計呂地郷土史
第7章 宗 教
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(1) 春日神社 | 明治44年頃、計呂地4号線付近の入権者は、7、8戸に過ぎなかったが、神社建立の気運が盛り上がり、小群落のほぼ中心(4号線現会館)の地に小祠を建てた。 神社敷地は、藤永栄槌、岡山次郎吉、渡辺由太郎、伊藤常吉の名義共有地で約40アールが登記された。 代表が、往復40キロ余りの山道を2日がかりで、熊の出没を気にしながら湧別神社まで行き、分神をいただき奉伺、春日神社と称した。当時、10月1日が祭礼であった。その後、大正初期神殿を造営、鳥居も4号線入口に建立、大正中頃までは道も悪く、お祭りには湧別神社まで、宮司を迎えにいくならわしであった。 また、雨乞い、お天気祭り等、中林、宮下等により境内で焚火を囲み、酒を汲みかわして夜まで太鼓を叩いて祈願する姿があった。 |
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(2) 洲原神社 | 明治末期本州より入植された定往者も次第に増え、開拓されて、農作物が作付されたが、たびたび冷害に見舞われ、神様に祈願いたす事になり、長屋熊太郎、大沢三右衛門、大沢音松等が中心となり、岐阜県の洲原に農業の神社があり、その神様をお受けして、明治40年頃現在の9号線第3乗会所右上の所で、洲原神社として当時10戸程で豊作を祈願してお祭りを行なった。入権者も次第に増加し現在の8号より11号まで一集団として、10月5日氏子の祭典を行なった。神主は春日神社が建立されてからは、湧別神社より神主を頼んで祈願を行ったが、神主は湧別より歩いて往復された。 其の後、昭和に入り中村仲蔵(敏昭の父)が祭祀を司どった。お祭りの余興としては子供相撲、大人相撲と篠森要吉の世話で、佐呂間の栃木部落より芝居を頼んで盛大に行った。 なお、旱天続きには雨乞、雨降りには、天気祭り、昼夜、タイコを叩いて神前に祈願した事も度々あった。 |
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(3) 明治神宮 | 大正5年から11号線より奥地17号線の間に人権者が増加してきた。人権者たちは、部落中央の洲原神社の位置が遠いので、お祭や神社参詣に不便なため話し合いにより、大正7年に13号線(現在バス停の西方約100米)の地点に明治神官を建立した。 最初の祭神碑は、丸太を40糎の角にけずり、地上3米の高さに建てた。題字は、当時91歳の山田新太郎(山田一男の祖父)の書によるものであった。 数年後、社殿造営、鳥居建立に伴ない、明治神宮本社より3種の神器、金幣等を申し受けて奉祀した。 造営にあたっての大工は山田為助(氏子)世話人粥川与三助、松田惣兵衛、鈴木権十郎とし、氏子の人達の共同事業により行った。 昭和の初期には、巾1米50、長さ9米の官幟を大阪の専門店に染抜きで注文し、出来上がってきた大幟を大人7人がかりで立て下ろしを行った。 用地は公共用地を神社用地として申請し、前野槙蔵、粥川与三助、熊谷粂次郎名儀に登記した。 敷地面積は1反5畝(約15アール)、敷地内には氏子達が山桜、梅、オンコ(イチイ)等をそれぞれ持ち寄り、皆の共同出役で植樹を行った。 昭和10年頃になると、これらの木は美しい花を咲かせ、花見を楽しむ氏子の数も増え、苦労を忘れた一時もあったと、古老は言っている。 祭事は高知県長岡郡大杉村営の谷に在住当時、教導職として祭事を司っていた前野猿蔵(盛隆の祖父)により行われた。祭典余興は、活動写真(映画)当時は電気がなく無声映画で弁師により映画劇の説明が行われた。浪曲、芝居などは興業師を頼み、芸人の宿泊は夜間の演出等で深夜に及ぶことから氏子の熊谷粂次郎宅に依頼していた。その後、青年と氏子の人達で演芸を行い祭典余興(夜間の部)とした。 演芸は年々盛大になり、特に地元の青年の演出に人気を集め、見物人は、遠く武士(若佐)、志撫子、床丹(若里)方面からも集まった。また昼間は大人や子供相撲も盛んに行われた。 祭は十月三日とし、氏子の区域は11号線(11号の沢を除く)から奥の住民全戸となっていた。 例祭の他の行事としては、旱魅が長く続くと神社に集まり雨乞いを行う風習があったが、昭和10年以降は解消された。 後に昭和19年計呂地神社に合祀された。 |
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(4) 神社の統合 | 計呂地は明治37年に開拓の鍬が下され逐次入権者も増加、現6号線より市街地の方に戸数を増加した。それに伴い明治40年頃4号線に春日神社が建設された。 更に奥地へと入植戸数も増加、明治末期には9号線の所に洲原神社が建設された。 大正に入り計呂地奥地へと逐次増加、奥地には神社が無い事から大正7年に明治神宮が建設され、計呂地に3社がそれぞれの日を定めて祭祀を取り行った。 このような実情は、部落統制上からも経済の面からも不便な点が多く昭和19年に至って神社統合の議が熟し、1部落1神社と決定した。造営地を10号線と定め、敷地購入、社殿造営はすべて部落の寄附によることに決定し、中山佐太郎所有の土地2町歩余りを購入して、其の地に社殿の造営が完成、計呂地神社として盛大に遷宮祭が取り行ない現在に至っている。 |
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(5) 湖畔神社 | 昭和29年、計呂地市街は役場出張所をはじめ、産業各機関の設置、あわせて、周辺の人口も年ごとに増加、戸数70戸余を数え活気を呈していた。 その中にあって、市街側に神社造営の議が台頭した。当時、3神社が合祀された直後でもあり、部落役員会を再三にわたって開き、地区住民の意見を尊重するとともに、神社造営により部落を分離しない、神社造営費は市街側負担、市街神社を春祭り、計呂地神社を秋祭りとする、祭典費は一括徴集のことなどを申し合わせ、市街神社建立を決定した。 神社敷地として、駅前通り西1線の中川敏雄所有地1反の無償貸与をうけ、追永寅松、古屋奉寿、林勝弥、斉藤武夫、金森金次郎、石渡要助、今野与四郎らが世話人となり、大工金森金次郎、原木製材に石渡要助(君津木工場)をはじめ、地区住民の労力奉仕を受けて、神殿、拝殿を造営し、湧別神社の分霊を奉祀して湖畔神社と命名した。 土用丑の日(7月15日、町史)を春祭りとし、露店やみこしも出されて賑やかであった。 |
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第2節 各種信仰 | |||||
(1)浄土真宗本願寺派 法念寺 |
(一) 建立の端緒(大沢重太郎談) 入植以来、10余年を過ぎた部落内には多数の物故者が野辺に葬られて供養もされないままになっていた。 この現状を憂い物故老の供養とともに人々の心の寄り所となる信仰の場、お寺を建てるため、父が同志を募りはしめた。私は、こんな田舎の住民も少なく交通の便も悪い場所で、寺を建てても住職も生活に困り、お寺の維持も出来ない結果に成る見通しが強いので、当分見合わせるように父に進言したが、父は、どんな困難も乗り越えて実現したいとの強い信念であり、私も父の強固な意志と信仰心に感化され協力することになった。 当時、部落には信仰の厚い人達が沢山おり、話も無事にまとまり、住民の奉仕作業によって建立された。 住職深谷忠男は戦時中、徴用で江別市の飛行場開設土工作業に挺身し、戦後は20余年にわたり郵便集配人として勤務しながら、戦前戦後を通じ寺院経営に苦心され、昭和44年に本堂の移転新築、納骨堂新築、寺院内仏具の整備を行い、55年4月には京都本山の伝灯奉告法要式に19名の檀信徒とともに団体参拝を行った。 |
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(2) 丸山教 | 中村仲蔵は大正3年に静岡県より渡道し、同10年に計呂地7号線奥西2線に入植した。 仲蔵は信仰に厚く、昭和9年11月20日自宅敷地内に神殿を建立し、信者に呼びかけて例祭を行った。年々参加者が増加した。また、仲蔵は洲原神社にも神主として祭事を司った。 その他にも祈祷に歩き、信者に尊敬されていたが、戦後離農するにいたって祭事は自然に消滅していった。 |
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(3) 太子堂 | 部落の人口も次第に増え、信仰を通じ人々の和を願い、話し合いの場をと、橋本嘉平、浪江鶴松、梅井洋太郎、天草藤五郎、根本慶蔵らが発起人となって、大師堂建立の計画がたてられた。部落内外から寄付を受け、昭和8年4月13日、計呂地道路3号線と4号線の中間地点を選び、大工、大西権四郎によって建立された。 以後、年月を経るごとに参拝者も増え弘法大師の遺徳を慕い、毎月20日現世利益を信じて、読経等の祭祀行事が行なわれ、また、食事を共にするなど、和やかな慰安日として親しまれていた。 更に、手芸講習会や浪曲などの娯楽の場としても使われ、地区住民に大変喜ばれていた。 昭和22年10月1日、2号線基点に移され、戦後、地区若者たちのいこいの場として、かるた大会なども聞かれていた。 |
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(4) 天理教布教所 | 天理教の布教は、大正10年頃からはじまり、昭和13年小巻天理教本部芭露分教会の関戸キンが計呂地布教所として開所、稲毛惣五郎、宮下常桧ら多数の信者の力添えによって、計呂地道路7号線(元、計呂地局跡近く)に建てられた。 月祭りには、近郷より多数の人達が参拝、その後、昭和45年に、計呂地市街地にうつされた。 |
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(5) 忠魂碑 | 大正8年9月、在郷軍入会の事業として、4号線(元、春日神社境内)に忠魂碑建立の気運がもち上り、現在の小野寺豊美所有の土地から、ならの大木を切り倒し、数日がかりで約2尺4方の角材に仕上げ、在郷軍人、氏子ら大勢の出役により、馬4頭びきで神社敷地内まで運び建立入魂を行なった。 祭祀は、秋祭りの日に行なわれ、青年芝居、子ども相撲と、楽しい、年一度の農休日でもあった。一方、奥地の入ロの増加に伴い、住民の間から新たな忠魂碑設立の声が急速に高まってきた。 大正13年洞口吉兵衛より木造碑(桂)原木寄付の申出があり、阿部銀次郎等により角材に仕上げられ、在郷軍人の奉仕によって明治神官境内に建立された。 祭祀は8月15日とし氏子の人達によって行われた。夜は太鼓の音に合わせて賑やかに盆踊に興じ一時を過ごした。昭和15年頃になると、隣村(床丹)の青年男女も踊りの仲間に加わり盛況であったが、祭祀等に不都合を生ずることから、在郷軍人が中心となり、両忠魂碑を統合、昭和5年4月、学校敷地内(現校長住宅西側)に、新たに木造の忠魂碑を建立した。年々、祭祀は前野槙蔵(盛隆の祖父)が厳粛に、余興も盛大に行なわれた。 昭和19年、3神社の合併にともない、大沢重太郎の寄進によって石造の忠魂碑を計呂地神社境内に建立することになった。翌20年、在郷軍人と青年団との労力奉仕で移転完成した。以来、8月15日のお盆に、計呂地法念寺住職による佛式の慰霊祭を行なっている。 戦時中は、銃剣術、剣道、相撲などが霊前で盛大に行なわれたが、戦後は廃止された。戦争のために、異国の地に果てた若き20数名の殉公者の御冥福を心からお祈りすると共に、平和の誓いを強くするものである。
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(6)馬頭尊碑(3号線) | 農耕や運搬、そして、乗馬と労苦を共にした農耕馬の安奉を念じ、重労働にたおれた多くの馬の霊を慰めるために、大正の初期に、小さな木の碑を、計呂地道路入口、橋本福市の土地に建て、馬頭観世音菩薩としてまつった。 その後、大正中期、太さ1尺5寸角、長さ12尺余りある楢の木碑に建てかえられ6月を春祭りとして、賑やかに子ども相撲などの余興が行われた。 昭和20年、計呂地部落の馬頭尊碑に合碑された。 |
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(7)馬頭観世音菩薩(10号) | 入植者の増加とともに、農耕馬も次第に増え、重労働により斃死した数多くの馬の霊を慰めるため、大正14年頃、現在の8号より11号までの住民40戸程で、1尺5寸(45センチ)の角材を作り、法念寺敷地(大野福次郎が法念寺に寄贈、現在の墓地道路入口下角)に馬頭観世音として建立した。 例年5月5日春のお祭りとして、当時の法念寺住職大草大勝師が供養し、子ども相撲など余興がにぎやかに行われた。 馬頭祭りが終わると春の蒔付けが一斉に始まったものである。 |
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(8)馬頭尊碑(13号) | 明治神宮氏子の人達によって馬頭尊建立の話が起こり、大正10年神宮敷地内に祭る事に決定し、木碑で題字は羽田佐太郎(賢蔵の父)による。 祭事は前野慎蔵により(8月15日)司る。また余興は忠魂祭と合わせて盛大に行われた。 |
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(9)馬頭観世音菩薩(17号) | 昭和3年に17号稲毛惣八(現在中谷定雄)の高台に、16号より奥の住民達で建立された。 祭事は計呂地説教所(住職)により仏式でとり行われ、住職の法話を拝聴し、ねんごろに供養の儀が営まれた。 余興は行われなかったが、子ども達にはお供えのお菓子が与えられた。 昭和9年に17号線奥に入植者が移住し、祭事に賛同し以後加わることになる。翌10年、道路改修工事により敷地が狭く不便になったため、同年両瀬助次郎(現在渡辺義一林道入口)所有地に移動し祭られてきたが、後に統合した。 |
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(1)馬頭観世音菩薩 (統合の碑) |
古老の話によると、入植当時の農作業はすべて人手により、食糧の自給に苦労の連続であったようだ。それが耕地の増加に伴い、大正初期には馬の利用者が増え、仕事の能率も上がり生産も増加するようになった。また、冷害、凶作の年には、馬で出稼ぎに出て生活をおぎなうという状態でもあった。それに、交通網の未開発な時代であるから、馬はそれにも大いに利用され当時の生活の上にも役立ったのである。 人馬一体となって、農事に、生活に、労苦を共にした馬とのきずなは想像以上に強く、家族の一員とみなし、同じ長屋(棟続き)で住まいを共にし、朝、起床と同時に馬の健康を気づかい、食事前に飼葉(カイバ)を与えるといった習慣であった。 こうして苦労を分け合ったもの言わぬ愛馬をねぎらうあらわれとして、部落内各地(4ヶ所)に馬頭尊碑が祭られていた。これが神社の統合に伴い(戦時中)馬頭観世音として神社境内に統合することになった。 碑も恒久的なものとするため、新造石造りとし、床丹浜居住の宮下斗一(計呂地出身)の協力により、原石は丸山浦より床丹浜へ船で運び、当時の畜産委員篠森勇次郎と、区長の伊藤庄恵が、そこから馬で現在地に運搬したのである。 題字・彫刻は旅稼ぎの石屋職人の手によるものであった。 祭典は8月15日と定め(忠魂祭と同日)、祭事は計呂地法念寺住職により仏式でとり行われている。 また、余興に相撲・柔道・銃剣術・宝探し等盛大に行われていたが、昭和25年頃より参加者が少なくなり、止むを得ず廃止することになった。 |
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(11)牛魂碑 | 開拓以来20余年、厳しい北方農業経営の中で、人々は畑作、水稲経営の困難さを直視し、エア苦悩経営の推進が叫ばれ始めてきた。逐次、乳牛の頭数も増え、酪農地帯としての将来の発展、展望の中で「乳牛に感謝」という声が部落のあちこちでささやかれ、牛魂碑建立の声が部落のあちこちでささやかれ、牛魂碑の機が熟してきた。(43年5月) 当時の酪農組合長渡辺芳良し(功の父)・副組合長篠森勇次郎等が中心となり、清水町長・越智農協組合長・森永工場・遠軽地区酪農組合協議会・吉川産業から特別寄付をあおぎ、中湧別の横幕石材店に石碑を注文し、基礎工事は酪農組合員の共同事業によって現在地に建立した。 祭事は8月15日計呂地法念寺住職によりとり行われている。しかし、忠魂碑・馬頭観世音菩薩の祭事も同日に取り行われるので、牛魂碑を神社境内に移転し、合同で祭典を行っては、との意見もあったが、現在地は、計呂地集乳所跡地にあたり(6号線、7号線の中間道路東側)酪農発祥の地として意義深い場所にあるので、移転は見送りとなり現在に至っている。 |
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第3節 墓 地 | 根 本 慶 蔵・如 沢 元 治 談 行政の上では、明治17年に太政官布達、その第25号で「墓地及び埋葬取締規定」が制定され、開拓計画が樹立された際は、各地区に天理教予定地が定められ、これを除外して入植を許可していた。 当部落においては、大正の初期頃までは部落墓地としての場所も定められず、農用地以外の山の裾野に土葬されていた形跡が数か所に見受けられる。 昭和26年人口の増加に伴ない(戸数243戸)利用件数も多いことから、町に要請し火葬炉が設置され、野天焼の悩みは解消した。 昭和50年代に人ると離農等により過疎化が一段と進み、部落戸数は「125戸」に滅少した。これに伴ない使用数も少なく、加えて炉の損傷もひどくなり修理も困難な状態になったので、52年度に、町営火葬場に統合し、この跡地に参拝者の休憩所を設置した。 この頃、町より墓地利用地の整備及び、区画割を行い、墓地として正式に認定を受けるよう通達があったが、現状は、すでに数多く石碑も建立され、移転は困難であるため、総会の決議を経てこの旨町に要請した。 この結果、移転は行わなくても良いが、墓地整理のため、2米以上の立木を取り除くこと、墓地内の車道・参道を完備すること、雑草の撲滅を行うこと、また、新たに石碑を建立する場合は新区画に合わせること等になった。 部落では8月に清掃日を設けて、各自清掃に努めるかたわら、青年団による清掃奉仕などと相まって墓地の整備・美化につとめている。 墓地は、物故者となった先祖や、親しい人々と家族・知己の対面の場であり、また、家族の安らぎの地として、親しみのもてる明るい霊園になるよう管理に心がけている。 開拓当時最も早く利用されていた場所は、2号線と3号線の間の西1線通りで、ここは志撫子の住民も利用していた。 その後、大正5年以降は、11号線より奥地から17号線までの間こ入植者が増加したので、部落の中火に公共用地として区画された現在地に埋葬されるようになった。 現在地になってからはほとんどが火葬で、土葬は数少なくなった、しかし、火葬も野天焼のため薪を多く使用するので、日中をさけ夕方涼しくなってから行っていた。そのために骨上げは翌日になった。また、天気の悪い日や、冬期間の葬儀はいろいろ苦労があった。 |
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4号墓地について | 藤永正男・渡辺テル子 談 前地近郊にもぼつぼつ人権者が移り、個人所有地との境界が明確になり、当墓地が社有地内ということもあり現墓地が使用されていた。 志撫子地区の人達も志撫子の方に改葬されていた。幸い計呂地4号線・東計呂池川向3号より山裾に、国有地(民地の除外地で)が公共用地として区画が分割されていた土地があるところから、誰となく地区住民はこの土地を墓地として使用するようになっていた。 大正3年頃には、すでに渡辺由出太郎・張本慶蔵などもこの地を墓地として利用していた。 ほかにも数人の無縁者も葬られていた。昼なお暗い蜜林の中へ火葬や土葬と思い思いに埋葬された。お墓参りとなると熊や孤におびえながらのお墓参りであった。 丁度この年代より真言宗の布教の時期で宗教を問わず、真言宗大師講の信者により2号線4号線の墓地と無禄仏の供養を春秋の彼岸、またお故に年中行事の一環として、昭和初期まで取り行われてきたが、逐次現墓地に移動埋葬された。 |
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墓地道路の整備 | お盆には先祖の墓参に郷里を訪れる人々が年々増加するようになり、墓地道路は参話者の車で混雑する状態となった。 加えて、車の時代を迎えた今日、・10号線道路は隣接農家の農道としてもトラクターやトラックの往来等利用度が高まり、お盆前後には墓参の車と重なるなどで、道巾が狭い上、沢が深く入口が急傾斜で凹凸が激しく危険な道路のため、改修を町に要請した。 この結果、59年度予算で抜本的な改修工事が実施された。これには隣接地主の中谷庄市・篠森勇次郎・塩見竹一等の協力によって町が土地の買収を行い、路面の拡張、頂上の掘削、谷の盛土等がなされ、続いて60年度にはお盆前に舗装工事の完成をみて、見違えるように立派な道路となった。 尚、開基85周年記念事業の一環として建立した無縁之碑と合わせて、一挙に墓地関係の整備が行われた。 |