ふるさと登栄床のあゆみ

第10章 施    設
第11章 海難事故と災害
第12章 出来事と行事

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第10章 施    設

1,登栄床漁港  戦後サロマ湖における漁船漁業、またサロマ湖を基地とする外海漁業が盛んになるにつれて港の必要性が高まり、登栄床地区の住民が村に対して漁港の設置の要望を行うとともに、「サロマ湖登栄床内港施設協力会」を組織し運動を行った。村もその重要性を認め道に対し陳情誓願を行った結果、昭和24年網走土現の現地調査が11月に行われ、翌25年計画策定〜第一期道費工事として着工した。工事費は150万円であった。
 ■ 第1次漁港整備計画(26〜29年) 工事費19,552千円
    内訳   26年 通路護岸  225b  4,500千円
         27年   〃    145b  5,500千円
         28年 取り付け道路 80b 取り付け護岸 12,07b 突堤 58b
             物揚場躯体 119b 6,112千円
         29年 突堤 59,86b 取り付け護岸 21b 3,440千円
 ■ 第2次漁港整備計画(30〜31年) 工事費28,054千円
    内訳   30年 物揚場上部据えつけ 6,134千円
         31年 物揚場 140bほか 浚渫 21,920千円
 以上で昭和31年12月に沖出しの突堤375bと折れ型の幅員20b、延長60bのL型船付き場が完成した。
大型漁港に変身
 その後沿岸漁業、増養殖漁業の急激な高まりに、関係団体、町挙げての陳情により昭和40年からの第3次漁港整備計画、その後の第6次までの15年間の工事期間を費やして当時としては、第1種漁港として日本一の規模を誇る登栄床漁港が完成したのである。
 昭和55年10月31日小雨の降りしきる寒い日であったが、関係者多数出席して現地で完成式典、ホタテ加工場で祝賀会が盛大に開催された。その後港内が広くて風波が強いということで道に陳情し、改良工事として昭和62年から2ケ年で副埠頭延長100bが完成した。
 総事業費は、1,472,348千円
 その内訳は次の通り。
 修築事業費   1,185,807千円
 改修 〃      89,474千円
 局部改修〃     116,915千円
 道単独〃      80,152千円
 また漁港入口の港灯も、昭和63年10月に登栄床港南防波堤灯台として海上保安部が新設した。
 光力は40カンデラで到達距離は5マイル。
 昭和60年9月9日にはこの登栄床漁港で「第5回全国豊かな海づくり大会」が開かれ皇太子ご夫妻がご出席され、全国各地から6千人がこの広い登栄床漁港に集まり、参加者は、第1種漁港としてその規模に驚嘆したものである。
2,水産加工場  湧別漁業協同組合が登栄床に水産加工施設を建設した目的は二つあった。その一は、漁港に近く、用地もあること。二には、労働力が組合員の家族などで確保が容易であり、労働収入などで家計が潤う、であった。
 しかしこれはその後の増養殖の発展でもくろみははずれ、女工は湧別、中湧別の市街地区より運ばなくてはならず、原料のほたて貝も湖口の状況が安定しないため一部の船しか登栄床港に入港せず、加えて加工用水が水質の悪化のため確保できない、建設時にオイルショックにより工事費が高騰したなど苦難の出発であった。 
 49年=山村振興対策事業の補助で、鉄骨平屋建1棟 事業費142,700千円で加工所を設置
 50年=廃水処理施設(回転円盤方式1日80トン処理)=後に廃止 貯水槽1基20トン
    (タンクローリーで輸送の水を入れるため)
    干場舗装とフエンスエ事 合計21,110千円
 51年=構造改善の補助事業で保管作業施設鉄骨2階建1棟544u、組合単独で従業員福利厚生施設
    木造2階建1棟1,056u、合計事業費43,070千円
 55年=漁村緊急整備事業で廃水処理施設を設置1日150トン処理、事業費49,450千円
 60年=山村振興対策事業で製氷冷蔵施設鉄骨1部2階建l棟239u、事業費43,020千円
であるがこのほか毎年補修、改修、新機種の装置導入を図っており、平成4年度の原料処理量は2,175トン。
 従業員は、常勤工員5名、季節男子工員7名、同女子40名である。
3,養殖用保管作業施設  昭和43年に三里番屋(本開明宅前)と中番屋(播摩信司宅前)に各1棟を設置したが、これはホタテ貝の採苗施設の資材の保管と作業のために建てたが、その後採苗事業が共同より個人に移って本来の目的にそぐわなくなり、三里の施設は本間明に売り払い、中番屋の施設は、稚員放流用の篭の倉庫として漁協が使っている。
 施設は、鉄骨2階建 364u
 1棟の事業費は、5,030千円
4,生活改善センター  登栄床生活改善センターは、第一次の山村振興対策事業で設置されたが、昭和48年に登栄床小学校が統合されたことによる代償として作られたという背景もある。
 昭和51年11月完成 木造平屋建356.4u、事業費は26,547千円であった。講堂、図書室、研修室(和室)、講座室、実習室、会議室が備わっている。
5,登栄床保育所  登栄床保育所は、昭和46年5月に季節保育所として発足した。保母2名、園児23名で建物は部落で町の補助1,002千円をを受けて建てた。そして登栄床部落として運営委員会を設け、部落が町の補助を受けて運営をした。
 そして昭和49年4月へき地保育所として通年開所となったが、運営は部落が行っていた。
 昭和55年建物が老朽化したので、町が新築をした。
 木造モルタル塗平屋建183.06uで事業費は、16,734千円。へき地保育所から常設保育所への移行が60年にあり、その年の8月に増築工事が行われ、141uを13,480千円で増築して延324uとなった。
そして62年4月に町立保育所として認可になり現在に至っている。
55年度末   保母2名 園児39名
平成4年度未 保母3名 園児29名
 園児の内訳は 3才未満児 3名
        3才児   14名
        4才児   6名
        5才児   6名
6,中番屋養殖作業埠頭  ホタテ養殖事業の発展により地先での作業埠頭設置の要望が高まり、登栄床漁港への距離もあることから中番屋地先に道単独の補助事業と町単独の補助事業で昭和49年に「養殖作業基地設置事業」として実施された。その後中番屋地区の強い要望が再三に渡って出され、漁協もこれに応えて施設の整備を図ってきた。
 その各事業の内訳は次の通りである。
 規模は、取りつけ道路70b、橋30b、作業突堤15b×100b。
  事業費は、34,893千円で補助金は20,000千円。
 昭和54年に浚渫工事を補助事業として実施。
  浚渫量5,796?、事業費6,250千円、内補助金4,255千円。
 昭和56年道単独事業として、船捲施設等の工事を行った。
  斜路新設91.8b、道路護岸109.89b、事業費10,000千円、内補助金7,500千円。
 昭和58年道単事業として、作業埠頭の拡大を行った。
  突堤増設15b×155b、事業費24,500千円。
 昭和63年に山村振興対策事業として突堤の増設を行った。
  突堤15bX115b、事業費56,630千円、内補助金42,472千円。
 平成4年に山村振興対策事業として道路の改良、舗装延長55b×7.5b、橋の改良30bを行い、
  事業費14,832千円、内補助金11,124千円
7,登栄床寿の家  登栄床寿の家は、町が昭和56年、木造モルタル平屋建、面積183.87?、事業費15,130千円で完成した。
 そして昭和60年に登栄床漁港において行われた第5回全国豊かな海づくり大会には、皇太子殿下夫妻(現天皇)が寿の家を訪問され、出迎えの老人たちに親しくお言葉を賜った。
8,竜宮台と三里浜キャンプ場  三里浜のキャンプ場が何時頃から始まったのか詳しい資料がないので分からないが、町で昭和45〜46年に休憩舎を各1練建てたり、炊事場を整備したりしており、昭和46年に竜宮台に大町桂月の記念歌碑を753千円で建てている。
 だがこの時期観光の人気はまだ盛り上がりを見せず、町も観光協会に任せていた。昭和55年頃も三里野営場、ボート50隻(円山含む)、観光絵はがきの発行程度である。
 それが昭和60年の全国海づくり大会もあって、一挙に整備が進み47,000uの広大なキャンプ場として生まれ変わり、面目を一新しシーズンには多くの観光客が訪れている。
 施設の概要は次の通りである。
竜宮台 昭和61年設置
 展望台  1基   大町桂月の詩碑改修 1基
 あずま屋 1基   皇太子行幸記念碑  1基

竜宮の碑
 なお竜宮台には、登栄床部落が建立した竜宮の碑も立っている。この竜宮の碑は、むかしこの辺りの定置網に大きな海亀がかかり、これは縁起が良いと漁師たちが酒を振る舞ったところその漁場はその年大漁であったという伝説により、かっては竜宮神社として祭っていたのが海岸浸食により流されてしまったので、昭和61年に石碑として建て直したものである。
竜宮伝説
 山口省吾は自著「湖畔の村」の中で竜宮伝説について次のように記しでいる。
   『大町佳月が去って数年の或る初秋の頃、不思議なことが起こった。
 頭の巨大な亀がこの部落を訪れたのである。
  その程度は大人が二人乗っても沈まなかった事実によっても証明された。
 人々は歓待した。
 大漁満作の瑞兆と信じられたからである。
 珍味佳肴は山の加く並べられ芳醇は器に溢れた。
 彼は始めのうちは、自分の浮揚力や背中の固さを試す人々の悪戯に対していささか不倫快に見えた。
 けれども村を挙げての供応には少しも遠慮しなかった。
 彼は、うわばみのように飲んだし佳肴も平らげた。
 翌朝になって人々は彼の動かなくなっている姿を見た。
 前日の鯨飲振りを最後として彼の魂は安らかに昇天したのである。
 そしてその遺骸は親切な村人の手によって竜宮台に丁重に葬られ、ささやかな祠も建て
 られたのである。』
擁壁にイラスト
 竜宮台とキャンプ場の駐車場を外海の荒波から守っている擁壁に網走土現が、平成2年に竜宮伝説に基づいて、亀と浦島太郎や乙姫のイラストを描き、花を添えている。
三里浜キャンプ場
 また三里浜のキャンプ揚が時期的に満員となるため中番屋の通称「チロリン村」を町が買収し、平成3年よりキャンプ揚として、トイレ(FRP製のBX型)2基、水道、電気を設備し整地をして営業している。
 面積は、46,559uある。
 なおこれらのキャンプ揚は、町が施設を整備し湧別振興公社に運営を委託している。
大町桂月の詩碑
 文人大町桂月は対象10年秋湧別を訪れ三里浜の砂州の丘にたちその見事な景観に感激し、砂丘の道路を「竜宮街道」と命名し、さらに砂州の丘も「竜宮台」と命名した。
 そしてその景観を漢詩に詠んで宿の主人に贈ったという。
 その漢詩は「猿間湖行、徳弘大人」に贈ると付け書きされており、この徳弘大人とは、湧別原野開拓の先人で明治15年に湧別に来住した徳弘正輝ではないかと思われる。
      奇花異草接天空 馬跡輪痕川字通
      百里狭州波浪裡 恍然疑是到竜宮
 町では昭和46年に詩碑を竜宮台に建立した。
皇太子妃美智子さまの歌碑
 昭和60年9月9日「ふるさとに根づく心で海づくり」を大会のテーマとして開かれた第5回全国豊かな海づくり大会に参加された、当時の皇太子妃美智子さまは、翌年の宮中歌会始でこの海づくり大会を次のように読まれた。
      砂州超えて オホーツクの海に 望みたり
        佐呂間の水に 稚魚を放ちて
            (昭和61年歌会始め)
 町では昭和61年記念の歌碑を竜宮台に建立した。
竜宮の碑の碑文
 昭和の始め、当地のサケ定置網に大海亀が上網し、めでたき事と漁民により酒を振る舞われ海中に戻ったその秋、その定置網は、押し寄せたサケの大群に大豊漁となり、竜宮の地名と共に竜宮城よりの贈り物ではなかりしかと感謝の念をこめて鳥居などを建立し、大海亀の再来を祈ったといわれる。
 この度、周辺環境の整備が行われるに当たり、住民有志相計り、そのゆかりにより竜宮の碑と命名し、ここに建立する。
    昭和61年6月吉日
               登栄床地区住民一同
 (碑文は、当時の湧別漁協参事の富永氏が求めに応じてしたためたものである。)
9,公営住宅  漁家の二、三男対策として登栄床に公営住宅が出来たのは、昭和48年で道営住宅8戸、公営住宅4戸の12戸がこの年に建設された。最初数年は、入居者がなく、設置を漁協が要請した経過もあって空き家の分の家賃は漁協が負担した。
 現在20戸の団地となっている。
 大きさ別では、2LDKが1戸となっている。
また種類別では1種8戸、2種12戸となっている。
 入居者は、加工場の従業員、ほたて船の乗組員、漁家の二、三男等で平成5年10月末では2戸が空いている。
10,サロマ湖漁港  
  サロマ湖漁港完成予想図(夏)       サロマ湖漁港完成予想図(冬)
 昭和49年1月にサロマ湖に大量の流氷が侵入し、ホタテ養殖施設に多大の損害を与えたため、サロマ湖三町、三漁協は国と道に対して流氷侵入防止対策の陳情を続けた結果、昭和60年度より「サロマ湖地区養殖場造成事業」として防氷導流堤の設置を行ったが平成元年で同事業は終了した。このため同事業の継続を漁港工事として採択して貰う運動を続けていたが実を結び、第4種漁港の指定を受けて国の直轄工事として引き継がれ、平成2年度より開発建設部により工事が行われている。
 工事は完成までにまだ相当の期間を必要と見られており、つぎ込まれる工事費も数百億円に達するものと見られている。
 平成4年度までに要した漁港としての工事費は、1,591,200千円になっている。
11,湧別漁業協同組合登栄床支所  湧別漁協の支所が登栄床に設けられたのは、昭和24年からで、最初は三里のみであった。
 当時は駐在所という呼び方で、事務所は住居と同じで、ホタテ貝柱の検査に使用する検査場を改造した粗末なものであった。
 場所は、平形春保宅と山根一男宅の間の今の青木実宅の湖畔よりのところにあった。
 三里駐在所の初代職員は、山崎一男で、彼はそれまで湧別漁協が所有していた湧興丸(30トン程度)という運搬船の事務長をしていた。この湧興丸だが昭和22年に1,680千円で建造し、水産物を積んで内地へ運び、帰りに米や資材を積んで航海する予定であったのだが、処女航海の枝幸仲で座礁し、11月には秋田県能代沖で再び座礁、翌23年12月12日秋田沖で再度遭難して船体放棄をしたという曰く付きの船であった。
 この為に陸に上がって三里駐在を命ぜられたということであった。
 山崎は、昭和30年に退職し、二代目の職員は、菊池吉明であったが、彼は昭和33年の漁協再建の大整理によって退職し、後任に青木実が着任した。
 青木実は、昭和25年5月に漁協に就職してすぐ中番屋駐在を命ぜられ着任したが、三里と同じく検査場を改造した粗末な建物で、場所は今の播摩宅の付近にあった。
 当時の駐在員の仕事は、鮮魚の受入れ(このころ出荷される魚は殆ど小手繰りの密漁ものであった)ホタテの受入れ、貝柱の検査と文書の配布や漁協との間に私設電話が付いていたので、漁協からの連絡を伝えるといった雑用であった。
 駐在所から支所になったのは昭和44年からであるが、電話が各戸に付き、車が普及してきたこともあって昭和50年に支所は廃止となり、簡易郵便局の業務は、登栄床加工場の事務室に移転し、青木実も工場長から加工課長と勤め、昭和57年12月に定年により退職した。
 青木は現在三里に住宅を構え奥さんと二人で暮らしているが、冬期間は、娘の嫁ぎ先の札幌で過ごすことが多い。
12,漁港の施設  荷揚げ場上屋
 漁港の岸壁で作業をするのに登栄床は、ホタテ貝など生き物を扱うために上屋の必要性があり、このために昭和61年山村振興対策事業で施設を設置した。施設名は、「養殖および蓄養施設整備事業」といい、鉄骨作りの平屋建2棟、面積1,400uと資材置き場3,900uを舗装した。事業費76,030千円、補助金55、121千円で設置した。

保管作業施設
 漁港内で稚貝の採苗や放流が行われているが、港の中に休憩する場所や屋内で作業をする場所がないために「養殖用保管作業施設」を昭和62年に山村振興対策集会の出来る広間と準備室、物置
と作業や倉庫に使えるようになっている。
  鉄骨作り平屋建1棟 475.47u
  事業費 65,808千円
  補助金 47,710千円
13,会 館  中番屋会館(登栄床会館)
 昭和15〜6年ころ営林署が、国有林造林事業作業員の休憩所と宿泊所にと建物を建てた。
風呂や流しもある本格的なもので管理人は敦賀長吉だった。
 戦後営林署でこの建物を払い下げることになり、管理人であった敦賀と中栄青年団(団長相場勝義)が願い出たが、団体である青年団に払い下げられた。価格はわからないが、青年団はこの資金を生み出すために兼田庄吉から貝殻の提供を受け、この貝殻を通したり、ホタテ養殖事業を請け負ったりした。
 これが会館の始まりで、数年後町より学校の合掌造の古材の払い下げを受けて改修し、青年会館から部落会館へと変わった。
 会館での結婚式第1号は、関野力男夫妻の会費制で青年団長の兼田博の発起人代表で行われた。
 昭和41年に再び改修を行つたが、昭和60年町と漁協の補助を受けて木造モルタル平屋建178.2uを総工費16,700千円で新築した。

 三里浜会館
 岡島水生蔵が、部落会長の頃部落の集会所と青年の集会所が欲しいということになり新築するほどの資金も無かったため廃車のバスを見つけてきて岡島宅と工藤番屋の間に置いて、とりあえず青年の集会所とした。
 その後岡島会長が町とかけ合って古い校舎の廃材の払い下げを受けこれを基に町有地を借りて道道のサロマ湖寄りの場所に建てた。
 その後何回か増築したり、改築したりして結婚式や葬儀なども行われた。平成元年12月10日午前5時48分残り火の不始末から出火全焼した。焼失後は、漁港の漁協の休養施設を使っていたが、自前の会館を待つことになり、建設委員会を設置して町と漁協から補助金を貰い総工費27,300千円で焼けた元の会館から道路向かいの町有地を借り受け、敷地面積1,188u、建物木造平屋建て188uの「三里浜会館」を新築し平成3年11月22日に落成祝賀会を開催した。
14,墓地と火葬場  移住当初は土葬であったという説もあり、また水子などは土葬にしていたという話しもあるが、昭和17年までは湧別まで運んで焼いていたという。
 昭和17年に機雷爆発事故があり、この時から中番屋で野天焼きを行うようになった。
「野天焼き」といわれる方法は薪を積み上げた上に柩を乗せ、さらにその上に薪を乗せて油をかけて火をつけて焼くという弔いであった。
 中番屋の火葬場が施設として整備されたのは、昭和27年で、第1号の利用者になったのは三里の加藤三次で、11月2日であった。昭和54年に湧別の火葬場が新設されて廃止された。墓地は、町によって昭和16年7月に指定され現在に至っているが、面積は3,909uである。その墓地は中番屋の林の中にあるが、新築の墓石が立ち並び、黒御影の石碑や墓碑銘が立ち並んでおりいずれも立派なお墓ばかりである。
15,神 社  神社は昔中番屋と三里にそれぞれ有って、それぞれお祭りを行っていた。中番屋は、兼田幸雄の辺りの道路の海側にお稲荷さんを祭っていて毎年10月10日をお祭りとしていた。
 三里は、平形の辺りの同じく道路外海側に竜神を祭り神として竜宮神社があり、9月20日を祭りとしていた。
 それが昭和13年両神社を合祀して登栄床神社として祭ることに話合いがなされ、場所も学校の隣の町有地を払い下げて貰い、9月5日三里の奥の殿を移転して9月10日を祭日として盛大に祝った。
 昭和57年神社が老朽化してきたので、改築することになり、建設委員会を設けて住民より寄付を募り、2ケ年計画で総額11,200,000円をかけて改築した。(中番屋、三里の祭りの日は登栄床小学校沿革誌の日誌より引用)
 改築の収支決算は次の通り
 収入
 地区外寄付金    845.000円
 地区内寄付金 10,310,000円
       (最高10万〜3万円まで)
 利   息       8,326円
 合   計  11,163,326円

 支出
 神社建設費(井上組)8,000,000円
 鳥居建設費       900,000円
 追加雑工事費      300,000円
 記念碑工事費(大〜石材)600,000円
 太鼓購入費        30,000円
 雑   費       100,000円
 合   計    11,200,000円

16,灯 台  サロマ湖灯台は昭和41年11月1日に点灯した。
 それまでは、昭和24年に町が登栄床地区漁民の強い要望により町単独で今の灯台の付近に標識灯を設置したが、1.2`に渡って設置した電柱とともに激しい風と波により倒壊、修理が繰り返され、ついに電線を地下埋設することになり登栄床地区漁民のほか湧別市街からも漁民の応援を得て電線を地下に埋める工事を行った。
 しかし標識灯の倒壊は続いたため、海上保安部に対して湖口灯台設置の運動を町と漁協が陳情を行った結果、サロマ湖口での遭難事故が実現の大きな引き金となり実現した。完成した灯台は、「サロマ湖灯台」といい、光力は3,400〜170カンデラ、5秒1閃で、到達距離は12〜8マイルとなっている。この灯台の点灯により、湖口での事故はなくなり、湖口を出入りする船ばかりでなく、付近を航行する船からも頼もしい海の案内人どなっている。
 昭和60年頃より湖口付近の砂が削り取られ、灯台の根元まで波が打ち寄せ危険な状態となったため、網走土現が昭和62年に工費110,000千円余でブロックを積んで護岸し倒壊の危険を防いだ。




航行の安全を守るサロマ湖灯台






17,トラックスケール  昭和47年漁協は、水産物の取引の迅速化を計るために登栄床漁港西側道路のそばにトラックスケールを設置した。 20トン型の手動式の中古品であった。計量品は、稚貝、登栄床港に入港した外海ホタテ、加工場で干し貝柱を作るための養殖ほたてなどであった。
 昭和59年山村振興事業の補助を受けて漁協が近代的な施設を、完成した漁港用地に新設した。
 鉄骨造りの30トン型自動計量式で総工費20,368千円であった。

第11章 海難事故と災害

1,海難事故  登栄床地区の海難事故は、戦後以降に起きている。
 川先船や磯船の頃は起きていないというから不思議である。
 動力船になってから起きているというのは、自然よりも機械や先進技術を過信した所為だろうか。
 その痛ましい事故の犠牲者を次ぎに記す。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。
★昭和25年11月3日 山本典範(18才) 山本武雄長男 一丸でイカ釣りを操業して帰港中、サロマ湖内で転落死亡
★昭和28年11月10日 山下甚一(27才) 山下甚之助長男 サロマ湖内でほたて漁業を操業中に転落死亡、動力船で川先船を先引きしていて川先船に乗っていた。
★昭和32年10月27日 本間 豊(25才) 本間豊吉二男 サンマ棒受け網漁業の準備中に平ベルトに巻き込まれ死亡
★昭和33年10月14日午前10時頃サロマ湖口で、中村漁業部のサケ定置起こし船泰西丸6,9dが転覆、乗組員8名が死亡、6名救助という大事故が発生した。この事故は、波の状態を見ていた三里の岡島龍主、工藤清二、斉藤石蔵、平形徳太郎、平形春保等が目撃、直ちに東洋丸(10、61d)で救助に向かい6名を救助したもので、乗り組み員は全員青森、秋田県の出稼ぎの人たちであった。
★昭和35年6月22日 沖崎 天(22才) 沖崎仁三郎の三男 その日の夜小手繰り網漁業で操業中海上保安部の巡視船に発見され停船命令を受けたが従わなかったために巡視船に追突されその衝撃で転落死亡した。何ともやりきれない痛ましい事故であった。
★昭和49年7月22日 岩間裕一(26才) 岩間岩太郎長男 湧別沖でホタテ桁網漁業を操業中に桁網が海底の岩礁に引っかかったためにその衝撃でワイヤーの滑車が壊れ、そのワイヤーで後頭部を強打され死亡した。
★昭和51年9月27日 阿部晃彦(15才) 阿部登喜男2男 サロマ湖で操業中船外機船から転落死亡
★昭和51年11月8日 蛯沢和幸(25才) 橋本 徹(22才)との2名乗組みの第3栄光丸1,5dがホタテ養殖作業に出漁したが帰港せず行方不明となった。
 翌52年6月20日中番屋沖で白骨となった橋本徹の遺体が発見され、続いて同年7月21日サロマ湖口で浮いている蛯沢和幸の遺体が発見された。

人命救助
 昭和34年11月20日 タコ漁に出漁した宝栄丸乗組員本間 明、本間吉三、本間直吉、小林敏光の4人は操業を終わって帰港中に、高波を受けて転覆した龍神丸を発見し、決死の救助活動で乗組員4名全員救助した。
 救助された乗組員は滝谷幸秀、米原一二、加茂谷 満、加茂谷正男の4名。
2,火 災  (消防の調べ、昭和46年以降のみで以前は不明である)
☆昭和47年12月16日午前5時13分頃  今泉隆夫 住宅全焼 眼鏡石の不備により出火
☆昭和50年11月21日午前12時40分頃 今泉隆夫 受託全焼 ガスコンロの消し忘れ
☆昭和51年3月14日午後3次22分頃   斉藤石蔵 作業場全焼 ストーブの加熱
☆昭和57年4月11日午前7時57分頃   橋本 貢 住宅全焼 眼鏡石付近より出火
☆昭和58年7月19日午後7時10分頃   関野 茂 物置半焼 子供の火遊び
☆昭和59年8月12日午前6時50分頃   山下要吉 住宅全焼 蚊取り線香から引火
☆昭和61年12月19日午後10時10分頃 三里浜公民館全焼 残り火の不始末
☆平成2年3月15日午後3次14分頃    高野イマ 住宅全焼 ストーブの加熱
 

第12章 出来事と行事   最初に戻る 

1,ふるさとの歌まつり  昭和48年8月13日
 この日、この頃NHKの全国放送の人気番組であった宮田輝アナウンサー司会の『ふるさとの歌まつり』が三里番屋の今のキャンプ場を会場にして行われた。
 ゲストとして菅原洋一、布施明、倍賞千恵子等が来町し、公開録画が行われ、多くの見物客で賑わった。
 三里地区からも婦人部の人たちやホタテ養殖部会の人たちが、ホタテの浜焼きの紹介やサロマ湖に船を浮かべて協力するなどした。
2,第5回全国豊かな海づくり大会  第5回の全国海づくり大会が、昭和60年9月9日登栄床漁港を会場にして盛大に開かれた。
 この大会には、平成天皇陛下で当時の皇太子殿下夫妻が臨席され、全国から集まった参加者6千人でさしもの広い漁港敷地も人、人、人で埋まった。
 大会は、午前10次よりアトラクションとして地元三町の小、中、高の児童、生徒等による鼓笛隊、ブラスバンドの演奏、湧別町婦人会の千人踊り、サロマ湖太鼓、道警音楽隊のドリル演奏などを披露し、午後1時皇太子殿下夫妻の御成によって大会の幕が開かれた。
 式典行事の中で漁業後継者代表として三里の斉藤秀則君は常呂町、佐呂間町の代表と共に力強く「誓いのことば」を朗読し、種苗放流行事では同じく漁業後継者代表として三里の山根勝則君と岡島弥生さんがそして中学生代表として三里の町元昌洋君と中番屋の相場真紀さんが皇太子殿下夫妻の介添え役として台船の上から稚魚の放流を行った。
 放流された稚魚は、ニシン5万尾、サクラマス1万尾、ホッカイエビ5千尾、エゾバフンウニ5千尾、ホタテ稚貝10万粒、ケガニ1千尾であった。
 会場では、北方水族館、水産機器展、絵画展、パネル展、一村一品展示即売会が行われ、海上では湧別、常呂、佐呂間三漁協所属の漁船232隻が歓迎パレードを繰り広げた。
 また大会終了後、フェスティバルショウとして北島三郎のショーとホタテの浜焼き、カニの鉄砲汁、スイトコーンの無料サービスが行われた。
 今後再びこのように大きな催しは登栄床はむろん湧別町でも行われることはないものと思われる。まことに記念に残る大行事でありました。
3,竜宮祭り  毎年7月に観光地としての三里地区の竜宮台付近を会場にして観光協会の主催で開かれている。
 この催しは、登栄床地区の夏祭りもかねて昭和61年から行われ、行事としては、「海の宝探し」「ボート漕ぎレース」「竜宮神輿」「歌謡ショー」「エビの掴み取り」などを行い、平成4年からは前夜祭としてサロマ湖花火大会を行っている。
4,初日の出参拝  サロマ湖を目の前にして夏はオホーツク海から冬は浜佐呂間の彼方から昇る朝日は四季を通じて素晴らしい眺めである。
 その素晴らしい朝陽を元旦に拝もうという催しが観光協会により昭和62年から行われており、毎年若者を中心にして数百人が参加している。
 午前5時まだ薄暗い中で「お楽しみ抽選会」やコーヒー、牛乳、甘酒の無料サービスお行い、焚き火を囲んで気勢をあげて午前7時頃のご来光を迎える。
 ただここ数年は天候に恵まれず初日の出は拝めていない。
5,漁民運動会  湧別漁業協同組合の主催で昭和48年から毎年7月に旧登栄床小学校グランドを会場に、前浜、中番屋、三里、湖南の4チームで趣向を凝らした種目で家族総出の楽しい1日を過ごしたが、昭和58年第9回をもって幕を閉じた。
 特に婦人部による仮装応援合戦が呼び物で町内はもとより近くの町にも伝わり大いに評判になったものである。
6,秋祭り  昭和13年に中番屋と三里の神社が合併してお祭りも9月10日・11日に行ったが、それ以前は、別々に行っており、中番屋は9月10日〜11日に行っていた。この日は部落総出でさきり丸太で舞台を組み、屋根には船の帆を張って作り、手作りの演芸会を行い大変な賑やかさで合ったという。
 テレビもなく遊ぶ施設もない時代であるから演芸会が唯一の楽しみであった。
 現在はお祭りの日程も、かってホタテの操業が9月10日まで出会った関係で11日〜12日となって定着しており、お祭りの行事も毎年当番を決め、その当番が行事を取りしきっている。
 行う行事も、パークゴルフ大会、子供神輿の巡回、相撲、演芸大会、景品付き御神籤など盛り沢山である。
7,アルゼンチン移民  戦後の魚も獲れなくて暮らしに困っていた頃の昭和27〜8年頃紋別出身の松田鉄蔵代議士の提唱でアルゼンチンヘの漁業移民の話が待ち上がった。
 アルゼンチンは日本の真裏に当たるタンゴで知られる情熱の国である。その国へ船や資材を持ち込んでエビを獲り日本へ送り込もうという計画で4・50dの漁船10隻を建造し、それに乗ってアルゼンチンに渡り一旗あげようという壮大な計画であった。
 湧別には1隻の割り当てがあり希望者を募ったところ最初は20人位いたのが計画が進む内に一人減り、二人減りして最終的には「7〜8人ぐらいになったと記憶している」(岡島龍主談)
 登栄床では山下甚之助、金沢喜一、柿崎光男、岡島能生、加藤幸太郎、前浜では本間長之助、福島吉三郎、柴田定雄といった人たちが最後まで残った。
 これらの人たちは移民を目前に船や資材を売って、出面取りをしながら何時でも行ける準備をした人もいたが、昭和30年に当時のアルゼンチンの大統領であったペロン政権に不満を抱く地主などの反抗でクデーターが起きて軍事政権となるなど政情不安となり計画は中止となった。
 だがこの時既に2〜3隻は小樽付近の漁民が移民をしていたという。
 こうしてこの計画は、中止となったが、食うのに困ることは同じで、この後船を買ってきて小手繰りの密漁に転向した人もいた。
 余談であるがこの後松田代議士は太平洋の小さな島であるトンガ王国への移民を計画して話題になるなど海外進出の好きな人であった。
8,マラソン  登栄床をゴール地点とし、また折り返し点とするマラソンが年々参加者も増え盛合になってきている。
○オホーツク国際マラソン
 昭和60年(1985)に第1回大会が開かれてから毎年開催されている。
 この大会は、紋別市と湧別町が共催して聞かれており、コースは、10`の部、20`の部、42.195`の部の3コースに分かれ、スタート地点の紋別市営陸上競技場を出て、フルマラソンの42.195`の部のゴール登豊栄床の三里浜キャンプ場になっている。
 しかし閉会式の会揚が三里浜キャンプ場のため参加者全員が、登栄床に集まっている。
 参加者も年々増えており、第1回大会は、439名の参加であったが、平成5年は760名となった。
平成5年は、7月18日に行われ、肌寒い霧雨の中選手が力走した。
 また三里浜のホタテ出荷組合(組合長今泉克臣)は、第2回大会より毎年参加選手の労をねぎらってホタテの貝焼きを無料でサービスして参加者に喜ばれている。

○サロマ湖100qマラソン
 こちらの大会は、1年遅れて昭和61年(1986)に始まった。
100qと言う途方もない距離に挑む勇者もうなぎ登りに増え、平成5年は何と1,155名がエントリーした。
 100qのスタートは、湧別町綜合体育館前で、出発して2号線道路を登栄床に向かい、三里浜竜宮台で折り返してゴールの常呂町へ向かうコースとなっている。
 100qのほかに50kmも有りこちらは、佐呂間町役場前をスタートしてゴールの常呂町へ向かうコースとなっている。
 この100qマラソン、平成6年はワールドチャレンジカップとして国際大会で開催される事が決定している。
 折り返し地点となる三里浜竜宮台の広場には、サロマ湖太鼓の勇壮な響きが選手を励ましている。
因に平成5年の記録を紹介すると、100qの部は、参加者1,045人、内男子919人、女子126人で、完走者は、659人、完走率63,1%出会った。
 タイムは、歴代最高が、平成4年の6時間36分34秒。
 また女子の最高タイムは、これも平成4年の記録された8時間17分01秒であった。
マラソン当日は、遠藤で住民の人たちの温かい激励の声が飛び交っていた。
9,映画「炎は消えず」  登栄床を舞台とし或いはロケ地として撮影された映画やテレビドラマは数多くあります。
その中でも昭和41年に北海道漁業協同組合連合会(道漁連)が整促達成の記念映画として、三里を舞台にして撮影した映画「炎は消えず」は三里の人達が出演し、その頃の懐かしい風景がふんだんに出てくることでは一番です。
 この映画は、その後平成2年に湧別漁業協同組合の求めに応じてビデオ化されて湧別漁協に届けられました。
 映画は、白黒のワイド版で、完成したときは、湧別市街にあった湧楽座の映画館で、昼は小中学生に、夜は一般に無料で上映されました。
「映画の紹介」
 タイトル「炎は消えず」第一部「海の壁」

 企画北海道漁業協同組合連合会 90分 制作HBC映画社
 この映画の物語は、三里浜竜宮台付近の外海の時化のシーンから始まる。時代は昭和8年の或る日、所はある漁師の家。
 そこでは親方の仕込みを受けて舟や網を買う漁師の会話がある。
 2年続きのホタテの不漁で困っているときに親方の仕込みで助かったという話である。
 画面は漁が悪くて親方の仕込みも受けられない家の娘が小樽の女郎屋に売られていくシーンである。雪の深い道をトボトボと人買いに連れられていく娘。それを見て泣きわめく母親。
 流氷の海。時代の背景の字幕が続く。昭和4年世界的経済恐慌が始まる。 昭和6年満洲事変起こる。昭和7年上海事変。同年「農漁村経済自立更正運動」提唱。昭和8年漁業法改正。
 サロマ湖の砂浜では、女同士が親父を寝取ったとして取っ組みあいの喧嘩。それを大勢の人が囃し立ててみている。
 鉄輪の馬車が登場する。当時の唯一の交通機関である。
 当時の家が出てくる。長柾の壁、筵の床、薄暗い家の中。外には貝殻の山と連に通した貝殻の山。昭和20年から40年頃までの見慣れた景色が次々に現れる。
 漁組は看板に「七里浦漁業組合」とある。
 道庁の若い職員が漁民の団結と共同販売の実現に情熱を燃やす。この佐川という若い職員のモデルは、後の漁連、信連の会長を務めた安藤孝俊でないかと思われる。彼は既に故人となっているが、若いころ道庁の職員であったからである。
 この職員の働きかけで組会長が共販を主張する。 しかし親方の仕込みになれ、親方の恩義を感じる漁民は動かない。
 不況の嵐はホタテ貝柱の価格を暴落させた。
 そ.して時化が続く。昭和8年の8月下旬の時化でオホーツク沿岸では遭難者が相次ぎ死者50人に上ったと当時の水産部の記録に残っているという。
 切迫した状況に次第に共販への関心が高まる。
そして親方の締めつけも強まる。
 小樽へ売られた娘「しの」が結核になって帰ってくる。恋人と再会して喜ぶが、病気は進行し、喀血して絶望し遂に自殺をする。
 折から漁民に緊急集会の指令が飛ぶ。
 貝柱が更に暴落したのである。
  「相場は仲買人や親方が決めるものだと思っていた」
  「価格は、生産者の我々には関係がない。親方に面倒を見てもらっているのだ」
  「自分で自分を守るしかない」
 こんな発言が続く。
 親方も合議を開き対策を協議する。
  「仕込みを止めるものには、船や網を取り上げるというやり方はやりすぎた」
  「漁師共に何かできるか見ていなさい」
 サロマ湖のホタテ漁。
 そこへ親方がチャーターした船(第一龍丸と書いてあり、岡島龍主さんの待ち船である)が現れ、操業中のホタテの八尺を引っかけて持ち去る。その龍丸の操舵室から顔を出して「ざまあ見ろ」と叫ぶのが若いときの工藤忠之さんである。
 そして岡島龍主さんも写っている。
 遂に漁民は団結した。
 再び現れた龍丸に対して何とダイナマイトの一斉攻撃を仕掛けたのである。舵を壊されスクリュウが無くなって遂に降参。
集まった漁民の中に工藤石五郎さんの元気な顔が見える。
 登栄床漁港の漁港と言えない当時の姿が映る。
 そして共同の力に目覚めた漁民は、親方の真の姿を見て逞しく立ち上がる。
 というのが大方の筋であるが、至る所に当時(昭和40年)の風景や建物、人物が出てきて懐かしさで一杯です。
 このVTRは漁協にあるので貸して貰って見てみることをお勧めします。
10,流氷との闘い  サロマ湖に流氷が侵入した最初の年は、昭和47年で、この時はオホーツク海の氷も無くなり、サロマ湖の氷も解けた4月8日から15日にかけてたまたま接岸したはぐれ氷の群れが潮内の三里番屋沖に入り込み、そのまま居座ってしまったものだった。


流氷の爆破作業(昭和47年)

 
初めての出来事にびっくり仰天し、対策を話し合った結果火薬で爆破する事になり、町を通じて陸上自衛隊に依頼するとともに叶シ村組にも依頼し、爆破作戦を行ったが氷が柔らかくて火薬の効き目が悪くさはどの効果はなく、そのうちに引き潮と風によって外海に流出して大きな被害もなく終わった。
昭和49年1月10日頃、折から接近したオホーツク海の流氷は湖口からどんどんと流入を始めた。サロマ湖は殆ど結氷していなかった。
入り込んだ流氷は栄浦から富武士、芭露、三里沖を埋めつくしそのまま凍リついてしまった。氷が解けるまでの間に3町3漁協、支庁などと対策がいろいろ話合われ、ヘリコプターからの融雪剤の散布などを試みたが、膨大な流氷には有効な手立てもなく雪解けとともに流氷が移動し養殖施設に多くの被害が出た。
 組合員は、連日総出で被害施設の復旧や対策に駈けづり回った。
 湧別漁協のこの時の被害は、ホタテ養殖施設824台、107,500千粒、586,000千円とされ、対策経費も5,000千円に達したというこの年以後も流氷の侵入は度々あったが、規模、量とも大きなものでなかったので被害は出なかった。 
 しかしこの教訓で流氷対策を求める声は大きくなり、対策も検討され始めていた。
 昭和60年になって暖冬のためにサロマ湖の結氷が遅れ始めこの年からは毎年のように流氷の侵入が姑まり、流氷を砕いて少しでも被害を軽くしようということから営呂、佐呂間、湧別の漁民総出で鋸や鶴嘴で氷と闘った。
 その内に大型の土木機械を土運船に積みこんで氷を砕いたり、砕氷船を建造したり、台船を作ったりと流氷との闘いは今も続いている。
 根本的対策としてサロマ湖口の防水堤の工事もサロマ湖漁港の工事として始まっており、湖口に防水フェンスを張る計画なども検討さ
れている。


 水害の事  サロマ湖の岸辺が護岸されるまで毎年11月から12月の大潮と時化が重なると水害が起きた。
 沖崎善三郎から学校までの間が特に酷く、床上浸水に遣った家もたまにあったが、床下浸水は当たり前であったという。そしてその水が引かないうちに凍ってスケートリンクとして春まで使ったという。
 毎年のような水害に「移転しなかったのか」と聞くと、年中行事のようなもので慣れっこになっていて、その頃は電気製品も今のようになかったし被害もなかったという。
昭和50年頃から年次計画で護岸が完成してからは水害もなくなつたが、昭和63年10月30日に低気圧による河川の増水と大潮がぶつかって水害が発生し、浜の倉庫や作業場などが軒並み浸水し、そこに置いてあった冷蔵庫や電気製品は皆使用できなくなったほか、浮玉や資材などが流れて大きな被害が出た。
 そして倉庫や作業場のトイレは水に浸かって中身が流れ出すという事もあり、以来倉庫や作業所のトイレは高いところに作るようになった。
 防風林でマイタケが採れる  登栄床の防風林でマイタケが取れるという話はあるが探った人は余りいない。
 もう10年くらい前に今は亡き金沢喜−さんがマイタケを探りに裏山に入って帰って来ず部落総出で捜索をしたが見つからず心配していたところあくる朝ひょっこり現れて胸をなで下ろしたことがあった。
 マイタケは出る所が決まっており1年置きくらいに出るという。したがって誰も出るところを教えない。
 極端には家のものにも教えないという。
 何せ1ケの大きさが何キロも有るのだから大したものだ。
 そのマイタケを毎年裏山で探り続けている人がいる。登栄床の人ではない。匿名でと言うことで紹介します。
 採った場所は? もちろん秘密です。
 よしおれもと言う方はマイタケ捜しに挑戦されては如何です。
町・道より表彰された人々  登栄床地区にも種々な人が様々な表彰や顕彰を受けているが、確認が不可能なことや漏れた人が出た場合に失礼に当たることから、記録に残っている町の功労者のみ掲載することとした。ご容赦下さい。

 昭和12年11月3日 (開村40周年記念式典)
  産業功労 故山田和一郎
  教育功労  川上 益夫
 
 昭和22年9月14日(開村50周年記念式典)
 自治振興  岡島水主蔵
 産業発展  工藤 常治  播摩栄之助  村上 留蔵

 昭和32年9月15日(開村60周年記念式典)
 自治功労  高須  実

 昭和42年9月15日 (開基85年・開町70年記念式典)
 篤行者   登栄床船舶乗員相互組合(代表者 工藤 清二)

 昭和57年9月12日 (開基100年記念式典)
 自治功労  故佐藤 富治 高須  実
 永住開拓功労 (75才以上で在住60年以上)
     工藤 チョ  高須  実  前田  芳  岡島とくよ  平形しげえ

 平成4年11月3日 (開基11O年記念)
 永年開拓功労 (75才以上で在住60年以上)
     兼田 スエ  エ藤 ステ  蹴揚とくの 蹴揚 義美 斉藤 シマ
     桜庭 虎吉  播摩 信司  本間 よき 山口 タキ 山下 ミエ
     山根 市朗  米原 トシ  山根 三成

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