計呂地郷土史
第9章 文化の歩み

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第1節 生活と水        計呂地原野に先人が入植した明治37年当時は、川も実に清く、一年を通して水位の上下も雪融け以外は殆んど変りなく、魚類も多く、しかも飲料水に使用しても何の抵抗も感じさせない冷水が流れていた。 上流に入植者が増えた(大正7、8年) 頃より年々悪くなり、飲料水として使用することができなくなった。
 従って、人々は各戸に湧水井戸を求め、毎年のように井戸の掘削が行われるようになり、水を求める苦労の日々が続いた。
 井戸水の汲上げは、主にハネツルベ、稀に滑車(木製滑車)も用いられていたが、大正末期から手押ポンプが普及し、これが利用されるようになると、水汲もたいへん楽になりべっbりになったようだ
(古老談)
(1)計呂地市街地域と上下水道   計呂地市街地帯は水質が悪く古くはサロマ湖の一部であったと考えられる。低湿地帯で泥炭層からなり数箇所にわたり井戸据、ポンプ打ち込みが行われてきたが、飲用に適する水はついに得られない状況であった。
 昭和10年、鉄道開通後市街の人口は急増し、飲料水は中湧別駅よりタンク車により輸送されたが、給水時に混乱も多く、各家庭に適した水槽などが無いこともあって、急場しのぎといった状態であった。
 以来人々の水に対する切実な願いは強く、昭和30年代に人ると水道施設の要望が一段と高まり、昭和32年に市街地域水道設置期成会を結成し、会長に古屋奉寿が就任した。
 町に地域の実状と水道設置の必要性を要請した結果、翌33年に工費36万円をもって、梅の沢水道施行が完了を見、地域住民待望の給水が開始された。
 当時としては、配水管1,200米、計画給水人口500人、1人一日最大給水量は120リットルとし、十分給水可能と考えられたのである。
 しかし、43年以降、草地整備作業により地下水位が低下し、それに伴い湧水量も減少をきたしたので、同年梅の沢に隣接する沢より180万円をかけ、仮設取水槽を設置(3号線〜4号線間)して補給、急場をしのいだが、湧水量は年々減少するにいたった。
 45年には、中村沢・計呂岳沢などの水利調査を行ったが、これも水量が十分でなく、利用するまでにはいたらなかった。
 翌46年に631万円をかけ、志撫子沢上流より水道を引いたが、47年の旱魅により、梅の沢下流には表流水が全くみられず、その上補給用水源も渇水し、全面断水の危機をむかえ、自衛隊の出動を要請、芭露簡易水道よりタンク車による給水を求めた。
 翌年の48年も同様な結果となり、町でもタンク車を購入し、その後の渇水期に対処したが、何しろ一時しのぎのことで、今後に大きな不安が残るため、抜本的対策を講じてもらうよう町に要請した。
 その結果、昭和51年に総事業費5900万円を投じて、芭露沢ボン川に水源を求め、52年2月に給水の運びとなった。
 長い間飲料水に悩まされてきた市街区住民も、豊富でしかも良質の水に恵まれ、安定した水量の供給を受け、大きな喜びと共に水不足の不安から解放された。
  篠森 勇次郎 談
 昭和7年、湧網線開通と同時に、市街地区の人口も年々増加し、これらの人々は連日共同で井戸掘削にあたった。
 ところが、市街地区の水は水質も悪く水量にも恵まれなかった。たまたま当時、鉄道の職員用に、給水車(貨車)が飲用水を運ぶことになり、地区住民もこの恩恵を受けることになった。
 この給水車は、雨の日も吹雪の日も休むことなく夕方4時になると到着する。
 有難い話ではあるが『、水汲み仕事も楽ではなかった。給水車の到着を待ち構えている主婦は、4時になると手に手にバケツを下げて給水車の回りに集まる。たちまち水汲み行列ができ上がる。何しろ一日使用する飲用水を運ぶのであるからその苦労は大変たった。
 また、鉄道だけではなく、時には消防車や終戦後は自衛隊の給水を受けることもしばしばあった。
 昭和13年、市街地に篠森要吉という牛馬商がいたが、家畜の飲み水に困り、たまたま四国方面に取引に行った際、竹を使い水道を引くことを思いつき、モウソウ青竹(3センチ〜4センチ)を水道管として利用することを思いつき、貨車でモウソウ竹を購入し水を引いてみた。6,700メートルの距離であったが、自家水道としては当時は珍しいアイディアであった。
 22年、電気の導入と同時に、揚水も電動に変わり一層文化的な生活の基となった。
(2)計呂地奥地共同水道  昭和44年、計呂地無水農家生活環境整備事業打合わせ会議の結果、諏訪問清・井関勇・本田利幸・諏訪成一・本田繁幸、5戸の共同水道として、総工費154万3000円、内訳、道費補助(29・75%)町費補助(50・25%)受益者負担(20%)
 請負者 金森組により9月着工、11月完成し水不足の悩は解消された。
(3)旱魃と水不足   昭和59年度は近年にない大旱魅に見舞われ、春以来雨らしい雨が降らず、酪農家は牛の飲用水の不足により危機に直面した。河川は水の流れる量もなく河原の石は無残にも乾き切った。8月6日農協役職員、酪農振興会より数名が出て、河川に近くて車の出入りの出来る場所を探索し、17号沢現第1集会所裏道々より100米程入った川の淵に、溜池を掘る事に決定した。翌7日渡辺技研の重機で20屯程入る溜池で揚水する準備をした。8日より汲取り、水不足も解消されたと思ったが、僅か一週間値で揚水不可能となり、18日農協支所に於て緊急会議を闇催し、検討の結果老人憩の家の前に簡易水槽を設置する事に決定した。20日酪農振興会、志撫子酪農組合より出役、50屯入る水槽を設置、町のタンク車により夜を徹して貯水し、翌日より各自家用車で運んだ。
毎日町のタンク車で補給、町、農協の援助により急場を凌いだ>
(4) 11号営農用水  十一号の沢に給水施設完成
 計呂地部落は沢が長いという地形上、集水面積が狭いめ、開拓の当初から沢水などを利用して飲用に供して生活していた。
 しかし、近年の大型農業経営の中では営農用水も年々増大し、水不足が深刻となり、各農家では自費で井戸を掘り、地下水を取水して対応してきたが、粘土主体の地層のため、水位は不安定であり、常に水不足に悩まされてきた。
 経営の安定、拡大のためには、常時取水可能な施設が必要であるという機運が部落内部から持ち上がり、湧別町役場に部落の窮状を陳情した結果、昭和57年度に道営による深層地下水調査実施地区に決定し、その年に調査が実施された。
 電気探査調査を広範囲に行ない、その結果、岩盤の亀裂中に賦在する地下水が11号の沢にあることが確認され、ボーリングを行なった。
 ボーリングは掘削深度80・5m、掘削口径19・37mで行なわれ、その結果、一日平均揚水量115トン程度の取水が可能であることがわかった。
 この年は、春先から北海道開拓始まって以来の雨不足の年となり、夏期間は他の地区からタンクローリーで各家庭に給水したが、本施設の一日も早い完成が強く望まれ、水の重要性が再認識された年でもあった。
 ようやく10月末に給水施設が完成し、各農家は不足水を本施設からの給水によって解消し、農業経営の安定拡大を図っているところである。
 深層地下水施設の利用方法については、いろいろな角度から検討を行なったが、広範囲な水不足農家を全戸に給水するということは、本施設では不可能であり、”水が不足したときに、いづでも誰でも自由に取水できる施設”を設置することが最高の効果を得ることができるとの結論に達し、昭和59年度に町単独事業による給水施設を設置することになった。
(5)給水施設と管理運用  長年に亘る要請が実り、町の施設として給水場の設置をみた。これには、施工場所の所有者洞口信正・前田鉄男を初め、11号沢の人達の理解と協力によるところ大であり、ここに特筆いたします。
 管理については、町と話し合いの結果、地元で行うことになり、役員会で協議の末、酪農振興会の役員と合同会議を持ち、運用方法を左の通り決定した。
 営農用水は酪農家からの長年にわたる強い要望であり、区はそれを受けて町との折衝・要請にあたった経緯から、今後の管理運用については酪農振興会に一任すること。

 振興会役員としては、総会の承認を得なければ回答出来ないので、急濾総会を開くことになり、区長・三役より内容説明を行うことになった。
 ついで、総会提出の原案を振興会役員が主体となり、町議・区の三役・振興会員外の酪農家代表者により作成し提案された。
 
第2節 通  信 最初に戻る
(1)計呂地郵便局  郵便路線と逓送  町史の記録によると、最初は明治9年1月に、北見国には紋別、斜里、網走の3郵便取扱所の開設を見た。郵便物は根室から厚別経由で月2回北見国に逓送されるとされたが「根室支庁布達」冬天雪氷海ノ節二至候テハ、出稼ノモノ他方移転、海陸共時々人跡相絶シ其ノ為郵便物モ極メテ稀少、定期郵便ノ方法設ケルモ到底無益二相属シ可申、とあるように交通途絶の10月〜3月の6か月は閉鎖された。
 明治25年から紋別〜網走の郵便路線は3等路線に格付けされ、郵便物は一日一往復の逓送が行われるようになった。
 郵便局の創設  明治25年湧別郵便取扱所が設けられ、わざわざ紋別まで出向かなければ用を足せない不便も解消した。以来開拓の進展拡大とともに村内の各主要集落単位に順次開設され住民の利便に資するようになった。
 計呂地郵便函  明治30年には湧別村の人口が急増し湧別郵便局まで出向く不便を緩和するため、郵便函を要所に設けることとなり、第1号が兵村本部付近に設置されたのにつづき、42年に始めて計呂地3号線柏宅(44年に民宿及商店開業)に設置された。当時は、「函場」と呼び現在の郵便ポストの元祖にあたるもので、函場では切手類の売捌きも行われて、発信の不便は大いに緩和された。現在では形を変えた赤いポストと郵便局の委託を受け、切手頚の売捌店として市街古屋商店と10号大沢商店等が伝統を続けている。
 車橇逓送の消滅  各地域に鉄道の開通が進むにつれ、鉄道輸送にかわり、当地域も西湧網線の開通で昭和11年10月で車値逓送が姿を消し、熊の出没に備えてラッパを吹きながら通行人の稀な悪路を往来していた逓送困難な時代は、鉄道の発展により終止した。
 計呂地郵便局の推移  奥地の開発で昭和5年1月20日に7号線に郵便取扱所が開設された。これに先だち、郵便取扱所の開設に伴う、初代所長候補者として、大沢重太郎を推薦したところ辞退され、後任候補者として、栄慶太郎が適任者として推薦された。
 7号線に開局したことについては、当時、7号線は鉄道開通時には駅を予定し、地区の中心地とする思惑で事が進められ、郵便局・病院・学校などを付近に集約し、商店街を形成する構想のもとに、信用組合事務所もすでにあったが、開駅構想は空しく敗れた。
 昭租7年4月、無集配3等郵便局に昇格されたが、一年後の8年4月には、無集配局では不便を理由に集配局への昇格運動が起こり始め、陳情がなされている。
 以後5年余りを経て、ようやく昭和12年12月11日、計呂地駅前に移転し、集配局の昇格、集配業務を開始した。
(局舎は老朽化により、昭和60年9月取りこわされた。)
 現在の局舎は、昭和35年10月新築された建物である。
職員も昭和24年2月電話交換業務開始後昭和49年12名をピークに、昭和50年8月「日曜配達廃止」、昭和53年9月「電話交換業務廃止」、更に過疎による集配戸数の減少に伴って集配区の統合で、現在では8名である。
 郵便集配区域  当初から集配区域は「志撫子、計呂地、床丹」を担当、その後床丹の佐呂間町編入があり、「若里」と地名の改正はあったが集配区域に変動はなく現在に至っている。
 配達用具の発展  集配局昇格当時の配達用具と言えば、冬期間は徒歩か、スキー、あるいは「カンジキ」であった。
冬季以外は自転車により配達されていたが、交通機関の発達に伴い、郵便局の郵便物も速さを要求される時代となり、昭和39年10月「ラビット90cc」が1台配備された。これは、スクーター式のもので、あまり長期間稼動せず部品の補給も充分でなく、この種の物は4、5年で、オートバイに変っていった。しかし、オートバイも、積載に制限があり、特に当局受持ちの請負区を中継する区域にあっては、小包等の郵便物が多く、オートバイでは積み切れない時もあり、又、冬期間道路がすべるなど、転倒事故になりかねないことから、軽四輪自動車の配備を要望していたが、昭和57年11月「スズキジムニー四輪駆動」が配備され、集配業務の運行に大いに活躍している。
 風景入通信日付印  サロマ湖の風景や特産物をテーマに
した郵便局の風景入通信日付印は、サロマ湖沿線の各郵便局
に備え付けられている。計呂地郵便局においても、かねがね
発行方計画していたが、昭和六十年三月一日付で発行するこ
ととなり、広く全国に計呂地地域の観光を宣伝している。

  郵便配達の思い出
              大出 辰造
 私は大正10年6月に15歳の時、芭露郵便局集配手として月給16円で採用された。当時は米1俵7円くらいであった。
 道路状況はバラスの敷いてある所は良い方で、大部分は泥道、ぬかるみ道のひどいものであった。
 毎日、11号の我が家から郵便中継所(函場)であった柏さんまで、午前10時には出動しなければならなかった。当時は芭露郵便局の逓送人が、柏さんまで郵便物を背負って午前10時までに到着し、そこで郵便物の引き継ぎが行われていた。
 この10時に遅れると逓送人の秋葉さんのじいさん(秋葉伊勢松)にはよく怒られたものだ。天候がどうであろうと毎日遅れないようにずいぶん神経を使ったものだ)。
 集配は、夏は徒歩、たまに乗馬で、冬は徒歩、または手造りのスキー、カンジキ馬があいている時は乗馬で、約30戸程の配達個所があった。
 郵便物は新聞が主であったように記憶している。集配区域は、計呂地・床丹(若里)で、帰宅するのは夏で午後4時頃、冬になると6時か7時頃ですでに真暗であった。
 電報や急ぐ郵便物はその日の内に配達し、それ以外の郵便物は回り切れない時は2日がかりになることもあった。また、吹雪で生命の危険にさらされたことも度々あった。集配しながら簡易保険の勧誘や集金も行った。
 365日、1日の休みもなく、毎日疲労のため苦しいことばかりで、殆んど遊ぶこともなく只、集配に明け暮れる毎日であった。計呂地・床丹地区の配達は1人で交替者はいない。身体の具合の悪い時は父親に代わりをしてもらった。
 苦しみばかりで良い思い出はないけれど、只一つ娘さんのいる家へ郵便を持って行くのが楽しみであったと言えるか・:
 大正15年7月、出征(現役)のため退職、月給23円であった。この間5年余り自分ながらよく動めたものだと思う。
 時代とは言え、現在のような整備された道路や、バイク・四輪車による機動力を持った配達など、当時はとうてい考えられなかったことである。

(2) 電  信  我国における電信の実用は、明治2年8月横浜の燈明台役所(後の燈台寮)と裁判所(県庁にあたる)との間、約800メートルにわたって電信線がとりつけられた。これより官用の通信に限って送受が始められたのである。
 ついで、伝信機役所(はじめは、電信のことを伝信としるした)が横浜裁判所の中に設けられた。そこから東京まで電信の架設工事が始められたのは、明治2年2869年)10月23日であり、この日が後に「電信電話記念日」と定められた。
 翌年、東京と横浜との電信が開通した。公衆のための電報がここにはじめて取扱われるようになったのである。
 通信料は、カナー字につき、銀一分であった。そのころの銀一分は、一厘六毛あまりにあたるから、二十字で三銭三厘となる。そのほかに、配達料がとられ、これを合算すると相当の高額となった。当時は米一升(約丁五キロ)が五銭から七銭ほどで買えた時代なのである。
 したがって電信を利用できたのは、官庁か、特別の人達であり、大衆には、あまり縁がなかった。
 当時の人びとは、電信のことを「テレガラフ」と呼んだ。
しかも科学の知識にとぼしかったから電信をキリシタンの魔法と考えた者も少なくなかった。そうでなくても、西洋のものを頭から嫌う人は多く、電線に石を投げ、また切断する者が絶えなかった。こうした妨害を排しながら電信の工事は進められていった。(郵政百年のあゆみより)
 当地方では、明治25年に紋別郵便局が電信業務を開始して、電報が故郷から届いたり、あるいは、故郷へ電報を打ったりできるようになったが、着信する電報はめったになく、配達人の「電報」という声は、故郷の近親者の死亡通報が主であったから、不吉なものを感ずるほどであったという。
 また、当時は、電報を発信することもなく、一般にはよほどでない限り、紋別まで出向いて電信を依頼することはなかった。
 しかし、屯田兵村建設事業が開始されることになって電信の必要に迫られ、屯田兵入地後の電信の重要性からも必須のものとされ、明治29年12月16日に湧別郵便電信局(現湧別郵便局)で電信取扱が開始されて、利便は大幅に向上した。郵便同様に村内一円全域を担当区域としていたが、
その後、電信電話が延長されるにつれ、昭和13年12月10日、計呂地郵便局が電信業務を開始した。
 電信の発信および着信は電話により、湧別郵便局を中継し、取扱われた。後に中湧別郵便局が中継局となった。その通信には、独自の通信用語が田いられ、例えば「ア」は「朝日のア」と言い、「イ」は「イロハのイ」と言葉の言い違いや、聞き違いを防止するために用いた。現在でもこの用語は電話通信に限り用いられている。当時、北見〜湧別間は、電信機により、「モールス符号」を用い、担当者は電信技能の資格のある者に限られ、郵便局業務のうちでも花形的存在であった。
 その電信機も昭和30年11月、通信設備の改革に伴い姿を消していった。昭和53年9月からの電報受信は、専ら模写機となった。
 電話が普及するまでの電報は、至急通報の手段として、現在の電話同様の価値をもって経過したが、頼信紙に電俗文を書いて申込むことは、いまも昔も変りない。
 近年は、電話の普及で電信利用は昭和43年度をピークに激減したが、慶弔電報・祝電・激励電報・選挙戦用などではけっこうもてはやされている。なお、電話の普及で電報の申込と受信が電報電話局の間で直接できるようになったのお近年の特色である。また、祝電の中には電報を開くと「オルゴールによる音楽」の流れるものまで現れるような時代となった。
 電報の配達は、24時間態勢をとり、地域の至急通信の重要な役割を果たしていた。
 当時の配達は、冬季は、主として「スキー」他の期間は自転車であった。しかし、近年自転車の普及が著しく、現在では年中自転車による配達である。
 電報の配達区域は、計呂地全域、床丹(現、若里)全域と志撫子の一部(他は、上芭露郵便局から配達された)であったが、その後、志撫子全域が計呂地郵便局の受持ちとなった。人の寝静った深夜、「雨の日、嵐の日、吹雪の日を問わず」「キトク」フンス」の電報をもって配達する苦労は、仕事とは言え、筆舌に尽くせぬものがあったと聞いている。
 電報配達員は、昭和37年6月までは、職員が24時間体制で配達していたが、昭和37年7月からは、夜間(午後5時から翌午前7時)は請負者によるものとなり、昭和57年4月からは、24時間請負配達となった。

(3) 電  話  電話のはしり 明治10年アメリカから輸入された。
 同23年に国営事業となったと伝えられているが、湧別町では郵便局間の業務用電話が一番早く、大正10年と記されている。
 当、計呂地は昭和7年三等郵便局となった時に、業務用電話と公衆電話が設置されたのがはしりとなった。
 その後、昭和24年2月、郵便局で電話交換業務が開始され、徐々に普及されていった。
 公衆電話のはしり 局内に電話室を設けて一般の市外通話の便に供していた。現在流の言い方で「郵便局にしかない公衆電話」と言えるもので、郵便局では電話事務と称した。
 農村委託公衆電話 昭和30年になって、電々公社では「農村委託公衆電話制度」を策定し、へき遠地域住民の利便と学校の連絡体制整備および行政連絡を向上するための電話架線の道が開かれ、同年7月2基設置された。一、学校。二、大沢商店。
 地域集団電話 電々公杜が企画した「地域集団電話(具案電話)」は、昭和46年3月25日加人数117号をもって開設されたが、集団電話の名のとおり一回線を5〜9戸で利用する共同回線であるため、その中の誰かが通話中のときは使用できない不便があった。
農集電話で長電話の入がいると、農協から農家に急用の場介、間に合わない不便さなどから、農協より直通式への話もあり、中湧別電報電話局に要請した結果、昭和54年3月一般加入電話(即時ダイヤル通話)に切り替えとなり、不便が解消され、近代文化の仲間入りをした。
 一般加入電話 当時電話と言えば、郵便局の業務用と局内公衆電話だけで、呼び出し依頼の電話があったときは、局員が連絡に走ることもたびたびで、このように便宜をはかったものである。
 昭和24年2月1日、計呂地郵便局において、電話交換業務の開始に伴ない、市街地にも住宅用電話が設置できるようになったが利用する家庭が少なく、わずか12戸に過ぎず、その不便さを解消するにはいたらなかった。
 また、電話の設置についても、需要と供給のバランスが悪く、申込んでも1年、2年と待つのは普通であったし、この状態は長年続いた。しかし、昭和50年代に入ると、徐々にバランスが良くなり、近隣の地域では、即時ダイヤル化か進んでいた。昭和51年9月芭露郵便局区域、昭和53年8月上芭露郵便局区域、同年9月27日当地域への即時ダイヤル化が実施され、これにより計呂地郵便局の電話交換業務は終止した。
 これは、網走管内では最後であり、北海道では、後から2番目(最後は雄冬)であった。昭和60年4月1日、日本電信電話公社は「日本電信電話株式会社(NTT)」となり、競争社会へと入っていった。
(4) 郵便局の推移  昭和 5年 1月20 計呂地郵便取扱所開設
  〃  7年 7月 1 無集配三等郵便局に昇格、計呂地郵便局となる
  〃 12年12月21 計呂地駅前に移転、集配局に昇格、集配業務開始
  〃 13年12月10 電信電話業務開始
  〃 16年 2月 1 等級制廃止により特定郵便局となる 
  〃 24年 2月 1 電話交換業務開始
  〃 35年10月 1 現局舎落成移転
  〃 46年 3月25 地域集団電話開始
  〃 50年 8月31 日曜配達廃止
  〃 53年 9月27 電話交換業務廃止
  〃 54年 3月 8 地域集団電話即時ダイヤル式に切替
  〃 58年 9月 5 貯金オンライン開始
  〃 58年12月 1 軽自動四輪車配備
  〃 59年10月15 保険オンライン開始
  〃 60年 3月 1 風景入通信日付印使用開始
第3節 電気以前の灯り 最初に戻る
(1)家庭照明の移り変わり  古老に開拓当初の生活状態を尋ねると、現金収入が殆んどなく苫しい生活が続き、住まいはどこの家も風雪の舞い込むひどく粗末な着手小屋で、屋根は笹葺きが多く、一見、人が住めるような感じが持てない有様であったが、他に方法がなかったという。
 その後、堀立小屋に改良され、屋根も草葺きにと変わってきた。これも当座の生活の知恵であろうと語る。
 大正の初期には土台のある家は無く、居間にいろり(炉)を作り、薪を積み重ねて焚火をし、その明かりで夕食をすませていた。
 明かりを点すとしても、平素はガンピ(樺の皮)か、カンテラ・ローソクの光で、その下で作業着の修理を行い、ランプを使うのは寄り合(集会)か葬式の時で、石油も4合買えば忘れる位長持ちさせた耐乏生活が続いた。
 昭和になってランプが多く使用されるようになり、電球のように真下を照らす(逆さランプ)ように改良されてきた。
 戦時中は物資の欠乏に伴ない石油が不足して、魚油を貝殻に入れ、それに檻徘布の芯を浸したり、ガンピを細かくさいて火をつけたりした生活であった。冬期間の夜長は寝る以外に何もなく味気ない毎日であった。
 戦後、桧葉油が配給になり、その後カーバイトが使用されたが、タンクの詰め替えの際、ガスが残っていて引火し、顔や手に火傷をする人も出て大変危険であった。
 また、発動機に頼る発電と、バッテリーを使用して電気をつける方法も用いられたが、発動機の音が耳障わりであった。
 21年に電化期成会が結成され22年に通電になり長い年代不自由に耐えてきた家庭照明の悩みは解消された。
(2) 電  灯  大正7年9月、湧別電気株式会社創立、湧別市街、4号線に点燈されたのが本町のはじまりである。
 当時は、薪を燃料とする幼稚な動力機で発電力も弱く、石油ランプより僅かに明るい程度だった。その上、故障も多く、度々送電が途絶えるという不安定な状態であった。
 時代の脚光をあびた電気事業は水力発電に発展し、大正12年、瀬戸瀬に湧別川を堰止めた近代的水力発電所が着工され、翌年完成、操業を開始した。湧別電気株式会社は廃業して、この電力傘下に入り現在に至っている。
 文化所産としての電気も、営利業である電気会社の方針から、戸数の密集する市街地に主力が置かれ、散在する農村部落との問に明暗を分けた。昭和の初期に普及したラジオも農家には及ぶべくもなく、一層、無電地帯の生活格差をひろげた。
 戦時中、電気は生産動力としての重要性から、昭和13年、国家管理に置かれ、18年1月、電力消費量の配分は軍需産業70%、平和産業30%と規制され、更に、電力不足が決定的となった。
 同年12月、電力動員緊急措置がとられ、家庭用燈火電力は著しく減少され、ほの暗い電燈となった。その暗さから、「ローソク送電」と呼ばれた。
 20年、作戦によって総ての軍需産業の機能が停止状態になったため、電力使用制限が撤廃され、占頷下の暗い生活の中で電灯だけは、皮肉にも光を増すことになった。戦後の過剰電力は必然的に消費を農村に求めてきた。
 21年、農村電化の時流に乗った芭露、東部落が電力誘致に成功、同年、計呂地部落でも誘致の気運が高まり、電化期成会を結成し誘致運動の推進にっとめた。
 当時は、資材の人手から工事の労務まで、総て受益者負担であり、多額な工事費に対しては国、道費補助はー切なかった。戦争のため極度な物資不足と統制の厳しい時代で「一切のヤミ犯罪者は最高刑に処す」という占頷下らしい指令のとびかうなかで、戦時中の軍需品が隠匿されていることに目をつけ電力誘致に踏み切った。

 当時の模様を上京者は語る
             (新海忠五郎、如沢元治)
 はじめ、資材購入の一切を部落内ブローカー本田繁に依頼したが、資材不足でなかなか買う事が出来なかった。そこで東京に在住する高木ブローカーを尋ねることにして、部落民だった高木の兄を紹介者として同伴、期成会代表が上京した。
 当初はやはり買い付けも思うようにならず困ったが、物資で、豚肉やその他の農産物を手みやげとして贈り、経費は高くついたが何とか順調にとり揃えることができた。
 さて、輸送という段になって貨車の都合がつかず、その上、統制物資の輸送はとりわけ困難な時代で一頓挫という破目になってしまった。しかし、意外な援軍を得ることになった。
 当時、旅館はどこも人また人の雑踏ぶり、いもの子を洗うがごとく一室に大勢が詰め込まれた。ある夜、相客の一人が急病をおこし、お世話をしたのが縁となり親しい間柄となった。
 彼は鉄道御用商人として上京していたのだ。この人の口添えで鉄道局の特別な配慮が得られ無事輸送することができた。
 資材が計呂地駅に到着した時の喜びは何ともいわれなかった。また、営林署を通じて計呂岳から電柱用材の払い下げを受け、何百本にもわたる電柱の造材、搬出、皮むきをはじめ、建柱、穴掘等々、総て部落総出の共同事業で行ない、部落開基以来の大事業であった。
 問題の工事費の納入については、いろいろと協議した結果、半額は平均割、残り半額は等級・点数割としてお互に助け合う形をとった。(当時の区費の徴収は経済力に応じ、等級を定め点数制であった)
 その頃、農家の多くは経済力に乏しく、ある者は持ち馬を売ったり、自家保有の食糧を手ばなす等、代金づくりに四苦ハ苦の状態であった。
 しかし、長い間の部落民のあこがれ、夢がかない22年の正月、とりあえず投げ込みの一灯が臨時架設された。パッtついた電灯、夢にまでみた明るさ、電気の有難さをかみしめながら、家庭団梁の明るい新年が忘れられない。やがて、内線取り付けの本工事も完了、不自由なランプ生活に終止符が打たれた。
 以来、電気の恩恵を満喫した生活が続けられている。

(3) ラジオ放送  大正14年3月、東京芝浦の仮放送所からコールサインJOAKで放送された。わが国最初のラジオ放送であった。昭和3年6月、札幌放送局の開局とともにラジオに対する欲求は一段と高まった模様である。
 本町のラジオ聴取の最初は明らかではないが、電波が伝える声に魅力を感じる人々がほどなく聴取したものとみられる。
イ 戦争とラジオ
 太平洋戦争が進行する過程で、ラジオの果した役割は大き気昂揚の面で、その即時性は新聞以上に貴重な存在であった、
 また、昭和20年8月15日正午には「終戦の大詔」が玉音放送され、空しさと悲憤が交錯し、涙と絶望感におちいったことなども、戦争とラジオのかかわりの大きかったことを物語る一つであったが、当時の計呂地は無電地帯のため、ラジオは全く普及されず、その恩恵は受けられない状況であった。

 ロ 電化とラジオの普及

 戦後は農村電化により、ラジオ聴取も急速に普及し、ニュース番組のほかにも「街頭録音」「とんち教室」「大相撲実況放送」などの番組に聞き入ったものであり、ラジオ体操が、学校や各地域に浸透するようにもなった。町の記録によると26年67%、30年80%、25年84%と、普及率も上昇している。

 ハ ラジオ聴取の移り変わり
 30年代後半に入りブアレピの普及が一段と促進されるにつれ、ラジオの聴取率は、次第に低下した。ここにきて40年代後半からの目ざましい技術革新は、あらゆる分野に開発が進み、ラジオにもそれが波及していった。
 技術革新によるトランジスタラジオが出現し、小型化が進み、旅行や、レジャーの携帯用から「カーラジオ」まで開発され、加えて、深夜放送など多様な放送方式が実現して、にぎやかな電波合戦を展開するにいたり、ラジオ聴取は大きく変容してきた。
(4) 有線放送  戦後、急速に進んだ農村電化により農業協同組合や、漁業協同組合が、組合員との間の連絡を密にすると共に、連絡の即時性と具体性を実現させるため、有線放送施設を設ける気運が到来した。
 計呂地農協においても時代の進展に伴ない、昭和27年雪融けを待って農村有線放送施設事業に着手した。
 区域は農協管下の「計呂地・志撫子」全農家を対象に共同事業とし、1戸当り電柱10本と燕麦4俵を現物提供し、工事は若佐市街大野電気店の指導で約1月程で架線工事を完成した。
 受信設備として農協事務所に本機を、各農事組合長宅に中継機を置き、各家庭にはスピーカーを取付けた。このようにして農協ラジオ共同聴取施設放送業務が正式に認可を受け開始された。
 如沢元治組合長の挨拶に始まり、朝と晩の連絡放送は参事の野村清か担当した。有線放送とは言え、昭和26、7年当時の農村にはラジオの普及も各戸にはゆきわたらず、始めて文化の恩恵に浴する受益者の喜びと待ち連しさはひとしおのものがあった。
 しかし、架線が長く完全でなかったため、風の吹く度に混線したり、冬期間は雪のため断線することもあり、故障も多発し、担当者や受益者の苦労は多かった。
 だが徐々に整備され、放送内容も役場の行政事務連絡・教育文化番組も加味され、聴取者に多くの便宜をもたらした。
 特に酪農家にとっては、人口授精の連絡や、患畜の緊急事態時の連絡等に欠くことの出来ない施設として、農協合併後も長く利用されてきた。
 その後、芭露地区「テイネ以東」を区域とする農集電話設置の進めにより、昭和46年3月電話が開通され、有線は順次撤去廃止された。
(5) テレビ放送(白黒)  NHK東京テレ’ピ放送局が放送を開始したのは、昭和28年2月1日と記されている。ついで民間テレビ局が同年8月の日本放送を皮切りに続々誕生したが、本道では31年12月22日、NHK札幌テレピ局が試験電波を送ってテスト放送を行ったが、本町では受像できない状態であった。
 翌32年4月にNHK札幌局とHBC局が同時に本放送を開始した。その時町内でもHBCテレビの受像をキャッチする者が出て、テレビに対する関心が強まったようである。
 その後、34年にSTVも放送を開始したが、いずれも映像が不鮮明で苦労したようである。同年9月に湧別市街のモカ食堂を含めた5、6戸が、10米位の支柱に10素子のアンテナを立て、テレピ視聴の扉を開いた。しかし、映像は不鮮明で視聴に満足できる状態ではなかったようである。
 その後、36年4月になってNHK網走テレピ放送所の運用が開始されて、はじめて計呂地地区でも受像が可能になった。したがって37年には視聴者も急増し、計呂地局下の台数は56台合となり、39年には144台と記されている。
(6) カラーテレビの放送  カラーテレビの放送が行われるようになったのは、昭和35年からと記されているが、この地帯は難視聴地域であったので、導入は比較的遅れ45年頃から視聴されたようである。
 
(7) 難視聴解消の経過  昭和36年にNHK網走テレビ放送所が開設されてテレビの普及が一段と促進され、計呂地地区でも急速に設置戸数の増加をみたが、市街周辺を除く山岳部は地形の関係で満足に受像出来なかった。
 このため、電波を求めて高所にアンテナを施設したり、山頂に立てたりしたが、良い状態ではなく、特に奥の地域は画面が不鮮明で、雨か雪が降っているような状態であった。
 それで、難視聴解消の要望を行っていたところ、NHK関係のチャンネルだけではあるが、昭和48年に若里(湧別町有林)の山頂にテレビの中継塔が施設され、計呂地奥地は難視聴解消の恩恵に浴した。しかし、前山の影響で画面は未だ不鮮明な所もある。
 昭和59年1月23日、NHKはこれらの難視聴地域の解消のため、放送衛星「ゆり二号a」を種子島より打ち上げた。「ゆり二号a」は高さ3万6千キロメートルのボルネオ上空で静止し、同年5月には「衛星第一」「衛星第二」の二つのチャンネルでNHKの放送が開始された。
 しかし、この「ゆり二号a」からの受信は従来の施設では不可能であり、新たに「パラボラアンテナ・コンバーター・チューナー」を備えなければならず、このための費用は、一般家庭で設置できるような価格ではなく完全普及はまだ先のようである。
 NHKが多様化する社会・高度情報化社会に向けて打ち上げた「ゆり二号a」は、多大なメリットをもつ放送衛星で、難視聴解消ばかりでなく、緊急災害時に地上の施設が使用不能の場合には、この衛星を使って災害報道を行うこともできるし、各地からの中継放送にも有効に活用される。その他、音声・画質なども従来のものより数段良くなり大いに期待される。
 一方、一般家庭で直ちに受信設備を整えることは、経費の点て容易でないことは前述したが、これも大量生産によりコストダウンされ、いずれ全家庭に設置されていくことになろう。
第4節 公営住宅の建設
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 国費の補助を受け町村が建築管理して住宅困窮者に貸与し、住宅不足を緩和する公営住宅は、町政の面で26年から建設が進められたが、人口の変動の激しい本町市街に重点的に整備され、計呂地地区には要請しても手の届かない状態であった。
 計呂地市街には個人の経営する借家は数軒あるが、修理急造を要する建物が多く、特に市街地域の住民から公営住宅導入の声が強く上がり、それを受けて、健康的で文化的に安定した生活を営む見地からも、また低廉な家賃で貸与できる公営住宅の早期設置を計呂地地区として強く要請した。
(1) 団地造成  昭和52年になって公住建設の敷地が具体化し、現在地(公民館裏)の用地取得が行われた。ついで10月に385万7000円の建設費(国庫補助253万7千円)で一棟4戸、二種3DK・床面積214平方米の住宅が建設された。
 団地面積は3575平方米で、環境は住宅地にふさわしく、土地及び付属施設の有効利用につとめ入居者の生活安定に寄与している。
第5節 劇  場  昭和初期より終戦前までの計呂地の映画、演劇等の娯楽は、神社祭典の折の余興も含めて年に1、2度学校、寺、大師堂を借り受け芝居、浪花節、映画等が催されていたに過ぎない。その映画(当時の活動写真)にしても電気がないので発動機を使い、バッテリーに充電し放映されるしくみになっていた。映写機は映写技師が手でハンドルを回し、フィルムを送る原始的なやり方であった。
 弁士はローソクの明かりで台本を見ながら、画面に合わせて説明、解説をしていくという誠に幼稚な手法であったが、一般には評判も良く、珍らしい娯楽の一つでもあった。
 昭和20年終戦となり、内外地より縁故を頼り帰郷する人で、計呂地部落も年々人口が増加し落付きを取り戻してきた。
 22年、農村にも電気の導入により人々にも明るさがよみがえってきた。娯楽機関一つ無い計呂地、志撫子地区住民の強い要望もあり、浪江勝己は私財を投じ劇場の建設に着手したが、戦後の資材不足で常設館として認可されなかった。
 やむを得ず、計呂地文化クラブとして昭和23年9月完成開館の運びとなった。映画、演劇、浪曲等の上演はもとより、地域の婦人会、青年団等は演劇を通じて資金集めの場としても役立ち、広く喜ばれたものである。当時の暗い世相のなかで、文化クラブとはいえ部落民に対する影響は誠に大きかった。
 その後、林勝弥に経営権が譲渡され、内部を整備し常設館として認可を受け、名称も「中央劇場」と改め、これも映画を主に週1回程度上映されていた。
 だが時代の進展、科学技術の進歩に伴ない、テレビ、ラジオの普及により収支が償わず、また建築物の老朽化で使用にたえぬ状態となり、昭和55年4月に取り壊されるに至った。