計呂地郷土史
第10章 文化団体の活動
第11章 観     光
第12章 冠 婚 葬 祭

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第10章 文化団体の活動

(1) 夜  学  大正末期になると青年の数も増えてきた。当時の青年達は向学心に燃え、如沢元治が中心となって同学志(中央青年7名)とともに夜学を開くことになった。
 彼らは10号線(現在の神社入口付近)に独自で掘立小屋を造り、それを青年集会所とし、教師に喜民病院の立花医師の書生板野氏を迎え夜学を通じて勉学に勤しんだ。
 如沢元治、大野貫一、篠森勇次郎、如沢次郎、洞口信正、山原虎一、大橋銀蔵

(2)計呂地囲碁天狗倶楽部  昭和22年、ともすれば不健全な手なぐさみなどに走りやすい傾向にある農村を目のあたりにした沢西武雄は、健全な娯楽育成と、囲碁を通して人生を語り合うという趣旨で、同好の人々を糾合して20余名をもって発足した。

(3) 柔道場  計呂地市街に製材工場を経営していた石渡要助は、青少年の正しい礼儀と不屈の精神の錬磨、体力の向上をめざして昭和25年7月頃より柔道を指導していたが、昭和28年7月23日講道館6段師範免許皆伝を機に、物資不足の中で私財を投じ丸山道路入口に70坪の柔道場を新築開設した。
 施設道場としては近郷まれな存在であった。教修無料、だれでも希望者が教修を受けることができ、開館と同時に、小、中学生や、青年たちが多数入門した。
(4)フォークダンス同好会  昭和49年6月7日、計呂地保育所の一室を借りて練習を始めたのが第1回目、市街の婦人、計呂地青年団員等37名が最初の会員だった。
 設立から昭和52年3月まで湧別小学校教諭墓橋幸一、53年から計呂地小学校養護教諭窪内裕子が指導にあたったが、54年、会員数11名と次第に減少し現在にいたっている。

(5) 書  道  大正12年より14年までの3年間、冬季の農閑期を利用して書道教室が開設された。
 教師は前野慎蔵(丸山教教道師)で、会場に明治神宮拝殿を使用した。
その後、昭和48年7月に3代目計呂地郵便局長として赴任した村口初男が、美しい文字を勉強したいという同好の人達10人で。49年4月に「計呂地書道同好会」を結成した。練習会場は市街保育所の和室である。

(6) 詩  吟  計呂地詩吟同好会は、昭和42年に湧別町吟声会のすすめで、日本国風流国暁会に入会し会員数10数名で発足した。
 昭和49年には町の文化協会に加入し、毎年行われている湧別町文化祭の発表会には、全員欠かさず参加し好成績をあげてきた。
 昭和53年頃より、転勤その他で会員数も減少し、現在は5名の会員で少数精鋭主義に徹し練習に励んでいる。

(7) 民謡同好会  昭和50年頃から計呂地市街を中心に、民謡を習得したいという気運が高まり、同志を募集したところ20名の同好の志が集まった。名称を「計呂地民謡同好会」とし、町の文化協会にも正式に入会し、昭和51年4月1日に産声をあげた。
 当初20名で発会した会員も、転勤その他で57年現在では10名に減少したが、少数精鋭主義に徹し練習に励んでいる。

(8) 歌留多(百人一首)  大正末期から昭和の初期にかけて、青年団は冬期間の娯楽に百人一首を取り入れた。当時はどこもカルタ熱が盛んで、夜にはランプのあかりで練習をし、他町村との対抗試合なども行われ、男性ばかりでなく女性チームも誕生した。
 その後、戦時体制の下では幾分停滞気味になったが、戦後22年頃より再び盛んになった。青年団・分団対抗(親和会・明和会・信交会)なども行われ、一流、二流、三流と男女入り混じっての大会で学校を会場とし、数多くもたれるようになった。
 その後、冬の室内娯楽として、花札・トランプと並んで、勇壮活発な歌留多も、昭和28年頃から流行しはじめたマージャンにその人気を奪われ、衰退の一途をたどることとなった。
 しかし、55年1月から町内子供会の歌留多大会が開催されるようになると、小・中学生で結成されている計呂地市街子供会「わかさぎ子供会」も出場することになり、同好会はその練習・指導に力を入れて応援することになった。
 その結果子ども達は目に見えて上達し、町内の大会にも好成績を収め、もろもろのことが子ども達の自身につながり、以来毎年大会に喜んで参加するようになった。

(9) 計呂地盆踊り同好会  いつの頃からか年中行事の盆踊りは青年団によって行われてきた。田舎のお盆は催しものもなく唯一の楽しみは盆踊りであった。老若男女が二重三重の輪を作り、午後7時頃から12時まで。14日。15日、16日と3晩も踊った。
 若者は他部落まで友達をさそって行き、賞をさらって来たともきいている。その盆踊りも過疎化の波で若者が仕事を求め、都会への転出が止まらず、青年団も減少し団の運営もおぼつかなくなり、盆踊りも中止せざるをえず、昭和28年頃からは太鼓の音もしなくなった。
 昭和33年、あちこちから聞こえて来る太鼓の音に踊りの虫が眼をさまし、盆踊りが無ければお盆ではないと、虫の音のごとく声が高まり、もともとものずきでおだちがちな、林勝弥、斉藤武司、橋本忠等が中心となり盆踊り同好会を作り会員は20名位であった。

(10)家園同好会  北国に住む私達は、雪解けとともに芽生え出る緑、咲き乱れる初夏の花、めまぐるしく移り変わるさまざまな植物に囲まれ、やがて訪れる銀世界の中で、鉢植えの草花を窓辺で咲かせ安らぎを求めるのである。
 私達はこの美しい自然を身近に楽しもうと、花や木を育てる仲間が年ごとに増えてきた。
ところが、いざとなると頼る園芸関係の図書類は殆どが本州中心で参考にならないので、この地方に合った庭造り・花造りは、お互いの体験を通して研究し合い高め会おうと同好の志が話し合い、昭和50年2月芭露方面を拠点として、40余名のグループで湧別町家園同好会が発足した。
 お互いに栽培管理を研究し、趣味を通して心豊かな生活を楽しむのが本来の目的である。
 計呂地地区内の同志も誘い合い入会した。組織としては、計呂地支部と称し、常に本部と連携を密にして支部活動を重点的に行っている。

(11) 手芸同好会
     (手作盆栽)
     アートフラワー
 昭和52年、親愛婦人学級でアートフラワーの勉強に取り組むことになり、講師に熊谷澄子先生(志撫子小学校教諭夫人)を招き、当時は月2回の例会で学習をはじめた。
 まず手始めに小さなものから作りだし、少しずつ大きいものへと手がけていくことにして、草木の葉・花・実などを一つ一つ白い布を縫って染料で染め、コテをかけ形を作り、花組みするといった行程である。
 会員は、作品の完成まで精魂込めて創作することの喜びをお互い分かち合い楽しく勉強を続けた。
 毎年町の文化祭の展示会には欠かさず出品し、54年には町勢要覧に掲載されたり、郷土資料館の映画にも映写されたりして、私達の作品が広く紹介されるようになった。
 アートフラワーの魅力に取り憑かれ、お互いに趣味として、生きがいとして長く続けたいということから、59年4月に、計呂地手芸同好会として発足し、町の文化協会にも加入し、会員が自由に入会出来る組織にした。

(12) カラオケ同好会  数年前レコード会社が試作したと言われるカラオケが、今や全国至るところのバー・スナック・旅館・食堂に常設され、更に各家庭へと普及してきた。これの伴って、各地域に「カラオケ同好会」が結成され、今では日本列島津々浦々までカラオケブームを呼んでいることは驚きである。
 当地においてもカラオケ愛好者は増える一方で、数年前から、お盆やお祭りの余興にカラオケを中心にした楽しみの夕べが催されてきた。
 カラオケは聞いて楽しむばかりでなく、歌って楽しむという相互の親睦があり、また声を出すということは、ストレス解消にもつながり、健康上からも認識が一段と深まり、愛好者の中から計呂地でも是非同好会の結成をという気運が盛りあがってきた。
 これを受けて、当区の三役が世話人となり、60年12月5日に準備委員会を発足し、会則並びに役員の推薦を行った。
 この結果、12月21日に同好会の発足をみた。

(13) ゲートボール同好会  イ、ゲートボール同好会結成
 志撫子59年町役場の奨励により、老人倶楽部でゲートボールを取り入れることになった。ゲートボールはゲームそのものの楽しさばかりでなく、個人の健康管理にも適しているので、当地区でも進んで練習に励むものが多く、各種大会に積極的に参加することも手伝って急速な盛り上がりを見せた。
 60年2月には公式ゲートボール競技規則が制定をみ、全国大会がテレビで放映されたり、日本ゲートボール連合会長名で参考書が発刊されるなど、全国的にゲートボール旋風が巻き起こり、至る所で練習風景が見られるようになった。
 61年1月10日に、老人会の役員と、若い世代の代表が加わり発起人会を結成し、協議を重ね「ゲートボール同好会」を発足させた。

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第11章 観   光

円山自然休養林  志撫子25年、朝鮮動乱を契機として、経済の急速な発展によって国民所得の増加、大衆観光、行楽の傾向が生活面で著しく表面化した。
 この気運に乗じてか、サロマ湖一帯も25年8月、道立公園に指定された。各地で観光事業が時代的な脚光を浴びて開拓される気運の中にあって、26年、町内の湖畔景勝地として、竜宮台、原生花園、さぎ沼、千鳥ヶ浜、珊瑚岬、月見ヶ浜、桜ヶ岡、円山の8ヶ所を選び、遊覧拠点としてサロマ湖を結ぶ観光事業の実施計画をたて、翌27年、簡易キャンプ、貸ボートの施設をもうけ観光客誘致につとめたところ、約1万人からの人が訪れるようになり、30年、ボートの増設など一応の基礎工作が施され年毎に観光客が増加、網走国定公園サロマ湖として脚光を浴び、更に、48年、自然休養林に指定された。
 円山は、サロマ湖に突き出ている岬で、どこから見ても、円型をしているので「円山」と称されている。
 計呂地市街から徒歩で30分、湖と原始林の調和した自然美が満喫でき、また、放牛のいこうのどかな牧場風景、更には、晩秋の湖畔に燃えさかるアッケシ草の群生、満潮時には姿を消し、干潮につれてその姿をあらわす美しさ、10センチほどの草丈だが、紅葉するとサンゴのように見えるところから、サンゴ草と呼ばれて天然記念物に指定されている。
 「水の辛い湖」として知られているサロマ湖は、波静かにして、海水浴、キャンプ地として最適であり、また、ホタテ貝、シマエビの生産地として全国的に有名である。

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第12章 冠婚葬祭の移り変わり

(1) 婚  礼  入植者の増加に伴い、大正年代に入ると婚礼がぼつぼつ見られるようになった。
 「古老談によると」当時の結婚は、親の意志によって成立し、本人通しの話し合いも交際期間もなく、もちろん見合いも形式的で、多くは親の考えに従って結婚し、恋愛結婚は珍しかったという。
 婚礼の礼服は、新郎は羽織・袴・新婦は留袖を着用した。
祝賀会は招待制で自宅で催され、祝杯と共に媒酌人の祝歌「高砂」が始まり、俄芝居の演出など、素人の芸が盛んにとび出し、延々と翌朝まで続くことも珍しくなかった。
 また、遠近の人々が大勢見物に集まる風習があり、樽入れが盛んに行われた。
「樽入れとは、見物人達が些少の祝儀を樽の中に入れ、入口から御祝の席に転がし入れると、主人がその樽の中に酒を入れ、肴を添えて見物人にお返しをする」
 見物人は外庭に集まって祝の酒を呑んで大騒ぎをする。お返しの酒が少ないと、若い者達は弥次馬になり、家の外壁を叩いたり、作物を荒らしたりする悪い習慣があった。
 昭和16年、太平洋戦争に突入し、服装も統一され、新郎はカーキ色の国民服(詰襟)・新婦は着物にもんぺ姿と変わり、結婚式もお酒は割当配給制度となり質素な祝賀会となった。
 戦後は、25年頃から婚礼は再び華やかになり、新郎はモーニング・新婦は留袖の復活に伴い、花嫁のお色直しが華美に行われ、娘を持つ親たちは嫁入り支度に頭を痛めた。
 30年農協婦人部が結成され、その活動の中で社交儀礼の簡素化を図る目的で、婚礼衣装を購入し貸出が行われ利用者も増加した。
 37年頃より生活改善が叫ばれ、祝賀会は発起人の呼びかけにより、両家は宴会の総てを発起人に一任し、会費制で、また、会場も公共施設を使用して行われるようになったが、一般の人にはなじめず改革には年月を要した。
 その後、41年に会費制で保育所を会場として、また、同年会費制により学校体育館で行われ、会費制も定着し、個人の家で招待制で行う風習は見られなくなった。
 最近の婚礼は目を見張るばかりで、都会並みの豪華さになり、披露宴は少女歌劇を見ているような感じを与え、新婦のお色直しは3,4回が通例で、新郎もお色直しを行い、色とりどりの照明の中、カップルが登場するといった演出がなされ、ついにはゴンドラに乗って煙の中を中天からあらわれるといった夢もどきの光景も見受けられるようになってきた。
 このように、今日の結婚式は「産業」に組み込まれて行われるようになってきた。これに対して、生活改善を目指す団体や各町内の推進委員は、結婚祝賀会の簡素化を提唱しているが、改善の方向にはなかなか進まず今一歩の感がある。
 幸い当地区においては湧別町新生活改善運動実践要綱に基づき会場も公民館を利用、無理と無駄を追放し、さわやかで心のこもった結婚式と披露宴ができるように、区長をはじめ役員が推進を図りながら住み良い郷土づくりを進めて今日に至っている。

(2) 葬  儀  人生の最後を飾る聖なる儀式として、結婚行事と同じく悲しみの中にも厳粛に行われることは今も昔も変わりないことであるが、昔は電話もなく、死亡者が出ると部落の組の人が集まり、2人が一組となり離れている親族や知人に電報を打ったり、役場の手続き・葬儀の準備等に駆け回り・買い物・棺桶・造花等も組内の手作りであったり、その上、土葬の場合は穴掘り、火葬の場合は薪の運搬等、仕事が多い割に人手が不足勝ちであった。
 そのため器用な人は葬が出る度に、花造りや棺桶飾りの切紙作業に頼まれて、棺桶を飾る天蓋や棺台造りに徹夜の仕事に追われた。
 葬儀当日は身近な人々を集め組内のものが、自宅から墓地までの道程を交代で棺をかついで運んだ。大正末期、道路が良くなるにつれて、馬車や馬橇が使用されるようになった。
 昭和10年頃より棺を載せる飾台と天蓋はお寺(法念寺)で保管し、葬儀の時棺飾りの化粧直しをして利用され、新たに造る手間と経費が省かれるようになった。
 また大正時代はほとんど土葬であったが、昭和になって火葬が多くなり、夜を徹して「野焼」する原始的な方法で大量の薪を消費した。この野焼きは涼しくなる夕方から行うため。骨上げは翌日になった。
 昭和25年に火葬炉が設置され、寒い時や雨天時などの苦労が少なくなった。
 その後、時代も移り変わり、39年には重油バーナー式の焼却炉(町営火葬場)が東地区に設置。計呂地の施設は52年に撤去され町1ヶ所となった。
 一方、民間の葬儀社が開業され、祭壇や霊柩車が一般に利用されるようになった。
 49年に市街地に地区公民館が新築されてからは、葬儀の会場は総て公民館で行われるようになり、ここから町営火葬場に霊柩車や、見送りの人の乗用車が直行、2時間程度で火葬場から戻りその日の内に取越法要が営まれるようになった。
 また、葬儀も物資の豊富な時代の影響を受け、祭壇も50万円以上の豪華なものが出回るようになり、生花・供物も数多く飾られ際限なく派手になってきた。
 管内の市町村や町内でも無理と無駄を追放し、自粛した葬儀が行われるよう生活改善実践要綱も定めて住民各位に協力を呼びかけている。

(3)湧別町新生活運動実践要綱   健康づくりは、家庭から地域から
 ※ 栄養・運動・休養は健康を支える基本、日常生活の中でバランスよく考えましょう
 項 目   内                容
婚  礼  ・結婚式   式は厳粛を旨とし、式服等の新調は避け「お色直し」は虚栄に
         ならないこと
 ・祝賀会   会費は3,000円以内とし両家の負担はさせない
         引き出物は一切廃止すること
         参加者の範囲   
          媒酌人、両親、親戚、近所、友人のうちごく親しい人に限定
          250名以内  ただし発起人は別20名以内
          時間は2時間以内とする
葬  儀  ・香  典  故人や遺家族とのつきあいの程度によりその金額は虚栄にならない
         香典返しは廃止すること
 ・通  夜  参列者に対する茶・菓子の接待は廃止すること
 ・忌中引   忌中引は簡素に、親戚、身近な知古のみとし、
         香料及び引き出物は廃止すること
 ・祭  壇  町指定の祭壇を利用すること
         上 250,000円
         中 200,000円
         下 150,000円
 ・花輪・生花  自粛すること
一  般
外  交
 ・出産祝   金額は虚栄にならないこと
         お返しは廃止、なまえは「はがき」をもって披露すること
 ・病気見舞  金額は虚栄にならないこと
         全快祝は「はがき」をもって返礼すること
 ・入学・進学 金額は虚栄にならないこと。お返しは廃止
  就職祝   「はがき」をもって返礼すること
 ・餞  別   修学、研修、参拝旅行等の餞別は廃止すること
 ・時間励行  定時開会、閉会を励行すること
 ・成人式   成人式の服装は虚栄にならないこと
 ・その他   新改築、新造祝の披露は自粛し、返礼は廃止すること
その他  ・ゴミゼロ運動を推進しよう
 ・使用済み乾電池の収集を推進しよう

★以上のことがらは、町民多数の意志によって定められたものです。
 「くらし」をより豊かにするため「無理・無駄」を追放し、住みよい町づくりをすすめましょう
  湧別町新生活運動推進協議会
  湧別町社会福祉協議会
  湧別町衛生組合連合会

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