ふるさと登栄床のあゆみ

第5章 養殖の発展で豊かな時代
第6章 暮らしの移り変わり
第7章 交   通
第8章 戦争の体験

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第5章 養殖の発展で豊かな時代

カキ・ホタテ養殖の成功はまさに豊かな時代の幕開けであった。

1,カキ養殖 カキ養殖の成功 
 サロマ湖の名産であった天然カキの衰微によりその対策として早くからカキ養殖に対する関心はあり、湧別町議会でも昭和7年に水産試験場に対して請願書を出したりした。
 水産試験場でも試験を実施したが、見込みはあるということになったが、年内には商品価値のあるまでに成長がせず、結氷期での越冬方法がなかったために問題を抱えて成功しなかった。
   「昭和16年に道庁から配布を受けた苗貝をサロマ湖に地撒きをしたが失敗した。苗貝が輸送で弱っていたのが原因」(佐藤富治談)
 昭和27年にサロマ湖養殖漁協が創立され、3月上旬に湧別からも佐藤富治、高須 実、田宮亀松の三人が宮城県松島へ視察に行き、種ガキ2千連を移入、希望組合員に無償配布して、簡易垂下式で養殖したところ順調に生育し、2年目でなくては成功しないといわれていた常識を破り商品として販売されるという良好な成績であった。
 以後カキ養殖は、安定した漁業として今日でも大きな収入源となっているし、これといった漁業のないときに果たした役割は計り知れないものがあった。
漁法も最初は、宮城県の真似をして筏式でやってみたが、結氷という特殊現象があるため設置、撤収という作業が大変で、杭立て式に変わった。この杭立て式も氷が張る前に抜いてしまはなくてはならなかったが、それでも春に杭を打って、初冬に抜くという繰り返しが続いた。
昭和29年5月の暴風雨、9月の15号台風によりカキ養殖施設は大被害を受け90%が流失した。
 昭和32年に蹴揚義美等が、ガラス玉を使って延べ縄式を行い、以後この方式が普及してやがて全てこの方法になって現在に至っている。
 またこの延べ縄式の普及により、氷上での冬季間のカキ剥きも可能になつたのである。
 今は見るべくもないが、昭和40年代は冬になると氷の上に小屋が立ち並び小屋の中ではカキ剥き作業が盛んに行われた。
 この方法は、カキ殼を海中に投棄するため海の汚染になるということで禁止になり、スノーモービルの普及もあって陸上.での作業に変わった。
 しかしこのカキ養殖にも盛衰があった。
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カキ物語
その1
 昭和36年12月佐呂間町浜佐呂間でカキ剥き作業員が、11月末から次々と赤痢病になり、原因が養殖カキにあると判断され、出荷停止、出荷したものは廃棄処分とされる事件が起きた。結局これはカキに原因があるのでなく、使用していた川水が汚染されていたものと分かったが、カキの処理方法が非衛生的であるとされて、塩素消毒施設のある処理場でなくてはカキの出荷ができなくなった。
 このために漁協では、昭和37年に三里の現ホタテ加工場の所に「かき清浄施設」を、木造平屋建1棟148.76u、事業費191万7千円、内補助金153万6千円で建て、40年に中番屋にも木造平屋建86uの施設が出来た。昭和48年に個人施設でも良いことになり相次いで個人が設備をした為今はこれらの施設は老朽化して取り壊されてしまった。

その2
 昭和41年中番屋を中心に収穫期のカキが弊死するという異変が起きた。
 水産試験楊にも調査を依頼したがとうとう原因は分からないうちにその年だけで弊死は終わった。
 一時はこれでカキ養殖は全滅するのでないかという深刻な状態であった。
       昭和40年の漁協のカキ取扱量は   97d  2千286万円
          41     〃            34d  1千350万円
          42     〃           104d  2千777万円
 このように水揚げは激減した。
 
       氷上のカキむき作業所                 カキむき作業
その3

 昭和59年ホタテ貝と共にカキ養殖にも許容量が設定され、湧別は18,000連の上限となった。
また漁場整理を図るためアンカー建てにより杭打ちに変更し、61〜62年の2ヶ年で実施した。

その4
昭和62年芭露地区で殼つきカキの「ふるさと小包」を実施した所好評で、折からのグルメブームと共に爆発的に売れて、登栄床地区でも出荷を始めた。
 また市場でも殻付きカキの取引量が増加している。
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  カキ着業者の推移
年 度 地  区 種カキ連数 着業者数 年 度 地  区 種カキ連数 着業者数
昭37 中番屋 8.611 28 昭63 中番屋 5.808 29
三 里 1.212 14 三 里 3.430 19
38 中番屋 11.355 30 平 2 中番屋 5.500 29
三 里 3.955 23 三 里 3.130 18
58 中番屋 6.279 29    5 中番屋 4.656 32
三 里 2.853 23 三 里 2.838 28

2,ホタテ養殖  ホタテ養殖の黎明期
 ホタテ採苗の始まりは、昭和8年に当時の北海道水産試験場の技師であった木下虎一郎博士が、サロマ湖でカキの種を採る試験をしていたところカキがつかずにホタテの稚貝が付着したことにヒントを得て始まった。
 翌9年からキマネップで本格的な採苗試験を行い、11年には北見水産会を事業主体として3千200石粒の稚貝を採り管内に配布した。
 この頃の養殖方法は、杭を左右に打ってそれにサキリ丸太かロープを渡しそれに貝殻を付着器としてロープに通したものをコレクターとし下げる方法だったようで中番屋や三里沖など湖内の数ケ所で行われた。
 したがって付着した稚貝が落下しないうちに貝殻ごと放流していたので、効果のほどは今となると疑問視せざるを得ない状況だった。
 しかしながら当時としては、画期的な発見で、木下博士のこの発見がなかったなら今日のホタテ貝の全盛時代が果たして訪れたか、または遅れたかと思わざるを得ない。
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昭和30年代サロマ湖の天然ホタテ漁

ホタテ養殖の生みの親 木下虎一郎博士のこと

 明治36年(1903)に和歌山県田辺市に生まれる。
 昭和41年(1966)小樽市で逝去。享年63才。
 大正13年農林省水産講習所(現東京水産大学)を卒業し、神奈川県水産試験場、和歌山県水産試験場を経て昭和8年より北海道水産試験場に勤務し、増殖部主任技師、北海道大学農学部講師を勤め昭和37年退職された。
 昭和22年農学博士号授与
授賞内容
 ☆ホタテ貝の人工採苗をして北海道のホタテ資源の涵養に寄与し増殖事業の確立に必要な基礎問題を明らかにした
 ☆コンブの増殖について
 ☆ワカメの研究
 ☆スサビノリの研究
 ☆テングサノリの研究
 ☆フクロノリについて
 ☆ギンナンソウについて
昭和25年日本農学会賞授賞
 水産関係での授賞は木下博士をもって嘴矢(こうし)とする
昭和25年北海道新聞社文化賞(科学技術賞)
 漁民の良き相談相手として多くの貢献をしたとして授賞
昭和32年日本水産資源協会より表彰
昭和35年農林大臣賞授与
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「サロマ湖の思い出」
(木下博士の著述より)
 サロマ湖に蘆を踏み入れたのは、昭和8年7月、私とサロマ湖の因縁はこのときから始まる。
調査はサロマ湖三里番屋を根拠に岡島水主蔵氏を船頭とす約1週間ばかりであったが、時にはそぽ降る雨をついての強行軍で遂に岡島氏が肺炎に倒れ、病院に送りこむなど……。
 だがこの時の感激は長くサロマ湖を私に結びつける靭帯となったのである。ついで同年8月から10月にわたり、カキ島と中番屋学校前をトしてカキ採苗試験に従事した。ここでカキ島の元老故鈴木三郎氏、故工藤平蔵氏、中番屋の故播摩栄之助氏等と相知り、夜を徹してサロマ湖畔並びにカキ島の変遷、外海ホタテ漁業の消長などを聞く機会に恵まれたり、試験調査を通してホタテ貝の人工採苗にヒントを得たことは望外の喜びで私にとって実り多い秋であった。
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 「ホタテ貝の増殖に関する研究」
 ホタテ貝漁業は北海道における重要な産業であるにも拘らず、従来全く奪略的漁獲に終止してこれに対する施策などなく荒廃に任せつつある実情に鑑み、昭和8年以来本研究に着手した次第である。……たまたま著者は昭和8年カキ島においてカキの採苗に当たった際、採苗器にホタテ稚貝が付着するのを発見しこれにヒントを得て昭和9年サロマ湖において本格的に採苗試験に着手したのである。採苗地はサロマ湖川口と登米床の両地に置いた。
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 漁協が本格的にホタテの採苗に力を人れて始めたのは、昭和26年からで、三里、中番屋で養殖組合を作りその組合に採苗事業を委託して行われた。しかしこの養殖組合に加わらない組合員も幾らかいた。この採苗の為の養殖組合はその後芭露と志撫子に出来昭和47年の義務制の始まりまで続いた。

 義務制までの採苗実績は次の通り。
 年度   方   式  台数    結  果  
昭26  固定木架式 
 ドラム移動式
60
 4.160万粒 
27  ドラム移動式
 固定木架式
40
30
 4.200万粒
28  筏    式 137  3.000万粒
29     〃 137 良好
30     〃 137
31 137
32 137
33 140
34 137
35 179 皆無
36  鋼管筏式
 木製筏式
62
38
37 62
34
38 62
34
 年度   方    式  台数     結  果  
昭39  鋼管筏式
 木製筏式
62
34
40  鋼管筏式
 木製筏式
 HZ延縄式
62
18
20
41  HZ延縄式 100
42     〃
 平篭式
 ネトロン網式 
45
20
55
 越冬放流始まり 
43  平篭式
 ネトロン網式
40
40
44
  〃  
60
20
45  平篭式
 ネトロン袋式
 ザブトン式
56
19
46  ネトロン袋式
 ザブトン式
24
30


























 歴代養殖組合長は次の通り。
 中番屋  佐藤富治 、相場留吉、兼田庄吉、播摩信司
 三  里  村上家治、本間豊吉、村上家治

 稚貝放流の義務制
 ネトロン網による採苗と越冬技術の開発により、大型の健苗を大量に収穫できることが分かり、この稚貝を大量に外海に撒くことによって外海の資源を増やすことになり、昭和46年漁協は、「ホタテ増殖基本計画」を樹立、47年よりホタテ権利者1人35万粒(規格2.75a以上)の稚貝放流を義務としてスタートした。

 義務制の変遷は次の通り。
 年  度    稚貝の規格   1人権当たりの義務 
昭48年  規格2、7a以上   35万粒
49〜52  50万粒
53〜54  重量制で2,5d
55  70万粒
56     2,8a
57〜58     3a  100万粒
59  100万粒と6,67d
60〜平元     3,2a  7d義務量も買い上げ制 
平2     3,5a  8d    〃
 3〜現在     3,5a  限度量140万粒
 大型の稚貝を輪採式に区切った漁場に大量に放流した結果は周知の通りで、これが今日の繁栄の基となった。
育成(ホタテ成員養殖)の変遷
 昭和39年佐呂間町に駐在していた道の岩岸水産技術普及員が、浜サロマの青年たちとの共同研究で、採苗を筏式から延べ縄式へ、付着器も貝殻から化学繊維へと改良し、安定して稚貝を生産できることになり、加えて稚貝の脱落防止に成功したことにより越冬にも成功し、アコヤ貝による真珠養殖からヒントを得て篭や網による成貝養殖に成功し、この方式が燎原の火の如くサロマ湖に広がった。
 この基本は、今でも続いている。
 湧別でも成貝の育成に取り組む希望者が多くあったが、取り組みの姿勢において先駆者の佐呂間漁協とは大きな差があり、この差がそのまま許容量の規制量となり今日まで続いている。
 湧別漁協が取り決めた方針は、
 @共同経営で一経営体は5人以上とする
 A資材等の貸付代金は連帯責任とする
 B養殖粒数は5人共同で4万粒程度とする
という極めて厳しいものであった。
 これは30年代に放漫な貸付と経営で組合が倒産寸前までいった苦い経験から経営者が判断した結果で当時としては止むを得ない決断だったかもしれない。
 出発当時の組合わせは次の通りであった。
 養殖数量は、稚貝の分譲数である。
 代表者  共   同   者 養殖数量
 高橋藤治郎   入江 寅雄   柿崎 光男   米原 清一   加茂谷正男   41,500粒 
 滝谷幸三郎  高須  実  岩間岩太郎  今泉 隆夫  工藤 源治  41,500粒
 斉藤 石蔵  幾島 武夫
 斉藤  勇
 前田 政勝  小形 政雄  佐藤 岩松  41,500粒
 三浦 定志  村上 家治  本間  明  村上 三男  佐藤 岩松  42,500粒
 工藤石五郎  若崎  佶  工藤 忠之  阿部登喜雄  工藤健之助  41,500粒
 町元与三郎  工藤太三郎  加藤 久蔵  山口 真勝  41,500粒
 蹴揚 義美  工藤  光  桧山敬次郎  関野 光男  佐藤 芳文  42,500粒
 関野 力雄  草薙 岩雄  蹴揚 大吉  兼田 庄吉  兼田 定雄  41,500粒
 佐藤 富治  関   富吉  加藤 富次  佐藤  章  今 美枝子  41,500粒
 関野 盛夫  関野 善吉  湊谷 安男  五十嵐義雄  桜庭 寅吉  41,500粒
 播摩 信司  蛯沢 義雄  兼田金次郎  船橋 文友  吉岡シズエ  41,500粒
 敦賀 長吉  館岡 文治  斉藤 清吉  相場 勇吉  原田  帝  41,500粒
 しかし5人共同の規制は、作業の上で様々な問題が生じてきたため43年にこれを3人共同に緩和するとともに着業粒数も44年より次第に増やした。
 しかし最高1戸15万粒という規制を養殖部会が自主規制したためこれが限度となり、平成2年に17万粒まで緩和されさらに平成3年に19万粒になったが、許容量の制限が有ってこれが最高となっている。
 養殖資材も、ポケット網からハウス、マンション、丸篭と変遷をしてきたが、平成になって耳吊りが歩留まりや成長の点で良いことから次第に多くなりすべてを耳吊りに切り替えた人も現れている。

3,漁船漁業  底建て網漁業
 オホーック沿岸での海面底建て網の先進地は雄武町である。
 雄武町では早くから道南より技術を習得して成果を上げていたが、昭和42年に漁協が雄武町の漁師を講師に招き講習会を開いてから注目を浴びるようになり、44年に企業化の目的で8隻の特別許可を受けて試験操業を行った。だが操業海域が狭いため十分な成果が上がらなかったので、46年に沖合17、500bまで拡大し試験を行い企業化の見通しができたので、48年共同漁業権に「雑魚底建て漁業」として権利を取り、85ケ統の制限で一般に開放された。
 
 エピ篭漁業
 永くエビは船曳き網で操業していたが、資源保護のために55年から篭網に転換し、これが資源の維持と保護に役立ち平成3年増隻された。
 平成5年の登栄床地区の操業者は31隻、34名である。

 うに漁業
 うには30年代に生息が確認され、志撫子で加工の講習会が聞かれたりしたが、資源的には多くなかった。それがホタテの養殖施設の増加とともに資源が増え、44年より解禁となり無動力船で1名乗組み桁網1台で始まったが、47〜49年は禁漁となり50年から再開し、52年からは3d迄の動力船の使用が認められ、次いで63年には使用漁船が5dになり、以来現在まで日産の制限量や漁具の改良等がありながらも重要な収入源として行われている。
 平成5年度の登栄床地区の操業者は18隻、36名である。

 チカ船曳き網漁業
 サロマ湖のチカは、春の抱卵や秋の群集期ばかりでなく1年中生息して一般の釣り客たちにも親しまれているが、秋の群集期を目がけて船曳き網で大量に漁獲されてきた。操業船は、大型化、近代化していたが、エビを混獲する、漁法が底曳き網であり資源の乱獲になるとして平成元年三漁協の協議で禁漁となった。
4,成功しなかったノリとワカメとコンブとホッキ貝の養殖  ノリ養殖
 昭和36年道水産部はサロマ湖でノリの企業化試験を計画し、岡山水試の指導を受けて三漁協で実施し、三里地区でも種付けをしたノリ網を希望者に配布して行ったが、青ノリは獲れたが、つやのある黒ノリが収穫できず、40年には三里地区での試験を中止した。

 ワカメ養殖
 ノリが駄目ならワカメはどうだろうか、と昭和40年根室と有珠よりワカメの種糸を各500bを道の補助で購入し、これを道糸に挟みこんで実施した。
 41年も延べ縄式2台、筏式3台を中番屋と三里地区で実施し、42年には延べ縄式12台を実施したが成長が十分でなく商品価値のあるワカメが獲れなくついに中止となった。
 ノリとワカメとも失敗の原因は、栄養塩分の不足といわれ、湖内各地とも芭露やサロマ別川など河口でしか成功しなかったのがその証拠である。

 コンブ養殖
 サロマ湖でもコンブを採ろうと昭和27年より投石事業を行っている。
 三里岬沖、湖口東方などに31年まで実施した。しかし1年コンブには成長しても商品価値のある2年生コンブには、氷にむしられて生育せずこれまた失敗に終わった。
 昭和45年にコンブの採取をしたが、志撫子の佐々木茂が善業し104`・42千円を出荷したにとどまり翌年は希望者が居なく現在に至っている。

 ホッキ貝養殖
 ホッキ貝の稚貝を2年間中番屋沖と三里沖に撒いたが、不思議なことに影も形も、死に貝の殼さえもなくその行方が謎になっている。
 昭和40年に室蘭より購入した稚貝100`を中番屋の沖に、42年に野付より100`を購入して登栄床学校前の沖に撒いたが、その後の追跡調査でも貝殻1枚見つからず不思議がられている。
5,副  業  水揚げが少なく食べるために色々と苦労があった。その一つが副業である。
 豚の飼育
 昭和31年町は、副業奨励のために「副業振興条例」を作り、子豚の購入資金を貸し付けて豚の飼育を奨励した。これは後で納税豚の制度に変わるが中番屋や三里のあちこちで豚の鳴き声がよく聞かれた時代があった。本当に副業として家計を賄ったのは少なく、自家用に食されたのが多いようであった。そして餌のせいか肉の昧もイマイチとかいう話であった。

 シイタケ栽培
 漁協が昭和37年に副業として中番屋、三里地区の立地条件からシイタケ栽培の奨励を行い、栽培希望者99人で「シイタケ栽培組合」を作り、12月16日に三里浜全館で設立総会を開き組合長に滝谷幸三郎を選んだ。
 翌年のホダ木の申し込みは15,363本に達した。
しかしながら収穫して販売したものはわずかで大半は自家消費か、収穫まで至らず失敗となった。

 馬鈴薯作り
 野菜の自給を図るために面積の多い、少ないは有ったが殆どの家で畑を作っていた。今でこそ移動店舗が戸口まで来るが、かっては車もなく肉や野菜・豆腐などは湧別の市街まで買いに行かなくては手に入らなかった。このために野菜を作ったのであるが、畑の多い人は、馬鈴薯を作って売り、婦人の小遣いなどになった。農協との取引も芋を通して行われた。
 しかし養殖が軌道に乗り、婦人の仕事が増えると野菜作りも規模が少なくなり、畑は植林されたりしている。

 出稼ぎ
 昭和51年にホタテの大量生産があるまでは、冬期間の出稼ぎが当たり前のように行われていた。
 建設会社の作業員やノリ養殖の作業員など若い人たちは殆ど内地へ出かけた。
 出稼ぎの収入を送金してくる人も多かったが、「食って飲んで、遊んでゼロ」という人もいた。

第6章 暮らしの移り変わり  第5章 第7章 第8章

はじめに  大正の始め中番屋や三里番屋に移住した入たちはどんなくらしをしていたのだろうか。
 大正6年の湧別は、遠軽と湧別間に鉄道が開通レ湧別亜麻工場が出来、湧別市街を浜市街、四号線を中央市街といって遠軽よりも栄えていたという。
 従って市街まで来れば生活物資や網、ロープなどの資材も手に入る時代にはなっていた。
 湧別小学校は明治30年に開校していた。
 項目毎にその変遷を見ていこう。
1,住 宅  移住してきた人たちがまず最初にしたのが住む家を建てることである。
 往は掘立てで、柱にした木は、保安林や円山から盗伐してきたトド松(総べてが盗伐でなかつたと思われるが)をハビロ(マサカリの大きなもので、大きな木を削るのに使った)で四角に削り、4寸角ぐらいの柱にした。
 適当な太さのドロの木を2面削ってタルキとし、製材のコマイを壁や屋根に打ちつけてそれに剥き柾を張りつけて出来上がりで、床は上を均し丸太を並べ草を敷いたこともあったが、筵を敷いたり、後にござになった。上等になると板を打ちつけた。
 それでも寒くなかったというから驚きである。

昭和20年頃の住宅

 もう少し良い家は、内側から新聞紙を張ったが、当時は新聞を読んでいる人が少ないために手に入り難かった。天井も新聞の有る家は、年の暮れの晦日になると新しい新聞を張って装いを新たにした。
 何年もするとこの新聞が厚くなり暖かくなったという。
 その後は、土壁で土台付、2階建、縁側付きの家ができたが、これは三里番屋で沖崎善三郎、本間豊吉、斉藤力蔵位だったが、中でも山口民之助の家は当時では珍しい白壁作りでひときわ目を引いた。
 だが大半の家は、土台付の土壁に板張りだった。
 住宅らしい家が建ち姑めたのは、昭和30年代からで、ホタテ養殖、外海ホタテの生産が増えるのに合わせてどんどん立派な家が建ち、平成になってからの家は、60〜70坪で工事費も3千万円という豪邸まで建っている。
2,郵  便   郵便物は今でこそ郵便局で1戸1戸配達しているが、大正時代は、郵便局へ自分で取りに行ったり、途中まで届いたものを誰かが配達するというようなことだった。
 中番屋や三里番屋でも始めは湧別の市街へいった人が郵便局へ寄って部落の分を受け取り、配って歩いた。その後蹴揚トクノが踏切式の自転車を買って貰って部落の配達をしたが子供だったため暫くして、蹴揚義雄、富太郎、東の後藤某などがあとを引き継いでやった。
 登栄床の簡易郵便局は、湧別漁業協同組合が委託を受けて昭和26年3月20日より三里に漁協の支所を開設して、駐在員の青木実が長く担当し、みんなから何かにつけて頼りにされ、また世話を焼き人望を集めた。

三里番屋の簡易郵便局


 簡易郵便局では始めは郵便事務だけを取り扱っていたが、33年より振替と貯金事務も取りり扱うようになった。
 その簡易郵便局も、昭和50年に漁協支所が廃止になったことから登栄床加工場の事務所の一室に移転し営業していたが、
 @貯金や保険など漁協の業務と競合する
 A辺地のため事務職員の確保が困難
 の理由から廃止論が起き、漁協では部落懇談会で了承を求め特に異論もなかったために、同60年12月31日湧別漁業協同組合が委託を返上した。
 しかし老人などから存置の要請が郵便局にあり、町と協議して町が委託を受けて生活改善センターで開設することとなり引き続き、錦町の根本誠一が事務を執って、現在に至っている。
3,電  気  登栄床地区に電気が入り、家々に明るい電灯がともったのは、昭和23年である。電気がつくまでは、ランプの生活であった。
 そのランプの油も戦争中には手に入らなくなり、トッカリの肉を炊いて油を採り、その油をホタテの貝殻に入れて、綿糸を芯にして明りを点した。
 その乏しい明かりの下で、網繕いや、女の人たちは裁縫をした。
 またトッカリの油は天ぷら油に、さめ油はサラダ油の代わりに使った。湧別市街では、大正7年に四号線の山田増太郎が三号線に湧別電気株式会社を創立し、薪を燃やして10馬力の火力発電機を設置して電気を四号線と湧別市街に送り電灯の恩恵に浴した。
 これは遠軽が大正13年に水力発電(山田増太郎の設立)によって始めて点灯したことを見れば、湧別地方は先進地であったことが分かる。
 しかし登栄床では、当時はランプのほかにカーバイトを燃やして明かりにした家もあった。これはカーバイトを真鍮製の容器に水とともに入れてアセチレンガスを発生させ、それをノズルから噴出させて点火するものでランプよりは数等明るかったが、値段が高くだれでも使うことはなかった。でもホタテの製造場ではこのカーバイトを使っていたという。
 登栄床地区の電気導入の中心になつたのは、佐藤富治で、氏は登栄床電化期成金の会長として奔走した。
 これより先昭和21年に東地区が電化期成金を作って運動を始めたのに刺激されその延長線上にある登栄床にも明かりをということで、21年の末か22年の早くに期成金を作った。
 期成金の役員には、高須実、岩間常雄、岩間岩太郎、村上家治の各氏が当たった。
 岩間常雄は、元北電にいた経歴を賀われて相談役として協力し、村上家治は会計として努力をした。
 そして昭和22年8月13日に待望の起工武を迎えた。
 当時の事を佐藤章は次のように話している。
   「円山や幌岩の国有林から電柱材の払い下げを受けて、山へ切り出しにいった。山ロ源蔵さんが切り倒すとそれを浜まで皆でちょい出しし、船で中番屋まで曳いてきた。
  その丸太を浜で皮を剥いたが酷い仕事だった。
  親父は、物の無い頃で電線や部品集めに大変苦労をした。昭和23年の正月などはとうとう家にも帰らず東京などへ中古部品の買い集めに走り回っていた。」

 注 電気導入の条件として電柱、電線などの資材と労力は受益者負担であった。
 「電球なども品不足で、親父が見つけてきたものを家において売った」「完成したのは23年の秋だと思う。盛大にお祝いをした」
 当時北電の社員の鼻息は荒く、「電気をつけてやる」という態度で、工事が始まったとき村上家治は、食料難のときに米を一俵やっと見つけてきて工事の北電の人たちに昼飯を炊いてご馳走したという。

 待望の電気は昭和23年に点き盛大に完成式を行い喜びあった。
 しかし、どういう訳かトランスの故障が多く停電がしばしば起き、たまりかねて佐藤富治等数人が北見の支店まで陳情に行くということもあった。
 工事費は幾らかかったのか資料がなくてわからないが、負担金はホタテの持ち権によって変わったという。
 電気がつくまでに婚礼や行事のときにはバッテリーで電灯をつけて明るくした。電気がつくと青年団が主催で学校で映画会を開き娯楽を提供したが、この映画会のために映画審議会を作り、学校の校長などと上映する映画を相談した。
 電気料金の徴収、検針は昭和59年に組合の口座振替になるまで中番屋は佐藤静江、三里は村上家治と岩間常雄が30数年に渡り行い、やめる前の数年間は幾らかの手当があったがその以前は無報酬(北電からは出ていたらしいが本人たちには届かなかったらしい)で続け、月に一度北電の社員が集金に来るとビールを出したりしてもてなしたという。

 三相電力の導入
 また養殖事業の進歩とともに作業機械類の導入も進んで来たが、動力源として三相電力の必要が出てきたため、国の補助事業として登栄床地区に三相の動力電気の導入も昭和49年に受益漁家48戸で実施された。この事業のお陰でホタテ加工場も登栄床に出来たのである。
 また動力機械の使用も可能になったのである。
4,飲料水  登栄床地区に最初に住んだのは、先住民族のアイヌの人たちだが、彼らはほとんど川の近くに集落をもっていた。
 登栄床にも先住民の遺跡があるが、おそらくその近くに湧水か、水溜まり、小川があったのではないだろうか。
 大正9年に三里浜に来た奥谷悠造は、
  「海岸道路のそばに定置の番屋があったが、そのそばに深い井戸がありいい水が出て、ホタテの番屋や製造小屋が付近にありこの人たちもこの井戸水を使っていた」
  「岡島さんの家のそばにも据り抜きの井戸があり、付近の人たちがみんな使っていた」という。

 次第に移り住む人も増えてその人たちが、井戸を据り、鉄管を打ち込んで手動式のボンプで水を汲んで暮らしたが、堀込みでは2メートルくらいで水が出て釣瓶で汲み上げた。
 鉄管も5メートル1本で十分だったというから上水(うわみず)だったのだろう。
 しかし昭和30年代になって、三里地区の東側から水質が悪くなり始め、塩分が混じり飲用に適さなくなってきた。
 このために湧別漁業協同組合が事業主体になり、町の補助を受けて昭和40年に22戸を対象に給水施設を設置した。事業費は1,278千円。
 この施設は、平形春保の近くに井戸を据り、ポンプアップして各戸に給水するというもので、導水管の延長は1,300メートルに達した。
 しかしながら水質の悪化は、登栄床地区全地区に広がり、給水施設の水源も再三場所を変えて探したがよい結果が得られなかった。、
 このために昭和54〜55年にかけて、漁業集落環境整備事業の「水産飲雑用水施設設置事業」の国の補助事業により169,000千円で、水源地を湧別町錦町の湧別川河畔より求め登栄床全地区に給水施設が完成し、やっと飲用水の不自由から開放された。
 送水管の延長は(水源地から番岳屋の配水池まで)、11,518メートル、配水管の延長は、4,527メートルで、中番屋に配水池を設置している。
 この施設もその後湧別町市街の上水道の完成とともにこの上水道の施設に含まれた。
5,電話施設  電話の走りとも言うべき、私設電話が漁業組合との間に引かれていたことがある。そのことについて
  「電話は昭和6〜7年頃についたと思うが、その頃は横山番屋と奥谷にしかなく、呼び出しの電話で遠くまで呼びに行くこともあった。
  その後中番屋の播摩さんと学校に付いて、ベルの回数で中番屋と三里を区別した」
  (奥谷きぬえ談)

 その後この電話は、平形商店に引き継がれ、公衆電話がつくまで利用された。
 本格的な電話は、昭和33年に農村委託公衆電話として三里番屋の漁協の支所と中番屋の佐藤富治宅につき1本の線で共同で使った。
 そして昭和45年2月、地域集団電話として電々公社(当時)が企画した制度により、漁協が事業主体となって登栄床地区80戸に電話がついた。
 だがこの集団電話は7〜8戸が1本の線を利用するためそのグループの誰かが使っていると他の人は使えないという不便があった。でも各戸に電話が付いたというのは画期的な事であった。
 その後昭和54年12月6日には集団電話から個人電話へと改良されて行き現在の利用形態となった。そして昭和63年8月3日NTTの開発したオフトーク通信システムを湧別漁業協同組合が、全国で2番目、北海道で最初に全組合員宅に導入し、さらに平成4年にはファックス送信装置を組合員宅に設置した。
6,有線放送  湧別漁業協同組合は昭和29〜30年の2ヶ年登見栄床地区とテイネー地区に有線ラジオ共同聴取施設を設置した。
 この有線放送施設は、組合員に対する連絡事項の他に当時まだ普及していなかったラジオの番組も放送して大いに喜ばれた。
 しかし施設の維持補修に金が掛るため経営状態の悪化していた漁協の手を放れ、中番屋と三里番屋に分かれて部落の施設として運営管理され大いに活用された。
 部落の会合の知らせや、電話が支所にしかない為掛かってきた電話の呼び出し、さまざまな連絡などその果たした功績は大きい。
 その有線放送もオフトークの導入により30有余年に及ぶ歴史の終わりを告げ、三里では平成4年に撤去した。
7,テレビ  NHKがテレビ放送を始めたのは、昭和28年2月1日であるが、湧別町で受信できるよ引こなったのは昭和32年4月にNHK札幌とHBCが同時に本放送を開始してからであるが、まだ完全ではなかった。
 昭和36年4月にNHK網走が放送を始めて本格的に普及が始まった。 登栄床地区でテレビを一番早く侍っていたのは、中番屋は橋本貢で昭和34年には見ていた。次いで高野イマ、湊谷にいた学校の鈴木先生が早く、三里は岡島水主蔵、小形政雄が早かったという。
 昭和39年の東京オリンピックの年登豊栄床の学校に体育館と職員室にテレビがつき、子供たちが体育館でオリンピック放送を観た。
 このテレビを買う資金は、子供たちが援農で稼いだ金を貯めて買った。
 漁協が昭和40年に調査した資料によると、この年には組合員の82.4%が白黒テレビであるが侍っていたとなっており、爆発的に普及したことが分かる。そして55年の調査では、カラーテレビが中番屋で30戸で75台、三里番屋では60戸が101台を侍っており1戸に2台迫っている。
 現在ではさらにその台数は増え1人に1台の時代になろうとしている。衛星放送の開始により益々その位置は高まっている。
8,商  店  三里番屋
 三里番屋で一番早い店は大正の末頃にあった遠藤商店で、夏は外海の海岸道路のそばに店を開き、冬になると湖畔側に移った。
 売っていたものは酒、焼酎(斗ガメに入っているのを量り売りした)お菓子類で、米、味噌、醤油、タバコはその都度湧別に出て買ったか、人に頼んで買って来てもらった。
 その後今の平形商店のところで梅津商店が店を開き、山本商店も昭和10年代に開店し、山本商店では、お酌の女性をおいて飲み屋もしたことがある。
 平形商店は昭和22年頃に梅津商店を引き継いで始めたが、山本商店と同じく扱っているものは酒、焼酎、お菓子等であった。
 昭和7〜8年頃に夏の期間だけ女を3〜4人置いた飲み屋があり、ホタテや定置の出稼ぎの若いものを相手に井上という人が芭露から来てやっていたが2〜3年で止めてしまった。
 この頃「この店で飲んで機嫌が良くなり、湧別まで海岸道路(この頃中番屋の裏から湧別までの海岸道路があった)を歩いて飲みにいったこともある」(平形徳太郎談)
と言うから驚きである。
 このほか菊池サトという婆ちゃんが昭和22〜3年頃から55年頃まで入江さんの付近で飴やお菓子、雑貨類を売る小さな店を開いていたが、年寄りの集会所のように人が集まり、花札などをして賑やかであった。
 また昭和35年に中湧別で店を開いていた坂本良雄が、飲食店を今の場所に開業し、ひとみ食堂として営業している。
 中番屋
 中番屋では、山田和一郎が、大正6〜7年頃から今の工藤正美の倉庫上手で、駄菓子を3〜4品置いて商いをしていたのが店の始まりで有るが、並木峯松も今の敦賀宅の付近で同じくらいの店を開いていたが、商売というより皆の便利のためにしていたようなものだった。
 昭和元年頃に山田和一郎から工藤常次に替わったが、10年頃からは酒とタバコも売るようになり、ぐんと便利になった。
 並木は大正15年に亡くなりそれにより店も閉店した。
 昭和10年頃から立石ツルエが、居酒屋を開き幾らか駄菓子も置いて営業したが、30年頃に閉店した。。
 昭和21年柳が今の佐藤芳文前で、マーケットのような店を開き、26年より播摩信司が駄菓子、金物を置いて店を始めた。
 高野イマは、30年からマーケットを始めたが、61年には店を閉じた。播摩は、46年で止めたが、一時漁協の購買店舗の品物を幾らか置いた時期がある。
 61年からは、工藤商店のみとなり現在に至っている。
 民 宿
 民宿も観光ブームに乗って、昭和46年に田部武が「岬さんご荘」を、田中幸−が「竜宮荘」を、昭和52年に柴谷重雄が「船宿しばや」を、56年に大崎順一が「浜の家」をそれぞれ開き客を呼んでいるが、新鮮な海の幸が料理の評判を呼んで賑わっている。
9,鉄工所  登栄床地区の鉄工所としては、過去から現在まで橋本鉄工所のみである。
 橋本貢が、登栄床に来て鉄工所を開いたのは、昭和25年の5月である。中番屋の三里に近いところに住み、住宅と工場が一緒になったささやかな出発であった。
 橋本は、中湧別で生まれ札幌市で鉄工所の仕事を覚登豊栄床に来る前は渚滑で仕事をしていたが、佐藤富治の世話で中番屋に来た。
 そして昭和27年に漁港の近くが仕事に便利なため登豊栄床水産加工所の廃水処理施設の道路際に工場を建てたが、その建てているときに十勝沖地震に見舞われたという。
 その工場も、昭和49年に漁協が水産加工所を建てるので移転することになり、登栄床漁港の用地もできたので漁港の背後の今のところに工場を建て現在に至っている。
 開業した頃は、交通が不便で材料を湧別市街や中湧別市街まで自転車に乗って買いにいくという苦労があったという。
10,船大工  登栄床地区に住んで船を造った船大工は、昭和30年代に木村、宮野の二人がいるが、二人とも生涯独身で、独身の気軽さからか酒が好きで飲み出すと仕事をしないので自分の家に連れてきて什事をさせたが、この人達は主に修理であった。
 また湧別市街から、吉田又蔵、今大工なども通ったり泊まり込みで来て仕事をしていたが、大きい船の新造などは他の造船場に頼んでいたので、磯船クラスの新造か修理が殆どであった。
 又古老の話によると、大正から昭和始め頃の景気の良い年には、岡島宅の付近に造船揚があり、新造船を作っていたという。そしてその造船場が時には旅芝居の劇場になったという。
 昭和43年に柴谷重夫が三里に来て船大工の仕事を始めたが、この頃はまだ地元に馴染みがなく、又漁師も貧乏で仕事がなく、雨の日も風の日も佐呂間へ二人で通う苦労をしたという。
 その柴谷も昭和63年の10月に57才で亡くなったが、始めは修理ばかりだったが、次第に信用がついて木船や船内外機の新造も手がけていただけに若くして亡くなったのが惜しまれる。
 柴谷は、住み着いた三里の人たちの人情の厚さにすっかり登栄床が好きになっていたという。
奥さんが今は民宿を経営している。

 
           造船作業中              柴谷さんが造った船

第7章 交   通  第5章 第8章

1,道 路  寛永年間、幕府や松前藩は道内(蝦夷地)の調査のため人を派遣しているが、北見の国には寛永12年(1635)松前藩士村上掃部左工門が、オホーツク海北見沿岸を主として船で回ったのが最初と言われている。
 そして50年後に幕吏佐藤玄六郎が宗谷から厚岸まで南下調査したがこれも船が主であった。
 1790年斜里場所に紋いて湧別、紋別場所が開設され、1797年に松前藩士高橋荘四郎が北見沿岸を調査し、このとき
「ショコツよりユウベツを経てアバシリまで18〜9里」とありオホーツク海岸道路を歩いた最初となった。
 
 昔は道路があったが今は浸蝕で無惨な姿となっている

 おそらくこのときユウベツよりワツカを経てトウフツヘ出たものと思われる。
 その後1846年に松浦武四郎が北見の国の踏査のときの記録に、番屋、小休所のあったことが記され湧別町内ではユウベツ番屋のほかにトエトコに小休所が置かれていたと記されている。(以上町史より要約)
 登栄床小学校沿革史には、道路について次のように書かれている。
   『旧網走道路』
 往時湧別よりワッカ、トーフツを経て網走に至る海岸線道路は、宗谷より北見を縦断して根室に至る唯一の陸上交通路として安政年間(庄=1860年頃)よりアイヌが往来したる遣にて、明治初年藤野伊兵衛が北見の漁業権を獲得せりしより、これが道路の補修を行い、やや完成したる道路となりしがその後人手を加えないためと、サロマ開口の開削により今は往時の面影を残すのみなり』

 とあり、昔は、海岸に沿って道路があったことを証明し、播摩信司や蹴場義美は、
 「湧別の市街や小学校へ通学するのには、海岸道路を歩いて通ったが、砂のために歩き難く、波打ち際の固い所を歩いたものだ」と述べている
 奥谷悠造は、
  「海岸道路は湖口が開削されるまでは網走までの道路として使われたが、囚人が網走の刑務所に護送されていくのをよく見かけた。
 でも砂の道で歩き難.く1里1時間かかった」

また地区内の道路についても次のように記されている。
 『湖畔道路=往時アイヌがサロマ湖での漁労のためにつけし道路にして、先住民族の遺跡を辿リテイネーに至る。林内歩道=トエトコ牧野設置以来新道完成まで歩道として唯一の交通跡であったが現在は殆ど跡はない』
現在の道道サロマ湖線の歴史について、沿革史は次のように述べている。
  『サロマ湖北岸道路=二号線より三里まで約4・5キロを村道として、昭和11年7月に起工、同年9月20日竣工し産業、交通上画期的な大便益を米した。
  昭和13年12月テイネー(四号線)と二号線終点のサロマ湖北岸道路を結ぶ道路工事を行ったが利用するに至らず』

と書かれており、当時は今のテイネー地区の道路の利用が少なかったことが分かる。
 二号線道路そのものはそれよりも前明治40年に東3線まで開通し、以後次第に整備されたものと推察される。(東地区開基85年史より)


舗装道路になる前の三里番屋の道々











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 二号線道路開削秘話
 平成5年7月16日土井重喜さんから二号線道路が東三線からサロマ湖湖岸まで開削されるに至る隠れたお話をお聞きしました。
  「昭和の始め頃私の家の牧場は八線を中心に24戸分120町歩ありましたが、三線までは道路がついていましたがそれから向こうは道路がないため牧場へ行くには四号線道路を通っていかなくてはならず大変舌労していました。
 ところが三線から七線までは酷い泥炭の土地で、ヤチ坊主が林立しそれにヤチマナコという大きな井戸のような水溜まりがあちこちにあり、大変な土地でした。そしてそのヤチマナコにはそこに落ちて死んだ馬や鹿の骨が沈んでいましたが水は澄んで奇麗なものでした。
 昭和十何年かの頃思い余って役場に村長を訪ね何とか道路を湖岸まで延長してほしいと頼みに行きました。もちろん道路は私の牧場への為もありましたが、当時の登栄床の人たちは遠く四号線道路まで出て迂回するか海岸道路を通るかして湧別市街に来ていましたので登栄床の人たちのためにもなると思ってお願いしたのです。
 ところが村長の返事は剣もホロロでした。
 若い私は腹が立ちました。
 その時の村長は誰あろう森垣さんでした。後に森垣さんと付き合うようになり立派な人だと尊敬していましたが、この時は腹が立ちました。
 支庁へも行きましたが同じことでした。
 そこで知遇を得ていた札幌の代議士の木下先生にお願いし木下先生の紹介で留辺蘂の尾崎天風代議士に事の次第を訴え何とか道路が出来ないか道庁への慟きかけをお願いいたしました。
 暫くしたら網走の土木派出所の所長が来て現地を案内せよと言ってきた。所長は加納といいました。
 この侍も村長は知らん顔で調査をして出てくる四号線の十線に自転車を置いて待っているだけでした。
 大変な苦労をして調査が終わりましたが所長は「駄目だ」といって帰りました。そこで再び尾崎先生にすがりました。
 翌年測量が始まりました。工事は2年間で出来ましたが何と道路は八線で止まってしまったのです。
 これでは私の為についた道路になってしまって登栄床の人たちの為にならないのでどうしてかと聞き質したところ「四号線道路と二号線道路の二本が同じ方向こ沿って走る道路は複線化道路といって許可にらないので途中で止めた」ということだった。そんな馬鹿なと思い再び尾崎先生にお願いした所翌年+線まで開通した。
 この出来事は私の生涯で忘れることの出来ない幾つかの思い出の一つです。

 登栄床の人たちは大変な不便をしていたのに村に要求もせず我慢していた素朴で純朴な人たちだった。
                  (富永記)
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 昭和44年6月18目に「道道湧別停車場サロマ湖線」として町道から道道に昇格し、昭和47年から4年で改良工事が行われ舗装道路となった。延長は13キロ。
 昭和60年9月に登栄床で「第5回全国豊かな海づくり大仝」が聞かれたのに合わせ歩道が年次計画で整備された。
 また三里地区では、道道に沿って下道路といわれる道路が、登栄床漁港から竜宮台まで、昭和53〜4年に「漁業環境整備事業」の補助事業として事業費84,500千円で1.47キロ改修舗装された。
 町道で道路名は、登栄床湖畔道路。
2,交通機関  湧別町史によると、
   「昭和の初期トエトコと湧別市街を客馬ソリが冬手間運行し、畠山、中内の両者が行い、戦後しばらくまで続いた」
 としている。
 また蹴揚義美は
   「三里の椛島という人が、馬ソリで客を乗せて運んでいた。朝三里から市街に行き、昼に市街から三里に戻る1日1回の使で、料金は分からないな−」と言う。
 登栄床地区で自転車に一番早く乗ったのは、播摩信司で、播摩が小学五年生の頃(注 昭和2年)
 「踏切式の自転車を、工藤のおやじ(注 常治さん)にあてがわれてそれで郵便物を配って歩いた」という。
 リヤカーを最初に侍っていたのは桜庭虎吉で、昭和11年であつたという。
 湧別町史によると、昭和11年に村内の自転車の保有台数は、517台だった。
 登栄床地区にバスが初めて走ったのは、昭和11年で、湧別乗合自動車合資会社が、シボレーとフォードの5〜6人乗りの乗用車をバスにして運行したのが、最初とされている。
 しかし、太平洋戦争の激化とともに国の指導で整備統合され、「北見乗合自動車式全社」(後の北見バス)となり燃料の不足から19年に運行は中止された。戦後路線バス営業の統制が緩和され、北見乗合自動車株式会社が北見バス株式会社として営業を再開したため、登栄床地区住民でバス運行を促進するため登栄床バス利用組合を結成し誘致運動を行いこの努力が実って、昭和25年に一日3往復の運行が始まった。
 この年の一日平均の乗客は150人でそれが昭和34年には101人と車の普及とともに徐々に減り始めて、赤字線となり遂に昭和49年から北見バスが撤退し、替わって町営バスが住民の足を守るために一日3往復の88体制で運行を開始し現在(平成5年)も3往復の運行を行っている。
3,車の普及  昭和40年に湧別漁協管内で組合員の.車の所有台数は、たったの8台であった。したがって登栄床地区には有っても数台だったと思われる。
 それが51年からのホタテ大量生産の好景気により、次々と車が増え、1家に乗用車1台、トラック1台の時代から乗用車は、1人1台、トラックもユニック付きと軽トラックのケースが殆どとなった。
4,除 雪  冬季間の道路の除雪は、除雪機械が少なく道路が使えない状態が続くと住民が総出でスコップで除雪を行い、火事や急病人などに備えた。
 湧別町では、昭和28年にブルドーザー1台を購入したが、とてもすべての町道の除雪を行うまで行かず陸の孤島といった状態が昭和50年頃まで続いた。
 最近は暖かい冬が続いて、猛吹雪も少なくなったが、昭和の時代は、吹雪が2,3日も続き交通が途絶えることもひと冬に何度もあった。
 そんな時に、食べ物でもなくなると大変であったし、煙草を切らして吸い殻を捜して歩くというような経験をした年配者も多いはずである。




大雪に埋もれた登栄床小学校






 そんな頃の話である
 昭和36年2月10日、三里番屋の山根勇さん(佐呂間町富武士在住)で奥さんのキヨさんが明け方から産気付いたが、これが大変な難産で、折悪しく勇さんも留守で、本家の三成さんも夫婦揃って不在、それに加えて二日前からの猛吹雪で交通は完全にストップしており、見るに見兼ねた近所の人が役場に医者か産婆さんの派遣を漁協支所の青木さんの家の電話で要請した。
 自衛隊からは、スキー隊15名がスノーボートを引いて来町、そのスノーボートに産婆の豊島さんを乗せてと言うか、くくり付けて出発し2時間かかって夕方山根さんに着いた。
 そして間もなく無事女の子が生まれた、部落の人が会館で温かい三平汁を作って一行の労をねぎらったという。
 また三里地区からも、平山国夫、入江和之、山根正則の3人が午前9時に三里を出発して湧別に到着、自衛隊のスキー部隊の案内役として先導をした。
 また町元リエはいち早く駆けつけ産婆の助手を勤めた。
 このように部落挙げての救助活動であった。その時の女の子は元気に成長し、江原博美といい東京に住みお母さんになっている。
 後日談であるが、吹雪から2年後その時の小隊長が山根さんを訪れ親子の安否を気ずかったという。
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 また昭和40年の3月に登栄床小学校で特殊無線技師の講習と国家試験を行ったが、試験の日の13日が猛吹雪となり、試験官が会場に行けなくて翌日問題を取り替え(全国統一試験だったため)実施したこともあった。
 今は吹雪で交通が1日でも途絶することがなくなり、夢のようなことになってしまった。
5,交通指導員  道路網の整備と共に車の普及は目覚ましいものがあるが、それに伴い交通事故も又激増している。
 登栄床地区でも幾多交通事故による痛ましい犠牲者が出ている。
 町では、こうした悲惨な交通事故を住民挙げての運動として防ごうと、昭和44年7月に「湧別町交通安全指導員設置条例」を制定し、それまでは、交通安全協会の指導員を町の非常勤特別職として町長が任命することになった。
 登栄床地区の指導員は、発足当時は不在であったが、昭和50年7月より2名が任命され、以来次の方が任命されている。
 交通指導員の氏名
 佐藤  章  昭50・7〜現職
 平形 春保  昭50・7〜平2・12
 斉藤 清隆  昭53・4〜現職
 高須 和男  昭58・4〜現職
秘話 幻の登栄床駅
 年代ははっきりしないが、昭和20年代の後半と思われる。
 そんな或る日、当時の村長大口丑定は、三号線の土井重喜の家をふらりと訪ねた。もちろん大口村長の方が二廻りも年上であったが、お互いに親交を深めている仲であった。
 お茶を飲みながらの四方山話が末に、湧別駅はこのままで良いのかと言う話しになった。と言うのは、名寄線が中湧別を選んだために湧別駅は引き込み線の行き止まりの駅になってしまい、乗客もジリ貧で、加えて貨物もトラックなどに荷物を取られて減っており、不振の状況にあつたのである。
  「これは国鉄だけの問題でなく地元の村としても真剣に考えなくてはならない問題である」
ということで意見の一致を見、それではどうすれば良いかということになった。
 そこで土井重喜は日頃考えている案を披露した。
 それは「名寄線を中湧別から湧別に向かいそして湧別からサロマ湖畔の登栄床に伸ばして、登栄床に簡易駅を作り芭露へ向かう」という案であった。
 それでは距離はどのくらいイ申びるのかと、地図を引っ張り出して針と糸で距離を測って比べてみるとそう大きな差でないことが分かった。
  「面白い案だな」と言うことでその場は終わり、それから機会がないまま月日が流れた。
 昭和40年代の始め湧別漁協の組合長は、森垣幸一であったが、森垣は病に倒れ自宅で療養していた。
 土井重責は何度となく見舞いに訪れていたが、俄る日見舞いに訪れたところこれも見舞いに来ていた息子の常雄と出会った。
 この時森垣常雄は、国鉄本社の第1停車場課長であった。
 話が湧別駅のことに及び、土井重喜が先の私案を説明したところ、常雄が大変感激し、民間の人がそんなに国鉄のことを考えてくれているのか、といってその案は良い案である、と言ってくれた。
 そこで森垣幸一の病気回復とともに土井乗喜の働きかけで、清水町長、鍵谷町議長と森垣に紋別から出ていた松田鉄蔵代議士が付添い国鉄本社の副総裁に陳情をした。
 色々話しているうちに副総裁は、側に居た森垣課長に「この程度の金は君の所でちよつと捻れば出るのでないか」と言った。これを聞いた松田代議士は、森垣幸一の肩を叩いて「これで決まった。めでたしめでたしだ」と言った。
 そして東京の帰りに札幌の国鉄北海道建設事務所に寄り所長に陳情した所、諸手を挙げて賛成してくれて、「湧別駅の問題は予てからどうしたら良いかと悩んでいた。これは良い案だ」
 と言ってくれ、大いに希望の持てる状況で陳情に行った一行は意気揚々と帰ってきた。
 そしてその後国鉄から測量隊を派遣するという連絡があり、楽しみにしていた所、町役場に、森垣課長より電話が入り、「大変残念だが、時期が少し遅かった。国鉄は今赤字対策のために合理化計画を進めることになり、あの話は無理になった」と言う事だった。
 この事がもう10年でも20年でも前こ出ていれば、そしてこそれが実現していればいずれ取り外される線であってもその間に湧別は又、今と違った繁栄があったのでないかと思われるし、登栄床にしても駅が出来ていれば、市街地が出来たはずであり、ことごとく惜しい話であった。
 後日談であるが、この案は立ち消えたが、森垣課長の骨折りで湧別駅は、湧網線の湧別駅から、名奇縁の湧別駅に代わりそのために廃止が3年間遅れるというおまけがあった。
             (この話は土井さんにお伺いした話を元にして構成しました。文責富永)

第8章 戦争の体験  第5章 第6章 

1,日清戦争から太平洋戦争(大東亜)まで  明治27年と38年の日清戦争(相手国=清国<現中国>)に始まり、明治37年と38年の日露戦争(相手国=ロシア)は日本の勝利に終わったが、この勢いに軍部の発言力が強くなり、続く第1次世界大戦(大正3〜7年、対ドイツ)の勝利で世界の軍事列強に加わったことにより軍国主義が巾を利かし、明治6年には「徴兵令」が既に布告されており、納税、教育とともに国民の三大義務とされていた。
 兵役の義務は、数え年21才の徴兵検査で甲種合格すると、ニケ年の現役入隊があり、歓呼の声に送られて入営し、満期除隊すると予備役(7ケ年)に編入され、在郷軍入会の会員として、予備役、国民兵として60才までも義務があった。
 しかしながら「官僚、高等教育ヲ受ケタルモノ、多額ノ金員ヲ拠出シタルモノ、及ビ戸主ハ免除……」という特例があり、農村や漁村の青年の徴兵率は高くなった。
 しかし戦争が激しくなると徴兵基準もだんだん引き下げられ、昭和19年には徴兵年齢は満18才となり、学生も学徒出陣として戦争に加わせられた。
 国内にあっては、銃後の守りとして、国防婦人会を全国に組織し、少年団や青年学校でも軍事教練や、防空訓練、竹槍による突撃訓練までも行われた。
 そして南京(中国)やシンガポールが陥落したときは旗行列や提灯行列が行われた。

湧別漁協が献納した「ホタテ号」

 また戦時体制の国内組織として、大政翼賛会が出来、その傘下団体として、翼賛壮年団が昭和17年に出来たが、湧別町でも、『昭和17年3月に40有余名の団員をもって発足し、3年数カ月に渡り、課せられた使命に挺身し、支庁管内においても、もっとも優秀な団として認められていた。特に登栄床分団が全分団員で勤労報国隊を結成し、室蘭の軍需工場に出動した時は全道から集まった報国隊の中で抜群の成績をあげ、全道に下湧別団の名を馳せ、その美談は今も語り草として残っている。<土井重喜談>』
              =湧別町史=
 また登栄床国民学校の沿革史には次の記録がある。
 昭和18・4・5  警戒警報発令サル
  〃18・4・25 防空演習ヲナス
  〃20・5・2  防空壕掘リニ青年団来校
  〃20・6・22 沖縄敵ニ帰ス、警戒警報シバシバアリ
  〃20・7・4  防空頭巾ノ検査ヲナス
  〃20・7・1  地区ノ国民義勇隊結成式ガ校庭デ行ハレタ
  〃20・7・30 防空演習
  〃20・8・12 登栄床地区国民義勇隊戦闘隊結成式
2,戦争の犠牲者  登栄床地区の戦死者のお名前は次の通りである。
氏    名  身  分   戦死年月日  戦 死 場 所
岩 問 裕 二
兼 田 福 桧
草 薙 良 一
斉 藤 要 作
佐 藤 清 治
高 僑 桧太郎
森 山 次 郎
幾 島 昌 雄
大 崎 一 正
沖 崎 昭 一
関 野 国 夫
湊 谷 盤 二
 陸軍上等兵
 海軍上等兵
 陸軍兵長
 陸軍伍長
 陸軍兵長
 陸軍曹長
 陸軍兵長
 海軍軍属
 海軍上等兵
 海軍兵長
 海軍兵長
 海軍上等兵
昭和15・5・15
 〃18・11・4
 〃19・7・18
 〃20・1・18
 〃20・4・30
 〃20・6・29
 〃20・5・18
 〃20・4・10
 〃20・3・17
 〃20・3・17
 〃20・4・22
 〃20・5・27
 中国山西省野戦病院
 群馬県前橋
 南方方面
 支那方面
 沖縄
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 北支
 南方群島トラック島
 硫黄島
 硫黄島
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戦時中の修学旅行
 昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まってその翌年の17年の8月に登栄床小学校(校長川上益夫)では、5・6年生に1部4年生も加わって旭川に修学旅行をした。
 といっても当時は戦争一色で、修学旅行も戦時色溢れる「軍神加藤隼戦闘機隊長の家」を訪れるというものだった。
 生徒28人に川上校長と担任の先生2人の31人で遺軽から汽車に乗って東旭川で降り、加藤隊長の生家まで歩き、故加藤隊長の活躍ぶりと最期の模様を校長先生から聞いて、その日は旭川の旅館に泊まり帰ってきた。
 今考えると何の変哲もない修学旅行であったが当時の子供たちはそれでも大はしやぎで楽しい思い出になったという。

   加藤隊長の生家で記念撮影
  (注 加藤隼戦闘機隊長とは太平洋戦争で活躍した戦闘機隊の隊長で、「隼」と名付けられた戦闘機は、当時としては優秀な戦闘機で日本陸軍の代表的戦闘機であった。最大時速555km、1,230馬力機関1基、航続距離3,000kmであった。零戦はこの後に開発された)
3,悲惨!機雷爆発事故  「昭和17年5月19日、機雷外海(中番屋)に上がる。四里番屋にも上がる」
  =登栄床小沿革史=
 5月24日に村上家治は警防団員としてサロマ湖側の四里番屋に上がった機雷を爆破地点のポント浜まで曳航すべく、奥谷千代蔵の定置の起こし船を借りて、曙町の山山田勝一(鉄工場主)と阿部巡査部長の3人で向かい、無事曳航した。爆発したのはこの機雷で、もう1個のほうは不発だった。 浮遊機雷が漂着したとの報告を受けた遠軽警察署長は、機雷の恐ろしさを多くの人に知らせるために爆破作業を見学させることにし、下湧別村警防団が総動員され、付近の村にも知らされ、一般の人や児童、生徒も見学のために集められた。
 爆破は、5月26日午後1時に行われる予定で、爆破場所のポント浜(東五線の外海)には続々と人が集まっていた。
 ところが2個の機雷を別々に爆破させる為1個を移動中突然爆発し大惨事となった。時まさに午前11時26分であった。
 死者112名(村内82名)負傷者112名(村内80名)を数え、
   『微塵に破砕されて痕跡をとどめない者、砂まみれになって飛散する五体の断片、死者、負傷者が累積して無残を極め、丘陵を覆うはまなすは鮮血と肉片で彩られて、慄然たるもので…………』=湧別町史=
   『一瞬機雷が爆発し、大音響は原野や山林に響き、湧別市街の窓ガラスも響きで壊れた。煙が立ち去ったあとの現場には直経10メートル、深さ3メートルの大きな穴が開き、50メートル四方には死傷者二百数十名が折り重なって、これらの差鳴とうめき声でさながら地獄の絵図を現出した』=湧別町史=
 登栄床警防団員の吉岡又吉氏、吉家保氏の2名が殉職し、28日に部落葬が行われた。
 登栄床小学校では児童を引率し見学に向かう途中であったが、昼食のため休憩中で難を免れたと沿革史は記している。
 村では翌18年に爆破現場に「殉難者慰霊碑」を建てたが、海岸浸食と放任のため倒壊しそうになっていたため、遺族会の奔走と消防団の協力で湧別神社の境内に移転し、その後町では毎年6月15日に慰霊祭を行っている。
 町では平成3年湾岸工事の完成により現場に再度慰霊碑を建立した。




機雷の引き揚げ












引き揚げられた機雷








(HP編集者の私見
 この機雷爆発により、尊い人命が奪われたのは悲惨であるが、最も痛ましいのは、この事故により町のリーダーの多くが亡くなった事による損失は、現在に至っても回復されない事から、郷土史において最大の町の損失と言えよう)

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