計呂地郷土史
第1章 概 説
昭和の小漁師 湧別町史 湧別町年表 湧別小学校沿革史
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第1章 概説
第1節 計呂地の概要
(1) 位置 | 計呂地地区は本町の東端に位置し、東は円山から標高三二三米の無名山を結ぶ分水嶺にて、南は同無名山から武勇峠を経て計露岳に至る山嶺をもって、佐呂間町若佐と隣接する。 西は零号から計露岳に至る分水嶺を境に志撫子に、北はサロマ湖に面し南北に細長く位置する「沢」である。 東経 自一四三度四一分三六秒 至一四三度 四分四五秒 北緯 自四四度○分一八秒 至四四度七分 四秒 |
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(2) 面積と地勢 | 面積は二七九五平方粁、町歩にして二七三八町歩である。 農地は九三八町歩で、他は山林が占めている。東西南北にスケールを当てると、東西は三・五キロメートル・南北は一一キロメートルの広さを有している。 地勢は源を武勇峠に発するケロチ川が地区のほぼ中央部を貫流し、この流域が細長く農耕地をなっておりケロチ原野と稱して主に酪農が盛んであるが、畑作物としてアスパラ、ビート、スイートコーン、南瓜等を栽培している。 南端に計露岳四○八・七米が聳え、北端の佐呂間湖畔には観光で有名な円山(一六○米)が美しい形を湖面に映し、大自然に恵まれた休養地・森林公園としてその名を誇っている。 |
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(3) 地質 | 地質学上では、本町地域を構成する地質系統を大別すれば、下部白亜紀系、新第紀系、第四紀系、及び石英組面岩類から成っているとされているが、これは専門家に委ね、ここでは利用面から見た地質に触れてみる。 市街地方面はサロマ湖と水位の差が少ないため湿地であり、低質な野草の原野となっておりかなりの泥炭地が多い、反面計呂地川の流域は極めて肥沃な沖積土を形成しており、農耕地の主要部となっている。 その他の地域は重粘土質で形成され、排水が悪く農作物の収量も少なく、総合的な土地改良の必要に迫られ、行政当局や農協の指導により、昭和45年度から畑地帯綜合土地改良事業が実施され56年度に完成した。 総工費5億9005万円を要し、暗渠排水・砂客土・透水渠・国営明渠排水・農道改良に及ぶ大規模な事業で見違える程河川や農道は整備され、畑地も地力の上昇により生産力も向上した。 |
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(4)戸数の推移 | 計呂地地区入植の歴史は古く、明治37年に藤永栄槌に始まり翌38年6戸、次いで39年に1戸、40年には13戸となり、9月には草葺仮校舎を建立し子弟教育所開設を見るに至った。 以来、開拓の進むにつれて戸数、人口は急速に増加し、奥地まで開拓されたが、昭和30年をピークとして急激な減少を来し今日に及んでいる。 戸数の動態は次の通り
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(5)計呂地の沿革 | 計呂地の沿革 計呂地は湧別町役場から遠距離にあって、東は佐呂間町、西は志撫子に面し海抜四〇八、七米の計露岳より源を発し幾つかの沢から合流する計呂地川はサロマ湖に注いでいる。明治明治三十三年志撫子湖畔から十一号に至る区画が測設され翌三十四年に八十六区画が線引きされて貸付告示を見たが、”開基の模様は明治三十七年測設に従事した藤永栄槌が七戸分を出願入地、計呂地開拓の第一先住者である。翌三十八年、三十九年に長屋熊太郎、渡邉由太郎、伊藤常吉、大澤三右ヱ門、大澤音吉、村井熊吉、如沢元蔵、などが入地その後年毎に入者が増加大正初期には五十戸近くとなり、昭和三十年戦後の復興等と二四六戸をピークに高度成長に伴い都会への流出離農と共に昭和六十年には百十九戸に減少している。
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(6)地名の謂 | ケロチの地名は、アイヌが鮭の皮にて作りし靴(ケリ)を置き忘れた所の意なる由 |