ふるさと登栄床のあゆみ
第14章 近代的漁村作りへ
第17章 文学と登栄床
第19章 資料編
昭和の小漁師 ページtop 第1・2・3・4章 第5・6・7・8章 第9章 第10・11・12章 第13章 第14・17・19章 年 表
町は登栄床地区の生活環境の整備を図るため、「漁業集落環境整備事業」の適用を受け、平成5年度より近代的漁村集落を目指し3つの事業を4ヶ年計画で進めている。 また平成6年度に「山村地域新農林漁業特別対策事業」で交流体験施設「レイクパレス」が設置されアウトドアライフを楽しむ施設ができる。 |
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1,三里湖畔道路の改良 | 昭和53〜4年の2ヶ年で登栄床湖畔道路と言われるいわゆる三里の下道路が整備されたが、道路幅員が4bしかないため車のすれ違いなどに不便を生じていた。当時はこの道路は「漁業環境整備事業」で延長1.47km、事業費84.500千円で完成した。 この道路を歩道という名目で全幅2.5b有功幅員2bにしようというもので、完成すると有功幅員は6bになる。それに街路灯32基を設置するという計画で事業費は合わせて30.000千円を予定し全額国費と町費で賄われる。 工事は道路の改良を6年度に行い、5年に街灯を設置した。 |
2,下水道施設の設置 | 湧別町で初めての下水道施設が湧別市街よりも一足早く完成する。 サロマ湖の漁業環境を水質汚濁から守るためと、日常生活の保健環境を改善するために延長5kmに渡る配水管を設置してし尿を処理してサロマ湖に放流しようと言うもので、総事業費は775.000千円の予定。工事は平成5年より始まり、8年度に完成する予定。 完成するとトイレは水洗となり、流しや風呂、洗濯などの排水も全て配水管を通って処理場に運ばれ浄化されてサロマ湖に放流される。下水道本管より各戸に引き込む工事と水洗設備は、住民の負担となる。 |
3,公園ができる | 登栄床小学校の跡地にソフトボール場を備えた緑地公園が計画されている。 この登栄床小学校の施設利用についてはかねてより施設整備をして海浜学校のような施設をと言う要望が強くあったが、漁業集落環境整備事業でとりあえず環境面の施設を作る事になった。 このため懐かしの登栄床小学校は取り壊しとなる予定である。 計画によると公園は、芝生や木を植えた緑地を広く取り、休憩所やトイレ、水飲み場、歩道、夜間照明、時計等を配置しソフトボール場を備えるとしており、平成7年より2ヶ年計画で工事をする予定である。 |
4,交流体験施設「レイクパレス」生まれる | 登栄床にビックな施設がまた一つ生まれる。 かねてより計画中であった旧登栄床小学校跡の敷地に交流体験施設が出来るのである。 この施設は海と山の豊かな自然の中で宿泊を通して交流を深めようというもので、各地でこのような施設が造られている。 利用できるのは青少年を中心にしたグループで町民でなくてもよく、食事は自炊である。 施設の名称は「レイクパレス」(湖の館)と言う、建物は鉄筋造り2階建てで延べ1.607u(約487坪)最大収容人員は62名である。 1階は食堂、調理室、研修室(和洋各1室)、浴室2ヵ所、トイレ3ヵ所、機械室、物品室、休憩室、管理人室等のほか、360uの大研修室(体育館)がある。 2階は研修室で、大小10室有り、トイレ、洗面所、ロビー、和室となっている。 施設の運営は町が直営で行い、利用料は有料である。 工事は5月に旧小学校の解体を行い年内の完成を目指している。 工事費は約500.00千円の予定である。 こうして登栄床は、現在工事中のサロマ湖漁港を含めて大きく変貌しようとしている。 それにともなって住民も環境に見合った変貌を遂げていかなくては均衡が取れない。 計画性をもった秩序ある暮らしと人生をエンジョイする心のゆとり、そして広く社会に進出する積極性など期待されるところである。 |
「北海道の旅」 | 更 科 源 蔵 北海道の生んだ詩人更科源蔵氏は「北海道の旅」の中でサロマ湖と登栄床についてこう記している。 『サロマ湖は北海道で一番大きい湖というよりもまるで海だ。 湖の中に防波堤をつくって船入り間を造るなんて湖は他に見られない。湖になった年代も若くてすぐこの間まで海だった。 オホーツクの波が砂を運んできてでこぼこしていた海岸線に、まるで測量でもして築いたような砂の堤を作りあげたのだ。 常呂町の鎬沸(アイヌ語で湖の目の意味)で海につながっていたが時々この湖口が砂でふさがり、冬になると水位が高くなる。 それはサロ湖側だけでなく能取湖も、コムケ湖もそうだ。 秋にはこの海跡湖のどれも湖畔が火のように真っ赤になる。 アツケシソウの群落が、一度に秋の炎を噴き出すからである。 はるか向こうまで冷たい炎がめらめらと続いて、旅人の目を驚かせる。サロマ砂嘴、そういう呼び方があるのかどうか私は知らない。 しかしもしもそこを、誰かが独り旅をしていったら、オホーツク海から吹き生ける風に削られた一本の枯木と化すだろう。 オホーツク海岸の地図を目で追い、その果てしない北の海のひろまりと、サロマ湖とを境している糸のように細い砂嘴を思うとき、誰もがそう思わないだろうか。 私たちは旅をするとき、まず5万分の地図を手引きにするのが常識である。 私は秋のある日、大阪からきた友人と、この化石になりそうな風景の中を歩いてみようと、地図を調べた。 三里番屋という地名が、妙にわびしく私たちを誘惑した。 そこへ行くにはサロマ湖の西の湧別から、消え残っている細道の記号がある。 その道は確かに廃道に近く、人の背丈の三倍もある葦や蒲の茂みに隠されたり、ハマナスの紅く実る砂丘をめぐったりしている。 それでも道型はあった。かって北見内陸の開拓者たちが、船で網走に上陸し、この道を唯一の便りに、風に吹かれながら見通しもつかない未来に足を運んだ、その足跡で踏み固められたあとである。 しかしいくらいっても糸のように細い、目的の砂嘴に出ない。 オホーツクの色は秋の空がとけて冷たく、右手の湿地帯の向こうは重いほどの柏の純林が丘のように連なっている。と一軒の番屋があり煙が上がっていた。 そして雑草と砂丘を越えるともう1軒あった。 びっくりするほど美しい女性が洗い物をしていて、道を尋ねると柏林の向こうだと教えてくれた。 私たちはそれを信じなかった、どの地図にもそんな道がかかれていないからである。 しかし湧別から8キロほどいって、嫌でも柏林を抜けなければならなくなった。 そして私たちはそこに町並みとバスの走る道とサロマ湖を発見してびっくりした。 帰りもバスの土ぼこりを避けて、また廃道を戻った。 もう一度美しい女性に会い不明を詫びたくもあった。 しかし番屋にはもう大きな犬と馨の長い老人だけで、女性の姿はなかった。 おそらく村祭りにでも行ったのかもしれない。 そして隣の番屋まで戻ったとき呼び止められた。 ゛今日は祭りだ、一杯飲んでいけ″という。 見ず知らずの旅人である私たちにである。 ゛ここに機械のついた車の入ったのは開闢以来初めてだ″といって私たちのジープに触り、゛10月10日にもう一度こい鮭を腹一杯食わせる″といった。 大阪に帰った友人は北海道を思い出すたびに、この灰色と蒼の最果てで出逢った人間の暖かさは、ハマナスの花よりも美しく忘れることができないといってよこした』 (更科源蔵氏は明治37年弟子屈町に生まれ、北海道文化賞、NHK放送文化賞、道新文化賞を受賞し北海遺文学館理事長をつとめた。昭和60年札幌市で逝去。享年81才) |
三里番屋 | 戸 川 幸 夫 <動物を主人公にした数々の小説で有名な作家の戸川幸夫が三里番屋を素材に描いた短篇「三里番屋」(別冊小説新潮 昭和41年7月)の一部を紹介しょう> 黒く、湿った砂の道が、オホーツク海に突っ込むように、ずうっと続いている。 道の左側には、はてしないひろがりを見せて白い氷原があった。左側は、道に攻め込む姿勢の熊笹の壁となっていて、その奥に骸骨が踊りだしたような、不気味に曲がりくねった、潤葉樹の並木があった。潤葉樹といっても、今はほとんど葉はついていない。枝の先にしがみついた病葉が、かさかさと乾いた音をたてているのに過ぎないから、骸骨の踊りは、今一番の最高潮のときにちがいない。 右手の氷原が海でないことは、その表面が鏡のように滑らかで、清浄であるのでわかった。 海ならば、あとからあとから押しつけてくる流氷で、ごつごつとした起状の醜悪さを見せているはずであった。 それにしても大きな湖であった。周囲九十二キロ、面積五十平方キロ、北海道第一の、そして日本で第4位の湖水がここにあった。 湖の名前はサロマ湖。砂の道は、二十六キロの長さがあるという。幅は根元のところで五百メートル、先では、十六メートル。人工の堤防ではなく、千年の前に出来上がった典型的な海岸砂嘴で、これが湖をオホーツク海から区切っていた。(中略) 砂の道に沿って、できの悪いとうもろこしみたいに、軒の低い、貧しい漁家が、ぽつり、ぽつりとたっていた。どれも湖水に生活を求める家で、湖岸に磯船と網干し場をもっていた。オホーツク海から吹きつけて来る朔風を怖れて、どこの家も道路下に、下半身を砂に裡めるようにして縮こまっている。 だから、たとえ骸骨の林でも、熊笹でも、ここではなくてはならない風よけだった。北海道のどこででも見られる針葉樹林は、この海の中に突き出した砂嘴では育たないからだ。 裸の林の中には尾白鷺が棲み、海岸では飢えた鴉が、騒いだ。 そういった貧しい部落のいくつかを過ぎていくと、終点の潮切り口に近く、寒々とした部落があった。漁貝から酒、菓子、日用品なんでも扱う小さな雑貨屋一軒を合めた家数二十軒たらずの部落だ。 ここが三里部落だった。(中略) <5月の霧の深い日であった。その中に一人の少年がいた。小さい男の子で、ホタテの稚貝をひろっていた。そこへ太った男が黒ずくめの服に銃身の長い鉄砲をもって現われた。 これがブータマとハンターの出会いであった> ブータマの家は三里番屋でも、一番奥で、潮切り口から二百メートルほどのところだ。 この辺までくると骸骨の並木も終わりに近く、背が低くなっている。 ブータマの家も部落の他の家と同じように一帯の磯船をもち、湖水の魚を得て、湧別町や、時には、佐呂間町に売リにゆく。 ブータマには両親はいない。家にはブータマにとって祖父母に当たる爺様(チャッチャ)と婆様(バツバア)がいるが、チャッチャは中気で体が思うように動かせない。だから仕事をしているのは、二人の兄ちゃんだ。ブータマの父親は、トッカリ漁師だったが、ブータマが二つのときに、氷の海にトッカリ撃ちに出かけてそのまま帰ってこなかった。 母親は、根性のない女で、肩にかかる一家の重圧に堪えかねて家を飛び出してしまった。 そこで上の兄ちゃんが東京に出稼ぎに行き、送ってくる金と、次の兄ちゃんの働きでブータマの一家は、辛うじて暮らしているのだ。ブ一タマはこの6月で満6歳になるが、体の発育が悪く、したがって知能も歳よりは遅れていて、いつも年下の3つや4つの子と遊ぶか、独り遊びをしている。(中略) <冬になるとやってくるハンターと、兄がトッカリ撃ちに出て行く。 ハンターはブータマのためにバオイ(ゴマフアザラシ)の子供(ギョクシャ)を捕まえてやる> ハンタさんの湖からの土産品は、ブータマを何より喜ばせた。 納屋の中に閉じ込めらめたトッカリの子が心配で、ブータマはその晩遅くまで眠らなかった。 風が雨戸をがたつかせるとブータマは夜中に何度も目を覚まして 「バッバア、だいしょうぶけ?」 とたずねた。 「心配ねえ、早く寝ろ」 バッバアはそのたんびにやりきれない声を出した。ブ一タマはとうとういたたまれなくなって夜中に床を抜け出した。 外は恐ろしいような月夜だった。月が地上のあらゆるものを凍らしているようだった。 ブータマはぶるるっと体を震わせた。納屋の向こうに半分、凍った湖があった。ブ一クマは納屋の戸をごそりと開いた。さしこんだ月の光の中で、斑毛のトッカリの子がごそっと動いた。 「バアイよ」 とブータマは声をかけた。バアイというのがこの獣の名だとブータマは思っていた。ブータマは中に入るとハンタさんが夕方やって見せてくれたやり方でトッカリの子の下あごを撫でた。 トッカリの子は、大きなくるくるとした黒目で、ブータマを見上げるとくうくうと甘ったれた声を出し、ぽろぽろと涙を流した。 <こうしてブータマとトッカリの子との生活が始まり、大きくなると食べさせる魚の量も多くなって、夜中にそっと湖に放したりした。秋になるとトッカリは一段と逞しくなり、ひとりで夜中に出ていってえさを捕るようになり2日も3日も帰らない日が続いた。 しかし冬になってサロマ湖が凍るとトッカリは餌を捕ることができなくなる。そこで能取り岬のトッカリの集まる岩礁地帯に船で運んで放した。冬の間ブータマは、トンカリの子の事が心配でたまらなくなり、春になると毎日毎日湖岸に出て「おいらのバアイを待った」「サロマ湖の氷が割れ始めたころトッカリの子は顔と、腕の下と、尾鰭のところに岩礁で受けた傷か仲間との争いでつけたのか傷をして戻ってきた。 こうしてトッカリは冬が去ると戻り、秋の終わりに湖を出ていった。数年がたったころトッカリはすっかり見事な体調二メートルのゴマフアザラシに成長していた。 そんなある年突然ハンターがやってきた。新式のライフルを侍って> 霧の中から舟が近づいてくるのを認めたとき、トッカリの群れに動揺が起こった。この群れの首長は巨大な壮獣・・・ブータマのバオイ・・・だった。 ブータマのバオイは、半身を起こしてじっと舟を目測した。 人間が狂暴な猛獣であることを彼はこの三年間で知っていたが、同時に人間の中にも友人があることを彼は正当に値ぶみしていた。だから、ブータマのバオイは、近づいてくる舟が敵か、味方かを探ろうとした。彼の知識では、・・・それは群れ全体にも言えることだが・・・・この距離ではまだ十分に安全なはずであった。この付近では速射用のライフルはまだ使われていなかったからだ。 『どうだな』 一連射で三頭のバオイを氷上に倒したハンタさんは、上々の機嫌で自慢のアメリカ土産のライフルをさすって兄ちゃんを振り返った。 兄ちゃんはたまげてしまった。 「こんな鉄砲が出てきたら、この辺のトッカリの種は絶えてしまうな」 「そうでもねえ。こんだぁトッカリの方で気をつける。ただ、今までのような鉄砲では獲りにくくなるべな」 ハンタさんは笑った。 氷の上に飛び上がった兄ちゃんは、三頭のバオイにハヤスキを打ち込もうとして、驚きの声を放った。 「大変だぁ。この一番大っきいの、これハンタさんがくれたブータマのバオイだぜ」 「ええ‥・?」 ハンタさんはしまったと思った。 「この鼻のとこと目のわきにある傷、間違いねぇ」 「困ったなぁ。ブータマに叱られるな」 「泣くべさ。こえつととても仲良しにしてて毎日、戻ってくるのを待ってたもんな」 「仕方ねぇ。またギョクシャ探してやるべ。このこと黙つてろな」 「うん。撃ったものはどもなんねえもんな。だけど、こえつは他の岸から陸揚げすんべ。 ブータマにわからねえように……」 ハンタさんは、今度は一晩も泊まらずにこそこそと逃げるようにして毛皮屋のトラックで帰っていった。ブータマは、ああよかったと胸をなで下ろした。 次の日は日曜日だった。ブータマは朝ごはんがすむと、たった独りで潮切り口に行った。 ブータマのバオイが今日こそ帰ってきそうに思えたからだ。 潮切り口では、潮が遠く、激しく動いていた。いつもは、ゆったりと浮かんでいる水盤や氷山がここでは、唸りをあげて、押し合いへしあいをして狭い口に向かって殺到していた。ブータマは潮切り口の流木に腰を下ろして鷲のようにじっと水盤の流れを見つめていた。 荒涼とした三里番屋が、はるか彼方で銀白に光っている- 。 |
サロマ湖の歌 | 中 山 正 男 作詩 古 関 裕 而 作曲 伊 藤 久 男 唄 1,アー サロマ湖の 水はからいよ 青く澄むとも 君知るや 君知るや 思い焦がれて 泣く女の 熱い涙が しみてるからよ 2,アー 恋の鳥 月に嘆くよ 哀れ今宵も さい果ての さい果ての 暗いコタンの 森こえて 遠く悲しく 君よぶ声よ 3,アー サロマ湖の 風は寒い 空に凍りて 音もなく 音もなく 白く静かに 降る雪は 君を慕いて 嘆くこころよ (この唄はサロマ湖の伝説「ピラオロ台メノコ哀話」をもとにして佐呂間町出身の中山正男が、故郷に里帰りしたとき、子供時代を過ごした故郷を前に作った歌である) |
「北海道山水の大観」 (抜粋) |
大 町 桂 月 大町桂月は、大正の頃の文人であるが、全国各地を訪ね歩き数多くの紀行文を残してい るが「北海道山水の大観」もその一つで、この作品は「太陽」という雑誌に大正12年6月 発表された。 その中からサロマ湖に関する部分を抜粋した。 日本三景の一なる天の橋立て(京都府宮津市)は宮津湾と与謝の海との間に突出せる狭州にしてその長さ四十二町あり、これに類するものを求れば伯者の夜見が浜(鳥取県)、中の海と美保湾の間に突出して長さ三里、天の橋立てに対して、大天の橋立てと称される。 尚その大なるものを求むれば、北見の猿間湖とオコック海との間に長州突出す、長さ十里天の橋立てに三倍す。 幅も言わば、天の橋立ては数十間、大天の橋立ては十五・六町、この長洲は二・三町なり。 大天の橋立ては幅広きに過ぎぐ、橋立てというよりむしろ半島と言うべし。 長さ十里幅二・三町ならば、長さ四十二町、幅数間と略型を同じうす。九倍の天の橋立てと云ひても名実相応ずる也。 殊に大天の橋立ては幅広き過ぐるために歩きても左右に水面を見ること能はずして天橋の突は益々欠くれども、天の橋立ても九倍の天橋も左右に水面を見る也。 この九倍の天の橋立てに、未だ名はあらず。 九倍の橋立てにては、地名として妥当ならず、猿間湖よりとて猿間崎としても好く、猿間湖とオコック海との間にあることなれば、猿問の猿とオコックのオとを合わせ猿尾崎としても好きが、余は此処に「龍宮街道」と命名す。 余り奇抜に失するやも知らず、世に通問するや否や。 猿間湖は平湖の一種なる海岸湖也。周囲二十二里長方形にして沿岸殆ど出入り無く、東南隅に一海水通ず。下湧別に下車すれば、直ちに龍宮街道の入り口に達す。 初の程は幅広きが次第に狭くなる。中頃とても道路を歩きては一方の水面のみ見ゆるが、風景を愛するものは、足の労を厭わず、尖れる丘陵の上を歩け、さらば左右に水面をみるを得べし。 後には道を歩きても、水面が見ゆるように或る也。 左も姻波森茫(注 いんばすいぼう)、右も姻波森茫、前にも山を見ず、唯是龍宮に行くかと思はるばかり也。 この龍宮街道には部落なし、楢の木絶えては、また続く、地にはハマナス相連なるその花紅にして薔薇に似て野趣を帯ぶ、その実赤くして美麗なり、朝に下湧別より駅馬を雇い、若しくは徒歩にて能取、網走の二湖を経て網走に達するを得べし。 龍宮街道を味わうには下湧別より常呂に向はざるが、余は都合ありてその道を逆に取りたることあり……。 天の橋立ては成相山より見れば、縦一文字となり、あふち峠より見れば横一文字となる。 是天の橋立ての一特色なり。龍宮街道は床丹方面より見れば横一文字となるべきも、之を縦一文字に見るべき山無きを如何せむ。…… ・ 北海道には唯山上にえん松あるのみ、蝦夷松やとど松の名を帯ぶるも杉、桧の類にして松とは別物なり。 もし街道の楢が松ならば、それこそ鬼に金棒なり。 注 大町桂月が来遊した頃は未だサロマ湖の湖口は開削されておらず、海岸の道路が濤沸を経て網走に達していた頃で、その海岸道路を三里浜からワッカにかけて「龍宮街道」と命名したもの |
「欣求浄土」 | 藤 枝 静 男 これから紹介する作品は、生田原町が発行した「オホーツク文学の旅」木原直彦著より引用したもので「 」内の文が藤枝静男のものでそれ以外は木原の要約文である。 この作品は、昭和43年4月に「群像」という雑誌に発表されたもので作者の藤枝静男が昭和42年の秋に札幌市で文芸講演会があり、その時の講師に同行して北海道を訪れ、遠軽からサロマ湖の三里番屋を旅したときのことを基にして書いた小説である。 なお「章」というのはこの小説の主人公である。 季節はずれのせいか、人影はもちろん行き会う車も殆ど無かった。湧別の町に入り、章は、希望として海とサロマ湖を一つ視野のうちに眺められる場所まで行ってもらうことにした。章は、自分になじみの深い故郷の浜名湖の三倍もあるかと思われる同じ塩水湖が砂州一筋でオホーツク海と接して横たわっていることに引き付けられそこまで行ってみたいと考えていたのだ。 「車は街角を右方に曲がり、やがて、それまでよりももっと淋しい感じのする原野の未舗装の直線道路を長い間走り、それから左右に湿地帯を遠見する柏の林の間に入っていった。柏は、一様に汚れた褐色の枯葉をつけ、根元を幅広の黒い落ち葉で厚く埋めていた。章は自分が既に、右に湖、左に海をひかえた突出部の入り口に入ったことを感じた」。 左手に続く柏の群落にまざった楢の木が、紅葉を過ぎて醜く縮んだ枯葉をつけていた。幹の間から葦に覆われた湿地帯が見え、右手は低く一面の枯れ葦の原になっていて、その果てに低い山に囲まれた平坦な湖が、鋭く光って内海のように広がっていた。山のすぐ上方の曇り空の一部が横に裂けて、そこから弱い、黄色っぽい光が帯のように射していた。 これがサロマ湖か、と章は思った。時計を見るともう午後三時になっていた」。 やがて車は湖に近づき、左手が丘のように高く狭まってきたかと思うと、じきに林が尽きて止まった。 「これが三里番屋です。人が来るのはここまでです」 と案内のK氏が章を振り向いていった。 ドアを開けて半身を外に出すと、急にその丘の向こう側から重い地鳴りのような波涛の音が一度に押し寄せるように章を包んだ。 それが章の目的のオホーツク海の海の音であった。 丘はそこで終わっていて、その先はハマナスらしい枯れ草の散在する狭い砂場になっていた。その砂場の一方の端が防波堤となって海に落ち込み、反対側は緩く下がって湖につながっている。 厚く高いコンクリートの防波堤は、章のいるところからは眺めを遮っていた。湖よりに無人の小屋があり、すぐ平らな枯れ葦の乱れ伏した湖の岸になっていた。 ジメジメと水の沁み出る岸辺まで下りていくと、あちこちに帆立貝の殼の束が白く山になり積まれて捨てられている。水は浅い感じで、湖面の反射はいったいに淡い青色を帯びていた。 脚下にはタイヤの腐ったリャカーが捨ててあり、人の立ち去ったあとの空き家に似た、荒涼の気配が辺りに漂っていた。 時雨にうながされ、防波堤から首を出して海を眺めると 「海も、その上に広がる空も、一様に重い鉛色を呈していた。 水平線の上だけが少し帯状に赤みを帯び、鉛色の海の沖の方から、層をなした白い波涛が、不断の海鳴りを轟かせて執拗に寄せていた」。 K氏が 「あそこが湖の切れ口です。昭和4年に人工的に切ったのです」と言った。 「二人のいる砂場から道が急に爪楊枝の先のように細まっていて、その先端のところに赤白の縞も塗り分けられた小灯台のような形の標識が立っていた」。 章が 「あそこまで行ってみるかな」 と言うと、K氏は 「いや、危ないことはないでしょうが、しかしあそこで切ったのは、もともとあそこが何時も波の越える場所になっていたからなんだから」 と留めるように言った。 章は標識に向かって歩き出したが、百五十メートルばかり進んだところで立ち止まった。 波のシブキが思いの外の重さと量でバラバラと章の肩に降りかかってきて、章をためらわせたのだ。 章は、もう全く遮るものの無い位置から、広い海と湖とそれから行く手の湖の流入口を眺め入った。 それはやはり荒涼たる眺めであった。 「章の胸に、何ケ月かあとの、吹雪に閉ざされたこの鉛色の海が無数の流氷の群れで埋められてしまう風景が、やや感傷的に浮かんだ。水平線の果てから運ばれてきた氷塊は、暗いウネリに乗って何日もの間ぶつかり合っているであろう。・・・・その時はサロマ湖も結氷するのだろうか、と彼は思った」。 サロマ湖の氷が、かなりの早さで海に向かって流れ出ていた。それは三角波の集団の動きで想像された。 「彼らは後から後からと湖を逃れ出、左手に退いて寄せているオホーツク海の浪を押し、次々とその原のところに呑みこまれて消えていくように見えた。それはいかにも静かで規則的であったが、人気の無い単調な視界の中で見ていると、やはり抗し難い自然の力の凄まじさで彼の胸を打った。『逃げて行く』と彼は思った。 気のせいか、自分の意志で開放されていくようにも思えた。嘘でもその方が気持ち良かった。」 |
「オホーツク海岸をゆく」 | 田 宮 虎 彦 この作品も、生田原町発行の「オホーツク文学の旅」木原直彦著より紹介するもので、昭和45年6月に「旅」に掲載された。 登栄床に関係する部分を次に紹介する。 「湧別の町には私の個人的な関わりがある。 あまりに個人的すぎるのだが、私が生まれるずっと前、おそらく明治30年代の後半に、 船員だった私の父が湧別に幾日か滞在していた。 おそらく夏の暑い盛りの季節であったに違いない。」 私が幼い頃、暑い夏が来ると、父は何時も、 「湧別へ行きたい」 と言っていた。 父には湧別は夏のない町として思い出に残っていたのであった。私は父の口癖を思い出 志ながら、何とない懐かしさを湧別の町に感じたのであった」 |
1,登栄床地区の戸数と人口の変遷 |
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2,湧別町の外海ホタテ貝の漁獲量 |
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