ふるさと登栄床のあゆみ

第1章 登栄床のあらまし
第2章 登栄床のはじまり
第3章 漁業の移り変わりとサロマ湖口の開削
第4章 戦時中と戦後のこと

昭和の小漁師 ページtop 第1・2・3・4章 第5・6・7・8章 第9章 第10・11・12章 第13章 第14・17・19章 年 表


第1章 登栄床のあらまし

1,地区の位置  登栄床地区は、湧別町市街から東方にあり、右にサロマ湖、左にオホーツク海を擁し、鳥のくちばしのように長く伸びている。
 その区域は、『国有林112林班(保安林)以東のサロマ湖およびオホーツク海間突起部分とする』と町で定めている。
面積は、およそ17,25kuである。
2,地区の形成  紀元前1万年から7千年の頃、サロマ湖は、湖でなく芭露川やサロマベツ川、常呂川の河川の氾濫原か若しくは湿地で、ワッカとキマネップは陸つづきの湾であった。それが紀元前4千年から3千年にオホーツク海の水位が低下して行く中で、オホーツク海の海岸に沿って砂丘が作られサロマ湾は、サロマ湖となり、さらにワッカ、キマネップ間が浸食されて二つに分かれていた湖が一つになったと考えられている。(「北海道サロマ潮の生態学的=形成質と底質について=」大島和雄ほか1966)
 したがって、登栄床地区はサロマ潮の誕生とともに生まれた地区なのである。
 しかしながら湖口が開削されてからオホーツク海側の海岸浸食が著しく、所によっては数十bも海に没した所もあり、昭和33年から国、道による海岸浸食防止工事が行われている。

    昭和初期の沿革史より
3,地区の地勢  オホーツク海側は、数bから10数bの崖となっており、サロマ湖側に向かって緩やかに傾斜して、サロマ湖の湖岸は遠浅になっている。そしてオホーツク海側は、若干の原野を残してナラやドロの木の林を形成し、これは保安林に指定されている。この保安林のお陰で北風が遮られ、温暖な気候となっている。
 地区の基部の幅は1.2`b先端は数10bと細くなっている。
4,地区の名称  登栄床の地名の由来は、アイヌ語のト・エトクとされ、その意味は「沼の奥」「湖の奥」である。しかし一般には、三里番屋、中番屋と呼んでおり、これはかって永往者がいない頃漁場の番屋しかなくその番屋の有るところが、湧別の市街から距離にして三里あり、中番屋はその中間にあったため中にある番屋という意味で呼ばれたと考えられる。
 またワッカは「ワッカオイ」(いつも水のある所の意)が変化した地名である。

第2章 登栄床のはじまり         第3章  第4章

1,先住民族  登栄床地区には、数多くの遺跡がありこれらから古代の先住民族が生活していたことがうかがえる。
 遺跡からは、縄文時代(約紀元前5千年)の早期のものと考えられる押型文土器の破片が出土しており、サギ沼付近からも縄文文化前〜中期の北筒式土器が出ており、さらに紀元前3百年頃の続縄文文化時代の遺跡である湖畔台地に竪穴住居や前北式土器、後北式土器が出土している。
 また、紀元1千年〜1千5百年頃の擦文文化時代のオホーツク式土器や擦文式土器も出土している。
 これらの遺跡は、平成5年現在まだ相当数が未調査であり、調査次第によってはまだまだ新発見のものが現れる可能性がある。
 
 湧別町の遺跡から発掘された海獣の牙で作った熊の像

 先住民族である古代人は、漁労や狩猟によって生活をしていたため、川や海、湖の付近に遺跡が多く見られ、遺跡の調査によって彼らが食べていたものが、トド、アシカ、クジラ、ひぐま、鳥ではサギや鴨、魚ではヒラメ、ボラ、サケ、そして貝類ではマガキを多く食べていたことが分かっている。
2,和人による開拓  『蝦夷道中記』(1800年、磯谷則古着)に
 『ユウベツを出て一里半ばかりにてトクセイというところの浜より右のほう、林中に入ること4・5丁にして……』
 『トクセイ2戸、トイトク2〜3戸』
 と書かれており、今から約190年以上前におそらく土人と思われる人が住んでいたことが分かっている。

 1853年〜1864年(安政年間)に江州の人で藤野四郎兵衛がオホーツク海で、土人を使って漁業をしたが、これは夏から秋までであったというから、おそらく秋サケを獲ったものと思われる。
 1900年(明治33年)小樽の人で、大三を屋号とする藤山要吉が、トクセイに海産干場の所有権を登記して、蹴場由之助が番屋の番人として冬季間も住んでいたとされている。しかしこれは、現在のようにサロマ湖畔でなく、オホーック海側であったと思われる。
 この頃は、外海から機船で荷物を海岸に揚げ、それを更にサロマ湖の船に乗せて運んだという記述(登栄床校45年史)がある。
 1910年〜1912年(明治43年〜45年)頃当地沿岸一帯にホタテ貝漁が盛んとなり、中番屋の外海側は、各地よりの出稼ぎの人たちで大いに賑わい、料理屋、射的場、風呂屋、床屋など商店も軒を並べる盛況だったという。
 しかしこれも冬季間は、引き揚げて人は住んでいなかった。この賑わいもその後ホタテ漁が衰微するとともに廃れ、住む人もなく、僅か定置の番屋を残すのみとなった。蹴揚由之助は、その後も中番屋に住んでいたと推察される。
  「明治43年頃平形徳治が網走から来て、蹴場さんの家に泊めてもらって世話になったと聞いている」
  「そして大正11年に中番屋に移住、大正13年に三里番屋に移った。」(平形しげえ談)
3,最初の永住者  大正6年4月17日に播幸栄之助が、信部内に住んでいたのが前の年の12月に津波の被害に会う、サロマ湖のカキを獲る目的で中番屋に移り、永住のため家を建てた。
 これが登栄床地区の最初の永住者である。
 またこの年前年の大暴風雪の被害により外海より20数戸が湖岸側に移ったがいずれも冬は他に移ったという。
 山田和一郎も大正6年に中番屋に移住し、この年の中番屋の戸数は7戸となっている。(昭和9年作成の登栄床校の沿革史より=以下昭和初期の沿革史という)
奥谷悠造の妻きぬえによると、きぬえ(旧姓米原)は大正6年に14才で中番屋にカキ剥きに来たが、その時には、山田和一郎、播摩栄之助、古家、稲村、間島、池田、本間伝吉、斉藤浅五郎が居たという。
 そして播摩栄之助は、氷の上でカキを採取する方法を考案し、冬季間の収入が確保されたことにより移住者も多くなり、大正10年には11戸を数えるまでになった。
 そして大正14年頃には18戸となった。
 さらに昭和5年、18戸の保安林解除の許可があり、居住地としての条件が次第に
整ってきた。
     播摩栄之助
 三里番屋に始めて移住者が住んだのは、岡島水主蔵の親で「黒婆さん」と呼ばれていた夫婦で、この人たちは、横山の定置の番屋の番人をして住んでいた。(奥谷悠造談)
 大正9年の11月23日に岡島水主蔵が斜里より移り住み、「黒婆さん」は岡島水主蔵等と共に住み、定置の番人は山ロ民蔵が来てつとめた。
 大正10年11月には奥谷悠蔵がきぬえと結婚して移住して来、大正13年に平形徳治が中番屋から移り4戸となった。(平形しげえ談)
 その後沖崎善三郎、村上留蔵、斉藤力蔵の各氏が移住してきた。
 三里番屋は、その後毎年2〜4戸づつ増え大正14年頃には15戸程度になったが、この中には床丹に在ったマッチ工場が閉鎖されたため、サロマ湖でのカキ採取を目的にして移住した人が多いといわれている。
         移住当時の住居つくり
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山田和一郎は、昭和10年頃発行の登栄床小学校沿革史によると次のように紹介されている。
 「氏は、明治34年頃紋別沖においてホタテ貝の発見者にして、北見ホタテ同業者の忘れえざる恩人である。大正6年当部落に移住以来、村長の経験もある円満な人格者として、良く開拓の先駆者として指導せられていたが、大正11年物故せられた。生前の恩顧に報いるべく友人12名が中番屋神社境内に碑を建てて永遠に開発の恩人として奉ってある」
 とあるように播摩栄之助と並ぶ登栄床の開祖であり、のちに入地した人たちの面倒を良く見たという。
 今は林の中にひっそりと建つ碑に刻まれた文字は、寄進者の名がきざまれている。
 碑の表には、「故山田和一郎」と彫り刻まれて、碑の裏には、「昭和4年3月、工藤常治・山田村五郎」と記されている。
 又碑の横には、「寄進者」として次の人の名前がある。
大口丑定  播摩栄之助  吉岡寅蔵  大淵源八  (
読み取れない)周吉
剣持権作  有馬勝七  蹴揚由之助  松橋佐市  桑原孫作  川崎福次
上村久平  笹島文太郎
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4,戸数の移り変わり  『昭和初期の沿革史』による中番屋と三里番屋の戸数の移り変わりは次の通りであるが、「正確に調査できなかった」という通り古老の話と一部食い違いがあるが、それでも大勢を知る上では貴重な資料である。
年 度 中 番 屋 三 里 番 屋 合   計
 移住数   転出数   残戸数   移住数   転出数   残戸数   移住数   転出数   残戸数 
明43 1 1 1 1
45 2 3 2 3
大 5 1 4 1 4
4 1 7 4 1 7
1 8 1 8
1 9 1 9
1 10 1 1 2 11
10 2 1 11 4 5 6 1 16
11 4 1 14 3 8 7 1 22
12 1 15 3 1 10 4 1 25
13 1 16 4 2 12 5 2 28
14 1 2 15 2 14 3 2 29
15 1 16 2 1 15 3 1 31
昭 2 1 2 15 3 1 17 4 3 32
1 16 3 2 18 4 2 34
1 1 16 2 20 3 1 36
1 1 16 4 1 23 5 2 39
4 20 4 1 26 8 1 46
1 2 19 2 1 27 3 3 46
1 2 18 2 29 3 2 47
3 21 5 34 8 55
 同じ資料の『戸数および人口』という表は次の通りであるが、前記の数字と符合しない点があるが、調査の時点や調査方法での違いでないかと思われる。
 中番屋の部
 年度   戸数   漁業人口   商業人口   他人口   合  計    総合計  
昭6年末 23 53 48 60 53 113
昭7年末 21 51 42 58 47 105
昭8年末 20 64 51 70 56 126
 三里番屋の部
 年度   戸数   漁業人口   商業人口   他人口   合  計    総合計  
昭6年末 34 109 95 114 98 212
昭7年末 31 92 86 94 88 182
昭8年末 28 87 81 91 83 174
 『夏期は漁夫の入り込みにて常に6割の増加をせしが、本年は特に15割の増加を示せり』とある。
 また町史によると次のようになっており少し食い違いがある。
 年度   戸数   人口 
 昭6 69 407
 昭8 75 573
 昭10 98 854
 登栄床校沿革史によると戸数と人口の推移は次の通りである。
 年度  中 番 屋 三 里 番 屋 合   計
 戸数   男   女   合計   戸数   男   女   合計   戸数計   人口計 
 昭11 24 34 58
   12 31 133 117 250 42 230 147 377 73 627
   14 31 122 87 209 48 181 127 308 79 517
   15 32 79 75 154 43 145 125 270 75 424
   18 33 77 81 158 46 133 162 295 79 453
   20 33 84 78 162 48 142 137 279 81 441
   21 38 87 96 183 54 150 145 295 92 478
 町の資料による登栄床の戸数と人口は巻末に記載した。

第3章 漁業の移り変わりとサロマ湖口の開削      第1章 第4章

1,漁業の始まり  明治33年頃中番屋の外海側に定置の番屋があり、小樽の人で大三の屋号で藤山要吉が経営していたが、その後明治43年頃からはホタテ漁が盛んとなり、これがまた資源枯渇とともに衰微をし、
 『現在は戸数1戸もなく、僅かに夏季間のみ佐藤漁場の定置漁業を見るのみにして当時を回顧するとき、漁村特有の興亡を思われ、うたた感慨に耐えざるもの在り』
  (登栄床校45年史より)となった。
2,湖口掘削前の漁業  天然カキが始まり
 一方サロマ湖では、この頃カキが主な生産を占めており、交通や輸送の手段がなかった頃とて、最初は干しカキにして出荷もされたが、採算が取れず普及はしなかったようだ。
そしてこのカキ漁業も常呂町の鐺沸(とうふつ)が生息も多くこの方面に集中していた。この間の事情を「常呂町史」から抜粋してみると、
  『明治15 ・ 16年頃九州の人建部忍之助か、支那人「黄三梅」を連れて乾カキの製造を始め、支那輸出を計画したが、乾燥方法の研究不十分で失敗に終わった。』
  『明治42年柴田直次郎が、サロマ湖の一部水面利用の許可を受け、乾カキの製造を行い、翌43年厚岸町より大井太一を招き製法、漁具漁法に改良を加えて製造に入り、この年乾カキ20玉を生産しカキ漁業の復興となった。しかし44年40玉を生産したが採算が取れず、爾来生カキのみとなった。
  当時のカキは「ナガカキ」と呼ばれ、珊瑚礁のように生育する「立ちカキ」で現在でも湖内に若干残っている』
 『明治45年鐺沸漁業組合が設立され、大規模に生カキの採取が始まり、冬季間に約百樽を生産販売し、その後数年間は、約四百樽、当時1樽の価格は4円ないし6円90銭であった。』
とこのようにサロマ湖の漁業はカキから始まっていったのである。
 そして大正5年湧別線鉄道(野付牛、湧別間)が全線間通し、輸送の利便が計られたことから、海産物の流通も盛んとなり、加えて大正6年播摩栄之助か、冬のサロマ湖の氷上でカキを採取する漁法を開発してからは永住目的の移住者も多くなってきた。
 大正中期ころまでは、カキを年中獲って生活している人が多かったようで、その後外海のホタテ漁と合わせ行うようになったようである。
 しかしカキは、夏になり水温が上昇すると抱卵し生で売れないので、茄でて干して乾カキにして出荷した。また剥きカキは樽に入れて出荷したが、2斗樽で7〜8円(1升35〜40銭)だった。(中番屋古老談)
 以下登栄床校沿革史の記載から豊栄床地区の天然カキの生産状況である。
 年度   石数    生産額    1升の単価(銭) 
 大15 500  15,000円 30
 昭 2 448  15,094 33
    3 265   9,275 35
    4 600  18,000 30
    5 387  11,610 30
    6 336   8,400 25
    7 242   6,050 25
   15     58・7 75
 
 昭和7年の末に一升五銭にまで下がったことがあり、収入が減り苦しかったことがあるという。(播摩、蹴揚談)

 注 昭和4年以降は、湖口開削し次第に減少





大8−14年、昭16・17年不明、18年より禁漁



 ホタテとカキが中心
   「7月〜8月は前浜でホタテ漁をして、9月になるとサロマ湖に移って八尺でカキを採り、冬は挟み取りでカキを採った。ホタテは3年獲ると3年休んだ」(奥谷悠造談)
  「昭和3〜4年頃私等は5月10日になると釣り物でタラを獲った。この頃不思議に5月10日になるとタラが来た。このタラは棒鱈に加工して、毎年200束位作った。
  オヒョウも釣ったが3メートル位の物が釣れた。6月10日からはサメを穫った。このサメは粕にした。
搾った油は透き通ってきれいな油だった。サメは60石位も粕に炊いたと思う。しかしこのサメ油も一斗缶に入れて出荷したが、缶代が1缶20銭でそれに検査料、ロづけ料、運賃を払ったら1缶20銭にならない年もあり馬鹿馬鹿しくて止めたこともあった。
 釣り物に使った船は、発動機船で、10馬力の起こし船にエンジンをつけた         昭和9年頃の動力船の進水風景                        船で、三里ではこの船が一番早い発動機船だった。
 この船は興部から買ってきた長海丸で、機関士に山根三成、市郎の兄弟を雇い網走まで講習にやって覚えさせた」(奥谷悠遺族)
  「昭和4年ころ、川先船(新潟からきた船の型)に帆を張って八丁櫓で大和堆までオヒョウを釣りにいった。食糧をどんと積んで磁石のコンパスとレットだけの装備で数日間の沖係りの操業だった。それでも事故はなかった」(山根市郎談)






魚粕しぼり










3,湖口の開削  大正の初期、カキなどのサロマ湖の漁業を目的に移住をした人も、湖内漁業だけでなく外海の漁業を合わせ行うことが有利であることに着目した。
 しかし外海で操業するには、鐺沸まで船を回航して外海に出るという不便さがあり、このために船を砂丘越しに外海へ運び、そしてまた戻るという作業をくり返した。
 だがこの遣り方だと船底の傷みが激しく、耐えられないことから、航路の掘削を思い立ち、大正14年から三里番屋の人たちが中心となって郡境の最も狭い砂丘の切り開きを行った。が、しかし水の流れは見ることが出来たが、時化があるとたちまち塞がってしまうとまた切り開くという繰り返しで、3年の歳月が過ぎた。だが何とか部落の近くに湖ロを切り開きたいというのはこの土地に住んでいる人たちの長年の悲願だった。
 また一方雪解け水が湖内に溢れ、サロマ湖の水位が上がるため、低地にある芭露などは湖岸から数キロに渡って冠水するという災害に毎年陥まされており、このために離農する人も少なくなかったといわれる。
 この有様を芭露部落史の「芭露80年の歩み」は次のように伝えている。
     『入植地は、湿地のため農耕の見込みがなく離散したように、三里浜に湖ロを切り開く以前のサロマ湖は水位が高く農業開拓に大きな影響を及ぼしていた。
 かってサロマ湖は、鐺沸において外海に接していたが、湖口が塞がるので明治33年から毎年4〜5月頃常呂村内の農漁業者等関係住民が協力して自発的に湖口の切り開き事業を行っていた。
  大正14年二里番屋の人と15〜6人が常呂、紋別両郡の最狭部(14〜5メートルくらい)の砂丘を堀削し外海へ出る近道とした。』
  湖口掘削にかける住民の悲願は、村当局への陳情となった。
  特に熱心であったのが、岡島水主蔵で幾度となく村役場に足を運んだと推測される。
  そしてついに村当局の取り上げるところとなり、昭和2年村営事業として採択された。
  そしてその年から工事費が計上され、翌3年の4月から工事は始まった。
 「芭露80年の歩み」によるとこの工事の請負人は、梶原友慰という人であるという。この梶原という人は、大正11年に製紙会社が芭露から中湧別まで軌道敷設工事を行うのに際して、工事請負人として芭露に来て定住し、芭露小学校の増築工事なども請け負ったと書かれている。
工事は、昭和4年4月まで続けられ、最終工事として、湧別市街や芭露から1日80人以上の動員が行われ、4月20日に上幅4間(約7.2b)敷幅2尺(0.6b)最深部20数尺(6b余り)の通水溝が出来上がった。しかし、せっかく出来たが期待に反して水の流れがなく一同落胆し、折からのミゾレ降りしきる悪天候にこの日の作業を打ち切り引き上げた。
 ところがその夜事態は一変したのである。

 その感激の模様を湧別町史(昭和40年発行)から引用しよう。
   『その夜は雪と変わり、嵐を孕んで湖面の残水は揺れに揺れて、潮騒の音高く、心静まれぬ一夜であった。
  この事業に当初から心胆を砕き主導的立場にあった岡島水主蔵は、翌朝いち早く積雪を踏んで小高いところに至り、工事現場を望見すると湖水の流出する様子が認められ、多年の       湖口開削作業風景                 夢が実現した喜びに欣喜雀躍した。
  直ちに状況を村長に伝えるために、外海の波打ち際を辿って、市街に出て漁業組合から電話で通報したが、容易に信じられなかったという。
  この知らせにより当日12馬力の発動機船に関係者が乗り込み、実情調査に赴いたところ、30間近くの水路が開けたものの水流の激しさは船を翻弄し通航の試みは果たせなかった』
 この歴史的側目の開削により、登栄床地区はいうもがなく、サロマ湖、そして湧別町、常呂町、佐呂間町3町の漁業は大きな変貌を遂げていくのである。
 この湖口の掘削に支出された村費は、昭和2年が500円(掘削費400円、雑費100円)、同3年950円(当初600円=掘削費300円と設計費200円及び雑費100円、追加350円=掘削費300円、雑費50円)の合計1,450円で、当時剥きカキが1升30銭〜35銭の時代としては、多額の村費をつぎ込んだ事業で、村長始め議会関係者などの大英断と言えるのでないだろうか。
 またこの大事業について、当時の新聞記事を抜粋して紹介するが若干の誤りや誇張があることを承知願いたい。
☆北見タイムス(昭和4年5月25日第11号)
  (林由一社長の新湖口視察記)
   『折から村議会に招集された村議全員と漁業組合員有志など十余名、発動機船にて正午出帆現地に向かった。午後2時常呂郡と紋別郡の郡境たる新湖ロに到着、蒸気船とともに湖内に入港した。
  まず新湖ロといえば若干の人夫が掘削したものなれば、僅々二十〜三十間の排水溝の如きものと誰しもが予想していたるに壹はからんや幅数百間、深さ六十七尋の大河となり、湖水はごうごうと流出し、誰が見ても人工掘削などとは見るあたわず、数百年前よりの大自然とより見られぬ。小樽港を数十倍したる大築港の如き一大偉観である(編者注=サロマ湖の事)。
  直ちに湖内を一マイルほど西なる三里番屋に向かった。船付き場は、カキ殼で自然の桟橋ができており、船を横付けにして一行十五名は、上陸するや俗に三里の殿様、番屋の村長の称ある岡島氏をはじめ部落民全部が羽織袴の正装での出迎えに恐縮しつつ、奥谷氏の宅における一同歓迎会に招待される………』
☆湧別新聞(昭和9年2月5日第161号)
  「湖口を開いた漁民一揆」という見出しで次のように伝えている。
   『サロマ湖掘削湖口の改修工事は、多年関係住民の要望としてしばしば要路に対し…
  サロマ湖ロの掘削は、大正13年ころ、当時の漁業組合長大益康夫氏を筆頭に魚菜専務安藤敬蔵氏、釣り物組合長森田三吉氏等の主唱に始まり、同年3月28日には160名余の地方住民が、夜陰に乗じて無闇の掘削を断行すべく蜂火をあげ、ついに司法権の発動を見るに至り、この歴史的漁民一揆の幕は閉じたが、その後常呂村の反対にあい、幾多の波乱曲折を経て、昭和3年4月安藤敬蔵並びに谷虎五郎の同氏が上京し、政治的工作によってついに湧別漁民が凱歌を奏するに至ったものである。
  工事は昭和3年5月2日下湧別村民の賦役の掘削に始まり、その後村当局が、600円の工事費予算を計上して工事に着手したが、実施の結果工事費の不足を来し、一時工事の前途に暗影を認められたが、時の村長武藤藤五郎氏並びに西田首席等の英断により、さらに600円の専決処分を行って漸く水路の完成を見るに至った。
  時たまたま地方住民の至誠神に通じたか、昭和4年4月21日天祐ともいうべき大暴風雨起こり、オホーツク海の激浪水路に向かって襲来し(注=加えて融雪増水の湖水がオホーツク海の激浪で崩された掘削を一挙に拡大し、奔流となった。)一朝にしてサロマ湖は約百間にあまる歓喜の扉を間いたのである………』
 この工事については、行政の許可なく実施したため、警察が出動するという騒ぎになり、「乗馬で駆けつける警察官を途中で待ちぶせして引きずリ下ろし」たり「工事に出られない女を見張りに立て、警察が来ると弁当をもって一目散に逃げた」(岡島トクヨ談)たりと部落挙げての大仕事であった。ただ最後の工事は、有力者の奔走で当局の許可が下りたとなっているが、最後まで無許可であったという推測(編集委員会)もあり真相は判然としない。
 湖ロの掘削はサロマ湖の新しい出発となったが、常呂村鐺沸地区は、旧湖口を擁して天然カキで栄えていただけに環境の変化により天然カキが激減したことから衰微の道を辿ることとなり、その間の模様を「常呂村吏」は次の様に伝えている。
   『昭和4年下湧別村三里番屋付近に同村の手により湖口を掘削したるに、従来ありし鐺沸湖口は地盤高き関係上自然閉塞水位低下したるため、カキの弊死著しく……すべての魚介類減少し百年の悔いを此処に残すに至れり。これがため鐺沸地区は益々衰微した』
と記され、着工前の反対や着工後の妨害などを合わせ思うと如何に残念であったかが伝わるようである。
 しかし今は当時の確執はなく、ともにホタテ王国を謳歌している。
 湖口開削の記録として、登米床に在住した山口省吾が第16章「登栄床の思い出」で「湖畔の村」として当時の模様を生々しく書き著している。



昭和55年の湖口付近








4,湖口開削後の漁業  湖口の掘削によりサロマ側は外洋性の湖となり、住む生物も大きく変わってきた。
 名産の天然カキが次第に減少した。
   「明治42年に父が秋田から視察に来てサロマ湖にボラが沢山いるのをみてカラスミを作るために、兄が昭和の始めか明治の末期に中番屋にきた。
  私も昭和3年9月7日に秋田から来たが、それも湖口が開いてからはボラもいなくなり、その代わりにゴリやエビを獲って佃煮をこしらえていた。」(吉岡静江談)
   「そしてこの頃中番屋では、1月から6月15日までは天然カキの採取6月16日からホタテの支度に入り、7月1日から10月15日まで外海のホタテ操業、10月16日から天然カキの採取という繰り返しだった。」(吉岡静江談)
        昭和初期のホタテ漁                     湖口が開いてからエゴ(オゴノリ)が増え、「縄を張って干して出荷したがこれで1年中の暮らしが立つほどだった」(吉岡静江談)
   「昭和5〜6年頃はホタテ漁のないときや不漁のときは、エゴを採って乾燥し、中国に輸出していた」(三里古老談)
 このエゴは、海の中で泳いでいるようになっており、それを三尺くらいの長さの板に八番線の針金を通して爪のようにしたものを15〜6本つけそれで山綱をつけて前繰りで手巻きして獲ったという。「1日1トンも獲れたと言うが、長くは続かず2〜3年で無くなった」(蹴揚義美談)
 この頃は交通や輸送の便もなく、生産物をどうしていたかというと、干したり、塩蔵できる貯蔵品を作ったり、むきカキのように加工できないものは、馬車で湧別市街まで運んでいた。
 奥谷悠遠は明治30年4月19日生まれ、奥さんきぬえは明治37年2月20日生まれだと言うが、元気いっぱいでいろいろと昔の話を聞かしてくれた。
   「三里で馬を飼っていたのはうちと沖崎だけだった。
 うちの馬は道産馬で、冬には馬ソリで剥きカキを積んで湧別に運んだ。だが市街の商人の買う値段が安く一升5銭の時もあったので、相
    天皇陛下に献上する干貝柱の製造        談して共同で各地の市場に送った。
 ところが市場から金が来ず大損したこともあった。
 そして馬で市街に行くので部落の人から買い物を頼まれたが、立て替えて買ってきても金は後からといわれとうとう貰えないこともあった。

   でも昭和13〜4年頃よりトラックで集めに来るようになりこの馬も売ってしまった。トラックが来るようになると、ホタテは叺に入れて17貫にして殼付きで出荷した」という。
 また斉藤力蔵は、「昭和の始めから11年頃まで熊木商店の帳場として買い付けや運搬をしていた」(斉藤石蔵談)と言う。
 この頃は、漁協はあったが、漁業権の管理程度のもので、売った買ったは、漁師と商人の相対でなされており、漁師はこれら商人の仕込みを受けて、中には青田売りのように獲らない前に獲るべき生産物を売り金を受け取るという不利な条件での取引も少なくなかったといわれる。
  当時の商人は、渋葉、若尾、里古、飯塚などだった。(三里古老)


       昭和9年 大崎漁業部のホタテ従業員
 大正3年の「産業調査報告書」によると『漁業経営資金は自己資本および借入資本によるものは極めて少数にて、仕込み受けによるものがその大部分を占める。
 その仕込み受けの方法は、現金、米、味噌、その他所要物品の仕込みを受け、現金は2分乃至2分5厘の利子を付し、物品に対しては手数料として5分を加算するか、またはこれを時価に換算し現金と同−の利子を付す。
  そして生産されたものに対しては5分乃至1割の販売手数料を徴収された』
 三里で定置を経営していた横山親方もこうした仕込みを函館の資本家から受けたといわれる。このような仕込み制度は、規模や金額は違っても湧別の仲買人も行っていたと言われている。
 当時は資源も豊富にあって
   「昭和10〜12年頃の春先の水が澄んでいるとき磯船で浅瀬によってきた毛ガニを手釣で引っかけて獲った。大きな力二で千バイも獲ると船が満船になりこの大きな力二が一パイ1銭で船いっぱいでも10円にしかならなかった」(奥谷悠造談)
と旨うように買い叩かれた。
5,動力船の導入  奥谷悠造によると、昭和5年頃興部より長海丸という起こし船にエンジンをつけた有水式の10馬力の船を買ってきたが、これが登栄床地区で一番早い動力船だという。
 湖口が昭和4年に開いたことから、外海への距離が近くなり延べ縄で鱈釣りをした。船頭は高橋(藤次郎の親)機関士は月宮といい山根三成もこの人から教えてもらった。
 この船は、奥谷により三枝丸(みつえ)と命名されたがこれは長女の名前から取ったという。
 昭和8年に沖崎善三郎が、留萌から有水式の焼き玉8馬力の福勢丸を買ってきて毛ガニ篭漁を始めた。湧別で一番早かったという。船頭が沖崎武、機関士山根市郎、漁夫神崎忠直、大崎文(注=女性)だった。力二篭の餌はこの頃ホタテの干しウロたった。
 毛ガニ漁が契機となって翌年から発動機船が続々と増え始め米原清一、山ロ源蔵、山田与三郎、山根市兵衛、村上留蔵と続き、遅れて斉藤力蔵、町元与三郎等が続いた。
 昭和9年9月5日現在という「昭和初期の沿革史」による登栄床地区の動力船などの漁船の数は次の通りとなっている。
                                    昭和11年の動力船の進水 
 部 落   発動機   川 先  ドカイ   磯船   合計 
 中番屋 3 35 7 15 60
三里番屋 7 41 11 18 77
 合  計 10 76 18 33 137
  年度  動力のあるもの 動力のないもの
昭和8年末 3 111
昭和9年現在 6 161


  また登栄床校沿革史によると次の通りである。
 年度  動  力  船 無 動 力 船
隻 数 新造船 廃 船  隻 数   新造船   廃 船 
5d
未満
10d
以上
5d
未満
10d
以上
5d
未満
10d
以上
昭11 5 6 - 1 - - 75 18 8
  12 14 2 2 - - - 87 17 9
  14 17 3 - - - - 105 3 7
  15 20 4 - - - - 98 4 7
  20 5 6 - - 1 2 91 - 3
  21 8 9 - - 2 - 96 - 8
  22 9 - - - - - -
  23 12 - - - - - -
  25 28 - - - - - - -
  「中番屋の動力船は、昭和12年頃は、吉岡寅蔵、吉国又吉、播摩栄之助の3隻であった」(吉岡静江談)
 サロマ湖でエビを曳き網で一番最初に始めたのは三里の山根市兵衛で、マスの建て網にエビが乗るため試しに曳き網を掛けたところ成功したもので、6〜7月に獲り、エビは生で馬車に乗せて湧別に出荷した。
 だがその内に商人が現地まで買いに来た。
  「昭和10年頃、岩内から曳船をチャターして(30馬力くらい)ホタテ漁をしていた。ホタテ船は川先船で、1隻に4〜5人が乗り、力のある人は1人で2隻も出していた」(吉岡静江談)
  「昭和15年に斉藤力蔵は、町元与三郎等と共に生州丸(焼玉8馬力)と前浜の竹内清治の源清丸と共に樺太でフジコが大漁と聞き出かけたが、時化のため港、港で停泊して、樺太西海岸の恵須取郡珍内町で8月から11月まで操業した。
  しかし、時化が多く日華事変の影響で価格が暴落し良い結果では無かった。
  この頃この程度の船で大和堆へいっていたが不思議に海難事故はなかった」(斎藤石蔵談)
 このように当時はホタテ漁が漁民の生活を支えていたが、川先船による手捲きの操業が大分続く。
 そしてこのホタテ漁も「昭和5〜6年頃ホタテ漁のないときや不漁のときは……」「昭和7〜8年頃ホタテが大漁で、カフェーが4軒くらいあった」と三里の古老が語っているようにホタテ漁も豊不漁があり、不安定であったようだ。
  「ホタテ禁漁の年にイワシの流し網などもした。しかし網は手捲きでそれは酷い重労働だった。これでもやるしか他に仕事がなかったから」(山根市郎談)という。
だが、その後戦中、戦後の乱獲によりホタテも資源が減り、僅か昭和18 ・ 19年にニシンの大漁があったもののそのニシンもいなくなり、辛く苦しい時代を迎えるのである。








ニシン大漁の模様









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 登栄床の回想
                     北見市  吉岡 シズエ
 昭和3年に父や兄の後を追って秋田県がら中番屋に来ました。そして昭和45年までの42年間を中番屋で過ごしましたが、その歳月を振り返ってみますと感無量です。
 当時は葦原に掘立て小屋を建ててそこに住んで、エピやゴリの佃煮を製造したり、カキ曳きをしました。夜は、ランプの下で繕いものをするそんな毎日でした。
 昭和4年に結婚し、四男、三女と子供は生まれましたが、四人の男の子を亡くし、主人も機雷の爆発でこの世を去りました。体の具合の悪い子を角屋さんや吉竹さんの馬単に乗せ、中湧別の一戸病院に連れて行きましたが、遺体で帰ってきたときの悲しさ、辛さは言い様もありません。その後幼い子を家に置き魚の行商をしました。タ暮れの道を物々交換した米や麦を背負って夢中で家路に急ぎました。
 その頃男の人は、兵隊に行き、苦しさはどこの家も同じでした。木造建ての寒い家ばかりで、冬はふとんの襟がカチンカチンに凍り、水瓶には氷が張ったものです。
 そんな生活状態でしたが、近隣は仲良くお互いに助け合っていました。播摩さん、原田さんに貰い風呂に行ったり、また、終戦後は佐藤富治さんの所に幾家族も集まり、ウドンを打って食べました。お正月のホウビキも楽しみの一つでした。
 朝早くからホタテの製造、カキ剥き、煮干し作り等登栄床時代は働いて、働いて終わった気がします。
 現在次女夫婦に老後を看てもらっています。中番屋の甥達が「おばさん、ウニ食べにお出で、ホタテ食べにお出で」と電話をくれるので、毎年数回中番屋に行き、知人と会えるのが私の楽しみの一つです。海の幸をご馳走になり、湖や円山を眺めるとき、ふっと世話になったり、親しかった故人の一人一人の顔が浮かびます。
 私も83才になりました。立派な家が建ち並び、プラスチックの船が浮いて、1軒に2台、3台と車があって・・・。
そんな光景を見て「アーイイナァ」とつくづく時代の推移を感じています。
 今後益々発展されることをお祈りいたします。
    筆者紹介    吉岡さんは、明治43年4月に秋田県南秋田郡払戸村で生まれた。
              旧姓船橋
              昭和3年18才で中番屋に移住し、翌4年吉岡又吉と結婚したが昭和17年5月17日
              機雷の爆発により又吉氏が死亡、以来女手一つで子供たちを育てた。
              非常に記憶が良く昔のことをいろいろ教えて頂いた。  現在北見市在住。
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第4章 戦時中と戦後のこと          第1章  第2章

1,戦争中の事  明治27〜28年の日清戦争(対戦相手は、現中華人民共和国)、明治37〜38年の日露戦争(対戦相手は、現ロシア共和国)の一応の勝利と大正3年から7年の第一次世界大戦(対戦相手は、ドイツ)で勝利を収め日本は世界の軍事強国として「五.大強国」(日本、イギリス、フランス、イタリヤ、アメリカ)となり、昭和始めの経済不況の時期にも拘らず、着々と軍備の増強を計り、特に農村の青壮年は、「富国強兵」の一番の要員として兵役に招集された。
 昭和11年2月26日に起きた陸軍の青年将校達1,400人によるクーデター、二・二六事件は、皇道派と統制派との争いとされているが、背景には疲弊し、子女の身売りをしなくてはならないほど追い詰められた農村の悲劇があり、軍事政権による日本の改造を計ったものであった。
 軍国主義の推進のためには軍隊の増強が必要であり、その為にわが国では、明治6年に「徴兵令」が布告され、男は兵役の義務が課せられた。
 しかし北海道は、開拓途上ということもあり、北見地方で「徴兵令」が適用されたのは屯田兵制度との関係から、明治31年1月のことであった。男は満20才になると徴兵検査を受け甲種合格すると、2ケ年の現役入隊があり、万歳と幟(のぼり)に送られて入営し、満期除隊すると予備役(7ケ年に編入され在郷軍人として有事に備えたのである)
 湧別町の徴兵検査は、遠軽町で行われた。
 昭和12年の日華事変(対戦相手は現中華人民共和国)から中国との戦争、更に昭和16年12月8日には太平洋戦争(対戦相手は、アメリカ、イギリス、ソ連)と日本は泥沼の戦いにのめり込むのである。
 戦争と共にそしてその戦いが激しくなるにつれて戦争に駆り出される男も増えて、街には男が居なくなり、体の弱い人か、年寄りと女しか居なくなってしまった。
 入隊して除隊しても在郷軍人会があり、「欲しがりません勝つまでは」とか「銃後の守り」「撃ちてしやまん」「鬼畜米英」「一億玉砕」といった元気の良いスローガンが町を覆い、愚痴もこぽせない状況であった。
 従って浜で働くのは、女と子供それに年寄りといった有様であった。
 従って生産も落ち、魚が獲れないから収入もなく女、子供が貴重な働き手となっていた。
 女の人も船に乗ってホタテ曳きをしたという。ホタテ曳きに乗った元気のいい奥さんは三里では、大崎文、村上まさ子、山根はなさん達だったと言う。
 小さい子供の居る家では、兄か姉が居ると母親が帰ってくるまで子守と留守番をし、母親が沖から帰ってきてから学校へ行ったという。このため漁師の子供は遅刻や欠席が多かった。







戦時中の国防婦人会と家族の皆さん













昭和10年頃婦人会のホタテ貝殻つなぎ、
後ろの家は高橋藤次郎宅










2,戦時体制  戦争が激しくなると、様々な催しやスローガンが生まれた。
 毎月1日がが「興亜奉公日」とし、この日は、宮城の遥拝、神社参拝、英霊に対し黙祷、遺家族傷痍軍人の慰問、飲酒喫煙の抑制、宴会遊興の自粛が行われた。
 大詔奉戴日は毎月8日が開戦を記念して決められ、国歌斉唱、御真影奉拝(天皇陛下の写真を拝むこと)、教育勅語奉読、などが学校などで行われた。
 スローガンもだんだん過激となってきて、「一億火の玉」「一死報国」「神州不滅」「一人一殺」などと叫ばれた。
 そして物資の不足が深刻となってきて「欲しがりません勝つまでは」という耐乏生活を表す標語も登場した。
 
 昭和18年6月「学徒戦時動員体制確要綱」により、学生の兵役免除も取り消され、卒業を早めたりして「学徒出陣」となった。
 昭和18年9月「女子挺身隊令」により25才未満の未婚女子の勤労動員が決まり、軍需工場や造材、炭鉱などに働かされた。
 更に同19年2月「国民登録制」を拡大し、男子12〜60才、女子12〜14才を徴用の対象とし、軍需工場などへ召集された。
 同年3月には、中学生(旧制中学)の勤労動員が決定した。
 同20年4月14日に湧別小学校高等科1・2年生が志撫子まで松葉油の採集のため1週間にわたり動員したとされる記録があり、同年6月に再び20日間にわたり動員されている。
 この松葉油は飛行機の燃料にするため全国的に学生、        児童生徒による勤労動員
生徒により採集されたのである。
 登栄床小学校の記録には                   
 昭和20年5月2日防空壕堀を行う
   〃  6月22日ワラピ取りをさせ校庭で乾燥
   〃  7月26登栄床牧場に援具に行く
   〃  8月13日登栄床地区国民義勇隊戦闘隊結成式
の記述が見られる。
 昭和18年8月アメリカ軍の北海道沿岸上陸に備え、沿岸特設警備隊が作られ、隊員は湧別、上湧別両町の在郷軍人200〜250名で編成された。
3,物が無くて苦労した  昭和12年の日華事変の頃より国は、生産や物資の統制を強めると共に、漁業についても戦時食糧確保のために漁獲量の増大を求め昭和15年には国が生産の基準数量や増産数量を示すまでになった。
 しかし主要な働き手を失った浜は到底増産目標の達成はならず、沿岸漁場の荒廃を生み出していった。
 物価も戦争が長引き物資が足りなくなってくると価格が暴騰し、インフレの様相を示してきたため国は、昭和13年に思惑買いや売り惜しみ、買い占めを防ぐために物価統制に乗り出し、公定価格制度となった。
 そして物資についても統制が敷かれ、それと共に配給制が生まれた。
 昭和16年 ホタテ貝柱の検出凍結で減船割り当てとなり        4人共同で1隻を操業
  〃 18年 統制強化により漁業資材や食料入手困難となり操業に支障
      登栄床国民学校生徒によるワラビ採り
                                      〃 19年 益々資材不足となりロープ原料の大麻           1,15f耕作
        貝柱加工用の木炭製造のため炭焼きを行う
  〃 20年 塩不足で製塩事業行う(以上町史より)
 米もなかった。配給米は少なく、闇米は高く、そして闇米は金を出しても手に入らず魚や粕、衣類などとの交換でなくては食べれなかった。
 しかしすべてがそうではなかったようで、男手があって、水揚げの多い人は、交換して米や肉、味噌、醤油や衣類も手に入ったようで、相当差があったようである。
 小麦の中に米が少々という御飯、芋、南瓜の代用食は当たり前で、子供たちは学校へ行って握り拳を出しあって掛け声と共に手を広げ掌の黄色の濃さを競ったものである。
 これは南瓜のカロチンがたくさん食べると皮膚の色に出てくるためである。
     登栄床国民学校生徒による芋掘り作業
三里のある家では6人家族で1年に芋が20俵(1俵=60`)でも足りなかったという。
 「お客さんが来て止まったりすると子供たちを朝早く起こして、釜の上の麦の多いところを食べさせて、お客さんに底の米の多いところをたべさせるようにした」(山根市郎婦人談)
 塩もほとんどの家で造ったようで、浜にニシン釜や鉄板の容れ物を作りこの中で海水を煮詰めて作った。しかしこれも店で塩が買えるようになると薪も十分にないので自然となくなった。
 そして又無い物に油があった。
 船に油がなくては動かない。重油が配給でも十分当たらないのでクレオソートを混ぜて増やしたり、オイルの代わりにサメの油を使ったりしたがメタルを焼くことがあり良くはなかった。
 だが良い事もあった。
 「昭和18年から19年頃に、そして更に23年頃ニシンがクキて(群来の意)海が白くなった。そのニシンは、粕に炊き、数の子は塩にし、「一日で1隻千箱も獲った」
 「男が居ないので女達が御飯を食べる暇もなく数の子をかじりながら働いたものだ」
                  (奥谷きぬえ談)

 戦時中の資材の配給統制を見てみると
昭和13・5  石油販売取締り規則
 〃 15・5  漁網配給統制(綿漁網、綿糸糸、マニラトワイン、マニラロープ、マニラ網、マニラ岩糸)
 〃 15・9  ゴム製品配給統制規則
 〃 16・2  五ガロン缶配給統制規則
 〃 16・11 藁製品需給統制規則
 生活物資は
昭和13・3  綿糸配給統制規則(割当制度)
 〃 13・5  石油販売取締り規則(ガソリン、揮発油、重油の切符制)、石炭統制規則
 〃 14・7  マッチ、家庭用石炭、綿製品(ネル、肌着、かすり、木綿、手拭い)
 〃 18・   木炭、薪の配給制
 食べ物は
昭和14・4  米穀配給統制法(働き盛りで1人1日330c=2合3勺)
 〃 14・7  砂糖配給統制規則(5人家族で1ヵ月600c)
 〃 15・6  麦類配給統制規則
 〃 15・7  青果物配給統制規則
 〃 16・10 酒類配給統制規則
 〃 17・2  味噌醤油配給統制規則
 〃 17・3  鮮魚貝類の配給制
 〃 19・8  料理飲食店の休業指導
 〃 19・8  家庭用砂糖の配給停止
 〃 19・11 たばこの配給制(1人1日6本、翌年からは5本)
  といったように全てないないずくしとなった。
4,遂に終戦  昭和20年8月15日この日は、明治、大正、昭和の一桁生まれの日本人にとって終生忘れることの出来ない日である。
 前日からこの日の正午に重大な放送があるということで、全国民がラジオの前に聞き耳を立てたのである。ガアガアという雑音で所々しか聞こえなかった天皇陛下の放送であったが、
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」という言葉だけはよく聞こえた。
 日本の歴史が大きく塗り変わった日である。

5,戦後の苦しい時「密漁」  「昭和23年頃釣り漁をした。オヒョウ、サメ、タラ、オオスケ(銀サケ)カスベを穫ったが、カスベは大きいのを350枚も釣ると満船になった。あの頃は魚もいた」と山根市郎さんはいう。
 しかし小手繰り網(小型船の底引き網)が湧別の主幹漁業の漁業経営となる。
 サロマ湖でも外海でも食うために禁止漁法と知りながらも続けざるを得なかった。
 小手繰り漁法は沿岸の資源を守るためということで禁止されたが、比較的資本の大きい大手繰りは許可され、沿岸漁民だけが犠牲になった。
 しかし一網打尽漁法だが、漁法としてはもっとも効率的な漁法であった。
 本間豊吉も昭和23年焼き玉の10馬力の動力船を購入し、釣り物と共に小手繰りを操業した。
 斉藤力蔵、加藤久蔵も15馬力の船を買ってきて小手繰りをした。
 このころ小手繰りをしていたのはこの他に、山根三成、沖崎善三郎、工藤健之助などであった。
 この密漁について経験者談として町史に次の記事がある。
    「組合員だから本来なら法に触れる密漁などやるべきでないのだが…………みんなやっていた。
  まるで漁協ぐるみだった。
  やったのは小手繰りで、カレイ、ホッケを獲った。昭和32〜33年…… 3〜4人で組んで密漁をした。
  仕込み先(漁協関係者以外のもの)と組んで、獲った魚は横流しをした。
  しかし仕込み先に買い叩かれて安い値段になったが、現金取引だし、ロープなどもそのルートで手に人ったので結構苦しいときは助かった。漁協も苦しいときだから見ない振りをして黙っていたし、どこからともなく保安部の取締り情報も伝わってきたものだ・・・・でも私の船は小型で速力も遅いので、1度逃げ損なって捕まったことがある』
 手繰り漁法としてサロマ湖に最後まで残っていたチカ船びき網は平成元年に禁止となり、エビ船びき網も昭和56年に篭に転換された。
 この小手繰りの密漁は昭和35年まで海上保安部や支庁の取締りの目を潜り、あるいは逮捕されながらも代わりにやる漁業もなく食べるための悲しい抵抗として続いたのである。
 従って漁師の暮らしはどん底で、インフレでどんどん物価は上がるし、街の店では漁師に貸したら金を払って貰えないとして付けで売ることを断ったという。
 仲買人から青田売りのように金を借り、獲った魚を安い値段で売ったり、高利貸しから金を借りたり、質屋に通ったりという漁師も多かった。
 組合員がこのような状態だから漁協もひどく、密漁の魚は市場に出荷されず、小手繰り組合のほうが市場より水揚げが多いという年もあり、漁協職員の給料も遅れがちで、組合員も貯金があっても漁協に金がないため払い戻しもできないということもあった。
 一番酷かったのが昭和30年から33年頃で、漁協の再建を真剣に考える人たちが、員外理事に森垣幸一氏を擁立しょうとして漁協が二分して争うという異常事態が何年も続き、昭和33年ついに再建派に凱歌が上がり森垣氏の専務理事が実現し、以後厳しい再建の道が始まった。 
    森垣幸一氏の胸像
 このとき森垣氏の擁立に反対した人は主として漁協に借金をが多くもつ人たちで、杜撰(ずさん)な経営を指摘されるのを恐れての反対であった。
 一方組合員の生活は貧しく、保安林の国有地を借りて野菜を作り、豚を飼って税金を払う納税豚を飼い、冬は内地へ出稼ぎに行き、それでも獲れる魚が少なく、昭和36年に小手繰りの代わりに外海のカレイ刺し網漁が開発されて幾らか明るさが見え始めた。
 外海におけるカレイの刺し網は、刺し網その物がニシン刺し網の考え方が強く、留め網をしなくては獲れないと考えられており、カレイの場合止め網をすると汐虫に食われて商品価値のない物しか獲れないために刺し網では獲れないと考えられていた。
そんな考えに挑戦したのが三里地区の斉藤勇を始めとする当時の青年達で、昭和36年に留め網でなく待ち網で試験操業を行い見事に成功を収めた。
 今考えると当たり前のようであるが当時は駄目なものとされていたのでタブーに挑む人もいなかつたのである。
 そしてこの成功はその年の秋に網走で開かれた管内漁村青少年研究発表大会で斉藤勇により紹介され高い評価を受け管内代表として全道大全に出場したのである。
 オホーツク海でのカレイ刺し網の成功は画期的なことであった。


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