ふるさと登栄床のあゆみ

昭和の小漁師 ページtop 第1・2・3・4章 第5・6・7・8章 第9章 第10・11・12章 第13章 第14・17・18章 年 表


第1章 登栄床のあらまし  
 1,地区の位置
 2,地区の形態
 3,地区の地勢
 4,地区の名称

第2章 登栄床のはじまり
 1,先住民族
 2,和人による開拓
 3,最初の永住者
 4,戸数の移り変わり
第3章 漁業の移り変わりとサロマ湖口の開削
 1,漁業の始まり
 2,湖口掘削前の漁業
 3,湖口の開削
 4,湖口掘削後の漁業
 5,動力船の導入
   登栄床の回想 北見市 吉岡シズエ
第4章 戦時中と戦後のこと
 1,戦争中のこと
 2,戦時体制
 3,物が無くて苦労した
 4,遂に終戦
 5,戦後の苦しい時「密漁」
第5章 養殖の発展で豊かな時代
 1,カキ養殖
   カキ養殖の成功
 2,ホタテ養殖
   ホタテ養殖の黎明期
   木下博士のこと(木下博士の著述より)
   稚貝放流の義務制 育成(ホタテ成貝養殖)の変遷
 3,漁船漁業
   底建て網漁業 エビ篭漁業 ウニ漁業 チカ船曳き網漁業
 4,成功しなかったノリとワカメとコンブとホッキ貝の養殖
   ノリ養殖 ワカメ養殖 コンブ養殖 ホッキ貝養殖
 5,副 業
   豚の飼育 シイタケ栽培 馬鈴薯作り 出稼ぎ
第6章 暮らしの移り変わり
 1,住   宅
 2,郵   便
 3,電   気
 4,飲 料 水
 5,電話施設
 6,有線放送
 7,テ レ ビ
 8,商   店
   三里番屋 中番屋 民宿
 9,鉄 工 所
10、船 大 工
第7章 交 通
 1,道   路
   二号線道路開削秘話
 2,交通機関
 3,車の普及
 4,除   雪(お産騒動)
 5,交通指導員
   秘話 幻の登栄床駅
第8章 戦争の体験
 1,日清戦争から太平洋(大東亜)戦争まで
 2,戦争の犠牲者
 3,悲惨 機雷爆破事故
第9章 公職者と団体
 1,村・町議会議員
 2,民生児童委員
 3,湧別漁業協同組合役員
 4,自治会役員(部長、区長、駐在員、部落会長)
 5,登栄床小学校PTA役員
 6,統合後の湧別小学校PTAの登栄床地区役員
 7,統合後の湧別中学校PTAの登栄床地区役員
 8,青年団体
 9,婦人団体
10,消防団
11,老人クラブ
12,登栄床こども会育成会
第10章 施 設
 1,登栄床漁港
 2,水産加工場
 3,養殖用保管作業施設
 4,生活改善センター
 5,登栄床保育所
 6,中番屋養殖作業埠頭
 7,登栄床寿の家
 8,竜宮台周辺と三里浜キャンプ場
   竜宮台 竜宮の碑 竜宮伝説 擁壁にイラスト 三里浜キャンプ場 中番屋キャンプ場
 9,公営住宅
10,サロマ湖漁港
11,湧別漁業協同組合登栄床支所
12,漁港の施設
13,会   館
14,墓地と火葬場
15,神   社
16,灯   台
17,トラックスケール

第11章 海難事故と災害
 1,海難事故
 2,火   災
第12章 出来事と行事
 1,ふるさとの歌まつり
 2,第5回全国豊かな海づくり大会
 3,竜宮まつり
 4,初日の出参拝
 5,漁民運動会
 6,秋祭り
 7,アルゼンチン移民
 8,マラソン
 9,映画「炎は消えず」
10,流氷との闘い
   『水害の事』『防風林でマイタケが採れる』
町・道より表彰された人々
第13章 教  育
 1,学校ができるまで
 2,校    舎
 3,統合の歩み
 4,沿革の概要
 5,校章と校歌
 6,歴代教職員の方々
 7,年度別在校生および卒業生の数
 
第14章 近代的漁村作りへ
 1,三里湖畔道路の改良
 2,下水道施設の設置
 3,公園ができる
 4,交流体験施設『レイクパレズ』生まれる
第17章 文学と登栄床
 「北海道の旅」          更科 源蔵
 「三里番屋」            戸川 幸夫
 サロマ湖の歌          
 「北海道山水の大観」      大町 桂月
 「欣求浄土」           藤枝 静男
 「オホーツク海岸をゆく」    田宮 虎彦
第19章 資料編
 1,登栄床地区の戸数と人口の変遷
 2,湧別町の外海ホタテ貝の漁獲量
 3,登栄床自治会

 
 
登栄床地区年表 登栄床郷土史編集委員会委員の氏名  最下部に記載
「ふるさと登栄床のあゆみ」発刊にあたって  郷土史編集委員長  服部  修
 「光陰矢の如し」この諺が、こそ数年特に実感させられたことはありませんでした。
大正6年に今では想像もできない未開の地に入植して以来、今日の登栄床の発展は、先人の方々が流した汗と涙の結晶の上に築かれたものであり、そうした先人の方々の足跡を記録し、永く語り継いでいこうということで、昭和61年に「郷土史編集委員会」を発足させたのでした。
 しかしながらその時既に入植当時第一線で活躍された男の人たちは、ほとんど他界しておりました。
 それでも作るからには、一味違ったものにしようと一同意気込んでは見たもののそこは何といっても素人の集まりであり、何から始めて良いのやら分からず、色々話し合った末にまず昔のことを知っている古老の人たちに集まって貰い座談会を開こうということになりました。
 やがて当日になると皆早々と集まってくれ、私の下手な質問にも熱心に答えてくれました。
その様子を見てこの郷土史に寄せる期待の大きさを知り、委員一同この思いに答えなければという気持ちを強くしたものでした。
 しかしその後私事ですが、身辺に色々なことが起き、そんなことに取り紛れているうちに2年3年と過ぎてしまいました。
 委員会も冬の暇な時期に何度か集まりましたが、折角集めた資料もそれをどう編集し活用するか分からないままに時間が経過して行きました。
 そんな状態を見かねたある顧問の方から、富永さんに手伝ってもらうことを勧められ、早速お願いに行き、漁組退職後で良ければということで引き受けて頂き、ほっとしたものでした。
 そんな中にもあの古い会館のストーブを囲みながら思い出話に耽ることもありましたが、その頃元気であった人も次々と世を去っていきました。
これで益々昔のことが分からなくなると思い悲観していたところ、米原さんから三里の開拓者である奥谷悠蔵さんが、紋別で健在であることを聞き、案内をして頂いて奥谷さんのお宅に伺い色々お話を聞かせて頂いたばかりか昼食まで御馳走になり、帰りに完成を楽しみにしていると励まされて帰ってきました。
 先人たちは、冬は文字通り陸の孤島と化す最果ての地に、最初は永住しようという気持ちは無かったかも知れません。しかし毎日の暮らしに追われながらも、冬の厳しさに比べ春から秋にかけての穏やかな自然の恵み豊かな環境に魅せられ「住めば都」の例えのように何時しか離れがたくなって行ったのではないでhそうか。
 そんな思いの中で私にはあの暗い思い出が蘇りります。
昭和30年代の頃、漁業法の改正により今まで合法であった小手繰り漁法が一転して禁止となりました。そして小手繰りは密漁ということで、本来なら漁業者の味方であるべき巡視船に夫や息子の乗った船が追いかけ回されました。
 黒い煙を吐いて逃げ惑う様を、外浜の崖の上に集まり、どうご無事に逃げおおせてくれるようにと目に涙を留めながら必死に祈る女達の姿を当時学生であった私は何度も目にしその光景はいまだに忘れられません。
 そうして遂に私の同級生が乗った船がことも有ろうに巡視船に衝突され、まだ20代の尊い命が奪われるという惨事が起きました。
 そんな辛く悲しい経験があったればこそ「獲る漁業」から「育てる漁業」への転換もいち早く取り入れることができたのではないかと思います。
 そして昭和9年木下虎一郎博士の手によってホタテ貝の人工採苗試験が始まり、以来さまざまな研究がなされ、当時確立されつつあった健苗技術と化学繊維の発達、営々として培われた飽くなき探求心と不屈の負けじ魂で日夜努力した結果今日のような隆盛を見るに至ったのではないでしょうか。
 しかし決してそればかりではなく成功の陰には、この豊かな自然環境が保たれていたからに他ならないと思います。それも偏に先人ならびに先輩に皆様が、ひたすら郷土を愛し、慈しみ守り育ててきたからだと思います。
 後に続く私たちは、その心をしっかり受け継ぎ、自然は「未来からの借り物」と言われるこの豊かな故郷をしっかり守り育み、後世に伝承していくことが今を生きる私たちに課せられた大きな使命ではないでしょうか。
 それを成すことが入植以来幾多の困難とも闘い抜き、今日のような心安らぐ自然豊かな故郷を築いてこられた多くの方々の労苦に報いることにもなると思います。
 この思いは、この度の郷土史作製活動を通じて強く感じた次第です。
この有意義な郷土史作製の委員に任命頂いた先輩各位と住民の皆様に委員を代表して厚くお礼を申し上げます。
 郷土の皆さんが永い間待ち望んでおられた郷土史を今完成しお届けするに当たり、その日を心待ちにしながらも手にすることができずに身罷った人たちに心からお詫びをいたしますと共に心よりご冥福をお祈りいたします。

 登栄床郷土史編集委員会委員の氏名

顧   問  蛯沢 義雄 斉藤  勇  岡島 龍主
委 員 長   服部  修
副委員長  桜庭  守
会   計  平形 俊一
委   員  草薙 岩雄 関野 力雄 兼田  博 蹴揚 文男 兼田 幸雄 相場 泰勝
        入江 和之 町元 直春 山口  勇 加藤 久雄 工藤 清美 播摩  正
        山根 正義 富永  隆