ふるさと登栄床のあゆみ

年  表

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 年 代   地 区 の 出 来 事  社 会 の 出 来 事
明治43〜
  45年頃
 ホタテ漁盛んにて中番屋外海方面は、各地より出稼ぎ多く、料理屋、射的屋、
 風呂屋、理髪店などその他商店軒を並べた
            (登栄床小学校沿革史より)
 その後ホタテ漁不漁となり、戸数1戸もなく、定置の番屋があるのみとなった
 明治43年 上湧別村と分村
 明治45年 北見留辺蘂間鉄道開通
7年  蹴揚由之助大三番屋の番人として冬季間越冬した  大正 5年 湧別留辺蘂間の湧別線
      鉄道開通
大正 6年  4月17日播摩栄之助信部内方面よりカキ貝採取の目的で永住その後前年の大時化に より被害を受けた漁師が続々として移住20数戸を数えたが、冬季間は他に移住
大正 8年
以前
 三里番屋ではアイヌ小屋1戸あり、金野文吉アイヌを使って雑漁漁をしたが夏季間
 のみであった
 大正 7年 湧別市街、四号線に電気が      つく
大正 8年  3月中番屋の山田和一郎、播摩栄之助、吉家円吉、吉岡寅蔵等が発起人となり教員
 浜田某を招き私塾を開設一時20数名を数えたが、頓別方面へホタテ漁の出稼ぎに
 行くもの多く生徒が減り当年6月解散
  就学児童は湧別小学校へ通学するか、湧別市街に下宿した。
 11月23日岡島水主蔵斜里町より来て、永住1戸のみその後山口民蔵移住
 湧別川氾濫被害多し
大正 9年  秋、沖崎善三郎 奥谷悠蔵来る
10年  村上留造 平形徳治 斉藤力蔵来る 次第に戸数増加
 大町桂月来遊し三里浜から常呂迄の道路を竜宮街道と命名
 名寄線全通
14年  漁の豊不漁により盛衰があったが、カキ貝の冬季氷曳きの発明により冬季の収入が
 得られるようになり、永住者18戸となる
 普通選挙法施行
 NHKが放送開始
昭和 2年    湧別警察署となる
3年   登栄床寄りに湖口を開削しようという運動は大正13年頃から有り、同年3月2 8日160名の住民が無断で掘削を行ったが失敗し警官の出動をみた。その後幾多 の紆余曲折があり、安藤経蔵、谷虎五郎の政治的運動により、許可が下り(となっ ているが無許可の説もある)村役場も600円の予算を計上し、さらに不足になり 600円を追加計上して開削工事を行った。
  4月1日湧別尋常高等小学校付属中番屋特別教授場として開校。校舎は、三里浜 横山定蔵の番屋を借り受け使用する。中番屋にも横山番屋はあった由
  11月3日野崎牧場の元ワッカ駅逓を買い、新材を補給して33坪の校舎を新築
昭和 4年  3月21日天佑ともいうべき大暴風雨により、雪解けにより増水していたサロマ湖の水が水路を押し広げ一朝にして約100間の水路がひらけた
5年  1月22日青年団結成 会長工藤常治 幹事蹴揚富太郎 佐藤富治 米原清一 町元三次郎外会員15名、名称は豊常青年団となる  世界的恐慌で不況が深刻となる
6年  区長工藤常治 この頃中番屋の神社祭典は9月10日(町史は13日)三里番屋は9月20日
 中番屋  戸数23戸 男60名  女53名  合計113名
 三里番屋 戸数34戸 男114名  女98名  合計212名
 満州事変起こる
 冷害大凶作

7年  上海事変起こる
 石北線全通
 冷害凶作
8年  2号線道路開さく
 日本は国際連盟脱退
9年  9月 中番屋   発動機船3隻 かわさき船35隻
          どかい船7隻 機船15隻
    三里番屋  発動機船7隻 かわさき船41隻
          どかい船11隻 機船18隻
 水産試験場技師木下虎一郎はキマネップ沖でホタテ貝の人工採苗試験を行う
 冷害凶作
10年  中番屋水産青年学校開校 夏季は出稼ぎの漁夫の入り込みで平均6割程度の人口の増加を示していたが、本年は、特に多く15割の増加をした
 栄浦地区で宮城県よりカキ貝の種を購入して垂下試験を行う。しかし成長が悪く結氷期迄に販売できないため中止された
 凶作
11年  9月20日2号線より三里まで村道として現在の道道の基線が竣工
 湧別乗合自動車合資会社のバスが登栄床地区を運行
 登栄床小学校に昇格
 皆既日蝕
12年  青年団員校庭に千島桜40本と、とど松を植える  日華事変起こる
 開村40週年記念式行う
13年  9月5日三里番屋の神社奥の殿を中番屋神社と合祀するため現在地に移転
 9月10日登栄床神社祭として中番屋と合同して行う
14年  2月11日漁業青年団創立10周年記念式典挙行
 この頃三里浜劇場あり、活動写真など上映
 国家総動員法施行
15年  7月1日湖内ホタテ漁解禁漁模様よくなし  米の購入が切符制になる
16年  5月23日小学校4年生以上遠足、奥谷氏の発動機船で円山床丹へ
 1月24日登栄床少年団結成式
 12月8日太平洋戦争起こる
    (大東亜戦争)
17年  5月19日機雷中番屋裏外海に揚がる 四里番屋にも揚がる
 5月26日機雷爆発 即死105名 重傷者33名 軽傷者27名
 登栄床警防団員吉岡又吉 吉家保殉職。登栄床児童は見学のため引率していったが、昼食のため休憩し難を免れた
 5月28日殉職者の部落葬
 湧別漁業会となる
18年  4月5日警戒警報発令
 4月25日防空演習行う
19年  5月10日ニシン大漁のため学校休校23日まで
 6月25日新校舎完成落成式
20年  2月2日登栄床国民学校高等科開校式と祝賀会
 5月2日学校に防空壕を青年団が作る
 8月15日敗戦
 選挙法改正し婦人に参政権
21年  新憲法発布
 民生委員制度出来る
 農地改革実施
22年  5月10日ニシン大漁のため学校1週間休業(以後毎年春と秋に1週間から10日ぐらいの漁繁休業を実施している)
 8月13日登栄床地区電気起工式
 PTA発足初代会長に相場留吉
 湧別中学校登栄床分校設置
 教育基本法・労働基準法・地方自治法・児童福祉法等施行、制定
24年  1月19日青年を対象に夜学を開講「数学 英語 社会 珠算」
 登栄床中学校に独立
 水協法施行、湧別漁業協同組合発足
25年  北見バス運行を始める  NHKテレビ実験放送開始
 朝鮮動乱起こる
 千円札の発行
26年  10月12日登栄床漁港起工式
 道、町の補助を受けてホタテ人工採苗試験を実施、木製筏、ドラム式筏を中番屋養殖組合、三里養殖組合の請負で実施
 3月20日登栄床簡易郵便局開局
 講和条約調印
 日米安保条約調印
27年  サロマ湖養殖組合が宮城県より種カキを移植して試験を始める。湧別地区では2,000連の種カキを購入(湧別漁協の業務報告書より)
 中番屋に町営の火葬場が新設
 十勝沖地震起きる
28年  4月25日登栄床地区種カキ50連購入し、これを450連に繋ぎ、筏2台に垂下(登栄床小学校沿革史より)
 湧別地区では、9,500連を実施
 三里沖にコンブ礁投石20坪
 町制施行により湧別町となる

 湧別高校が組合立で新設される
 大凶作
29年  7月1日有線ラジオ共同施設完成
 3月25日小学校開校25周年記念式典を行う
 9月27日15号台風襲来 カキ養殖施設に大きな被害
 1円以下廃止により銭がなくなる
 自衛隊法成立
 冷害大凶作
30年  佐藤富治2代目漁協組合長に就任
31年  副業に漁協の指導で豚を飼育
 12月登栄床漁港がL字型船付き場として完成
 湧別高校道立に移管
32年  8月12日登栄床漁港竣工式  開基60周年記念式
 ソ連人工衛星打ち上げに成功
33年  4月10日登栄床地区豊漁祈念祭
 10月14日中村漁場定置起こし船サロマ湖口で遭難8名死亡
 16日登栄床校で合同慰霊祭を行う
 漁協支所と佐藤富治宅に公衆電話がつく
 1万円札発行
 アメリカ人工衛星打ち上げ
 北海道博覧会開催
34年  この頃家族慰安の信連の巡回映画会が開かれて入場者多数
 組合の密漁取り締まり強化
 サロマ湖でのディーゼルエンジン第1号を山根市郎が導入
 メートル法実施
 ソ連宇宙ロケット月面に到着
35年  12月屋内体育館落成
 小手繰り網密漁の廃止を決議
36年  1月11日青年学級開講
 5月3日開校30周年屋体落成式典
 中番屋、三里沖でのり養殖の試験を実施。その後数年実施するも栄養不足で着色、生育とも不良で失敗
 小手繰り網漁業の廃止を決議
 11月末から佐呂間町浜佐呂間のカキから赤痢が発生、出荷したカキは廃棄、操業停止となり、その損害額は莫大になった。
 その後「カキ衛生条例」ができ保健所の検査を受けた施設でなければ、むき身作業ができなくなった
 1月28日湧別漁青連が発足、初代会長に斉藤勇就任
 外海でカレイ刺し網漁業成功
 湧別町商工会が出来る
37年  三里地区に漁協のカキ処理施設を設置(現加工場敷地)
 漁協が椎茸の栽培を副業として指導、栽培組合長に滝谷幸三郎が就任
 三里地区でノリ養殖の試験を実施
 十勝岳爆発
 遠軽信金湧別支店出来る
39年  3月25日登栄床中学校が湧別中学校へ統合のため閉校式を挙行  東京オリンピック開催
 東海道新幹線営業開始
 凶作
 東地区水田耕作廃止
40年  三里地区の飲用水悪化のため22戸に給水施設を設置
 ホタテ稚貝の越冬技術が開発され垂下育成養殖が始まる。
 道ぎょれんの整促達成映画「炎は消えず」のロケーションが三里地区で行われた
 登栄床中学校湧別中学校に統合
41年  11月1日サロマ湖口にサロマ湖灯台が完成
43年  8月15日水難救済会湧別救難所が発足  北海道100年記念式と大博覧会の開催
 三億円強奪事件発生
44年  6月湧別市街から三里までの道路が、道道「湧別停車場〜サロマ湖線」として昇格した
 底建て網漁業の試験好調
 アポロ11号月面着陸
45年  2月地域集団電話として登栄床地区80戸に電話がついた
 但しこの電話10戸程度が共同であった
 大阪で万国博覧会開催
 赤軍派によるよど号ハイジャック発生
46年  町が大町桂月の詩碑を竜宮台に設置
 5月5日登栄床保育所が季節保育所として町の補助で開設
 4月18日登栄床子供会ができる
 札幌に地下鉄完成
47年  ホタテ増殖基本計画により一人35万粒の稚貝生産が始まる  札幌冬季オリンピック開催
 登栄床地区湖畔が自然休養林に指定される
48年  1月13日登栄床小学校の開校45周年記念祝賀会を開催
 3月登栄床小学校が統合により廃校 スクールバスが運行
 第1回漁民運動会を登栄床校グランドで開催
 7月17日登栄床漁港起工式
 サロマ湖第2湖口工事着工
 8月13日三里浜でNHK「ふるさとの歌祭り」開催
 三里に公営住宅12戸が設置された
 オイルショック発生
49年  登栄床地区に三相電気を導入
 1月10日より外海の流氷がサロマ湖に侵入養殖施設に大被害が発生
 漁協の水産加工所が完成
 中番屋の養殖作業埠頭も完成
 北見バスに代わり町営のバスが運行を開始
 登栄床保育所が通年開所となる
 田中首相が金脈問題で辞任
50年  道道の全舗装が完成
51年  生活改善センターが完成  道庁爆破事件発生
 ロッキード疑獄事件発生
 綜合体育館完成
52年  三里の保管施設で北海えびの増殖試験を行う
 4月1日登栄床老人クラブ設立
 有珠山大噴火
53年  湖口の海難慰霊碑を撤収 湧別漁協の慰霊碑に合祀
 サロマ湖におけるホタテ養殖規制始まる
 役場庁舎新築完成
 日中平和友好条約調印
54年  漁港環境整備事業で登栄床地区に上水道が完成
 10月8日佐藤富治逝去 町葬を行う
 湧別火葬場完成により中番屋火葬場廃止
 電話が集団電話から個人電話に変わる
 道漁連がカラ取引で250億円の欠損
 湧別葬斎場完成
 湧別森林組合経営破綻
55年  10月31日登栄床漁港完成式
 町が登栄床保育所を新設 常設の町営保育所となる
 町道「登栄床湖畔道路」が完成
 11月30日組合創立30周年と
 事務所新築落成式
56年  登栄床寿の家が完成  5月14日ホタテの貝毒が発生
57年  9月12日由別町開基百年記念式
 第1回オホーツクサイクリング開催
58年  沿岸漁場保全事業として湖岸の枯れアマ藻の除去を行う
 1月31日高須 実逝去 2月4日議会、漁協合同葬儀
 1月2日清水町長死去
59年  登栄床漁港にトラックスケール設置
 中番屋沖でサケの海中飼育試験を実施
60年  9月9日第5回全国豊かな海づくり大会が登栄床漁港で開催
 中番屋の登栄床会館が新築落成
 漁協の製氷冷蔵施設が完成
 三里浜キャンプ場完成
 登栄床地区の簡易水道が町の上水道とつながる
 日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落
 524人中4人が生存
 シートベルト着用の法改正
61年  登栄床漁港の上屋施設が完成
 サロマ湖口の防氷堤工事が道営工事として始まる
 サロマ湖の結氷が遅いため流氷の侵入が続く
 竜宮台周辺の観光施設が完成
 第1回竜宮祭りを開催 以後毎年7月第3土日曜に開催
 国鉄の民営化法案成立
 蒲N別振興公社設立
 町営球場完成
62年  1月1日三里竜宮台で観光協会が初日の出参拝を開催 以後毎年実施
 11月サロマ湖漁港が第4種漁港に指定された
 登栄床漁港の集会施設と保管施設が完成
 登栄床漁港の副埠頭が着工
 サロマ湖灯台が浸蝕により危険となったので防護ブロックを投入
 湧網線廃止
63年  4月にサロマ湖に流氷が侵入被害軽微
 登栄床地区交通安全事故防止決起大会を開催
 漁協で組合員家庭にNTTオフトーク通信システムを設置
 中番屋の船付き場を延長115b幅15b増設
 登栄床漁港の副埠頭着工
 青函トンネルが開業
 瀬戸大橋完成
 自治会制度となる
64年  4月に佐呂間計呂地に流氷が侵入被害軽微  1月6日昭和天皇が崩御
平成元年  漁協でサロマ湖の養殖施設の見直しと再配分を実施
 12月10日三里浜会館全焼
 1月8日新年号が平成に決定
 名寄線の湧別〜中湧別間廃止
 湧別オホーツク園開園
2年  サロマ湖漁港が国の直轄工事として着工した
 3月にサロマ湖に流氷が侵入被害なし
 湖内三漁協で資源保護のため、組合員によるサロマ湖での釣り船、渡し船を禁止
 湧別消防署庁舎新築落成
 湧別川1号橋完成
 社会福祉法人「湧別町社会福祉協議会 」設立
3年  3月にサロマ湖に流氷が侵入  組合市場新築落成開業
 乳牛2万頭達成
 中東湾岸戦争起こる
 雲仙普賢岳が噴火、火砕流が発生
 「ソビエト社会主義共和国連邦」が消 滅
4年  7月19日竜宮祭りでサロマ湖花火大会を開催
 町で三里に20基、中番屋に25基の街灯を道道沿いに設置
 登栄床地区にフラワーボックス100ヵ設置
 中番屋の船付き場の道路の舗装と橋の改良工事を行う
 8月に大雨により芭露市街等が浸水
 11月町開基110年式典
 多雨低温により農作物に被害
5年  本年もサロマ湖に流氷が大量に侵入 しかし被害は僅少
 三里地区に消防施設が完成
 砕氷船「みちしお8号」完成して登栄床港に常駐
 春、夏低温により農作物は不作
 米全国的に不作
 7月北海道南西沖地震発生
 8月7党連立細川内閣発足
6年  国内産米不足で外国産米輸入

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                  編集を終えて
                                                    富永 隆(故人)
 あれは昭和の終わり頃だったと思う
 その頃私は組合に勤めていたが、登栄床の人たちに「登栄床の郷土史を作れ」と呼びかけた。私も心中では少しはお手伝いするつもりであったが、勤めながらでは、到底無理であった。
 そして登栄床の人たちも自分たちでやってみようとしたが、これも忙しい仕事を持つ人ばかりと経験もないのでストップしてしまった。
 「お前が言い出したのだから責任を取れ」とは言われなかったが、
「登栄床郷土史の作成に力を貸してほしい」
 と言われたのが平成に入ってからだったろうか。
「退職してからで良かったら」
 ということでお引き受けをした。
 しかし足を踏み入れてやり始めたら、やればやるほど分からないことばかり出てきて、古老の方に色々お聞きしたり、町史や分遣を手当たり次第に捜して辻褄を合わせるのが大変でした。
 委員長の服部さん、副委員長の桜庭さんにも大変お骨折り頂きました。そして委員の皆さんも大変熱心に色々教えて頂きました。この委員の方の努力なくしてはこの郷土史は出来なかったと思います。
 そして漁協の職員の方にも協力を頂きました。有難うございました。私の独断で構成や企画を立てて作ったので不充分なところや書き漏らし党があると思います。お許し下さい。
 そしてそれらは誰かが書き留めて次の第2集の発行のときに書き加えるようにして下さい。
 椛刻o版の竹内さんの努力で立派な郷土史になったことと思います。
 私のボケ防止のためにも良い仕事をさせて頂きました。
 心より感謝致します。
 今はもう肩の荷が下りたような、一仕事やり終えた満足感と安心で何とも言えない心境です。
                                             平成5年12月29日 記