計呂地郷土史
第3章 産業と経済

昭和の小漁師top目 次第1章第2章第4章!第5章第6章第7章第8章第9章第10!11!12章第13章



第1節農業のはじまり 第2節農具の移り変わり 第3節畑作物 第4節稲作物(水稲) 第5節肥料 第6節畜産と酪農 第7節林業

第1節 農業のはじまり

明治33年、志撫子湖畔から11号線に至る測量が行われた後、適地7戸分の貸付を受けた藤永栄槌が37年に、翌年、長屋熊太郎が移住、北兵村から通い作の渡辺由太郎、伊藤恒吉、39年転居の如沢元蔵、村井熊吉、大沢三右ェ門、大沢音松らによって最初の鍬がおろされたのが農業のはじまりである。
 昼なおくらい森林で立木の伐採からはじめ、切り倒された木は買う人もなく積み上げては焼き捨てたという。
 金網のように張りめぐらされた木や笹の根は、力いっぱい振りおろす鍬を受け付けず、三方から打ち込んでやっと一鍬分の土おこしができるといった状態で、腕力のない婦女子にとっては、どれほど泣かされたことかと思う。
 思うままならぬ開墾に、ふき、わらびなどの野草や川魚、ウサギを食しながら食いつないでいく苦しさは現在の想像を絶するものがあったであろう。
食糧のない不安からの脱却を求めて、一坪でも広く早く開くことに努力し続けた。
 当時は比較的天候に左右されなく、収穫の確実性も高い馬鈴薯をはじめ麦、ソバ、イナキビ、南瓜などを蒔きつけ自家用に備えるよう心がけていた。
 さいわい、開墾勅語の土地は地味も肥えていて、殆ど肥料らしい肥料を施さずともかなりの収穫が得られた。
殖民道路は41年に11号線まで4`少々余開削された状況で、それ以前の道は極めて悪く市場にも遠く、運賃もかさむ農産物の買い人はなく、また、売り出す余裕もない状況であった。
 入植者が40年13戸、43年31戸と次第にふえるにつれて農産物の販売も行われるようになった模様である。

第2節 農具の移り変わり              
(1) 鋸 入植当時、枯れ枝を交えて暗く、うっ蒼とおい茂る原始の密林で、直径1メートル余りの大木を切り倒すために使われたのが土佐鋸や会津鋸である。
 内地で柴木か、たきぎしか切った経験しかなく、鋸の目立ても知らぬ人々にとっては血のにじむ苦労であった。
(2) 鍬・鎌 開墾は、平鍬、窓鍬、唐鍬、島田鍬、三本鍬など、出身県で使われているそのままの型のものを用い一鍬、一鍬、耕した。
 笹の多い所は鎌で刈ったが、筋も切れない時は、削り蒔きやつぼ蒔きをした。
(3) プラオ・ハロー 入植後、数年を過ぎる頃には笹や木の根も弱り、耕しやすくなってきた。
明治39年頃、ようやく馬を買い求めプラオやハローが使われはじめ、馬も道産馬で小柄なため、農具も小型で、1頭5分びきプラオで一台8円50銭であった。
 畦切りも、木製の三筋または四筋ものを手作りし、馬にひかせた。
(4) 畦除草機 大正の初め、木製の角材に手打ち製の鍬を四本とりつけた簡単なものであった。
(5) 打ち台 十二尺ほどの幅の広い角材に腰の高さ程の脚をとりつけたもので、これに小麦や燕麦を打ちつけて殻粒を落とした。
(6) カラ竿  豆類・イナキビ・ソバなどの種子はカラ竿を使って叩き落とした。また、主食の裸麦も夜になってから穂を焼き落とし、その穂はカラ竿で叩いて脱穀した。
 麦焼きの時間になると、いたるところで赤い炎が見え、麦わらの焼けるにおいが一面にただよった。
(7) 篩い(フルイ)
   唐箕(トウミ)
脱穀された種子を精選するための主要な道具であった。雑物を除く調整器には箕を使って自然風の力を利用した選別も行われたが唐箕を使った時のようにきれいにはできなかった。
(8) 千歯 稲の脱穀は千歯でこぎ、カラ竿で叩き、土臼で籾殻をとり除き玄米にした。
(9) 土臼・唐臼 大正10年頃まで精米所はなく、麦やイナキビは臼を使って、もっぱら、夜の仕事で精白にした。
 臼も唐臼という足踏みのものや、水力を利用したテコ式のバッタなどがあり、後には水車式の精米所が姿をみせた。
(10) 足踏み脱穀機 大正11年頃より出はじめ麦類や稲の脱穀に大変能率があがったので大いに普及した。
(11) 石油発動機
    動力脱穀機
昭和2、3年頃に使われた脱穀機は高田式で籾摺機は岩田式動力機であった。しかし、台数が少なく回り順番で次々と移動して利用した。遠く佐呂間や知来から頼んできたこともあった。
 戦時中には石油発動機の燃料がなく、ガス発生機に薪や木炭を入れてガスを発生させて利用したが、脱穀中に再三、止まるという様子もみられた。
 戦後、石油発動機も移動に便利なように次第に小型軽量化された。
(12) カッター
   デーセルエンジン
 昭和14年頃、酪農が盛んになるにつれて飼料の切断に使うカッター・デーゼルエンジンが各戸に導入されてきた。また、全自動式の脱穀機、籾摺機なども使われ一層能率をあげた。
(13) モアー・レーキ  昭和25年頃、畜力によるこれらの機械がとり入れられた。
(14) トラクター 経営規模の拡大によって、土地が一段と広大化するにつれトラクターが導入されはじめた。
昭和37、8年頃には当地に数台しかなく、主に、農業協同組合のものを利用していたが、昭和39年には大型、中型のトラクターの台数もふえ、昭和40年、第二次構造改善事業により大型トラクターをはじめ、多くの作業機械が導入されて春先から晩秋までの耕地で大いに活躍するようになってきた。
第3節 畑作物             最初に戻る
(1) 薄 荷  明治43年頃、種根を湧別から求め植え付けたのがはじまりの模様である。
 その後、ほとんどの開墾地に栽培され、大正時代における畑作もつの花形となった。
薄荷は、他の作物に比較して値が高く、その上、生産油が軽量で運搬が容易であったばかりでなく、一度、植えつけると翌年からは作付けする必要はなく、3年に一回の耕転ですまされ、特に新開墾地は地味の肥沃さから、よく繁茂し、雑草も少なく極めてつくりやすい作物であったとみられる。
 当時の品種は、赤丸が主体で、昭和初期になり岡山白毛などが栽培されるようになった。
薄荷相場は買手業者に握られており、巧みな買手価格で生産者に臨み、変動が激しかったことから、売り方が難しく、だれもが一様に儲けるということにはならなかった。
 景気の波はあったが有利な作物であることには変わりはなく、大正末期、百二、三○町歩の作付けがあった。
昭和13、4年、作付け面積にかなりの増加があったが、やがて戦争で軍需作物増産体制に入り、16年、太平洋戦争とともに国策として食糧増産がさけばれ、減反傾向をたどるばかりだった。戦後も食糧不足の社会情勢を反映して、需要の強い食糧作物に転換、一時、回復するやに見えたが、戦時中の粗放耕作で荒れた畑は薄荷栽培に適さなくなり、自然に畑から姿を消したのである。

 一、洋種薄荷
 戦中、戦後の略奪農業により土地の荒廃が著しく、特に戦後は食糧難の時代が続き和種薄荷も減反傾向をたどり始めた。
 これに代わり土地が肥沃でなくても比較的耕作しやすい洋種薄荷が着目され、昭和27,8年頃、当時の農業改良普及員、沢西武雄の斡旋により東藻琴に種根掘りに行くことになった。
 当地区から5,6名の人達が小型トラックに叭・麻袋唐を積み込み種根を詰めて帰り、試験的に栽培されるようになった。和種薄荷同様、香料として使用される香りが非常に強い関係上、和種薄荷の蒸留後採油された。
 ミッチャムという品種で香料としての使用範囲も狭く、価格の暴落等も重なりこの面からも引き合わず、僅か2,3年で耕作が打ち切られた。
 しかし、また昭和34,5年頃洋種薄荷がブームを呼び、再び農協の斡旋によりスペアミント種が導入され試験栽培を行ったが、価格の変動が激しく3,4年の耕作で終わった。

 二、シソウ
 戦後25,6年頃より耕作され種類も2種類位あり当地区も一時期多く栽培された。品種によって油量差があり、また契約栽培の関係上価格面で引き合わず30年後半には当地区から姿を消した。

 三、天水釜蒸留機
 薄荷の取り入れは、8月上旬に鎌で仮り、野天に、はさみ掛け乾燥するか、縄で連編みにして吹き抜け小屋に釣下げ約2週間乾燥して蒸留していた。
 当初の蒸留は、平釜の上に据えつけた桶に、よく乾燥した薄荷を堅く詰めて蓋をする。桶の天蓋部よりパイプで水槽に入れた取却受器に蒸気を導き冷水で冷却して、油分と水分とに分離して取油する。これは通称、天水釜式蒸留機といわれ、水分を棄却した精油を一斗缶に詰めて取引所に運んだ。業者は取油の精油度を鑑別して取引した。
 この蒸留熱源には薪がもちいられ昼夜兼行で火をたやす事なく、隣近所が共同作業で10日から20日位にわたって連日の重労働であった。
 その後、次第に蛇管式冷却器に変わり、蒸桶も箱型、セイロ型、木製丸桶、鉄製胴桶と改良されていった。と往時は田中式其の他の蒸留施設が30基位設置されていた。昭和6年頃から、北工式壱号改良型施設(通称、改良型)が普及し、同年、現在の新海家治男の隣地に道庁の加賀技師が斡旋設置したのが計呂地における第1号である。
 さらに、次々と設置され最盛期には、2号線(現 宮地三郎隣)、4号線(現 伊藤トメ隣)、7号線(現 仲正晴隣)、9号線(現 新海家治男隣)、13号線(現 羽田政雄隣)、17号線(現 第1集会所)の6基を数えた。
 この改良釜は、昭和19年頃には戦時中の航空機燃料としての松葉油の精油にも使われた。
(2) 除虫菊  昭和5,6年頃、本田繁が和寒方面から苗を手に入れ、本田繁等20数戸が栽培、耕作面積は多い人で2町歩余りも耕作した。ノミ取粉や蚊取り線香の原料になる薬草作物でノミ、シラミは当時かなり人体に寄生し蚊の発生も多く、その効用も高く薄荷に次ぐ収益をあげ、反収34、5円で大沢、前野商店に売られていた。
 最盛の頃には、傾斜地のいたるところ一面に白い菊の花が咲き誇り美しい光景をみせていた。昭和12年頃から、次第に値が下がり耕作面積は減少し現在では皆無となった。
(3) 裸麦・小麦・燕麦  一 裸 麦
 入植当時より貴重な主食として栽培された。
戦時中昭和16年以降20年にかけては特に食糧増産が叫ばれ、一人当たりの年間消費量、家族数に応じた割当数量以外は全量供出が命じられ、1俵でも余分に残っていたら大変な処罰を課せられた。
 裸麦は特に、毛が長く収穫期は大変であった。束ねた麦は大きくニヨウに積み乾燥してから風の舞い夜を選び麦焼きに精を出した。
 戦時中から戦後にかけて小麦、食用燕麦等もっぱら主食に向けられ、亦加工割当が切符制になり,其の切符を持って行かないと精麦、製粉等に加工して貰えなかった。
 戦後外地よりの引揚帰還兵、満州、樺太、台湾よりの移住者の引き揚げにより人口の増加に伴い食糧難時代が長がらく続いた。昭和50年代に入り食糧事情も大変良くなり、主食は殆どの家庭が米食に変わり、現在店頭に袋入りの押麦が僅か健康食品程度で見られるのみである。
 二 小 麦
 開拓初期より蒔付けされたが製粉工場もなく、もっぱら石臼で加工し、うどんを作り大の御馳走として食膳をにぎわした。昭和10年代に入り委託干緬が盛んになり農家は小麦を持って行き干麺と交換する時代が長らく続いた。
 現今食糧事情も随分良くなり生うどん干麺等何一つとして不自由の感じない時代をなったが戦中戦後にかけて裸麦に変わる主食として使用した。
 小麦は政府買上により比較的価格が安定し、畑作農家では欠かせない作物として栽培している。収穫は大型コンバインによる作業の効率化、乾燥機による水分調整がなされ出荷されている。収穫については反当8俵から10俵位の収穫を挙げている。
 三 燕 麦
 燕麦も随分昔から栽培されている。開墾は人力から馬に移行し、馬に対する依存度が機械化トラクター時代昭和45年位まで続いた。その間の馬の高度飼料として欠く事の出来ない作物であったが、40年代中期より次第に減少し現在では殆ど見られなくなった。
(4) 蕎麦・稲黍  一、蕎 麦
 蕎麦は開拓初期より作付けされていた。開墾された畑は蒔付けを早くしなければならない作物から蒔付けがなされ、燕麦は7月に入ってから蒔いても充分収穫が出来た。製粉には石臼が使用され、夏期間、日が長く重労働のため、夕方腹がすいた時等蕎麦練と云って熱湯をかけ醤油等をつけて食べ一時の空腹を凌いだ。当地は酪農が盛んになるにつれ蕎麦は殆ど見られなくなったが最近多少の蕎麦畑が目につく、大晦日は年越しそばとしてなくてはならない食品でもあり、そばの好きな人も多くなり年中販売される麺類として親しまれている。
 二、稲 黍
 開拓初期より作付けされ畑作農家にとって高台の米として作付けされ、赤飯、餅、南瓜粥飯等めったに食べられなく、米の代用として弁当に使われ、腹持ちも良く、昭和40年代中頃まで栽培されたが、現在では殆ど見られないが、珍しい食品として昔の味をしのばせるのに渡辺豊春が僅か耕作しているのみである。一部の食品等では多少販売されている。
(5) 馬鈴薯  馬鈴薯は、開拓者の自家用食糧として重要な農作物で、これによって姓名をつないできたともいえる。
主に栽培されていた品種は、かって男爵薯が広く普及した優良品種であったが、革新的といわれた紅丸が最も多く、ベーボー、北海一号などもあった。 
 太平洋戦争中は、需要の拡大によって大巾な割当面積があって作付けは増え、戦争末期から終戦後における食糧難時代は、反当生産量の最も多い作物として、馬鈴薯に対する依存度は高かった。
 昭和24年9月、芋類の統制が解かれて、澱粉工場が多くなったことや、他の農産物の価格低落があって、安全作物である馬鈴薯の作付けは増加し、1戸千俵を超える収量をあげる農家も多く出た。
 その後、酪農への移行で次第に減少したが、昭和60年に入りスイトコン、南瓜について加工工場の減反要請に伴い畑作農家は作付けに混迷したが、再び馬鈴薯が見直され農協の奨励により作付けされるようになった。
(6) 甜 菜(ビート)  湧別町内のビート耕作者は大正14年に145名、作付け反別は684町である、
昭和10年、湧網西線の開通によって輸送の便が向上、計呂地での生産量も増加した。
 日支事変以来、戦時体制下の計画によってビートの作付けは割当となり、104・8町(昭和10年)。164町(昭和13年)。186・8町(昭和20年)と時局の要請にもとづいて増えたが、一方終了は逆に反当平均11年の5,181斤に対して、20年では213斤と60%の生産低下となった。
 これは、戦争の進展にともなう労働力の減少で栽培管理がゆきとどかないことや肥料不足に起因していた。しかし、砂糖輸入が途絶えてビートは戦時重要作物のため肥料の割当も比較的豊富であった。肥料ほしさに割当区別は消化しても実際の肥料は有利な他の作物に使ったり、さらには、配給停止になった砂糖の代わりに自家甘味料として相当量が使われた。
 ほとんどの農家で耕作されたビートは最初計呂地駅土場に出荷され、貨車輸送で磯分内の製糖教場に運ばれた。当時駅土場はビートを積んだ車馬の行列で混雑し、荷下ろしに4,5時間も待たされ大変な苦労であった。
 自家甘味料製造の増加に対して製糖工場は、集荷対策の一つとして原料1万斤に130斤の精糖還元の報償借置により原料確保をはかるなど、世はまさに”三白時代”(米、澱粉、砂糖)であった。冷害対策として作付け奨励がなされた28年には、251町、甜菜生産振興臨時借置法等による政府の施策もあって32年、芝浦精糖株式会社北見工場の開設をはじめ、斜里、美幌にも工場の設置をみ、販売作物中、馬鈴薯を抜き首位を占めるに至った。
 37,8年頃から、従来の直播から移植栽培に変わり、収量は2,3倍に増加し作付け面積も極度に増え、計呂地中間土場が3ヶ所(7号線、11号線、13号線)にできた。
 その後、直送にかわり、大型ダンプが各戸に入り畑から直接出荷できるようになり、なかには100d以上の出荷者が出た。50年頃から連作の影響で根腐病が発生し、酪農専業に変わってビートも次第に減りだした。
 作業は植え付けから収穫まで機械化され一層能率的になって耕作面積も増加、56年40町8反9畝歩余である。
57年 43町2反2畝歩
58年 40町2反7畝歩
59年 37町8反1畝歩
60年 36町1反4畝歩
(7) 豆 類  大正3年、第1次世界大戦が欧州で勃発すると、わが国の経済は輸出増加で好転、輸出農産物の高値で雑穀黄金時代を生じた。
 農家は、春、最初に青豌豆を蒔き、大正金時、手亡、長うずら等を作付けしていった。
しかし、大戦後の大正8年以降、不況は昭和初期まで続き、その上、昭和6年から10年頃までの凶作で豆農家は大きな打撃を受けた。
 昭和25年、30年と小豆、大正金時、紅金時、手亡など天候と相場の変動に影響の大きい豆類は徐々に減反の傾向をたどりはじめ40年頃からは殆ど作付けされなくなった。
(8) 亜 麻  湧別町での亜麻作りは、大正5年、日本繊維工業株式会社の湧別工場が操業、耕作奨励もあって急速に普及、昭和に入ると軍需品として脚光を浴び、計呂地でも多くの人たちが栽培した。
 亜麻は夏の収穫作物として、お盆近くに換金される中間的収入が魅力の大きい作物であった。
 どこの家でも「亜麻を打ってお盆をする」と云われたほどで、ソーメン、砂糖、味噌などの食料品をはじめ、夏の衣料費の助けとして重宝がられた。お盆を楽しみに、大人に混じって、亜麻抜きや運搬などの手伝いに汗を流す子供たちの姿も見られた。
 天野現地出荷と野積みの山が数箇所もうけられ冬期間に青年団員の事業(運営資金調達運動)として駅まで、年によっては湧別亜麻工場まで山のような荷物をバチ橇で運ぶ馬の行列が車の時代まで続いた。亜麻は戦時中軍用物資(軍需品)として増産されたが、出荷数量に応じて亜麻生地の還元があり、衣類の欠乏しているとき農民の衣の生活、種子は食用油に絞って自給し食生活の救いとなった。
 昭和20年まで増加の状態にあった亜麻も、戦後、急速に減少し29年に湧別亜麻工場が閉鎖されるに及んで、遂にその姿を消すに至った。
(9) 南 瓜  南瓜は開拓当初、一般農家で広く栽培され、主食の麦を節約するための補給食(代用食)として食膳に供されていた。また、冷害が続いた年など児童は弁当に南瓜を持ってくる者も少なくなかった。
 南瓜も時期にこれを多食すると、体質によって皮膚や眼の色が黄色になって、内地から来て未だ日の浅い医師に「黄疸」と誤診されたという笑えぬナンセンスもあったと、古老は話している。
 このように南瓜は昧も良く栽培も容易であることから、開拓以来、戦前・戦後を通じて食用に欠かせぬものとして栽培が継続されてきた。
 また、食し方も工夫をこらし、収穫した南瓜の皮をむき、生乾きになったころ、細長く紐状に切って切り干しとして保存食に加工し、都市方面に大量に販売したり、冬至南瓜としてムロに保存して冬至には必らず南瓜を食すという習慣などは現在もなお続いている。
 昭和45年頃よりエビスと云う種類の南瓜が栽培されるようになり主に本州方面に生食用として出荷された。
 50年代に人ると生食用や加工用原料として農協が業者と契約を結び、広く農家に栽培させる契約販売が盛んに行われるようになった。
 58年には隣町佐呂間町に総工費134、531、000円を投じ近代的コンピュータシステムの南瓜加工ご揚が建設され、良い物は生食用として内地方面に、その他は加工粉にして南瓜羊羹、まんじゅうなどにも使用され大変人気を呼んである。
 50年代に入ると生食用や加工用原料として農協が業者と契約を結び、農家に広く栽培させる契約販売が盛んに行われるようになると共に、健康に良い食品としても見直され、羊羹・まんじゅうなどにも加工され店頭で販売されている。
(10) 薬 草  昭和10年頃から、本田繁が特用作物に着目し耕作をはじめ、近隣の農家にも奨励した。
 一時は、農産物収入の中でもかなりのウエートを占めた時代もあったが価格の上昇下落が激しく36年頃まで一部農家での耕作が続けられたが、その後酪農への移行で消えていった。当時、栽培された主な薬草は、センキュウ、トウキ、キッソ、シソ、マンダラゲ、セネガ、シャクヤク、キキョウ、ミブヨモギなど、そのほか、野草では、ダイオウ、ハマボーフ、ヨモギ、シコロやホーの木の皮も採取された。
(11) アスパラガス  昭和15、6年頃、アスパラガス耕作の有利性に着目した本田繁をりーダーとする数戸の農家が、喜茂別から苗をとりよせ、数町歩植えつけをしたが戦争の影響を受けて収穫するまでに至らなかった。
 戦後、昭和31年、北日本缶詰株式会社と農協の指導によって、再び、耕作がはじめられた。
 翌32年4月、計呂地、芭露、上芭露の耕作者23名によって、芭露アスパラガス耕作組合が組織され、初代組行長に大野貫一が選ばれた。
 35年度から、湧別町港町にある北日本護詰工場に出荷販売した。
 アスパラガスは、地域的自然条件にも合い価格も安定しているところから、40年には、アスパラガス増反3ヶ年計画が樹てられ、芭露農協管下耕作面積100町歩を目標に推進され、最盛期に80町歩までになった。
 その後、価格の変動や離農者者の続出と農業労働力の不足などから、次第に減反に向い、60年度における計呂地地区の実情は、栽培面積 12町歩7反、生産量 44、889・1屯、生産額 16、916、107円で、耕作者は23名となったが、管下農業生産額は、まだまだビートに次ぐ主要農産物の地位を保っている。最盛期、30戸を数えた計呂地の耕作者も、現在では、千葉武志、新海康夫、岩間正己、山田春雄、中谷定雄、諏訪成一、本田利幸、杉本恒雄、間島勇吉、千葉トミ、岩間正、田村好行、鎌田知七郎、洞口清司、洞口忠雄、佐々木益男、長屋幸雄、伊藤達雄、藤永昌功、岡山益輝、小野寺豊美、村井敏雄、村井義雄、根本スイノ、以上ホワイト分、グリン出荷、渡辺豊春、浪江国雄、以上26名が耕作者となっている。
(12) 果 樹  入植当初の人々には、結実に数年の歳月を要する果樹の植栽には関心がうすく、一般には、作り易いスモモやグスベリが庭先に、数本植えつけられていたにすぎなかった。
 15号線の本田栄作は、小馬を売ってリンゴの苗木を買い、背負って計呂地まで運び、農業経営の一画に果樹栽培を組み入れた。
 昭和28年、新農村建設計画の現地調査にあたった北海道大学助教授桃野作次郎が、計呂池川支流傾料地は果樹栽培に好適することを指摘するに及んで、従来、この地で苹果栽培をしていた本田繁は、一層、これに情熱をもやし、果樹を加味した農業経営を計画し、29名の同志を勧誘して、31年、北海道果樹協会の傘下に加わり、湧別支部を結成した。
その後、組合員は芭露農協管下に及び、隣町若里地区の一部に拡大し、昭和40年頃には、72名に達し、苹果8町5反、梨3町5反を主とし、水蜜桃1町歩、梅、ぶどう、桜桃など、各種の果樹が栽培された。
 本田繁、熊谷粂次郎らが苹果の収穫をみた後、産他間に競合があり、また、フラン病の発生などで、次第に、樹勢が衰え、現在では、農家の庭先きに、自家用程度に植えられているだけである。
(13) 玉蜀黍(トウキビ)
     スイトコーン
 トウキビの作り始めについては、さだかでないが、入植当時より耕作されていたと思われ、秋の味覚として親しまれた。雨の日等農作業が出来ない時、ストーブの炭火で焼く味は格別であった。太平洋戦争、戦前・戦後にかけて食糧事情が悪かった頃、学校に通う児童の弁当等にトウキビを持っていく生徒が随分見受けられた。またトウキビを乾燥し手臼を使って脱穀し、あく抜きをして何時間も炊き上げ食べた時代であった。また精米所で挽割にしてトウキビ粥、稲黍を少々入れてトウキビ御飯を作り、当時としては高級な食べ物であった。
 昭和40年代にはスイトコンの普及に伴い、いつしかトウキビの姿は見られなくなった。スイトコンは種類も多く自家用、また販売用として畑作農家は1戸何町歩と耕作しトラクターによる収穫を行い缶詰用として加工業者との契約栽培を行い出荷されている。

  玉蜀黍(トウキビ)栽培の歴史
               普及所所長 大日向昭四郎談
 とうもろこしが北海道に入った経過は明確な記録はないが、北海道開拓使がアメリカより子実用ワシントン種が導入され、当初は畑作地帯では麦やイナキビに次ぐ食糧作物として各戸で栽培されていた。当時一般に栽培されていた品種は札幌八行と坂下種が主なもので、一部在来援のモチキビも栽培されていた。とうもろこしは、どこの家でも10アールから30アールは作付けし食糧に供すると共に余ったものは乾燥して、ニワトリの飼特等に使われた。とうもろこしは気象の影響を受けやすくオホーツク海に面した当地方では作柄の出来により差が見られたが、通常8月中旬から9月末頃まで食べられた。
 食べ方は普通食塩を加えて熱湯でゆでるのが一般的であるが、薪ストーブや炭火で焼きトウキビにして食べ、さらに砂糖正油を浸して焼くと一層風味を増し、カボチャと共に季節を感ずる食物であった。生食のほかに乾燥して子実を「ドン」と云う加工食品としても珍重された。現在では多少の甘味を加えドンに加工して子供の絶好のオヤツとして販売されている。
 昭和35年頃よりスイートコンが導入され生食用、加工用として普及され、現在は殆どがスイートコン種である。
(14) 飼料作物  飼料作物のほとんどが、自家所有家畜の飼料で営農とかかわって推移してきた。牛・馬・豚等が主体で、当地の有畜農業の動向か、初期の馬匹優位から現在の酪農本位への変遷を物語るように、飼料作物の栽培や種類も家畜の動向に対応して変わってきている。
 戦前の牧草は赤花クロバー・チモシーが主で、そのほか青刈大豆・デントコーン、根菜類では家畜にんじん・ルタパカ・家畜南瓜・実とり用燕麦等で、燕麦の畑に除草機をかけ、その後赤クロバーやチモシー等を蒔き、燕麦刈取後生育した赤クロバーやチモシーを刈り取った。
 また、亜麻畑に牧草を混播して2〜3年牧草畑として青刈利用した。収穫は人力により長柄の鎌で刈り取り、フオーク等で反転、ニョウ積みとして乾草利用した。
 デントコーンは白色種・黄色種の二種があり、白色種は晩生で、黄色種は早生であり、二種とも倒伏しやすくほとんど手作業で刈り取っていた。これも青刈りして雪の降る12月1月頃までカ。ターで切り利用した。また、ぽつぽつサイロが出来、サイレージ利用する者も出てきた。
戦後、酪農の発展に伴ない、牧草の種類も多様となり、禾本科牧草では、チモシーグラス・オーチャードグラス・イタリアンライグラス・メドフエクス等。豆科牧草では、赤花クロバー・ラヂノクロバー・白花クロバー・ルーサン等多種類の牧草が作付されている。
 利用法も青刈や、放牧用、乾草や、サイレージ原料等々多種である。
 デントコーンは一代交配種となり、品種はパイオニア・口イヤルデント・ウイスコンシン等があり、それぞれ75日種より5日ごとにのびる120日種まであり、当地ではパイオニア85日種から110日種泣か作られている。
 これのほとんどはサイレージ利用しているが、一定の機械化体系ではサイレージは省力・省エネで収穫貯蔵でき、通年的給与で高能力の乳牛飼養に適し、酪農経営の集約化・安定化に役立っている。
 このほか、昨今の草地は大型の機械により起耕・整地・施肥・覆土・鎮圧と土壌改良材の使用により、牧草の健全な生育を促し家畜により良い成分の飼料を給与するための努力が重ねられている。
 また、当地は酸性土壌が多く、これを矯正するため炭酸カルシュームを、燐酸質不足を補うため、重焼燐などが施用して作られている。
 牧草収穫も手作業だと、一日中朝から夕方まで働いて、10アール刈取るのに大変であったが、今日では大型トラクターの普及により一日10ヘクタール(10町)位の刈取りが出来るようになり、乾草もモアコーンデシウナにより刈取と同時に草をつぶしていくので、2日目には乾草をロールすることが出来るようになった。
 ベーラーもコンパクト型から逐次ロールベーラーに移行し、1個2〜300キログラムのロール状に梱包される。
 最近ルーサンや根菜類が作付されるようになった。ルーサンは生草量と栄養価が高く、年間3回〜4回の刈取が可能で経済的飼料であるが、赤クロバーと同様、酸性土壌や痩地に生育しないのが欠点であるが、一方旱魅には強く、昭和59年の降雨量不足の年には生育良好であった。
 根菜類では、家畜ビート・ルタパカ等が作られているが、昭和60年作付は73アールとわずかである。またビートパルプを利用して根菜の代替としている。
 現在、計呂地農家の作付面積7万5232アールの内、飼料作物は5万5519アールで、その他放牧地2816アールと約90%近くが飼料畑になっている。
 昭和22年に計呂地全体の乳牛頭数は60頭であったのが、60年には、乳牛成牛781頭・育生牛513頭・肉牛597頭・肉もと牛300頭が飼養されている。
 昭和59年度は5月より8月23日まで降雨が無く、オーチャード50%・チモシー40%も減収し、飼料不足を来し、根釧地区より買人れて不足分を補った。
 作物の推移の中で、最も進歩をみせているのが飼料作物であるが、湧別町内でも当計呂地地区は酪農経営が主体となっているので、今後一層この研究に取組み努力する必要があるといえよう。
第4節 稲作物(水稲)


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  長い間米飯中心の食生活を続けてきた他府県からの人々は、入植後の食生活の変化に伴う米への郷愁は捨てきれなかった。それは、米食の習慣から生ずる執念でもあり、味気ない他の主食になじめないことから、半ば本能的ともいえる欲求でもあった。
 町史によると、本町では明治43年に水田奨励費の予算が計上され試作の補助を行っている。しかし実態は明らかでなく2ケ年で中止された。
計呂地では大正8年頃13号線沢に居住していた山田為助か、上川方面より種籾を人手試作したのがはじめのようである。
 入植当時は、麦・馬鈴薯・蕎麦等を常食とし、米は正月や盆、お祭りの時だけで、12月初めに冬山造材に行き、暮れに親方から5・6升の米を借りてそれを正月用にしていた。
 大正9年、反当収量240キログラム位の収穫実績などもあって栽培意欲は高まり、翌10年面積は急増し、その後の品種改良もあって稲づくりは活況の一途をたどった。
 品種は早生赤毛種・坊主系統・富国が現われ、農林20号が育成され、33号、34号、北海1 16号、25号、北育7号、8号、14号、15号を主として20数種に及んでおり、栽培法についても本道独特のタコ足播種器がかなり長い間使用された。
 しかし、その間にもしばしば冷害に見舞われ凶作に泣かされた。
 昭和12年頃より直接法の欠点を改めるために、温床育苗による苗植えの方法に変わってきた。
 戦後温床育苗から冷床に変わり、さらに改良進歩して昭和24、5年頃より他府県と同様の移植栽培になった。同時に収量も反当たり8俵(500キロ)位まで増え、それに加えて栽培面積も増大し、昭和43年頃は18町歩程にも達した。
 その後国の農業政策の転換により、昭和46年から減反転作が奨励されるに及んで急速に面積が減り、現在では僅かに2戸6反が耕作されているだけである。
      米価100年間。一俵の価格別表の通り。
安政元年
安政2年
安政3年
安政4年
安政5年
安政6年
万延元年
文久元年
文久2年
元治元年
慶応元年
慶応2年
慶応3年
明治元年
明治2年
明治3年
明治4年
明治5年
明治6年
明治7年
明治8年
明治9年
明治10年
       金   40銭
       金   28銭
 金   32銭
金   51銭
金   55銭
金   67銭
金   79銭
金   65銭
金   56銭
金   78銭
金1円42銭
金2円94銭
金1円46銭
金2円39銭
金3円61銭
金3円68銭
金2円25銭
金1円55銭
金1円92銭
金2円91銭
金2円91銭
       金2円00銭
西南の役 金2円22銭
明治11年
明治12年
明治13年
明治14年
明治15年
明治16年
明治17年
明治18年
明治19年
明治20年
明治21年
明治22年
明治23年
明治24年
明治25年
明治26年
明治27年
明治28年
明治29年
明治30年
明治31年
明治32年
明治33年
金2円59銭
金3円20銭
金4円34銭
金4円48銭
金3円57銭
金2円50銭
金2円06銭
伊藤内閣 金2円61銭
金2円24銭
金2円00銭
町村制施行 金1円97銭
山縣内閣 金2円40銭
金3円58銭
松方内閣 金2円82銭
伊藤内閣 金2円90銭
金2円95銭
日清戦争 金3円55銭
金3円56銭
松方内閣 金3円86銭
伊藤内閣 金4円79銭
大隅内閣 金5円99銭
金4円00銭
伊藤内閣 金4円77銭
明治34年
明治35年
明治36年
明治37年
明治38年
明治39年
明治40年
明治41年
明治42年
明治43年
明治44年
大正元年
大正 2年
大正 3年
大正 4年
大正 5年
大正 6年
大正 7年
大正 8年
大正 9年
大正10年
大正11年
大正12年
 桂 内閣  金 4円89銭
金 5円06銭
金 5円77銭
日露戦争  金 5円29銭
金 5円14銭
金 5円89銭
金 6円59銭
金 6円38銭
米検査制度 金 5円26銭
金 5円31銭
金 6円59銭
金 8円38銭
山本内閣  金 8円53銭
大隅内閣  金 6円45銭
金 5円23銭
寺内内閣  金 5円50銭
金 8円14銭
 原 内閣  金13円00銭
金18円40銭
金17円85銭
金12円32銭
金14円06銭
関東大震災 金13円10銭
大正13年
大正14年
昭和元年
昭和 2年
昭和 3年
昭和 4年
昭和 5年
昭和 6年
昭和 7年
昭和 8年
昭和 9年
昭和10年
昭和11年
昭和12年
昭和13年
昭和14年
昭和15年
昭和16年
昭和17年
昭和18年
昭和19年
金15円43銭
金16円64銭
若槻内閣 金15円14銭
田中内閣 金14円10銭
金12円41銭
浜口内閣 金11円63銭
金10円24銭
金 7円39銭
金 8円47銭
金 8円65銭
岡田内閣 金10円44銭
金11円95銭
広田内閣 金12円28銭
 林 内閣 金12円94銭
金13円71銭
平沼内閣 金14円32銭
米内内閣 金17円60銭
東条内閣 金17円60銭
金16円90銭
金18円80銭
小磯内閣 金18円80銭
昭和20年
昭和21年
昭和22年
昭和23年
昭和24年
昭和25年
昭和26年
昭和27年
昭和28年
昭和29年
昭和30年
昭和31年
昭和32年
昭和33年
昭和34年
昭和35年
昭和36年
昭和37年
昭和38年
昭和39年
昭和40年
終  戦 金   60円
吉田内閣 金  220円
芦田内閣 金  702円
吉田内閣 金1,458円
金1,759円
金2,418円
金2,820円
金3,000円
鳩山内閣 金3,384円
金3,704円
金3,902円
石橋内閣 金3,788円
岸 内閣 金3,898円
金3,880円
金3,886円
池田内閣 金4,162円
金4,421円
金4,866円
金5,268円
佐藤内閣 金5,985円
金6,538円
昭和41年
昭和42年
昭和43年
昭和44年
昭和45年
昭和46年
昭和47年
昭和48年
昭和49年
昭和50年
昭和51年
昭和52年
昭和53年
昭和54年
昭和55年
昭和56年
昭和57年
昭和58年
昭和59年
昭和60
金 7,140円
金 7,797円
金 8,256円
金 8,256円
金 8,272円
金 8,522円
田中内閣 金 8,954円
金10,301円
三木内閣 金13,615円
金15,570円
福田内閣 金16,572円
金17,232円
大平内閣 金17,251円
金17,279円
鈴木内閣 金17,674円
金17,756円
金17,951円
金18,668円
金18,668円

第5節 肥 料 入植当初は地味肥沃で、土地の生産力が高かったためにほとんど無肥料栽培であった。
 そのため、やがて収量の減退がみられ、施肥の必要を感じるようになった。
 大正7、8年頃、過燐酸石灰が使われはじめ、魚肥・魚粕(大正13年頃)、大豆粕、硫酸アンモニア (昭和3、4年頃)と種類を増した。
 これらの肥料は農会や産業組合が取り扱い漸時普及の度を加えた。しかし、開拓当初の掠奪的農法から、まだまだ抜けきれないため地力の減耗はおさまらなかった。
 その後も産業組合や農会が努力した結果、肥料の使用量は昭和13年頃まで増加の一途をたどった。
 戦時色の濃さを増す昭和19、20年頃は肥料の製造量も少なくなり極度の不足状態に陥った。
 その頃は、すべて自給自足の時代で堆肥の増産共励会の活動が盛んに行われ、農業実行組合が主体となり青年団もそれに呼応し早起(4時)して板木を叩いて合図し、朝食前に雑草を刈り集め堆肥を増産し肥料の不足を補った。
 戦後、国内工業の急速な回復と輸入量の増加にともない昭24年には戦前の消費量上回った。
昭和34年頃から酪農経営に変わり堆肥が多量に役人されるようになり肥料撒き機の導入と相挨って高度化成肥料がその主力をなしてきた。
第6節 畜産と酪農               最初に戻る
(1) 馬 私有馬と飼育  入植後、開墾面積の拡大にともない、畜力の必要を感じつつも、耕馬やプラオ、ハローなどの導入には3、4年の歳月を要した模様である。
 大正の初め、計呂地には官有林が多く、原木運搬や燃料用薪の搬出が行なわれ、この冬山造材に多くの人が臨時の収入源を求め、馬は夏の農耕ばかりでなく、冬も大きな役割りを果した。
 大正7,8年頃には、各戸、それぞれ、1頭以上の私有馬を持ち、次第に頭数も増加していった。
(2) 繁殖と改良 篠森要吉が、種牝馬を持ち個人による交配をはじめ、良産駒改良にのりだした。
 農地の拡大は、必然的に体駆の楼小な道産駒では能率も上がらず、頑強な良馬を必要としたことは自然のことであり、改良への理解は次第に深まった。
 その後、篠森勇次郎が計呂地、若里、若佐、栄、東芭露、上芭露、志撫子と広地域に亘って出張交配し、改良が続けられた。
 国有種牝馬が、優良馬生産の必須条件たる認識が、一般に溶透すると、民有種牝馬に依存していた芭露方面においても、種馬所誘置運動が高まり、第二次大戦の馬屋奨励の気運に乗って計呂地種馬所が昭和17年に開設された。
 戦時中馬の役割は増大し軍馬の徴発(成馬)陸軍により二歳馬の購買が行われ馬市場開設日には湧別畜産市場迄徒歩で足の裏にマメが出来たり、乗馬や馬車を利用するなど、真夜中に出発し夜の明け方市場に到着する時間帯で馬を引付けるのに大変苦労した。また昭和17年頃は馬の飼育頭数も増加し、個人では中村秀男が釧路種を導入し、40数頭の多頭飼育を行い馬産奨励の業績を残した。
 その後、芭露農協が導入したブルトン種レストゼックス号を44年に、岡山久勝が委託を受けて交配を行なった。
 一時は、馬を飼育していない農家はなかったが、大農機具の普及とトラクターの導入によって、次第に減少し、現在では数頭を数えるのみである。
(3) 種馬所及び馬検所  計呂地種馬所は昭和17年に、計呂地・志撫子・床丹の馬産改良のため、2号線(現在の小野巌宅裏)に建設され、国有種牝馬が繋養された。
 この地は、西栄一所有地で、1町9反7畝を買受け(その内半分の面積は西栄一の寄付)馬検所を併設された。
 折から第二次世界大戦の馬産奨励の波に来って優良産駒生産に大いに貢献した。
 牛馬の飼育頭数が増加するにつれ、馬では伝染性貧血病、牛では結核検査、ブルセラ病検査が毎年行われるようになり、引付には遠いので、計呂地地区のほぼ中央にあたる8号線の旧小学校裏に昭和27年頃中央家畜検査所が設置された。これは、当時の区長阿部秀吉をはじめ、酪農組合が中心となって実現したものである。
 以来、牛馬の検診はもちろん、家畜品評会等も同検査所で行われるようになった。
 昭和28年に畜産事業の振興に伴ない、計呂地農協と芭霧農協が合併し、農協主催の共進会が行われることになり、会場が、芭露・上芭露・計呂地の3地域持回りで開催する運びとなった。計呂地地区では会場の便利さを考え、昭和36年に、前述の2号線種馬所裏に、共進会場として、吹抜・掘立で4間×6間の小屋を建てた。付属施設として湯沸かし場も併設した。
 これにより共進会はもとより、牛馬検査所としても利用されることになった。
 また、同じ頃13号線道路わきに、約5・4メートル×7・2メートル(3間×4間)の検査所が建てられ、内に本組の固定枠を設け牛馬の検診に利用した。
 その後、農業機械の普及につれて馬の数も激減したり、また牛の検査も各戸を巡回するようになり、各検査所は取りこわされたり、他の目的に使用されている。
(4) 乳牛の飼育  湧別町で牛の飼育の元祖とされているのが徳弘正輝で、明治20年、網走から牛7頭を導入して湧別川のほとりに放牧したのがはじめであるといわれている。
 また、明治38年に信部内の信太牧場に20頭、川西の野津牧場にも放牧されていたが、日露戦争の影響下の不況で不振を余儀なくされ売却している。
 ついで明治42年、芭露の内山牧場開設に伴ない、卯原内の峰村牧場からホルスタイン雑種(種牡牛) 1頭を買入れ、乳牛の増殖に取り組んだ。
 牧場管理者の大口丑定(元村長)は牛乳処理に努力を傾け、先進地から技術者を招いてバターの製法を会得した。大正6,7年頃には、自製のバターを東京明治屋に送り販売するまでになり、酪農開拓に献身した人である。
 計呂地地区で牛が飼育されたのは昭和4年頃であり、只野文治がホルスタイン1頭、渡辺由太郎が芭露からエアシャー種とホルスタイン種の2頭を購入して飼育を始めたのがきっかけである。
 夏分の飼育は、道端や川べり、畑周辺の雑草を含ませ、冬期間は、薄荷穀・豆穀などの他に、近くの山林や、自生の野草をしま草にして貯蔵し、押切で切ってわずかばかりの穀類といっしょに混ぜ与えていた。
 その後、昭和6年以降の打ち統く冷害凶作の痛手と、家畜を取り入れた農業経営を求める声が高まり、昭和7年7月、千葉県より7頭の補助牛が、阿部秀吉・篠森要吉・小熊重ハ・藤永栄槌・新海忠五郎・塩見堅治・木村久兵衛の7戸に導入された。
 当時の系統を今なお木村久一が飼育している。
 昭和9年12月の酪農組合総会で、組合員の乳牛購入が義務づけられ、組合員は必ず1頭以上購入することが決議された。ついで翌10年7月の総会で種牡牛の買入れが承認され、遠軽町の東海林牧場から250十円で種牡牛を購入した。
 補助牛の導入と相まってこの頃より乳牛は次第に増えてきた。
 乳牛導入の当初の牛乳は自家用として利用されていたが出荷はすべて人力による方法であった。
 早朝搾乳をすませて輸送缶に人れた牛乳を背負ったり、天秤棒でかついだりして、集乳所まで運ぶのが日課であった。
夏の間はまだ良いとして、冬期間の仕事は大変であった。道もない吹雪の日にも輸送缶をそりに乗せて運ぶのはかなりきつい労働であった。
 このように、毎日個人の牛乳出荷も、やがて飼育頭数の増加につれ、量的には人力では出荷しきれなくなり、馬の力に頼るようになった。
 これも、飼育農家が増えるにつれて共同で出荷するようになり酪農振興の原動力になった。

 藤永正男は当時の様子を次のように話している。
  「牛乳は集乳所でバターに製品化されないで、その原料となるクリームを、遠心分離器にかけて分離し11%ほど販売していた。また、当時は交通の使が悪く、3号線の柏旅館まで(現在、国道若佐線の分岐点)夏は自転車、冬は馬そりで牛乳を運搬し、これを石田ハイヤーで中湧別まで運び、遠軽雪印工場へ送るといった手順であった。
 湧鋼線が開通した昭和10年10月からは鉄道輸送に切り変わった。
 当時、牛乳1升(約1・8リットル) の値段は20銭で、脱脂乳は飲用・子牛保育・家畜の豚等に供した」
 終戦後は、極度の食糧不足と食糧供出の強制割当・占領政策等種々の事情により昭和24年頃までは酪農界最大の混乱期であったが、農業の生産力増強を中心とした地力の維持と冷害克服のため酪農の積極的な奨励が図られた。
 昭和25年に集中排除法の適用を受け興農公社達軽工場も、森永乳業の進出により新たな構想の下にサービス事業の強化を迫られるようになった。
 また、尿溜・堆肥場建設に下湧別村畜牛導入資金転貸条例が施行されたり、道の畜産振興5ケ年計画策定によって、道有牝牛貸付制度、無牛農家に牝牛を無償で貸付て、貸付牛が最初に産んだ牝の子牛を返納するという条件であった。
 多頭飼育化の促進に国有貸付制度。酪農開発事業団の牝牛改良資金融資による優良牝牛の導入制度に伴ない、湧別町牝牛改良資金貸付条例の制定、さらに、昭和38年には国費補助の道有貸付牛が48頭、翌39年には酪農開発事業団貸付牛が28頭。40年には湧別町優良牝牛貸付条例が制定されるというように、各種制度による資金導入の道が開かれるようになった。
 計呂地でも優良牝牛が昭和41年に3頭、43年に1頭と逐次導入され、昭和57年に斉藤正孝所有のスリーオークスオリラエリク号が2・5歳型で乳量日本新記録(1万3224キログラム)を樹立するという特筆すべき快挙があった。
 昭和50年2月には乳用牛資質向上対策事業で新検定制度が始まり、56年2月に新乳検組合となり乳牛の資質改善に努力している。
 このように各種制度の制定や、これに伴なう資金導入によって計呂地地区も今日の優良酪農家に育ち、安定する農業経営が行われるようになった。
(5) 肉用肥育牛  (肥育牛と素牛の生産)
 計呂地地区で肉牛飼育の最初は昭和47年頃で、浪江国雄・井関勇の両人である。
 当時、町では肉牛育成のために雄牛育成資金として補助金7万5000円を助成した。条件は乳牛の雄子牛5頭を購入し、飼料の給飼量及び育成牛の売上げ代金の明細を書類で報告することであった。(義務づけられていた) この補助金を受けて、浪江国雄・井関勇が雄子牛の飼育を始めたのが現在の肥育事業の発端である。
 その後金開運方式による乳牛雄の素牛生産をはじめ、250キログラム位で出荷した。しかし、価格変動等で経済的打撃を受け初生牛買入資金の調達にも大変苦労をした。
 昭和51年より北海道畜産運等の指導と相僕って、本道でも肥育が可能なことがわかり、仕上げまでの一環肥育に踏みきった。それが次第に定着し、肥育の事業化が進み、頭数も増加し大型化していった。
 昭和54年頃から村井敏雄も素牛の飼育を行い、現在では(昭和59年)浪江国雄が約350頭、井関勇が170頭、村井繁雄が約130頭を飼育している。
(6) 鶏  開拓当初、農家の人々の栄養補給の第一は鶏であった。当時入植した人々は経済的にも恵まれず、肉類・魚類の購入などは思いもよらず、手軽に扱えだのが鶏であり、その肉・卵は貴重な栄養源として喜ばれた。
 鶏の飼育は非常に簡単で、庭先に放し飼いにして、夏期間は満足に餌を与えなくても卵を生んでくれた。放し飼いにしておいた親鳥が一羽足りないと思っていると、20日程してった。殆んどの家庭に10羽から30羽くらいの鶏が飼育され、栄養補給の他に卸を売って家計の一助としていた。
 昭和6、7年頃の集卵業は、御用かごを背負ったり、天秤棒をかついだりして人の足での集卵だった。古老の話によると、萩原清兵衛・多田某・宇佐美某等が集卵していたようだ。
 昭和40年代に入ると、農家の経済も次第に好転し、交通の発達類が食卓をにぎわすようになってきた。また、農薬の影響で放し飼いも難かしくなり、農家に大きく貢献してくれた鶏も徐々にその姿を消していった。
 現在はごく少数の鶏が数戸の農家で飼われている程度である。
 計呂地市街で小野吉雄が営業に300羽程飼育していたが、採算が合わずに2年位で中止している。
 また、昭和38年頃、本田繁幸がブロイラー300羽程飼育していたが、停電で一度に数十羽を死亡させるということが相次ぎ中止せざるを得なかった。
(7) 豚   鉄道開通後、野付牛(現在の北見市)方面から肉商人が豚を買付にくるようになり、それから豚を飼育する者がみられるようになったと云われている。
 昭和23年に計呂地第1組合に15名により養豚組合が結成され、初代組会長に渡辺義一が選出された。組合は岩見沢の清水肉店と契約を結び有利な条件で販売を行っていた。
 最盛期は30年から35年頃で1戸で100頭位の飼育がみられ、電牧やバラ線で牧草畑に柵を回し放牧飼育を行っていた。当時の飼育方法は芋、南瓜″澱粉粕、雑魚等を大きな釜で煮て飼育していた。
 30年頃中谷倉之助は100頭程を飼育して、若佐の金森精肉店と契約して出荷していた。市街では西沢松太郎が開拓農協の補助を受けて、現在の公民館横に豚舎を新築して大々的な飼育を行った。
 38年から4年連続の冷害凶作で、農家経済は大打撃を受け、税金の滞納者(2年も3年も納められない)も出る状態となった。そこで、町は納税豚資金として子豚1頭購入につき3000円の無利子貸付を行い、納税豚飼育を奨励したので、各戸が1頭から5頭程度飼育し、それを売って税金を少しずつ納めていった。
 その後も農家は数頭の豚を飼育し続け、当時の売値は、100キロ程の豚で2万円から2万5000円ぐらいであった。
 また、40年頃、計呂地農協青年部の中谷正一・渡辺豊春・前野盛隆等が中心となって、農協より補助金を受け養豚改良に取り組んでいた。
 中ヨーク
         ー代交配雑種
 パーク
 ハンプシャ (肩に白線のタスキのかかった豚
 デブロックジャージー(赤味・雑食に耐え肉質良好)
 このように着々改良の成果をあげていたが、43年頃に味の生産が過剰になり需給対策も効を奏せず、肉豚の価格は暴落し、養縁家は大きな痛手を受けた。このため豚の飼育数は次第に減少していった。
 そして、冷害に弱い畑作を酪農に切りかえる農家が年毎に多くなり、現在計呂地では養豚農家は殆んど見当らなくなった。
(8) 緬 羊  大正2年、大ロ丑定かシュロシャー種(毛・肉兼用種)を陸別と岩手県小岩井牧場から買入れ飼育したのが湧別の緬羊飼育の始まりである。
 計呂地では昭和10年頃、芭露・佐呂間方面より買入れ飼育を始めた。それが、昭和16年頃、物資の統制と配給で衣料品が不足してくると、自給のため緬羊飼育熱が急速に高まり頭数はうなぎ上りに増加しだした。
 昭和22、3年頃には篠森勇次郎が23頭・中村秀男が20頭以上と、1戸4、5頭平均が飼育されるようになった。価格も当時で1頭1万円以上で取引ぎれた。
 交配期は秋に限られ翌年春には分娩する。通常の出産は1頭だが、双児も珍しくなかった。生長が早く12月には成獣となり2歳で出産可能である。毛の刈りとりは春に行う。
 生まれた子は数日後、尾を切断するが、これは、羊毛の汚れを防ぐためと発情を見やすくするためである。一般には飼育されている緬羊には尾がないものと思っている入もいたようである。
 飼育は比較的容易であったため市街の人でも飼う入があった。
 また、毛糸に加工するのは最初は各家庭で行っていた。
 夜仕事に自家足踏式の紡毛機でつむぎ、セーターやくつ下、手袋などを編んでいた。やがて委託加工で、毛糸・生地・羊毛綿などと交換され、原毛としても高値で取引された。
剪毛期には各社入り乱れての集毛合戦が行われるようにもなった。
 旭川に農協系統の紡毛工場があり、農協でも一元集荷に力を入れ、支所長高橋昭二を先頭に、農協青年部渡辺豊春会長並びに婦入部長屋春栄会長の時は共同作業で一丸となり、系統一元集荷で275つつ(小さい方で25`詰め、大きい方は100キロ詰であった)を集荷して全道1位となり、皇道特別表彰の栄冠に輝やいた。
 しかし、繊維製品が潤沢に市場に出回り始めたことと、緬羊が野犬の被害にもあったりして頭数は徐々に減少し、昭和30年代には、肉によるジンギスカン料理がブームを呼び、従来の目的は失われるようになった。
 40年代に入ると、羊肉は輸入され緬羊の姿も見られなくなってきた。
(9) 山 羊  戦中・戦後にわたって飼養の手数がかからなく、路傍で粗放飼育でき、乳の脂肪が非常に高く栄養補給源として1戸に1、2頭程度飼育されていたが、酪農の伸展により昭和30年後半には見られなくなった。
(10) 兎  兎は昔から子供達に可愛がられ、農家では愛玩用として各家庭で飼育されていた。それが毛皮を取る目的で飼育が奨励されるようになったのは、日華事変が勃発してからのことで、被服の材料として軍需物資に指定された。
 飼養の中心となったのが学童で、農家の子供ばかりではなく、殆んどの児童が兎を飼っていた。
 毛皮の売上代金は、学校に持参し教師を通じて愛国貯金に積立てて、銃後の守りの一端を担っていた。
 続いて太平洋戦争が始まり応召兵の増強により、日常生活が戦時体制になり、軍隊も海外派兵に及ぶと、兎の毛皮も極度に不足を来し、村役場より青年団に「養兎増殖突撃運動」の呼び掛けが行われた。
 当時の親和会青年団員40数名は、渡辺会長を中心にこの運動に積極的に参加することを申し合わせ、軍買い上げの兎の増殖に取り組んだ。
 最初は各団員に種兎の貸付けを行い、始めて生まれた子兎を返還することにした。19年には増殖熱が台頭し、柵の中に放し飼いし、土中に横穴を据って凍結防止に努め、冬期間の自由繁殖に成功し、多羽飼育の途を開いた。
 供出日程には、馬橇で計呂地駅前に出荷するなど運動の成果は予期以上のものであった。
 戦後は軍の需要が消滅し、一時食肉に供給されていたが、兎の数も急減し、その上化学繊維工業の発達による人工毛皮の出回りや、ミンクの毛皮等高級品に消費志向が集まって、兎は再び家庭の愛玩動物に戻ったが、最近ではめったに見られなくなってしまった。

 想い出・苦労話
                  渡 辺 豊 春
 昭和19年の春、村役場から青年団幹部に招集があり参加しました。
 その会合で「軍用兎増殖突撃運動」が提唱されました。早速、親和会の会合を開き趣旨説明を行ったところ、全員の賛成を得まして運動を開始しました。
 幸い兎の飼育には経験者が多くその点大いに助かりました。当時、信田美代志を養兎部長として、種兎の買付け方法や繁殖計画など、夜間幾度も会合を重ね、時間を忘れて話し合ったことなど懐しい想い出が数多くあります。
 物資の欠乏時代で、兎を飼うにも箱を作る板も無く釘も無く、金網も無いという無いくずくしで苦労しました。それで、りんご箱や石油箱の古い物を改造し、古釘を大切に利用し、新しい代用釘は節約してところどころに使用するようにし、金網の部分には細い丸木を打ちつけて光線の入りを工夫するなど、箱造りも大変でした。
 また、箱の置き場所が低いと野犬や孤に箱をこわされ、兎は餌食にされてしまい、隙間が広いと蛇が侵入して生まれたばかりの仔兎を生き呑みにするなど思わぬ被害も受けました、大い丸太で造った柵の中の放し飼いはその点安全でしたが、一方白い毛並みに汚れがつきやすく、毛色に汚れの目立たないチンチラ(ねずみ色)や黒毛の種兎を買入れるなど研究を重ね増殖に励みました。
 結果としては数々の苦労が実を結び、1人で50羽以上供出のできた喜びは格別でした。
(11) ミンク  経済の高度成長に伴って消費が拡大し、その志向が高級品に移るようになって、ミンクの飼育熱が30年以降にわかに台頭してきた。
当地は気候の点からもミンクの飼育に適しており、国内の需要に応えるだけでなく、世界市場に輸出できる製品でもあるので大いに期待がもたれた。
 昭和34年に大出理一が先駆となって飼育を始めた。経済の上昇につれて順調な伸びをみせ、昭和40年頃には4戸、大出礼次郎、林勝弥、井上繁雄、小野巌、等の飼育者で1000頭を超すようになった。
 昭和55年大出礼次郎は農林水産祭に参加して、第10回全国日本種ミンク共進会に入賞、社団法人日本ミンク協会より表彰された。
 以後飼育者は大出礼次郎、小野巌、吉田保と3戸になり、現在(昭和60年)大出礼次郎1戸となり基礎ミンク2000頭余を持ち、年産8000枚、生産高7000万円と伸長をみせ優秀な経営を続けている。
第7節 林 業                  最初に戻る
(1) 造 林  入植当初、開墾のため切り倒された立木は、邪魔ものとして、ただ、焼き捨てられていたが、明治42年6月、床丹沢に日本燐寸軸木製造猿間工場が開業されるや、白楊、ドロ、白樺などは燐寸の軸木材として、各人権者が造材して売り出した。
その後、大正7年頃からは、他の樹種についても造材が行なわれるようになった。
 大正12年頃、7号線沢で、事業主が角谷、飯場長 上伊沢一二によって大規模な造材がはじめられた。
 昭和に入り、需要の伸びと共に益々盛んになり、昭和6年には、丸わ組 松田造材が17号線沢で仕事をはじめ、大沢重太郎も、最初、ハクヨウ、ドロなど燐寸材の買いとり、運材を行っていたが、昭和7年頃からは、17号線沢で、一般材を取り扱い、やがて13号線沢へと広げていった。
 昭和9、10年には、町有林で1万石以上の造材を、18年頃から戦中、そして、戦後の21、2年と長期に亘って規模の拡大をはかっていった。
 さらに、34、5年にかけて、109林班の中原宅前で、1万1000石の造材が行われ、その後も、各所に、木材集積のための上場を作り、43年頃まで、毎年、地元の人たち等により造材を行っていた。
(2) 計呂地地区内人工林
   (昭和58年現在)
 本地域の人工林樹種は、トドマツ、カラマツ共凡そ50%の割合で植林されている。その他樹種ではトーヒが若干植林されている。
 成長はカラマツ、トドマツ共に湧別町に於ける上位成長地で殊にトドマツ植林地に於ては7号の沢、11号、13号の沢及び17号本流地に人ると、著しく成長が良い地帯である。従って今後の植林樹種決定については、流域内の林相を考慮しながらカラマツ地帯、トドマツ地帯に適した計画を推進すべきである。
     天然林施業
 戦時下に於ける民有林より軍用材供給等のため、乱伐により天然林は急激な2次林に変り、戦後はパルプ材の需要等に加えて3次林を形成した。本流域はシナ、カバ、ナラ、セン、タモの主産地で殊にシナ材は束洋一の良材生産地であった。3次林となっている天然林は今後有用樹種の導入、保育手入により天然林施栗としては将来が望まれる。
 針葉樹林は天然更新が特に良好な7号、11号、13号の沢、17号、本流域地区が択伐施栗林として実施する事により、今後共持続林として経営できる。
(3) 計呂地地区内人工林
   (昭和58年現在) 
 北海道は、明治44年、稀有の大山火に見舞われたことから、道庁では、常時、山火予防組織の必要を認め、大正3年「森林防火組合規則」を定めて、森林防火組合の設立を奨励し、殆どの部落に創設をみた。
 なお、この組合は、昭和16年、太平洋戦争の進展によって町内会、部落会規則が制定されたので、それに統合し、解散している。
 戦後、部落会の解体で、自然消滅した協力体制は、22年5月、新たに、「森林愛護組合設置要綱」の設定とともに、同要綱に基く、組合結成の勧奨が行なわれるに及んで組合長として、組合員数230名で発足、現在も、次の事業に取り組んでいる。
一、山火予防活動
一、林野火災発生時における消防援助
一、組会長は、火入れ申請者の確認と、火入れの指導監視を行う。
(4) 計呂地担当区
    駐在所
 官林の保護管理に当たる末端機構として、山林監守人が設置されたのは、明治11年で、34年4月、道庁訓令で担当区駐在所が本町一円、3号線に開設された。
 大正8年、遠軽営林区分暑が設置されるや、芭露地区国有林担当の監守駐在所が、束芭露に設置され、同駐在所は、大正10年、上芭露市街に移されて現在に及んでいる。
 昭和25年10月20日、計呂地方面国有林1,169町余の国有林管理のため、担当区が設置され、計呂地市街に担当区駐在所が開設され現在に至っている。
(5) (旧)森林組合  昭和17年6月3日、下湧別町森林組合結成組合員 346名 初代組合長 森垣幸一
 昭和28年 湧別町森林組合と改称
同年、林野庁長官賞受賞を受く
29年、農林大臣賞の受賞を受く
 歴代組合長 森垣幸一、村上庄一、島崎卯一、坂口 要
昭和54年12月、2度にわたり不渡手形を出し、工場閉鎖、授業員解雇と続き、遂に再建ならず、昭和55年9月4日、釧路地方裁判所北見支部は破産宣告を行い解散のやむなきに至った。
(6) 新しい森林組合  昭和55年8月に旧森林組合の破産による解散を兼ねた報告集会が開催され、その集会終了後、
  「母体解散のままでは民有林の疲弊を招き、森林所有者は経営上支障をきたすので早急に新しい森林組合を設立する 必要がある」との多数の要望に応えるべく、新しい森林組合の創立準備に取り組むことが申し合わされた。
 準備委員は広く町内を網羅した有志で発足し、当区からは、洞口正喜が委員に推され、56年3月に準備委員会が開催されて、谷口勇ら40余名の発起人が新たに選出され翌4月には各地区で懇談会を開いて設立の趣旨説明と、加入勧奨を行い、次いで5月の準備委員会では全会一致で、発起入会の「設立目論見書」原案が承認された。
 この時点で設立同意者は334名(計呂地43名)で、出資見込額1548万8000円であった。
 これを受けて創立総会が56年6月18日に開催され、直ちに設立認可申請を行い、7月25日に認可の運びとなり、9月24日には発起を完了し、ここに新しい森林組合が誕生した。

なお、役員椎薦委員会の結果、当区より理事として渡辺豊春が選出され7名の理事に加わった。
 組合長は理事の互選により谷ロ勇に決定し、現在3期在任中である。
  発記時の概要は次の通りである。
 名 称  湧別森林組合
 地 区  湧別町一円
 組合員  332名


計呂地地区より選出された発起人
洞口正喜 渡辺豊春 前野盛降 中谷庄一 斉藤正孝 渡辺政明 渡辺功
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