計呂地郷土史
第13章 教  育

昭和の小漁師top目 次第1章第2章第3章第4章!第5章第6章第7章第8章第9章第10!11!12章


第1節学校の沿革 第2節小鳥の村 第3節PTA 第4節青年団活動 第5節婦人会活動 第6節その他 第7節回 想

第1節 学校の沿革  校  歌
 一、  サロマ湖の潮にきたえて
     はだつよく 心は直ぐに
  (男)ぼく達の ひとみは光る
  (女)私らの ほおはかがやく
     おお計呂地
         たのしきまなびや
 二、  計露岳のいただき立ち
     見はるかす 広き国原
  (女)わたしらの 希望は大地
  (男)ぼくたちの 夢はオホーツク
     おお計呂地
         したしきまなびや
 三、  いつかまたここにつどいて
     語る日の ことを思えば
  (男)ぼくたちの 心はおどる
  (女)わたしらの 胸はふくらむ
     おお計呂地
         なつかしきまなびや
    
1,沿革の概要  創 立 事 情
 明治40年7月1日、学校の必要を認め、兼重浦次郎村長は、部落有志の藤永栄槌・渡辺由太郎氏等と協議の上、道庁長官の許可を得て、渡辺由太郎氏所有の未開地を借り受け、草葺の校舎を建築し(坪数9坪半)これを仮校舎と定めて、教員後藤徳三郎氏の赴任をまって、同年9月11日開校す。
 児童数 男子12名 女子7名。 管理者湧別村長兼重浦次郎。 部落学事奨励員村井熊吉であった。
  校名 紋別郡公立計呂地簡易教育所

明治40・9・11 紋別郡公立計呂地簡易教育所として発足
明治41・4・1 紋別郡公立計呂地教育所と改称
 〃   5・15 職員室新築・柾葺5坪
明治43・3・25 教員不足のため芭露小学校校長桑原清太郎氏・同校教員越智頼義
出張第3回証書授与式挙行
明治43 11月21日より同年12月24日まで、芭露小学校教員越智頼義出張授業をおこなう
大正2・11・18 柾葺新築(単級)児童数 36名
大正4・3・10 教育勅語拝受式挙行
大正6・4・1 紋別郡公立計呂地尋常小学校に昇格 児童数 95名
大正8・5・30 教室職員室増築(2学級) 児童数120名
 〃 10・30 教育勅語渙発30年記念式を挙行
大正9・7・10 校舎増築落成式 長屋区長挙行す
大正10・9・25 第1回運動会挙行
大正12・11・10 教室その他34坪5合 総工費1,450円 工事請負人 須佐幸一
大正13・6・7 第2回運動会
 〃  11・10 精神作興証書奉読式挙行
大正14・4 メートル法を採用
昭和4・4 校舎新築起工 総工費1万円
 〃  5・7 高等科併置・紋別郡公立計呂地尋常高等小学校在籍数 161名(高等科含む)
昭和7・12・21 教育者に賜りたる勅語拝受  在籍数152名
昭和8・6・15 校下諸団体連合運動会 在籍数202名
昭和9・6・10 学事視察・網走支庁視学橋口謙敏氏
 〃 11・4 学芸会(参加校付近8校・父兄200名)
昭和9・12・3 御真影奉安殿落成式 来賓15名 部落総出未曾有の盛会・在籍数219名
昭和9・1・10 女子補習教育授業開始入所生33名
 〃  2・23 校内スキー大会・向陽ヶ丘にて
昭和10・5・25 本日より10日間校庭拡張工事開始す
 〃   9・17 第3方面並びに校内教育研究会開催
 〃  10・24 天皇・皇后両陛下御真影拝受
昭和11・5・6 校地内本年度植樹350本トド苗植栽終了
 〃   6・28 全湧別陸上競技大会に参加 尋常科総合優勝・高等科比率優勝
昭和12・7・16 日支事変につき武運長久祈願祭
 〃   8・2 児童臨時招集出征兵士見送りに計呂地役に赴く
 〃   8・14 校舎裏下水工事に部落父兄出役す
 〃   9・8 支庁視学岸田利雄氏来校視察
 〃  11・3 同窓会発会式初代校長大沢重太郎氏なる 在籍数 235名
昭和13・4・29 同窓会総会
 〃   6・3 校下連合運動会 在籍数 253名
昭和14・4・1 学級数増加・教員5名になる
 〃   7・2 村内学童体育大会 於芭露校
 〃   7・22 全北見学童体育大会 木村尋女に優勝
 〃  10・29 青少年学徒に賜りたる勅語拝受
 〃  10・31 一学級増築 総工費3,115円 工事請負人 高杉喜四郎
昭和16・4・1 2月に国民学校令が公布され、下湧別村立計呂地国民学校と改称す
 この頃から多子家庭の表彰が始まり、食糧増産に学徒が動員されるようになり、教育は皇国民錬成のための集団訓練を重視し、小学校にも武道が正課と課された。
昭和17 南部視学正網走支庁在勤として就任する
中学校の修業年限を4年、大学予課を2年に短縮を閣議決定
昭和18 学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定
昭和19  この年B29の東京空襲があり、防空演習や避難訓練、援農作業出動に明け暮れし、勤労の激しさに反し食糧や生活物資は欠乏するばかり「欲しがりません。勝つまでは。」を合い言葉に、児童も耐乏生活に終始し、満足な服装も整わず、空腹を忍びながら敢斗した。
昭和20 終戦勅語下る。
昭和21・1・3 両陛下御真影奉還・詔書も同時に処理
奉安殿命により解体す
 終戦後はアメリカ軍占領下の行政となり、学校教育変革の指令があり、教科書の中で戦争にかかわる文章、さし絵を墨汁で抹消するということになった。
 教育使節団は、教育勅語拝読禁止、修身、日本歴史、地理の授業停止、紳道の特権廃止、奉安殿の撤去、退役軍人の教職従事停止、号令のない体操等々教育の改革が急速に進められた。
昭和22・4・1 下湧別村立計呂地国民学校を計呂地小学校と改称する
 〃   5 紋別郡下湧別村立計呂地中学校新設され、小学校に併置となる 
生徒数67名 一学級編成
昭和23・4・1

 〃
小学校児童数161名 5学級編成
中学校生徒数88名 2学級編成
初代PTA会長に渡辺義一氏就任
昭和24 中学校2教室新築56坪
中学校3学級編成106名在籍
小学校5学級編成228名
昭和25・7・20
 〃   9・23

 〃  11・7
道博旅行
中学校校舎建築着工 一教室増築53坪
職員室増築
中学校校舎落成式
昭和26・7・24
 〃   9・14
 〃  12・16

全校海水浴実施
屋内体育館基礎工事開始
屋内体育館落成式
中学校3学級110名
小学校6学級223名
昭和27・5
 〃   7・12
 〃   8
 〃   9・28
 〃   9
 〃  11・3
農繁休業(1週間)
村内研究会(志撫子)
野球バックネット建設
村内小中学校陸上競技大会
生徒会設立総会
校内弁論大会
昭和28・4・23
 〃  10・1
生徒会役員選挙
湧別町立計呂地小学校と改称(町制施行)
湧別町立計呂地中学校
昭和29・5
 〃   7・16
 〃  10・4
 〃  11・10
農繁休業(5日間)
新校舎敷地火入れ
新校舎建築基礎工事開始
上棟式
昭和30・6・16
 〃   6・30

 〃  10・18
 〃   2・18
旧校舎解体作業開始
新校舎新築落成式 総工費2,914,980円・総坪数400・41坪
 請負人 工藤石五郎
ピアノ披露演奏会
スキー大会
昭和31・6
 〃  10・1
農繁休業
弁論大会
昭和32・2・20
 〃   9・6
 〃  10・1
 〃  10・3
学校給食開始
学校植林地下草刈り
町内相撲大会
町内連合PTA研修会(本校)
昭和33・5
 〃   7・8
 〃   7・23
 〃   8・21
 〃  11・6
学校植林実施(3日〜8日)
流感の臨休5日間
海水浴(円山海岸)
中3修学旅行
網走教育局長学校訪問
昭和34・3・9
 〃   5・7
 〃   5
 〃   7・12
 〃   7・23
 〃   7・28
 〃   8・22
 〃   9
 〃  10・21
 〃  12・5
町内職業科研究会(本校)
学校植林実施
農繁休業実施(6日間)
農業実習地開拓部落出役
学校植林地下草刈実施
実習地大根播種
中2・3年修学旅行出発(十和田国立公園)
校庭拡張ブルドーザー整地作業
校内マラソン大会
防火避難訓練実施
昭和35・3・3
 〃   5・2
 〃   5
 〃   7・20
 〃   7・22
 〃  12・3
入学児童並びに卒業生の歓送迎会
学校植林地整地作業
学校植林実施
全校海水浴
学校植林地下草刈り実施
校長住宅落成式
※農繁休業実施5月・9月
昭和36・4・4
 〃   4・27
 〃   4
 〃   4・28
 〃   5・12
 〃   5・16
 〃   6・8
 〃   7・19
 〃   7・24
 〃   8・1
 〃   9・16
 〃  10・17
 〃  10・26
テレビアンテナ取付
グランド暗渠土管工事完了(部落出役)
PTA会長大野貫一氏就任
小鳥村開村式(放送局・教育委員多数来校)
HBC野鳥保護実践校として取材に来校
知事賞伝達式
自転車小屋新築 部落出役
学校園作業及び学校植林地下草刈(部落出役)
6年生修学旅行(網走市)
NHK野鳥録音に来校
台風18号の被害自転車小屋破損
小鳥の村閉村式
文部省全国一斉学力テスト実施
昭和37・5・3
 〃   5・11
 〃   7・17
 〃   8・22
小鳥の村開村式 来賓・部落民多数来校
農林大臣賞受賞式
6年阿寒一周修学旅行出発・父兄同伴許可
中3修学旅行出発(十和田方面)
昭和38・2・19
 〃   5・2
 〃   6・12
 〃   6・26
 〃   8・24
 〃  11・16
中学生全員血液型検査実施
小鳥の村開村式
6年生修学旅行(阿寒日帰り)
全国一斉学力調査実施
中3修学旅行4泊5日、札幌方面
小鳥の村閉村式
昭和39・4・1


 〃   5・1
 〃   6・23
 〃   6・25
 〃   8・24
 〃   9・11
 〃  12・4
中学校統合のため4月1日より町立湖陵中学校計呂地分室の名称をもって1ヶ年に限り存置することになる。存置理由「新設された湖陵中学校教育力不足と生徒通学の交通機関未整備のため」
小鳥の村開村式
全国一斉学力調査実施
小学校6年修学旅行(阿寒方面)
中3修学旅行4泊5日
開校記念式挙行・マラソン大会実施
冷害凶作のため特に全児童生徒の医師健康診断を実施する
昭和40・3・18


 〃   4・28
 〃   6・16
 〃   6・25
 〃   6・30
 〃   7・20
 〃   9・7
 〃  10・16
小学校卒業式並に中学校廃校式挙行する
 在籍中学校3学級 98名
    小学校165名
小鳥の村開村式
全国一斉学力調査
5・6年生合同修学旅行(阿寒方面2泊3日)
学校井戸水道工事完了
NHK愛鳥保護状況録画に来校
校下3分の1の地域鳥獣特別保護区域に指定さる(道)野鳥保護林指定となる。
校旗贈呈式並に入魂式(只野和芳氏寄贈)
祝賀式挙行
昭和41・5・6
 〃   5・19
 〃   9・23
 〃   9・30
 〃  10・25
小鳥の村開村式
鼓笛隊児童交通安全パレード参加
開校60周年記念式挙行
教員住宅1棟1戸建設(木造モルタル)
石炭小屋工事完了・自転車小屋改築工事完了
グランド並に遊戯よう施設工事完了
排水溝(校舎西側・南側)工事延長299米完成
昭和42・2・25
 〃   2・20
 〃   5・19
 〃   5・30
 〃   6・27
 〃   9・8
 〃   9・15

 〃  11・18
 〃  12・7
屋体南側廊下内壁工事完了
校歌吹込旭川師団音楽隊より完成して送付さる
小鳥の村開村式
鼓笛隊交通安全パレードに参加
5・6年修学旅行(旭川市・バス)
鼓笛隊服装(ベレー帽・ネクタイ・ズボン・手袋)60人分完備さる。部落寄付
湧別町開基85年・開町70年の祝典に本校鼓笛隊が(4年以上65名)パレードに参加
教員共同浴場改築す
5・6園児童血液検査実施
S43・1・5 校内書初大会
小鳥の村開村式
町内連合PTA研究大会を本校にて開催
排水溝(校舎北側音楽室裏横)工事完了
  延長129米
昭和44・1・6
 〃   2・5
 〃   2・27

 〃   7・22
 〃   7・22
 〃   8・30
 〃  10・11
 〃  11・20
 〃  11
校内書初大会
流感羅患者多数につき4日間臨休借置をとる
全道一斉学力テスト実施
  在籍 6学級98名・前野盛隆氏PTA会長に就任
三里浜にて海水浴実施
5・6年生修学旅行
グランド内に砂場設ける
青空教室開催
新しく電気配線工事完了
流行性耳下腺炎のため3日間臨休借置
昭和45・1・7

 〃   5・1
 〃   7・23
 〃   9・12
 〃  10・10
 〃  10・25
 〃  12・3
全校書初め大会・中川敏雄氏PTA会長就任
在籍76名この年より5学級編成になる
グランド砂敷き
三里浜に海水浴
グランド側溝整備・コンクリート管入替え
敷地に水銀灯設置
学芸会・バザー実施
新水道を引く
昭和46・2・16
 〃   5・4
 〃   6・25
 〃   8・22
 〃   8・27
 〃  11・16
1〜2年生血液検査・西功一氏PTA会長就任
教材用ビニールハウス設置(PTA奉仕)
芭露地区合同修学旅行
へき地学校歯科巡回検診
屋体窓に防護網取り付
電気温水器取付
昭和47・3・5
 〃   6・23
 〃   7・24
 〃   8・15
 〃  10・7
へき地児童眼の検査
芭露地区合同修学旅行
海浜教室(三里浜)
屋体腰壁に化粧ベニア板を張る
写生会(志撫子にて)
昭和48・2・11
 〃   3・14
 〃   5・24
 〃   5・29
 〃   6・2
 〃   8・4
 〃  12・13
 〃  12・25
計呂地市街スケートリンク開き
若里小PTA学校訪問
小鳥巣箱かけ・ストロブ松植樹
グランド整地作業
合同修学旅行
海浜旅行(三里浜)
グランドに2ヶ所リンク用水道取付け
学校・住宅用水道を井戸水使用に切替える
昭和49・1・24
 〃   5・18
 〃   6・28
 〃   8
 〃   9・30
 〃  10・20
 〃  10・27
 〃  11・10
スケートリンクの初滑り
グランド整備
合同修学旅行
湖陵中プールで水泳教室3日間
見学旅行
北側便所解体砂利入れ
スケートリンク造成
南側便所便槽取替
昭和50・2・9
 〃   2・13
 〃   5・18
 〃   6・28
 〃   8
 〃   9・30
 〃  10・27
 〃  11
スケート大会
町内複連校合同学習(スキー)
グランド・校庭整備
合同修学旅行
水泳教室・湖陵中プール(3日間)
見学旅行(網走)
スケートリンク造成
家庭科室水道取付・児童便所新築(東側男女)
昭和51・1・28
 〃   2・9
 〃   2・13

 〃   5・18
 〃   6・24
 〃   7
 〃   9・14
 〃  10・2
町複連合同学習(スケート)
スケート大会
町複連合同学習(スキー)
前野盛隆氏PTA会長に就任
PTA役員奉仕作業
合同修学旅行
水泳教室(3日間)
見学旅行
マラソン大会
同便所解体・埋立
昭和52・2・13
 〃   5
 〃   6
 〃   6・23
 〃  10・8
 〃  12・22
スケート大会
バックネット取りこわし
移動式バックネット設置2基
合同修学旅行
マラソン大会
PTAリンク作業
昭和53・2・11
 〃   5
 〃   6・17
 〃   6・22
 〃   7・18
 〃   9・22
 〃  12・4
校内スケート大会
保健室設置・普通教室間仕切り・図書室・児童開館室設置
参観日 PTAガラス拭き奉仕
合同修学旅行
町複連合同学習(水泳・球技)
見学旅行(網走市)
PTAリンク作業
昭和54・2・4
 〃   5・23
 〃   6・11
 〃   8・24
 〃   8
 〃   9
 〃   9・26
 〃  11・10
 〃  12・7
スケート大会
感冒のため4日間臨休借置
合同修学旅行
町複連集合学習(球技・水泳)
天井・壁塗装(普通教室3保健室1)
屋根裏全面塗装
町内めぐり
PTA奉仕作業(自転車小屋移転・スケートリンク整備)
町複連集合学習(音楽発表会)
昭和55・2・3
 〃   5・20
 〃   5・24
 〃   6・19
 〃   7・22
 〃   8
 〃   9・10
 〃   9・17
 〃   9・22
 〃   9・30
 〃  10・9
校内スケート大会
自転車教室
参観日・PTAガラス拭き奉仕
合同修学旅行
海浜旅行 三里浜 キャンプ円山
天井・壁塗装(音楽・家庭・児童室・図書室)
町内3校合同学習(町内めぐり3・4年)
写生会(湧別港)
見学旅行(北見市)
PTA労力奉仕(スケートリンク整備)
マラソン大会
昭和56・2・1
 〃   5・21
 〃   6・24
 〃   7・14
 〃   9・8
 〃   9・10
 〃   9・13
スケート大会
グランド整地・ガラス拭き(PTA労力奉仕)
器楽演奏会観賞(中央公民館)
写生会(登栄床漁港)
敬老会(児童音楽・遊戯演出)
マラソン大会
見学旅行
昭和57・2・7
 〃   2・11

 〃   5・15
 〃   6・15
 〃   7・21
 〃   8
 〃   9・6
 〃   9・12
 〃   9・22
 〃  10・16
 〃  10・19
校内スケート大会
芭露地区スケート大会参加
在籍37名4学級
自転車教室
巡回小劇場観賞(湧小)
海浜教室(三里浜)
廊下塗装
見学旅行(紋別市)
湧別町開基百年記念・パレードに参加
マラソン大会
PTAスケートリンク整備作業
へき地巡回歯科診療(上芭小)
昭和58・2・6
 〃   2・11

 〃   5・13
 〃   5・28
 〃   7・13
 〃   7・25
 〃   9・17
 〃  11・19
 〃  12・2
校内スケート大会
町民氷上運動会
在籍30名3学級
自転車教室
PTAガラス拭き奉仕作業
写生会(登栄床漁港)
海浜教室・キャンプ
マラソン大会
水痘のため学級閉鎖続く 19〜24日
小鳥の巣箱かけ
昭和59・2・2
 〃   2・5
 〃   3・18
 〃   5・14
 〃   5・26
 〃   6・26
 〃   6・29
 〃   7・7
 〃   7・14
 〃   8・31
 〃   9
校内スケート大会
町内氷上運動会
吹雪のため臨時休業
自転車教室
参観日・PTAガラス拭き奉仕
1・2年町内めぐり(町複連)
3・4年町内めぐり  〃
へき地巡回歯科診療(本校)
水泳教室
見学旅行(北見市)
体育館土台修理・壁板張替
昭和60・2・3



 〃   4・24
 〃   4・27
 〃   5・25
 〃   6・25
 〃   6・28
 〃   7・3
 〃   7・10
 〃   7・22
 〃   7・28
 〃   9・9
 〃   9・20
 〃  10・13
 〃  11・14
 〃  11・27
町内氷上運動会
※この年夏季間の降雨量が極端に少なく、加えて積雪時期が遅れたためにスケートリンク造れず、校内スケート大会中止となる。また学校の水道凍結し、冬の間町の給水を受ける。
水道ストップバルブ取付工事
自転車教室
参観日・PTAガラス拭き奉仕
1・2年生社会見学旅行(町複連)
3・4年生社会見学旅行  〃
校内写生会(志撫子浜)
水泳教室(湧別町営プール)
海浜教室・キャンプ
旭川児童180名キャンプ(老人憩いの家)
全国豊かな海づくり大会・皇太子殿下・同妃殿下御送迎に児童参加
マラソン大会
学芸会
祖父母参観日
巡回小劇場(劇団風の子)来校
昭和61・2・2
 〃   2・15
 〃   3・15
 〃   3・24
町内氷上運動会(湖中)
参観日(郷土学習・渡辺区長講話)
児童会歓送迎会
卒業式・修了式
2,最初の校舎時代
  明治40〜45年

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 明治37年、初めて農業移民の入植をみた計呂地原野(当時志撫子原野を含む)に、ようやく開拓の気運が芽生え、戸数10数戸となった40年3月、父母の要望に応え、村議会で簡易教育所設置が決まり、基線30番地に敷地を選定し、設置許可の位置指定を受けた。
 ところが、該地は個人貸付地と判明したため、新たに8月議会で基線32番地に特別教育所の設置を変更して申請するに及んで、当初の目的どおり簡易教育所の設置が認可された。
 この間に事情を議決取り消しの理由書に次のように記されている。

 計呂地簡易教育所位置指定ノケ処ハ既二他人ノ貸付地トナリタルノミナラズ、校舎ハ、該部落民ノ寄付ヲ以テ建築スル都合ナリシモ、目下、該部落民ノ財政困難于ンテ、到底校舎ノ建築費ヲ負担スル能ハザルニ付、基線三十番地二計呂地簡易教育所ヲ設置スルコトヲ取消シ、更ニ、基線三十二番地ニ計呂地特別教育所ヲ設置スルトナリ、既に、特別教育ノ開始シタルモ、其ノ筋二申請シタル簡易教育所位置指定取消方許
可相成ラザルニ依リ、簡易教育所ヲ置クコトニ復活シ、校舎ハ新築スルコトヲ得ザルニ付、当分、民舎ヲ借用開始セントス

 右記の位置指定をめぐる事務手続きとは別に、基線32番地に部落民の協力で、渡辺由太郎所有の未開地を借り受け19坪余の堀立草葦小屋を建て、これを仮校舎として、明治40年9月11日より、19名の児童を収容して学校教育が開始された。これが計呂地小学校の創立である。
 初代教員の後藤徳三郎は当時の状況を次のように語っている。

  「湧別から赴任したが、ケロチは道路も満足になく離島のようであった。
  兎道のような所を通学する児童は朝露で着物は濡れ、実にみじめであった。ストーブもなく濡れた着物を乾かすこともできなかった。校舎は、丸太造りの草葺小屋で、机もなく丸太をすえた上に板を渡して代用とし、床は草を敷きつめるという全く粗末なものであった。
閑寂な環境は忍び寄る冬を控えて一層身に遣る思いで、若年であったことから、これに耐えられず翌年3月、辞職して家に戻った。」

3,第2の校舎時代
 大正2年〜昭和3年
 尋常小学校昇格
 交通の不便が部落の開拓を遅らせ、大正2年在籍児童36名、翌3年志撫子特別教授所の設置で通学区域が縮少され児童数25名と減少した。
 このような状況は直接・間接を問わず教育にも反映して、みるべき施設の改善も施されなかったようで大正4年12月議会で校舎新築案の理由が次のように述べられている。

 計呂地教育所現在ノ校舎ハ、従来、民有地借受ノ土地二仮設シタル草葦小屋ニシテ、目下、大破ヲ来タシ倒潰ノ恐レアリ、且、其ノ位置ハ北方二偏シ、現在ノ区画移住ノ状態ヨリスレバ、児童通学上不便アルヲ以テ、ケロチ原野八号公共用地ニ校舎ヲ改築スルモノトス

 大正5年、部落寄付金206円を財源の一部とし、工費572円31銭で、33坪の校舎が8号線公共用地内に建築された。
 当時は、ケロチ原野増区画貸付告示(大4年)などがあり、折柄の欧州大戦による農業ブームにも刺激されて、本道移民の激増期という社会情勢であった。
 部落移住者も、戸別割等級別賦課名簿登載戸数によると、大正2年34戸、大正8年121戸にみられるように急激に増加した。
 児童数は大正8年120名となり2学級編成となった。これに先だち、大正6年4月1日、規程改正で尋常小学校となり、同年6月12日、校長南場宇之吉が任命され、開設の翌年からそれまで芭露小学校と兼務であった桑原清太郎校長の解任があった。
 大正4年、床丹特別教授所、9年4月、志撫子特別教授所が、それぞれ、監督上の不便を理由に芭露尋常小学校所属から本校へ所属替されて、計呂地尋常小学校は3部落の中心校となった。
 大正11年、児童数164名に増加し、翌12年11月、教室その他34・5坪だけが増築(総工費1、450円で工事請負人須佐幸一により)され3学級編成となった。

第4の校舎時代
 昭和4年〜29年
(1) 高等科併置
 昭和3年9月、新築160坪、移築27・52坪の改築が行われ翌4月4日に竣工した。(総工費1万円)
 昭和4年5月7日、高等科が併置され、これによって、従来、高等科進学は家庭を離れて就学できる恵まれた者以外不可能であった不便が解消され、尋常科卒業生の50%前後の進学がみられた。
 昭和14年、1教室増築、尋常科児童213名で4学級編成・高等科生徒56名の1学級編成となり、校舎坪数も203・51坪と、戦時下教育施設として青年学校も併置された。
 「欲しがりません、勝つまでは」の戦時教育の方針は、教育経費の節減ともなり、学校経営に最も困難をきわめた時代であった。
 特に本校では徹底した節約経営がなされ、補修はもとより机の補充も行わず、箱を代用する児童もあった程で、施設の荒廃は著しかった。
(2) 御真影奉置所(奉安殿)の建設
 天皇陛下の御真影は教育勅語と共に終戦以前の我が国の学校教育において、大きな役割をなしており、国民教育の根源となっていた。この御真影の下賜は、学校が創設され小学校に昇格して施設設備等が充実し、学校体制が安定し軌道にのった後に拝戴している。
 また、教育に関する勅語謄本は、杉の白木の箱「勅語奉安御箱」の中に桐の御紋のついた黒漆塗りのふた付きの幅10センチメートル、長さ80センチメートルの長い箱に収められ、紫の紐でしばるように出来ている。
 勅語謄本は幅45センチメートル、長さ75センチメートルの巻物で、濃いコバルト色の錦衣で裏打ちしてあり、黒い軸木に紫の紐がつけられている。中の厚手の和紙に金色の太細2本わくの中央上部に金色の菊の御紋章が付けられ、下に11ミリメートル角の毛筆字体で書かれてあり、最後に明治23年10月30日、御名御璽と記されている。
 この御真影や勅語は細心の注意のもと、丁重に取扱われ奉安殿の中に安置され、その安全管理は学校長の最も重要な任務とされていた。従って奉安殿の前を通過する時には児童生徒は言うに及ばず、何者といえども威儀を正し最敬礼をして通るのが常であった。
 計呂地でも1、2年の準備期間を要して奉置所の建設に着手し、
  ・昭和9年9月12日 午後1時 地鎮祭
  ・ 同 年12月3日      落成式
    部落総出動、未曽有の盛会、村長高水勉・門坂技手
    工事請負 田中亀吉(中湧別)等出席
  ・昭和10年10月25日 御真影拝戴
  ・昭和21年1月13時御真影奉還

 昭和22年6月3日文部省は、学校における宮城遙拝・天皇陛下万才・天皇の神格化的表現の停止につき通達を出し学校教育の中から御真影等を参拝することがなくなった。
(3) 中学校設置
 戦後の教育改革は、昭和22年の憲法発効に伴い、同年の教育基本法・学校教育法の公布により従来の教育制度・教育内容が根底から改正された。
 その理念とするところは
 一、教育の機会均等の実現
 二、学制の単純化
 三、普通教育の普及向上と、義務教育年限の延長
の3点で、学校教育体系の整備を図るものであり、これによって、
 一、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年の
   6・3・3・4割。
 二、男女共学。
 三、就学困難な者に対する援助。
 四、高等学校以上における定時制・通信制過程の設置。
 五、特殊教育の振興。
が実現することとなり、小学校6年に加えて中学校三年が義務教育になったことである。
 これによって、国民学校(昭和16年から)が小学校に衣替えし、義務制の中学校が誕生したのである。
 計呂地中学校も、湧別・芭露・上芭露と共に22年6月から計呂地小学校に併設され志撫子を分校として発足した。
 校舎はとりあえず従前の高等科教室を充当し、小学校に間借りという形で生徒数67名を収容し、1学級編成で、教師は校長と授業嘱託一人で開校された。
 24年、義務教育の完全実施に備えて55坪の校舎が新築され2学級編成となった。
 翌25年、1教室及び職員室が増築され、3学級編成となり、生徒数111名、教員数6名となった。
 26年には屋内体育館80坪が付設され、戦後教育が安定した中で充実期にさしかゝってきた。
5,現在の校舎時代
 昭和30年〜60年
 (1)新校舎建築
 昭和27年、豊岡小学校長から本校に赴任した大畠校長は、新教育理念の実現は教育環境の整備にあるとし、荒んだ校舎の改築を提唱して部落民の共鳴を得、これらの実現に努力を傾注した。
 その熱意により、30年、普通教室6・特別教室3・その他を含み400・41坪の校舎が工費1091万4980円をもって完成した。
 当時、壁腰板にブロックを積み、音楽室・家庭科室などの特別教室を備えた校舎は珍しく、各地からの参観音が絶えなかった。
 また、教材教具も充実され、30年6月校舎落成記念として大澤重太郎氏よりピアノの寄贈を受けた。

 渡辺義一談
 学芸会の時、地震があってゆれた。また、風が吹いたら校舎がゆれて大騒ぎ、2寸の傾きを発見、新築へのきっかけをつかんだ。
 当時危険校舎としての建替はみんなが望んでいたし、建築物耐用年数からいうと、まだ年数はあったが、不可抗力の場合はまた別ということで、道庁との接渉を時の村長大口氏と大畠校長、そしてPTA会長だった私がすることになった。
 調査段階に入り、危険校舎としての効果的な体裁づくりのために、校舎につっかい棒をかうなど苦心した。
道議だった大沢重太郎氏の活躍もめざましく拓殖公債300万円の補助申請のうち100万円が認められるなど、政治的な働きかけが大きな効きめをあらわした。
 部落も一丸となって新校舎建築に取り組み、仕上り後のボルトしめ等は部落民の奉仕作業でしたり、工事進捗のチエックもPTA会長自らあたり不備な所を指摘、「すじかい」の取替もさせた。
 こうした苦労もあって昭和30年6月、新校舎の竣工を見、部落民あげて喜びに浸ったものだった。

 (2) 学 校 林
 わが国の経済は朝鮮動乱を契機に大きく発展した。昭和26年にはアメリカとの講話が結ばれ、占領が終わり、内外情勢の大きな変化は、国内の政治や社会に様々な問題をもたらした。
 産業の復興・経済の発展に伴なって、木材の急速な需要が各地で学校材の育成を生む一つのきっかけとなった。
 昭和30年に入り湧別町は教育委員会が主体となって、町内全校同一歩調で学校植林事業を提唱した。
これを受けて、計呂地校においてもPTAと協議し、早速植林事業をおこなうこととなった。

 (3) 校旗・校章
昭和40年4月1日、併置中学校が町立湖陵中学校に統合、単独小学校として運営されるようになった。これを契機に校旗制定を考え、同年4月の部落総会において、校下全住民の浄財拠出により制定したい旨の案を提示したが住民の冷害凶作による経済的困難を理由に延期するとの決定をみた。
 昭和40年6月18日、計呂地国民学校時代の初等科修了生只野和芳氏より母校のため10万円を教材費として寄付したいとの申し出を受けた。
 そこで、校旗制定についての事情を話したところ、快く諒承されたので、清川璋一校長は従来の図案を一部創訂し、寄贈者の格別な尽力により、40年10月16日、贈呈式並びに、人魂式を挙行、こゝに、戦後20年を経て校旗が制定された。
  校章の説明
 一、布地の赤は熱血と純血をあらわす。
 一、外廊の参葉はKの開拓時代主産物であったハッカの葉の図案化である。
 一、中廊のハつの桜の花弁は校旗制定当時、校下は8区域の小部落に分か
    れていたのでそれをあらわす。
 一、中心緑の円形は緑は農村を、円は平和の意にて、その中に本校が堅実に
    発展することを祈念して重厚な字体としたものである。
 一、全体として華麗な色彩としたのは本校が小学校のためにとったものである

 (4) 中学校の統合
 農村の過疎化が急激に進みはじめ、生徒数の減少傾向がみられるようになり、町並びに町教育委員会は義務教育のより充実を期し、町内小・中学校の統合を画し、昭和38年11月から校下住民に対し統合による新しい中学校の設置を呼びかけ、町教委と地域との話し合いが数多くもたれ、住民も幾つかの条件を出してこれに協力することになった。
 昭和40年4月1日よりスクール専用バスで、前年に新設された町立湖陵中学校に全生徒を通学させるようになった。
 40年3月18日、町立計呂地中学校閉校式が、町理事者学校職員、生徒並びに校下住民参列のもとに行なわれ、創立以来、満18年の年月を経、500余名の卒業生を社会に送り出した計呂地中学校も過去のものとなった。

第2節 小鳥の村  当校は小鳥の住む格好の位置に存し、校舎周辺は適当な林に囲まれ、時期がくるとこむく鳥(桜鳥)やうぐいす、せきれいなどが飛来し営巣活動が活発に行われ、児童・生徒もこのような自然環境の中で伸びくと学習に励んでいた。
 たまたま、野鳥の生態に興味を抱き、鳥類学に造詣の深い佐藤丑之助校長が32年に赴任してきた。
 佐藤校長は積極的に野鳥保護の対策に乗り出すと共に、情操教育の一環としてこれを教育に取り入れようと、当時の教師と共に児童・生徒に巣箱づくり、保護観察を奨励した。
 これが徐々に実を結び、数年後には児童・生徒の手で巣箱の大きさ、色彩・形等を工夫し、どのような巣箱に鳥が多く集まるか、また、卵の孵化回数・ひなの成育状態の観察記録等地味ではあるが、細密な継続観察が行われるようになった。
 さらに、当時の教師の手で「愛鳥の里計呂地」の歌が作詩作曲され、小鳥の村開村式や朝会時等折あるごとに全校生徒が斉鳴し野鳥観察のムードを一層盛立てていった。
 この結果、文字通り「小鳥の学校」として名をはせ、毎年NHKやその他の報道関係者等が取材に来校し、当時、本道の三大人野鳥保護学校(札幌市立藤の沢小学校・旭川市立台場小学校・湧別町立計呂地小学校)のーつとして全道、全国に広く紹介されるまでになった。

 この実績が高く評価され、昭和36年には北海道知事賞翌37年には農林大臣賞・日本野鳥保護連盟会長賞等、数々の栄誉に輝やいたのである。
 また、個人では村上恭彦が文部大臣奨励賞、他数名は文部大臣努力賞を受けたのであ

 その後、昭和四十年に中学校が湖陵中学校に統合され野鳥の保護観察活動は小学生の手に移り、現在もなお引継がれている。

2,「小鳥の村」の初代村長               (故)渡辺義 一
 昭和32年に大畠校長の後任として佐藤丑之助校長11代目)が就任致しました。教育長のお話では佐藤校長は、自然学習に、特に特別活動として小鳥の村づくりに定評のある先生と紹介されました。
 お話のごとく、32年に準備を進め、33年には小鳥の村の開村式を行いたいとの話があり、特に私に、PTA会長として協力していただきたい、初代村長を動めてもらいたいとの申入れがありました。
 村長の役割は、小鳥の村の開村式に、村長式辞として生徒が野鳥観察に興味を抱き励みになるようなお話をお願いしたい。また、当日は報道関係者も取材に来校する予定なので是非協力が賜わりたいとのことで私も狼狽致しました。
 長い人生を山で暮らしはしても小鳥に関する知識に乏しく、まして野鳥とのふれあいは、農作物をついばむすずめ、はとからすなどを農場から追い払うくらいで、平素無間心な私には大変重荷とは感じながらも佐藤校長の熱意にお応えすることになりました。
 当時の学校は生徒数も多く、記録によりますと中学生109人・中学校の先生5名・小学生216名・先生7名で、校長先生を中心に12名の先生方が積極的に子供達の指導にあたっておられました。
 36年には「愛鳥の歌」が、作詩佐藤幸正・作曲者茂節男先生の手でなり、315名の全校生が声高らかに斉唱し、小鳥の村の児童・生徒として意気も高揚し、観察記録に取り組む熱心なグループや個人の姿が多く見受けられるようになり、巣箱の数も一段と増え、学校周辺はもとより各家庭周辺の林など、計呂地地区全域に互り巣箱が取付けられる有様でした。
 父兄も最初はすずめが増えて作物に被害を与えるのではないかと心配の声もありましたが、年々渡り鳥の飛来数が増え、すずめより大型のむく鳥やこむく鳥が巣箱を占有していることがわかり、心配は解消され低学年の子供達に協力して巣箱づくりを手伝う姿も多く見られるようになりました。
 36年には生徒の観察記録も充実し、作文コンクールに応募する者も出、37年と2年間を通じ、知事賞、農林大臣賞等々数々の受賞に輝やき、三大野鳥保護学校として一躍有名になりました。
 このように小鳥の材の活動実績が高く評価されるようになると、毎年の開材式もより充実したものになり、報道関係者の取材も多くなり、小鳥の村の初代村長として、私の顔や声がテレビやラジオを通して全道・全国に広く紹介されましたことは大変面映ゆい思いでございました。
 今でも印象に強く残っているのは、全校生徒による風船の放出で、これは開封式の花形で実にみごとでした。澄みきった大空に色とりぐの風船が舞い上がりそれが陽光に輝やきながら、ふわりくと春風に乗って青空に浮かんでいる光景、300余名の児童・生徒の喜びの歓声は87才を迎えた今日でも忘れ得ず、私の楽しい思い出として終生続くことと思います。

3,「小鳥の村」の思い出       第十一代校長 佐 藤 丑之助
 私が計呂地小中学校に在職したのは昭和31年11月から38年4月までの間です。前任者大畠繁利校長と、部落の方々の努力が実って新校舎が落成したばかりでした。区長は阿部秀吉さん、PTA会長は渡辺義一さんでした。小学校6学級中学校3学級で教職員は優秀でしたし、PTA会、部落の方々の学校に対する協力も絶大で安心して楽しく勤務させていただきました。グランドの暗渠工事、学校植林、学校園の造成、校長住宅の新築など思い出は尽きません。故人になられた方も多いと思いますが、ご協力をいただいた方々に
心から感謝申し上げます。
 計呂地は自然の環境に恵まれており、鳥の種類も多く、5月10日のバード・デーを中心とする愛鳥週間の行事をクラブ活動から学校全体の中に取り入れ、巣箱の架設観察と桧舞台の設置を主とし愛鳥思想の育成をねらったのです。昭和33年は学校周辺に10個、32年には学校や家庭に27個、34年には55個、35年以降には200個位までになりました。営巣率は約50%、利用する野鳥は主として、こむくどり、むくどり、しじゅうからなどが主でした。巣箱は木製とコンクリート製を使用しました。
 野鳥保護の観察記録を文部省と農林省主催で文部省国立自然教育園が募集していましたので、32年から応募し中止するまで毎年応募したと思います。入選者と選外者とを加えると延べ30名近くになります。特筆したいのは35年中学2年の村上恭彦君のむくどりの観察記録が最高の賞である文部大臣奨励賞を受けたことであります。これらの入選作品は国立自然教育園基礎資料集に詳細に記載されております。
 学校の表彰歴については34年に愛鳥優良校として北海道知事町村金吾より知事奨励賓を36年には巣箱架設で愛鳥思想をたかめたとの事で知事賞を受け、5月16日に道庁、支庁の関係者・町・PTA会・部落関係者の参列を得て伝違式がありました。37年5月10日農林大臣河野一郎より鳥類愛護心の育成普及に寄与したとの事で賞を受けることになり、その授与式が5月11日、道、支庁の関係者、町長はじめ来賓・PTA会・部落関係者多数の参列のもとに講堂で挙行されました。道庁の有名な鳥類研究者斉藤春雄先生の講演があったと思います。又5月10日には財団法人日本鳥類保護連盟理事長山階芳麿より学校に表形状が授与されております。
 ここで「小鳥の村」について記します。このように学校から家庭へと愛鳥の思想が広がるのを機会に「小鳥の村」の開村式を36年4月28日に挙行しました。村長にはPTA会長の渡辺義一さんになってもらいました。児童・生徒が巣箱を持って集まり、多くの方々の参列を得て、鼓笛隊のパレードにはじまり、佐藤幸正先生作詞、倉茂節男先生作曲の「愛鳥の里、計呂地」を歌い盛大に終りました。10月18日閉村式挙行、37年は5月3日「小鳥の村」の開村式挙行、村長はPTA会長の大野貫一さん。10月18日「小鳥の村」閉村式挙行。これらの行事の開催にご苦労をおかけしたPTA会長であった渡辺義一さん、大野貫一さん、区長の阿部三義さんに厚くお札申し上げます。
 その他の研究について、野鳥の好きな巣箱の色の調査を南場均さんの裏山を借りて実験しました。茶・白・赤・青・緑の5色を一組として架設して結果をみましたが、赤色の巣箱が一番多く利用されました。これらのいろいろな研究や学校の状況は37年の学習研究社発行の月刊教育雑誌「六年の科学」五月号に「計呂地小学校愛鳥グループ活やく記」として詳細掲載されました。後日旭川市の有名な愛鳥校台場小学校では巣箱が全部赤色でしたので問い合わせたところ、計呂地の学校の研究をもとにしたとの事でした。
 以上在職中の思い出が野鳥保護関係のみになった事をお詫びします。青年学級のこと、学校の教育研究のこと、中体運の女子ソフトボール部の活躍や学校園その施設などに諸先生の残された実績については残念ながら割愛させていただきます。記述の中での誤り、説明不足などお許しの程願います。
 最後に愛鳥とは巣箱を架けて保護することも必要ですが、大気な立場から自然環境を保護し、林と緑を広げることが最も望ましいと思います。郷土史編集委員の皆様に心から敬意を表し、計呂地部落がどのような変化にも対応できる体制で今後益々発展されることを衷心よりお祈り申し上げます。

4,「小鳥の村」に寄せて            旧職員 佐藤幸正
 森と湖と人情に包まれた計呂地は終生忘れることの出来ないところです。
 私の勤務した昭和34年から4年間の計呂地小中学校には、個性的ですぐれた経営手腕をもっておられた佐藤丑之肋校長先生を始め、教師達には若さに溢れ、意欲に燃える奥谷、倉茂、原田、永井、谷本、高橋、宮内、砥石等の先生方がおられました。
 生徒達は、清流に泳ぐ山女魚の如く、みんな元気で、ピチピチとした少年少女でした。生徒会の採択した宣言文にもその一端を見ることができる。
 「たくましい身体は生活の基盤であり、幸福の母体である。
豊かな心は愛と平和・繁栄にむかってかぎりない前進をつづける前提条件である。われ等中学生は春秋に富む人生の華であり、次代の形成者である。強い身体を鍛え、知識を磨き、情操の涵養に努め、真に生きがいのある人生を完うするよう努力することがわれわれの使命である。ここに学校祭を開催するにあたり、「たくましい身体・豊かな心」をスローーガンとして採択し、ここに言言する。」(計呂地中学校言一言文)
 教師の頑張り、これに応じての生徒の頑張り、そして、これを支えてくださる住民の総力結集してのご協力。こうした三位一体の努力は、自然学習・特別活動としての「小鳥の村」にもあらわれている。(コムクドリを対象) 愛鳥の里は巣箱作りに始まる。原田先生指導による全校生徒の労作である。巣箱コンクールが開かれる。それから巣箱かけ、はしごを持つもの、紐でくくるものと協力作業である。
 いよいよコムクドリの来村である。朝夕の観察日誌、営巣調査、生態調査の各種記録が生徒の手になる。
 「営巣率を高めるにはどうするのか。」が鳥の色彩感覚調査に発展し、一連五箱(巣箱)を赤、黄、青等々の着色実験をした。結果は自然色又は緑色巣箱の営巣率が一番高いという予想は完全に否定され、事実は赤箱の営巣率がよかった。また、討論に入り、鳥類は臭覚が非常に発達しているので、ペンキの臭気と相関関係があるのではないかということになり、次年度は臭覚感覚調査を実施するというところで、佐藤丑之助校長先生、職員の異動等あって自然解消となった。
 鮮明に記憶にあるのは、小鳥の村の開村式である。村長PTA会長式辞、愛鳥の里計呂地の合唱、一般経過報告、校長先生の挨拶と続く、全校生徒の風船の一斉放出。
 「紺碧の空に、あおぐ日輪、赤、黄、青、緑といろとりどりの風船の乱舞」「大地は緑に燃えたつ」「校庭には生徒の歓声がこだまする。」‐−忘れられないなあ・・・
 NHK北見放送局からのTV取材、北海道新聞社からの取材記者の来訪。その放映(道)は知る人ぞ知るである。
 過去は浄化され、美化されて記憶に残るものであろうけれども、農林大臣賞受賞、文部大臣奨励賞の受賞に輝く計呂地中学校の生徒のいた事実は今も脳裏から離れない。
 あの親鳥の子が孫が、今も慈愛の山のふところに来り、そして去っているのであろうか。歳歳年年人同ジカラズの感を催すことしきりである。

5,「小鳥の村」開村のころ                   卒業生 村上恭彦
 計呂地に「小鳥の村」が開村されたのは昭和33年で、私が小学校六年の時だったと記憶しています。
 当時計呂地に着任された佐藤丑之助校長先生が音頭をとられ、翌年の春から学校周辺や、付近の山に巣箱を設置することになりました。
 また、緊箱の作製から設置方法、さらに小鳥が利用しやすい巣箱等に関する知識もなく、殆んど白紙の状態でありましたので、これらの指導には私達の学級担任をしておられた原田貞雄先生があたられました。
 毎年初夏になると、ムクドリやコムクドリを主とした渡り鳥が多数飛来して、産卵・育雛に励み、私達はその生態観察のために毎日巣箱を見ておりましたが、対象になった小鳥達こそ大変な迷惑であったかも知れません。
 私は中学卒業までの3年間、観察記録をとり続けましたが、同じ種類の小鳥を対象にしていたのにもかかわらず、毎年新しい事実を発見して翌年への興味をつなぐことができました。
 今思うことは、小鳥のために巣箱をかけその生態を観察記録することが、単に自然に親しみ鳥に関する知識を得ることのほかに、子供達の内面に良い影響を与えるであろうということです。少なくとも、現在、時折見聞きするような殺伐とした子供には育だないと思いますが、佐藤先生の願いもそのあたりにあったのではないでしょうか。

第3節 P T A 最初に戻る
1,児童後援会
  父 母 会
  P T A 会
 明治37年未開の地、計呂地に開拓の鍬が入れられ、40年9月11日より簡易教育所が設置され学校教育が開始された。大正3年在籍児童数36名、大正6年に尋常小学校となった。大正中期に開拓の増加に伴い大正8年には児童数120名に達した、大正11年児童数164名に増加した。
 昭和3年高等科併置、14年尋常科児童数213名高等科56名、児童後援会が発足された年度についてはさだかでないが昭和初期には発足したと思われる、初代会長に藤永栄槌が選任されその任に当った。その後父兄会と名称が変り昭和元年会長に渡辺義一が選任され雄弁と実行力誠実に富む会長として会員の人望厚く会の発展に貢献された。
 31年3月日本にPTAづくりを奨めた報告書が第一次アメリカ使節団によってもたらされた。

 22年中学校併置、24年に義務教育となる。25年村上益太郎がPTA会長を1年務めた翌26年再度渡辺義一が選任され36年まで実に25年間の永きに亘りPTA会長を務めた。その間30年に当時の大畠校長は校舎改築を主唱してその実現に努力を傾注し完成を見た、近代的校舎新築に際し完成までの現場の監督を努め其の功績は偉大であり町当局より感謝状を受く。
 昭和38年渡辺会長勇退、後任会長に大野貫一が選任を受けPTA活動学校との連携を密に今後の発展と子供の幸せを願い44年まで会長として尽力された功績は記憶に新らしい。

 教育の一環として年に一度発表する学芸会にバザーを取入れた年度についてはさだかではないが、40年代に入ってから行われたようである。会員の女の人は前日より準備を施し当日は早朝より作業に取掛り我が子の発表する演劇など見る暇もなく忙がしい一日であった。当時はお汁粉とカレーライス2品は必ず作った。忙がしい一日ではあったが見に来られた部落の人達、生徒からも大変好評であった。50年代に入り過疎に伴い会員数も滅少し55年頃より手作りを廃止し仕出し物で行うようになった。
 戦前戦後は冬季間の体育にスキーを行っていたが40年代に入り児童の体育にスケートを取入れ児童の体力作りに努めたがスケートリンクが無い事からPTA会員の奉仕によりグランドに畝を作り雪と水でリンク増成がなされたが水まきは寒い夜に限られ先生が交代でリンクが作られたが先生の苦労は大変な事であった。春になるとグランド整地を行い運動会に支障のないように地ならしを行ったが地質が重粘土の関係上大変な苦労があった。このような点からリンク専用に造成することが決定され学校と場所の選定を協議した結果最終的に現位置に決定を見、早速教育委員会に要請町費にて造成の承認を得、作業はPTAが準備する事となり、早速芭露農協に地ならし工事を依頼、52年秋に着工したが、重粘土と土質が非常に固く年内の完成は出来ず、翌年春渡辺技研の特段の協力により完成を見た。また冬、寒空の下児童の休憩所がない事から町に要請しスクールバスの待合所の払い下げを受け改造して休憩所を作り児童が休むのに寒さを凌いでいる。
一周一三五末のコースは場所の面から最大であった。
 スケート大会は、PTA、学校が共催で部落後援の下で和やかな一日を過ごしている。また、運動会も児童生徒が少ない関係上、午後は部落競技を行い部落の理解ある協力の下に学校行事として取行われている。
 PTA会長は部落総会に於て選任されていたが50年代に入りPTA独自の総会で選出されるようになり現在に至っている。

2,PTA活動の想い出            元PTA会長 前 野 盛 隆
 昭和44年、名会長として永年PTA活動に貢献された大野貫一氏が勇退、後任として会長を引き受けたが,長としての重責は予想以上であった。劣弱な私は先生をはじめ役員、会員の皆様の御理解ある御指導御協力を仰ぎなんとか1年終ることが出来た。
 49年若い活力、誠実に富む人望厚い西功一会長(町議当選)が若くして急逝された。部落民は氏の活躍を期待していただけに彼の死を悼む。同年後任として再度会長を引受けることになった。当時会長は部落総会に於て選出されていた。また任の役員は会長と校長が協議し、役員の選考を行い会長名で選任し、役員宅を訪問委嘱状を渡し承認を得る方法で行われていた。
 53年部落総会に於て会長の選出は会独自の総会に於て選任することに改めた。同年会則、委員会制度による委員会細則等立案、原案について一部修正はあったが原案が承認されPTA活動も教師、会員が一体となり一層充実してきた。
 40年代後半よりPTA役員と部落役員との合同懇親会を企画し、PTA活動、学校行事に関しての要望、御意見等を賜り年中行事に理解と協力を求め意見交換の場として有意義な懇親会を行ってきた。現在は会員数も少く全員が出席して和やかな一時を過ごしている。
 50年代に入り、町、教育委員会より小学校統合が提議された。だが計呂地小学校は当時生徒数30数名と僻地小規模校として決して少い方ではなかった。統合に対しPTA、部落も絶対反対との意見であった。学校は部落民の拠所であり過疎に一層拍車をかけるとして反対した。PTAはこの問題に対し前向きに取組む必要があるとして、51年には計呂地小学校と同じ位の規模の学校見学を計画、池田町の乗合小学校幕別町の相川小学校を視察、53年美幌町福豊小学校他1校を視察、統合関係、PTA活動に関し今後の参考になると好評であった。また50年代に人って父兄と先生方との親睦会を開催するようになり当初は歌留多(百人一首)と卓球を行っていたが、PTAの年中行事として毎年続く中で会員数も少なくなり現在では一般参加も認め融和と親睦の場としてカラオケも取入れ多彩に行われるようになった。
 53年完成したスケートリンクについては教育長も難色を示していたが数度の折衝により了承を得た。工事についてはPTAが行う事になり幸い畑総事業で近くに重機が来ていることから期成会々長洞ロ正喜氏の協力を得着工の運びとなった。毎日現場に来て先生との打合せ運転手と相談しながら工事を行ったが重粘土の関係上中止となったが、渡辺技研の重機により待望のリンクの完成を見た。工事費(重機の作業代)について芭露農協、渡辺技研には多大の御協力を頂いた。
 54度より年2回会報を発刊し先生を合めた会員皆さんの御意見、御要望等の投稿を願いPTA活動、子供の幸を願う親として前向に取り組んだが原稿の収集に困難を窮め57年までの僅かな期間で終った。
 PTA会は学芸会バザーの収益其の他の関係で特別会計をもち学校で必要なものを購入していた。生徒玄関の上の大時計、運動会に生徒の控場のテントの購入、先生の転入の際の昼食費等に使用されていたが部落の役員会に於て特別会計は不当との意見もあり一般会計1本として必要に応じ部落が支出する事に改められた、PTA予算については大半部落一般会計より助成を受ける特色をもって会の運営がされている。
 1年1年を経過する過程の中で、楽しかった一時、いろいろな問題で苦脳したこと等数多い思い出が脳裏を回想する。
 当時の懐しい想い出は今は過去のものとなり、支えられながら務めた職務の過去を振り返えると、期待に充分添えなかった悔だけが残る。
 永年会長を務めることが出来た陰には皆さんの絶大な協力の支えと女房役として陰になり日向になり御支援下さった多くの副会長をはじめ会員の皆さんに対し衷心より感謝致しております。
 最後に心身共に健全な子供の成長とPTAの益々の発展を祈念致します。

3,PTA活動を省みて                前PTA会長  諏訪間 清
 私は昭和58年度のPTA総会において会長に選任さ御協力をいただきながら3期在任させていただきました。
 就任当初は、8ケ年のキャリアを持ち、誠実と実行力に富む名会長として、会の発展に大きく貢献されてきた前会長の前野盛隆氏の後任としての重圧が常に私に覆いかぶさり、PTA活動が停滞してはと緊張の連日でした。
 力量不足の私でありますが、幸い関係の皆様方の御支援を得て、今日を迎えることが出来ましたことを最大の喜びとするところであります。
 この度の開基、開校85・80周年の慶事にあたり、在任3ケ年の思い出の一端を御披露させていただきます。
 PTA活動の根幹としては、恒例となっている諸行事を、年々に滅少していく児童数の中でいかに充実していくかにありました。
 春は広い校舎のガラス拭きの奉仕作業に始まり、運動会の準備、後片づけ、夏は海浜教室キャンプのお手伝い、秋はマラソン大会、学芸会の支援、冬はスケートリンク造りや除雪等に会員の方々の積極的な活動をいただきました。
 特に印象の残ることは、水の問題でした。
 59年度は春から秋にかけて隆雨量が極端に少なく、75年ぶりの大旱魅でした。それに加えて、積雪時期が遅れたため水不足でスケートリンクが造れず校内スケート大会も開催できずになってしまいました。
 この年はこのことだけにはとどまらず、学校の水道管が凍結し(地下)水不足と重なり12月末から、3月末まで、1日置きに町から給水を受けるという最悪の状態でした。
 幸い、11号沢に永年の要望であった共同給木場が完成された年であったので、この施設を利用させていただき不自由はかけましたが、それなりの対応が出来たことは関係の皆様方のたまものと感謝しております。
 60年の夏休期間に、国鉄と東急観光の共催で、旭川市の児童180名が、サロマ湖の円山にキャンプを張り、当地区の児童と交流会を行ったことなども楽しい思い出の一つです。
 残念なことは、59年に引き続き六十年度もスケートリンクが造れず、またまたスケート大会を中止する破目になったことです。
 60年は、前年の少雨とは逆に長雨の連続でした。農作物も被害を受け、収穫期には雨でぬかる畑にはトラクターも入れられず、手作業で苦労する状態でした。
 リンク造りに使用する池は満々と水を湛えてはいますが、長雨により多量の土砂が混入して真黒になっています。リンク造りの時期がくると、一抹の不安はありましたが、雪を踏み固め基礎づくりを行い撒水作業に入りました。2日程は順調に仕上げてきましたが3日目からは泥水に混じって細かい本の葉がリンク上に散らばり始めました。不安は的中し、急濾役員会を開き協議しましたがどうすることも出来ません。
 2年連続水に崇られた私でした。本年こそは昨年の分まで盛大にと期待していましただけに、皆様に対する申し訳なさと残念さでいたたまれない思いでした。
 学校も校舎の老朽化が進み、児童数の減少に伴ない、教育委員会からは統合への根強い働きかけがあり対応を迫られる昨今です。
 区長の呼びかけにより、59年4月に「学校問題審議会」が発足し統合問題について慎重に協議を重ねておりますが、結果は別としても、21世紀に生き、次代を担う子供達の健やかな成長とPTAの益々の発展を祈念して私の思い出といたします。

第4節 青年団活動 最初に戻る
1,青年会の結成  計呂地青年会の誕生は大正2年、勇立青年会として発足し、大正10年の訓令で勇立青年団と改称し、昭和15年まで続き、16年には戦時体制への対応として男女青年の統合など青年団組織の改編により、下湧別村青年団計呂地分団と改称された。
 以下勇立青年団長を務めたと思われる人々「年代不明」
(大正時代)
  大沢基一・南場米蔵・大沢重太郎・渡辺桂一・如沢元治
(昭和元年から15年の間)
  大野貫一・渡辺義三・柏軍治・山原新吉・伊藤政二・黒河政夫

2,青年会の誕生  明治32年、湧別原野4号線に「4号線青年会」が、夜学中心の修養団体として発足ししたのが湧別町での青年会のはじまりのようである。
 大正元年、芭露、同2年上芭露、計呂地でも大正2年11月20日、大正4年には湧別町(当時下湧別村)内に12の青年会ができ、417名の会員を擁し青年活動が一層活発になった。
 その後大正10年に訓令が発せられ青年団と改められた。更に、大正11年2月18日には計呂地処女会(昭和2年計呂地スミレ女子青年団と改称)の創立総会がもたれ、大正12年、下湧別村連合青年団結成網走管内連合団に加盟、心身の鍛錬、品性の向上、奉仕的協同作業にあたったが、特に、陸上競技は部落対抗、あるいは町村対抗と実に盛んであった。
 また、大正12年4月18日には青年・処女連合雄弁大会が行なわれた。

   「大正10年頃、拓殖医の従者として付き添ってきた水戸中学出身の若者と大橋銀蔵、森田繁之進、如沢元治らが相談して青年同志会をつくった。
  お寺を借りたり、現在の計呂地神社人口付近にあった青年会館(3間×5問)で講義録を使って独学の夜学会を  ひらいた。また、弁論大会もよくやったものだ。
  南楊校長の時(大正4年〜8年)学校に集まり、根本、大沢らも加えてカンテラをともして勉強したことなど思い出深いものがある。当時講義録は70銭であった。」
                  (如沢元治 談)

3,青年訓練所・青年学校  大正15年4月20日、青年の軍事訓練を目的とした青年訓練所令が公布、大正15年7月1日、計呂地小学校に併置、宮田定次郎校長を主事に、普通学課は学校教員、職業科は農会技術員、教練科は在郷軍人の中から指導員が委嘱された。
 昭和10年、青年学校令が公布、同年8月1日、青年訓練所は計呂地農業青年学校と改称された。
 同14年、生産活動の積極化、軍事教練教化推進を目的として、青年学校義務化が実施され、それにともなう学校整備拡充の方針にのっとり、下湧別村内では3校の青年学校が置かれた。その中の一つ下湧別第3青年学校が志撫子、計呂地、床丹部落一円の青年を収容するため計呂地小学校に併置された。
 時は、日華時変、そして太平洋戦争へと国をあげての戦時体制の最中、青年学校の軍事訓練もはげしく、きびしい訓練査閲が行われた。

 昭和17年頃の青年の数は、計呂地だけで150名余に及び、上は親和会、中は明和会、下は信交会とそれぞれの分団で青年団活動が自主的に行なわれていた。
夜明けと同時に会館に集まり竹槍で藁人形を突く軍事訓練に励んだ。猛訓練の成果は親和会会員杉本末光が全道柔剣術大会に出場し第一位の栄冠を勝ち得たことである。
同19年には親和会々長、渡辺豊春を中心に養兎増殖運動が行なわれ、軍買い上げの毛皮を駅まで運んだり、国の奨励作物だった亜麻を、湧別の工場まで運んで活動資金を稼いだ。
当時、冬の娯楽として百人一首カルタが盛んで、学校を会場に上、中、下から9チームの参加で大会がもたれ、これが、何年も続いた。また、志撫子青年団との交流カルタ大会も行なわれた。

4,戦後の青年活動  昭和20年終戦、「青少年団体設置要領」「一般壮年層に対する社会教育実施要領」などが決定、特に、青少年団設立指導が強力に行なわれる中で、翌21年3月、湧別、芭露、計呂地の3地区で下湧別村自治青年連盟が組織された。
同年9月、下湧別村青年団体連絡協議会を結成、幹部青年の各種研究会、弁論大会、体育競技会など行なった。
同28年に湧別町青年団体協議会(湧青協)と改称された。
 昭和36年、計呂地市街地に青年団がなく石渡輝道が4名の青年と話し合って同年6月に結成したのが「若鷺青年団」である。
 スポーツマン精神の育成ということからスポーツ活動や青年団同志の親睦を深めながら他地域の青年との交流をはかった。そのほかボランテア活動として、小・中学生を対象に珠算なども教えた。これが後に、子ども会の育成へと発展していった。
 同じ頃、農村部では青年層の都会流出がめだち、その後、とみに急増してきた離農のため一層青年の数は少なくなり、40年には実にその数12.3名と青年活動の危機に直面した。
 同年、志撫子と合併、20名余の会員で「計志青年会」として再発足、個人の修養や奉仕活動、文化活動にっとめた。
 
5,「親和会」の歩み           記縁者渡 辺 豊 春
 大東亜戦争突入に伴い青年団活動も上意下達方式で、しかも青年の行動力が期待され会合が頻繁に行われるようになりました。
 当時は自転車が1戸に1台位しか無く、団員は1戸に2・3人はおりまして、集合回数が多くなると自然出席率が低下する状態でした。練成は各個人のためであって兄弟代表ということにはならないので、男子は女子を自転車に乗せたりして悪路の中極力参加してはいましたが、集合には何時も苦労が伴いました。
 当時の幹部は打開策を講じるべく数度にわたり協議を重ねた結果、今後益々地域に根ざした活動と青年期における豊かな人間形成を図るには、全員参加できる組織体制に改革する以外に方法はないという結論に達しました。
 計呂地地区を上区・中区・下区の3区域に分け、3つの分団を結成して、それぞれの分団長(会長)並びに幹部で計呂地青年団の会合を行い、その内容を各分団に持ち帰り運動を行うことにしました。
 分団は月に1回以上の定例会を開くこと、その他分団の交換常会を開いて全団員の交流を図ることなども申し合わせて各分団の活動を通じて青年運動をさらに盛り上げることにいたしました。私は当時、幹部に選ばれたばかりだったので、分団結成に至るまでの、あるいは結成以後の先輩、諏訪間吉・羽田省吾・梅井政義・飯坂徳治等の苦労を理解はしていた積りだったが、今にして思えば並々ならぬ労苦であったことと思われます。
 私の所属していた親和会の歩みについて申しますと、親和会は昭和17年5月5日に羽田省吾を初代会長として発足いたしました。会合場所は明治神官(13号)の拝殿を惜りて修養に励んでいましたが、19年に神社の統合があり、拝殿は青年会館として譲り受けました。
 活動内容は月に1回常会を開いて上部組織からの伝達事項を協議し会長を中心に活動いたしました。
 戦時中は専ら軍事色一色でした。
  (一)貯畜運動  燕麦一俵積立貯金
  (二)生産増強  軍用兎の増殖・早期草刈堆肥増産
  (三)勤労奉仕  出征兵士留守家族に後腹
  (四)  国防訓練  竹槍訓練
 19年には男子会員の相次ぐ召集のため会員も女子部と19才未満の男子となり一抹の淋しさは隠しきれませんでした。
 私も20年5月に召集されましたが10月には復員いたしま当時はマッカーサーの命令により戦時下の青年団は解散を命じられたとのことで、計呂地青年団並びに上部組織は混乱し雲散霧消の状態であったが、親和会は解散せず温かい友情で迎えてくれました。
 「無事で何よりでした。また新しい時代に向かって親和会を徴きましょう。」
と、力づけてくれる仲間に感激を覚え、終戦で心身共に疲れ果てていた私に新たなる勇気を与えてくれました。
 さて、いざ青年団活動ということになると、敗戦で世の中すべてが百八十度といおうか三百六十度の転換の時代、想像に絶する混乱期の中で、親和会青年活動をどう切りかえればよいか、軍国主義から民主々義へとは言っても単に言葉だけで出来るものではなく、我等青年は何をなすべきかを論じたりしながら新しい方向へ手さぐりで歩みはじめました。
 幸い男子がぞくぞくと復員し、よくやく男女のバランスがとれ何をするにも楽しいムードが醸成されてきました。
 戦後の新しい親和会の歩み
 (一)親和会会歌の作成・会員の総意により作詩・作曲
 (二)親和楽団の結成 ・会員の楽器を待ち寄る
 (三)演劇      ・ドサ回り芝居を真似て上演
 (四)歌謡・舞踊   ・師匠は頼まず見様見真似
 このように楽しい企画を考え大胆に試みていきました。まずは祭りの余興に上演することを申し合わせ、毎晩収穫で多忙ではあったが、猛練習を重ね、他方、プログラムの編成、司会の進行等も全員で研究いたしました。
結果は大変好評で、近隣町村より見物客も見え、年々張り切って漫才までも上演する盛り上がりになりました。
 団員の心情は文化国家の建設に向かって進むのが目標であり、虚脱や混乱の中にも何かーつか二つのよりどころを見出し、新しい方向へ青年団活動を転換させなければという意欲に燃えていました。
    親和会会歌
  鉾を収めし若人が
  朝日の如く新たなる
  決意のもとに集い合い
  築こう文化の親和会
 親和会の青年は仲間意識も強く会の発展を目指し、16号線の奥に青年共有地を求め共同耕作を行って運営費を積立てたり、斜面の育林に努めたりしながら共同作業を継続し、会館も共同で新築する等自主的な団体として発展の道を歩んできたが、昭和44年には会員数も数名に減少し団体としての活動が困難になり休会の止むなきにいたった。48年には青年の山の管理を第1第2部落に移し、親和会の解散式を温根湯ホテルで行った。
結成され、数名の親和会青年も時代の流れと共に新団体に入会し情熱をもって活動しこれが現在に至っている。
 なお、57年頃から元親和会会員よりお互いの消息を確認し合いながら同窓会を開いてはという声が強く上がり、59年3月17日に温根湯花水荘で第1回目の会合を持ちました。
 折からの吹雪もいとわず80余名の方々が参加し、会合は異常な盛り上がりの中で、昔話に花が咲き一睡もせずに語り明かし旧交を暖め合いました。
 故郷を遠く離れてから数10年を経過しても、故郷を想い、若き日の友を偲ぶ姿に、郷土に生きる私達は感激を新たにしながら次回の会合を約し改めて郷土の限りない発展を心に誓ったものです。
 その後先輩の退団等により演劇サークル「道」も自然解消となり、志撫子青年団との合併が具体化し、48年に「計志青年会」として再発足し会長に伊藤芳雄を推した。

 活動内容として
  新年宴会・春は小学校の運動会手伝い・夏には墓地・神社の清掃・キャンプ、お盆には志撫子区の盆踊り手伝い、秋には計呂地祭典の演芸会出演・町内青年文化祭に参加、12月にはクリスマス・忘年会等と積極的に活動を進めることを申し合わせた。

 49・50年には、計呂地小学校の教頭夫人石川チヨ先生に舞踊を習い、町内青年祭に優秀な成績を収め管内大会に出場するなど、会員相互の連帯意識を高めると共に文化活動に一つの足跡を残した。
 54年には会員が減少し祭典余興等も青年会単独では不可能となったが、少数精鋭主義で可能な活動に取組んだ。
 この間、57・8の周年に、村井清恵・長屋裕美子が、計昌地小学校の宇田校長に舞踊の指導を受け、町内青年祭や地区大会で活躍し「計呂地青年団」の面目を保った。
 59年には再び会員が増加し、お盆や祭典行事にも積極的に参加、チャリテイ事業として会場に屋台を開き、子供達や地域の人に楽しまれ喜ばれる役割を果たした。
 また町民駅伝大会には区長の要請に応え、「計呂地代表チーム」として2チームを編成し、全会員が出場力走し意気の軒昂たるところを示した。
 60年には4月下旬、計呂地線道々と志撫線町道の空岳とゴミの回収作業を行うなど、ボランティア活動を実施した。
 また、6月下旬には区長を講師に、61年度に行う開基85・開校80周年の記念行事の内容・計呂地地区運営の現況・郷土の生い立ちなどの研修を行い、青年の自覚と郷土への認識を新たにし、意識の高揚を図った。
 現代の青年はこのようにさまざまな分野に活動の輪を拡げ、協力し合いながら地域の明日を担う原動力としてたくましく成長している。

6,明和会の歩み                 記録者 長 屋 幸 雄
 信交会、親和会は戦前より発足されていたが、当会の設立は戦前の昭和21年である。当時終戦に伴い内外よりの帰還兵、引揚者で青年の数は戦前同様(会員数は定かではないが) 1戸に2、3名の青年男女がいたと思う。
 戦時体制下から一変して敗戦と急変の日を迎えるに至り、各農家の人手不足も解消され、軍国主義から民主々義とーハ○度の変容、若く活力的な青年は修養の場を求める機も熟し、原田毅、金井光雄等が発起人となり傘下の青年に呼掛け、理解を求め、幸い各戸の青年男女は全員が入会する運びとなった。
 初代会長に原田毅が選任された。当時の会合は専ら法念寺 (元10号線入口)また学校を借り修養に励んだ。22年会館建設の案が提示され前向に検討が行われ建設が決定された。
 当時は各所に於て造材作業が盛んであった。4月初頃佐呂間町東区(ガンピ原)で造材していた大沢木材店より建築に必要な原木を買入、青年の共同事業で佐呂間の製材工場に搬入、製材して建設予定現場までバチ橇で運搬、融雪後、原田毅を棟梁として器用な会員は大工仕事を手伝い同年秋には待望の会館の完成をみた。場所は洲原神社後地に3間に4間12坪であった。
 棟梁は農家の主でもあり、手間替として会員が畑仕事を手伝った。また建設費等については元洲原神社用地を開墾し、喬麦、大根等作付けしその販売代金、暗渠堀作業等に出役、傘下の寄附金によりその費用に当てた。
 落成祝賀会は部落の人、青年で盛大に行われた。また長屋宮市宅より濁酒を大きな徳利に入れて青年が交替で運んでいたが徳利の紐が抜けて道路に落し割ってしまったアクシデントもあった。
 毎年行う入退会式は専ら濁酒であった。向学心に燃える若人は先生を講師に招き夜学も行った。時には法念寺住職、深谷忠雄による講話会等も間催した。
 レクリエーションとしては夏はサロマ湖で遊泳、当時はホタテ、カキ貝等女でも取れる所にあり楽しい一時を過した。
 また各分団対抗の野球大会、陸上競技大会、冬季間は各分団3チームずつ出ての歌留多(百人一首)大会等数多い思い出会の運営費は長星宮市宅牛舎の土壁の下地作り、畑作業、暗渠堀等行い費用を賄った。
 戦前応召による人手不足での掠奪農業により畑は荒廃し、戦後は家族数も多く食糧難時代が永らく続いた。反収も減少し肥沃土にする必要性に呼応し堆肥増産が叫ばれ各戸努力を傾注増産に向け一翼を担った。
 青年活動も活気を呈していたが40年代に入り他産業への流出離農者が続出し青年の数も次第に減少し、48年計呂地青年団と志撫子青年団が合併し計志青年団として発足し現在に至っている。
 また戦後戸数の増加に伴い児童数も急増し、学校教室も不足を生じ、町の要請等もあり学校に近い当会館を児童生徒の教育の場として教室に使用し度いとの要望に応え、23年中学1年生が会館を教室として使用した。

7,「信交会」の歩み             記録者 村 井 義 雄
 道庁は自主的であるべき青年活動も青年団施設要綱と称し青年団規程準則などを発令、積極的な設立を奨励して、本来の修養団体として自主的に成立した青年の団体に対し、国家的規準を明確に統制政策と義務化された。昭和12年北支事変も何時しか全面戦争と発展、農村の中心的働盛りの人達も応召され内外地にと兵役に服役していた。
 青年活動も自から規制され、国策にそうべき指導をと政策も変化し、一路全面戦争態勢へと進み強制的教練などが行われた。
 そうした中各種組織また上層部に束縛される事をきらい、若人の自由と連帯と社会奉仕の精神を求め、計呂地開拓先駆者藤永栄槌は解放的な青年の組織作りに情熱を傾け、地区若人を機会あるごとに自宅にまねき白滝を説き、夜を徹して意見を交す事もしばしば、物静かな古老の一言一言が若者を引付けて行く。
 やはり計呂地部落開拓先駆者でもあり、東湧産業信用購買販売利用組合「現農協」の組織を作り上げた理論と行動力には感動し、賛同する若人が増え組織作りの第一歩の発起入会の運びとなる。
 昭和13年8月藤永栄槌、伊藤庄恵、小林市郎、梅井政義、浪江勝己等により連日草案が練り上げられた。古老藤永栄槌は春日神社(4号線)の氏子総代をも務めていた事もあり、当面は春日神社氏子内若人男女をもって組織を構成する事となり、発起人各氏は連日連夜再三の会合を重ねて組織の名称、会則、組織としての運動方針などが確認される。
 名称(信交会)「信じて交る会」と命名、会員年令制限なし、奉仕事業の一環は各碑神社敷地内の清掃、各号線標識製作設置、会員各戸の作況の観察調査研究会、神社祭典の手伝なども計画され、総会に図り確認された(発足当時会員十五名)。
 会長梅井政義、会計小林市郎、総務浪江勝己、顧問相談役藤永栄槌、伊藤庄恵などにより運営され、最初の行事として春日神社の祭り(10月10日)の手伝を行う事とし、会員は仕事の分担をして、寄付金集めから余興の相撲、浪曲等会場準備もすべて青年の手で行なわれ、活気がみなぎり夜を撤しての手伝で当日の天気を念じながらの思出が懐しい。
 素朴であるべき若人のふれ合いも、時代の急変で国策と云う事業が現実となり、予期せぬ大東亜戦争と発展。会員の中にも現役応召と内外戦地に出発、日増しに深まる戦局に会発足時の目的も大きく軌道修正せざるを得なかった。
 国策である青年学校は軍事教練の基礎教育の場と変わる結果となり、除隊軍人の指導のもとに神社の森も剣道、銃剣術の基本を習得する場と変化する。老若男女を問わず、健康な人は奉仕活動はもとより、徴用で松葉取り(松葉を蒸留し油を採取する)にかりたてられる日が続く「当時会員約50名余り写真19年春」。
 やがて終戦を迎え、次々と内外地よりの引湯で若人も増え、創立時の明るい会員達の再会となる。重ねる会合の結果、自分達の会館を作ろうとの提案がなされ、21年4月全員賛成、総会を経て建築が決定され、早速計画に取りかかった。
 終戦直後で物資不足の中、釘1本も無く買う事さえ出来ない時、資金調達と各戸より寄付金で賄う事とし、会員も奉仕で仕上げる事を確認し、急速に着工する運びとなった。木材は会員持寄り、製材も柴田(粕蔵)本工場で無償で製品化、大工金森金二郎、墨付村井秀一を副棟梁とし会員の出役で切込み、土台石の運び出し、釘も幸い伊藤武雄が持ち合せて居る事を聞き寄附金も現物(釘)を願う事となり、本当に時代を痛感する。連日農作業の合間をぬい建築に出役、約1ケ月余りで完成した。会の発足を見てから拾年、感無量念願の会館上棟落成でもあった。
 地区住民はもとより会員一同心よりの歓喜であり、終生忘れる事の出来ない想出となる。落成祝当夜「カーバイト」ランプを使用し、渡辺芳良よりの祝酒二級合成清酒と、長谷川実二郎より手作りの澱粉濁酒で氏子内老若こぞっての祝いで夜を明した事が、昨日の様な気がする。
 秋祭と信交会々館新築祝を兼ね、会館を聞放し、野外ステージが作られ、農薬用発動機を回し映画会を行い大変好評を受けた。
 戦後物資不足の中、この様な大事業をなしとげられた事こそ、地区先輩諸氏の理解と協力のたまものと思う。会員数も一時期60余名を数える大世帯となり、なごやかな年月を過した。其の後時代の変革で計呂地青年団組織に編入し活動したが、40年頃より過疎現象が進み現在に至る。
 青年信交会として発足星霜約50年を断片的に回想をする。

8,青年団活動の思い出               記録者 渡 辺 豊 春
 私が青年団に入団したのは昭和15年5月でした。当時の青年団は男女2本建となっていて、男子部は村の連合青年団に、女子部は連合女子青年団につながっていたように記憶しています。
 男子は学校で年間使用する燃料の薪材を山から伐採して、2尺の長さに切り5寸の三角形に(切りロ)割り(乾燥を早める)学校の校庭の片隅に積んで役場に引き渡す作業を毎年行っていました。女子青年は冬季間裁縫や編物の講習会を開き女性の教養と円満な生活指導などを狙った活動が行われていたようです。
 翌16年には戦時体制への対応として男女青年団の統合がなされました。町史によると、道庁訓令によって市町村段階での青年団組織の改編が行われ、このため今までの連合青年団を「下湧別青年団」と単一組織体に改め、従来の単位団を分団とする措置をとったと記されています。
 このように女子部と合同になったので出席率も良くなり明るい空気がみなぎりましたが、戦時体制が一層強化され行政の介入が多く、行政と教育が一本化されたような形で、連合団長には森垣村長、単位団長には学校長高井三郎があたりました。戦時中の青年団は指導者の力に大きく影響されて発展したと言っても過言ではないと思います。

 昭和17年の道庁指導方針には
 「道民伝統ダル質実剛健不屈不挑ノ屯田兵魂ノ昂揚ヲ基調トシ、高度国防国家体制確立強化ノ要清二即応、大東亜建設ノ指導者タルニ相応シキ国民錬成ヲ主眼………。」
とあって、村内各分団ではそれに従い幹部青年の養成に努め
まLた。
 
(一) 青年国防総動員と南瓜大会
 この運動は農漁村・市街地青年団を問わず、支庁管内3万人の団員に対し、南瓜の種を一山に3粒蒔き、花が咲き結実し、少し大きくなった頃、実に単位団名と青年の氏名を刻み入れると、南瓜の成長につれて表皮の字体は拡大されて薄い白色に盛り上がり見事な「名入れ南瓜」に生長します。
 当時は食糧配給制度下であり、青年が丹精こめて作った「名入れ南瓜」は飛ぶように売れました。1人が3個売ってその中の1個分の売り上げ代金が支庁の兵団本部に納金されて、国防訓練の資金造成に大いに役立った時代であり、また戦時突入に伴う国民の笑を忘れた悲壮感に対しても明るい話題を提供したものでした。
 当時の南瓜品評会では羽田宏現町長が村内1位となりました。品種はデリシャースでした。

(二) 北見青年推進隊の編成と合同聖地巡拝錬成道場巡り この行事は全国武者修業と称し、管内青年団の代表が11月13日から1カ月間に互り全国各地の数ケ所で、その土地の青年代表と錬成道場を開いて時局を考え心身の鍛錬に励んだものでした。
 さらに宮城(皇居)を始め靖国神社等を巡拝し、大本営・陸軍省・海軍省を歴訪し持参した南瓜を時の首相東条大将に贈呈し、陸海軍に3,000円ずつ飛行機献納資金として献納した。
 このことは当時、新聞やラジオを通じ大々的に報道されたものでした。1行12名の中には下湧別村代表として羽田宏が選抜され、見事な南瓜を首相に贈呈した報告会を楽しみに心待ちしていたことなど懐しい思い出です。

(三) 北見青年産業総動員運動(航空機燃料トウモロコシ)これは青年の努力や奮起によって冷害凶作を克服することに取り組む運動で、団員1人1反歩(10アール)の試験畑に白いのぽりを立てて標識としました。これは登録制として、農事試験場の分場的性格も合わせ持ち、播種・施肥・発育状況・除草・追肥・収穫量に至るまで経営簿記に記帳し、研究発表と耕作畑の現地調査を行い実績を競わせ毎年表彰の対象として増産を図る目的でした。

私はこの運動に参加して3年間(18年)に試験畑には冷害に強い坂下種(晩生)を作付して管理に励み、幸い出来も見事で村内の審査では一位となりました。ついで管内審査では上位入賞3点の中に選ばれ思わぬ成果をあげることが出来ました。
 大会の多収穫研究発表論文は当時の北海タイムス紙に報道され、全道各地の男女青年10数名より問合わせの手紙が殺到し、私は歓喜して返書を認めました。
 これが機縁となって以後文通を重ねながら意見の交換を行うなど交流に努め、意欲に燃え立つ青年活動に熱中いたしました。
(四) 青年団員一夜錬成道場(戦時下の男女青年幹部対象)
 この道場は村単位または管内全体規模で開設し、幹部青年に自覚と意欲を持たせるのが狙いのようでした。
 管内錬成道場の一部を紹介しますと、開会式についで北見青年合言葉が唱和されます。
 一つ 産業動員さあ行こう(一反歩試験畑の設営
 二つ 副業動員負けないぞ(軍用兎の増殖突撃運動)
 三つ 貯畜動員がっちりと(一と二の収入を貯金に積む)
 四つ やればできる何事も(三つの動員に全員参加しよう)
 五つ がんばってがんばってやり抜くぞ
このことばを「一つ産業・・・・・」と親指から次々に指を折り5で拳を胸に当て「オス」と叫んで全指をパッと開いて前方に突き出したものでした。つまり「オス」は「推す」で青年運動を推進する意味でした。
 5つの合言葉唱和の次は、団歌「北見青年どんと行け」を声高らかに合唱したものですづいで講師の講演を拝聴しました。
 この道場の指導者には南部視学・干葉・青柳両先生があたっておられまして、両先生は当時支庁教育課の青年・婦人の社会教育を担当し、東奔西走の日々で月の三分の二は家を留守にして指導に当たられていたとの事で、両先生の活躍は実にすばらしいものがあり、幹部青年の情熱はいやが上にも盛り上がり、指導を受けた青年達は、その後の青年団活動に誇年活動の実際(屯田集団にあやかり)[北見三万の青年は武
装せり」を映画化し、全国銃後の国民と南方占領地の現住民に北の守りは固いというPR用に撮影することになりました。
 この映画には下湧別村青年数100人が加わりました。18年の6月中旬三里浜で、男子は海上訓練が行われ船上で一夜を明かしました。女子部は登栄床小学校の校庭で竹槍訓練が行われこの光景が撮影されました。
 海上での舟艇訓練は私も始めてのことで、泳いだことが一度もない者も、号令一下火海原に飛び込むのですから心の底まで冷汗の思いでした。当地からは男女10数名が参加しました。

9,想いで 苦労話            渡辺 豊春
 昭和19年の春、村役場から青年団幹部に招集があり参加しました。
その会合で「軍用兎増殖突撃運動」が提唱されました。早速、親和会の会合を開き趣旨説明を行ったところ、全員の賛成を得まして運動を開始しました。
 幸い兎の飼育には経験者が多くその点大いに助かりました。
当時、信田美代志を養兎部長として、種兎の貸付け方法や繁殖計画など、夜間幾度も会合を重ね、時間を忘れて話し合ったことなど懐かしい思い出が数多くあります。
 物資の欠乏時代で、兎を飼うにも箱を作る板も無く釘も無く、金網も無いという無いくずくしで苦労しました。それで、りんご箱や石油箱の古い物を改造し、古釘を大切に利用し、新しい代用釘は節約してところぐに使用するようにし、金網の部分には細い丸太を打ちつけて光線の入りを工夫するなど箱造りも大変でした。
 また、箱の置き場所が低いと野犬や狐に箱をこわされ、兎は餌食にされてしまい、隙間が広いと蛇が侵入して生まれたば太い丸太で造った棚の中の放し飼いはその点安全でしたが、一方白い毛並みに汚れがつきやすく、毛色に汚れの目立たないチンチラ(ねずみ色)や黒毛の種兎を買入れるなど研究を重ね増殖に励みました。
 結果としては数々の苦労が実を結び、1人で50羽以上供出のできた喜びは格別でした。

第5節 婦人会活動 最初に戻る
1,愛国婦人会  明治34年、奥村五百子によって結成された大日本愛国婦人会は全国的な組織をもち、出征軍人や傷病兵の慰問、遺族援助を行なうことが目的であった。
 湧別町(当時下湧別村)では大正8年、会員数101名、大正15年には140名に増加している。
 普通会員、援助会員などと資格区分され、会費、寄付金の額に応じて、普通会員章、賛助会員章、有功章が出されていた。

2,国防婦人会  満州事変がおこった翌昭和7年10月、大日本国防婦人会が結成され全国的組織に発展した。全戸加入が時局に応える婦人の役割とされ、半ば、強制的に加入させられた。
 活動内容は、ほとんど愛国婦人会と同質で、戦時色が濃い中で国策にそって留守家族の労力援助など軍事的奉仕活動が義務的にすすめられた。
 昭和11年11月3日に下湧別分会、2日おくれの同年11月5日、計呂地班が結成され、初代班長に新海ふじ枝を選出、班内は13組に分かれていた。
昭和13年4月28日、国防婦人会の総会では、大桃哲竜氏、森垣村長及び夫人を講師に時局認識講演会を開いた。
 当時の幹事は、小堀チセ、国分アサヨ、鈴木ハル、岡山タネ、南場タツ、本田サカエ、関野トヨ、塩見ツイ、山田シメ、杉本ミサ、本田ヨシコ、中原ハン、中山タマ等である。
なお、歴代班長は、新海ふじ枝(初代)、橋本ナヲ(2代)、板野ミツ(3代)、中山トメ(4代)である。

3,大日本婦人会  昭和17年2月、婦人団体の統合が行なわれ大日本婦人会として婦人活動をするようになった。
同年7月13日には下湧別支部が、そして同月27日に計呂地班が結成されている。
 この会は、20才以上の婦人を会員資格と定め、全国的な組織で各町村に支部を置いた。
 「兵隊さんは命がけ、私たちは襷がけ」をモットーに、必勝貯蓄の増強、衣料切符献納、集団内職、廃品回収、軍治援護、国防訓練、勤労報国隊参加などと銃後の守りを分担した。
 初代計呂地班長は中山トメであり、当時の幹事には、長屋春栄、追永タツ、藤永富子、諏訪問ミツ、桑原タイ、玉井富士枝、藤永ョシノ、木村サツキ、伊藤ョシ、篠森サキ等の人々があたっている。

4,計呂地婦人会  大日本婦人会は、終戦とともに、その存在価値を失い自然解消となった。戦後、逸早くつくられた婦人会(会長 中山トメ)も、これという活動のないまま、しばらくは空白の時代が過ぎた。
 昭和20年、婦人参政権が認められ、次第に、婦人の地位向上がさけばれ、とかく、男性のうしろにひっそりとかくれがちの農村婦人にも、女性独自の集団的自主活動が芽生えてきた時期、昭和26年、婦人会の結成については社会主事の動めがあったり、趣意書が各部落に配布されるなどもあって、27年4月、西 喜美代を会長として計呂地婦人会を結成、活動に人った。
 「婦人の地位向上」「生活を豊かにする農村づくり」を目標として、生活改善の各種講習会、親睦旅行、五鹿山での花見敬老会、資金造成のための教育映画会の開催など年を追うごとにその活動は活発になっていった。
しかし、30年、農協婦人部の設立によって、農事の各種研究や先進農村の見学、修.養としての各種とりくみと次第に、農村の主婦としての活動が活発になるに及んで、農村部婦人と市街地婦人との間に亀裂のきざしが見えはしめた。
 部落内の指導者を交えた話し合いで一応、分裂は避けられたが、このことによって地域婦人会との両立を生み、運営上、いろいろな困難点は多かったが和を第一として相互協力を続け、成果も大きく計呂地婦人会として全盛の時期であった。
 33年、会員数155名、敬老会、学校行事への協力、学校や母と子の家へ引き幕、テレビなどの寄贈、映画会、大型バス貸切り2台満席での温泉一泊研修旅行等々を行った。
 また、農協婦入部にあっては、生活改善物資のとりまとめ、羊毛の刈り取り、婚礼衣裳の貸し付け、貯畜増強運動など、時代の要請に応じた力強い活動をすすめた。
 しかし、婦人学級の開設にともなって、地域婦人会と農協婦人部との両立に無理を生じ、その後、自然解散となった。

 34年1月、第1若妻会(会長 岩間かつみ)誕生、36年5月、市街地親愛婦人会が結成されるなど変化がみられるようになった。
 
5,農協婦人部  昭和22年11月、農協法の制定により農業協同組合が組織され、農村婦人にとっても協同組合の理解や農事の各種研究が大切なこととなった。
 農村婦人の使命について自覚を深めてきた婦人たちの活動が次第に盛り上り昭和30年12月、芭露農協管下の婦人を結集して農協婦入部が結成された。加入者総数250名。
 初代部長、中沢初子(芭露)、事務局、林  茂 であった。
 部員組織の強化、零細貯金の吸収による貯畜運動、羊毛の刈り取り、社交儀礼の簡素化を図るため婚礼衣裳の購入貸し付け、美容室の開店など多くの活動実績をあげた。
 計呂地婦人会は、農村部7、市街3という集まりで、それぞれの環境も異なり、やや齟齬をきたす点があっただけに、農村部における組織的な婦人団体の必要性を感じ、芭露農協婦人部計呂地支部を結成するに至った。
睦や農村婦人の社会的経済的地位の向上を図るための活動を続けている。支部々員数 50名
 
6,計呂地第1若妻会  34年1月、地域の若妻たちの交流を深めながら教養を高めることをめざして第1若妻会がつくられた。
リレー日記からはじめ、家族教育・夫婦懇談会、レクリェーションなどと、グループ活動の機会にめぐまれない農村の若妻たちの明るく楽しい集いの場となった。
 その実績が世に認められ40年、NHKテレピがとりあげる所となり、時の会長、江崎雅子がその紹介にあたった。
 また千葉君子が会長だった41年2月、網走支庁長表彰をうけた。
 しかし、50年頃には、指導者の転出や農村の離農状態が進むなかで活動も次第におとろえ56年、会は名を残すのみとなっている。
 
7,計呂地第2若妻会  昭和49年春発足以来、年、1・2回の交流ではあるが長くその活動を統けているグループである。
 
8,芭露農協婦人部
 若妻会計呂地支部
 昭和60年3月19日、従来の若妻会が発展的に解消して芭露農協婦人部若妻会として一本化され、計呂地支部として新発足した。
 部員は10名ではあるが各種研修や料理講習回答を開くなどして広く活動を続けている。

9,計呂地市街親愛婦人会  昭和36年5月に設立、毎月、1階以上の例会をもち、各種講習、研修会、保育所運営に対する協力、計呂地部落・市街地部落行事への協力、道内温泉地研修旅行卯などを実施してきた。活動資金は、会費と各種年金の集金手当などをあてている。
 最近の婦人学級としての活動内容は、料理実習、成人病対策、家庭生活改善、映画「幸福とは何か観賞、手芸、あみもの、血圧測定、健康相談、着付け、なわとび、生け花等々である。
10,湧別開拓婦人部協議会  発 会 日    昭和36年4月9日
 事務局所在地  湧別町緑町240番地
婦人会創立の目的
  夫人相互の親睦を図り相互扶助の組合制心を涵養し、知識技能を磨き営農の促進と明るい新農村
  建設に協力するものとする。
会員の増減
  発会当初の36年には会員130名であったが、離農に伴い、昭和44年には127名、49年4月末に
  は39名となり計呂地地区は8名となる。
婦人会の活動
  地区購買  研修旅行  飼料紙袋回収  懇談会  貯蓄事業の促進  教育研究会の実施
  家計簿記帳興趣会
計呂地地区第1・第2開拓婦人部
  第1婦人会
  第2婦人会
  
11,湧別町畜産農協
     婦人部協議会
 昭和49年国の開拓行政終局に伴い、湧別町畜産農協婦人部協議会と改名す。
現在(昭和60年度)の計呂地地区畜産農協婦人会員 
   8名
12,計呂地婦人会の歩み  戦時中のことなので奉仕的精神を目的として愛国婦人会・国防婦人会が組織されていた。初代会長に新海タメ・2代目に故中山トメさんが終戦まで会長としての任を果たされた。
 この婦人会は自然消滅の形となり、その後会員の自覚により計呂地婦人会が誕生し、計呂地地区が一体化した中で、婦人の資質向上・文化の発展等種々の活動がなされた。
 昭和28年頃農協の要望もあり地域の特性を踏まえて農協婦入部に加入し活動したが、地域婦人会と両立しているような形で運営はしっくりいかなかった。それで、農協婦人部として一本立の組織とし毎年各部落会で交代に会長・役員を選出していた。
 また、計呂地市街でも新しく親愛婦人会が組織されたり一方、開拓婦入部も結成され、それぞれ会の方針に向かって躍進している姿は現代を象徴している感がする。

13,農協婦人部計呂地支部
    結成の思い出
               渡辺 テル子 
 思い出せば30年前の過去の日、ほのぼのと春風の吹く頃農協組合長さん以下5・6人の方々が婦入部設立の上、必要な内容の趣旨を徹底したお話をして下さるためご足労下さいました、
 当時は会員の出席者がまるで少なくあまり関心がないことが伺われました。あいまいの中で婦入部が30年に結成されました。当地は市街3分・農村7分の集まりだけに、環境も異なっているのでお互いに和をもっていく信念が相互理解の要と思いよくやっていました。
 とり急ぎ生活改善実施に貯畜の共励会、または羊毛刈取り集荷・取次と時代を追って活動が行われました。実施活動の途には私達部員なかなか難問題がありました。各役員の苦労は数々あったと思います。幸い部落の方々の協力と部員の一致団結を得まして共励会に入賞したこともありました。
 また、部員は種々催される研究会・講習会・旅行等で勉強され、農村婦人としての自覚を高め全ての面で向上していきました。
 このことは一人一人の意欲もさることながら組織の力で取得したことであって、今さらながら組織の重要さが痛感され感謝の念でいっぱいでございます。

14,計呂地婦人会の
       活動内容
 愛国・国防婦人会時代
  ・銃後をしっかり守り、特に出征兵士の激励・戦死者の供養
計呂地婦人会時代
 ・交歓会・旅行・講習会に出席
 ・運営資金増成に定期的に教育映画会開催
 ・敬老会に協力 ・計呂地小学校に引幕寄贈
農協婦人部
 ・貯金増強の協力  ・羊毛刈取り集荷
 ・美容室を置き婚礼衣裳の借付
 ・・敬老会の協力  ・老人憩いの家にテレビ1台寄贈

15,思い出               林  ヤエ
 この度計呂地部落郷土史発刊に私の思い出を加えていただきますことを光栄に思いますと同時に感謝申し上げます。
 私は17年9月より55年11月まで町及び部落の皆様に愛され支えられた生活の中で過ごさせていただきました。
 思い返しますと駅周辺は水が無く、中湧別から列車で10トン入位のタンクで駅や家族の方々に送られてきた水を、国鉄の御厚意で私達部外者にも利用させていただきました。列車の都合で1時間位で汲み終えなければならず、1斗バケツ20キロぐらいになみなみと汲んで天秤棒で100メートル程を駆け足でかついだものでした。
 戦前戦後の物資や食糧不足時代の中で、節約と工夫と努力とで心身共に鍛えられ逞しく時代を生抜いて参りました。おかげで現在健康に過ごしていることを喜んでおります。
 32年頃市街婦入部を「親愛婦人会」と今野様が名付けて、新設された保育所の備品資金やオルガンの調達に、歌と踊りのバラエティー等と名をつけ、20名ぐらいだったでしょうか、今は亡き沢西様・柴田様、遠くになった山原様・角田様・湯村禄・小林様・追永禄等と踊り歌って御厚志を頂き、どうにか希望が叶えられましたことがとても楽しい思い出です。それに園児の昼寝用小布団もみんなでつくりました。
 開基85年・開校80年を心からお祝い申し上げます。
 雄大な計露岳と水資源豊かなサロマ湖と共に、益々輝やかしい歴史を重ねられます様お祈りいたします。

第6節 その他 最初に戻る
1,公民館活動  昭和21年、文部省から社会教育施設として「公民館設置要綱」並びに「公民館の設置運営について」の通達があり社会教育実施についての方向が明示された。
 湧別町においても27年、湧別公民館の設置を皮切りに周辺部落へ公民館を建て、計呂地も部落民の要望もあって49年設置をみた。
爾来、部落行事、あるいは社会教育活動の場として多くの人々に利用されてきた。
 ここに至るまでの過程を記すと、41年に、地域の中央にあたる学校入口に「母と子の家」が建設され、公民館同様使用出来ることから各種団体が会合に学校を借りることもなく使用され一段と便利になった。
 その後、市街地区住民より町に対して「公民館」もしくは「児童館」建設の要請が起こったが、すでに「母と子の家」の公的施設が建設されている点から至難との回答があった。
 そこで、志撫子地区と話し合いを重ね、計呂地には「母と子の家」・志撫子には「部落会館」が建設されているが、何れも建物面積が狭いので、結婚式や葬儀には不便である。地域事情を考慮して同地域合同の公民館を計昌地市街に建設する運動を行った。
 要望がかなって、49年現在地に新設を見、盛大に落成式並びに祝賀会が催された。爾来、諸団体の活動に役立ち、地域の発展に大きく寄与してきたが、結婚式や葬儀には尚控室の数が少ない上、面積そのものが狭溢である、という声が多く増築の必要を町に改めて要望することになった。
 区としては56年の総会で正式に増築問題を協議し、町政懇談会の要望事項のーつとして、61年度に行う開基85・開校80周年の記念式典までに増築実施を要請した。
 しかしながら町の回答は、全町的見地から、人口密度・使用状況からしても増築は不可能とのことであった。
 その後も役員会等で数回にわたり協議し、根強い陳情を繰返していたところ、保育所の建物改築の話とがらみ事態が好転し、60年度予算で増築工事が実施された。
 工事建設にあたっては地域の要望を考慮に入れステージ等も広く便利に改造してくれている。
 増築後は色々な面での活動が広範囲にわたることが予想され地域発展の原動力の場にふさわしい建物となるであろう。
 この度の開基85・開校80周年記念行事の一環としてステージ幕の購入を記念行事協賛会の予算に組み入れることになり、61年度記念式典の盛会を皆様ともども願っている次第である。
2,在郷軍人会  大正の中期・当地に数10名の在郷軍人が居住していたが、組織がなく、また中心となる忠魂碑も建立されていなかった。
 それで、当時の帰郷兵56名が、地区の有志の方々と話し合いを重ね忠魂碑建立に踏み切り、大正13年四号線の神社横に建立することになった。4号線に建てることを条件にして、材料は、6号線の小野寺氏より、直径73糎程の楢の本の寄進を受けた。
 さらに、懸案であった在郷軍入会の組織も、湧別分会11班として発足し、初代班長に窪田忠告が選任された。
 当時の在郷軍人は、
 本田弥太郎・洞日吉兵衛・岡山久信・宮地信∵阿部銀二郎・岩間正男・本田義孝・他補充兵数10名・その後、中村利男・中村秀男・大出理丁阿部三義等帰郷兵として加入し、太平洋戦争も間近になると帰郷兵も増え在郷軍入会は次第にその数を増していった。
 20年8月終戦に至り在郷軍人会も自然解散となった。
 しかし、戦争で亡くなった戦没者の霊を弔う忠魂碑を大沢重太郎の寄贈により、計呂地神社境内に石碑で建立し、毎年8月15日法念寺住職により慰霊祭を遺家族と地区役員で取り行い今日に至っている。

3,若さぎ子ども会  発足 若鷺青年団活動の中から
 昭和36年・市街地の青年4名で結成した若鷺青年団がボランティア活動のーつとして、小中学生を対象に珠算を教えていた。これがきっかけとなって、子供会活動をしてみてはということになり、石渡輝道が中心になって昭和38年四月「若鷺子供会」が誕生し育成されたのである。

  名称の由来
 「わかさぎ」は鳥類・魚類に存在する。鳥のわかさぎは大空を飛び回り、魚のわかさぎは大海を泳ぎ回る。子供達もこの両わかさぎにあやかって、心身共に健康でたくましい自然死児に育って欲しいという期待をこめての命名である。
  発足当初の主な活動内容は
 キャンプ場清掃  親子ソフトボール大会  珠算教室 ひな祭り会  スキースケート大会  親子カルタ大会 クリスマスの集い  ラジオ体操  親子花火大会 交流キャンプ  サマースクール  親子歩け歩け運動等で、この活動の一端は新聞に紹介されるなどもあって、予期以上の成果をあげたようである。
 その後(44年以降)町の地域子供会育成協議会が結成され、「若鷺子供会」も町の組織に加入し、その事業計画に基づいて参加し活動している。主なものは、
交歓ソフトボール大会  チビッ子文化教室  児童劇団 公演鑑賞  交歓百人一首カルタ大会  リーダー宿泊研修会等である。
 しかし「若鷺子供会」も年々子供達が滅少し、最近は十分な練習も出来ないまま参加しているのが実態である。
 最近・全国的に子供の問題が関心事になっていることを考え合わせ、この立派な「若鷺子供会」を何時までも持続させ発展させなければならない。

4,洋裁と和裁  柔道場を和裁教室に併用
 昭和28年、戦後の虚脱と食糧危機、物資不足の混乱からぬけ出し、そろそろ安定の兆しがみえてきた時期、今まで買うことのできなかった衣料品、布地類などが姿をみせはじめ、洋裁、和裁熱が急激に高まってきた。
 しかし、若い女性の要望を満たす公営の教習所もなく、教習に適する建物すらなかった。
たまたま、日中、使われない柔道場を石渡要助は和裁教室として開放、農業改良普及員、沢西武雄夫人カツ子を講師に招き和裁塾を開設、裁縫、手芸などの技能習得の場として、行政的におくれていた社会事情の中で、女性の教養向上に、大いに貢献した。

5,敬老会   敬老会の記録としては、湧別小学校沿革誌に、

 大正14年1月7日「敬老会開催」とあるが、最も古いものであり、主催者はあきらかではないが、当時・開校の保護者会副会長であった.和田収の談として
 「児童教育の側面からも、老人尊重は道徳心を涵養するに効果があると、市街有志と図って経費を寄付金に求め、酒肴を準備し、60才以上の老人に公会堂に集まってもらい慰安した。」

ことが記されており、この時に記念品として贈った鉄瓶に「下湧別村敬老会」と刻まれている。しかし、以後は継続されなかったようである。
 その後青年団や婦人会の組織活動が行われるようになってから、村内の各地域で、団体主催・あるいは区の事業としての敬老会を、青年団体が引受けたような形で、時折催されるようになった記録が散見される程度で、特に恒例的なものにはいたらないうちに、不況−戦争の嵐で敬老会は見送られてきたようである。
 戦後、復興が進む中で昭和26年から、各地区ごとに敬老会が催されるようになった。
 当計呂地地区においては、昭和27年に婦人会が結成され、会長西喜美代は、時の青年団長渡辺喜平と相図り、婦人会・青年団と共催で区の協力を得て、第一回の敬老会を開催した。
 翌28年には町制が施行され、各地区で行われていた敬老会は町の協力のもとに実施されるようになり、記念品の贈呈など、町の助成があり、しばらくはこのような形で推移してきた。
 昭和38年に「老人福祉法」が制定され、ついで41年「敬老の日」が新たに国民の祝日に加えられ、老人福祉が改めて見直されるようになると、従来行われてきた各区または地域ごとの敬老会の内容が一段と充実され、加えて3年ごとに全町の老人を中央公民館に集まってもらい盛大に敬老の行事が行われ現在に至っている。
 尚、59年度の当区の敬老会は「老人憩の家」で該当者46名(70才以上)招待者9名・お手伝として婦人18名・青年4名の協力を得て開催された。
 アトラクションとして、学校側の協力をいただき、児童全員の演出による遊戯・楽器演奏・その他が行われ、お年寄りの方々は、孫や近所の顔見知りの子供達の演出に見とれ、年々この日を心待ちするようになっている。
 60年度は全町の方が一同に会する3年目の年になっている。老人の方の中には知り会った人々の集まりの方が親しみ易いという声もあるようだ。
 当地区の住民は、恵まれない環境のもとで営々として働き続け、あらゆる分野で社会に貢献してきたお年寄りの方に、常に感謝と尊敬の念を抱き、日頃の労苦をねぎらい、敬老会等を通じて長寿を祝福し、末永い幸福を念願している。
6,札幌近郊計呂地会    昭和42年2月札幌近郊に計呂地から移住した人が年毎に増加し、永い問計呂地に住み苦労しながら生活を共にしてきた同志が2年に1回集まり昔を忍び想い出を語り親睦を楽しむ計呂地会が結成された。
第7節 回   想 最初に戻る
1,計呂地の思い出              札幌市 大野貫一
 開拓記念誌を発行するので何か一つ思い出を投稿してはとの書面を受けましたので、不肖を省みずお願いする事にしました。
 計呂地在任50余年、これと言った足跡は残してきませんでしたが、開拓当時の思い出にはほど遠いものもあり、記憶を辿りながら、文中前後したり年号も誤りがあると思いますので、この点ご容赦を頂きたいと思います。
 私の生国は岐阜県大野郡荘川村新淵という所で、大野福次郎、ナミの長男として、明治41年に長い人生の第一歩を踏み出したのです。
 父は現役の軍人として、富山の歩兵35聯隊に入隊し、台湾征伐・日清戦争・日露戦争と両3度の戦争を体験し、除隊時は陸軍軍曹であった。
 父は明治43年4月、私が3才の時に同行者5家族と共に、明治25年に佐呂間町の武士に移住していた伯父を頼って渡道することになった。
 函館に着いたのが4月中旬、函館は未だ雪の山、それから汽車で旭川にと来た。(当時は旭川駅までしか間通していない)駅長に北見行きについて相談すると、北海道の4月はまだ、何時大雪が降るかわからず、幼児・老人連れでは全く無謀内地に帰りなさい。と言われた。その夜は宿に泊まった。
 宿の主人も駅長と全く同意見だ。同行の5家族に相談するが、今さら荘川に帰ることもならず、ままよ行ける所まで行けと覚悟を決める。
 翌日、旭川の宿を出発する。当時、道中には駅逓宿という宿泊所があった。これは時の政府が北海道早期開発と移住者のために特に設けたもので、宿泊料は無料で、人間が1日歩く里程(5里内外)の先々に設けられていた。この駅逓宿には旅人に貨すために常時3頭ぐらいの馬が飼育されていた。
 とにもかくにも、途中で祖母、当時78才や私達幼児は内地に帰ると泣き出すしまつ。それでも何とか伯父の家に辿り着いた。荘川村を出て実に43日目であった。
 現在の武士42号の入口の所に着手小屋を建てる。そうして伯父の世話で土地4町歩を入手して、これで俺も北海道に移住した甲斐があったと先ずは一安心する。
 その後大正4年に常呂村役場を通して、湧別村宇計呂地に一部区域の土地が解放されるという話があり、父は早速手続きをとったところ、翌大正5年3月に道庁より、湧別村字計呂地原野基線65番地の土地7町5反歩を払い下げる旨の通達が届いた。
 父はまず家をということで、4月になると老母と私達を残して、武士より今の小幡農場を通って計呂地に向かった。当時は道路はなく人間一人ようやく歩ける程度の熊笹を刈った道のようでした。
 ところが析悪しく、大正6年7月の北見地方を焼き尽くした大山火事は約2ケ月近くも燃え続け、その飛び火で留守番をしていた老母と私達の住んでいた家は丸焼けとなった。
 この山火事で計呂地移住が1年早くなり、大正7年3月、私は武士小学校の卒業式を前にして計呂地に引越すことになる。
人殖した大正7年頃の計呂地は、見渡す限り千古斧を知らぬ大原始林で、私の家の周囲は大木が林立し目の先が暗くなるくらいであった。
 私の家の前方には大沢さん、左方には如沢さん、学校の前には長屋さん、上の方にいって大沢音松さんの記憶だけが残っている。
 私は計呂地小学校の4年生に転入学した。当時の学校は今の教員住宅の所に位置し、3教室であった。先生は3人で、校長は伊藤友則、それから立田という坊さんの丸禿げの先生武田という女の先生であった。全校生の数の記憶はないが、私の同級生は、男子14名・女子7名であった。
 男子は本田君・山田君・杉本君・長岡君・庄司君・牧下君・牧下君・橋詰君・洞口君・篠森君・窪田君・如沢君・間島君・大野と、女子は柏君・橋本君・神田君・堀口君・木村君・木村君・大沢君であった。
 また当時の義務教育は4年制であった。
 私達の小学生の頃には、現在の藤永さんの先代の時代で相当数のりんごが植えられていて、毎度藤永さんの家にりんごを買いに行ったものです。
 その後、大正10年に父が札幌より苗木を買入れて三町歩植えたと記憶しています。この年代には計呂地でもりんごの栽培が盛んになってきて、特に15線の本田栄作さんは、当時の面積で2町余植付け、一時は計呂地のりんご本田と呼び、現在でも計呂地りんご本田で通っています。
 また、旧校舎の所に落葉松の老木が5本、今も残っていると思われますが、これは大正11年に陸軍の秋季特別大演習が北海道で行われた際、皇太子殿下(今の天皇陛下)が全軍の指揮をとられた記念として全道の小学校に記念配分されたものです。
 私が学校を卒業した年の区長さんは大沢三右門さんでして、何の事情かは知らなかったが重太郎さんが一切代理をしておられた。その当時は部落に区長の小使いという制度があって、私の家が隣りでもあり、私が小使いをということで父が引受けてきました。私は2ケ年小使いを務めました。当時の部落の役員は区長をはじめ、皆一切無報酬であり小使いは役員ではなかった。その代わり、農家は2戸当たり裸麦で3升、給料生活者は金で1円と決められていたと思う。
 区長に用件ができると、私は馬で家を出て各組合長に告げて歩いた。その頃の道路は大変で雪でも降ると馬でもやっと歩けるという状態であった。
 開拓道路は11号まではついていた。11号より武士に完全な道路が出来たのは私が17才の時でした。
 2年間小使いをし、16才になったので青年会に入会した当時の青年会は16才で入会し25才で退会という会則であった。入会した時の会長は大沢重太郎さんであった。私の親友であり議論相手は渡辺義一さんの弟の義三君で今も忘れることの出来ない友人である。それに、私が一生を通じて忘れることの出来ない先輩、如沢元治さんと間嶋重平さんとの結びつきである。青年は言うに及ばず、父兄の間でさえ、あの3人はどうなっているのだろうという噂が出るほど、3人の親密ぶりは固かった。
 大正13年と記憶しているが、今の11号線と床丹部落を結ぶ立派な道路が通ずると、同年北海道庁の病院が建設され院長に開拓医として元海軍少佐の老軍医が来る。同時に駐在所が設けられ、注連カー郎という独身の5尺8寸余はあろうかというしかも美男子の巡査が派遣されてきた。
 駐在所の人口の所には、今の岩田政市さんの御両親が豆腐店を、中湧別から亀田という人が旅館と雑貨店を、山原安市さんが精米所を、その以前には今の小林さんのいる所で阿部秀吉さんが水車で精米所をしておられた。その後、亀田さんは中湧別に戻り山田針医が入居して来られた。
 私達3人は何時とはなしに駐在所に遊びに行くようになりやがて、毎夜のように注連巡査を訪問するようになった。
 当時の人々は駐在所は悪いことでもしない限り行く所ではないという感覚であったから、私の父や、友人は私共に注意してくれたが、私達3人は一向に駐在所行きをやめなかった。
 私が確か19才の時と記憶しているが、当時連合青年の年中行事のーつとして、冬休みに湧別小学校の体育館を利用して、男女3日間の宿泊修養会が行われていた。
 この年は計呂地青年会から、如沢・間嶋・大野の3人と女子5人が出席することになっていた。開会式は9時である。
女子は私の姉も含め朝2時に出発した。私達3人は手製のスキーをはいて6時に出発した。
 途中今の市街のはずれの所で重平先輩が 「おうい、誰か寝ている。かわいそうだから起こすか。」
 よく見ると、この人は60才位の人で部落には度々魚の行商に来る人である。枕もとに焼酎の空びんが3本立ててある。
 凍死する起こせ、とよくよく見るともう死んでいた。
 「これは大変だ。俺が注連巡査に連絡に行く。」と重平君は引き返した。
 やがて、注連巡査と老軍医が来たが、私達3人は第一発見者でもあり、注連巡査は今までの私達に接する態度とは一変し職務上の取調べを私達に始める。そこで巡査とのトラブルがあって青年の修養会はおじゃんである。結果は計呂地の青年会で葬式を出すことになった。
 大正も末になると、国は軍惰力強化のために全国の中等学校以上には現役将校を配属して軍事訓練に励む。同様青年にも月二度の軍事訓練が課されるようになった。
 計呂地訓練所の初代指導員は阿鄙振次郎・窪田忠告さん、志撫子・床丹の青年達が月二度集合して軍事訓練を受ける。
 如沢さんは徴兵検査に合格して東京麻布の3聯隊に入隊した。麻布の3聯隊は皇居守備の任務があり、この聯隊は全国より選りすぐった思想・頭脳・身体の三拍子揃った青年が選ばれた聯隊であって、湧別村からは如沢さんが最初にして最後であったと記憶している。
 如沢さんが入隊と同時に私が青年会長になったが、私も昭和3年徴兵検査で父同様富山三十五聯隊機関銃隊に入隊した。
 後任の会長は渡辺義三君と入隊後聞いていた。私は2年後除隊し、再度青年会会長になるが、中国大陸では事態が悪化してきた。
 昭和12年に日華事変が勃発し、大陸での戦いは次第にエスカレートしていった。これに伴ない計呂地にも第1回の召集令状が来る。
 先ず後1年余りで兵役の終わる村井秀治・大出理了知沢元治・知沢次郎の4人の召集者であった。知沢元治さんは当時、湧別村在郷軍人会計呂地班の分会長であったので、私がその後を引受けることになる。
 大陸の戦いは、益々激しく長期化の様相を呈し、召集者は次から次へと後を新たない有様であった。国は国家総動員令を発して国民に協力を強要する。
 その後、太平洋戦争に突入し、私も昭和17年に召集され20年11月に復員してきた。当時の区長は伊藤庄恵さんで戦前・戦後を通じて7期位務められたと記憶している。
 召集で4年余留守にして、家族がお世話になったので、伊藤区長さん宅に挨拶に伺った。その時の伊藤区長さんのお話しでは、伊藤さんが、当時の村上村長が終戦の事実を故意に隠したと誤解しあわや刃傷沙汰に及ぶところだったと話していた。
 昭和28年から3年間夫凶作が続く。道はこのために、農民救済のため各地に救農土木工事を実施する。その28年かと思われるが、道より計呂地市街に沢西という改良普及員が駐在してきた。
 沢西さんは、計呂地は全耕地の8割までが重粘土で、この改良工事を部落民力を合わせて実施しなくては、計呂地の農家は永久に枚われぬ。この重大な仕事を私に責任をもってやれと説得された。私もその気になり、早速岩田政市さんを訪ねこの話をした。そこで活か決まり、関係方面に働きかけ助言を受けて組合をつくることになり新海忠五郎さんに組合長をお願いした。
 秋には支庁より測量班がきて調査し、次年度の秋より着工六ケ年で終わることになっていたが、計呂地川改修工事の事もあり2ケ年延びて完了する。これは土地改良工事で半永久的と言われている。
 この以前、第1と第2の部落では、阿部三義さんが中心となり、シバではあったが部実施してかなりの効果を上げていた。
 次に薄荷の活に移るが、
 昭和何年頃かの記憶はないが、北見地方・特に芭露以東の農家の換金作物の8割までを占めていた「北見赤丸」という薄荷が、地温の変化のためか1年で9割までが全滅してしまった、薄荷という作物は種根で植付けすれば、大体30年位は作付けしなくともよいとされ、たいていの地形に育つ作物である。この年は全く皆無で、私達農家は大きな打撃を受けた。
 赤丸薄荷は国内必要量の8割までが北見地方の生産であったと言われている。その後内地より改良品種が種々もたらされたが、作付には結びつかなかった。
 このためもあって、農業経営の内容も年々と変わってきて将来計呂地の農業経営は酪農へ移行していく。
 私は元来動物があまり好きでなく、特に牛は全くの苦手でしたので、農家の現金収入を得るのに薄荷に代わる作物はないものかと沢西普及員に相談すると、アスパラは将来非常に有望な作物で、一度植付すれば30年くらいは心配がなく、今上湧別で若干耕作しているので一度見学にと、早速2人で上湧別町農協を訪問し見学して帰る。
 その帰り農協に寄って組合長ともアスパラの事で種々相談する。沢西普及員は道庁に沢田という友人がいて、アスパラ博士と言われ、アスパラは彼が米国から持ってきて作付したもので、今道南で盛んに耕作している。との話から、翌日、2人で道庁に沢田さんを訪問しお話を伺い、その足で3人で道南の喜茂別に見学に行く。
 私はこれだと思い、組合長と相談し、役員会にアスパラ耕作を提案し決定をみた。そこで、私が提案者だから大野が組会長にということになり引受け、その後種々問題はあったものの耕作反別なども大巾に増反された。私が芭露農協役員5期の問、特に遺した足跡はこのくらいなものか。でも私が役員を引受けた当時の農協の経営は全く大変なものであった。
 私が札幌に転居するため役員を任期中途で辞任するが、前年に決議していた計呂地部落の砂客土、農村電話も今は完成して、私は時代の流れもさることながら、何か一つの大きな仕事のためには住民の一致協力が絶対必要と感じます。
 次に学校関係について記してみよう。
 昭和37年の部落役員改選で、私が渡辺PTA会長の後任と七て当選した。私は再三、断るが部落は受付けようとせず止むを得ず器ではないが引受けることにした。
 佐藤丑之助校長が昭和32年に着任し、学校に「小鳥の村」をつくって小鳥の村の村長にPTA会長が当たる。道内は元より本州方面からも視察者が訪ねて来る。春と秋の開・閉村式には報道関係者が集まりテレビ撮影も行われる。また、小鳥の調査にも度々見える。私も朝のテレピ番組に出たりで、その都度学校に出かけた。PTA会長がこんなに大変なものとは思ってもいなかった。渡辺先輩に心から感謝すると同時に部落内の種々な問題を頼まれるようになった。
 家庭の問題・夫婦のゴタゴタ・親子の件等様々であった。
私が判断のつかない問題が出ると、私は遠軽町の家庭相談所に走った。所長は大野さんは計呂地部落の何ですかと笑われることも別に珍しいことではなかった。
 また、揉め事の相談にも預ったが、結婚の仲人も私が未だ独身の27才の時から計呂地を去るまで13組のカップルを誕生させた。この人達は今は計呂地にー組もいないが、春秋必ず書面が届き近況が知らされる。

 昭和38年に私は大きな問題に直面した。それは中学校の統合問題である。これは当時道内にまた全国的にも起こっていた問題であった。新聞紙上でも、経済的・人ロ的問題と合わせて強力に進めていくと発表されていた。
 38年の3月、町役場で校下のPTA会長と校長の年度初めの会合が持たれた。(毎年実施されていた)時の町長は村上さんで、会議の中で町長は四十年度には計呂地の中学校は芭露に統合することになっていて、これは支庁を通して進して道の教育課の方に書類を提出しているので、計呂地でもその考えでいてもらいたい。とのことであった。
 私は全く寝耳に水のことで、即答をさけ、早急に部落に帰り区長に話をして急きょ役員会を問いた。役員会でも事が事だけに紛糾した。
 翌日の部落総会も同様である。3時間余の総会は紛糾に紛糾を重ねただけで結論が出ず解散する。私は翌日網走支庁に出かけ教育課長に会ったが、これもどうにもならぬことであった。その後毎日のように家を留守にしてこの問題の処理、解決にあたり、最終的に15項目の条件を付して統合に踏み切ったのである。
 最後に選挙にまつわる思い出を記して尽きぬ計呂地の回想の筆を欄くことにする。
 当時5区からは尾崎天風という人が衆議院に出ておられて5期務めて東京に転居されたと聞いている。その後任に紋別の漁業組合長で松田鉄蔵という人が代わって出ると聞いていた。
 選挙の前年の12月下旬に中湧別の駅長から、貴殿宛に長野県の種苗組合からアンズの苗木が3,000本届いているので、早く引き取って欲しい。寒気のため枯死しても駅では責任は持たれない、との通知があった。
 私には無関係なことなのでと思ってもそうもならず、馬車で中湧別の駅まで受領に行った。送り人は松田鉄蔵出しとある。それはそれとして、早速計呂地・志撫子に5本・10本と届けて大至急植えてもらった。受取った人も投げるわけにいかず困ったと思うが、私が頼むと言うので引受けてくれた。
 残った苗木は私が冬囲いして春植えることにした。
 明けて議会が解散となり、5区から例の松田鉄蔵が立候補して部落に挨拶に来た。
 昨年12月に長野県からアンズの苗木が皆様に届いていると思う。当地の大野さんの手を通して届いていると思うが、私は将来紋別地区に大量のアンズを植えて、アンズの工場を建てる種りなのでよろしく頼む、と言う。
 このアンズが春になっても全く新芽が出ない。私は届けた立場もあって調べてみると、大半が枯れていた。12月に駅に1ケ月近くも受取らずにいたのでその時に枯れたものらしい。また運良く枯れなかったものも花が咲いても実が全くつかない。私は長野県の苗木組合に照会したところ、アンズは実生では実はつかないのだと、ましてあの時期に3,000本という大量の注文は受けてもないと返事をすると、注文主の松田鉄蔵さんから何でもいいから3,000本送れとのことで送った次第で、私達は責任は持てない。ということであった。
 これも選挙にまつわる一つのエピソードである。
 私は計呂地を人生の終着駅と定めていたが、息子が札幌に居住することになり、家内と二人計呂地に残って農家をしていれば、近所の皆さんにも迷惑をと思い、家内とよくよく相談して私の代で農家を止めることに踏み切った。
 私達一家は昭和45年3月、父の代より50余年公私共大変お世話になった計呂地の里に、何一つ御恩返しも出来ずまた、これといった足跡も残さず、懐しのわが故郷計呂地の山河、部落の皆々様の暖い見送りを受けて涙が流れた。
 その年の離農者は宮地正勝さんと私2人であった。二人共農協役員の中途で辞任することになったが、農協の送別会で組合員は任期半ばで然も計呂地が2人共残念と涙の挨拶をいただき、2人共申し訳ないと挨拶にならなかった。
 計呂地部落の送別会にしても全く同じであった。それまでたくさんの離農者が部落から出ているが、部落総意で送別会を開いてくれたのは2人だけであった。宮地君と2人でこの計呂地のことを忘れてはならないと話し合っている。
 現在の私達は、札幌市東区北二十二条東三丁目の美香保という所に住んでいます。家の前には今の札幌では一審目に大きいと言われる美香保公園があります。公園としての施設が完備し、野球場も3施設あります。また、この一角には去る昭和47年冬季世界スキー大会が催された時、併せて行われた世界女子フィギア大会に、皇太子御夫妻の行幸会場となった大きな体育館もあります。
 私はこの公園に人もまだ疎らな時間に散歩に出るのを日課のーつとしています。そうして時には思い出したように、温か遠い北の空計呂地の方角に向かって「おうい。故郷の山よ川よ。そうしてこの大地の下に住む計呂地の皆さんよ。達者かな。元気かな。」と、叫ぶ。
 「故郷は遠くにありて思うもの。」かなは私の実感である。
私は現在、札幌在住の計呂地会会長をしているが、80年の記念行事を準備中と聞く。これが有終の美と、後世に残る記念行事であることを心より願っております。

2,回   想                 篠森 勇次郎
 私は明治41年6月7日、愛媛県東予市で生まれました。
大正5年に東予市の小学校に入学しましたが、翌6年開拓移住民として北海道へ渡ることになり、両親と私・弟妹の5人家族で40日間かかってサロマ町武士へ到着しました。
 武士では武士小学校に入学し、小坂先生に2年間教えていただきました。
 大正8年3月、私が小学校四年生の時、一家は現在の第3集会所の川ぶちに藤永さんの小作農として入植し、私は計呂地小学校に転入しました。
 当時の小学校は8号線付の今茂木信義さんが居られる西に小さな2教室だけの校舎で、先生も三木先生と福本先生のお2人で児童は94人だったと思います。
 お2人の先生はまもなく退職され、後任に立田先生というお寺さんの先生と伊藤先生が着任しました。その時、私共同級生26人が大正11年度の卒業生として学窓を巣立ちました。
 私が卒業した時に、現在所有している山が道庁から売払地になったので、当時の金額230円で買い受けました。
 しかし、山には水が無いので大野さんの入口から約50メートル上の基線ふちを2反程度借りて家を建て、山を開墾してハッカを植えました。また、通い労働者の坂本さんと石井さんの2人を頼んで山に小屋を建てて住んでもらい、木炭焼きをしました。
 当時、私は13、4才でしたが、焼き上がった木炭拾貫入りの俵12、3俵を馬車に積んで中湧別へ運びましたが、道が悪く、特に岡山さんの下の方や伊藤武雄さんの所、今の市街地付近、志撫子のサロマ湖畔等は、少し雨が降るとぬかるみになり馬車の輪が穴に入り動けず困り果てたものでした。
 朝の5時に家を出ても帰宅は午後の11時過ぎということもしばしばあり大変な仕事でした。
 16才の頃だったと思いますが、先輩の如沢元治・山原虎市・大橋銀蔵さん遠と相談して、
   「私達は開拓者であり、家では土地を開墾するのに猫の手も欲しい。また経済的にも大変ななかで小学校はやっと出してもらったが、今の社会は勉強が一番必要なので夜学でもやって少しでも勉強しよう。」ということになり、私共中央青年会全員の賛成を得て勉強会を行うことになりました。
 まず、土地の確保から始まり今の神社の鳥井の周辺に適地を見つけ、所有者の大沢桂一さんに頼んだところ快諾を得て土地を借り受けることになりました。
 さて、材料はと思案した結果、現在中村さんの所有地付近全域を遠軽の角谷農場が所有していました。その支配人に尾形さんという老人かおり、この方にお願いしたところ、遠軽の本家へ行って話してみると答えてくれました。
 2、3日後の角谷さんの返事は
 「そういう考えは大変立派である。私に必要な全材料を寄付させてほしい。」との有難い言葉でした。
 早速、27名の全会員が集まり、山へ行って材木を切り出し自分達で運び、手分けして小角を取ったり中湧別のマルハ木工場へ行って製材したりしました。
 材料の準備が整うと、佐藤大工さん(昔コンニャク大工とあだ名がついていたが立派な仕事をする人だった)にお願いして間口3間・奥行4間半の会館が出来上がり自分達で独学を始めたのです。
 内容は小学校時代の復習が主でした。毎日午後8時集合し直ちに勉強開始・終了するのは11時、家に帰って復習するのですが、寝ている家族のじゃまをしてはと、大野君と相談して家の横に下屋を出してそこで勉強することにしました。
 大野君は9尺に2間、私は7尺に9尺の下屋を造り、屋根は大野君のお父さんがサロマの親類へ行って「つき柾」の道具を借りてきてくれたので、2人で楢の木やアカダモ等でつき柾の材料を造り、それを五工門風呂で煮てかんなの裏返しの様な物の上に12尺位の角の先にツメがあるもので押えてついて柾を造って屋根をふき、壁は板壁、座板を張ってムシロを敷いた部屋でした。
 夜学から帰って「カンテラ」に油を入れ、復習と予習を朝の2時、3時まで勉強したため日中が眠く、ハッカの草取りをしていて草が抜けないと思ったらハッカを引張っていることがしばしばありました。
 その頃、第2部落の山田一男さんの郷里の方から鈴木さんという中学校を卒業した方が見えられたので教師として1年半くらい教えていただきました。私も郷里の愛媛県の従兄弟から高等科の教科書や参考書を送ってもらい、皆で勉強しました。大正14年頃のことと思います。
 計呂地青年団は勇立青年団と呼ばれ約70名の会員がおりました。大正14年11月3日、昔の明治天皇祭にお年寄りの方々を迎え計呂地で初めての敬老会を婦人会と共催で開催いたしました。
 余興を青年が担当することになり、当時学校の先生で佐渡かち来ていた佐藤先生と、野谷先生が私達に演芸を教えて下さることになり、青年の中から下の地域からは小熊仙治郎さん、伊藤正夫さん、中は大野君、山原新古さんに私、上からは渡辺義三君、本田古蔵君の7人で劇をやり、伊藤さんは奥さん役、私は「なすび」という芸者になって演じたおぼえがあります。
 その日は初雪が降り、7寸くらい積もったので老人の方々の送り迎えは、土そりを馬にひかせ箱を乗せて青年が行いました。ご馳走はお茶とお菓子(ビスケットとせんべい)昼食は小麦粉のしるこでした。「しるこ」のおいしかったことはいまだに忘れません。演劇に使った着物やカツラはサロマの栃木部落の川島さんからお借りしました。なかなかうまいことやりましたよ。
 少々飛びますが昭和10年だと思います。湧別町各地にて「農事実行組合」が創設され、私共の部落は計呂地第3農事実行組合と名称を変え、初代組合長に新海忠五郎さんがなりました。当時の指導者で藤田さんという方がおられまして、非常に立派な人で、私共の組合に良く顔を出され町内の模範組合を作ってはと指導をいただき、組合長共々懸命に税の完納をはじめ、ハッカの耕作、増産に各号線に風防林の植樹や、堆肥増産にお力添えをいただきました。
 そこで、町有林内の笹を刈り(許可してくれた)、馬車・土そりを引いて毎朝食事前に20把、30把の笹を運んで、堆積し、見事昭和12年にはあらゆる面で湧別町1番の模範実行組合となり、町表彰・支庁表彰・金道表彰の栄に輝やきました。
 堆積量では第3実行組合が全道で1位、個人では我家が全道1位となり賞状と金一封を貰いました。賞金は15円でしたが、金額を当時の海軍省へ寄付したところ海軍省から感謝状が送られてきました。
 当時はこのことが世問の話題に上り、雄武町の青年が自転車隊で見学に来たほどでした。ちょうどお盆でしたが、私の家では馬小屋が笹で隠れておりびっくりして帰って行きました。
 このような指導をしていただいた藤田技師は立派な方なので支庁の方へ栄転されました。
 話は少し後もどりしますが、昭和9年のことです。ハッ力作付が計呂地でも多くなったのに蒸留釜が少なくて困りました。ちょうど道庁の加賀技師考案のハッカ蒸留機が出来、これを導入することになり、長屋初太郎さん・新海忠五郎さん・大沢両家に篠森要吉の5軒が共同で機具を中湧別まで行って取り寄せ、加賀技師と工員3、4名が来て建造し計呂地全域の人が蒸留しました。
 場所は大沢重太郎さん所有地の基線の傍で新海忠五郎さんの近くでした。皆さんに長い間利用していただきました。新海忠五郎さんでは夫婦で90組から100組近く生産しました。
私の家でも弟妹かおり手が揃っていたので最高127組生産した年もあり特に利用いたしました。
 話は変わりますが、私の家で種馬を管理することになったのが昭和5年3三月からです。父といっしょに暫くやっていましたが、私が管理することになったのは昭和14年だと思います。一生懸命頑張って毎年行われる種馬管理品評会前になると、50日間位は馬小屋で馬といっしょに寝て、爪や全身の手入れ、運動と飼料の調整、馬糞の臭い爪の状態を調整するなど毎日が馬との生活でした。
 こんな生活が11年間続きましたが、妻が亡くなり、子供が大勢いたりで管理を辞退させていただきましたが、この間北見管内種馬管理品評会に一等賞7回、二等賞3回、三等賞は最初の年1回だけでした。
 後にホクレンより推薦を受けて、昭和53年11月21日、東京の国際ホールにおいて日本馬事協会の表彰を受け鈴木会長より表形状と記念品を頂く栄に浴しました。
 その後、暫く雑種牛で乳を搾っていましたが、子供達も就職し、57才の時ホルスタイン種を買って少し頑張ってみたいと思い、床丹の井田さんへ行って5ケ月経った仔牛を7万円で買いましたが2ケ月位の体積しかありませんでした。
 連れてくる途中で出会った入に笑われましたが、世界記録牛の血統なので期待していました。一生懸命管理し6月に行われた町の品評会では二等賞の1席になりました。
 その後、町の優良種雌牛の貸付制度により恵庭の方から導入した牛の仔返し牛を川西の宮本さんから譲り受けました。
 この牛はモードリンの系統でした。
 毎朝3時から夜は12時まで懸命に扱いました。2頭とも乳量が多く、仔牛が生まれると間口4間の牛小屋の中間に仕切りをして2頭の牛を別々に入れて管理をしました。
 1日に2回は親子を離して汗のかくまで運動をさせ、その後しきりをして約30分稲わらで乾くまで拭きとり、さらに清酒をワラに霧吹きしてしみさせ、それでマーサージを行いました。牛乳も温度等調整しながら人が3升飲ますなら、私は4升5合を7回に分けて飲ませたので、普通の仔牛より倍以上生長が早く、1ケ月経つと馬の尾につけて、朝タ1時間程度の運動を続け、牛乳と飼料を吟味し体の調整を取りながらがんばりました。
 8年間町内の品評会に出陳しましたが、二等賞の2席になったのは1年だけで、後は全部一等賞か二等賞の1席に入賞させていただき、北見管内農協組会長会の表彰も受けました。
 私の育てた牛の子孫が今、管内、全道で上位の成績をあげていることは、農協の指導者である本田さん・山口さん・共済の茂木さん方、その他若い方々の指導と協力があったためで私個人の力ではありません。
 私も無理をしたためか心臓が悪くなり、胃も痛みだし、こんなことでは後2・3年しか生きることが出来ないと思い、64才の時牛の飼育を切り上げ、医者にかかってみましたがあまりよくならず、食生活を改善し、少し運動のためにと思い、自分の裏山から5・60本のオンコでも堀ってこようと思っていた時、中谷庄市さんが来て、牡露岳に良いオンコがあるので、計呂地の担当区に話したら払い下げてくれると言うので行ってみないかと進めてくれましたが、自分は小さい庭を造るだけだと言って断りました。
 後日、霧雨の日、お父さんに良い物を少し残してきたということで、車で迎えに来てくれたので、現場に行ってみたところ話の通り良い物ばかり残してあり、これを植えたのが庭造りの始めです。
 その後、担当区の菊地さんからも色々話を下さったり指導も頂きました。
 機動力等については利口正喜さん親子に手伝ってもらったり、中谷さん・羽目善次郎さん・前田鉄男さん他多数の方々のからの御協力を受けて粗末な所ですが、僅か7年で現在の庭が出来ました。
皆様の御協力に心から感謝しております。
 この地に参りまして早や70年が過ぎようとしています。
 この才月は何時も何時も皆様に支えられての日々であったと思います。厚く御礼を申し上げ私の思い出話といたします。

3, 回   想              15代校長    高井 栄作
 昭和53年4月、まだ、冬のなごり去りやらぬ早春、私は校長としての、第2の任地、湧別町計呂地小学校に赴任しました。
 前野会長、村井副会長をはじめ、父母、地域の人たちとの出会い、4年間、・・・・・いろいろな学校の行事、詩吟、己年会、部落史編集など、数多くの思い出を作ることができました。
 この間、父母、地域、教育委員会等々、多くの人々に支えられ、大過なく過せたことに、あらためて、感謝の念を禁じ得ません。
 赴任1年目の運動会。誰しも考えることは「雨降り校長」 「校長が雨を持ってきた」と云われないことでした。
 人の力では、どうにもならないと解りながら、私も例外なく、心配な数日を送りました。
おかげで、良い天気に恵まれ、天の配在に感謝しつつ、午前は児童中心、午後は部落ぐるみ、と云う文字通りの、老いも若きも総出で、1日を楽しんだほほえましい風景に、強く感じいったものでした。
 夏、三里浜海水浴、クラゲに刺された子どもを連れて、中田先生と病院に駆けつけたことや、西瓜割りに興じる子ども達の姿、旧登栄床小学校や円山でのキャンプ、お母さんと一緒の炊事、フォークダンス、肝だめし等、お父さん達の陣中見舞に意気軒昂、暗闇のサロマ湖に映じたキャンプファイアの美しさが忘れられません。
 古びた校舎の維持や、水に恵まれない場所での、水道、水源池の保全に、労を借しまず、コツコツと働いてくれた公務補の茂木さんや、昔の教え子、渡辺(政)さんにも数知れず助けられ、身の幸せを昧わったものでした。
 冬、スケートが盛んで、芭露、遠軽まで出かけて練習、村井、藤永、宮地、伊藤、渡辺、洞口さんなど、熱心に、とりくんでくれた様子も思い出されます。
 リンク作りから、除雪作業にとPTAあげての協力、芭露地区の大会には、全校で参加、その成果を競ったものでした。

 最後の年には、日の丸、君が代問題で、北教組の組織的な反対をうけました。
 ご多分にもれず、Kでも、一部の先生方の卒業式業務拒否という目にあいました。
 ずいぶんと、理を尽くして話し合いましたが、結局、理解を得ることができませんでした。
 長い間、計呂地小学校で、事なく実施されてきたことを、一部の先生の反対でくずすことは、私としては出きないことでした。
 幸い、杉本教頭、牛来先生、茂木さんの協力を得て、やや変則的な運営ではありましたが、日の丸を掲げ、君が代の斉唱をして、卒業式を終え、ホッとしたものでした。
 私は祝辞の中で、教育長や父母を前に、事の経緯と実態を端的に申し述べ、「子どものために」を口にしながら、子どもを顧みない行為の不当さを訴えました。
 今、長い歴史を閉じようとしている計呂地小学校、そして先輩各位が、数々の実績を積み上げてきた歴史の一ページに我が身をおいた事実を、静かに、想い起こしながら、計呂地小での数10名の、かっての教え子たちの、すこやかな成長と、これからの、部落の充実発展を祈りたいと思います。

4, 私の思い出            林 勝弥
 私に思い出を書きなさいとのこと誠に光栄です。私は上芭露から小学校10年に計呂地部落にお世話になりました。その後、55年まで、45年間皆さんのご支援により子ども4人を育て上げました。
 戦前、戦後を通じて種々ありました、計呂地駅が出来て大量の木材、搬出それが段々減少しました。
 また、小学校50年頃まで飲料水に悩みました。その間、電気・電話・消防設備・道路整備・学校・PTA・文化施設等々数えきれない程思い出があります。
 食糧増産による開拓者の入植、それによる人口増加から経済界の変動、農業形態もかわりましたね。
 今、学園都市に生活してみて、改めて思い起こされるのは、サロマ湖・円山公園周辺で海の幸・山の幸で飲んだり食ったり遊んだりの一日です。
 先ずは皆さんの健康と幸福と発展をお祈りして筆をおきます。

5,郷土史に寄せる
         私の思い出
          大出 理一
 明治の末期、栃木県で農業を営んでいた父が、母の亡くなった後、私を畳屋へ奉公に出し、弟の辰造を連れて北海道に渡り計呂地へ入植しました。
 その父が病に倒れ、弟も軍隊にはいるので何とかして計呂地に来て欲しいと再三の要請を受け、大正14年私24才、妻22才を伴って栃木県を後にしました。
 当時、まだ石北線が開通していなかったため、名寄を経由して中湧別に到着、そこに青年団の役員で父や弟と同居し、いっしょに開墾に励んでいてくれた大橋銀造氏が馬そりで出迎えてくれました。
 計呂地に到着すると、栃木県での暮らしとは違い家々には畳一枚も無い大変貧しいものでした。しかし、大橋さんや部落の方々の暖かい気持ちに助けられ、私も妻も一生懸命に働きましたが、昭和2年父はたくさんの借金を残したまま他界してしまい、大橋さんもまた離農して部落を出てしまいました。
 その後私も栃木へ帰ることも考えましたが、父の残した沢山の借金を返済せず部落の人々に迷惑をおかけしては申し訳なく思い、この地に滞まり何十年かかっても借金を返済し、この土地を私の永住の地と決めた父に殉ずることを誓いました。
 だが借金を返すためにもこのままの農業技術ではとても返済できないと考え、まず土地の改良を始めました。
 当時の状況は本州では1反当たり麦類が焼く10俵収穫があるのに対して、計呂地では2俵が良いという有様でした。それで新海忠五郎さんと相談して昭和3年農業実行組合を作り、初代組合長に新海忠五郎さんを推し発足しました。
 まず手初めにその頃は毎年作物は海霧の害を受け困っていたので、現在では幼稚と思われる部落百年計画の名の下に各号線に防風林を植樹しました。今日ではその防風林も切り倒されて痕跡すらありません。
 その後、藤永さん、新海さん達の力で現在の農業組合の前身である産業組合を作り、農業実行組合と一緒に力を合わせ部落の発展に努めました。
 その中でこの頃最も思い出に残る一つとして我が家では長年子宝に恵まれなかった私共に長女が誕生したことと、当時下湧別村農業普及員だった藤田氏の指導で、網走支庁全域の土地改良推進による反当たり300貫の堆肥混入の事業を農業実行組合全戸が一貫して行い網走支庁より表彰を受けたことです。
 しかし、種々な努力にもかかわらず麦類の収穫は反当たり2俵が3俵に増収しただけで大幅な収穫増には程遠く、次第にハッカ・馬鈴薯・ビート等に作物の転換を図っていきました。
 私は尚、藤田氏の指導を受け堆肥を造り石灰を撒いたりして土地の改良に努め少しずつ畑作を増収していきました。
 また、畳職人の技術を生かし、先ずはお年寄りのいる家から畳一枚でも敷いてもらおうと材料を仕入れては普及に努め一心に働きました。その甲斐あって10年後には父の残した借金も返済出来、これからまた家族で頑張ろうと思っていた矢先に支那事変の勃発と共に私の所にも召集令状が届き出征することになりました。それはまた昭和12年湧網線開通(佐呂間駅まで)の記念の年でもありました。
 その後、戦争は大東亜戦争へと突入し、私もその侭兵役に就き北海道へ帰る予定も立ちませんので、当時兵役にいた北支へ妻子を呼び戦争の終結まで暮らすことにしました。
そして外地の果て、北支で2女が誕生しましたが苦労を共にしてきた妻を亡くしてしまいました。
 昭和20年終戦とともに2人の女の子を連れ計呂地へ引き上げてきた私は、苦労して作り上げた肥沃な土地は25年前のあの痩せた土地に変わり、風土の変化で畑作より酪農へと部落の人が転換していく様子が伺え、この侭私のやってきた農業経営では自分の力で元に戻すのは無理と断念し、昭和27年土地を斉藤氏に売却し計呂地市街で養鶏業を始めました。
 そしてその頃、まだ一般の人々の目にしたことのないミンクを3頭買って飼育を始め年々没頭している頃、甥が働き者の嫁さんをもらい、一緒にミンク飼育行に転換して今はミンクも1万頭になり近所の皆様の力により現在もなお営業させて頂いております。
 思えば私の半生は畳職人としての技術をもちながら計呂地の風土と戦い、いかに生きるかを模索して結局ミンク飼育業にそれを見出したと思っています。しかし、この事業が永久に計呂地の風土に合い続くものではないかもしれません。
 その時はまた、若い新しい力で必至に戦って欲しいと思います。
 往時に比べ計呂地が大変住みよい地となったことを心から喜ばしく思いつつ、これからも計呂地の人々が繁栄することを祈念しつつこの地にて生活の糧を持ったことを82年の生涯を通じて幸せに思っております。

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