工場を建設、鍛治、ガス溶接農機具、馬車道具等製作修理を行い44年まで続けたが、トラクター導入等による時代の変化に伴い閉業した。
(8)蹄鉄所  開拓は丸鍬を使い1鍬1鍬手作業で本の根を取除き、農作業が容易に出来るようになり、作業形態も馬に頼るようになった。冬期間は造材作業丸太の搬出は専ら馬が重要な役割を果した。昭和7年8号線に今野与四雄が蹄鉄所を開設、蹄鉄には夏用、冬用と其の期に合わせて鉄打ちを行い、其の時期は夜遅くまで作業を続け農民の要望に応えた。其の後、市街に移転28年まで続けた。
 今野蹄鉄所が市街に移転する以前の24年に山田実が市街に蹄鉄所を開設、計呂地、志撫子両地区の装蹄を営みトラクター等機械化に変わるまで続け31年に閉所した。

第5章 農業関係団体    !第1節第2節第3節第4節第5節第6節!    戻る                

第1節農業協同組合の始まり
(1)東湧産業組合  大正の後半から農村不況は深刻化し、農産物の下落が甚しかった。
 この頃の生産物は殆どが仲買人に買いとられる個別取り引きで生産者は常に不利な立場に置かれ、時には青田売りなどの前借による不利も忍ばねばならなかった。
 こうした商業責本の搾取を排除し、経済のたて直しを計ろうとして産業組合設立の呼びかけが藤永栄槌、伊藤庄恵、新海忠五郎等からおこった。
 当初なかなか理解が得られなかったが次第に気運も高まり、昭和3年3月計呂地、床丹、志撫子を一円とし組合員数約150名で組合を設立し、組合長に藤永栄槌が選ばれ、事務所を組合長宅にもうけ事務員として伊藤時太郎をおいた。
 昭和6年5月頃藤永宅前に事務所(店舗付)を建設し、日用品、菓子、食料品、味噌、醤油等を湧別の丸ハ尾張商店や剣持百貨店から仕入れ、馬車で1日がかりで運び組合員に供給した。また2間半に5間の倉庫を建て、肥料、藁工品、延、吠、縄等取扱い、販売農産物の豆類、麦類、薄荷油等を取扱った。
(2)下湧別村信用購買
    利用組合
 昭和10年、1村1組合とする指導勧奨により、東湧産業組合と下湧別産業組合を統合して、下湧別村信用購買組合となった。
 組合長大口丑定、専務理事内山繁太郎、本部事務所を芭露市街(現在の農協の位置)に置き、下湧別、上芭露に支所、計呂地と床丹には配給所を置いた。
 計呂地配給所は前産業組合事務所があてられ、伊藤時太郎が本部勤務となったので新たに小田武夫を採用した。
 昭和12年、島崎卯一が組合長、その後、14年9月、国枝善吉、15年に大口丑定の再選となり18年まで統いた。
(3)農業会  昭和18年3月、農業団体法の公布で19年1月産業組合の解散指令が出され本村産業組合も解散、同年3月、農業会が設立された。
 統制業務の強化は戦争末期になると農業会は官僚化され、農民を支配するように変わっていった。
 戦後22年11月、農業団体組合法の公布によって農業会は解散した。
(4)農業協同組合  昭和23年8月を期限とした農業協開祖合法によって湧別、芭露、上芭露、計呂地の四農協が設立された。
 計呂地農協は23年5月25日、床丹、志撫子、計呂地を一円として設立、組合員465名、初代組合長に伊藤庄恵が選任され、事務所を計呂地市街に置いた。
 25年、組合長は如沢元治に変わり、当時の職員としては参事野村清ほか阿部松男、村上晃、柿崎美恵子、辻忠人らであった。
 25年11月、床丹部落が佐呂間町に編入されたので、組合員が急激に減少し、組合の維持運営にも困難をきたし、28年7月、芭露農協と対等合併し、組合事務所を芭露に移し、計呂地市街に支所を置いて現在に至っている。
 合併後の芭露農協は清水清一を組合長に選任、正組合員数、716名、準組合員数、81名の大世帯となった。
 38年5月、清水清一湧別町長に当選の後を継いで越智修が組合長となり、60年から梶井政雄が現在に至っている。
 39年、計呂地支所の事務所、店舗及び付属住宅を含めて約50坪を220万円で新築した。
 店舗では、日用品、菓子、食料品等を販売し組合員の便宜を因っている。
 また39年には、ガソリン、軽油スタンドを開設し乗用車及び農業用諸機械の燃料を補給している。
その後農家経済は28年から5年に4ケ年の連続的冷害凶作で農家経済は一段と窮乏、従来の畑単作から耐冷作物へと変わり徐々に酪農への転換が余儀なくされてきた。
 56年末、計呂地地区の約70%が酪農経営で酪農戸数41戸、乳牛頭数1610頭余、畑単作農家15戸、畜産収入、4億1000万円、農産収入4400万円という状態である。
想い出文

元計呂地農協参事
野村 清
 終戦後マッカーサー指令により、国内各組織の戦時体制から民主国家体制への移行のため、新しい農協法が公布されまして、湧別町内に4つの農協が誕生した事はご承知の通りですが、当計呂地農協も昭和23年4月、初代農協長伊藤庄恵氏で発足致しました。発足当初の区域は計呂地、志撫子、床丹の3部落で組合員数は約300名位かと記憶致しております。
 発足はしたものの事務所の建物すら無い処ですから、一通りの体制が整うまでは大変苦労が多かった事だろうと思われます。その中心になってご苦労なさった人は、今では故人となられた方も多いと思いますが、計呂地の伊藤庄恵さん、床丹の横山勇さん、或は当時農業改良普及員として計呂地に駐在して居りました沢西武雄さん、他設立発起人の方々で事務所の新設に始まり、職員集めに至る迄、筆舌につくし難い御努力でありました。
 当時私は芭露の農業会事務所で、旧農業会からの財産の引継書類作りを始め資産負債の確認書作り、或は新農協の定款作り等の仕事をし乍ら色々な相談を受け、設立総会に向かっって準備を進め、その設立総会を昭和23年の4月下旬だったと思いますが、忘れもしませんが計呂地の市街に有りました劇場をお借りして開催したのでしたが、私の人生で一番緊張した総会でした。ついーケ月程前迄は只一係にしかすぎなかった者が、一変して経営者側の説明役になるわけですし、過去一度も経験した事のない一日だった譚ですから無理からん事だったでしょう。従ってびくびくし乍ら総会に臨みましたが、組合員の方々のご理解を戴き、提出議案全部を原案通り承認を戴き、総会が終了致しましたときは誠に嬉しく、感激しながら職員と共に今後の農協運営に頑張ろうと誓い合
ったものでした。
 こんな経緯を経て愈々計呂地農協が発足、事業を開始致しましたが、最初に手を付けたのが土地改良事業だったと思います。土地改良事業については湧別農協、芭露農協、計呂地農協の3農協が合同事業とし本部を芭露農協に置き、大型トラクターの導入を図り、計呂地には2台のトラクターと付属農機具の配備を受けまして、主として心土破砕及暗渠排水工事を進め、併せて畑の深耕しを実施して生産の向上を図ったのでご座いますが、予想以上に希望者が多いのと終戦直後の事ですから、トラクターの燃料は木炭を使うために機械の故障も多く、計画通りに仕事がはかどらず、組合員の皆さんから毎日の様にお叱りを受けた事などが思い出されます。
 又昭和25年当りからでなかったかと思いますが、戦時出回って来る様になった事と併せて、若い女性遠の洋裁熱が旺盛になって参りまして、組合員の方々の娘さん方の殆んどが、佐呂間町或は中湧別の洋裁学校へ冬期間通い始めた事を察知致しまして、月謝、汽車賃等の支出を多少でも少なくする事も農家経済にプラスであろうと考えて、冬期間の洋裁学校を開設致しました。
 期間は11月から翌年3月迄とし、会場は購買店舗の屋根裏で誠に狭い教室でしたが、入校生は実に50余の人数となり、大変喜ばれたものです。2年目からは週に1度花嫁修業の一環として華道、茶道、教養学科等を採り入れ好評を受け乍ら3年間続いた様に思います。尚2年目からは生徒さんの作品展示会等を開き、広くお母さん方にも見て頂いた事もよかったのか、その後の農家の人達の服装に変化が出た様に思われます。
 因みに洋裁の先生は中湧別市街で開校をして居りました山村先生御夫妻で、華道、茶道については当時計呂地市街で旅館を経営して居りました追永タツさんにお願いしたものです。
 一方一般業務推進に当っては、戦前の畑作専門の経営では当地方の気象条件に適さない事がら、酪農経営へと移行、・傘下組合員の乳牛飼育頭数も急激に増加した事に伴いまして、牛の交配も人工授精へと移行、業務を開始致しましたが、家畜が殖えますと種々な患畜も多くなり、緊急事態時の連絡網が欠く事の出来ない必須条件となりましたので、昭和27年雪触けを侍って農村有線放送施設事業に着手したのでご座いました。
 総工事費については記憶して居りませんが、組合員の負担方法については、確か現物提供で1戸当り燕麦4俵と電柱10本で、架暢工事については共同出役の条件で、工事業者は佐呂間町若佐の大野電気店で約1ケ月位で完成した様に思います。受信設備については農協事務所に本機を置き、各農事組合長宅に中継機を置き放送を始めたのでした。放送開始に当っては如沢組合長の挨拶放送を受け、業務を始めたのですが、開始早々から放送が聴えないとか、混線して困るとか文句ばかりでしたが、大変便利になり過ぎて担当者は苦労をしたものです。
 放送業務の中で未だに印象に残って居ります事は、キイロイすんだ声で「もしもし計呂地第3の深谷ですが」の呼び出し声が懐しく思い出されます。
 こうして農協の運営体制も暫時整いましたにも拘わらず、何故発足6年目にして芭露農協と合併をしなければならなかったか、先ず第一の要因は、床丹部落が昭和25年に行政区域の変更を実現し、佐呂間農協に約40戸位かと思いますが一括移行された事に加えて、農家戸数の減少に伴い負担能力の限界でもあったと考えられたのでしょう。昭和28年4月通常総会で合併決議を受け、5月に合併による解散決議の臨時総会を開催して、発足僅かに5年の命でしたが終止符を打ったのでご座います。
 この5年間の内で最も思い出となって居りますことは、昭和25、6年頃だったと思いますが計呂地小学校のグランドを拝借して農民運動会を開催したときの事ですが、計呂地、志撫子合せて14の農事組合で6チームに編成。優勝旗の争奪戦を行ったのでしたが、組合員の皆さんはこの日を農民の休日憩いの日とも称し、全くリラックスをして家族全員が参加し、思い思いのご馳走を作って一日を楽しく過したものでした。そんな中で尚一層盛り上げ、なごやかな雰囲気を作り出して下さったのが計呂地第2農事組合の間島勇さんでした。朝からお酒をのんで、入場式終了後ご自分のチームの先頭に立ち、赤ふんどし一本でグランドー周をしてくれたものでした。それで緊張した雰囲気もいっぺんにほぐれ、満場笑の会場になったものです。
 以上計呂地農協退職後32年も過ぎた今、参考資料も何もないままに、只私の僅かな記憶に頼り乍らの「計呂地農協の思い出」を綴って見ましたが、従って文章の中に記憶違いも多くある事と存じますが、幾らかでも記録になれば幸に思います。
 最後になりましたがお伺い致します処昭和61年が計呂地開基85年を迎えられるとの事で、此の輝しい開基85年を心から御祝い申し上げ更に計呂地部落が2世紀に向けての益々のご繁栄を御祈念申し上げまして終わりと致します。

第2節 土地改良事業 最初に戻る
(1)暗渠排水工事  計呂地の農地の多くは、緩傾斜、重粘土で水排けが悪く、他の地区に比べて、農産物の収量も劣っていた。このため、明渠排水や暗渠排水の工事が続けられてきた。昭和10年頃、柴木を埋める粗朶暗渠が行なわれたが、その施工面積は明らかでない。その後、昭和28年から38年の間に、本格的な土管暗渠が団体営で施工された。総面積411町歩、事業費4、143万円であった。当時はツルハシとスコップを使い総て人力で行なわれ、この工事の完成までには並々ならぬ苦労があった。
(2)計呂地地区国営直轄
  明渠排水工事
 計露岳に源を発する計呂池川は、13号沢、11号沢及び7号沢の小川が合流したもので、通常はそれほど水量の多い川ではないが、曲がりくねっており、融雪期や夏雨が長く続くと、河川が決壊し、下流の田畑が冠水。被害が多く出た。
 したがって、昭和33年、計呂地地区河川改修工事期成会が結成され、会長、新海忠五郎を中心に種々運動を続けた結果、昭和35、6年の2ケ年をかけて、実施計画調査がなされ37年着エ、41年完工をみた。
 実に、総延長8、570メートル、受益面積938ヘクタール、受益戸数147戸、事業費1億3357万円であった。この工事の完成によっべ以後、大水が出ても流れがスムースになり冠水被害が全く無くなった。
 昭和33年計呂地地区河川改修工事促進期成会が結成され会長に新海忠五郎がなり、その運営にあたり、昭和37年に着工、昭和41年工事が完了した。
(3)計呂地地区道営畑地帯
   綜合土地改良事業
 緩傾斜、重粘土のため農産物の収量も少なく、総合的な土地改良の必要に迫られ、行政当局、農協の指導もあり昭和44年全体計画がたてられた。
 45年本工事に着手したが、砂取場の問題で延びていたが12年間と長い年月に亘り計呂地地域の土地基盤整備が完了した。暗渠排水216ヘクタール、砂客土240ヘクタール、透水渠254ヘクタール、国営明渠排水延長工事1500メートル、農道改良工事6、351メートルに及ぶ大規模な改良がされ、見違えるように土地からの生産量も急速に上昇するに至った。実に総工事業費5億9500万円を要した。
 芭露農協だよりより抜粋
   計呂地地区道営畑地帯総合
    土地改良事業本年度にて完了す

          −営農課営農企画係―
 昭和44年度総合的な土地基盤整備を目的とし、北海道が事業王体となった道営畑地帯土地改良事業が全体計画され、45年度本工事着手、途中変更計画を含め12ケ年という長い年月に亘り計呂地域の土地基盤整備が完了致しました。
 この間基幹工種でありました客土工事は客入目的物でありました海砂の問題で、砂取場の変更等種々難航致しましたが、何とか道営基幹規模である計画面積の200ヘクタールを完了出来ましたことは、期成会役員はじめ地元受益者各位の御協力のたまものと感謝致している次第であります。
 この12ケ年のなかで年次計画に基ずき長道、明渠排水の線工事をはじめ、客土、透水渠、完全暗渠の面工事を含め土地基盤整備事業が進められました。従来迄、重粘土地帯でありかつ排水不良により作物生育に犬巾な影響を与えていた土地を、完全暗渠排水施工にて乾畑化を回り、圃場内に砂を客入、バンブレーカーにて緊密土壌を破砕その後プライングハローにて耕起、かくはんし当地区の主要作物であります、牧草、デントコーン、てん菜等の生育はもとより増収に寄与した訳であります。
 又、地区中央を従貫する道々に接続する、4条の長道整備により地区内で生産される農畜産物の流通をよりスムーズにし、明渠排水においては、計呂池川国営明渠末端でありました原始河川を3面談工し今後災害の未然防止に努めるものと確信致しております。
 現在の農業惰勢は、農畜産物価格の低迷、生産資材の値上り等で非常にアンバランスな面が多い訳でありますがこの苦境を、各受益者皆様方の営農努力で乗り切り、今後基盤整備に投資されました財源を基調に、計呂地地区の生産が一段と飛躍されますことを期待申し上げる次第です。
第3節湧別町農業共済組合 最初に戻る
(1)農業共済制度   農業共済組合の基礎となった農業共済制度は昭和4年4月牛馬艶死時の償還困難に備え[牝牛耕馬共済規程」にはじまり、家畜保険法実施と関連して昭和8年まで継続されたが、家畜保険法と併行して14年に農業保除法が制定された。
 さらに、農業者が不慮の災害によって被る損失を補填し、経営の安定と再生産を図ることを目的として、22年、画両法を統合改善し「農業災害補償法」に変わった。
 この制度は原則として農作物共済、蚕共済は強制的であり、家畜共済は任意になっている。
(2)湧別町農業共済組合の
   設立
  本町では、23年3月31日、下湧別村農業共済組合設立総会を開き、6月30日認可された。
 事務所を芭露農協内に置いて水稲、麦類及び家畜が不慮の事故によって受けた損失を補填し、農業経営の安定を図るための共済事業を行なうことになった。
 41年7月、家畜共済を乳牛、馬等農家各戸単位の包括引受方式により、病傷給付は農家単位として共済事業が畜産経営全体に及ぶ方式に改めた。
 掛金国庫負担は加入頭数別方式によるとともに、病傷掛金も国庫負担とし、その割合は国庫二分の一弱、加入農家が二分の一強として多順化畜産経営の発展を促進するほか家畜の特定疾病に対する損害防止を法制化し、制度の飛躍的な改正がなされた。
 さらに、家畜診療所を設け芭露に本院、湧別、上芭露計呂地の3か所に分院を置き診療と防疫体制の充実を図っていたが機動力の導入によって44年から分院は湧別だけに縮小した。
 人工授精は30年4月から芭露農協及び開拓農協から委託を受けて乳牛について行っている。
 計呂地地区では分院時代、小野巌獣医師が担当、最初、牛の発情時に分院か13号線付近までひきつけて授精をしてもらっていた。その後、牛の頭数も次第に増加し、組合でも41年頃から自動車を配し診療、授精などは各戸をまわるようになって大変便利になった。
 56年、共済加入39戸、共済引受頭数は牛、1、015頭。馬、5頭である。
 32年芭露農協内にあった事務所を芭露875番地に建設し組合業務をすすめてきたが、昭和46年9月30日芭露小学校前に新築移転、56年湧別分院の老朽化、本部の狭小化のため、本部を新築拡充するとともに、湧別分院も統合一本化して執行体制を強化したいとの提示があり、数度にわたる役員会で協議の結果、芭露畜産センターに隣接して新築することになった。
 建坪108坪(2階を合む)、建築費は付属備品を合わせて4300百万の豪華で近代的な本部建物が56年11月に完成、落成式は1月18日盛大に行なわれた。
 57年の職員構成は獣医師6名、授精師7名、事務職員4名である。
(3)直営家畜診療所の開設  昭和22年新共済法が制定され、23年湧別共済組合が設立された。計呂地は分院として診療所が発足し、25年北見地区農業協同組合によって人工授精事業の一元化整備がされた。初代所長に中野獣医師が2年程勤めその後乳業会社の集乳確保による争奪戦があり、乳牛導入について会社の融資等もあり当地区にも多数導入された。人工授精事業は26年頃より実施するようになった。小野獣医師は北見地区農協家畜人工授精所を経て北見保健所に勤務中であったが、当時の計呂地農協組合長如沢元治の強い要請により地区連の紹介で28年9月頃計呂地に着任した。住宅事情も悪く赴任当時は現芭露農協計呂地事業所道路向に購買店舗があった横を改造して永らく使用し、後に種馬所横に移転した。往診は専らオートバイで行った。
 昭和50年小野獣医師は農業共済組合を退職、町議会議員に立候補し当選以来3期現在に至っている。
 退職後遠軽保険所嘱託屠畜検査員及び開業獣医師とし、また共済組合の嘱託獣医師として貢献現在に至っている。
第4節 酪農組合 最初に戻る   !第1節第2節第3節第5節第6節
(1)酪農組合結成  大正末期から昭和初年にかけて乳牛が飼育されていたが、これは、自家用の牛乳を得るための飼育であって、その頭数も限られていた。
 昭和8年、農村の地力が減耗し生産力が減退し始めたのを契機に、自家用として飼育していた残乳の消費対策と合わせて畜牛の増殖を奨励し、合理的寒地農業経営を確立するために関係者が協議の上、計呂地酪農組合設立総会が開催された。
 昭和8年11月26日の総会で酪農組合設立の趣旨が理解され、規約制定、役員選挙が行われた。その結果、 組合長兼会計 藤永 栄槌
 理 事      新海忠五郎  伊藤 庄恵  橋本 嘉平
           篠森 要吉  小熊 重ハ
 監 査      長屋熊太郎  渡辺 芳良

が人選された。
  組織ができ上がると同時に酪農組合は、藤永栄槌組合長を先頭に意欲的に活動を開始した。
 昭和9年1月3日の総会で、組合員の平等出資で集乳所の建設を決定し、同年9月18日に7号線(現在の中央集会所)に建築した。
 また、酪農技術員養成にも力を入れ組合費助成を行い技術員の養成を行い、乳牛の増頭・改良にも力を入れ、各種補助牛や、国有貸付牝牛、道あるいは町貸付牝牛の導入にも力をそそぎ、組合員の飼育頭数を次第に増やしていった。
 また、種牡牛導入も手がけることになり、昭和10年7月27日に遠軽の東海林牧場から1頭250円の種牡牛を購入し、藤永義信に管理を委託して組合員の需要にこたえた。
当時の交配料は1頭7円であった。
 終戦後、農業再建の波に乗って酪農も次第に基礎が固まり、昭和22年には組合員の飼育する牛は64頭になった。
 藤永義信管理の種牡牛は10余年働き続けたが、昭和23年病気になったのでこれを廃し、同年4月13日斜里町より新たな種牡牛を購入した。しかし、これも昭和25年4月29日に北見へ転送し、代わりに生田原町より新しい種牡牛を導入した。
 この当時から種牡牛の管理には、藤永義信・阿部秀吉の2人があたり、交配料は1頭600円であった。
 昭和26年ごろから人工授精が普及するようになり、この地方の種牡牛も次第に姿を消していった。
 このように戦前・戦後を通じて牛の数は次第に増加してきたが、それに伴なって牝牛の伝染病が発生するようになった。組合はこの対策にも意を用い、昭和14年組合員の出費や出役を求めて検診所(縦二間・横三間堀立・柾葺・周囲土壁)を集乳所横に建てた。
 以来、検診所でトリコモナス虫の検査・結核検診・一般診療が行われるようになり、伝染病が著しく減少するようになった。
 また、当時は原料乳の輸送に大変な苦労があった。夏冬の輸送方法は馬車・馬値である。冬期間大雪の時などは、組合員総出でスコップを使っての道あけ作業が幾度もあったが、昭和24年の12月から農業協同組合と話し合ってトラック輸送に切り替わってからは輸送の苦労は軽減された。
 また、対工場との乳価交渉も組合の大変重要な仕事であった。乳価等の推移については後述するとおりである。
 昭和29年頃から計呂地地区酪農組合が主催で乳牛品評会を開催し乳牛の品質向上に努めたり、町内・管内・・全道の品評会に参加する際の経費等も組合で助成したりして、乳牛の育成管理にも力をそそいできた。
また、牛魂祭も毎年盛大に行い、昭和30年9月24四日には、計呂地小学校体育館で、民謡・舞踊・浪曲師等を招い昭和43年8月16日、当時の組合長渡辺芳良は組合員牛の霊を弔うことにした。総工費9万788円であった。
 つぎに組合の大きな変革を記してみる。
 昭和22年1月の総会で「計呂地酪農組合」を解散し「計呂地酪農組合」と改称し、志撫子地区と合同して運営を行った。組合長渡辺芳良、副組合長小林弥作
 昭和28年9月15日、従来の組合を改称し「新計呂地酪農組合」を設立する。
  組合長 渡辺芳良  副組合員新海忠五郎
 昭和51年「酪農振興会」と名称を改める。
  会長 前野盛隆  副会長 渡辺功
規約の改定により、以後は組合員相互の親睦団体として家畜共進会や各種研修旅行等を行って現在にいたっている。

(2)計呂地酪農組合の変遷
(3)計呂地乳牛
    検定組合の歩み
 昭和22年、山田静雄が高等登録能力検定を開始したのが乳検の初めで、同25年、只野重一所有牛が、管内初の名誉登録牛として選奨を受けた。
 昭和49年に酪農経営の改善と、乳牛改良を組織化して推進するべく、国の乳用牛群改良推進事業と、道の乳用牛資質向上対策事業が相侯って発足した。
 これを受けて、農協畜産係本田勝樹が今日の酪農発展の基盤と乳検組合の必要性を説いた。
 49年度に芭露乳検組合が11戸で発足し、検定業務が開始された。計呂地では50年度より斉藤正孝・中谷庄市が加入した。
 ついで、52年度に新海康夫・翌年仲正晴・伊藤信一・長屋進一が加入。54年度には洞口英明が加入した。
 検定指導員は北海道ホルスタイン協会嘱託、本田勝樹であった。
 その後、北海道乳用牛資質向上対策事業規模拡大計画を契機に、湧別町の一本化が進み、生乳成分測定器も町の助成を受けて導入され、酪農家は乳検事業の重要性を認識し加入希望者が続出した。昭和56年11月芭露乳検組合35戸が、全町一本化され83戸(計呂地山田篤・羽田英夫・如沢寿生)により、湧別町乳検組合が結成され事業を開始した。
 その後2年間で、羽田政雄・伊藤英雄・岡山益輝・藤永昌功・前野盛隆・諏訪問清・伊藤芳雄・小林隆精が加入し、計呂地では18戸となり湧別町検定組合では207戸となった。
 また、マスター登録4611頭を検定し、昭和38年度、褒賞制定に基づき次のような結果を得た。
 ・5万s 斉藤正孝 1頭  中谷友則 1頭
 ・1乳期(305日以内)乳量1万s達成牛
     伊藤信一 1頭  斉藤正孝 2頭
     中谷友則 5頭
 ・体格検査 高得点取得牛(85点以上)中谷友則 1頭
 ・特別表彰として
     乳量日本記録達成牛 斉藤正孝 1頭
 尚(芭露)松田一夫は翌年表彰される。松田一夫のこの牛は、山田篤の血統から出た牛である。
 乳牛検定は酪農振興の一環として、乳検により算出されるデーターを基に、低能力牛淘汰及び粗飼料濃厚飼料の給与等を調整し、個体能力及び牛群全体の能カアップを目指すものであり、ひいては酪農経営の安定を図り、より良い事業が進められることを望むものである。
 現在の検定指導員は中谷庄市・伊藤博光・新海康夫であり、組会長は上芭露の黒田実・計呂地地区理事は羽田英夫である。
第5節 開拓農業協同組合

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  太平洋戦争末期(20年3月)の疎開政策は、一時的避難から恒久的叙爵制度にまで強化され、緊急開拓の名のもとに半強制的に送り出された。
 終戦を境にして、工場離職者、外地引揚者、復員軍人など就職人口の激増に加えて、食糧事情が悪化、食糧増産にかかわる農業開拓事業が推進されるに至った。
 以来、本町にも毎年数戸の入植をみ、その数269戸になった、
 これらの入植者の中には、傾斜、重粘土、泥炭地などの劣悪な土地条件から、生産は上がらず、営農自立が困難となって離農を余儀なくされ、他に転向する者もあった。
 こうした中で、入植者の間に協同組合結成の気運が生じ、芭露、東・西芭露、計呂地、志撫子、床丹(若里)が1つになって23年6月、発起入会を開き設立準備に人った。
 同年6月28日、テイネ以東を区域とする下湧別村開拓農業協同組合を創立、役員選挙の結果、如沢次郎を組合長に選任した。組合員数104名。
テイネ以西を合併
 テイネ以西は、組合員51名で湧別開協を組織していたが、弱小組合のため、経営上の悩みも多く、更に、28年以来、4ケ年にわたる大凶作によって、2つの組合が別々に存在することの不利を考え、合併説も持ち上ったが、いろいろと菜件が違うため進展をみなかった。
 しかし、32年3月19日、湧別開協は、困難な条件を克服して合併することに決め、同年6月14日、テイネ以東の下湧別村開協と合併、事務所を湧別市街に移転、組合員数、155名となった。
 37年10月総会において役員改選、沢田豊松を組合長に選任した。
(1) 自主解散を決議  国の開拓行政に終止符がうたれたことから、湧別町開協では、47年、春の総会で自主解散して、湧別農協と芭露農協に任意加入することが決められた。
 その結果、98名の組合員は、30名が湧別農協、25名が芭露農協に加入したが、43名は両者の加入条件が違うということで、開協を存続することにした。
(2)畜産農業協同組合  開協存続のため残留した43名の組合員が、48年4月総会を開き役員改選、鎌田雅彦が組合長に就任し、湧別町畜産農業協同組合と改称、再出発することになった。
 乳牛、肉牛の増殖につとめ、現在、肉牛1,800頭余、乳牛700頭余、年間搾乳量おおむね3,200トンとなっている。計呂地への入植者も、昭和25年頃は35名もいたが、その後、転職もあって現在は12名が残り、4名が芭露農協、8名が畜産農協に所属している。
 肉牛は、浪江国雄、井関勇の両名で約550頭余を飼育、搾乳農家は、板野英誉、新海孝二郎、伊藤弥、小林忠男、福井徳重、佐藤義章の6名で、搾乳牛約90頭、乳量年間約430トンである。
 しかし、牛乳の消費が伸び悩み、滞貨が増大、飼料その他諸物価が高騰する中で、乳価は、52年、キロ88円87銭と横ばい、搾乳農家に暗い影を落としている。
想い出
(戦後入植の苦しみ)
佐藤 義章
 背丈より高い笹や草を踏み分けて進み、密生する樹本の間を屈まり抜け、水溜りや沼地を避けて、小川には丸太を渡して目的地に着いた。
 戦争で物資を使いはたした日本で、釘1本、建築資材の1片も手に入らなかった。
 山から切り倒した丸太で小屋を建て、草や3尺柾・剥柾を使って屋根を葺く、古釘で打ちつけた壁には土をぬる。床には細い丸太を渡して枯草を敷く、その上に檻櫓布団をのべて親子共々抱きあって暖めあった。
 屋根や壁の隙間からは、月や星が覗き、雨が漏れ、強風には屋根の大半を吹き飛ばされた家もあった。
 食糧の米は、統制配給で1カ月のうち1週間分ぐらいで、残りは澱粉の二番粉や豆類、足りない分は草や木の芽を取ってきて食べた。
 日本の低所得層の殆どが栄養失調になったのもこの頃である。衣服もボロボロで元の着地がわからない程に継のあたったものを着て働いた。
 外地や都会からの引き揚げ者には、農具一つなく、親戚から借りた僅かな鍬や鋸を頼りに開墾にとりかかった。
 林立する本の根株に、馬耕も困難を極め、組合は、火薬を国の補助で導入して抜根することになった。
 本の根株の下に穴を据って火薬をつめ、導火線に火をつけ一度に10株から20株ぐらいを吹き飛ばす。根株は中天高く、50米、100米と吹き上がり、その轟音と硝煙の臭は、さながら、砲弾作製する戦場の如き壮絶さであった。
 時に、昭和25年頃からはじまった火薬抜根は29年で終った。
 こうして、本の根株も無くなり、現在では、広々とした畑の隅々までトラクターで耕作ができ、全く、隔世の感がある。
第6節 関係団体 最初に戻る
(1) 農民連盟  産業組合時代(昭和10年以降)、産業青年連盟が理論と実践的立場で活発な活躍をしたのがこの地方における農民運動のはじめとされている。
 戦時中は、統制と応召によって活動は封じられたが、戦後、23年、北見地方を中心とする農村建設運動に呼応して全町的に農民連盟が結成され委員長に内山繁太郎が選出された。計呂地からは浪江勝己が委員として活躍した。
 25年頃、内部的事情のため芭露地区は湧別農連より脱退し、組織は解散したまま10数年の空白を置いた。
 しかし、きびしい農村の内外情勢から農民組織の必要性を痛感し、越智農協組合長をはじめ関係機関の協力を得て、41年4月17日、農協総会の当日、芭露農政協議会として、再発足することになった。
 計呂地部落の結成協力者は、大野貫一、宮地正勝、前野盛隆らである。
 47年、上部団体との連携を密にするために、農民連盟と名称を変更した。

    農民連盟綱領
 一、農民の大同団結により自主的組織を確立し、強力な農民運動の展開を期す。
 二、農業経営の確立を図り、もって農村の経済的地位の向上を期す。
 三、組織の主体性を堅持し、農民政治意識の高揚を図る。
 四、諸活動を通じて農村の民主化と近代化に努力し、平和日本の建設を期す。

    運動方針
 上部組織との連携を密にし、農民軽視の農政の転換を求め、単なる価格要求のみを求めず、根本的経営改善の基本問題を解決する農政を要求し、生活安定に直結した農政への一大政治的活動を推進する。

(2) 開拓者連盟  開拓者の窮状を内外に訴え、盟友の経済的、社会的向上を
めざし昭和二十一年十月結成された。
 以来、開拓をとりまく諸問題、特に、国及び道費予算の増
額要求、建設工事、農畜産物の安定振興法の大巾改正、負債
整理対策、納税対策など鋭意解決しつつ経済的安定に寄与し
た業績は大きい。
 現在なお納税対策などの運動を続けている。
歴代委員長は次の通りである。
 初代 如沢次郎  二代 村上益太郎  三代 如沢次郎
 四代 鎌田雅彦
(3) 農事実行組合の沿革  湧別町史によれば、当町には昭和三年に川西第一実行組合
が、回四年には束農事実行組合が誕生し、その後、各部落に
組合設立の機運が熟し、順調に事が運ばれ、昭和七年には三
圭二の組合設立があった。
 当時、経済恐慌で行詰った農村の振興策として産業組合拡
充計画が実施されて、各農家の組合加入を容易にするために
農事組合を法人化し、産業組合員として経済機能を果たさせ
これによって、昭和八年以降の農事実行組合は、肥料の購
入などを産業組合を通じて組合員個々に配分し、組合の責任
で処理するものとなり、農事の改善と併せて経済行為を行う
(4) 各農事実行組合  計呂地地区では、昭和5年頃から農事実行組合が設立された。実行組合の主要目的は冠婚葬祭・住宅の改善・食糧自給・主要作物の改良・納税組合・部落道路の保護等であった。
 昭和16年12月8日、太平洋戦争が起こり、我軍は広大な地域を占領したために、兵員の補充に追われ、若い男性は殆んど召集または徴用され、農村に残った者は婦人と子供と老人であり、農作業のすべてを婦人と老人で行い、その辛苦は想像を絶するものであった。
 当時の農作業は、馬と人手だけに頼るものであり、婦人あるいは老人が馬を使い、自らの肉体を酷使して日々の農作業に当たったのである。
 昭和18年には、農業団体統合令により農業会が発足し、実行組合はその末端組織として、食糧や軍用作物の作付割当や供出の責任を負わされるようになった。そして、決戦体制の名のもとに自家必要量を「家族数による割当」を残したほかは、全量出荷が強制され組合の自主性は失なわれていった
 昭和20年8月、悪夢のような太平洋戦争は無条件降伏で終結した。召集された軍人、徴用された軍属、外地に赴いた人、疎開者等が帰農し、加えて親戚知人を頼って集まってきた人々で、農村人口は急激にふくれ上がり、食糧の危機に追い込まれ、この状態は25五年頃まで続いた。計呂地の人口もこの頃が一番増加した時代であった。
 政府は、これら余剰人口を食糧緊急増産という名のもとに開拓者として計呂地部落の荒地に30数戸入植させたが(この項は開拓農協編に詳述している)28年以来、4年にわたる大凶作に見舞われ農家の経済は極度に困窮した。
 しかし、この時代に国内の第二次産業の発展は目覚しく、各地で工場労働者が求められ、若い人たちは金の卵ともてはやされ、農村の人々も都市の工場に転職する者が続出した。
 近年人口の流出はようやく安定を見、現在計呂地で営農に従事している者は、25年人ロピーク時の3分の1弱である。
 また、酪農経営への切替により、デントコーンの作付が増加し、切込作業、穀類の脱穀時には、農事組合が協同して仕事に当たり15名程の人数で切込脱穀を行ったものである。
47年頃からは大農機具の導入で殆んど人力を必要としなくなった。
 戦後、農事実行組合が農事組合と改称され、農協下部機関として各種連絡事項の伝達や報告などが主な業務となった。
 次に57年度の農事組合長より提出された計呂地各農事組合の歴史を記載する。

 (イ) 第一農事実行組合
            記録者 本 田 利 幸
 設立年月日     昭和5年4月
 初代組合長     渡辺 義一
 設立当時の戸数   19戸
 最大戸数と年度   15年、26戸
 現 戸 数       12戸
           
 第一農事組合は、農畜産物を最も有利な販売方法で販売し、その内何パーセントかを組合運営資金に積立ておき、44年より運営資金から助成し家族同伴の海水浴を楽しんだ。
 47年から温泉旅行を計画し、1年置きに主人グループと婦人グループに分け、相互の親睦を深めると共に、組織体制の強化に努め今日に至っている。

 (ロ) 第二農事実行組合
            記録者 前 野 盛 隆
 設立年月日     昭和8年3月
 初代組合長     前野 慎蔵
 最大戸数と年度   29年、40戸
 現 戸 数      18戸
 第二農事組合は29年頃40戸を4辺制とした。
  第1班 8戸 67名 第2班 8戸 51名
  第3班11戸 69名 第4班13戸 86名
 昭和14年、亜麻係  甜菜係  堆肥係  害虫病予防係等の係が決められていた。昭和16年部長制になる。
 係はそのまま継続する。
 畜産部長  経済部長  社会部長  庶務部長
 会計部長 尚、理事4名・監事2名を選挙で選ぶ。
 昭和23年 実行組会長1名・理事6名・監事2名 選挙で選ぶ。
 昭和26年 生産部長、金融部長、購買部長、総務部長
 昭和24年 部落役員として実行組合より評議員が出る
 昭和38年8月25日 納税貯畜組合法第二条第一項の規程により計呂地第2納税貯畜組合設立

 (ハ) 第三農事実行組合
            記録者 如沢 睦男
 設立年月日     昭和10年4月(推定)
 初代組合長     新海忠五郎
 設立当時の戸数  14戸
 最大戸数と年度   23年、32戸、24年、非農家12戸が分離独立第8部落結成
 現在戸数       11戸
昭和12年度 全道堆肥増産共励会1位入賞
昭和58年4月1日 第5農事組合と合併

 (ニ) 中央農事組合
            記録者 渡辺 昭紀
 設立年月日     昭和30年4月
 初代組合長     藤永 栄槌
 設立当時の戸数  17戸
 最大戸数と年度   30年、23戸
 現在戸数       9戸
組合員の中で災害もしくは病気等で労力不足を生じた時は互に労力を提供し合い共存共栄を図る。
 昭和29年4月、計呂地第4を計呂地中央と改める。

 (ホ) 第5農事実行組合
            記録者 仲正晴
 設立年月日     昭和8年(推定)
 初代組合長     中村仲蔵
 設立当時の戸数  18戸
 最大戸数と年度   昭和8年、18戸
 現在戸数       (昭和57年)3戸
竿五組合は入沢で北風が当たらず、土質も薄荷栽培に適し部落に4か所製油所があり、相当の薄荷油を製造していた。
 しかし、戦時中は食糧増産のため薄荷栽培も中止された。
 戦後は一時期酪農と薄荷で経営を行い、一か所に薄荷製造所を建て生産を上げたが、時代の変遷に伴ない戸数も減少し、薄荷耕作も下火になり酪農専業に移り変わってきた。
 その後、構造改善事業により計呂地第5利用組合を設立し、機械の導入を回り労働力の合理化に努めた。
 第5農事組合の最盛時には18戸の戸数があったが、現在は3戸となり組合としての機能を果たすことも困難となった。従って組合員と相計って第3組合に合併することになり、昭和58年4月1日第5農事実行組合は、第3農事実行組合に合併した。

 (ヘ) 第6農事実行組合 
            記録者 粥川 博
 設立年月日     昭和9年4月
 初代組合長     根本慶蔵
 設立当時の戸数  16戸
 最大戸数と年度   昭和21年 23戸
 現在戸数       9戸
 昭和15年3月   集会所建設
 昭和22年4月   全道堆肥自給肥料共励会に入賞 2等賞を受ける
 昭和23年3月   北海道地力増進共励会2等賞受賞

 (ト) 第7農事実行組合
            記録者 佐藤義章
 設立年月日     昭和22年
 初代組合長     如沢次郎
 設立当時の戸数  12戸
 最大戸数と年度   昭和25年 16戸
 現在戸数       5戸
 第7部落は戦後開拓者として昭和21年頃より荒山に入植した。当時食糧は無くあらゆる物資が欠乏し、その辛苦は言語に絶したため、離農者が続出し、現在残っている戸数は5戸となった。苦労の甲斐もあり現在は酪農もようやく軌道にのってきた。第7の組合員は全員が畜産農協の組合員である。

 (チ) 第8部落会
            記録者 杉本正典
 設立年月日     昭和23年
 初代組合長     深谷忠男
 設立当時の戸数  22戸
 最大戸数と年度   昭和30年度 23戸
 現在戸数       昭和60年度 6戸
 第8部落の設立は、計呂地地区内の行政機構の中で、地区内の運営上の必要性から、第3実行組合の地域中に、非農家である住民を主体として結成された。特に計呂地小中学校の教職員が半数を占め、他、商店、お寺、鉄工所等もあった。
 その後、第3実行組合の方に移動した家もあるが、毎年教職員の移動に伴い、出入りの多い部落として現在に至っている。

 (リ) 計呂地市街会
             記録者 村口初男
 昭和6年頃、計呂地市街地は、一面笹原であった。戸数もわずかで、鉄道開通工事のための飯場及川組が、現在の井口文夫附近に3、4棟あった程度と古老は語る。
 鉄道開通を目途に昭和9年現、長谷川時男隣空地に木村飲食店が、最初の店として開店、なかなかの繁盛であった。昭和10年4月、白玉屋商店(萩原清兵衛)が駅前現在地に開店した。
 昭和10年10月、湧網線が中湧別S計呂地間開通、計呂地駅が建てられた。昭和11年10月、湧網線はさらに中佐呂間(現在、佐呂間)まで廷長された。
 昭和12年郵便局が7号線から移転新築、(現局舎隣、空地)、戸数も駅前を中心に10数戸となり小市街が形成されてきた。
 戦時中(昭和16年〜20年)は、戸数も20数戸となり、対空位視所、鉄道官舎、日本通通計呂地運送店(大沢重大郎)もあり駅前は、出征兵士の見送り、亜麻、木材(計呂地、志撫子から約3万石)の輸送で相当のにぎわいを見せた。
 一方、住民生活に欠かせない飲料水には恵まれず、中湧別からのタンク車により鉄道輸送で飲料水の供給を長年受けていた。
 戦後、引揚者の受入等により、人口、世帯は急激に増加し、昭和25年頃から約15年間、市街は活気を呈していたが、昭和40年頃より、産業などの不振により次第に滅少して現在では、わずか、40戸ほどである。
 往時の商店等
 パチンコ店3軒、豆腐店、鉄工所、円山鉱山製練所、理髪店2軒、雑貸店6軒、建具店、板金店、鮮魚店、自転車店、装蹄所2軒、本工場2軒、診療所、旅館2軒、建築業、日通
(5) 納税組合  戦後の町村財政は経済の変動に加えて、各種制度の改革に伴なう財政負担により極度に逼迫した。
 それに新たな税種目の増加は住民に過度な負担がかかり、滞納額が増え納税貯畜組合制度の必要性が叫ばれるようになった。
 昭和29年九月、町では「補助金交付規則」をスタートさせ、設立補助金・事務費補助金を交付するしくみにした。
これにより、漸次、地域・職域等で納税組合が設立され、滞納の整理に納期内完納に組合員どおし助け合うようになった。
 ある時期、納税豚として、各戸数頭の豚を飼ったりして互いに励まし合って納税したものである。
 現在も計呂地第1、第2・第3・中央・第6・第7・計呂地市街・計呂地湖畔と各納税組合があり、組合員数81名
(6) トラクター利用組合  昭和36年に制定された農業基本法は、従来の農業経営を根幹から見直し、機械化・省力化を図り経営の近代化を求めるものであって、農村地帯に大きな波紋を投げかけることになった。
 昭和30年前後、4年にわたる冷害凶作のため農家の経済はどん底に陥った。食生活は麦・馬鈴薯・南瓜が主食といった状態が続いた。また、寒風の吹く中で、救農土木工事にスコップやツルハシを振いながら僅かな賃金を得て生活の一端を補った。
 農村がこのように疲弊に打ちひしがれている時、都会では第2次産業の発展が目覚しく労働者の不足に悩んでいた。不況の農業に見切をつけた農家は次第に都会に流出し、工場労働者に、土建関係の仕事に就き、3分の2位の人が農村を去っていった。
 離農地は農業委員会の斡旋により隣接する農家が買受け土地の拡大を図った。
 また、畑作専業農家は前述のような気象条件を痛感し、冷害に影響の少ない酪農へ切りかえていった。
 このように営農は選択・拡大され徐々に省力化・機械化が促進されてきた。
 計呂地では、昭和39年にトラクター利用組合が組合員16戸で設立を見、組合長に大野貫一が選任された。組合はさっそく、道有トラクター本機1台、作業機5台の貸付を受けた。
 ’ついで、40年頃には、第六農事組合と中央農事組合にもトラクター利用組合が設立され、緊急飼料対策事業として、両組合にそれぞれ本機1台と作業概数台が貸付された。
また、同年稲作転換事業として、計呂地稲作農家に対し、本機1台、作業機数台が補助事業として貸付された。
 この時期に相次いで各農事組合を単位としてトラクター利用組合が設立されていった。
 さらに、41年頃合理化事業として、第3利用組合にハーベスター・ワゴン等が補助事業として導入された。
 51年から54年にかけて、国の補助による農業構造改善事業が行われ、トラクター利用組合が本格的に結成を
見、農作業も共同化されるようになった。

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