計呂地郷土史
第8章 保安と衛生

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 第1節 警 察  湧別巡査駐在所が設置されたのは、明治25年と伝えられているが、確たる記録がないので明らかではない。
 明治27年以降、農業移民の増加をはじめ、市街の形成、屯田兵村の開設などにより、同30年に湧別戸長役場が設置され、人口5,000人を超える発展をみたことから、同34年8月15日に網走警察湧別分署が設置され、紋別分署から巡査部長白木練太郎が11月に着任し、巡査2名と共に湧別村全村域の治安を担当した。
 その後44年4月、芭露に巡査駐在所が開設された。さらに、大正10年9月の道庁告示により、同年11月1日に、紋別分署が紋別警察署に昇格し、紋別郡一円は同署の所轄区域とされ、湧別分署は紋別警察署湧別分署と改められた。と同時に同告示に基づき、計呂地巡査駐在所が11号(現在のバス停)に設置され、計呂地・床丹(現若里)地区を担当し巡回査察をして治安維持に当たっていた。
 大正15年6月5日に、大幅な機構改革(地方官制改正)が庁令第61号を以て告示され、分署が廃止されて警察署として独立することになり、湧別分署も湧別警察署に昇格した。次いで同月30日の告示で、遠軽警察署が新設される及んで、湧別警察署の管轄区域は両湧別に縮小され、計呂地巡査駐在所は廃止された。
 その後、戦時下・戦後と大幅な機構改革が行われてきたが、現在の計呂地は、芭露警察官駐在所の管轄に編入されている。
 第2節 消防活動
(1)警報の移り変わり  (板木)大正の初期、国道38号線と計呂地道路(道々若佐線)三角地点に、オンコの木で高さ6米ぐらいのハシゴがたてられ、最上部に40糎平方で厚さ10糎ほどの乾いた木の板を針金でつるし、かたわらに木槌が備えてあった。
 当時、急を気づいた人は誰でもがのぼって叩き閉散とした山林にこだまして音が響き、近在の人々にその急変をつげた。
  昭和58年  鈴木ミン 談
 「大正のはじめ、突然、熊が道路にあらわれて腰もぬかさんばかり、ガタガタふるえる足で、やっとハシゴをよじのぼって夢中で板木を叩いた。何事かと部落中大騒ぎになった。
熊も、あまりの騒ぎに驚いたのか山の中へ逃げていった。熊の姿がみえなくなった後と恐ろしさのあまり体が言うことをきかず、ハシゴの柱にしがみついていた。」

 (半鐘)大正の中頃、開拓が進につれて山火事もよく発生した。
 山火事の通報を目的として、高さ10米ぐらいのハシゴ付三脚の望楼が4号線、9号線、13号線にたてられた。
 この望楼には、釣鐘(径50糎〜30糎)が釣るされ音の聞こえる範囲が一層拡がった。
 (サイレン)昭和10年頃から、戦時体制も一段と厳しさを増し、軍需産業における鉄材不足のため鉄製品の献納が強いられるようになり、釣鐘もその一翼を担った。
 戦中は、監視所として警防団で管理され手回しサイレンが取り付けられた。
 戦後、計呂地市街に消防番屋が建てられ、出力の強い電動サイレンに変わった。
(2) 消防団  入植初期は伐木を積み重ねこれを焼却し、開墾作業の労働力を少しでも軽減しようとしていた。このように、山を焼いたり、伐木を処理したりという火の利用が多く、これが、しばしば山火事の原因となった事を古老は話している。
 文献によれば、明治27年勅令に基づき、内務省令で、「消防組規則」が公布された。それによると、公設消防組の設置は「一町村一組」を原則としていた。
 本町では、これに基づき明治43年8月に「下湧別消防組」と「中湧別消防組」が公設された。
 当時の消防組は警察に任免指揮権が所属し、器具機械等の施設・消防夫出場手当等は村費で支弁維持されていたと記録されている。
 昭和10年5月に芭露市街に「自警消防組」が設立され、12年公設に移管となり編成区域に計呂地地区も入った。
ちょうどこの時、日支事変が勃発し、「防護団」が結成され(12年10月)た。これは、防空関係に備えるためのもので燈火管制の警報伝達・対空警備・防火・救護などの任務を帯び、消防組員が兼ねていた。
 昭和14年には、日支事変の拡大に伴い「防護団」と「消防組」を統合した「警防団」が設置された。
 林勝弥によると消防歴30年、機械部長、芭露分団長も歴任していた。林勝弥、伊藤武雄、斉藤武雄の3名が、行政に協力し計呂地地域の消防団員第1号であった。芭露地域は(当時の団員数50名)治安維持に積極的に努めた。
 戦後22年4月1日に消防令が発令され、戦時中の「警防団」は解体された。
 これにより、消防業務は町村に移行され、任免権も町村長に帰属した完全な自治体機関の「消防団」となった。
その後計呂地市街も急速に人口が増え、昭和23年には市街を中心とした防火組合設立(自警上)の話がまとまり、村上益太郎を組合長とした組織が発足した。
 費用は部落で予算を計上し、年々積み立て防火用具を購入する事とした。
 35年には、旧湧別中学校校舎解体にあたったその一部を無償で配布を受け、共同事業で解体し、現在の保育所と同棟に消防番屋を建造した。
(3) 消防団の年間行事  新年出初め式を行い各種表彰状の授与を行う
 春季・夏季・秋季には定期的な演習・または合同演習を行い、有事に備えて団員の意識の高揚に努めている。
 訓 練
 ○ 町 内   春・秋演習
 ○ 出初め式
 ○ 7ヶ町村連合演習 年1回
 ○ 春・秋防火査察(全家庭)
 ○ 歳末特別警戒
 
 第3節 機 雷 最初に戻る
(1)戦時下の痛ましい犠牲  機雷は水中で艦船に触れて爆発する装置で、戦時中、オホーツク海面の拡がる範囲に、日本、アメリカ、ソビエトの嫌いが無数に敷設されていた。
 昭和17年5月、そのうちの2個が湧別浜に浮遊してきた。漁民により報告を受けた遠軽警察署では、それを安全な場所に引き揚げ爆破処理する計画を立て、5月26日正午、ポント浜において爆破作業を実施することとして一般に通報した。
 これは、危険防止上の配慮からと、もう一つは戦時教育の手段として、機雷の威力の凄まじさを認識させるために見学(公開)の途を開いたものである。
 当日は遠軽警察署長指揮のもとに警防団員が総動員され作業が開始された。警防団員が機雷に綱をかけ、かけ声と同時に引く者・押す者が力を合わせて引き揚げ始めた。ようやく丘陵を超え路上に達した時、大音響とともに機雷が爆発し、一瞬にして作業員と見学者合わせて106名の死者と、多くの重軽傷者を出し開村以来空前の大惨事となった。
(2) 犠牲者数  救出後重軽傷者の死亡6名を加えて死者112名・負傷者120余名に達した。

 計呂地住民犠牲者氏名
 橋本 寿平 「死亡」
 橋本 嘉男  〃
 宮地 新一  〃
 渡辺 吾朗  〃
 伊藤キミエ  〃
 犬飼重太郎  〃
 伊藤 米吉 「負傷」
 伊藤金次郎  〃
 浪江 国雄  〃
 渡辺 英一  〃
(3) 合同慰霊祭
    「湧別小学校グランド」
 昭和17年6月5日、悲惨な余韻が漂う中でしめやかに死者の冥福を祈る合同慰霊祭が執行された。その後殉難者慰霊碑が湧別ポント浜と、上芭露の2ヶ所に建立され、現在も毎年6月15日に忠魂祭に合わせて遺族を招待し、町の行事として慰霊祭を行っている。
 第4節 病院及診療所  大沢重太郎によると大正11年に網走支庁第2次拓殖計画による拓殖医制度等、山村における医療事業の糸口は出来たが実際には医師の開業地は人口密度の高い市街地帯に限られる傾向が強く、人家の散在する芭露、計呂地方面には開業医はなく、部落民は入植以来10余年、無医師状態に置かれた。当時の村議、大沢重太郎らの発案によって部落内で話がまとまり共同事業で病院を建築して医師誘致運動を行い、大正15年4月28日に医師立花保太郎を迎え喜民病院落成祝賀会を盛大に行った。
 大正15年10月の村会で拓殖医設置誓願を次の理由で定めた。
 「本村管下、芭露以東は交通不便にして、計呂地には立花保太郎医師開業中なるも経営困難と認められ候。
 条之を北海道拓殖医として設置されんことを其の筋へ誓願するものとする」
誓願の結果、其の設置が決まり11号線道路入口に拓殖医診療所の看板が立ち拓殖医施設指定となった。
 その後、数年を経て立花医師は転出、後任者もなく部落民は不安な内に数年を経過した。
昭和7年3月村会で道庁に対し「計呂地拓殖医は最近3年余、医師の赴任なく設置の目的を達するは不能、昭和7年度当初において医師の配置相成度、併せて診療所は3年余、医師の不在により既設の屋舎は損傷甚だしく、且、建設後、交通網の異動により位置を同原野6号線に変更し、此処に移転するの必要を感じ候、損傷ある建物を移転するのは却って不経済に付新築致度候、然共、本部落は拓地殖民の初当にありて、民資薄弱、多額なる建築費の拠出には到底堪え難く候に付最高額補助相仰度候」と補助申請を行ったが拓殖部長は難色をしめし、陳情は数度にわたり、村議大沢重太郎は代議士尾崎天風の政治力に依拠して、床丹(原若佐)、志撫子、芭露方面で726町歩、見積3万6000円を、1万円に交渉し、補助87終えんの公布を受け村有林の獲得をした。
 一方、村費(工費)2,283円89銭で59・25坪の診療所を同年10月、6号線(現在鈴木清三郎)に建築させ、高橋俊雄医師の赴任をみた。
 次いで、松永怒助、岸田景親と医師が変わり、15年7月16日、岸田転出後は後任者もなく、翌16年10月上芭露稲熊医の兼務となり診療所は名目的に存続されたが、殆ど利用価値を失ったことから19年に施設は湧別市街に移築され国民健康保険組合事業に利用されることになった。
 この五、無医師期間が長く続いたが、戦後、25年9月、国民健康保険事業で計呂地診療所が市街地に開設されたが、36年には休止となり、人口稀薄地域は医師の定着困難な状態で現在に至っている。
 第5節 衛 生
(1) 衛生組合  明治31年7月に伝染病予防法が公布され、予防借置等が町村業務として取り扱われるようになった。
 これに伴って、伝染病の発生防止のため家庭生活の清潔が重視され、33年4月に清潔に関する規定が定められて、各家庭では、毎年春と秋に2回大掃除を行うことが義務づけられるようになった。
 下湧別村では、明治36年にチブス患者が発生し、伝染病から住民の生活を守るため、37年7月に衛生組合が結成され予防業務が行われるようになった。
 以後、大正時代を経て、昭和12年に「疾病予防健康増進」に関する指導の専門機関として「保健所」が設置されることになり、17年2月に遠軽保健所の開設をみた。
 戦時中保健所長は警察署長が兼務となり、結核対策に主力が注がれるに過ぎなかったが、戦後22年に法の改正が行われ、衛生行政は警察署から保健所に移り、所長も医師とされ、保健衛生の指導は充実強化されることになった。
 29年6月に赤痢患者が発生し、消毒実施にあたり背負い式ミスト機を共同購入し全戸の消毒を行った。これにより、部落衛生組合に町費補助金が交付された。
 また、保健所による検査が実施されたのもこの頃である。
(3) 母子衛生 
  助産婦(産婆)
 開拓初期の母子衛生はなんらの施策も及んでおらず、助産婦もいない当時に大勢の子供を産み育てることは大変なことであった。
 お産の軽い人は自分で産み、主人に頼るか、隣家の主婦や村内の巧者な素人産婆に頼るほかはなかった。これが難産ともなれば手の施しようがなく、みすみす新生児はおろか妊婦の生命まで落としかねなかった。
 大正6年頃、山田粂之助(鍼師)が13年に入植し、妻セイが産婆を開業し「山田産婆さん」と慕われ、時の氏神様のように人々に安堵感をもたらした。
 セイはその後昭和14年に家族と共に満洲開拓に移住したため、再び産婆さんに不自由をし、隣村の助産婦に頼る者が多かった。
 昭和20年終戦により利口正喜一家が満洲より引揚げ現在地に入殖した。妻リンは地域住民の要請を受け、経験を生かし、拓殖産婆として開業し、計呂地地区では貴重な存在として、出産・母子衛生に貢献した。しかし、38年に健康を害し閉業した。
 その後、昭和40年代に入ると、今までの自宅出産から、施設の整った産婦人科病院で出産するようになり、遠軽厚生病院・中央病院・高橋産婦人科医院等で出産するようになった。

     洞 ロリ ン談(旧姓金井リン)

 私は昭和29年、主人と共に満洲から現在地に引揚げてきました。
 さっそく、当時の部落会長さんより、現在計呂地に産婆さんがいなくて困っているので是非開業してほしいと、再三要請を受けました。私は事情を理解して少しでもお役に立つならと思い引受けることにしましたが、引揚の際免許状を紛失してしまいましたので、町より再交付を受け拓殖産婆として開業しました。
 当時は、戦後の開拓者の入植・引揚者・復員者が年々増加してベビーブームを現出し、隣村の床丹(若里)や志撫子地区への出張も多かった。
 お産は午前2時頃から明け方に多いので、夜中に訪問を受けることもしばしばあり、当時は各家庭に電気がなく、暗闇の中、ローソクの光で取り上げたりしました。中にはお産の重い方もあり、色々苦労もありましたが、一人一人の元気な産声を聞く度に苦労は喜びに代わり、わが子のように可愛気持になって産湯を使ったことが昨日のように想い出されます。
 出張するにも冬期間は馬橇で歩くので楽でしたが、夏期間は道が悪く、凸凹道を夜分、主人の自転車で送ってもらい、ずい分苦労に思われましたが、今となってみれば、38年に辞するまで18年間、少しでも地域の皆様方のお役に立ったことを嬉しく思っています。
 第6節 社会福祉と
     民生児童委員
 明治7年に社会の底辺をさまよう人々の応急措置として「救恤規則」が制定されているが、一般の困窮者までには手が届かなかったようである。
 古老の話によると、計呂地部落でも大正時代には貧困からくる家庭の破滅が多く、貧乏を苦にして人目を忍び隣近所に挨拶もせずに、夜間にこっそり立ち去り、翌日近所の人が煙筒から煙が見えず、夜になっても燈が灯らないので、誘い合って尋ねてみると空巣(夜逃げ)になっていたというような家庭もあったようである。
 また、その当時、民間篤志家の営む孤児院が施設維持のため院児を全国に行商させ、人々の同情を求めて半ば押売りする傾向も見られました。
 また、乞食の姿もしばしば見かけられ困窮者の救済が末端にまで及んでいなかったのも事実である。
 町の記録によると、本道においては、大正6年12月庁令で「北海道方面委員規定」が制定され貧困者救助の協力機関が設けられ、これを受けて本村では、大正7年5月に「下湧別村窮民救助規程」が定められた。これに基づいて村では救助費が予算化され、対象者の救護が開始された。次いで昭和6年には救護法が実施され、生活困窮者は国家的救護の対象となった。
 同法に基づく救護の内容は生活扶助を主軸とし、これに関連して医療費・埋葬費・助産費なども給付の対象となっていた。経費は町村支出額の二分の一以内は国、四分の一以内は道費で支弁される仕組になっていた。
 さらに、昭和13年には母子保護法・16年に医療保護法の制定で救護法の不足が捕われ救済は拡充されてきた。
 昭和21年には戦前の三法は整理され生活保護法の公布をみ、ついで新憲法の発布により「すべての国民は健康で文化的な最低生活を営む権利を有する」と人権の基本が明文化され、専門機関の社会福祉事務所が設置されるにいたった。
そして、昭和26年月1日からは社会福祉に関する事務は「社会福祉事務所」に移管されヽ昭和27年以降は生活保護費は町村の支出項目から姿を消すようになった。
 しかし、保護事業はいささかも後退することなく、民生委員の積極的なバックアップに支えられ現在にいたっている。
 ここに民生委員の職責を記してみる。
 「民生委員は社会奉仕の精神を以て保護指導のことに当たり社会福祉の増進に努めるものとする」とされ、厚生大臣委嘱国画家公務員のような性格を帯びており、社会福祉事務所と緊密な連携を保ちながら生活保護の適正な運用に協力する機能を使命とする役である。
 なお、この民生委員の制度は昭和23年7月より発足したものである。
(1) 保育所  昭和30年代に人ると、市街地住民による保育所設置の要望は一段と強くなり、これを受けて、当時のPTA副会長の中川敏雄と、11代校長佐藤丑之助夫人(かめよ)の2人が中心となり、昭和33年に、市街地湖畔神社拝殿を会場に待望の保育所を開所した。
 開所にあたっては、施設・設備はいうに及ばず、保母さんの雇用、運営面での資金等さまざまな障害があった。
 トイレ設置については、石渡要助の木材寄贈により、共同作業で作り上げた。また、当時は保母不足のため保母を雇用することができず、市街の婦人達(林 ヤエ・石渡 なつ・大澤敏子・井ロキクエ)の協力を得て2年間お手伝いをいただいた。
 備品にしても市街婦人の寄附や奉仕によるものが多く、中でも、昼寝用の布団は、林劇場に集まり3日かかって縫い上げたりした。
 また、オルガン等の楽器購入の資金調達のために、市街の婦人達は、わざわざ1ケ月がかりで踊りを習い (芭露保母井野さん)林劇場で演芸会を開催し、1人80円の入場料をあてたりした。
 それでも十分とはいえず、カスタネット・タンバリン等の購入のため、婦人会員1名が一日奉仕として500円の労務に出役して取りそろえたりもした。
 35年になって、町から運営補助金が交付され、同時に湧別中学校の一教室をそのまま払い下げを受け、共同事業で解体し改造建築を行い7月に完成をみた。
 これに要する経費として、計呂地10万、志撫子10万と両地区で負担をした、これが現在の保育所である。
 保育所の運営は、計呂地・志撫子両部落から運営委員を選出し、それに父母の会会長並びに副会長が加わって協議を行い、資金面は町からの補助金を基に両部落からの助成金やその他寄付金を以て自主的に運営されていたが、56年から運営委託となった。
 施設はその都度小破修理を行ってきたが、破損が甚だしく、59年には危険状態にまでなってきた。そのため町に大修理を要請したところ、60年度より2年間は市街公民館で開所するよう回答してきた。
 これを受けて部落では公民館の早急な増築を陳情した。町は地域事情に理解を示し増築実施の回答を示すと同時に、町政の方針として現在町内で行っている季節保育所は昭和61年度までとし、62年度からは通年保育とし、計呂地地区の園児は芭露保育所に通園するよう方針を示してきた。
 地域としては園児の減少傾向もあり町政に協力し季節保育所の廃止を認めた。
 時代の趨勢とは言え27年間の尊い歴史を閉じるということは感慨無量のものがあるが、園児の先行や町政の在り方を思うと、施設・設備の充実した保育環境の中で、しかも大勢の友達と季節を問わず仲良く、たくましく育つ園児の姿を思い、明日への向上発展を期待し閉鎖する次第である。

    思い出のままに
                 佐 藤 カメヨ
 此の頃は、あまりにも便利な世の中になりまして、電話で簡単に用事を済ませる為、ペンともなじみがうすく書く機会が少なく表現上おわかりにくい点がございましたら、お許しをいただきとうございます。
 昭和三十一年十一月主人の転勤が計呂地と聞かされまして第一に初めて耳にする地名です。私は出無精ですので不安と心細さが交錯して、なんとなく気が重くついて行かなければならない宿命に淋しさを感じました。
 計呂地に着いてお出迎え下さいました皆様にお会いしましたとたん、なんとなくふわりと暖かい心のふれあいのようなものを肌に感じました。どんなことかありましても、未熟な私を支えてご指導下さるような気が致しました。一日も早く計呂地の住人として、なじんでいかなければと、覚悟を新たに致しました。
 七年間の長い間、多くの方々にお世話になりましたこと、昨日のように感じております。計呂地の生活、そして皆さんとのおつきあいが、走馬灯のように浮んで参ります。過去を思い出すのには二十二年という長い年月がたちました。
 その中で婦人会活動は経験不足と力不足のため大変お世話になりました。住宅での敬老会のご馳走づくり、婦人会員としての勉強会・親睦の為の旅行・資金づくりの一端としてのムトウ商会の衣類の取りあつかい、廃品回収等、思い出が次から次へと浮かんで、なつかしさで一杯でございます。農協婦入部の活動も全く初めてでしたが、皆様のお力添えで、無事つとめることができました。思い出ひとつ・ひとつが冷汗が出る思いでございます。
 幼児教育の重要さを考えなければとのお話が出まして、保育所設立運動の主体を婦人会でとのお話になりましたが、主体が婦人会では荷が重すぎるので、古屋さん、西さん、如沢さん、の三人の町議さんと、地域を代表して、中川敏雄さんと、婦人会から私と、古屋さんの二階をお借りしまして、再三再四話し合いを重ね、すでに実現している保育所を見学し参考資料を戴き、それをもとに話し合いを重ねまして、いよいよ実現する為の資金作りに全部落に婦人会の皆様から呼びかけていただき、中川さんのオートバイにリヤカーをつけて、それに乗せていただき廃品の回収をしましたことは、終生忘れられません。
 皆様も大変ご理解を下さいまして、一戸、一戸、回りましたが、ご声援を戴きましたことは、今でもはっきり覚えております。ゼロからの出発ではございましたが、秋に実現の運びになった時には、本当に嬉しく絶大なる皆様のご協力の賜と感激致しました。
 もう二十数年にもなりますので、当時の皆さまのお名前さえも交錯いたしまして、失礼があってはと考えまして、お名前をお書きいたしませんのでお許しいただきとうございます。
 私も七十歳の一歩前の年齢となりましたが、なんとか健康を保って無事に暮しております。お亡くなりになりました方も多いと存じますが、当時ご協力・ご支援いただきました方々に心から感謝申し上げます。
 計呂地部落のご婦人の皆様、部落の発展のために、今後益々ご活躍下さいますようお祈り致しまして失礼させていただきます。
第7節 計呂地老人クラブ  自然の大地・第2の祖国に大志を抱いて入植し、開拓のメスを入れてから星は静かに流れて80余年。往時を瞑想すると感無量のものがある。
 樹齢幾百年を経た巨木は空をおおい、昼なお暗い原始の密林、丈余の雑草は視界を閉じて果てない広野が茫漠として広がる大地。しかも自然環境の厳しい極北地である。
 当時の人々はあらゆる苦難によく耐えて、只一筋にわが村わが町の開拓と発展に生涯をかけたのである。そしてその努力によって今日の発展の基礎が出来たものと思う。ほんとうに同志の筆舌に尽くし難い努力こそ称えるにやぶさかではない。
 しかし、かつての開拓の勇者だった彼等も、今は喜寿を過ぎ、米寿を迎えようとしているが、勇者の風格はいささかも衰えず、なおかくしゃくとして更に生きがいの中で社会に貢献しようとする意気こそ大いに拍手を送ろうではないか。
 目を世界に転じてみる時、ユーゴのチトー大統領は90歳の高齢でソ連に渡り政治的に大いに活躍したと言われ、第二次大戦時に大活躍したイギリスのチャーチルも90歳を逞かに越えていたと言われる。
 風雪に耐え、共に苦楽を分かち合った我々も、今後なおー層の心身の錬磨に励みよりよい郷土の発展のために尽力したいものである。
 我が国の政治家や経済界の人達をみるに、80歳を超えている方々は数多く。これらの人達は皆自己の老を忘れ、国のため地域社会のために貢献している。このことがこの人達にとって何よりの生甲斐と言うのかも知れない。
 しかし、そうは言うもののやはり人間誰しも老化することに抵抗を感じない者はいないであろう。ましてや話し相手もいず、いたずらに空想に走り孤独感におち入らないとは限らない。いろいろなことを合わせて考えて、老人クラブをつくることが最も望ましい。ちょうど歩調を合わせるかのようにして、各地、各町村で老人クラブ誕生の機運が然していた。
 すでに湧別町でも6ヵ所設立されていたので、この話は急速に進展し、45年2月25日に発起入会をつくり、同年3月3日「計呂地老人クラブ創立準備発起人会」を設立し、事務所を当分の間渡辺義一宅に置くことにした。

   雑  感
                  岩 田 政 一
 早いテンポで刻々と移り変わる世の中の情勢ぐらいは、老人といえども知っておく必要があると思う。世界のどこにどんな事が出来、何か起きたかくらい知らなければ、それは老化というよりもボケも甚だしいところだ。
 先ず、それをなくするには、テレビのニュースを聞き、新聞に目を通すことだろう。つまらぬテレビ番組を一日中独占しあげくのはてには孫とチャンネルの争奪戦を演じるなどはどうみてもあまりほめられたものではない。
 湧別町でも教育委員会が中心となって、われわれのために年に数回講師を招聘して「高齢者学級合同学習会」を開催している。こればかりではなく、青年・中高年に対しては「成人講座」を開講し、当日は無料バスを特発するなどして、広く町民に学習の場を提供している。
 わが老人クラブでも、このような催しには精神の修養と知識高揚のために積極的に聴講に参加している。
 戦後すでに四十年、充実した国の医療対策及び老人福祉政策によって、人間の寿命も大幅に延び今や世界有数の長与国となり、男は七十歳を温かに越え、女もまた八十歳近くまで長生きができるようになってきている。
 そればかりでなく、国民一般の衣食住も欧米先進国並みとのことである。とりわけ野菜・果物に至っては、殆んど季節感が見られないくらい年中出回っている状態である。
 このように恵まれた環境の中に生きる我々こそ、毎日が生き甲斐ある生活と言えるのではなかろうか。
 昭和三十六年には国民年金法が制定され、その後老齢福祉法の一部改正により、四十八年一月から老人医療特別措置法に基づき、七十歳以上の高齢者には医療費全額が公費で負担されるようになった。湧別町においてもこのために年間膨大な予算を計上しているとのことである。
 また、四十八年十月から国は七十歳以上の老人に対して老齢福祉年金を支給している。
 戦後、わが国は、著しい経済の発展と高度成長に伴ない、欧米先進国といえどもその追随を許さないまでに発展してきた。特に、化学工業の成長振りは、見るもの聞くものすべて目を見張るものがある。
 中でも自動車及び、電気工業の発達は目覚ましく生産量・各種機械の性能共世界最高と言われている。
 しかし、一方で工業の発達とは裏腹に、各種公害によって苦しんでいる人達が多くいるのも事実である。だが幸いなことに、われわれには未だ生命の危険を感じる程の公害ではないようだ。
 公害といえば[あき缶公害」は全国どこでもお手上げのようだ。マナーを無視した無神経なドライバー達の心ない行為である。
 大げさのようだが、このようなドライバーの一掃は出来ないものだろうか。
 より良い自然の美観を守るためにも、地域の私達一人一人が心がけていけば何時かは「空き缶公害」などと言う言葉は聞かれなくなるのではなかろうか。
 今の時代は私達が入植した当時とは隔世の感が強く想像も出来ないような文明の恩恵を受けている。このようなすばらしい時代に生きる私達は、時の流れを見つめながら健康で明るく、感謝の気持ちを忘れずに一日、一日を大切に暮らしていきたいものである。
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