第4編 行  政 戦 前 (5)

百年史topへ   第4編行政   昭和の小漁師topへ


    第1章第2章  第3章下湧別時代  第4章苦難の戦争体験  第5章戦前の下湧別村  第7章開基百年の盛典

第6章湧別町時代
(!)町政施行 
(2)行政の改新
(3)不発に終わった町村合併
(4)戸口の流動
(5)健全財政のあゆみ
(6)新時代の町づくり
(7)功労者の顕彰
(8)年輪を記念して
(9)役場庁舎建設

第6章 湧別町時代

(1)町政施行
町政実現の経過  昭和20年代には人口が概に1万人台になり、町政をうかがわせるものがあったが、戦時中そして戦後混乱の中では、町政施行を見送らざるを得なかった。 戦後復興が着実に進行しはじめて、民生が安定の方向に向かったとき、長い間村民の胸中に秘められていた町政実現の願いは、昭和23年3月17日に公示された北海道規則 「町としての要件に関する条例」に刮目するにいたった。 条例の骨子は、

   町となるべき村は下に掲げる要件を備えていなければならない。
 1,人口5,000以上を有すること。
 2,村の中心の市街地を形成している区域内にある戸数が700以上であること。
 3,村の中心の市街地を形成している区域内における商工業その他の都市的業態に従事する者および
   その者と同一世帯に属するものの数がその区域内の全人口の6割以上であること。
 4,運輸交通機関が整備し官公署、金融機関および会社工場等の設備が北海道内の他の町に比し遜色がないこと。
 5,病院および診療所等の衛生施設並びに公民館、劇場、映画館等の文化施設を有すること。
 6,住民の租税力および村の財政状況が北海道内の他の町に比して概ね遜色がないこと。
 7,商工業その他都市的業態に従事する者およびその者と同一世帯に属するものの数が最近5年間において
   増加の傾向にあり且つ将来町として発展すべき要件を有すること。


というものであった。
 こんどこそはと村民が刮目した条例に照らして、昭和27年度末の村勢をみると、次のように充分に要件を満たすものであった。

   全村戸数  2,276戸13,871人
   中心市街  710戸4,008人
   商工業態  612戸3,396人
   運輸機関  国有鉄道、北見バス、町営バス
   金融機関  遠軽信用金庫出張所
   諸官公署  農業改良相談所、巡査部長派出所
   会社工場  木材工場、醸造工場、缶詰工場、水産加工場、繊維工場ほか
   文化施設  湧楽座、芭露劇場、平和座、公民館
   衛生施設  隔離病舎、診療所および開業医5
   財政状況  1戸当課税額4,832円(網走支庁管内町村中最少額)
このため、昭和28年6月13日の村議会において、

  議案第一号  本村を町とすることについて上申するものとす
が上堤議決されて所定の手続きがなされ、村長および村議会議長を陣頭にした支庁、道庁、道議会筋への陳情請願がなされた結果、8月には支庁、道庁、道議会総務委員会の現地視察調査が段階的に行われ、昭和28年10月1日をもって町制が施行されることになった。

   北海道告示第千四百七十一号
     地方自治法第八条第三項の規定により、昭和二十八年十月一日から次の村を町とする。
       昭和二十八年九月十八日
                                               北海道知事  田中 敏文
     紋別郡湧別町


 
町名変更  明治43年の上湧別村の分村時に、当時の力学的客観情勢から湧別村を 「下湧別村」と村名変更して経過していたが、中心街の呼称については上湧別村の上湧別、中湧別にかかわることなく 「湧別市街」で一貫し、学校名も 「湧別小学校」 「湧別中学校」で、

  村民の日常の使い分けも「上湧の親類」 「中湧の市街」とはいっても、「下湧の」とはいわず、 「湧別の」で通してきた。

という経過があったところから、町制施行を機に、かっての 「湧別村」を復活して 「湧別町」に改めてはという声が起こり、昭和28年6月13日の村議会における町制施行上申の決議に併せて改称が議決され、同年10月1日の町制施行とともに 「湧別町」として新しい時代に向けて発足した。

町章制定  昭和12年10月8日に制定された村紋章は、二重周円が下湧別の 「下」と 「ユ」で形象されていて、町名変更後の湧別町にそぐわない面があったので、町制施行に併せて新しい町章のデザインを検討した結果、

 村紋章の面影(伝統)を生かして継承することとし、新に湧別を象徴する 「湧」の字を中央の星の中に配する。

ことでまとまり、次のように意義づけされて、町制施行と同時に昭和28年10月1日に正式制定のはこびとなった。

 中央の星形は北海道の 「北」を表し、その中に 「湧」の白抜き、周りに 「別」を二重円形に型どって町名を示し、 「円満と団結で豊かな郷土」を象徴した。

湧別小唄制定  町制施行に花を添え、末永く町民に歌い継がれるようにと、町制施行を記念して 「湧別小唄」が昭和28年10月1日に制定された。

  作詞  飯田広太郎
  作曲  大野恒一

による小唄は、本町の四季を歌った四節で構成されており、西崎緑による小唄踊りの振り付けもなされて、町民の新しい息吹を盛り上げるものとなった。 歌詞は教育編(社会教育)を参照のこと。

町制祝賀  開村以来57年目にして迎えた湧別町の誕生は、行政のすべてを 「下湧別村」から 「湧別町」に改めて施行し、村民も晴れて 「町民」の誇りを実感として味わったのであった。
 町制発足の10月1日に催された町制施行祝賀式並びに祝賀会には、村外来賓も多数参会して本町の前途をたたえ、会場となった油別小学校の屋内運動場は、過去をしのび、将来の発展を語らう町民の熱気で、歓喜の渦を呈していた。 さらに新町章の制定発表、記念制定の湧別小唄の発表と小唄踊りの披露もあって、銘記すべき町制の幕開け第1日となったのであった。

 祝賀の関係行事は10月1〜3日の3日間にわたって盛大に実施され、墨痕と色彩鮮やかな慶祝アーチが街角を飾り、花火打ち上げ、旗行列、仮装パレード、映画会、演奏会、スポーツ行事などが多数町民の参加で展開された。 なお、町制施行を記念して式典の席上で表彰された功労者は、次のとおりである。

 自治功労者  大野新造、国枝善吾、友沢喜作、島崎卯一、梶井佐太郎、多田直光、新海忠五郎
           小川清一郎、大口丑定、大沢重太郎
 社会福祉功労者  和田収
 統計事務功労者  伊藤忠太郎、佐藤源治、小山康雄、桑原喜平、桑田多一郎、白崎政名
 消防功労者  小沢虎一、森田実、伊藤清太郎、高橋吾助、渡辺栄治

 
(2)行政の改新
町三役と町議会  町制施行に伴い、町行政の三役は村政時代の村長、助役、収入役が、それぞれ残存任期を町三役として努めることとなり、町議会も同様に村議会議員が残存任期を町議会議員として努めることになった。 以後選挙または選任により行政に携わった歴代三役および歴代議員は次のとおりである。

  大口丑定  昭28・10・1〜30・4・30
  村上庄一  昭30・5・1〜38・4・1
  清水清一  昭38・5・1〜現在

 昭和30年の町長選挙には、町政革新をめざす森垣元村長に対し、やはり元村長の村上庄一が議員多数の推薦を受けて立候補し、されに現職助役の上原安雄も出馬して、激しい三巴戦となったが、村上2,855票,森垣1,890票、上原1,374票で村上庄一が当選した。 以後、村上庄一(昭34)、清水清一(昭38,42,46,54)の独走がみられたが、昭和50年のみ三巴戦があり、清水清一が2,072票、村上庄一が1,860票、相沢隆治630票の結果となった。

   【助役】
 上原安雄  昭28・10・1〜30・4・4
 谷口 勇   昭30・9・25〜38・9・24  38・11・7〜46・11・7
 畠山幸雄  昭46・11・8〜53・6・23
 小野 武   昭53・6・24〜現在
   【収入役】
 吉田綱貞  昭28・10・1〜29・3・3
 田川信男  昭29・6・24〜44・6・24
 半田 要   昭44・6・24〜53・6・23
 畠山幸雄  昭53・6・24〜現在
   【町議会議員】
 □第一八回  昭30・4・30  26名
 鍵谷薫(議長)、谷口勇(副議長、昭30・8・30辞任)、清水清一(副議長=昭30・10から)、越智修、小林定次郎、茶山秀吉、佐藤富治、西村幸太郎、嘉多山吉郎、如沢元治、中原円次郎、本間資義、矢崎次郎、白崎政名、古谷泰寿、石川武男、如沢次郎、藤根正重、高橋貫一、高須実、多田直光、南川保一、坂口要、大沢義時、内山繁太郎(昭30・6・6死去)、伊藤誠司
 □第十九回  昭34・4・30  26名
 鍵谷薫(議長)、清水清一(副議長)、矢崎次郎(昭37・5・18辞任)、小林定次郎、大館三郎、中沢初子、如沢次郎、高須実、高橋貫一(昭36・12・23死去)、佐藤富治、西栄一、藤根正重、古谷泰寿、中原円次郎、多田直光、伊藤誠司、嘉多山吉郎、峰田繁蔵、菅原貞三、越智修、大口秀和(昭37・4・30辞任)、坂口要、本間資義、阿部文男、西村幸太郎、南川保一
 □第二十回  昭38・4・30  26名
 鍵谷薫(議長)、佐藤富治(副議長)、嘉多山吉郎(昭41・7・26死去)、高須実、市川太平、沢田豊松、桑田多一郎、石田達雄、坂口要、森垣幸一、大沢博、菅原貞三、峰田繁蔵、長沢政市、如沢次郎、南川保一(昭40・3・30死去)、大館三郎、高橋正三、伊藤誠司、桑原喜平、多田直光、西村幸太郎、野津不二三、中沢初子、小沢虎一、小林定次郎
 □第二一回  昭42・4・30  22名
 鍵谷薫(議長)、佐藤富治(副議長)、坂口要、高須実、伊藤誠司、如沢次郎、石渡要助、大館三郎、菅原貞三、沢田豊松、阿部文男、羽田宏、高橋正三、西村幸太郎、村井玉吉、桑田多一郎、高須美夫、島田琢郎、森田実、越智修、南川保、森垣幸一
 □第二二回  昭46・4・30  20名
 佐藤富治(議長)、高橋正三(副議長)、沢田豊松、黒田実、石渡要助、滝田正司、窪内康人、佐藤良夫、越智修、荒井和夫、鍵谷薫、遠峰進一、島田琢郎、市川太平、高須実,如沢次郎、本間資義、阿部文男、南川保、伊藤誠司
 □第二三回  正50・4・30  20名
 佐藤富治(議長)、伊藤誠司(副議長)、西功一(死去)=荒井和夫(繰り上げ)、市川太平、遠峰進一、阿部文男、福島春男、滝田正司、鎌田雅彦、石渡要助、高須実、佐藤良夫、黒田実、野津一夫、蛯沢義雄、長谷川隆、矢崎次郎、南川保、小野巌、小林国雄
 □第二三回  昭54・4・30  20名
 遠峰進一(議長)、阿部文男(副議長)、如沢次郎、嶋田喜一郎、斉藤勇、荒井和夫、市川太平、南川保、長谷川隆、矢崎次郎、蛯沢義雄、佐藤良夫、野津一夫、伊藤誠司、朝倉直利(昭56・6・22辞任)、鎌田雅彦、福原穀一、小林国雄、坂口要(昭55・3・29辞任)

 
監査委員  昭和33年11月10日条例化されて監査委員を置くことになり、議会の同意を得て町長が任命する2名の委員が、定期監査、例月出納検査、決算監査などに携わっている。 委員2名の内訳は、
  ・学識経験者  1名   ・町議会議員  1名
で、任期は当初3年であったが、現在は4年になっており、歴代委員の任命は次のとおりである。

 古谷泰寿(昭34・1〜34・5)、友沢喜作(昭34・1〜43・3)、多田直光(昭34・5〜38・5)、伊藤誠司(昭38・5〜47・9)、石田達雄(昭43・3〜49・3)、遠峰進一(昭47・9〜53・3)、田川信男(昭49・3〜現在)、黒田実(昭53・4〜54・5)、鎌田雅彦(昭54・5〜現在)

・ 
議会事務局  議会関係事務は、従来役場事務機構の一係として、たぶんに兼務的な存在におかれていたが、議会活動の多様化から議会事務も増加の一途をたどり、それに対応するため昭和33年6月25日条例化されて、町議会事務局の設置をみた。
 議会事務局は議長の直属機関として、役場機構から明確に分離独立した形のもので、事務局長以下の職員が配置され、議長の指示に基づく業務を行っている。

教育委員の任命制  公選による教育委員が選出されて、曲がりなりにも発足した教育委員会であったが、足取りは多難が予想された。 公選前の昭和26年11月に早くも政令詰問委員会は、
 (1) 普通教育偏重の是正と職業教育の強化
 (2) 教育委員の任命制
を内容とする 「教育制度の改革に関する答申」を発表しているが、これは戦後の教育改革によって生まれた制度が急激であったことと、民主主義的訓練と経験に乏しい国情に容易になじまない点を考慮したもので、翌27年に講和条約が発効して、日本が自主独立を得てから、 「行き過ぎ是正」という方向で、教育行政の手直しが進み、同31年6月 「地方教育行政の組織および運営に対する法律」の制定によって、

 地方公共団体における教育行政と一般行政の調和を図り、教育行政における国、都道府県、市町村間の有為的つながりを樹立すること。

が明示され、教育委員の選任は公選制を廃止し、首長が議会の同意を得て任命する任命制となった。 委員は任期4年で、うち1名を教育長に互選して教育行政事務を掌理させる仕組みになっている。 任命制になってからの歴代委員は次のとおりである。

  砂田榮太郎 昭31・8〜40・2           黒田  実  昭38・9〜44・7
  坂上 竪正  昭31・8〜33・8           羽田  宏  昭39・8〜42・3
  中沢猶何時 昭31・8〜39・8           中川 敏雄  昭39・8〜42・8
  長谷川 隆  昭31・8〜37・8           高野 宏一  昭40・2〜46・3
  谷口   勇  昭31・8〜31・11 (教育長)   細川 隆人  昭43・8〜47・8
  藤原 末吉  昭31・11〜34・11(教育長)   小湊  薫  昭42・5〜51・8
  渡辺佐久真 昭34・11〜43・6 (教育長)   半田  要  昭43・6〜45・6 (教育長)
  渡辺 精三  昭38・5〜38・9           増山  清  昭45・6〜52・11(教育長)
  梶井 政雄  昭44・7〜現在            西村 幸一  昭50・2〜現在
  高瀬 隆資  昭46・5〜48・5           山川 保男  昭51・8〜56・5 
  押野 健一  昭47・8〜現在            島崎 正也  昭56・5〜現在
  遠峰 徹弥  昭48・6〜49・12          蔦保 太毅  昭52・11〜現在 (教育長)

  【教育委員長】   ( )は就任年月
 坂上竪正(昭31・8,37・8)、砂田栄太郎(昭33・8,39・8)、中沢猶何時(昭35・8)、長谷川隆(昭36・8)、黒田実(昭40・2)、羽田宏(昭41・4)、高野宏一(昭42・3)、小湊薫(昭46・4)、高瀬隆資(昭46・8)、梶井政雄(昭48・5)、押野健一(昭50・12)

行政区設置 戦後の混乱期を村政のパイプ役として活躍した駐在員の任務も、民生の立ち直りとともに、かっての区長制時代を思わせるまでになったことから、昭和33年8月30日に 「区設置条例」が設定されて、行政区と区長制が定められ、駐在員制度は廃止された。 区は、

 港町、曙町、緑町、栄町、平和町、錦町、川西、信部内、緑陰第一、同第二、東、福島,登栄床、芭露第一、同第二、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地
の20区に編成され、区長は任期1年で、その任務は条例第六条により、

 区長は区域内の諸般の事項について町または町の機関との連絡調整にあたるとともに他区域と密接に連絡協調して町の健全な発展に寄与するものとする。
とされ、単なる補助機関にとどまらず、広範多岐な職責を負うものとなった。 このため報酬も年とともに適正に増額する仕組みとなっている。 歴代区長は次のとおりである。

港町 児玉寅蔵、大館三郎、斉藤浅太郎、大渕信義、中村重雄、竹村辰定
曙町 中内武男、横尾健寿、遠峰進一、若尾明勝、福原殻一、桧山竹一郎
緑町 小川市十、内山武男、佐藤武志、遠峰徹弥
栄町 豊原正一、角田輝雄
平和町 砂田栄太郎、鈴木武(昭41区解消)
錦町 簗部勇吉、忽滑谷武、若杉明、加藤秀夫、安藤昇一
川西 小川清一郎、清原松太郎、岩佐常雄、小川清巳
信部内 井谷一男、白崎政名、加藤勝哉
緑陰(1) 近江武、岩佐惣吾、楠瀬信義、岩佐幸夫(昭44区解消)
緑陰(2) 佐々木清記、大津光蔵,西塔運次郎、伊藤仙三、金内吉彦、鎌上吉雄
登栄床 岡島水主蔵、田辺武、村上家治、高橋藤次郎
菅原貞三、小野一二、押野栄治、伊藤金一、小関文嘉、野口恒吉、井戸定利
福島 高柳喜重、原田幸次郎、横関薫、佐藤伝、長谷川浅三、若松繁幸、大場奏、佐藤公信、若松繁幸(再)
芭露(1) 上田清、石田福弥、岡本武蔵、小林国雄、山川保男、木戸政雄
芭露(2) 可知源次郎、花岡慶蔵、樋口久郎、石田義雄
上芭露 長谷川兼松、高木喜助、日下通平、藤根正重、上田健次
東芭露 青木文吾、山岸宏一、大沢一雄、井上憲夫、長屋正孝
西芭露 小田春治、石山宣次、小田春治(再)、村井玉吉、峯田繁蔵、長屋政二
志撫子 寺山甚作、佐藤勝治、栗木徳光、井田弘、深沢則久、多田直孝
計呂地 阿部秀吉、小熊仙次郎、阿部三義、岩田政一、林勝弥、中谷定雄、渡辺豊春

その後亜麻工場の閉鎖により昭和41年平和町、人口激減により昭和44年緑陰第一が区を解消し、昭和56年現在18区となっている。

役場機構の改革  町民の付託にこたえ行政効率を高めるため、役場出張所の開設、消防職員の配置、自治法の既定による執行機関(各種委員会など)の設置、技術職員の増員、工作機械の導入などで、行政組織の改善が進み、それに伴って職員定数の増加が。づいてきた 次に町制施行年度とほぼ10年ごとの役場機構の推移をみよう。
 □昭和28年度(町制施工時)
                :・・総務課=企画係、庶務係(出張所含む)、土木係、建築係、統計係
                :・・産業課=農林係、商工水産係、開拓係、農村建設係、農地係
  町長・・:・・・助役・・・・:・・民生課=社会係、消防係、国保衛生係、戸籍係
       ・・・・収入役  :・・財政課=財務係、営林係、税務係
 事務局=教育委員会、選挙管理委員会、農業委員会、公平委員会、固定資産評価審査委員会
 
 □昭和38年度
                :・・総務課=企画係、庶務係(出張所含む)、統計係、消防係
                :・・財政課=税務係、財務係、管財係
  町長・・:・・・助役・・・・:・・産業課=農林係、商工水産係、開発係
       ・・・ 収入役  :・・住民課=住民係、管理係、社会係、国保衛生係
                :・・建築課=土木係、建築係
 事務局=教育委員会、選挙管理委員会、農業委員会、公平委員会、固定資産評価審査委員会、監査委員会、議会事務局
 
 この段階で注目されるのは、建築課が新設されていることで、土木工作機械の導入、生活環境整備(道路など)など技術部門の充実を図ったものであって、昭和31年に 「土木課」として新設されたものが、同37年から 「建築課」と改められたものである。

 □昭和48年度
                :・・総務課=庶務係(出張所)、財政係、防災交通係
                :・・企画課=企画係、統計係
  町長・・:・・・助役・・・・:・・税財課=税務係、経理係、管財係、町有林係
       :         :・・住民課=住民係、福祉係、年金係、国保衛生係
       :・・・収入役  :・・産業課=農林係、畜産係、水産係、耕地整備係、商工観光係
                :・・建設課=土木係、建築係
 事務局=教育委員会、農業委員会、選挙管理委員会、監査委員会、固定資産評価委員会、議会事務局
  ※ほかに消防支署がある(役場機構外)

 この段階で注目されるのは、企画課が新設されていることで、超総合開発計画や指定事業など(後説参照)に関する策定業務の増加と、それの順序立てた処理執行の必要から、昭和47年に新設されたものである。 また、町長部局外の事務局から公平委員会が消えているのは、昭和41年12月12日から網走支庁管内町村会に事務局を設置して、 「網走支庁管内公平委員会」で広域的借置をするようになったからである。 なお、消防支署が設けられたのは、昭和46年の広域消防組織による 「遠軽地区消防組合」の発足に伴うものである。

 □昭和55年度
 昭和48年度にみられる機構は、その後も定着して推移しているが、職員増加のほどをみると、次のとおりで、要因はスクールバス事業開始や保育所の公営などにある。
区  分 町長部局 その他
年  度
昭  38 49  10  59 
昭  55 90  32  122 

 
広域行政の推進  過疎化ばかりではなく、住民の生活基盤の広域化、施設や事業の近代化科学化に伴い、1町1村をもってしては行財政的に対応が難しい状況が現出したことから、近接関係市町村による総合的な協調体制が必要となり、一部事務組合方式や、国または道の指定、あるいは相互間の協議会形式などで処理執行するようになった。 おもな広域行政施策の経緯は次のとおりであるが、詳細については関係各編を参照されたい。
事    業    名 団    体    名 発足年度 摘    要
湧別高等学校 湧別高等学校組合 昭28 昭30・道立移管
し尿処理 遠軽地区町村し尿組合 昭40 事務局・遠軽
公平委員会 網走支庁管内町村公平委員会 昭41 事務局・美幌
交通災害共済 網走支庁管内交通災害共済組合 昭43 事務局・美幌
学校給食 両湧別町学校給食組合 昭43 センター・中湧別
隔離病舎 遠軽地区伝染病隔離病舎組合 昭45 病舎・遠軽
遠紋地区広域市町村圏 遠紋地区広域市町村圏協議会 昭45 事務局・遠軽
消防 遠軽地区消防組合 昭46 本部・遠軽
網走地方教育研修センター 網走地方教育研修センター組合 昭46 本部・網走
視聴覚ライブラリー 上湧別町に委託 昭52 事務局・上湧別

選挙の動向  住民自治と民主行政のバロメーターといわれる選挙権の行使については、本町の場合極めて高い投票率を示しているが、それは町長および町議会議員という身近な選挙はもちろん、道議会議員や衆議院議員の選挙にも、地元から立候補者があったということが大きくあずかっているからである。

 (1) 昭和42年の道議会議員選挙に元町長の村上庄一が立候補し、全町的な町民の支援を軸に善戦して当選を果たした。
 (2) 昭和47年の衆議院議員選挙のとき、町議会議員であった島田琢郎(社会党)が立候補して金的を射止め、以後も連続当選して現在におよんでいる。

などの経過が、それである。 次に近年の本町における各級選挙の投票率をみると、
□町長および町議会議員選挙
  昭50・4・27=98・2%  昭54・4・22=97・7%
□知事および道議会議員選挙
  昭50・4・13=94・5%  昭54・4・8=93・7%
□衆議院議員選挙
  昭51・12・5=91・4%  昭54・10・7=91・4%
□参議院議員選挙
  昭49・7・7=84・5%   昭52・7・10=86・5%

 のように、平均して高投票率である中にも、98%前後(町長、町議)、94%前後(知事、道議)、91%前後(衆議)、85%前後(参議)と高低差があり、身近な選挙への関心の高いことを示している。

町史発刊  経済成長期に入って、各地で住民の創意による史誌が刊行されるようになり、本町でも、史誌編纂の気運が高まった。 そうした情勢を背景にして、昭和34年6月の町議会で町史編纂の儀が可決され、16名の編纂委員会が構成されて、編纂に着手した。

 終戦時の書類処分などで古文書書類の乏しい中で、藤原末吉、島田梅十ら執筆者の苦心と努力が実って、昭和40年6月にA5版735頁の大作が発刊され、本町初の町史(刊行物)として後世に伝えられることになった。

湧別音頭制定  歴史の古い本町には、歴史を物語り、歴史の影を映す自然物や、往時の生産や生活を伝える物具など、有形文化財的なものは数多いが、歴史の流れとともにはぐくまれた無形文化財(郷土芸能など)に恵まれていないところから、過去をしのび、未来に伝承する郷土芸能をということになり、 「湧別町郷土芸能調査研究会」が設けられ、その成果として昭和48年に 「湧別音頭」が制定された。
 作詞は調査研究会の合作でなされ、それを八洲秀章が補作し作曲して、できあがったもので、歌詞は教育編(社会教育)を参照のこと、これの発表は昭和48年8月13日に三里浜で催されたNHK「ふるさとの歌まつり」の場で行われたが、会場には町内外から約4〜5,000人もの人出があり、本町としては空前のにぎわいをみせる中で音頭が披露された。

(3)不発に終わった
   町村合併
両湧別合併問題  昭和28年に法律第258号 「町村合併促進法」が交付された。 同法は同31年9月までの時限立法(のち特例借置により33年9月まで延長)で、立法の目的には、
 行政区域の再編成により自治体の強化を図り、地域住民の生活環境の改善と福祉の向上を促進する。
と謳われ、人口8,000人未満の町村を解消しようとするものであった。 そして、摘要については次のような特典が付帯していた。
 (1) 施設整備事業に対し起債、補助の優先的な承認をする。
 (2) 国有財産の貸付、交換、売払いおよび譲与を行う。
 (3) 政府事業としての道路建設、河川改修および漁港修築などを行う。
 (4) 国有林野の5ヵ年限り売り払い(5年据置、20年年賦払い)を行う。
 (5) 道も国の方針に則り適当な借置を行う。

 これを受けて昭和29年7月1日に合併を果たしたのが紋別市(紋別町、渚滑村、上渚滑村)で、翌30年度予算において合併補助金、特別交付税、事業費補助、規制認可など1億3,740万円余という特典を受け、さらに国有林の売り払いも決定して、本町にとって身近な町村合併促進法の適用例となったのである。 こうした経緯が、両湧別合併論議の呼び水の一端となったことは確かである。
 以上の背景から本町と上湧別町の合併論議が町民の関心を緊張気味に高めたのは、昭和30年前後のことであったが、一部には、かなり以前から潜在的にささやかれていたことであったともいわれ、
   ・地理的必然性から来る自然発生的世論
   ・大口丑定らいく人かの先覚者の提唱
が表面化したものだとする向きもあった。 その論拠とするところは、
 
 開拓以来、両村が共通した地理的環境におかれていることは不変である。 しかし、かって旧兵村という勢力の作用で分割された行政区画の線引きは、地勢や交通を無視した不自然なもので、当然の帰結として湧別平原の機能が分断された形に陥り、そのため湧別平原とオホーツク漁海の総合開発が停滞して、住民が不利不便な境遇に放置されざるを得なかった。

にあり、具体的現実については、
(1) 上湧別村が下湧別村の腹中深く突っ込み、下湧別村が上湧別村を抱く形になっていて、特に芭露地区は上湧別村の南限を超えて南に延びているため、下湧別村人口の半数を占める芭露地区住民は、行政と関係のない経済行為や文化吸収の面で上湧別村の中湧別市街を拠としており、自村の中心地(役場所在地)との交通も中湧別市街経由を余儀なくされている。

(2) 国鉄二線の開通以来、分岐点となった中湧別が交通、経済、文化の面で湧別平原の要衛となり、農漁村のセンター的機構と容態を備えるにいたった。

(3) 土地改良区は地勢が一つであるから、当初から単一体であり、放牧場や種付所も共同経営、さらに高等学校も、ごく自然に組合立となった。 ほかにも森林組合や農業共済組合の合併説など、両村合併の底流は動いている。

と把握しており、中心を中湧別市街とする大同合併を志向するものであった。 しかも、この合併構想は、
  芭露地区  場合によっては芭露地区だけでも上湧別村と合併したら・・・・
  湧別地区  開村以来の行政の中心地(本家)に不便と凋落を招く・・・・
  上湧別地区  屯田兵ゆかりの地として上湧別町をリードしてきたのにさびれては・・・・
  中湧別地区  大湧別の中心地として都市形態的な発展が約束される・・・・
  西芭露と開盛 地勢と交通の関係からむしろ遠軽町に編入すべき可能性もある・・・・
など思わくが交錯して、利害得失のうえからいたずらに時日を経過するのみで、何らの決着もないまま立ち消えとなった。

遠軽市構想の波紋  町村合併促進法が施行されたとき、合併による人口3万人の市制施行(3万人市制)が紋別市をはじめ道内各地に実現したが、このとき遠軽町においても丸瀬布町、白滝村に合併運動を展開して、市制施行をめざしたが達成されなかったというのが、遠軽市構想の第一波であった。
 その後、 「新市町村建設促進法」が町村合併促進法に代わって公布され、3万人市制が昭和41年3月まで延長されたことから、同40年11月にいたって遠軽町では再び合併による市制実現の儀がおこり、翌41年3月に、
  (1) 関係町村議会への説得
  (2) 合併条件の全面的受入れ
を骨子とする遠軽地区7ヶ町村(遠軽、生田原、丸瀬布、白滝、上湧別、湧別、佐呂間)合併運動を展開することになったが、申請期限の問題、昭和29年の時点で道の勧告対象にあがらなかったことなど、3万人市制実現の不可能なことが判明して挫折した。 これが遠軽市構想の第二波であった。
 ところが、昭和41年3月の法改正によって4万人市制が打ち出され、申請期限が同42年3月までとなったことから、三たび合併による市制実現の動きをみるにいたったのであるが、この第三波の遠軽市構想の的(合併対象)は、第二波の7ヶ町村とはうって変わって、本町と上湧別の二町にしぼられ、遠軽町議会議員および同町理事者の集中的な説得運動が展開された。 打診と説得を受けた本町では、先方の動きが町議会の儀を経た公式なものなので、慎重に対応し、二度にわたる町議会での審議を尽すなど、町民一般も重大な関心を示したが、結局は、
  (1) 市制施行に伴う行政上のメリットが本町方面にも具現するという顕著な見通しが希薄であること。
  (2) 本町においては各種産業構造改善事業(指定事業)が緒につき、されに今後も継続的な見通しがあって、新時代の町づくり計画が進行しており、先方の思わくとかみ合わない点が多々あること。
  (3) 本町では過疎現象が進行しているが、合併市制となれば遠軽方面への人的、経済的流出に拍車がかかる恐れなどから見送られた。

(4)戸口の流動
核家族化現象  戦後復興とともに人口問題がささやかれたのには、終戦まで樺太、千島、朝鮮、台湾、南洋群島を含めた旧日本領土に1億人が住んでいたものが、戦後は、それらの領土を失って、北海道、本州、四国、九州とそれに属する島々に、約1億人が住まなければならなくなったことによる過密淘汰の意味もあったが、なによりも、戦時中には兵員増強と生産補強の長期的展望にたって、 「生めよ殖やせよ」の国策が励奨され、1夫婦が10人以上出産すると、国家的栄誉として褒賞されるということもあって、物資不足の中で充分な母子への保健借置もないままに出産した例も多い。

 ということへの反省が、大きく作用していた。 厚生省が 「家族計画」 「育児制限」を唱え、産婦人科医や保健婦がそれを指導し 「少なく生んで、りっぱに育てる」ことが、次第に社会通年化していき、いっぽうでは避妊方法や避妊具が続々と開発され、さらには生活保護ないしは母体保護の面から、法的に堕胎許容の道も開かれて、堕胎による性道徳の頽廃という好ましくない一面も派生したものの、核家族化現象は着実に進行した。 国勢調査にもとづいて、1戸当たりの人口の推移をみよう。
区  分 世  帯  数 人    口 1戸当たり人口
年  次
昭  25 2.433 14.747 6・1
昭  30 2.379 13.719 5・7
昭  35 2.425 12.192 5・0
昭  40 1.214 9.720 4・4
昭  45 1.958 7.627 3・8
昭  50 1.865 6.693 3・5
昭  55 1.879 6.193 3・3

 また、人工の自然動態の面からの統計にも、その傾向は明確にあらわれており、衛生と医学の進歩により死亡者数も減少したが、出生数は、それを遙かにしのぐ減少傾向を示している。
年  次 昭  30 昭  40 昭  45 昭  50
区  分
出  生 304 147 115 108
死  亡 85 86 60 41
自然増 219 61 55 67

過疎化現象
区 分 戸        数 人      口
年 次 戸  数 前項比減 人  口 前項比減
昭 35 2.426 12.192
昭 40 2.214 (−)    211 9.720 (−)  2.472
昭 45 1.958 (−)    256 7.627 (−)  2.093
昭 50 1.865 (−)     93 6.693 (−)    934
昭 55 1.879 (−)     14 6.193 (−)    500

 昭和30年代にはじまった国の高度経済成長政策で、産業構造にひずみを生じて産業間格差が表面化し、農山漁村の第1次産業が低位におかれたこと、昭和36年の農業基本法制定による農業構造の変革で、さらに農業地帯内に格差減少があらわれたことなどから、若年労働力を中心とした人口の都市(他産業)流出や、離農による転出現象が進行し、前表のような経過をたどった。
 表にみられるように、昭和35〜45年の10年間の減少が著しく、それ以降は戸数のうえでは横ばい状況となっていて、核家族化と若年層の流出が人口減に影響しているものと思われる。 なお、参考までに人口の社会動態の激しい時期は、次のようであった。
年  次 昭39 昭40 昭41 昭42 昭43 昭44 昭45
区  分
 転  入 528 437 459 457 487 457 457
 転  出 1.042 892 964 758 804 884 1.007
 社会減 514 455 505 301 317 427 550

高齢化現象  老人福祉の増進、保健および医療の科学的進歩で、昭和40年代から平均寿命が高齢化を示すようになり、人口の年齢層別構成にも、その傾向があらわれている。
  区     分    昭     40    昭     45    昭     50
  年  齢  別  人   口   構成比(%)   人   口   構成比(%)   人   口   構成比(%) 
幼児年齢(0〜14歳) 3.131 32・2 2.016 26・4 1.641 24・5
生産年齢(15〜64歳) 5.923 61・1 4.976 65・3 4.388 65・6
老   齢(65歳以上) 666 6・7 635 8・3 664 9・9
      計 9.720 100・0 7.627 100・0 6.693 100・0

なお、幼童人口の減率傾向は、先述の家族計画による核家族化減少の進行とみてよい。

集落の変化  過疎現象を中心とした地区別戸数の変化を、過疎進行前と現在で比較してみると、周辺農村地区の減少が目立ち、湧別市街(錦を含む)地区の増加が認められる。 これは、総体的な過疎化の中で、町内的にも過疎過密減少があったことを物語っている。 また、注目すべきケースは登栄床地区の増加現象で、これは漁業振興施策の成果といえよう。
年 次 昭34 昭55
区 別   世帯数   同上構成比(%)   人 口     世帯数   同上構成比(%)   人 口  
湧別市街 595 2.906 690 1.964
  錦 131 36・1 650 222 56・0 726
登栄床 113 656 141 528
川  西 93 619 58 252
信部内 60 378 35 172
緑  陰 24 172 21
  東 139 860 105 462
福  島 51 337 20 74
芭  露 376 63・9 2.024 276 44・0 908
上芭露 176 1.007 109 324
東芭露 130 815 22 79
西芭露 65 459 33 131
志撫子 124 747 41 162
計呂地 251 1.511 120 390
  計 2.328 100・0 13.139 1.879 100・0 6.193

(5)
健全財政のあゆみ
財政規模の増大  町制施行のころには戦後復興により世情も安定し、新学制による学校整備事業の財政的苦難からも脱出の兆しをみせ、ようやく安定のきっかけをつかむかにみえたのであるが、昭和30年代に入って、政府の高度経済成長政策が打ち出された結果、その影響で好むと好まざるとにかかわらず算定基礎係数の増高を強いられ、加えて生活環境の改善を望む住民要求の増大、やがて表面化した過疎化現象への対応など、増大する施策と経済指数の増高で、財政規模は逐年膨張の一途をたどった。
一般会計の決算から(特別会計は関係編参照のこと)推移をみよう。
 区  分   歳   入 (円)    歳  出 (円) 
 年  度
 昭 28 98.996.164 86.840.159
 昭 33 105.986.609 101.009.535
 昭 38 204.831.000 195.906.000
 昭 43 349.914.000 333.455.000
 昭 47 881.332.000 832.005.000
 こうして、膨張を続けてきた財政規模は、昭和48年度後半に突発した石油危機(オイルショック)で大混乱を余儀なくされた。大企業の買漁りや品隠しで、消費物価の異常な高騰を招来し、それを基調にした悪性悪循環インフレーションに庶民が泣かされたといわれたのは、このときで、本町の行財政もその渦中におかれ、建設資材などの価格高騰、燃料用石油及び石油を原料とした諸物資の価格暴騰、用紙にも及ぶもろもろの急騰などの影響がもろにかぶった二年有半であった。 政府の狂乱物価鎮静、経済抑止政策と、消費者の買い控えなどでようやく危機を脱したものの、結果は「高値安定」という形の収拾であったから、オイル・ショックを境にして、本町の財政規模は飛躍的な数字を示すにいたり、一般会計(決算9は次のような推移を示した。

  収入の部
年      度     別   昭  40   昭  45   昭  50   昭  55
項             目
町             税 39.075 53.804 98.843 270.422
地  方  譲  与  税 17.224 52.275
自動車取得税交付金 6.617 18.915 27.962
地  方  交  付  税 123.675 242.090 680.893 1.151.327
交通安全対策特別交付税 466 640
分 担 金 及 負 担 金 1.654 23.835 28.795
使 用 料 及 手 数 料 5.645 8.656 19.080 29.453
国  庫  支  出  金 11.699 8.424 68.840 328.975
道   支   出   金 39.844 67.455 273.895 327.215
財   産   収   入 6.022 17.539 84.725 138.818
寄     附     金 1.800 1.245 3.294 12.338
繰     入     金 8.562 11.000
繰     越     金 10.278 23.154 44.403 46.586
諸     収     入 20.949 22.763 76.918 144.552
町           債 7.100 37.500 217.600 315.500
歳   入   合   計 274.656 501.901 1.628.931 2.874.858
昭和40年を100とした指数 100 183 593 1.047

  支出の部
年     度     別   昭  40   昭  45   昭  50   昭  55
項           目
議     会     費 8.154 11.604 26.976 47.747
総     務     費 69.659 112.055 373.716 635.855
民     生     費 12.602 47.515 147.355 308.765
衛     生     費 2.844 8.327 37.045 54.036
労     働     費 4.019 88 180 2.014
農 林 水 産 業 費 65.707 86.444 387.039 523.352
商     工     費 2.085 6.103 16.255 13.882
土     木     費 18.608 75.735 159.949 220.699
消     防     費 13.754 10.305 47.295 72.618
教     育     費 51.980 104.663 264.322 596.199
災  害  復  旧  費 590 908 20.157 27.205
公     債     費 10.309 16.724 77.876 277.050
諸   支   出   費 2.145 9.357 13.162 18.402
予     備     費
歳   出   合   計 262.456 489.824 1.571.327 2.807.824
決  算  剰  余  金 12.200 12.077 57.604 57.034
昭和40年を100とした指数 100 187 599 1.070

自主財源の低下  昭和25年の税制改革で地方自治体に恩恵をもたらすことになった「平衡交付金」制度は、どう9年5月に手直しがあって、法改正により「地方交付税』と改められたが、重要な恩恵であることに変わりはなかった。 これに国庫支出金、道支出金を加えた額が、次第に歳入財源の主流を占めるようになったが、特に高度経済成長が進行した昭和36年以降の地方交付税の増額は著しいものとなり、報道用語としてはもちろん、一般にも「3割自治」〜起債も加えて「1割自治」などという字句が用いられるようになった。 こうした依存財源の推移を一般会計予算のうえでみよう。

 区 分   A歳入予算
   (千円)
  B地方交付税
    (千円)
  C国、道支出金
     (千円)
  D(b+c)計
   (千円)
 A/D比率
   (%)
 年 度
 昭34 114.061 34.307 17.032 51.339 45・0
 昭40 211.413 109.000 19.855 128.855 60・0
 昭44 388.207 165.500 75.160 240.660 61・9
 昭49 1.225.517 446.000 313.039 759.039 62・0
 昭55 2.850.353 1.151.206 651.975 1.803.181 63・3

住民の税負担と行政費の状況                  (単位・千円)
 区  分  人   口  税負担状況 行政費支出額
 年度別 町税額 1人当負担額 行政費 1人当支出額
 昭 40 10.020 26.104 262.456 26
 昭 45 7.627 36.512 489.824 64
 昭 50 6.771 73.723 11 1.571.326 232
 昭 55 6.302 228.569 36 2.807.825 445

町税の収入                              (単位・千円)
 年     度     別 昭 40 昭 45 昭 50 昭 55
 税           目
 町     民     税 7.520 12.609 39.425 140.358
 固 定 資 産 税 14.965 23.767 34.036 90.070
 軽 自 動 車 税 911 1.362 1.126 1.060
 た ば こ 消 費 税 5.515 9.497 13.879 20.544
 電 気 ガ ス 税 2.130 2.818 4.093 12.006
 木 材 引 取 税 1.709 3.310 5.624 6.059
 特 別 土 地 保 有 税
 合           計 32.750 53.363 98.183 270.097
昭40年を100としての指数 100 163 300 825
現年度課税分のみである

納税貯蓄組合  町民が納税義務を円滑に果たすことが、町、道、国の各級財政運営を助け、ひいては町民1人1人に行政を通じて還元されることになるので、本町では昭和29年9月14日に納税貯蓄組合に対する『補助金交付規則」をスタートさせ、設立補助金や事務費補助金を交付しているが経過は納税成績向上に大きく寄与している。
昭和55年現在の組合組織状況は、地域組合10,職域組合4,業種組合56の計70組合である。

町有固定資産の推移  行政施設の拡充、福祉施設の増加、教育文化施設の充実などで、敷地の確保及び建造物の新増改築が進み、過去10年間で次のように変遷している。

□土地          (単位・f)  
年  度 昭  44 昭  55
区  分
宅地 9・0 7・4
4・7 2・6
原野 76・8 33・8
牧野 470・2 351・3
山林 2.250・3 2.191・7
役場敷地 2・4 1・7
学校敷地 28・8 21・0
公民館敷地 0・3 17・5
公営住宅敷地 5・1 7・2
病院敷地 0・4 0・6
消防敷地 0・2 0・4
その他 33・7 168・6
2.881・9 2.803・9

□建物          (単位・f)
年  度 昭  44 昭  55
種  別
役場庁舎 1.294 3.450
吏員住宅 1.301 1.361
公営住宅 5.943 10.120
消防番屋 887 931
診療所 850 1.476
学校 20.925 18.100
教員住宅 4.038 3.574
公民館 1.172 15.001
バス車庫・停留所 505
公衆便所 62
その他 2.383 2.874
38.792 57.454

(6)
新時代の町づくり
新農村建設地域指定事業  昭和28年に実施町村の指定を受けたこの補助事業は、既存農家99戸の零細性を解消し、生産基盤の増強を図るため、293戸に開拓用地を増反配分するとともに、農家2,3男の分家入植による新規農家の形成定着を助長することを目的として実施されたもので、事業費2億2,749万7千円を投じて、次のように計画実施された。
区分 暗渠(反) 明渠(m) 農道(m) 重抜根(反) 客土(反) 深井戸 農地保全(町)
区別
川西 360 3.260 5.500 60 120
緑陰 120 5.100 50 60
608 7.200 6.550 30 420 15
芭露 103 2.600 5.200 50
上芭露 20
計呂地 1.200
1.191 13.060 22.350 190 560 27 60

新農山漁村振興地域指定  前項の新農村建設地域指定事業と関連し、その延長線上の借置として昭和31年に、戦後復興がなり、農山漁村にも新しい時代が到来したことから、他地域に比して低位におかれている農山漁村の格差を是正して、地域の振興を図るため、産業基盤や生活環境を整備する。
ことを目的として、指定町村となり、以後の各種指定事業に目的が包合されることなった。

高度集約酪農地域指定事業  昭和30年前後に連断続した冷害凶作の作況指数(平年比)は、昭和28年=80・6%、同29年=60・4%、同31年=51・2%(いずれも網走支庁管内平均)という惨たんたるものであった。 このため畑作農業に再検討を加えなければならない状況に立ち至り、転換策として、寒地農業確立安定のため、酪農経営振興の選択となった。
これより先の昭和25年当時、村では概に畑作経営の諸般の「ひずみ」を予見して、「畜牛導入資金転貸条例」を制定し、5ヵ年計画で畜牛増殖を図っていたものの、過度期に見られるためらいがぬぐい切れず、期待された成果がみられぬまま、昭和25年現在の飼養状況は250戸568頭に止まっていたという経過があったが、連断続3年の冷害凶作は、そうしたためらいに決断を下すものとなった。
 時を同じくして、昭和29年6月に「酪農振興法」が公布され、本町農業の酪農選択に、さらに拍車がかかることとなり、同31年に本町も含めた遠軽地域の「高度集約酪農地域」指定が実現した。 これにより国有及び道有貸付牛の導入を行い、無畜牛農家を対象に町の貸付牛として233頭を放出した結果、その積極策が効を奏して酪農志向の意欲が高まり、昭和37年の飼養状況は547戸2,550頭に達し、同25年の実績に比して、戸数で約2・2倍(農家総数の約60%)、頭数で約4・5倍となった。 爾後の進展については産業編を参照されたい。

工業開発事業  恵まれた農畜産、林産、水産資源などを提供し、付加価値的生産を地元でという願いが工場誘致計画に発展し、「湧別工場設置奨励条約」(昭36)が制定され、「北海道鉱工業開発促進条例」と連動して、昭和36年のマッシュド・ポテト工場の建設にみられるような成果があったが、工場誘致による工業開発は、付加価値生産に対する原料資源の安定供給のほか、余剰労働力の流出抑止(受け皿づくり)、土地の有効利用による町税(固定資産税)増収、多目産業生産形成による景気浮揚にもつながることだけに、以後も意欲的に条件整備がすす見られ、制度的にも、
  ・低開発地域工業開発促進法の適用
  ・北海道東北開発公庫の利用
  ・北海道鉱工業開発促進条例の適用
  ・低開発地域工業開発促進のための固定資産税の免除に関する条例の制定
などによって、融資、助成、時限免税の道がひらかれた。

 これによる工場誘致(設置)状況については、産業編を参照されたい。


  昭和37 工業適地調査実施による適地選定
 区 分   面 積  地目別内訳 所有者別内訳
 団 地 原野 その他  国有地   公有地   民有地 
 A団地    390    40   299    30  21   6 381
 B団地 150 134 12 138

昭和38・10・21 「低開発地域工業開発促進法」によるオホーツク地域として網走管内3市11町村が指定、うち紋別郡では(紋別市、湧別町、上湧別町、佐呂間町、遠軽町、興部町)

林業構造改善事業  国有林の営林事情の改善については、営林署の手によって、戦中戦後の荒廃及び台風被害(昭29)の復旧、さらに森林更新が進められている。
 町有林及び民有林の営林上の条件改善による、保有財産としての可知内容の向上と、林産資源の増殖を図ることについては、林業構造改善事業が補助事業として実施されることになり、本町においても林道開柵、機械導入、林地改良などが行われた。 実施開経過は、
 区  分  指  定   実  施  総事業費(円)
 指  定
 第1次  昭 39  昭40〜42  73.580.322
 第1次追加  昭 45  昭46〜48 40.093.675
 第2次  昭 47  昭48〜51 119.352.810
  233.026.807



□ 第1次林業構造改善事業実施概要
事業種目 工種および施設
林地の流動化  面積測量621ha
林道施設  志撫子線3,500m、中ノ沢線2,449m
素材生産施設  トラクター1台、トラック1台、チェンソー18台、機械保管倉庫178・2u
造林施設  刈払機31台、植穴掘機6台、移動宿泊施設2棟87・2u、資材人員輸送車1台
樹苗生産施設  床替機2台、トラクター1台、スプリンクラー2セット、薬剤散布機1台、堆肥射棟65u、機械保管倉庫1棟
 37・8u、作業用建物1棟51u、客土630u、酸土改良3ha
チップ生産施設  トラック1台、固定式チップ生産施設、電力施設1式、作業用建物1棟408・4u
協業の推進  トランシット1台、オートバイ1台
特認事業  焼払機3台、積込機1台

□ 第2次林業構造改善追加事業実施概要
事業種目 工種および施設
林地の流動化  面積測量25ha
造材生産施設  トラック3台、ホイルクレーン1台、ログローダー2台
造林施設  人員輸送車1台
作業道開設機械  トラクター1台、ダンプトラック1台
協業の推進  トランシーバー

□ 第2次林業構造改善事業実施概要
事業種目 工種および施設
林道施設  サロマ湖線826m、基幹作業道650m
素材生産施設  カビ止施設、林内作業車1台
チップ生産施設  ログローダー1台
樹苗生産施設  トラクター1台、作業用建物1棟68u
木材集出荷施設  フォークリフト1台、ログローダー1台、剥皮施設1台、周囲柵198m、管理棟1棟152u、機械保管倉庫1棟
 180u、貯木場整備11,654u
協業事業計画樹立  協業事業計画書作成297ha、レベル1台、コンパス2台
作業道整備  ショベルローダー1台、機械保管倉庫1棟180u
特認事業  万能丸鋸盤、サンダー工具、円盤カンナ、手押カンナ、木工旋盤、乾燥機、作業用建物1棟294u、運搬車1台

沿岸漁業構造改善事業  オホーツク海に面し、サロマ湖にのぞみ、水産資源に恵まれた地理環境にありながら陸上施設は皆無に等しくサロマ湖でのホタテ稚貝採苗による、オホーツク海放流と湖内養殖を進めるため内水面および沿岸漁業にふさわしい栽培漁業施設を、漁業構造改善事業の指定を受けて、次のような経過で施策を行った。 なお山村地域農林漁業特別対策事業による施設は後述する。

 区  分   指  定      実  施      総事業費(円)    
指  定
 第1次  昭 40   昭43〜45 33.990.000
 第2次  昭 50   昭51〜52 63.587.000
97.577.000


□ 第1次沿岸漁業構造改善事業
事業種目 工種および施設
漁業近代化施設設置 養殖作業保管庫  鉄骨2階建364u 
荷さばき所  鉄骨造426u
養殖用繋留施設  35台

□第2次沿岸構造改善事業
事業種目 工種および施設
 保管作業施設設置   養殖保管作業施設  鉄骨2階建1棟
増殖管理作業船  FRP14・97t

 なお、構造改善事業と平衡して「魚礁設置事業」が行われ、並型魚礁と大型魚礁が次のように設置された。
 種別   実施年度   設置個数  立体容積(?)   事業費(円) 
 並型  昭37〜45  2.900 9.080
 昭46〜48 2.450 10.680
 大型  昭43 6.400 5.024 21.423
 昭49 3.208 2.518 21.150
 昭51 740 3.387 31.150
 昭52 778 3.562 35.860

ほかにも、「漁業振興奨励補助事業」で、シジミ貝増殖事業(昭47)、北海エビ増殖試験事業(昭52)が行われ、漁港改修事業も行われたが、それらについては産業編を参照のこと。

農業構造改善事業  昭和36年の農業基本法制定は、農村地帯に大きな変革の波を及ぼす結果となった。 離農による過疎化をふまえ、農産物の貿易自由化に対処して、営農の「選択的拡大」「省力化と機械化」「協業化」が促進されることとなり、農業構造改善事業が推進された。 本町での事業経過は、
区 分 地 区 指 定 実   施 総事業費(千円)
指 定
 第1次  芭露  昭42  昭43〜 103.039
 第2次  湧別  昭50  昭51〜54 1.545.011
 芭露 1.290.732
 計呂地 635.216
3.573.998
で、実施概要は次のとおりであった。

□ 第1次農業構造改善事業
  ○ 芭露地区
      基幹作目  牛乳
事業種目 工種および施設
補助
事業
土地基盤整備  暗渠排水  24戸、58ha
 草地造成改良  11戸、15ha
経営近代化施設  トラクター6台、作業機16台



経営近代化施設  乳牛導入  38戸、72頭
 乳牛舎  22戸、23棟、3.171・9u
 サイロ  35戸、38基、2,829・1u
 堆肥場  14戸、14基、1,269・1u
 尿溜め  19戸、19基、1,590u
 ミルカー  5戸、5台

□ 第2次農業構造改善事業
  ○ 湧別地区
      基幹作目  牛乳、肉牛
事業種目 工種および施設









土地基盤整備  農道整備  45戸、1,301m
  畜産協業施設
  (トラクター利用組合)
 信部内A  8戸、本機5台、作業機17台
 信部内B  10戸、本機5台、作業機20台
 川西中央  6戸、本機2台、作業機11台
 東  湧  7戸、本機2台、作業機10台
 東中央  7戸、本機3台、作業機10台
 東第3  8戸、本機3台、作業機11台
 東  栄  10戸、本機3台、作業機15台
 東新生  11戸、本機3台、作業機17台
 弥  生  7戸、本機3台、作業機15台 
  畜産地域施設  肥料作物収穫機  97戸、本機2台、作業機15台
 集乳車  197戸、5台
 バルククーラー  180戸、180基










  農業近代化施設  畜  舎  102戸、18,121・8u
 乾草舎  2戸、396u
 堆肥場  44戸、18,283・9u
 尿溜め  36戸、2,320・5u
 サイロ  65戸、11,810・4u
 パイプライン  20戸、20台
 パンクリーナー  53戸、53台
 キャリアー  1戸、1台
 乳牛導入  33戸、33頭
 サイロアンローダー  2戸、2台
 へーコンベアー  1戸、1台
 農  舎  2戸、363u
  農業経営設備  農地取得  158・2u

  ○ 芭露地区
      基幹作目  牛乳、てん菜、馬鈴薯、小麦、肉牛
事業種目 工種および施設






  土地基盤整備  暗渠排水  22戸、38ha
  畜産協業施設
 (トラクター利用組合)
 芭露第1  7戸、本機2台、作業機9台
 芭露第2  6戸、本機1台、作業機10台
 芭露第3  10戸、本機2台、作業機12台
 芭露第4  13戸、本機3台、作業機12台
 芭露第5  14戸、本機3台、作業機13台
 芭露第6  9戸、本機2台、作業機14台
 芭露第7  9戸、本機2台、作業機11台
 上芭露  29戸、本機7台、作業機36台
 東芭露  12戸、本機4台、作業機22台
 西芭露  6戸、本機1台、作業機5台
  畑作協業施設  コンバイン  上芭露12戸、2台
  畜産地域施設  バルクーラー  133基
 畜産総合施設  1棟1,039・69u
  農業経営整備  農地取得  62戸、291・5ha










  農業近代化施設  農舎  4戸、744u
 バンクリーナー  48戸、48台
 パイプライン  8戸、8台
 畜舎  62戸、8,770・6u
 堆肥場  39戸、6,398・1u
 尿溜め  33戸、2,219・7u
 サイロ  58戸、9,566・5u
 乳牛導入  12戸、50頭
 乾草舎  11戸、1,666u
 キャリアー  4戸、4台
 予乾施設  3戸、3台
  農業経営整備  農地取得  62戸、291・5ha

  ○ 計呂地地区
      基幹作目  牛乳、肉牛
事業種目 工種および施設






畜産協業施設
(トラクター利用組合)
志撫子第1  7戸、本機3台、作業機11台
志撫子第2  8戸、本機4台、作業機18台
計呂地第6  7戸、本機2台、作業機15台
計呂地第5  6戸、本機3台、作業機12台
計呂地第4  7戸、本機4台、作業機14台
計呂地第3  9戸、本機5台、作業機14台
計呂地第2  11戸、本機4台、作業機25台
農業経営整備 農地取得  38戸、169・5ha










農業近代化施設 農舎  3戸、561u
バンクリーナー  21戸、21台
パイプライン  9戸、9台
畜舎  44戸、7,193u
堆肥場  17戸、3,541・9u
尿溜め  33戸、2,293u
サイロ  32戸、5,174・3u
乳牛導入  2戸、5頭
乾草舎  20戸、2,596・3u
キャリアー  4戸、4台
農業経営整備 農地取得  38戸、169・5u

振興山村農林漁業特別開発事業  昭和47年に山村振興法に基づく振興山村の指定を受け、同48〜51年に施業したこの補助事業は、登栄床地区を対象としたもので、総事業費1億1,255万円を投じて、次の施設がなされた。


事業種目 工種および施設
経営近代化施設 水産加工処理施設  鉄骨造平屋1,124・13u
水産加工乾燥施設  鉄骨造2階建1,253・4u
環境整備 生活改善センター  木造モルタル2階建356・4u

山村地域農林漁業特別対策事業  前項の第1期対策に引き続き同52年第2期対策地域の選定を受け、同53〜56年に施業したこの補助事業は、総事業費2億4,438万円を要して、次のように実施された。
事業種目  地 区   工種および施設
農業経営近代化  曙町  小規模土地改良  農道改良6戸、370m
水産種苗供給施設  錦町  養魚池  18面660u
 同上家  1棟833・4m
養殖用保管作業施設 志撫子  保管作業所  1棟130・5u
 海水供給施設  1式
漁船漁具保全施設 港町
丁寧
志撫子
 共同作業所  1棟900u  19戸
 海水供給施設  1式
 漁港巻揚施設  2ヶ所1,600u  42戸
 船揚場  2,400u
 巻揚機  2基
導船物揚施設 丁寧
志撫子
 物揚岸壁  2基  24戸
 連絡橋  2基160m
 取付道路  110m
流通改善施設 西1線  道路新設  道路388m

過疎地域振興計画  昭和45年4月24日施行の「過疎地域対策緊急借置法」は、同55年3月迄の10年間の時限立法で人口の急激な減少により生活水準および生産機能の維持が困難となっている地域に対して「過疎地域」の指定を行い、補助事業によって生活環境、産業基盤などの整備を、総合的か付け威嚇的に講ずるための借置で、対策事業としては、

 (1) 道路、その他の交通施設、通信施設の整備を図ることにより、過疎地域とその他の地域および過疎地域内の向上を図る。
 (2) 学校、診療所、老人福祉施設、集会施設など教育文化および厚生施設の整備、衣料の確保により住民の福祉向上を図る。
 (3) 農林道、漁港などの産業基盤の整備、農林漁業経営の近代化、企業の導入促進、観光開発を図ることにより、産業を振興し、併せて雇用の安定を図る。
 (4) 基幹集落の整備および適正規模集落の育成を図ることにより、地域社会の再編成を促進する。
ことを目指すものである。

 本町は当時すでに昭和37年に、計呂地、志撫子、東芭露、西芭露、登栄床地区などが、同44年には緑陰地区が「辺地」に指定されており、緊急借置法でいう、
 昭和40年の国勢調査人口が、同35年の国勢調査人口に比して、減少率10%以上で、同41〜43年の財政力指数が0・4未満の市町村という指定要件。

に照らして観ると、人口減少率は0・27%、財政力指数0・1726という状況であったから、過疎地域に指定され前期5ヵ年の「湧別町過疎地域振興計画」を策定し、昭和45年10月15日の町議会において議決をみた。 これが前期計画の大要は、次のようなものであった。
(一)  基本方針
(1) 町開発の原動力となる道路網の整備拡充、冬期交通の確保を図る。
(2) 教育環境の整備と教育水準の向上を図る。
(3) 社会生活環境の整備と、社会公共施設の充実を図り、地域の辺地性を打開する。
(4) 草地の開発と高度利用を図り、酪農の近代化と大型化を推進し、牛乳の生産地形成により、酪農基地として開発を促進する。
(5)サロマ湖の大規模栽培漁業基地の形成を図り、養殖の基地とし、登栄床、湧別漁港の整備を促進し、漁港の振興を図る。
(6) 地下資源を開発するとともに、地場生産物を主原料とする企業の誘致を図る。
(7) 国定公園サロマ湖の観光施設の整備により、観光客の誘致を図る。
(二) 計画期間
昭和45〜49年の5ヵ年間とする。

 後期計画は、前期計画の成果と実績のうえに立って将来を展望して策定されたもので、昭和49年12月24日に町議会の議決をみている。 前期計画と多少ニュアンスの創意があるので、次に後期計画の大要を掲げよう。
(一)  基本方針
(1) 道道路線の全線舗装を促進する。
(2) 主要幹線道を中心に町道の整備と、冬期交通の確保を図る。
(3) 近代化情報通信体系の整備を促進する。
(4) 幼児教育を促進するとともに、教育環境の充実、社会体育施設の整備を図る。
(5) 湧別、登栄床漁港の整備を促進する。
(6) 清澄な生活環境と、厚生医療施設を整備し、文化的生活水準の向上を図る。
(7) 産業基盤の確立を計り、経営の安定化、生産の拡大につとめ後継者の育成を強化する。
(8) 国定公園サロマ湖を、オホーツク中部海域における観光拠点とする広域観光圏の開発を推進する。
(二) 計画期間
昭和50〜54年の5ヵ年とする。

 このように「過疎地域対策緊急借置法」に基づく前後期対策も、各般にわたる施策の推進で生活環境は逐次改善され、人口の減少も鈍化するなどの成果をおさめたが、その反面急速な人口の高齢化がすすむなどの新たな問題が生じ、これらの課題に対処してその解決と併せ定住条件を整備し魅力ある地域社会の形成を目的として昭和55年3月新に「過疎地域振興特別借置法」の制定をみ、向こう10ヵ年の地域振興対策がスタートすることになった。 本町もこの法律によって新に指定され、55〜59年の前期計画が策定(55年6月議決)された。
これらの大要に基づく具体的計画は、かなり大量なので、ここでは省略するが、前項までに述べた各種事項が密接に関連しているし、次項に述べる「湧別町総合開発計画」に発展的に包合された形となっている。 また、この計画発効年度以降の種々柤は各編でも記述しているので参照されたい。

町総合開発計画  前項の「過疎地域振興計画」と相前後して
 めざましい高度経済成長と科学技術の進歩によって、地域社会に著しい変化がもたらされ、都市への人口集中によって農山村人口の急激な減少をみ、地域格差はますます増大の傾向を示している。 第1次産業を中心とする本町においてもこれらの影響を受けて人口の流出が顕著で、就業構造をはじめ地域環境が大きく変貌しつつあり、多くの問題が生じている。 また他面においては、冬期間における積雪寒冷、流氷の接岸による障害など、今後に解決を要する多くの重要課題をかかえている。

 これらの課題を解決することが急務であり・・・・生産と生活が調和する魅力ある町づくりが必要であり、長期展望にたち湧別町の将来進むべき方向と、町政運営の基本指針とする・・・・

 という意義をこめて、「湧別町総合開発計画」の策定を企図した。 策定にあたっては「湧別町総合開発計画策定審議会」を設置(委員30名を委嘱)し、さらに委員を3つの専門部会に構成して、1年有余にわたる検討が加えられた。

  会  長  羽田  宏
  副会長  岩代  学
   基盤整備部会  豊原正一部会長ら10名
   社会開発部会  内山武男部会長ら10名
   産業振興部会  相沢隆治部会長ら10名
   行財政部会    鍵谷薫部会長ら10名

 審議会から答申され、町議会の承認(昭和47年7月議決)を得た計画書は、B5版180余頁にのぼる膨大なもので、詳細をここに掲載することができないので、抜粋して計画の輪郭を次に掲げよう。
  (一) 計画の期間  
       昭和46年度を初年度とし、同55年度を目標年度とする10ヵ年間。
  (二) 基本方向
     未来像  「サロマ湖の自然を生かしたやすらぎのある町」
    (1) 自然観光レクリェーション基地の町
    (2) うるおいのあるやすらぎの町
  (三) 主要目標(基準年次は昭44)
    (1) 戸 口
区 分 世帯数 人   口 0〜14歳 15〜64歳 65歳以上 世帯人口
年 次
 昭44 1.994 7.984 2.143 5.217 624 4・0
 昭55 1.750 6.500 1.361 4.309 830 3・7
 目標(%) 87・8 81・4 63・5 82・6 133・0 92・5

    (2) 産業構造
区 分 就業人口 産業構成比率(%)
年 次 第1次産業 第2次産業 第3次産業   計  第1次産業 第2次産業 第3次産業
 昭44 2.538 737 940 4.215 60・2 17・5 22・3
 昭55 1.733 854 814 3.400 51・0 25・1 23・9
目標(%) 68・3 115・7 86・6 80・7
区 分 生産および出荷額(万円)
年 次 農   業 林   業 漁   業  紘鉱業  鉱   業
 昭44 123.635 56.937 45.153 2.295 125.387
 昭55 264.585 64.072 187.202 2.500 423.207
 目標(%) 214・0 112・5 414・6 108・9 337・5

    (3) 生産所得 (万円)
区 分 第1次産業 第2次産業 第3次産業  計 就業者1人当 町民1人当
年 次
 昭44 103.927 51.310 87.409 242.646 58 30
 昭55 248.137 150.682 197.070 595.889 175 92
目標(%) 238・8 293・7 225・5 245・6 301・7 306・7

  (四) 基本方針
    (1) 自然観光レクリェーション基地の建設
      ・サロマ湖を拠点とした観光開発
      ・自然休養林の設置
      ・観光客受入体制の整備
    (2) 潜在資源の高度活用による畜生産性産業の開発振興
      ・湧別漁港の整備と昇格の促進
      ・登栄床漁港の整備促進による湖内漁業の基地建設
      ・サロマ湖の大規模栽培漁業基地化
      ・シブノツナイ湖の魚田開発
      ・漁場造成による安定漁業の確立
      ・酪農経営を主体とする高生産性寒地農業の確立
      ・森林資源の培養促進による林業経営基盤の確立
      ・資源利用工業の振興と新規企業の誘致
      ・商業経営基盤の拡充による経営の安定化促進
    (3) 生活と生産の基盤をなす交通、通信体系の整備
      ・国道、道道の完全舗装と国道238号線の路線変更促進
      ・市街地道路および主要幹線町道の舗装化と冬期交通の確保
      ・町内ローカル路線交通輸送の確保
      ・近代的な情報通信体系の整備促進
    (4) 清澄な生活環境と近代的高福祉社会の建設
      ・清澄な住みよい生活環境の整備
      ・町民の健康保持増進
      ・社会環境整備による町民福祉の増進
      ・防災体制の確立による町民生活の安全確保
    (5) 豊かな人間性と創造性に富んだ人材の養成と郷土文化の振興
      ・学校統合の推進による教育環境の改善
      ・社会教育施設の充実による生涯教育の積極的推進
      ・社会体育施設の整備による町民スポーツの振興
      ・文化財の保全と郷土文化の振興
  (五) 資金需要  (千円)
負担区分   国  費   道  費   町  費 民間資金   計    構成比(%)
事   業
  基盤整備 3.612.000 2.725.700 1.306.100 30.000 7.673.800 26・9
  社会開発 276.000 207.300 838.370 772.450 2.094.120 7・4
  産業振興 6.523.700 1.730.500 1.028.900 9.226.100 18.509.200 65・0
  その他 - - 205.300 - 205.300 0・7
10.411.700 4.663.500 3.378.670 10.028.550 28.482.420 100・0
 構成比(%) 36・6 16・3 11・9 35・2 100・0

 こうしてスタートした10ヵ年計画は、高度経済成長による所得水準の伸張による景気の上昇気流に乗って、当初想定を上回る実績で進展し、昭和52年5月に実施した住民意向調査でも、6ヵ年の成果が実感として受け止められていることがわかった。
 しかし、昭和48年のオイルショックによる狂乱物価〜抑止安定経済路線、加えて200カイリ漁業問題など、厳しい経済環境を迎えて、当初計画の見直しによる一部軌道修正の必要を生じ、目標年度を待たずに昭和53年12月15日に審議会に諮問の運びとなった。

  会 長  羽田 宏
  副会長  岩代 学
   基盤整備部会  豊原正一部会長ら10名
   社会開発部会  高久喜三郎部会長ら10名
   産業振興部会  洞口正喜部会長ら10名
   土地利用計画部会  洞口正喜部会長ら15名(兼任)

 審議会は「住みよい町づくりを考える懇談集会」などを開催して、町民の提言を数多く集めて、町民手づくりの総合開発の方向でまとめ、翌54年8月20日答申し、同年12月18日の町議会で新「湧別町総合開発計画」が承認可決された。 前計画同様に抜粋して計画の輪郭を次に掲げよう。

  (一) 計画の期間
        昭和54年度を初年度とし、同62年度を目標年度とする9ヵ年間。
  (二) 主要指標 (基準年次は昭50)
    (1) 戸  口
区  分 世帯数 人口 0〜14歳 15〜64歳 65歳以上 世帯人口
年  次
  昭 50 1.865 6.693 1.641 4.388 664 3・6
  昭 62 1.950 7.000 1.432 4.679 889 3・6
 目標(%) 105 105 87 107 134 100
 
    (2) 産業構造
区  分 就 業 人 口 生産および出荷額(万円)
年  次 第1次産業 第2次産業 第3次産業   計   第1次産業 第2次産業 第3次産業
 昭50 1.992 733 908 3.633 566.200 615.300 1.165.000 2.346.500
 昭62 1.857 865 1.028 3.750 1.661.000 1.061.700 2.147.600 4.870.300
目標(%) 93 118 113 103 293 173 184 208

  (三) 基本方針
    (1) 暮らしの基盤づくり
    (2) 満たされた暮らしづくり
    (3) ゆとりある暮らしづくり
    (4) 郷土の繁栄を担う人づくり
  (四) 資金需要 (千円)
区分 国費 道費 町費 分担金 民間資金
金額
金額(千円) 13.217.170 4.017.000 5.142.650 10.910 16.370.470 38.758.200
比率(%) 34・1 10・4 13・3 42・2 100・0


湧別町総合開発促進期成会  豊かな住みよい町の建設をめざして、町が抱えている諸問題の解決と総合的開発事業の早期実現を促進するため、行政の側面的協力機関として、昭和38年7月議会議員および各種産業団体長のほか、学識経験者による、「町総合開発促進期成会」が発足した。 以来、国・道などへの積極的運動が続けられている。 歴代会長は次のとおり。

 坂口要(商38)、如沢次郎(商42)、鍵谷薫(昭46)、高須実(昭50)、鍵谷薫(昭52)、伊藤誠司(昭54)

(7)功労者の顕彰
名誉町民  町政進展に特に顕著な功績を残した戦陣に対する顕彰については、昭和32年8月10日の町議会で「湧別町名誉町民条例」が制定され、町民の創意によって、郷土の誇りとして「名誉町民」の称号を贈り、次のような待遇で報いることになった。

 (1) 名誉町民賞記ならびに名誉町民章を贈る。
 (2) 治績を永く伝える方途を講ずる。
 (3) 相応の終身年金を支給する。
 (4) 死去の場合の公葬など相応の礼をもって弔意を表する。
 (5) 町の公の式典に招待する。
なお、名誉町民は町長の推薦により、町議会の議決に基づいて推挙されるもので、最高の顕彰制度である。
 第1号の名誉町民に推挙されたのは、昭和30年4月に退任した大口丑定元町長で、条例制定当日に条例第3号の規程により、推薦され全会一致で決定し、開町60周年記念式典(昭32・9・15)において称号が贈られた。

町  葬  町行政の要職にあって、永年にわたり町政進展に顕著な功績を残した貢献者の死去に際しては、町葬を執行して故人の労を讃え、冥福を祈ることになっており、今日までに、次の3故人が町葬をもって葬送されている。

□ 大口 丑定
昭和35年5月13日に83歳をもって死去したので、名誉町民に対する儀礼として同5月16日午前10時から芭露小学校において町葬を執行した。 なお、当日は午後1時に1分間の消防サイレンの吹鳴があり、それを合図に町民が黙祷を捧げた。
□ 鍵谷  薫
農業委員、湧別農業協同組合長、町観光協会長、町総合開発促進期成会長、町議会議員など多くの公職を閲歴したが、とくに連続5期20年にわたる議会議長の重任は偉大であった。
□ 佐藤 富治
「浜の親爺」としてホタテ養殖に献身し、漁業協同組合長、町議会議員など多くの公職を閲歴したが、とくに8期32年にわたる議会議員(うち4期は正副議長)の功績は偉大であった。 昭和54年10月8日に69歳をもって死去したのに際し、同10月10日町総合体育館において町葬を執行して生前の労をねぎらった。

町議会葬  議会議員として在職中に死去した議員に対しては、次の基準によって町議会葬を執行(町葬執行者以外の故人に対し)して弔うこととしている。

 (1) 議長の職に在る者
 (2) 公務執行中または公務起因による者
 (3) 議員として通算15年以上職に在った者(ただし正副議長は1年、正副常任委員長は半年を在任中の年度ごとに加算する)

これに基づく町議会葬は、今日までに次の2故人に対して執行されている。

□ 南川 保一
議員歴  5期20年間
死去日  昭和40年3月30日 (69歳)
議会葬  昭和40年4月1日(真宗寺)
□ 嘉多山吉郎
議員歴  4期15年(うち3期は総務常任委員長)
死去日  昭和41年7月26日 (51歳)
議会葬  昭和41年7月28日 (真宗寺)

大口丑定翁顕彰碑  大口丑定が名誉町民に推挙された当時から、町内有志、湧別高等学校および雪印乳業や酪農関係者の間に顕彰碑または胸像建立の儀が持ちあがっており、さらに昭和35年5月13日死去当日の柩の前で、村上町長が建立を誓ったことから、町議会筋を中心に話し合いが行われた結果、同38年2月に「故大口丑定翁顕彰協賛会」が結成されて基金造成に着手し、同年11月3日100万円(一般寄金55万円、篤志寄金45万円)で完成した顕彰碑の除幕式が役場庁舎前で行われ、引き続いて記念式が公民館で挙げられた。
 碑には当時の北海道知事町村金五の題字「顕彰」と、翁の友人島田梅十の碑文(芭露小学校長田上豊揮毫)が刻まれ、碑文は次のように翁の功績を綴っている。

 故名誉町民大口丑定翁は新潟県蘆ヶ崎に生まれ、明治42年本町芭露に移住し農牧場の経営に挺身、対象13年村会議員となり以来20有余年村政の枢機に参画し選良の範を示さる。 この間各種農業団体長の要職を歴任し、卓越せる識見と確固たる信念の下克く其基盤を築かる。 翁は北方の農業の確立を酪農に置き、自ら其先駆となり実践垂範「酪農の大口」として令名道内に遍く、着々其理想の実現を見るに至る。 昭和22年初代公選村長に当選、爾来8年新憲法の下地方自治確立の難関を突破し、行政発展の途を開き、開拓以来の懸案たる湧別漁港の構築促進、登栄床漁港の完遂を見る。 翁は夙に大湧別建設の公葬を抱き両湧別提携による組合立湧別高等学校設立を企画し荊藾の途を克服して素願を達成以って教育の機会均等の基を確立せらる 其他医療機関の設立、交通機関の完成促進、観光事業の開発等々町発展の全分野に畢生力を致し其功績さんぜんと輝き昭和32年湧別名誉町民の称号を贈らる。
 翁は常に百働説を力説せるに惜しむべし昭和35年5月83歳を以て暝せらる。 沖永樹立せし偉大なる功績と崇高なる愛町の精神とは郷党の誇として尊敬するところである。
    昭和38年11月3日
                                      大口翁顕彰協賛会


なお、この顕彰碑建立は、名誉町民条例の「治績を永く伝える方途」のあらわれでもある。


表彰条例による表彰  自治功労者などの功績者については、従来は開基・会長の周年記念式典、あるいは町政施行祝典などの機械に行われてきたが、昭和39年に「湧別町表彰条例」が制定されて、毎年11月3日の文化の日に、次の基準に照らし表彰することとなった。
(一)自治功労者
 (1) 12年以上本町の特別職(町議会議員、農業委員、選挙管理委員、固定資産評価審査委員、教育委員、消防団員、統計調査員、国民健康保険運営委員、社会教育委員、区長など)にあって功績顕著な者。
 (2) 多額金銭、物件を寄付した者。
 (3) 人命救助および徳行で卓越した者。
 (4) 産業を奨励し振興に寄与した者。
(二)優良職員
(助役、収入役含む)
 (イ) 公僕として節操と識見豊にして町勢振興に治績のあった者。
 (ロ) 公務により傷痍疾病または死亡した者で功績顕著な者。
 (ハ) 本庁職員として10年以上勤務した者で成績優秀な者。
この条例制定により表彰された人々は次のとおりである。
□ 昭和39年11月3日
自治功労者    南川保一、小林定次郎、佐藤富治、高須実、嘉多山吉郎、西村幸太郎、大沢義時、石川武男、中原円次郎、白崎政名、茶山秀吉、如沢元治、藤根正重、鍵谷薫、多田直光、本間資義、清水清一、村上庄一、森垣幸一、越智修、押野栄治、如沢次郎、小川市十、渡辺満雄、中沢猶何時、矢崎次郎、伊藤石松
社会厚生功労者  桑田多一郎、友沢喜作、落合えん、長屋鉄次郎、曽根春吉、本間彙、国枝善吾
教育関係寄付者  福岡ヤエ、藤田光明
統計事務功労者  千葉敏、安藤昇一、清原松太郎、阿部義夫、加藤勝哉、佐久間徳雄、佐々木清記、中野哲、岩間常雄、野口恒吉、曽根英男、新田正、横関薫、伊藤時太郎、樋口久郎、脇山勇、吉田春義、黒田実、伊藤清太郎、清野宏、杉本安義、井上憲夫、古屋泰寿、伊藤庄恵、大沢良一、諏訪成一、和田収、故〜小山康雄
消防功労者  小沢虎一、長沢政市、玉井隆義、根布谷秀男、奥谷房吉、佐藤浅次郎、森田実、木村達雄、吉竹房之、大橋律郎、阿部謙一、田畑上、中野信男、鈴木養吉,菊池節雄、友沢市男、井藤賢造、中内清、宮本徳雄、高木義一、若杉茂、志田旭、兼田金次郎、本間武喜、山本信男、山口清一、林正、金子辰次郎、佐藤彦一、今井良一、林勝弥、大崎武夫、石田義雄、多田直孝、福沢満、金田一春次郎、滝田重司、小倉与志三、武藤国光、古屋俊夫、久保武雄、阿部正博、長屋正美、田川定吉、桑原覚、伊藤宣高、加藤光蔵、小林三夫、青山茂富、水野一重、和泉正、小林秋夫、熊野美代治、西岡国治、三浦学、日下尚夫、中谷晴好、江島国次郎、東海林芳男、遠藤省徳、中谷正、福原博、深沢豊、斉藤武男、山崎武近、小湊金一、伊藤広、大沢重義、吉田竹治、大口秀和、佐々木嘉雄、田元二勇、菅辰雄、山崎扶、石垣国義、岡本武蔵、可知利郎、高橋仙二、恩田範一、阿部雅夫、中内武男、井上吉雄、木戸信男
優良職員
20年以上勤務  田川信男、半田要、畠山幸雄、横川勝巳
15年以上勤務  藤原末吉、伊藤幸夫、木下政徳、槇敬市、林寛、黒木保雄、国井隆、吉田英男、寒河江才治、寒河江タミ、柴田禎治、渡辺佐久真、佐藤竹三郎、三田正一、谷口勇、増山清、蔭山肇、宍戸源治
10年以上勤務  高橋喜一、小野武、加藤貞夫、蔦保太毅、矢崎友康、井尾朋史、松下忠司、兼田秀秋、佐藤博、屋中辰夫、大口小五郎、浅野謙吉、清水宏一、荻原一芳、寒河江実、久保敏博

□ 昭和40年11月3日
自治功労者  阿部文男、砂田栄太郎、井谷一男
統計事務功労者  酒井清光、小田春治、福原保、浪江国雄、宍戸憲治、茂木清一
消防功労者  真壁喜一、今野宏
産業功労者  沢西武雄
優良職員
20年以上勤務  谷口勇、増山清、宍戸源治
10年以上勤務  岡本諭、菊地春男、藤原耕二、秋山俊一、杉原好昭、掘江美子

□ 昭和41年11月3日
消防功労者  南川秀光、丘上博司、本間勝義、松永忠男、大甕清美、加藤作蔵
優良職員
20年以上勤務  柴田禎治
15年以上勤務  高橋喜一、矢崎友康、久保敏博
10年以上勤務  佐藤茂見、西浦市太郎

□ 昭和42年9月15日(開基70周年記念表彰と同時表彰)
自治功労者        坂口要、伊藤誠司、如沢次郎、豊原正一、山岸広一
産業功労者  渡辺満雄(団体役員20年)
統計事務功労者  栗木徳光、堀川幸道
消防功労者  渋谷光一、中村実
勤続功労者  菊地吉光、飯坂和男、木戸猛(以上漁業協同組合)、内田孝三(森林組合)、小湊薫、小池清三、井上良夫、竹中英雄、井口文雄(以上芭露農業協同組合)=いずれも20年以上優良勤続者
優良職員
20年以上勤務    吉田英男
15年以上勤務  小野武、加藤貞夫、蔦保太毅、兼田秀秋
10年以上勤務  池田鉄也、杉本邦男、工藤輝雄、木戸周平、岩佐好博

□ 昭和43年11月3日
消防功労者        安立秀雄、柴田照美、村雲茂男、越智清人、両瀬孝作、井上剛
産業功労者  越智修、佐藤富治、高須実(以上団体役員)、押野英雄、村上勇、阿部松男(以上団体職員)
社会厚生功労者  洞口正喜、横尾満治
優良職員
20年以上勤務  木下正徳、黒木保雄、寒河江才治、寒河江タミ
15年以上勤務  大口小五郎、佐藤博、井尾朋史
10年以上勤務  小林政治

□ 昭和44年11月3日
消防功労者        安立広郷、臼井文男、高嶋大栄、西功一、小山信、猪股武男、安彦英則、森谷忠雄、柴田猛   
自治功労者  長谷川隆、洞口正喜、井戸敬、阿部昭一、伊藤伝、高柳嘉重
産業功労者  羽田宏、清水清一、如沢次郎、多田直光(以上団体役員)、長田政雄、高橋昭司(以上団体職員)、押野栄治
優良職員
20年以上勤務  槇敬市、蔭山肇、林寛、国井隆
15年以上勤務  松下忠司、清水弘一、荻原一芳、寒河江実、浅野謙吉
10年以上勤務  玉井寿之、砥石好市

□ 昭和45年11月3日
消防功労者  伊藤隆好、菅英雄、柴田清一、岩間正和、袴田勉、図子正男                        
自治功労者  矢崎重雄、井戸定利、佐藤公信、黒田勝雄
教育功労者  高野宏一
産業功労者  青木実、尾張弘、阿部猛
優良職員  
20年以上勤務  三田正一
15年以上勤務  菊地春男、藤原耕二、岡本諭、秋山俊一、佐藤茂見、杉原好昭
10年以上勤務  小林アイ子、高橋輝光、和田晋

□ 昭和46年11月3日
自治功労者  越智修,大館三郎、菅原貞三、田宮孝明、高野宏一 
消防功労者  小坂満
産業功労者  坂口要(団体役員)、尾山昌巳(団体職員)、多田多一郎、佐藤伝、峰田繁蔵、新海忠五郎、渡辺義一、多田直光(町有林監視員)
篤志寄付者  西村幸太郎、国枝与之助、西坂仁四郎
優良職員
20年以上勤務  高橋喜一、矢崎友康
10年以上勤務   尾形堅二

□ 昭和47年11月3日
自治功労者       島田琢郎、清原松太郎、渡辺義一                                    
産業功労者
消防功労者
篤志寄付者
人名救助者
優良職員
20年以上勤務  小野武、加藤貞夫、蔦保太毅、兼田秀秋
15年以上勤務  杉本邦男、木戸周平、岩佐好博
10年以上勤務  横沢秀次

□ 昭和48年11月3日
教育功労者       岩代学、高久喜三郎                                                 
自治功労者  後藤義男、野口政太郎、菅原正、雨宮次雄
消防功労者  鈴木正男、三木繁太郎
産業功労者  駒形国雄、菅原米吉、牧野大蔵、大場操、木村房子、茂木昌(以上団体職員)、杉本祐進
社会功労者  山中春男、長野治次、鎌田一男
優良職員
20年以上勤務  佐藤博、井尾朋史、大口小五郎
15年以上勤務  小林政治
10年以上勤務  井上敏男、小林清春

□ 昭和49年11月3日
自治功労者       大口正輝、中塚武夫、村田正太郎、佐々木益男、石山信治、大館三郎、野沢ヤエ           
消防功労者  槇紋矢、伊藤孝、鬼越昇、森谷松雄、上田定幸、安彦小三郎、上田一義、吉田重義
産業功労者  松原政一、村上家治、福原保、西岡梅次、柴田澄男
篤志寄付者  遠軽信用金庫
優良職員
20年以上勤務  荻原一芳、寒河江実、松下忠司、浅野謙吉、清水弘一
15年以上勤務  玉井寿之、砥石好市
10年以上勤務  天野博、畑隆三、寒河江幸夫

□ 昭和50年11月3日
自治功労者       高橋正三、沢田豊松、小川清巳、板東栄、伊藤守寿、伊藤金一、福井芳之、本間義麿        
消防功労者  児玉満雄、米原一二、松原静夫、川村寿雄
産業功労者  武藤源久、細川隆人、落合末正、市川太平、飯塚武、浅井勲、樋岡英司、佐々木弘人、篠田一郎
優良職員
20年以上勤務  秋山俊一、杉原好昭、佐藤茂見、岡本諭、藤原耕二
15年以上勤務  小林アイ子、高橋輝光、和田晋
10年以上勤務  佐野寿成、石田崇、黒木武雄

□ 昭和51年11月3日
自治功労者       矢崎次郎、羽田宏、若杉茂、三浦清志、宮地正重、樋口久郎、田部武                  
消防功労者  小松昭輝、大口秀夫、東海林義幸
産業功労者  落合桁、黒田実、刈田亘一、桧山敬太郎
社会功労者  井野トキヨ
篤志寄付者  西村幸太郎
優良職員
15年以上勤務  尾形堅二
10年以上勤務  近藤政之、八島広子

□ 昭和52年11月3日
自治功労者       樋口久郎、加藤正意、平井倉一、田中与三郎、佐藤勝巳、釜神悦夫、斉藤清隆、三浦寿章、図子正男、佐藤定夫
消防功労者  小川征一、本間義麿、尾関良一、島田辰雄、田宮秀幸、遠藤広吉、三浦正己、長谷川国夫
産業功労者  小林国雄、高嶋三郎、水谷鎮、木村幸雄、沢田兼次郎、柴田ミチ子
優良職員
20年以上勤務  杉本邦男、木戸周平、岩佐好博
15年以上勤務  横沢秀秋
10年以上勤務  平野弘子、阿部富男

□ 昭和53年11月3日
自治功労者    野沢ヤエ、今美枝子、今泉かほる、佐々木信一                      
消防功労者  山根一男、東海林豊、福原秀幸
産業功労者  室井利夫、佐藤文吉、江川宣弘、小湊勲、菊地惣輔、大井親男、酒井清美、渡辺義雄、佐藤幸(日本農業賞受賞者=酪農)
優良職員
20年以上勤務  小林政治 
15年以上勤務  小林清春、井上敏男
10年以上勤務  石垣博幸、丸山由美子、佐藤武見、伊藤英二、茂木信義、村井繁

□ 昭和54年11月3日
自治功労者       市川太平、南川保、石渡要助、石田立幸、豊原正一
消防功労者  畑正保、伊藤政一、多田光男
産業功労者  五島晴治、佐藤ъ、松岡茂、中原一登志、後藤千枝子、国枝与之助                  
篤志寄付者  黒田実、鍵谷寛、佐藤章
優良職員
20年以上勤務  玉井寿之、砥石好市
15年以上勤務  畑隆三、天野博、寒河江幸夫
10年以上勤務  奥谷公敏、川村忠雄

□ 昭和55年11月3日
自治功労者       加藤助、長屋政二、途中勝吉、佐藤信雄、田村好行
消防功労者  野原大三、竹中博幸、竹中輝男、竹田達男、小林勝義、渡辺政明                     
社会功労者  豊原正一、加藤正意、樋口久郎
産業功労者  尾関義一、遠峰進一、高嶋秀男、林敏子
篤志寄付者  山口金之助、野原信
優良職員
20年以上勤務  高橋輝光、和田晋、小林アイ子
15年以上勤務  石田崇、佐野寿成
10年以上勤務  桧山洋一、黒川守行、松原憲子、小泉勝男、石塚清

□ 昭和56年11月3日
自治功労者       梶井政雄、多田直孝、長屋政二、畠山タツ子、黒田辰夫、押野昇、木下政治、上田健次、黒田フサ、佐藤一郎、長岡与七、佐々木信一
消防功労者    伊藤久雄、町元直春、高橋富雄、蹴揚文男、村上努、内山敏幸、吉田舜司、真鍋仁、谷川政春
統計事務功労者  東海林義幸、二瓶寿広
産業功労者  阿部文男、小林国雄、山川保男
社会功労者  飯塚力男、高崎暁一、友沢市男、小坂満、南川恂一、岩代桂子
篤志寄付者  福岡ヤエ、湧別漁業協同組合、遠軽舗道株式会社
産業団体職員  藤井孝一、唐川昌治、内野芳春、石垣勝義
優良職員
20年勤続  尾形堅二
15年勤続  近藤政之
10年勤続  田中篤一、如沢英一、茂手木正則、桧山範子、鮎沢秀之、竹中幹男、加藤登功、中村賢治

叙勲を受けた人々  太平洋戦争終結までの封建社会の時代には、明治維新以来かずかずの位階勲等の制度があって、叙位(正1〜8位、従1〜7位)、叙勲(大勲位、勲1〜7等)や金鵄勲章(功1〜7級)の栄誉は、そのまま、その人の社会的階級的地位を示すかの感があったが、終戦とともに、それらは過去のものとなってしまった。
 昭和27年に講和条約が発効して、新生日本の独立国としての対面が回復するにおよんで、位階勲等が復活したが、それは民主主義国家にふさわしく、純粋に社会への貢献と寄与の功労を讃える形となった。 戦後、本町関係で叙位殊勲を受けた人々は次のとおりである。

 森垣幸一=従6位勲5等瑞宝章
 
 森垣幸一   従6位勲5等瑞宝章

大正11年から佐呂間、生田原、置戸、雄武、小清水の各村長を歴任。

 昭和10年下湧別村長、以後、下湧別漁業会長、下湧別森林組合長、湧別町教育委員などを努め、昭和33年に湧別漁業協同組合専務理事〜39年同組合長理事として漁業振興に貢献。 
 昭和43年3月8日死去。

<昭和43・3・8叙勲> 
玉井隆義  勲6等単光旭日章
 
 昭和8年に下湧別村消防団員となってから同47年まで、39年余にわたって消防一筋に励み、その間分団長〜副団長(14年間)の大任を果たし、本町のみならず広く消防団員の鑑として、かずかずの表彰(北海道消防協会、日本消防協会、消防庁長官など各級)を受けている。

<昭和49・11・3叙勲>
西村幸太郎  勲5等瑞宝章
 
 昭和13年に西村組創業。
湧別町消防団第1分団長〜副団長〜団長(6年間)、湧別町議会議員(5期20年の間に社会文教など3委員長歴任)として町政に貢献。
 ほかにも遠軽地区交通安全協会湧別支部長〜本部副会長、湧別土建協会長、遠軽地区建設業協会長、遠軽信用金庫理事など公益に尽粋。

<昭51・11・3叙勲>
豊島ムエ  勲6等宝冠章

 大正10年に北海道庁産婆資格試験に合格、同13年から湧別において開業し、以来60年にわたり多くの出産を手がけ、母子衛生に寄与して、かずかずの表彰を受けている。

 現在は湧別老人クラブ副会長として活躍している。

<昭51・11・3叙勲>
豊原正一  勲5等瑞宝章

 大正12年に郵便局勤務に入り、昭和18年から51年まで湧別郵便局長の職にあった。
 この間、民生児童委員(5年)、保護司(28年)、遠軽地区調停委員(33年)、町社会福祉協議会会長(21年)、湧別町および遠軽地方衛生団体連合会長、遠軽保健所運営協議会常任委員、公民館運営審議会委員長など多くの公職を努めた。

 ほか栄町町内会長・区長(35年)など自治行政に貢献した。

<昭53・11・3叙勲>
鍵谷薫  正6位勲5等瑞宝章

 昭和22年以来連続7期28年にわたって町議会議員をつとめ、その間、議長にあること5期20年間におよび、町政伸展に貢献した。
 また、遠紋地区議会会長、網走管内町村議長会副会長、湧別町農業協同組合長、町開発期成会長、町観光協会長、人権擁護委員など幅広い分野で活躍した。

 昭和54年6月28日死去。

<昭54・6・28叙勲>
佐藤富治  正6位勲5等双光旭日章

昭和22年以来連続8期32年にわたって町議会議員をつとめ、その間、副議長(2期8年)〜議長(2期8年)を歴任して町政伸展に貢献した。
 また、その一勝は漁業にも捧げられ、漁業組合総代〜監事〜理事に昭和13年以来任じ、同31年からは湧別漁業協同組合長(8年間)として、本町漁業の繁栄に尽粋した。

 昭和54年10月8日死去。

<昭54・10・8叙勲> 
藤根正重  勲6等単光旭日章

 昭和17年以来40年にわたって統計調査員として自治功労を重ねたほか、下湧別村会議員(昭19)、湧別町議会議員(昭30)として、また、民生児童委員(12年)、司法保護司(34年)、農業委員(12年)、上芭露区長(8年)として町政に寄与した。

 現在はさらに町老人クラブ連合会長としても活躍している。

<昭56・11・3叙勲>
多田直光  勲6等単光旭日章

 昭和7年から下湧別村会議員2期、戦後は同26年から町議会議員を4期つとめたほか、農地委員、区長、農業委員会委員〜会長(4期)、教育委員(1期)、監査委員(1期)など町政に貢献し、さらに芭露農業協同組合役員(8年)、農業共済組合長(9年)としても尽粋した。


<昭39・11・3叙勲>
和田収  勲6等単光旭日章

 昭和11年に下湧別村会議員となり1期をつとめたが、自治功労の最たるものは統計調査員として、昭和2年以来50余年にわたる努力のあとである。



<昭42・5・11叙勲> 
大島繁利  勲5等双光旭日章

 大正15年に函館師範学校を卒業して教職に就き、本町には湧別尋常高等小学校訓導(昭5〜13)、計呂地小中学校長(昭27〜31)、湧別小学校長(昭31〜42)として延23ヵ年の永きにわたって奉職し、湧別小学校長を最後に勇退した。

 昭和48年2月26日死去。
地域における教育活動への情熱と貢献のほどは大きかった。

<昭48・2・16叙勲>
島崎卯一  勲5等瑞宝章

 対象5年11月に芭露郵便局長として着任し、昭和35年8月6日に死去するまで、芭露局長の職責に加えて全国特定郵便局長会理事、北海道特定郵便局長会会長もつとめ、村(町)内にあっては永年にわたり区長、村会議員、村農会長、信用組合長、村森林組合長(14年間=昭28に林野庁長官表彰、昭29に農林大臣表彰)などの要職にあった。


<昭35・8・6叙勲>
長沢政市  勲6等瑞宝章

 昭和12年に下湧別村消防手となり、以来、同42年12月に退任するまで消防一筋にあゆみ、その間、分団長(昭22より)、副団長(昭32より)など幹部団員として消防の設備の充実や除雪の促進に意をくだき、ほかにも町議会議員、区長、交通安全協会上芭露支部長などをつとめた。



<昭54・4・29叙勲>
渡辺精一  勲5等瑞宝章

 ハッカの祖といわれる渡辺精司の長男として生まれ、父とともに4号線に入地し、北湧尋常高等小学校卒業後、郵政畑に進むことを志し、明治39年に湧別郵便局に勤務、以来、遠軽、上湧別、東京の各局勤務を経て、大正10年に上芭露郵便局長代理〜同15年に上芭露局長となり、昭和30年まで郵政に尽粋した。
 同39年11月死去したが、この間、勲8等瑞宝章(昭17・4)、従7位(昭20・4)を受けている。


<昭38・11叙勲>

なお、叙位叙勲以外に、「社会公共のため多額の資財を寄付」した人に贈られる「紺綬褒章」を、次の人々が受けている。

 西村幸太郎(昭39・4・18=赤十字社道支部事業資金、昭46・5・26=町社会福祉会館建設資金)
 国枝与之助(昭46・9・26=町公民館図書購入費)
 遠軽信用金庫(昭49・7・31=町中央公民館どん帳制作費)
 佐藤章(昭55・2・27=開基100年記念事業費)
 西村フジ(昭55・4・26=町社会福祉施設費)
 山口金之助(昭55・4・26=町開基100年記念事業費)
 黒田実(昭55・12・26=町社会福祉施設費)
 鍵谷薫(昭55・12・26=住民福祉のため)
 野原信(昭56・1・31町開基100年記念事業費)
 福岡ヤエ(昭56・4・26=町青少年教育振興資金、昭57・4・28=同)
 土井重喜(昭57・5=町漁業振興資金)

(8)年輪を記念して
開町60周年
記念式典
 昭和32年は開基75年・開町60周年の年輪を迎える佳節の年であったが、人口13,600〜13,800人台で推移した戸口の最多期に当たり、町制も5年目を迎えて地につき、町づくりの面でも、懸案の「新農村建設計画町村」(昭28)、「農山漁村振興計画町村」(昭31)、「高度集約酪農地域」(同9の指定、この年8月の登栄床漁港修築完成と湧別漁港の国費着工など、大いに意気上がるものがあった。
慶祝行事は大通りに建てられた奉祝塔のもと、9月14日夜の提灯行列にはじまり、翌15日の記念式典をはさんで、16日まで3日間にわたって展開された。 主な行事は、

 15日 小中学校児童生徒の旗行列、自衛隊音楽隊のパレードと公開演奏
 16日 町民運動会
 14〜16日 美術・華道・児童生徒作品展、産業振興大会
などであった。

 記念式典は15日午前10時から湧別小学校において、240余名を招いて挙行され、席上、次の人々が記念表彰を受けた。

 名誉町民  大口丑定
 自治功労者  大口丑定、高須実、清水清一、小林定次郎、越智修
 消防功労者  加藤光蔵、長沢政市、大口秀和、小湊金一、玉井隆義、深沢豊
           中内武男、石田義雄、久保武雄、渡辺小太郎、吉竹房之、山際角市、
           飯坂末吉、窪内源吉、伊藤豊治、吉竹桝太郎、林重兵衛、兼田金之助
           伊藤音松
 産業功労者  国枝善吾、島崎卯一、中原円次郎、小川清一郎、友沢喜作、峰田繁蔵
           阿部秀吉、豊島幸之進、池田伊佐治、田宮亀松
 教育功労者  安藤おこ、小松孝寿
 社会文化功労者  落合マサ
 節    婦  佐藤フミ、増田はるえ
 考    子  佐藤薫

 
開基70周年
記念祝典
 昭和32年の開町60年から10年を経て、開基85年・開町70周年にあたる昭和42年を迎えたとき、本町の人口は9,560人と、1万人を割っていた。 10年の隔たりの間に過疎化現象が進行していたことは、躍進「大湧別」を描いていた町民に、少なからず寂漠の感をもたらさないでもなかったが、「林業構造改善事業」(昭39)、「漁業構造改善事業」(昭40)、「農業構造改善事業」(昭41)の指定による産業振興の展望もあって、厳しさの中にも新しい局面に対する意欲が町民の間に盛り上がっていた。

慶祝行事は「開基祭」と名づけて、9月15日の記念式典をはさんで、14〜16日の3日間にわたって展開され、主な行事は、次のようであった。

14日  提灯行列
15日  旗行列、舞踊パレード、自衛隊音楽隊パレードと公開演奏、民謡と舞踊の会、映画会、記念講演会、声くらべ腕くらべ
16日  少年少女陸上競技大会、町内野球大会、柔剣道大会
14〜16日  写真展、俳句展、短歌展、鉱石盆栽展、生花展、書道展、児童生徒作品展

 ほかに記念事業として、町旗制定と記念映画制作(札幌テレビ放送=STV制作)が行われた。

 記念式典は15日午前10時から湧別小学校において、約300名を招いて挙行され、席上次の人々が記念表彰を受けた。


産業開発功労者  加藤友吉、三沢義男、西川治六、新海忠五郎、大沢一男

社会功労者  豊島ムエ

消防功労者  金井潔

教育文化功労者  小川市十、深沢近則

土木功労者  阿部三義

節    婦  吉井鶴尾、庄司ヨシ、伊藤マツエ

篤行者  多田光男、中尾正一、中原久子、登栄床船舶乗員相互組合(工藤清二代表)

 また、開基祭のために「開基85周年奉賛歌」と「奉賛音頭」が創作され、前者は式典や旗行列で、後者は振付もされて舞踊パレードや祝典で披露された。 ともに佐藤信雄作詞、松里明作曲である。

 【開基85周年奉賛歌】

潮明るき湧別の 開基85周年
栄ゆく町の晴姿 古き歴史を偲びつつ
洪の喜び高らかに
祝えや祝え いざ我等(以下各節同じ)

光り輝く湧別の 開基85周年
汗にまみれて父母が 原始の森を拓きたる
茨の道を語りつつ

緑の山河湧別の 開基85周年
野にも山にもこだまする
      祖父の偉業を讃えつつ
明日の希望を朗らかに

 【奉賛音頭】

老いも若きも ソレ双手ををあげて
サアサみんなで 歌おうじゃないか
古く拓けて伸びゆく町の 花の栄を歌おうじゃないか
齢85 日に日にあらた
ソレキタ ヤレキタ ドントキタ(以下各節同じ)

野の幸山の幸 ソレ海の幸
海は文化の荷揚げ場所
古く拓けて栄ゆく町の 今日の歓喜を歌おうじゃないか
川は湧別 心のみそぎ

雪にも風にも ソレ嵐にも
町中こぞって行こうじゃないか
古く開けて基は固い みんな揃って踊ろうじゃないか
若い湧別 飛躍の朝に

町旗制定  開基85年、開町70周年を記念して制定された町旗は、青地に町章を白ぬきで配したデザインで、「町のしるしの町旗のもとに町民の友愛と団結の輪を」と、公式の集会や行事の際に掲揚あるいは揚吊し、また町外の行事への参加の際に携行したりしている。

(9)役場庁舎建設
新庁舎の落成  昭和3年に建てられた木造平屋建ての役場庁舎は、その後、幾たびとなく増改築が行われたものの、その外観はほとんど建築当時のたたずまいを保って経過し、町の歴史を映した文化財的建造物として町民に親しまれてきたが、老巧化には勝てず、加えて事務量の増加に伴う狭隘をきたしたために、事務能率向上にふさわしい新庁舎の建設が計画された。 町議会の議決を経て「庁舎特別委員会」が設置され、開基95年、開町80年の記念事業として、昭和52〜43年の2ヵ年計画で完成をみたものである。 概要は、
 建築名称  湧別町庁舎
 建設地    栄町112番地
 敷地面積  9,454・06u
 建築構造  鉄筋コンクリート造地上3階および塔屋2階建(外壁レンガタイル貼り)
 建築面積  1,040・92u
 建築規模  2,787・26u
    地上1階  958・268u
    地上2階  904・807u
    地上3階  859・806u
    塔屋1階  32・388u
    塔屋2階  32・388u
 工   期  昭和52年9月〜53年9月
 建設費    5億210万5,000円
 内   訳
       庁舎  2億8450万円
       設備  1億3305万5000円
       外庭  3800万円
       備品  4655万円
で、おもな機能は次のように配置されている。
 1階  事務室、会議室、書庫、用務員室、ロッカー室、町民ホールなど
 2階  町長室、助役室、応接室、事務室、会議室、書庫、放送室、印刷室、厚生室、ホールロビーなど
 3階  正副議長室、議員控室、委員会室、議場、議会事務局、会議室、監査および選挙管理員室、ホールロビーなど

議場テレビ放送設備  道内でもめずらしい施設として、カラーカメラやビデオ録画装置による議場テレビ放送施設があって、町議会のようそや町政の施策などについて放映され、傍聴席に入れなくても、ロビーで視聴できるようになっている。
町民ホールの彫刻 1階玄関を入ると町民ホールがあり、鯉や金魚が泳ぐ水槽がみられるが、その水槽の上の壁面に彫刻家多田美波作のステンレス彫刻「発祥」が掲げられている。 それには、多田美波の次のような感慨が秘められている。

 湧別の町を初めて訪れたとき、果てしなく広く美しい風景に、心も澄み渡る思いで魅せられてしまった。 そして、その静かな風光の中に、何かしら厳しい強さが秘められているのを感じた。 それは広大なオホーツク海に面して、日本の北の大切なところに位置しているということの強さからなのか・・・・それは、あたかも北へ向かって大きく羽を広げた不死鳥の姿のように思われ、私は、その鳥が、まさに羽ばたこうとする緊張した瞬間を表したいと思って作品を作った。 鑑の面には、この町の幾世代の人々や、さまざまな姿がいつも映ろい会い、作品はその動きと発展を、集まってくる人々に語りかけ、いつまでも見守ってくれることと思う。 発祥という言葉のように、この町から何か良いことがはじまってくれることを願っている。

 また、同じ位置で目を事務室側の上壁に移すと、そこには農民彫刻家松田与一(上川郡東川町)の木彫「開拓=働く農民」が掲げられていて、北海道開拓の先人の労を偲ばせている。

町長室の壁画  町長室の入り口と直面した壁一面に斬新なイメージの壁画が掲げられている。 画家花田和治の作品で、次のような花田和治の発想が秘められている。

 早春の日本海沿岸の漁村にスケッチ旅行に訪れた際、荒波に直接つき出して造られたコンクリートの防波堤に、砕け、突きあたる荒波の音と様を見て、これを主題、無骨ではあるが確かな堅牢さをもつ形態感と重量感、また、それに対する力強い動勢の対比、色彩においては北国の大自然を表現しようと試みた。





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