町民芝居ゆうべつ


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<町民芝居ゆうべつとは?、>
平成14年5月17日、7名で誕生したこのグループも、今年(平成27年3月〜現在の
団員数は、キャスト、スタッフで45名程)で、13回目の公演を終えることができた。
このグループの創立心得は、「郷土の出来事を、郷土の人たちが手作りで、郷土で
公演する」をモットーに動き始めるのであった。
それは、創作脚本、創作舞台、田舎芝居(お祭りでの神社境内の演芸会)であること。
その背景は、あまり上手な役者ばかりだと、新人が入りにくいのではないか。
湧別には、多くの物語があり、題材には不自由しないこと。
地方にしては、それはそれは、素晴らしい文化ホールがあること。
そして一番なことは、
「創るときの人たち、練習をしている人たち、それを観ている人たちが一体となって郷土学習」
ができること。
おまけに、この公演が、一作ごとに、脚本、映像が資料として次世代に
残していけること。
幼稚園児から70歳まで、夏の合宿キャンプ、クリスマス、新年会等々のたのしみ
のこの団体は、世代間交流、家族のような活動ができることである。
5月から10月にかけ脚本の構想(あらすじ)を座員とで協議、それから1ヵ月程で書き
上げ、12月にはキャスト、スタッフを決め、印刷を。
それから1月から練習、そしてぎりぎりでの3月第三日曜日の公演、1年が本当に短い。
でもうれしいことは、脚本にしても、演出にしても、後継者ができて来たことである。
これからも、ここ湧別が在る限り、長く続くことを期待し、老骨に鞭を打ちながら、
次回作の構想を練っている今日この頃です。
2015、7,  石渡 輝道



<町に「町民芝居ゆうべつ」が在ることの幸せ>

「町民芝居ゆうべつ」は、湧別の地に生きた、私たちにつながる人たちの喜びや悲しみを、
舞台と通してよみがえらせ、私たちに語り、この地に生きる知恵を与えてくれます。
父が、母が、子どもが、友人が演じる舞台は、時を超えて、今は会えない人たちの時代に
私たちを誘い、共に怒り、嘆き、悲しみ、共に喜び、笑う機会を与えてくれます。
こんな幸せな時間を、同じ空の下で暮らす町民が共有できる町は、日本中で、どれくらい
あるのだろう。
「町民芝居ゆうべつ」は、町のお宝であり、私たちの誇りです。
(ふるさとから学ぶ会、梅田唯士)


第1作 「ハマナスの咲くころ」 (作・演出 石渡輝道) ◎昭和17年に起きた「機雷爆発事故」を題材にした作品。
 ・平成15年3月30日初演 

<湧別町史>機雷は海上に敷設する爆発装置で、陸上でいえば地雷に相当するものであった。 交戦国が、お互いに自国沿海に敷設して敵艦艇の侵入を警戒するとともに、敵国艦船の行動半径に敷設して、艦艇の作戦行動の制限ないしは損耗を図り、併せて輸送船舶の束縛と損耗による兵員、兵器輸送力の減退と敵国の経済封鎖をねらったのである。
 直接に本町方面の沿岸水域に敷設された機雷はなかったと思われるが,オホーツク海面のひろがる範囲には、当時の軍事情勢から、わが国およびアメリカ、ソビエト連邦の機雷敷設が想像されるところである。
 機雷は、あるいは線状に連鎖されたり、あるいは機雷原といわれるように面状に連鎖されたりして繋留敷設されるのであるが、時として繋留索が切れて危険な浮遊機雷となることがある。 機雷は艦船などの接触で起爆するが、浮遊機雷は岩礁や巨大浮遊物などの接触でも起爆するから、当時は沿岸住民や船舶に注意を警告していたのである。
 昭和17年に、その浮遊機雷2個が本町海岸に漂着したのである。 4月ごろから浮遊機雷らしいものが見えるという噂があり、5月下旬になってワッカ海岸とポント海岸に漂着発見されたもので、戦慄感が住民の脳裡を走ったのである。
 惨事の原因については、危険物に対する警察署など当局責任者の科学的専門知識の浅薄さと、爆破公開による見学を認めた計画の疎漏による人為的なものと総括された

爆破実施の報道は学校、隣組組織等を通じてあまねく知らされ、当日は臨時列車も運行されて見学者の便宜が計られ、各地から小学生を始め多数の人々が押し寄せて市街は祭りのような混雑、快晴の好天気に人の心も浮かれてか、重箱に酒を携える者もあり、続々と現地に足を運び、芭露方面から入った見学者を合わせ爆発時には、3,400人ほどが到着していたと云われる。
<芭露80年の歩み>この惨事は、危険物に対する専門的知識のない千葉遠軽警察署長の指揮により移動させ、さらに見学者近づけさせた無謀にして浅はかさは誠に遺憾といわざるを得ない。
<東開基85年史> ・・・・・近隣町村の警防団から見学、参観の問い合わせがあり、警察署の行事として、これを全面的に認めたのである。 爆破当日は朝から快晴、例年になく気温も上がって真夏の如き日和であった。 下湧別市街から一里離れた所、漁場の番屋が一軒あるだけ。
 警察官、警防団員、青年学校生徒、一般見学者約1,000名、湧別国民学校生徒も列をなして現場に向かっていたと言われる。


第2作 「馬老への路」 (作・演出 石渡 輝道) ◎明治44年頃 芭露に入植した家族の暮らしを描いた作品。 
・平成16年3月20日。

「ただ本当のところ、ここ以外に、どこも行く処ないのよ・・・」 「この畑、この土を、子ども達に残してやりたい・・・」

遠く故郷を離れ、北の未開地”馬老”を切り開く家族達を襲う、終わらない貧困、水害、霜害、子ども達の死・・・

その悲しみを超える糧は、いつも家族や仲間との絆だった・・・


第3作 「湖口開口は天佑だった」 (作・演出 石渡 輝道) ◎昭和4年4月21日未明、悲願の三里・第1湖口が開口する。
 平成17年3月19日。
下湧別村 三里番屋 漁民の悲願でもある湖口開口

厳しい北の自然と現実に、何度となく工事は途絶え、身内のものを失ってさえ漁民達は湖口掘りを続けた。

自らの夢に向けて、家族の将来に向けて、地域の明日に向けて・・・・ 


第4作 「戦後開拓 父の詩」  (作・演出 石渡 輝道) ◎昭和22年「戦後緊急開拓団」として湧別に入植した家族の物語。 
・平成18年3月11日。
あなたは覚えていますか、あの「戦後開拓団」を・・・・ 

北の地、湧別を生きた家族を哀歓込めて描く感動の舞台。
  昭和二十年八月十五日、戦争は終った。 日本はいたるところ焼け野原になった。 東京、大阪、神戸、特に原子爆弾の投下があった、広島、長崎は「ひどい」の一語である。
この日本が復興するまでには、十年、いや二十年は かかると、国は思っていた。
  それにはまず、食べるものの確保である。 そこで国は一つの政策として、北海道に「戦後緊急開拓団」として、本州からの入植者を全道各地に入れたのである。
  この湧別にも入植して来た人がいた。 信部内、東、芭露、計呂地にである。 しかしその人たちが、今も農業を続けているのかと云うと、そう多くはない。 それは、経験の全く無い人たちが農業をしたからである。
  一言でいえば「大変」を何十倍かしたくらいの、苦労、苦労の連続であったからである。 そこで、今では聞くことの少なくなった戦後の開拓団の人たちにスポットをあて、その一家を紹介しながら「故郷とは」「親子とは」「生きるとは」を考えて見ることにした。


第5作 「三段目 杉の花」 (作・演出 石渡 輝道) ◎夢破れて帰郷・・・。地元湧別出身力士「杉の花」の一生を描く人情物語。 
・平成19年3月24日。

 大食漢で酒好きで、嫁なし金なし職もなし 

 根性好しのその名は「直」 四股名で呼べば「杉の花」


第6作 「湧別原野 「粥から乳へ」 (作・演出 石渡 輝道) ◎昭和30年代、湧別の農業は「米作」から「酪農」への転換期を迎えていた。
 ・平成20年3月22日。

  この物語は、昭和三十年代に湧別の原野で農業をしていた、ある地区の人達の生活を基にシナリオ化してみた。 百姓は、米を作ることが一番の夢である。しかし、その米作りにはむかなかったのが、この湧別の土地であった。それは、気候的条件はもとより、ここの土地は、水はけの悪い重粘土地帯であったからである。 春先には、オホーツク高気圧による、低温、日照不足である。 くる年も、くる年も冷害、凶作の連続である。
  その為に、農家の大黒柱は出稼ぎをしなくては食べていけないのであった。そして、家に残ったものが農業をやるしかなかったのである。それが三ちゃん農業と言われる、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの農業だった。 出稼ぎをすれば生活できる家はまだいいほうで、ここを離れなければいけない程の、借金が出来た者が出てきたことである。
  そんな時、一人の男を中心として仲間が立ち上がったのである。
  その男の名は水澤誠一。「こんな農業してたら、みんないなくなる。天気が悪くても、食べていける農業を」と、「酪農」を進めるのである。 「農民の夢、米づくり」から「牛飼い」である。 しかし、みんなは、なかなか酪農には踏み切れないのが現実であった。先頭にたつ誠一は、個人的な悩みをもっていたが、それをも犠牲にしながら、根気よく仲間と説得し続けたのである。少しずつではあるが、仲間が増えてきた。
そしてこの地域全体で、酪農へと転換しようと決意するのである。




第7作 「ハッカ狂騒曲」 (作・演出 石渡 輝道) ◎昭和の初め、湧別が「ハッカ王国」と云われたころのハッカ作りをめぐる農家の話。
・平成21年3月21日。

この話は、昭和の初め頃、この湧別が「ハッカ王国」「芭露ハッカ」とも云われ、名を売った時があった。その時代を背景にして、三人の姉妹の「生き方」を見ながら「お金とは、家とは、家族とは、親子とは」を考えて見ることにした。



第8作 「北キツネの見たゆうべつ屯田物語」 (作・演出 石渡 輝道) ◎町合併を記念して上演された、上湧別・屯田兵村の物語。
・平成22年3月21日。

明治三〇、三一年、湧別に屯田兵が三九九名とその家族、合わせて二五〇〇余名が移り住んだ。
その任務は、主に北方の警備と治安、そして北の大地の開拓であった。
 さて、その明治三〇年代、ここ湧別屯田兵村の当時の生活を紹介しながら「キツネの目を通して見た、ある屯田兵の生き方」を元に芝居化してみることにした。
 まさに、今年は分村から一〇〇年、吹く風が大きく変わり、合併した今年、わが郷土の歴史を見つめながら、自らの生き方を見直すことができればと思う。



第9作 大正生まれの女「はる」と故郷へ帰れなかった兵士 (作・演出 石渡 輝道) ◎大正、昭和、平成の世を生きた「はる」を通して、「夫婦とは」「故郷とは」を問いかけた作品。
・平成23年3月19日。

この物語は、大正に生まれ、昭和、そして平成の世を合せて八十余年を生きた、ひとりの女「はる」の生涯を紹介しながら、東京で生まれ、東京で育った、ひとりの男……即ち、夫「稔」。この夫「稔」は、終戦を北海道で迎え「いつかは故郷 東京へ」とかなわなかった夢を追いながら、この北の大地に生きたひとりの男の生涯を見ながら「夫婦とは何なのか」「家族とは」「故郷とは何なのか」を考えて見ることにしました。



第10作 「ユウベツを見たこどもたち (作・演出 石渡 輝道) ◎子どもたちが主役になって、ミュージカルに初挑戦した第10回記念公演は、会場に募金箱を設けた”大震災復興応援公演”でもありました。(町の合唱サークルの方たちも出演しました。)
・平成23年11月23日。

時は現代。 夏のある時、授業中に生徒が百年前の北海道にタイムスリップする。それも、アイヌの人たちと、和人が生活している「ユウベツコタン」に来てしまったのである。子どもたちは、そこで、百年前の人々との生活が始まる。「便利な」電気、ガス、水道、車、冷蔵庫等々のない生活、それ以上にゲーム、携帯電話のない生活は、考えられないのである。しかし、子どもたちは、徐々に生活になれ、たくましくなっていく姿、そして、これからの自分たちの未来を考えるようになってくる。そこでアイヌ社会の習慣である、悲しい時、うれしい時、歌を唄い、踊ることを教えられ、みんなで歌をつくり唄う。すると現代にタイムスリップをし帰ってくる。



第11作 「ハマナスの花の咲くころ」 (作・演出 石渡 輝道) ◎「機雷爆発事故」に遭遇した家族のその後の暮らしを描いた作品。
・平成25年3月24日。

平成15年3月、第一回の旗揚げで公演した、宇治芳雄の小説「汝はサロマ湖にて戦死せり」をもとに脚本化し「ハマナスの花の咲くころ」を、今度再現するとともに、一〇六名の死者、百三十名以上もの負傷者を出したこの事故は、それだけでは終わらなかったのである。
 大きく人生を変えた人達がたくさんいたことを忘れてはいけないのである。今回は、その後の人達にも焦点を当てて、続「ハマナスの花の咲くころ」として紹介することにした。



第12作 「チューリップ物語」 (作・演出 石渡 輝道) ◎花の栽培が農家の仕事と考えられなかった昭和32年、チューリップに夢をかけた家族の物語。
・平成26年3月22日。
時、昭和30年代  所、湧別町
ここ上湧別地区では、土地が肥沃と云われいることから、どんな作物でも取れたのだった。
しかし、面積的には小さく、反収を上げる作物を作ることを何時も考えていた。
そんな中、国の新農漁村振興対策事業として、「チューリップ」の球根栽培が進められ、そして農業改良普及員の強い指導もあり、一部の人達が、主産地形成の第一歩をふみだしたのである。
今、ここ広いチューリップ畑、風車、年間十万人を超える来園者。平成二十年十月合併をし、湧別町花「チューリップ」となるのである。

この光景を見た時、「チューリップ」は、何を思い、何を考えているのであろうか。
私はきっと「球根が、開花のために寒い冬の間に準備をして、春には美しい花を咲かせる。それは、子、孫への引き継ぎを準備し、最も良い時期に花は咲き、そして散って逝く」と云うことを、人間に云い続け、伝え続けているのではないのだろうかと思った?。
 あたかも子どもを育てるのと、同じであることを、知るのである。
 「生を受けたものの生涯とは、次に、伝え、渡すことが出来たことが、生きていたという「証」ではないだろうか」。
 日々、一刻一刻が過ぎる今、考えてもみない何時かは老い、消えていく生き物たちの宿命が、日々私達に迫っていることを、この「チューリップ」が云っているのではないだろうか。
 そのことを、我々は知らなければいけないのではないか。
また、決して私たちがチューリップを守り育てているのではなく、湧別町は「愛郷を振りまいているチューリップによって、守り育てられていることに、気が付くべきである」との思いをこめて、私は、この物語を書いてみることにしたのである。「?」




第13作 「ははのうた」 −行商人キヨという人