計呂地郷土史
第6章 社会と文化
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第1節 交 通
(1) 手 橇  雪上運搬用具として、開拓初期には、自家薪、柴木の搬出集積に広く利用された。一本棒が取り付けられ、常に、右手でその棒で舵をとり方向を定め使用していた。一本、手がついているところから手橇といわれたらしい。
 渡辺義一の想い出によると「川口(浜佐呂間)に済んでいた10歳の頃、アイヌの人は、鮭の皮で作った靴(ケリ)をはき、手橇の引き綱は頭(おでこ)にかけて引いた。これは、下り坂で橇が滑り、止めきれず押された時、体をかわして逃げやすくするためであった。和人は、引き綱を腰にかけ、腰を入れて引くので荷物は、はるか多く運び、下り坂では、ハドメ(橇の下に針金をねじり輪にした道具)を使ってスピードの調節をして事故を防いだ。つまご(藁で作ったはきもの)をはき、雪輪(てしま、またはかんじき)をつけて雪を踏みかため通路としていた」と。
(2) 馬 橇  馬の利用が進むにつれ、馬橇の用途は荷物運搬に限らず、構造の軽快な乗り物用も出現し、中谷倉之助が武士(若佐)ー計呂地駅間を定期客馬橇を走らせた。普通の橇にも、箱を取り付けて箱馬橇として、冬期間は、もっぱら、結婚式の新郎、新婦、客人、荷物などを運び、住民にとって欠くことの出来ない役割を果たした。箱の中には夜具を敷き、湯たんぽを入れて暖をとり、鈴の音を山々に、こだまさせて行き交う光景は冬の風物詩であった。
 馬橇の起こりについて、北海道史に「志撫子11年、たまたま、移民ら馬橇に乗じて雪上を駆使し運輸はなはだ便なるをみ」と記され、遠軽町史には「明治32年、学田の高尾定平が札幌から買い入れ使用した」と、また、湧別町史には「明治36年頃、5号線に馬橇製造業が起こり、各農家に普及した」との記録が残されている。計呂地での記録は定かではないが、
 大沢重太郎によれば、「13歳の頃(明治13年)馬を買い入れ、馬による運搬をはじめ農外収入を求めた。大正5年頃には、サロマ湖の氷上運搬者の数も増えた。湖上は平らで見通しも良く、雪の吹き溜まりもなく、最高の輸送路として便利であった。」
 サロマ湖の水は、毎年、5月頃には増水する、氾濫の災害を防ぐため、漁民の要望により、昭和4年4月、400米の湖口を開きオホーツク海とつないだ。これにより湖上通行は危険になり利用されなくなった。
’3) よ つ  馬搬専門として、「よつ」が登場したのは、昭和の初期であった。馬橇より橇幅が広く重心も低く安定し、一度に沢山の荷物を運ぶことができた。
(4) バチバチ  親と子、二つの橇から成り立ち、昭和10年頃から、広く利用された。長い荷物は子バチと親バチの距離をはなして、荷物の重量の分散をはかるなどの調節ができたので、農産物、家畜の飼料運搬、その他広く利用された。特に良材の運搬には便利で、車の時代まで、多くの人に愛用された。
(5) 馬車と保導車  湧別町史によれば「本町に馬車が姿を見せたのは、明治29年、春、屯田建設工事に6台請負業者が持ち込んだ。当時の道路には砂利が敷かれていなかったので、路面に深く食い込み、馬車の破損が激しく普及の域には達しなかったが、犬正2年には、79台」と記されている。計呂地での記録はないが、古老の話によれば、大正10年頃、太知商店(現大沢商店)が雑穀を買い集荷に利用したのがはじまりのようである。
 当時の馬車は、2寸金輪で軽快な反面、負荷力が少なく、また、路面を著しく破損した。昭和15年頃、普及のテンポが早まるにつれ、2寸幅は禁止となり、4寸幅(13糎位)だけが許可された。
 馬車は、荷物運搬ばなりでなく、戦時中、学徒動労報国隊として、道内外からの援農学徒の出迎え、見送りなどにも、なくてはならないもので、駅前は、馬車で賑った。
 戦後、高角砲の車輪を利用した改造馬車が多く出回った。
また、昭和30年代にトラックが普及しはじめ、その古タイヤを利用した保導車が出現し、従来の金輪の馬車は、次第に影をひそめていった。更に、自動車の時代となった30年代後半には、馬とともに、馬車類は姿を消し、馬車輪のみが、あちら、こちらに観賞用として名残りをとどめている。
(6) 自転車  明治36年頃、下湧別浜市街の楠瀬彦九郎が、中古自転車1台を小樽から買い入れたのが、町での自転車第1号のようである。
 計呂地では、大正3年頃、大沢重太郎が買い入れたのが、はじめと言われ普及度は極めて低かった。当時の経済事情を反映したものともみられるが、一面、スピードを必要としなかった生活意識に起因するともいえる。その後、大正10年頃から、逐年増加をたどり、昭和15年頃には住民の生活に欠かせぬものとなった。
 戦時体制の強化にともない、物資統制で自転車の部品も不足し、万年タイヤ(空気の人らないゴム質の悪い管)にかわり、その数も少なくなった。戦後、年々増加し、35年頃には、子ども用も出回り、通学生の殆どが自転車通学に変わっていった。現在では多段変速付の高級自転車が普及している。
(7) オートバイ  昭和3,4年頃、湧別市街戸田医院に往診用に備えたのが本町最初と言われている。輸入品で価格が高く、大衆的なものではなかった。12年には、5台を数えたにすぎず、戦局の進展にともない、撚料配給がなく、使用できないまま過ごした。
 昭和28、9年頃になって、自転車に取り付ける原動機が手頃の価格で市販されるに至り、大衆の関心をあつめた。
計呂地では、昭和30年頃、井関勇が、このポンポン車を、買い入れたのが始めとなり、急速に普及した。
 現在では、国産バイクをはじめ、各種自動2輪車が出回るに及んで利用者は激増した。
 昭和60年度   保有台数    39台
(8) 自動車  昭和5年、上芭露、横山商店で、ページと呼ぶトラックを購入し商品輸送と一般貨物の託送を行った。同じ頃、湧別市街の島崎祐次郎が、沼の上の鉱石輸送を請負い、トラック1台を購入して輸送業を開始したのが、自動車輸送のはじめである。
 計呂地では、昭和23年頃、石渡要助かトラックを購入して、木材運搬に使用したのが最も早く、その後、如沢元治が3輪トラックを購入し、澱粉工場の原料馬鈴薯の運搬に使った。
 農家では、浪江国雄が小型3輪車を買い移動脱穀に利用した。30年代後半に入ってからは、乗用車、トラックが急速に普及し自動車の利用も本格化してきた。
 車輛通行の激増は、不慮の事故を生ずることも多く、これを防止するため道路交通法の規則等で、交通秩序の確立がはかられ、明治34年からの左側通行も、昭和24年、人は右、車は左の対面通行に改正された。
  昭和60年5月現在
    乗用車   94台
    トラック   55台
    合 計   149台
第2節 鉄  道
1,湧網線開通までの
     運動と経過
 計呂地部落を通過する中湧別−網走間の湧網線88・8キロメートルは明治29年に名寄−網走を結ぶ北海岸線として第2期予定線に編入されていた。
 明治33年10月、網走、常呂、紋別3郡で北見鉄道期成会を結成、下湧別で第1回の大会を開き熱心な運動の展開がはじまった。その後、野付牛(北見)−名寄間、中湧別−名寄間の着工により、湧網線が大きく遅れる原因となった。
 そこで、地元住民は大正8年、中湧別開発期成会を結成、東代議士を迎えて運動に乗り出し、11月に代表者が出札し、道庁長官、札幌鉄道局長に陳情、大正10年10月25日に、中湧別で沿線5カ町村の連合大会が開かれ、本線促進の宣言が決議された。出席者の主な人々の記録のなかに下湧別代表、大口丑定、藤永栄槌、大沢重太郎とある。
 同年11月には、全国期成会、同盟会に加入、5名の湧網線地方委員の選任がなされ、運動は強力に進められた。大正12年、今年こそと上京運動中、9月1日の関東大震災で書類は全部焼失し、測量書類の作り直しとなった。
 大正14年2月、木下代議士を通じて、第8回帝国議会に請願採択となり、昭和2年8月、測量開始、翌3年3月、中佐呂間で5か町村連合会議開催、翌月は中湧別でと、運動は次第に盛りあがり、尾晴天風が湧網線期成会会長に就任した。
 12月22日、鉄道省の会議で湧網線を東西に分け、両方から起工し、昭和6年着工、12年完成と決定されたが、金解禁後の緊縮政策によって繰り延べの悲運にあった。
 昭和6年10月、網走での有志大会の席上、尾崎代議士より、昭和7年着工との報告があり、同12月、中湧別で連合大会を開き実行委員をあげて鉄道省に陳情したとの記録がある。20年間の長期にわたる根強い運動によって昭和10年10月20日、中湧別−計呂他聞が部分開通した。
翌年、中佐呂間まで開設されたが、不幸にして日支事変に続く太平洋戦争勃発により中止となり、戦後21年、再び着工陳情が盛りあがりながら進展せず、ようやく、28年10月に湧網線の全線開通をみた。

  鉄道開通当時の思い出(渡辺 豊春 談)
 待望の開通式は熱狂的な住民の歓喜のうちに行われました。私は当時、小学校の4年生であったが生まれて初めて見る人出でありました。学校では2カ月も前から、汽車を迎える歌の練習を毎日して、先生も生徒も喜びにあふれていました。
 いよいよ、当日がやってきました。全校生徒190人は校庭を出発し、道中、祝歌を声高らかに歌い、日の丸の小旗をふりながら駅に向って行進しました。駅のまわりは計呂地、志撫子、床丹方面からの見物客でいっぱい、群る人々の熱狂的な歓呼、旗の波、やがて甲高い警笛を連呼し勇ましく姿を現わした雄大な機関車。
 あの時の光景は、私の生涯の想い出となるでしょう。その後、学校の遠足で浜遊びをする時も汽車を見ることがーばんの楽しみでした。サロマ湖、のどかな青い海原、白い煙を力いっばいはきながら颯爽と疾走する蒸気機関車、湖面につきだす円山との調和は少年時代の強い印象です。
 鉄道の開通によって駅を中心として計呂地市街が形成され、活況をもたらし、経済文化の発展に大きな力を与えてくれました。
2,鉄道と運送  鉄道開通は乗客の便ばかりでなく、木材や農畜産物の積出しに大きな利用の便をもたらした。
 昭和18年頃には、軍用材8万石をはじめ、軍用燕麦、亜麻、ビートなど、○通の雇用人夫は手不足のため、大勢の臨時人夫を雇い、毎日貨車積に明け暮れ、戦後の20年代には復興資材や農産物、軍の放出物資等を運搬するため、貨物列車の連結も長々と続く風景がみられた。
 昭和30年、レールバス運行に変わり、30年代後半には道路整備にあいまって自家用車の普及にともない、鉄道利用者が減少し、46年には運営合理化の対象路線に湧鋼線も人ったが、関係市町村の合理化反対陳情により持ちこたえた。55年六月、国鉄管理局から、再び、湧網線営業体制近代化実施計画案が示めされたが、関係町村の強い反対を受けて10月1日の合理化実施は見送りとなった。ところが57年3月、旭川鉄道管理局を通して、これが実施の申し入れがあり、2月12日対策打ち合せ会議が行なわれた。
 この会議で、湧網線は利用状況からみて、旅客運行継続を条件に貨物については合理化を認めざるを得ない。
 また、関係市町村会を持って国鉄オホーツク本線構想を示し、これが実現のために強力な運動をすすめることになった。
  (オホーツク本線構想とは枝幸−雄武間の興浜南緯未建設部分51キロの早期完成を実現し、オホーツク沿岸の諸線を1本にして、本線昇格を実現しようとするものである。)
 なお、合理化実施計画案によると、旭川鉄道管理局区域内の人員整理は500人を越え、湧網線も駅員の配置駅は常呂、佐呂間、計呂地となり、他は全部無人化された。
 59年には道路や空港の整備が進み、国鉄の利用者が年々減少している現況から、ついに第2次廃止対象路線(湧網線)に決定された。これに対し地域住民から強い不満の声が起り(公共性のある国鉄が住民に不便と不安だけを与えている)各関係市町村は、国鉄地方交通線確保対策協議会、湧網線廃止反対住民会議等を結成し団結を固め上京運動を行った。
利用促進対策として
 一、利用し易いダイヤの改正
 二、公務出張に国鉄利用
 三、各関係機関への利用呼掛けを行い、国鉄を利用する運動として
 1、9月9日網走市卯原内に於て、湧網緯利用促進綱引大会が盛大に行なわれた(湧別町チーム準優勝する)
 2、10月21日湧網線カラオケ、ビール列車(臨時列車乗客100名)中湧別、常呂間を運行した(乗客満員、計呂地より7名参加した。
   今後の課題第3セクター化が可能かどうか関係町村の意見が一致しても道の資本参加が条件とされており、知事の同意が得られなければならない
 3,道路バスの運行に切り替えるか決定まで2ヶ年の猶予期間が残された。
 4,以上の運動経過を経ながらも62年4月、バス転換に決定した。
3,計呂地駅  位置
 紋別郡湧別町計呂地229番地
 湧別町東部、計呂地及び志撫子川流域を駅勢県内とし計呂地川がサロマ湖にそそぐ位置にある。
 沿革
 昭和10・10・20 計呂地駅開業(中湧別〜計呂地間)終着駅として各列車が折り返し運転
             翌11年10月17日佐呂間まで延長される。
 昭和28・10・12 湧網線全通
 昭和30・12・25 客車分離の輸送となり、レールバス03型運転
 昭和33・11・30 本屋改築
 昭和41・ 3・10 ディゼルカー21型、22型運転
 昭和47・ 2・ 8 営業近代化により荷物、貨物取扱廃止
 昭和48・10・15 「花いっぱいコンクール」優良賞を受賞
 昭和50・ 8・ 7 SL廃止、DE10型導入
 昭和50・ 8・30 通学生自転車置き場新設
 昭和50・ 7・10 観光スタンプ作成
 昭和55・10・ 1 ダイヤ改正、夜間列車廃止
 昭和23・11・15 殉職事故発生
             計呂地駅構内3番線、駅務係浪江良武(明42・2・5生)下り混合列車着後、直に、当人は貨物受授を済ませ、手荷物の受授を手伝うべく歩行中、足元の信号ワイヤーに足を引掛け転倒した。たまたま、列車は入れ換えのため約半車後退したため右片腕及首を轢断即死した。
4,歴代駅長
  歴代助役
 駅 長
1,勝本長一 2,小堀勘之丞 3,向沢喜一 4,細川清次郎 5,阿部六郎 6,上野輝三 7,須田国雄 
8,阿部五郎 9,小林吉則 10,長谷川信政 11,小林実 12,水野栄 13,杉野義雄 14、脇 邁 
15,十河哲一 16,大橋吉一 17,宍戸忠悦 18,野崎昇 19,鴾野光雄 
 助 役
1,相馬胖 2,松橋寅之助 3,工藤清 4,山田政光 5,茗作富士男 6,藤本定雄 7,湯村勝三
8,紺野高諠 9,前野浩 10,長崎忠 11、羽根田一夫 12,鎌倉秋生 13,田原武夫 14,岡田力
15,野上治 16,沢口重信 17,佐藤貢 18,金山久一 19,守谷幸一
第3節 道路・バス
(1) 開拓の歩み  開拓の初期、明治37年に人権が始まり、同40年9月には簡易教育所が設置された。
 当時の道路の状態は、もちろん現在のように車が通行できるようなものではなく「けもの道」と言った方がぴったりしていたようだ。
 初代教員後藤徳三郎は「計呂地は道路も満足になく、兎の道のような細い所を通学する児童は、朝露で着物はぬれ実にみじめであった。」と話していた。
 このことからも先人の労苦をうかがい知ることができるが、当時の道路状態が開拓の歩みを遅らせたことも容易に想像ができるのである。
 大正5年頃は11号、現在の洞口正喜の道路向かいに諏訪問仙蔵(清の祖父)が居住していたが、これより奥には人家はなかった。
 大正7年に入植した渡辺義一は「佐呂間村知来より1月20日に馬櫓で荷物を運んできたが、道が悪く諏訪問宅に馬橇を預け、馬を引いて徒歩で現在地の17号にたどり着いた。」と語っている。
 町の記録には、明治41年に計呂地原野道路として11号線までは交通路として利用の道が講じらていたが、村財政の弱さから村費の支出がなく、専ら関係住民の奉仕作業によって補修される状況であった。

 大 渾 重 太 郎 談
 大正11年に、11号〜武士(現在の若佐)間の道路開発を、道の第2次拓殖計画に入れてもらうよう貴田国平(道議)に尽力を依頼し網走支庁に出向き陳情を行った。思えば、この日(大正11年5月)が網走の町と私の最初の出合いであった。
 陳情の結果が功を奏し、8月に北見土建業者による測量が開始され工事が着工された。
 一方、村役場にも道路補修計画として300円の補助申請を行ったが、村会では難航し実現が危ぶまれた。そこで、再度の陳情を行った結果、村長の決断により認可された。
 これによって、4号線〜6号線間に300円による村費補助金で砂利を敷くことができた。そして、これが村費による道路補修の最初のきっかけとなったのである。
 その後、昭和6、7年の凶作による救農土木工事、補助事業のある機会には必ず道路補修工事が実施され、村費支弁の効果的運用が図られた。
 また、冬期間の道路の通行確保には、各戸より馬を出し、共同作業で雪を踏み固め、学童の通学にも支障をきたさなかった。

(2) 発展期  戦後経済の著しい発展は、車輛の増加に伴い交通事情は田舎と都会を問わず一変してしまった。
 これにつれて道路整備も従来のような半ば放任のような状態は許されなくなってきた。
 昭和26年に北海道開発局の設置で、道路行政は積極さを加え、国道・道々等は計画的に改修補強工事が実施されるようになった。
 このような社会情勢を反映し、村では昭和24年にトラックを1台購入、続いて30年には2台に増加され、土木事業にあてられるようになった。
 一方、部落では道路愛護組合(現在の土木部)制度が設置され、村道補強の急務等がこの機関を通して反映されるようになった。あわせて網走支庁主催の道路共励会会議にも出席し、事情を訴え計呂地の本線道路も逐次補強され、車輛通行に支障のない状態となった。
 また、これまで冬期間の積雪でしばしば途絶した道路も、バス営業車が除雪車を備え、降雪や吹雪のつど営業路線の除雪を行うようになった。
 また、各号線は町が酪農助長策として農協に協力を求め、効率的に集乳路線の除雪を行った。
 40年代に入って、大澤重太郎(道議)の尽力に加え、計呂地〜若佐問の道々昇格に強力な運動が行われた。それによって、44年に計呂地〜武湧峠が道々に昇格した。
 しかし、現実は町道当時より補修の回数も少なく、舗装の見通しも立だなかった。それに反してこの道路は、大型車の通行が日増しに増え、砂塵の巻き上げる被害が甚だしく、沿道住民の環境衛生上からも舗装は必須のものとなった。
 部落は町政懇談会を通じ、また現職道議に陳情を重ね、50年代に入ってようやく見通しがついた。年次計画に基づき舗装がなされ、55年には全線舗装の完成をみた。
 また町道・各号線道路も団体営畑総事業の枠内で改良工事が完成し、4号線、7号、10号、11号、13号は町により舗装が実施された。
 現在(59年)冬期間の除雪は、計呂地〜若佐間道々、計呂地各号線、町道11号若里間等の主要道路については、市街渡辺技研工業によって迅速に行われている。
  61年現在主要道路
  本 線 国 道  湧 別〜網 走
  本 線 道 々  計呂地〜若 佐
      町林道  7号線〜志撫子奥
      町 道  11号〜若肌中央
      町 道  17号〜若里奥
  営林局 林道  17号〜東芭露奥
(3) バスの運行  「私は昭和9年11月に、計呂地教紋所3代主管者として計呂地に移住した際、家族と共に3号線(柏旅館)前までバスに乗ってきたが、それから奥地へは車は行かず、出迎えの人達と徒歩で説教所(10号線)までたどり着いた。」・・・深谷忠男談
 役場の記録によると、計呂地線については「昭和10年13号まで6人乗フォード(現在の大型乗用車)の運行認可」とあるが、古老達もこのフォードに乗ったという人は無く、実際には運行されていなかったもようである。
 17年に町営バスが湧別〜若佐間に運行され、これ32年には北紋バスに、更に37年には北見バスに移管運行された。
 しかし、44年には赤字路線となり若佐線は廃止となった。部落は、計呂地中学校が芭露中学校(現湖陵中)に統合になる条件の中に、生徒はバス通するという契約があるので、町に要請し、19号まで代替バスを走らせることで生徒の通学の足は確保することができた。ただ、一般住民の利用は問題が複雑さをはらみ、解決にはいたらなかった。
 とりあえず、一般住民は町が発行する乗車券を区長宅に買いに行くことで、煩わしさはあるが代替えバスに乗車することができた。
 これも、49年10月から正式に町営バスが運行されることにより問題は解決され現在にいたっている。

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