第4編 行  政 戦 前(2)

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第3章 下湧別村時代
 (1) 二級町村時代
  (2) 三大ドキュメント
  (3) 一級町村時代
 

第4章 苦難の戦争体験
 (1) 戦争と兵役
  (2) 銃後体制
  (3) 防空と戦闘体制
  (4) 戦没者の慰霊
  (5) 悪夢の機雷事故
  (6) 生産および物資の統制
  (7) 敗戦と終戦
 

第3章 下湧別村時代

(1)二級町村時代
村長と収入役  明治43年4月1日の上湧別村の発足に伴い,湧別村長兼重浦次郎は下湧別村長とともに上湧別村長兼務を任命されたが、同年5月25日で上湧別村長専任となり、下湧別村長の後任には、森製軸工場支配人であった藤田松之助が就任した。しかし、在任わずか8ヶ月で翌44年1月に退任した。 そして後任人事で一波乱が起きた。

 後任村長を巡って、地元の宮崎簡亮を推す動きが台頭するいっぽうで、部長会議では官選者を望む多数意見がそれに対抗し、官選任命を請願するまでに深刻な対立を生じ、4ヶ月にわたり抗争がつづいて、その空白を上席書記が職務代行した。結果は宮崎簡亮の任命をみたが、宮崎村長もサロマ湖〜湧別港運河問題(後述)など波紋を残して、在任14ヶ月で退任した。 地元から任命されたのは、あとにもさきにもこの二人で、他は官選吏員が任命されて経過した。 分村後の歴代村長は次のとおりである。

 
 兼重 浦次郎   明43.4.1〜43.5.25  池沢   享   大元.8.23〜3.5.31 
 藤田 松之助  明43.5.26〜44.1  三浦  忻郎  大3.7.3〜5.7.7
 代行有地護一  明44.1.25〜44.5.31   樋口  金蔵   大5.8.22〜7.1.6
 宮崎  簡亮  明44.6.1〜大元.8.22  桧森  憲一  大7.1.7〜10.4.7
 金田  虎吉  大10.4.8〜11.3.19  武藤 藤五郎  昭2.12.19〜4.9.14
 国上 国太郎  大11.3.20〜12.10.8  堀川  重敏  昭4.9.15〜7.11.17
 関坂  半治  大12.10.9〜14.6.11  高木   勉  昭7.11.18〜10.7.11
 中村  与吉  大14.6.12〜14.11.9  森垣  幸一  昭10.10.1〜15.7.24
 小坂 武十郎  大14.11.10〜昭2.12.18 

収入役は、湧別村時代に選任された藤島倉蔵が、分村後も留任し、翌44年に退任したが、以後の二級町村時代の歴代収入役は次のとおりである。

 西沢収柵 (明44)、福山直人 (明45・3)、有地護一 (大2・9)、小玉九助 (大10・9)、吉田網貞 (昭8・10)

村会と議員選挙  分村当時の戸口の分布は、湧別市街(郵便局集配区上)の320戸を主として、80余%が湧別地区に集中していて、ほかは芭露方面地域180余戸と、明治43年7月に床丹浜に移住したマッチ軸木工場の従業員約30戸に過ぎなかった。 こうした先進地域と後進地域のアンバランスは、地域の代表的性格をもつ村会議員の選挙結果にも反映した。

 大正デモクラシーの風潮は、それまでの資産や納税額などで選挙権が定められる「制限選挙制」撤廃の声となり、強大な世論に押されて大正14年3月の国会で「普通選挙法」が成立し、25歳以上の男子は身分や財産などにかかわりなく選挙権を有することになって、昭和3年の選挙から適用されるとともに、

  1,委任投票制の廃止
  1,議員定数を24名とし、任期を4年に延長

の処置が行われた。 これにより委任投票時代にあった入場争いや滞納税金の肩代わり(買収)などの弊害が除去され、委任状にまつわる、

 選挙紛擾 去る23日執行の下湧別村会議員補欠選挙に於いて浜市街地の部長大益恒夫なるもの内山某を選挙すると称し委任状を集め尾形某を選挙当選せしめたるを以て選挙人の全部は非常の激昂をなし其取消の申請を提出せしむと日々紛擾を極め居れり  <明44・6・3「北海タイムス」>

といった紛議も姿を消し、有権者も次のように増加した。
区   分   戸   数     男子人口     有権者数    男子人口中有権者比率 
年   次
制 時


挙 代
 大  2 979 2.546 334 13・11%
 大  4 1.520 3.458 443 12・52%
 大  8 1.444 3.732 457 12・45%
 大 15 1.752 5.380 632 11・75%
昭   3 1.485 4.559 1.638 35・92%

また、投票所は、昭和7年に志撫子に増設されたが、昭和11年からは湧別、上芭露、計呂地の3ヶ所になり、有権者も昭和7年の1,916名から同11年は2,182名と増加した。 なお、昭和15年の選挙については一級町村時代に記載することとする。

道会および
国会議員選挙
 道会議員は定数が大正2年に42名に、任期が銅年に4年と改められたが、紋別郡からの出馬はなかった。 同9年に定数が52名に増員され、網走支庁管内定員が4名に、同13年に定数が55名、管内定員5名に、昭和3年普通選挙法の施行、道1年に管内定員が6名にと、選挙規模が大きくなる過程で、本町も含めた紋別郡からの立候補がみられるようになり、次のような成績であった。

□ 大 9 岩田宗晴(渚滑)が当選したが、大正10年12月26日死去し、田口源太郎(雄武)が翌11年5月1日繰上当選
□ 大13 田口源太郎が当選、信太寿之(遠軽)は次点
□ 昭 3 大西真平(紋別)と信太寿之が当選、谷虎五郎(下湧別)は最下位902票で落選
□ 昭 7 神沢順亮(興部)が当選、谷虎五郎は2,686票で次点
□ 昭11 谷虎五郎、古屋正気(紋別)、土田巳之助(同)が当選
□ 昭15 谷虎五郎(最高得票)と多田輝利(興部)が当選

 いっぽう衆議院議員選挙では、明治末期〜大正年代にかけて網走支庁管内からの当選ではなく、昭和3年の普通選挙法施行後はじめて2名が選出されたに止まっている。

 参考までに道会議員及び衆議院議員の村内有権者は次のようであった。 なお衆議院議員と道会議員の開票事務は網走支庁で行われたから、投票箱は警察の護衛つきで網走まで送られた。
年     次 昭   7 昭   9 昭  11
選  挙  別
道会議員選挙 1.822 1.873 2.030
衆議院議員選挙 1.871 1.926 2.155

役場機構の変遷  二級町村ゆえに役場及び吏員の処務規程は長官の許認可事項であったから、前章で触れたように、明治39年4月に湧別村役場処務規則が設定されたが、その後改正されたのは大正7年に設定された65条に及ぶ処務規則で、事務分掌わ抜粋してみると次のようである。

  達第1号                                   場中一般
 下湧別村役場処務規則別紙之通相定め大正7年4月1日より施行す
 但明治39年4月25日達第3号湧別村役場吏員処務規則及同年6月20日第5号文書編纂保存方法は之を廃止す
  大正7年3月21日
                                           下湧別村長  桧森憲一
  処務規則    第1章   事務分掌
 第1条 第1科に庶務勧業(土木を所管すZ)教育、衛生、戸籍、兵事の各係を置き左の事務を分掌す<左省略>
 第2条 第2科に税務財務の各係を置き<以下略>
 第3条 第3科に出納係を置き<以下略>
 第4条 各係に主任を置く、事務の都合により兼務を置くことあるべし、但し出納主任は収入役を以て之に充つ
 第6条 当庁に到着したる文書は凡て村長に於て之を受け開封し検閲し上席書記に公布す<以下略>
 第9条 文書は凡て村長の決裁を経て処分す、収入役名を以て発送する文書は此の限りにあらず、但し村長に提出前に於て他係に関係あるものは之を合議し在庁上席書記を経決済を受くるべ


こうして執務の責任所管体系が明らかになったが、されに大正9年3月に一部が次のように改正され、一層の充実をみた。

 第4条 各科に主任各係を置く、主任は科務を掌理す、主任事故あるときは首席の係員之を代理す<中略>係員事故ある時は兼務の首席係員に於て之を担任す
 第9条 文書は凡て主任及在庁の上席書記を経村長の決裁により処分すべし、但し他係に関連あるものは村長提出前当該係員に合議の上此の手続きを為すべし、軽易なる事件は主任限り処分することを得

 この三科制は、その後廃止されたとみえて、昭和6年12月末の有給吏員調では、庶務係、兵事係、経理係、土木係、税務係、戸籍係、畜産係、勧業統計係、教育衛生係に各主任がおかれ、兼任係3名を加え、11名の職員で係主任制が施かれている。 この時代の村吏員数の推移は、
役 職 村 長 収入役 書 記 書記補 技 手
年 次
 大 15 15
 昭  7 14
 昭  9 10 17
 昭 11 10 17
 昭 14 10 17

 
武区画の改新  明治43年の上湧別村の分村で、大きく縮小した下湧別村の行政処置として、部長制に基づく部の区画改編が行われ、村内を12部に分割した【第1図】。

大正9年になって、湧別市街一帯の小地域部区画の整理統合を行い、地域性に添った改正が行われ12部に再編された。【第2図】

が、この改正に対し、開拓以来の人的統合による地域感情から、次のような反対意見の具申がなされるという一幕があった。

     上申取下願
 本年2月25日より開会の本村会に於いて決議の結果本年4月1日より当郡第6部分割して第1部及第7部へ付属することとなりたり。・・・・町村制改正当時にありては部民の意見も区々にして行政上困難の事実を認めたるも、之が改正以来拾年の星霜を経るに従ひ人口漸次増加し現に70戸に垂れんとするの芻勢に至り殊に当部は部民一致団結共同心の美風を養い納税成績等も他の部に遜色する所なく・・・・行政の基礎も漸く鞏固の気運に向い申候、然るに此期に於て当部を廃し他の部に付随せしむるが如きは其当を失したる政策と思料せられ候・・・・・故に従来の通り存在の必要有之ものと思考仕候、如上の次第に付曩に本村会に於て決議の当部廃止の件上申取消申請下せれ度此段相願候也

ついで昭和3年に、第1部(市街)からトエトコを、第4部(信部内)から緑蔭を分区して14部(第2図)にするとともに、翌4年12月の村会で、

(1) 数字の区名がまぎらわしいこと。
(2) 昭和2年に区長制度が施行されたこと。
などから、字名を冠するように改められた。 改正の大要をみよう
改正原案 議会決定 改正原案 議会決定
 第 1部 浜市街区 湧別市街区  第 8部 下芭露区 芭露区
 第 2部 番屋区 トエトコ区  第 9部 上芭露区 同上
 第 3部 4号線区 同上  第10部 芭露東ノ沢区 東芭露区
 第 4部 川西区 同上  第11部 芭露西ノ沢区 西芭露区
 第 5部 信部内区 同上  第12部 志撫子区 同上
 第 6部 緑蔭区 同上  第13部 計呂地区 同上
 第 7部 東殖民地区 東区  第14部 床丹区 同上

右のうち東区から、昭和6年2月に福島団体が分区され、15区【第2図】で戦後までつづいた。

区長制度  昭和2年8月に二級町村制度の改正があり、それに基づいて、同年10月30日の村会で区長制が採択され、区長の推薦決定をみているが、二級町村制改正の要点は次のようであった。

 第71条 町村は町村会の議決を得て処務便宜の為め区を画し区長及代理者1名を置くことを得、区長及其の代理者は名誉職とす、
       町村公民中選挙権を有する者より町村長の推薦により町村会之を定む
 第84条 区長は町村長の命を承け町村長の事務にして区内に関するものを補助す

 
こうして、部長制度に代わって登場した区長制は、昭和18年3月31日に戦時隣保班制度(町内会、部落会)が確立されるまで存続したが、区長職は部長職と同様に条文で名誉職とされていて、町村からは実費支弁がなされるだけであって、実質的に報酬となるような支弁借置はなかった。 部長時代の実費支弁は年額10円であったが、区長になって年額30円に増額され、昭和3年からは実費弁償日額1円50銭に改められた。
 昭和5年に区長及び区長代理者の決定権が町村長に委任された結果、任免は村長の職権となったが、区長は本来の職務以外に区統率の中心的役割という側面を持っていたので、いきおい区民の信任を得た者が任命されるという慣例を生ずるにいたった。 さらに村勢の発展〜戦時様相と進行する中で、区長の業務量が次第に増大し、家業に影響するような事態も多くみられるようになったことから、そうした実情を補う方法として、区費で相当額の報酬を支弁し、職務遂行に支障のないよう配慮する慣習もみられるようになった。

役場庁舎建設 明治30年7月に28坪5合の庁舎で開村して以来、増修築を重ねて(明40=23坪5合)村政の中核機関の役目を果たしてきた由緒ある庁舎も、30年余を経て老巧し、村勢の膨張に適しきれなくなったため、昭和3年に85坪5合の新庁舎が建設されたが、当時としてはモダンな建物であった。
 次いで昭和11年には待望の議事堂も付設されて、以後、現庁舎の実現(昭53)まで増改築の手が加えられながら役場機能を維持してきた。































戸口の増勢  明治43年の上湧別村の分村で、下湧別村となった本町は、戸数においても50%以上の減少をみて,小じんまりしたたたずまいの村勢になった。
区   分 戸数 人口 備考
年  次
 明 42 2.094 10.042  分村前
 明 43 864 4.209  分村後
 減少率(%) 57・3 58・1
 残存率(%) 42・7 41・9

     【人口3000以上を有する町村】   (明治44年末現在)
郡 町 村 名 戸   数 人       口
 常呂郡野付牛町   2.052    5.384    4.643    10.027 
 紋別郡上湧別村 1.454  3.532  2.891  6.423 
 網走郡網走町 1.311  3.462  2.897  6.359 
 紋別郡渚滑村 908  3.406  2.150  4.556 
 紋別郡下湧別村 970  2.310  2.187  4.497 
 紋別郡紋別村 754  2.111  1.508  3.619 
 斜里郡斜里町 793  1.727  1.523  3.250 

しかし、当時の網走支庁管内のすう勢(前項の表)からみると、いぜんとして管内有数の町村であったことに変わりはなく、

 その後、周辺原野の増区画払下げが相次いで(開拓編参照)、地域戸数が増加し、現在の東芭露、西芭露、志撫子の部区画が大正2年に増設されるまでになった。 されに第1次世界大戦の農産物の輸出ブームで、ケロチ、床丹方面の原野をはじめ各地に来住者があったが、これに拍車をかけたのが大正5年に開通した湧別線鉄道の利便であって、農産物の市場性を飛躍させ,亜麻工場の建設、湧別市街地形成の進展があり、さらには芭露方面の充実がみられ、大正5年の村会議員選挙では、定数12名のうち芭露2名、上芭露2名、床丹1名と、従来の2名から一躍5名の当選を果たすまでになった。

     【全村】
区 分   戸    数    大2比増加率  人   口  大2比増加率 
年 次
 大 2     1.286  −%      5.944  −% 
 大 4 1.553  20・7  6.813  14・6 
 大 6  1.717  33・5  7.518  26・4 

     【湧別市街】
区 分   戸   数     大2比増加率    人   口    大2比増加率 
年 次
 大 3  157 −% 789 −%
 大 6 331 110・5 1.655 109・7

しかし、第1次世界大戦後の反動不況と水害や冷害による相次ぐ凶作の二重の苦しみから、大正7年以降の人口は、かなり複雑な消長をたどっているが、特に男子人口に曲折があるのは、遠隔地への長期出稼ぎなどの厳しい生活苦を映したものと思われる。
区 分 人       口
年 次
 大  6        4.078      3.440      7.518
 大  7 3.732 3.470 7.202
 大 10 5.949 3.581 9.530
 大 11 3.863 3.262 7.125
 大 14 5.380 4.758 10.138
 昭  2 4.559 4.040 8.599
 昭  3 5.256 4.657 9.913
 昭  4 4.986 4.417 9.403

人口1万人台に定着  湧別村時代に1万人を突破したことは概述したが、分村で半減以下となった人口が、再び1万人を突破したのは大正14年のことである。 しかし、前項で記したように、それはその年1年のみで消えてしまい、確実に1万人台に定着を印した初年度は昭和5年の10,416人であった。 そして同9年11,445人、同10年12,276人と伸びてピークを示した。
 区 分 戸  数 人     口
 年 次
 昭  6     1.720    5.332    4.816    10.148
 昭  8 1.740 5.508 4.988 10.496
 昭 10 1.959 6.547 5.729 12.276
 昭 12 1.917 6.358 5.816 12.174
 昭 14 1.863 5.763 5.654 11.417

 参考までに、当時の地区別戸口をみると次のようである。 <(村勢要覧より)>
年 度 昭6 昭8 昭10
区 名 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口
 湧別市街  375 2.213 372 1.950 410 2.291
 トエトコ 69 407 75 573 98 854
 4号線 108 637 112 598 110 561
   東 84 495 89 540 89 544
 福島団体 16 95 14 74 29 155
 川  西 68 401 67 431 75 532
 信部内 43 253 48 303 44 283
 緑  蔭 48 283 53 298 39 230
 芭  露 191 1.127 187 1.067 235 1.469
 上芭露 153 902 159 987 175 1.128
 西芭露 61 360 62 464 64 468
 東芭露 137 809 131 822 153 917
 志撫子 109 643 119 798 135 901
 計呂地 155 915 143 915 183 1.153
 床  丹 103 608 109 676 120 790
  1.720   10.148 1.740   10.496   1.959   12.276

波乱含みの村財政  上湧別村の分村で面積や戸口に大幅な変動をみた下湧別村は、財政面も大きな変動を生じ、次項の表のように大幅な縮小をみた。

区分 歳入総額(円) うち税収額(円) 歳出総額(円)
年次
 明 42   21.501.075   16.897.846   21.474.034
 明 43  10.141.446 8.266.120 10.140.367
 減少率(%) 52・82 51・09 52・79
 残存率(%)  47・15 48・91 47・21

 この財政規模は大正3年まで、ほとんど変わらず、税収8,000円台が維持され、分村前の歳入に対する税収率69・53%に対し、わずか4%余上回る程度であった。 従って歳出面でも教育費の50・86%が、分村前の49・3%をわずかに上回った程度で、分村前の様相とさして変化はみられなかった。 しかし、その裏には未開地開拓の進展に伴う必然的支出増からくる住民負担の増高対策と、支出抑制の並々ならぬ苦心があった。 明治44年の村会では、

 道路修繕の如きは一般の経費を以て充つる如きは村財政困難の場合、到底其任に堪えざるを以て、年々幾分の補理修繕を為し稍々完全の道路を作るにみ・・・・・

という提案理由で夫役賦課が実施されたが、結果的にあまり効果があがらなかったため、一回で中止された経緯がある。 夫役賦課については、その後もしばしば論議され、大正6年にいたって再実施されているが、これは課税が限界にあったことを物語るものである。 また、大正2年の大凶作は、住民の経済力を著しく低下させ、これに対処する役場の執務状況は、

 早出晩退夜勤をなす等、孜々として勤務するも、最緊急事件を処理する有様にて滞納処分の如き着手余裕なく・・・・

とあって、滞納処理などの事務遂行よりも、支出増加の抑制に懸命であったことがうかがえる。 しかし、地域戸数の増加で、志撫子、芭露東の沢、同西の沢などの教育施設をはじめ緊急を要する支出増加があって、赤字決算に陥り、大正3,4年と、この状態は改善されなかった。

 大正3年に第1次世界大戦が勃発すると、わが国の経済は輸出貿易の活況によって、大戦景気を招来したが、異常なまでの景気は諸物価の高騰をもたらし、その上昇率は大正3年の物価指数を100として、同7ねんには230に達する勢いであった。 当時の物価情勢を知る資料として、役場の物品購入見積書に次の数字がある。
 品  目  木炭(1貫) 石油(1かん)  薪(1敷)  新聞(1年) 美濃白紙(1帖)
 年  次
 大  3  3銭5厘   2円40銭   1円30銭  6円00   1銭5厘
 大  8  11銭       5円50銭  4円50銭   8円40銭  3銭0  
  米価(石当)  大正4年12円47銭 大正5年13円26銭 大正6年19円35銭 大正7年31円82銭

 このため、低所得者層の生活は脅かされ、特に大正7年の米価の高騰は、全国各地に米騒動が発生するほどの恐慌となった。 こうしたインフレーション状況を反映して、財政支出は事業量の少々の伸びを超えて、著しい膨張を示すに至った。
 区 分 歳出決算額
  (円)
増額倍率
 年 次
 大  3  14.763.343
 大  8 46.073.110 3・12倍

こうして膨張をみた村財政であったが、鉄道開通で大正5年末には人口7,000人台に達するという村勢にかんがみ、教育施設をはじめ当面の緊急事業に追われて、財政的にはむしろ窮迫の度を深めていったのである。 その一端を物語るものに、大正6年初めの村会に提案された基本財産の蓄積停止の案件があり、その理由として、

 本年度は鉄道開通第一年目の新生面の本村として凡ての事業革新と共に経費の増加を来すは免かるべからず、然るに熟を財力を顧みれば其の財源に乏しく付加税戸数割の如く制限外課税を為し、尚其の補充として反別の特別税を課する状態又歳計剰余金を予想するに主として未収入の為の事業の繰延等に剰余として実現するは極めて僅少ならん

とあり、村政全般を制約する形となっていたことがうかがえる。 そして、赤裸々に案件提案の素地を物語るものに、大正4年の伝染病(腸チフス)による羅患者42名ということから2,000余円を計上して同6年に完成した隔離病舎、税外負担として同6年に復活した夫役賦課がある。 夫役は戸数割等級を基準として各戸出役日数を定めて、道路工事など関係住民に直接労役負担を求めるもので、金銭で代えることもできたが、あくまでも出役が原則であった。 大正6年の夫役は予算(出役労務の金員換算)943円に対し、決算320円で、あまり実効があがらず、またも一年で廃止され、その後復活計画はあったが村会で否決され、されに実施されることはなかった。
 収入区分    歳 入 総 額   
    (円)  
   うち税収入額    
     (円)   
 年   次
 大   3 14.349.347 11.418.550
 大   6 21.837.964 17.765.180
 大   8 51.060.155 31.541.860

かといって、鉄道開通による産業開発への画期的な刺激と、電話、伝統など文化施設の導入といった社会情勢を反映して膨張する行政費の主要財源が、村税を核とすることは従前と少しも変わりなく、物価高にともなって増大する財政規模に歩調を合わせて、うなぎ昇りの増税が課せられ、住民負担力の限界を超えんばかりであった。

 この状況は、大正9年2月29日に村会で議決された増税許可申請の理由に、つぎのように記されている。

 本年度も数年以来の物価騰貴に依り、凡て施設事業即ち教育、役場、衛生、土木、警備、勧業、その他の費用は自衛上万止むを得ざる程度に止め頗る消極的方針を以て計上したるも、財産至って乏しく村税その他の歳入に依るも、3万8千396円余に不足を生ずるを以て戸数割付加税に於て8倍5分の課税をなし尚国税付加税最高限及地方税付加税は1倍5分、外に特別税区別割の増加を為し以て収支の調節を計る・・・・・

こうして、膨張と増税をつづけた村財政は、大正15年度予算では次のようになり、分村時に比し9・66倍に達した。
予算区分  予 算 額   備         考
歳入予算 79.517 うち村税   56.546円



経常部 68.760 うち教育費  36,685円
臨時部 10.757 うち教育費   4.923円
79.517 うち教育費  41.608円
昭和2年に税制改正があって、地方税戸数割が廃止されたことから、本町では財源補充のため、次のような規則(全文9条)を定めて特別税戸数割を創設している。

   特別税賦課徴収方法
 第1条 本村に特別税戸数割を設く。
 第2条 戸数割総額中納税義務者の資産の状況に依り資力を算定して賦課すべき額並戸数割納税義務者各個の資力は毎年度村会の
      議決を経て之を定む。
 本方法は昭和2年度分より之を施行す。


そして、初年度の新税賦課額は、村会において村税総額の100分の56・61とされたが、前年と比較すると次のように増税する結果となった。
 区 分  税       別   予 算 額    備            考
 年 度
 大 15 戸数割 30,475円  本税5,422円の1円に対し5円60銭の割
 昭  2  特別税戸数割 35,475円  1戸平均22円17銭

村有財産の蓄積と運用  町村設立の初期から住民負担を緩和し、財政安定を計るために、基本財産の造成蓄積が奨励され、明治38年10月には道庁告示で区町村基本財産造成規程も公布されて、経常費の2分の1を基本財源から支弁できるよう特別会計を設けて造成すべきことが明示されていた。 本町でも同39年に基本財産造成規則を制定して、土地や山林の取得が行われ、大正8年2月末には、

  畑地  186町3422歩
  山林  596町5119歩
  原野   41町4405歩
の蓄積をみている。

 この間、大正6年3月の村会で蓄積停止が議決されたことは、前項で概述したが、翌7年になって、物価高騰による財源借置として、次のような基本財産処分がなされている。

  字シュブノツナイ2,405番地
            山林596町5119内
 1, 立木  目通5寸以下及楢を除く  此予定価格金弐万円以上
 理由  最近木材の市場価格は前古未だ曽て聞かざる騰貴にして、今や最も売却の好機に際会す、近年物価の暴騰は言ふ迄もなく、欧州戦乱の影響なるを以て、戦争終息して平和克復に到らば、次で来るべき経済戦争の為価格調節否寧ろ低下の時運に遭ひ到底現在市価の持続せざるは逆賭するに難からず・・・・・

しかし、財産造成方針は踏襲されて、大正8年には湧別原野308町歩余りの払下許可を受けるなどして、大正15年度には、つぎのような蓄積をみている。
区   分 面   積 価   額 
(円)
財産区分
 土   地 977町723 29,334円300
 建   物 1,512坪1 15,120円000
 有価証券 8,890円000
 預   金 31,404円888
84,749円188

   上表でみられる建物は、土地の一部と共に、厳密には基  本財産に対し「行政財産」と称される性格のもので、役場、   学校ほかの公共施設の建物や用地に該当するものである  。 昭和年代に入ってからの各種記載や報告では、明確に  行政財産と基本財産に分けており、統合して「村有財産」と  称している。 以後の村有財産の蓄積と運用収益の状況を  みよう。




     【昭和6年】
 区   分   行 政 財 産 基 本 財 産 収入額
 財産区分  数  量   時  価   数  量   時  価   数  量   時  価 
 土   地 6.241反529 36.777円 8.192反405 65.255円 14.433反934 101.031円 16.062円
 建   物  48棟2.613坪 65.570円 - - 48棟2.613坪 65.570円 -
 有価証券 - 252円 - 251円 13円
 預金貸金 - 7.991円 - 7.991円 99円
102.346 - 73.498円 - 175.844円 16.174円

     【昭和10年】
 区   分  行 政 財 産 基 本 財 産  収入額 
 財産区分  数  量   時  価   数  量   時  価   数  量   時  価 
 土   地  13.541反525 27.741円  8.142反405 85.255円 21.684反000 92.996円 2.531円
 建   物 52棟3.279坪 70.700円 - -  52棟3.279坪 70.700円 -
 有価証券 - 320円 - 320円 12円
 預金貸金 - 21.625円 - 21.625円 747円
98.441円 - 87.200円 -  185.641円 3.290円

外債依存財政の軌跡  住民の村税負担が極限に達する中でも、民度の進展から行政需要が増高し、大型財政投資を余儀なくされたが、昭和年代に入ってからの連続凶作による窮乏の一時期、本町ではどんな財政借置が図れていたのだろうか、昭和9年の「村勢概要」から抜粋して、苦心のあとを推測しよう。

 昭和6年及同7年は稀有の凶作に遭遇し、村民財政も極度に疲弊窮乏せるに拘わらず村税特別税戸数割1戸当負担額20円67銭、其他12円58銭にして実に村税1戸当33円25銭の多額にして、負担状況に対しては大に考慮を要する次第なり。
 而して本村財政は学校建築のため起債せるものの未償還金39,072円其の他の起債未償還金15,100円計54,172円を存し、外に基本財産支消金74,300円を存す。 之が償還年次は
 自昭和9年度 }
           }毎年  14,000円
 至昭和14年度}
 自昭和15年度}
           }毎年  10,000円
 至昭和17年度}
 自昭和18年度}
           }毎年   6,500円
 至昭和27年度}
 自昭和28年度}
           }毎年   5,000円
 至昭和31年度}
 以上の如くにして自昭和9年度至同14年度の6ヶ年間に償還すべき財源を仮に戸数割に求むるとせば1戸当負担8円41銭を増加して村税総額1戸平均40円84銭を負担すべき事と成り現今の窮乏せる村民に於いては全く不可能の事に付き此処に財政整理を断行し、起債を償還し、基本財産の支消金のみとして長期の償還方法に編成換を為さば村財政も確立すべきものと思考す。 即ち未償還額5万4,172円を
 立木処分に依り     35,000円
 民有未墾地開放に依り 8,465円
 自作農創設に依り    7,500円
 基本財産現金支消    3,207円
 計54,172円を得て起債を償還し、右立木処分の打ち33,000円は補填の必要なきものに付き補填すべきもの21,172円にして前記の概支消金74,300円を加え95,472円を長期償還即ち年利3分として49年々賦と為すときは毎年4000円内外の償還金にて全部の負債整理を為し得るに依り村民の負担の按配、村財政の緩和を図らむとするものなり。


さらに、これが昭和12年の「村勢概況」になると、次のようになっている。

 昭和6年以来4度に亘る稀有の凶作の影響に依る歳入欠陥補填並救済工事費に充当するため起債したる外債と基本財産支消金更に各種の事業費に充当の必要に依り支消金等合計して未償還元金9万8164円の多きに達し之を現在戸数の負担とするときは1戸当52円有余となり・・・

しかしこれは後述する戦時財政の中で解消された。

村税比率軽減の道程  二級町村制の性格は、財政執行面においても強制予算制がとられ、官治的な監督干渉が加えられていた。 自治的な議決機関のはずの村会であっても、村長が議長を兼ね、予算案は提案前に支庁長の審査を承け、議決事項はすべて支庁長に報告し、寄付採納(土地、建物など)、団体助成(補助金交付)、規則の設定改廃なども、許可を受けなければならなかったから、自主財源の乏しさからも、必然的に自治行政にはほど遠い行財政におかれざるを得なかった。 そのうえ官命による村長の更迭がひん繁で、大正期8代の平均在任期間は1年8ヶ月に過ぎず、民意に透徹するまでにはいたらなかったのが実情であったから、苦しい住民の担税事情が上級行政庁に認識されるまでの道程は長かった。

 町村財政を圧迫した教育費の国庫負担が叫ばれて、大正7年に「市町村義務教育費国庫負担法」が施行されたのが軽減の前兆といえるもので、国庫下渡金の交付がおこなわれるようになり、下渡金は年とともに次のように増額されたいった。

 大8=1,308円 大15=8,835円 昭6=20,626円 昭10=106,580円

 この結果、村税負担率は大正8〜昭和3年63・28%、昭和4〜10年37・15%と漸次減少した。
 この時期の特色的な財政支出は、大正15年からの、10%程度の国庫補助で村立運営とされた青年訓練所設置によるものと、村社の祭杞費(神社費)が支出項目の第1款組まれたことなど、軍国主義と国家神道という思想統制の時代色が行政面にも反映されたことが第1。 ちなみに「神社費」をみると、

 大15=50円 昭7=64円 昭9=82円 昭11=574円

といった支出が記録されている。 次いで昭和3年の普通選挙法施行で参政権が拡大されたことによる住民意識の昂揚が、第1次世界大戦後遺症の不順な社会情勢の中にも村勢の進展をもたらし、同年経常費8万9,000余円に対し、されに臨時費6万余円が計上されて、役場庁舎の新築、湧別小学校屋内運動場、上芭露、東芭露、計呂地、床丹各小学校の新増築を行い、土木事業でも道路の砂利敷、排水溝堀さくなど、積極的な大型財政投資が行われたが、これらは基本財産蓄積金4万5000円の支消を主に、不足は村債に求めるという意欲的なものであった。 その後、昭和11年11月には、本町で初めての村会議事堂が落成しているが、昭和3〜14年は本町の発展期であったとみられ、財政投資面における各種施設その他の充実に要した臨時費は、支出総額に対して、大正9〜昭和2年の14・49%から39・69%へと上昇している。 ちなみに、昭和11年末の村債状況資料<村勢概況より>があるので、参考までに掲げよう。
 償 還 内 訳 要償還(または補償)金額
 資 金 区 分 元   金  利   子
 外債(借入金) 22.900円00 8.489円14 31.389円14
 基本財産支消金  75.510円00 47.867円52 123.377円52

 さきに、義務教育費の一部国庫負担で、昭和4年以降の税負担が軽減されたことを記したが、義務教育費の国庫負担とあわせて、他の国や道の各種補助金交付金の増額があったことも、大きくかかわっていた。 交付金補助金の歳入に対する割合が、大正4〜10年(8,9年資料欠如で5ヵ年通算)4・75%から、昭和4〜10年(7ヵ年通算)31・87%へと上昇したことが、それを物語っている。 こうした交付金や補助金の増額は、第1次世界大戦後遺症ともいうべき経済恐慌と、昭和6,7,9,10年と連続した大凶作で萎縮した町村財政を援助する意味と、満州事変後における軍部の要請にこたえる町村業務の重要性から、町村行政の強化統制をはかる意味とが含まれていた。 さらに昭和11年には戦争体制準備という底流を秘めた「臨時市町村財政補給金制度」が施行され、同年1万3,000余円が、同14年には「分与税」と改められて4万4,220円24銭へと増額されているが、これがかかわって減税が行われた証座として、村税収入が昭和10年の5万8,611円42銭に対し、同14年は4万5,121円72銭であったという記録<決算書>がある。 参考までに、二級町村制下湧別村時代の推移を、あらためて掲げよう。
区   分 歳入総額
(円)
うち税収額
(円)
歳入に対する収入比率(%)
年   次 村  税 補助金 その他
明43〜大3 58.887円105 43.200円854 73・62 26・38
大4〜10 190.979円196 137.423円150 71・95 3・27 24・78
大11〜昭6 951.033円955 542.391円590 56・99 15・36 27・65
昭7〜14 844.953円68  259.212円230 30・66 31・23 38・11
備   考  《大4〜10》 大正5,7年の決算資料欠で5ヵ年通算
 《昭7〜14》 昭和7,11,12年の決算資料欠で5ヵ年通算

 右表に関連して、当時の村民が、どれくらいの税負担をしていたかを、断片的な資料から抜粋してみまとめてみよう。
区 分 国    税 地 方 税 村    税
年 度 税額(円) 1戸平均 税額(円 1戸平均 税額(円 1戸平均 税額(円 1戸平均
大15 9.219 5・26 14.475 8・26 57.147 32・62 80.841 46・14
昭 2 不明 不明 不明 不明 61.101 41・強 不明 不明
昭 5 不明 不明 不明 不明 62.503 35・強 不明 不明
昭 8 2.756 1・62 11.203 6・59 55.542 32・67 69.501 40・88
昭11 8.514 4・57 16.579 8・90 55.505 29・79 80.598 43・26

紋別との村界問題  明治41年に紋別村との境界が確定したものの、その後の村政の推移の中で、41年の線引きに不合理な点を内包していることが、境界線付近の住民の中からも指摘される状況になったことから、大正8年次の理由で、村界変更を長官に具申した記録がある。

 本村西方は紋別町と隣り、其の境界たるや「シブノツナイ川源泉よりシブノツナイ湖」を以て画せらる、抑も該原野の形状は山間に介在する細長なる小原野にして、土地の区画を制するに当り、町村の別なく「尤も其の当時は村界未定、古老の言によれば分水嶺なりと云ふ」原野一帯に渉り実測せらる、其後双方意見の合ざる為め交渉数回を重ぬるも解決を告ぐる能はず遂に監督庁の指示に依り川を以て村界と相定めたり・・・・。 同原野は本村市街を去る一里半及三里に過ぎず其住民は大部分は本村よりの転住者にして凡ての取引の如きは主に本村を以てし、其関係到底紋別の比にあらず、実質に於いて本村住民の感あり、故に本村所属を渇望するや久し、曽て村民より請願したる等一再に止まらず・・・・・、又教育の如き本村に二校、紋別に於て一校合せて此の小部落に設置するが如きは不経済の著しきものあり、蓋し住民の福利を阻害し自治団体の発展を妨ぐる尠少にあらざるべし、故に創業時代たる今日に於て境界を同原野西方分水嶺に変更せば・・・・・其住民の便宜福利増進の為め切に村界変更を望む。

 これは、明治41年の村界決定の裏面をえぐるとともに、当時の町村経営の合理化を指摘したものであったが、実現をみなかった。 しかし、現在においても共通要因を内包していることは確かである。

芭露方面分村の動き  芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地、床丹を一括した芭露方面は、開拓の進展と入植者の定着で戸口が著しい増加をみたが、地理的に湧別方面との間に行政上の格差があり、遠隔地故の住民負担の不平等を口にするものもあって、昭和年代の初めころから分村意見が台頭するようになった。 その後の芭露方面の戸口の推移をみよう。
年  度 昭  6 昭  8 昭 10
区  分
戸  数 909 910 1.065
人  口 5.364 6.269 6.826

  と戸数人口も、ともに全村の50%を超える実勢を つづけ、1村を形成しても遜色のないブロックを形成 していた。
  そして昭和10〜11年に湧網線鉄道の中湧別〜  佐呂間が開通して、芭露、計呂地、床丹の各駅が  開業するに及んで、地域内交通の利便が大きく促進されたことから、

 従来も短距離で村の中心である湧別市街と結ぶ幹線道路は、上湧別村という他村を経由しなければならなかったし、湧網線が開通しても、やはり中湧別を経由しなければならないという違和感・・・・・

も解消できるとして、戦時中の村会でしばしば分村問題が討議されたが、戦時中のこととて臨戦行政案件が優先し、分村については結論が出ぬまま、うやむやに葬むられた。

農漁村経済更生計画  第1次世界大戦終結後から昭和一桁時代にかけてのほぼ15年間の、農山漁村を襲った恐慌には、その起因として二つの事象があった。
 一つは、大正9年初めころから始まった大戦の反動不況で、昭和2年3月ついに金融恐慌状態に陥り、わが国の経済は混乱をきわめ、立て直し策として同4年11月に金輸出の解禁の断行となったが、これよりさきのニューヨーク株式市場の大暴落が発端となって、国際的な経済恐慌が拡大しつつあったため、貿易が不振下降をたどるという危機に直面した。 その結果は工業生産価格の下落〜生産制限〜大量の失業者続出という事態となり、しわよせが農産物価格の暴落となって、農村経済が窮迫し、いわゆる「農業恐慌」を現出したのである。
 二つめは、昭和6,7,9,10年と連続した大凶作(詳細は産業編参照のこと)の直撃であって、これが経済不況と複合して、農家はいっそうの境地に立たされたのである。
 こうした不況は、同じ第1次産業である漁業にも波及し、大正年代に発展の息吹をみせた本町漁業にも、大きなかげりを投ずることになり、漁家経済は不審のどん底に陥った。
区  分 漁 家 戸 数 貫 当 魚 価 大14比減
年  度
 大14 155 52銭 −%
 昭 2 190 36銭 30・8%
 昭 4 115 39銭 25・0%
 昭 6 139 23銭 55・8%
 昭 8 154 17銭 67・3%
こうした事態を憂慮した道会でも、昭和6年12月に関係機関に対し「農漁村負債整理に関する意見書」を、次のように提出した。

 近年全般的不景気の益々深刻化するあり、農漁村関係者の負債は唯増高の一途を辿り、現に北海道拓殖銀行に対する不動産担保の債務のみにても1億2700余満円を算すと雖も、大多数はほとんど償還難に陥り、或はその地位を転落し、或は離村散亡するもの日を逐ふて増加の傾向を見るに至り、農村に於いては農産物の暴落に次ぐ今年の大凶作を以てし、漁村に於ても亦此年不漁と海産物の下落と交響し、疲弊困憊今やその極に達し、前途唯減あるのみならんとす・・・・

そして負債の低利借換と償還年限の延長を要望したのである。
 惨状を打開するため、昭和7年10月6日に農林省は、訓令第2号をもって「農山漁村経済更生計画に関する訓令」を発し、道庁でも訓令に基づく農漁業合理化方針を樹立したので、本町も60名の経済更生計画実施委員を委嘱して、計画策定に着手したが、

 昭和8年度事業計画たりし農漁村経済更生計画樹立に付ては年度当初より準備せるところなるも、当時勧業事務に凶作救済事務の繁雑を極め就中農村の死活問題として重用しせる政府米の配給事務に傾注せるため予定計画の遂行意の如くならず、旦経済更正計画の基調調査或は個人計画樹立等の予想外に複雑多岐を加え来りしため計画樹立事務容易ならざるものとなりたるため、予定通り計画樹立を完了し得ざるを甚だ遺憾とす。<昭8事務報告>

とあるように、当面の凶作緊急用務に追われて樹立には至らなかった。
 ちなみに窮迫していた当時の農家の情況をうかがうものとして、次の3つの資料を掲げよう。

   ○ 農家収入状況調<昭9道庁農山課>
 農業総収入 1,621円85銭
 農業総支出 1,312円15銭
 農業総所得   309円70銭
 家計費支出   664円70銭
 不 足 額    355円00銭
   ○ 農山漁村負債状況調(本村分)
         《昭10・8末調査<北海道統計誌>》
 負債農家戸数    1,047戸
 負債総額   91万3,970円
 1戸当負債額      873円
   ○ 農山漁村負債状況調(本村分)<同前>
 負債漁家戸数       42戸
 負債総額    2万2,800円
 1戸当負債額      549円


 2つめの負債農家戸数は、全農家1,199戸の87・3%(専業農家の95・5%)にあたり、3つめの負債漁家戸数は全漁家の約3分の1にあたっていた。 また、農家、漁火を合算した借入先別をみると、

 銀   行 23万1,060円
 産業組合  8万1,762円
 頼母子講  4万4,714円
 個   人 55万9,980円
 その他    1万9,254円
   計    93万6,770円

とあり、負債の52%ぐらいは、15%以上の年利を支払わなければならなかったという。 しかも、そのうち田畑担保が46万1,280円もあり、一説には「農地の約3分の1が某商店の抵当に・・・・」という風評があった。
 追打ちをかけるような昭和9,10年の大凶作で、経済更正計画は難航に難航を重ねたあげく、昭和12年の「村勢概況」には、次のように報告されている。

 本村の経済更正計画は昭和8年度樹立のことに北海道庁の指定を受けたるも当時連年冷害凶作の為め基本的調査の実施に相当困難なりし実情にありたるを以て昭和8年度実際状態を基礎とし調査を遂げ計画を樹立し昭和10年北海道審査委員会の審査を求めたるものにして計画事項中部分的に改訂又は補正を要する事項あるも改訂又は補正をせんには年々経済事情の変遷と其の他各般の事情の変化に伴ひ全面的に改定を要することとなるを以て更に考慮研究を重ね昭和12年6月20日農家方面に対しては農事十項組合区域内より49名、漁家方面に対しては漁家集団地区より2名総数51名の基本調査員を属託し同年7月1日調査実施上に関し協議会を開催し昭和12年度の現況を調査することとしたり
 尚従前の計画事項に対しては村農会、産業組合,漁業協同組合各関係機関協力し自主的実行組合を指導督励し計画目標の遂行に努めつつあるものにて就中農漁家各戸の経済更正を期せんには先づ負債整理を第1要義とするを以て極力負債整理組合の設立を勧奨すると共に併せて経営並に生活の改善等各般に亘り指導官庁の方針に則り指導誘致に努めつつあり其の概要左の如し
                  記
 (1) 経済更正計画遂行上の村の助成
     経済更正計画実施目標の遂行上地方費助成と相俟って左記に対し村費を以て助成の方途を講じ現在実施しつつあるものなり
   (イ) 病害虫防除用噴霧器購入奨励
   (ロ) 堆肥場設置奨励
   (ハ) 優良牝馬保留奨励
   (二) 種壯牛飼養費補助
 (2) 負債整理組合の設立
   (イ) 昭和8年度設立
       無限責任川西負債整理組合   組合員45名
      右負債整理組合に対し昭和12年3月政府特別融資資金4500円を転貸す
   (ロ) 昭和12年8月1日現在設立認可申請中のもの
       無限責任東芭露第1負債整理組合  組合員14名
       無限責任志撫子負債整理組合     組合員28名
       無限責任床丹中央負債整理組合   組合員24名
 (3) 負債整理委員会
    昭和9年3月29日村内全区より適任者24名選任せられ委員の任期満了と共に更改現在に至

区  分 専業農家(戸) 兼業農家(戸) 計  (戸) 1戸平均生産額
年  度
昭 11 1.115 95 1.210 841円14銭
昭 14 928 173 1.101 1.505円67銭
年度 昭9 昭11 昭15
価格
貫当り魚価 22銭 28銭 83銭

こうした懸命な経済更正運動は、負債整理に併せて生産販売購買の統制、金融の改善、産業組合の刷新、産業緒団体の連絡統制、備荒共済施設の充実などの施策が色濃く加味されるとともに、精神教化を骨子とする「地力更正運動」が幅広く展開される内容のものであった。
 ところが、昭和12年7月7日に突如として日華事変が勃発したことから、戦争という事態そのものとはまことに不幸なことであったが、農山漁村経済が幸いにも好転の方向へ進むことになったのは、皮肉なことであった。 それは、軍需産業の拡充を軸として経済基調が立ち直り、低迷していた諸物価の上昇安定をみたことが起因して、第1次産業の生産物価格が年々上向き、加えて兵糧の需要増を中心に食糧増産政策が本格化し、増産奨励に協力すればするほど、農漁家経済は小康状態から安定へと、着々増収増益の成果をみたためであった。
 こうして、計画自体の画然とした結末をみないままに、戦争の流れとともに更正したのであるが、増収増益の推移は上表のようである。

村紋章制定  昭和12年は、明治30年に湧別村戸長役場が開庁されてから40年、行政上の開村40周年記念の年であった。 記念事業として、下湧別村を象徴する紋章(村章)制定の議がおこり、同年10月8日の村会において、紋章制定議案が可決され、落合定雄が考案した紋章が採択された。 図案は、

周囲の二重円を「下」と湧別の「ユ」で形づくり、円内には「星」をあしらい、星を細い白地で左右に二分して北海道の「北」をあらわし、「北の天地に賭ける希望」を託している。

というもので、現在の町章の形とよく似ているが、星の中には文字がなかった。









開村40周年
記念式典
 村の発展を祝福し、開村の往時を偲び、開村以来の戦陣の功労を讃える記念式典は昭和12年11月3日の「明治節」の日に第1回が催された。 この年は7月に日華事変に突入した年であったから、緒戦の快進撃で士気大いにあがる中で式典が行われ、功労者に対する表彰と記念品の贈呈が花を添えた。
 この式典は以来10年ごとに行うこととされ、村勢発展の年輪を銘記するとともに、村民の団結協調を認識する意義を込めてつづけられている。
□ 開拓功労者
    和田隣吉 竹内文吉
□ 自治功労者
    谷虎五郎、佐藤善蔵、武藤富平、大口丑定、島崎卯一、大沢重太郎、大野新造、阿部忠左ェ門、宮崎小太郎
    安藤経歳、池沢亮、島田和三郎、国枝善吉、真鍋五郎、武野明、山田増太郎、堀川重敏、宮崎簡亮、小山春吉
    横沢金次郎、藤永栄槌、飯野常次郎、西田要四郎、矢崎保之助、伊藤惣太郎、中川辰蔵、野津幾太郎、
    西沢収柵、佐川子之吉
□ 産業功労者
    宮崎覚馬、本間省三、横山時守、山田和一郎、福吉休右ェ門、信太寿之
□ 教育功労者
    福田栄蔵、島村戒三郎、遺水藤顕
□ 社会事業功労者
    飯豊健吾、松尾富士太郎、高橋謙造、近藤陽治、武藤浅吉、大益福松
 付言すれば、社会事業功労者の中の後の3人は、湧別神社(村社)の造営や敷地取得など、奇特な敬神の功績で表彰されていて、当時の時代の潮流と、現在との隔たりを感じさせるものがある。

 
戦時行政の始動  日華事変の勃発により、兵事業務の増大、出征兵士遺家族援護事業の推進、軍馬のための馬政業務。国家総動員法による総力戦体制固め、統制経済の施行など、戦時行政の進行があったが、これについては章をあらためて詳述する。

(2)三大ドキュメント
湧別運河構想の頓挫  明治44年に村長に就任した宮崎簡亮は、かねがねサロマ湖と湧別港を結ぶ運河開削に着目し、調査を進めていたが、村長就任とともに村開発施策として村営事業で行う腹を決め、同年11月の村会に次の案件を出して議決された。

 猿澗湖と本村連絡運河開鑿の件
理由 本件は本村十余年来の宿題なりしに去42年有志諸氏の発起に依り相当技師をして踏検実査せしめしに別紙参考書之通金4万6699円67銭2厘を以て竣成すべき旨にて図面及び設計書を提出せり、依て審按するに支村のバロー、シブシュ、ケロチ、床丹の如き逐年移住者増加の趨勢なるも運搬不便を極め収支の権衡を得ざるの不利あるが為め十分の発達を遂ぐるを得ず、今運河にして開通せば右原野各区画地の如きは数年にして人口増殖し物産繁盛に至るは疑を容れざる所なり依て明治45年を以て開鑿に着手せんとす、其収支計算の如きは別紙概計に付す、幸ひに審議の上賛成せられんことを希望す
   明治44年11月19日提出
                                下湧別村々長   宮崎簡亮


この議決は支庁に報告されたが、二級町村制に抵触するとの理由で、議決取り消しの指示があり、運河構想はお流れとなった。 付言すれば、理由の中で芭露方面を「支村」と呼んでいる点に、当時の湧別方面本位の行政官画の一端がうかがわれ、のちの分村問題(前節概述)への脈略を感じさせるものがある。
 この運河構想は、宮崎簡亮個人の営利的意図に根拠があったと一部に伝えられているが、ともかく宮崎簡亮は村長退任後も、運河実現に根強い執念を燃やし、没後は息子の宮崎正一が亡父の遺志を継承して札幌および東京方面で出資交渉に奔走した結果、目算がつき、道庁の許可も得て、大正10年ころ開削に着手した。 しかし、当時のスコップとモッコに頼る人力一辺倒の作業では、予想以上に困難が伴い、約4qを掘さくしたところで中断のやむなきにいたり、またしても挫折してしまった。 いまも現「あけぼの食品工業湧別工場」裏の古川に、その跡が残っている。
 当時は、こうした転末も個人の野望として葬られたのであったが、時を経て運河構想を純粋に分析したとき、着想当時の交通状況では経済水路線として湧別市街にとっても、また芭露方面にとっても、多大の経済的恩恵がもたらされたであろうことは否定しがたく、

 あの工事が完成していたら、市街の発展は明らかなものがあり、宮崎の努力は称賛に価いすものになっていた。 何故、個人的な恩しゅうをこえて地元有志が協力しなかったのだろうか。 惜しい機会を失ったものである。

と、人間対立の幣を指摘する古老の言も伝えられている。
 しかし、さらに永い目でみたとき、もし運河が開通していたら、昭和4年の湖口開削があり得たであろうか、運河と湖口のどちらかが後世に有為であったであろうかなど、別な評価もかんがえられるところである。

4号線停車場設置騒動  湧別線鉄道第6工区である社名渕(現開盛)〜下湧別の施工を控えた大正4年2月、村会では「4号線に停車場を設置する請願決議案」が審議され、激しい意見の対立で紛糾した。 紛糾の因となった4号線住民の請願書には、次のような背景があった。

 4号線市街は紋別道路の分岐点という地の利から、陸上交通の要衝にあり、芭露方面も併せ農村部落を経済圏に収め、商業活動に於いても浜市街に拮抗する勢いにあった。 そうした現状から簡易駅設置の要望が強く、関係住民が紛糾して部落民大会を開き、停車場設置運動を展開した。
 しかも、設置希望の裏には、名寄線敷設計画を予見して、分岐点駅とする構想も、明確に腹づもりされていて、招来の中心街を目途するものであった。


たまたま、請願書の提出にあたり、村会議員名を利用したが、北海道建設事務所が調印のない議員(利用されたのを知らなかった議員)に、調印のない理由の照会があったことから、にわかに騒然となり、村会で問題処理の表決を行うことになった。 村会は4号線市街と浜市街の利害が鋭く対立して、激しい論争の結果、5対4で「湧別市街繁栄の障害になる」として否決され、請願運動は封じ込められた。 反対意見の代表的なものを、当時の会議録から抜粋してみると、

 若し設定せられたらんには本村商業の主脳地且つ富力集中地たる又物資集散の市場たる、海陸連絡地たる浜市街も為めに勢力分散し、繁栄を妨げらるるのみならず両者共発展進歩を阻害し、延べいては一村に影響するところ多大なり、依て二者を合し既定の終点たる停車場に帰着せば、浜市街の成長発達するのみならず、浜市街より4号迄は人口密集軒を連ね期せずして一大市街形成するや予想するに難からず、目下4号市街の如きは四方に交通の便大に備はり貨物輸出入の便あり、依て村招来を観察せば決して目前の一小利便をのみ目的とすべきにあらず、故に停車場増設の要なきものと認む

とあり、ほかにも、

 近き将来に於て起工せられんとする下湧別、名寄間の鉄道も予定の下湧別停車場より延長せらるべく、湧網間の鉄道の敷設せらるる暁には該停車場より延長せらるる見込みあり

など、反対意見が浜市街地中心論(本流論)〜4号線市街副心論(亜流論)で占められている。 対する請願賛成派の意見は、

 芭露に於ては生野、遠軽に至る道を開き、貨物を吸集す、7号道路を作り貨物を呑吐し利便とする処なり、一朝9号付近に停車場を設定せられ又4号及浜市街に停車場を設けたりとて何等害なきものなり、反つて利多きを認む、先に村民大会にて決し、7百何十人の連印且つ村長奥書をなし請願なれば敢て調印書を愚見と云ふを得ず、反て一村の興論を発表したるものなれば決して偏頗姑息の手段と思はれず、増設を必要と認む

というように、住民多数の要望によるもので、無益なものではないとしていた。
 村会論議の場にとどまらず、住民を二分する強い関心事であったが、結局は浜市街発展を固守する意見に制されて実を結ばなかったこの件には、後日談がある。 それは、大正5年下湧別駅が開業した翌6年、名寄線湧別別口分岐点が中湧別に内定したことを察知して、3月の村会に急遽「分岐駅を下湧別駅とすること」 「4号線に簡易駅を設置すること」の上申案を提出したところ、反対意見もなく全会一致で議決をみたことである。 これは局面の変化があったとはいえ、前年の表決が、あまりにも地域利害感情むき出しの政治決着で、対局判断を誤っていたという感を免れないものであった。

 結局、二つの上申とも認められぬまま、名寄線は中湧別から分岐延長され、後年の湧網線も着発のほとんどが中湧別という運命をたどるにいたったのであるが、今一の盲腸的な存在の湧別〜中湧別間を見るにつけ、対局判断がいかに難しく、また誤った場合の後世に残る悔いが、いかに大きいかを、しみじみと思い知らされるのである。 このあたりを、本史編さん委員会の意見交換の中からかいつまんで揚げて、結びとしよう。

 結論からいえば、4号線駅の設置が実現していたなら、分岐点誘致実現の可能性は十分にあった。 もっと極言すれば湧別線の終点を4号線にして「下湧別」としておけば、なお有利だった。 現在の湧別駅の位置では、名寄線にしても湧網線にしても、急カーブで列車の転線操作をする余地がないから、結局は、すべてが中湧別に持って行かれてしまった。
 現在位置の駅を中心にして浜市街と4号線市街をつなぐ大市街をという発想は、わからぬわけではないが、なぜ、分岐点としての地理的条件を見抜けなかったのだろうか・・・・綱引きで浜市街が勝って駅を引っ張り込んでのでは割り切れない悔いが、いまあらためて痛感されてならない。

 それに、分岐点駅(中心駅)が本町に実現していたら、よその待ちを通らずに芭露方面と直接短路できたのに・・・・

サロマ湖口の開さく  かってのサロマ湖は、常呂町の鐺沸付近で開口して、オホーツク海と交流していたが、湖口は晩秋から初冬の大時化で一時閉鎖され、翌春の湖水溢出の圧力で、また自然に湖口ができたといわれている。 明治12年に道内を巡行した開拓使属酒井忠邦の「北海道履行記」には、
 
 猿澗湖鐺沸渡船場百二十間、渡賃人二銭馬四銭深一丈四、五尺より二丈、砂底殻多し、湖口は巾百間、深四、五尺、満潮六、七尺、新々砂州あり、秋季より冬天に至り、西戊子強風激浪の際、水戸口暫時に閉じ、平坦の砂地往来となる

とあって、それを裏づけているが、松前武四郎の「武四郎廻浦日記」には、サロマ湖口砂揚器の見取絵が描かれていて、湖口の切り開きが、人為的にも行なわれていたことがうかがえる。 これは湖水の増溢でアイヌの住居や漁労に不都合を生ずることから、自然の力による開口に手を借りたのではないかと思われる。 
 開拓がはじまると、湖口の開塞は一時的にせよ、春の融雪増水のころに、年中行事のように河川の流入が停滞して水害をもたらして、農耕の障害となり、また湖畔の冬山造材の積み出しや湖内漁業者のオホーツク沿岸進出を阻害するところから、湖口の重要性が認識され、常呂村内農漁業者ら関係住民が協力して、自発的に湖口の切り開き作業を、明治33年ころから内燃4〜5月に行っていた。 また、明治30年5月に芭露原野に入地した人々は、舟で湖から芭露川へと遡上し、いまの芭露小学校付近で上陸したといわれるが、舟運の便とは裏腹に入植地は,湿潤のため農耕の見込みがたたず、離散しなければならなかったほど、新湖口開さく(昭4)以前のサロマ湖は水位が高く、農業開拓の障害となっていた。
 大正8年末ころから湖水漁業を目的として三里浜地域に定住した人々は、外海の漁労を併せ行うことの有利性を知ると、鐺沸を迂回する時間的無駄を省くために、舟を砂丘越に外海へ往来したが、舟底の損傷が著しく、堪えられないことから通水路堀さくを思いたち、大正14年から二里番屋の人々の協力を得て、15〜6人で、紋別と常呂の郡域にある最狭部の堀さくを行い、水流を見ること三度、しかし、その都度巨大な自然の猛威に災いされて、宿望を果たせぬままに3年の歳月を経過した。
 苦労の空しさを嘆きつつも、住民の堀さくにかける悲願は絶ちがたく、事情を村当局に訴えるに及んで昭和2年に村営事業として採択された。 同年度から正式に工事費が予算に計上され、翌年4月から施工が重ねられ、最終工事は湧別や芭露方面から1日80余名の労務動員が行われ、9日間を要して昭和4年4月20日に上幅4間、敷幅2尺、最深部20数尺の通水溝堀さくが完了した。
 しかし、せっかく完成したが期待に反して水流の見込みがたたず、工事関係者を失望させていたところへ、たまたま最終日の20日は霙の降りしきる悪天候で、作業ははかどらず、失敗の色濃い工事を鉛色に包み、声もなく関係者の引き上げとなった。 ところが、その夜、大げさにいえば天佑ともいえる異変が発生して、一転関係者を歓喜の渦で包んだのである。 そのあたりの模様を、湧別町史(昭40刊)から原文のまま抜粋しよう。

 その夜は雪と変わり嵐を胎んで湖面の残水は揺れに揺れて潮騒の音高く、心鎮まらざる一夜であった。 この工事に当初から心胆を砕き主導的立場にあった岡島主水蔵は、翌朝いち早く積雪を踏んで小高い処に至り、工事現場を望見せると湖水の流出する状況が認められ、多年の夢が実現した喜びに雀躍した。 ただちに状況を村長に伝えるために外海の水打際を辿って市街に出て漁業組合から電話をもって通報したが、容易に信じられなかったという。 この知らせによって当日12馬力の発動機船に関係者が乗込み、実情調査に赴いたところ、30間近くの水路が開けたものの水流の激しさは船を奔弄し通航の試みも果たせなかった。

このように、暴風雨が幸いして実現した湖口は、オホーツク海より8尺(2・4b)も水位の高かった湖水の流出により拡大されて、閉塞することなく今日にいたっているが、この湖口開削成功後のサロマ湖は、四季を通じて水位(最深部19・5b)が定まり、外海との水位の平衡が保たれるようになったことから、オホーツク海流の影響も強まって、塩分が濃くなり、棲息魚貝類に変化をもたらすようになった。 今日ホタテやカキの養殖地として全国に知られるようになったのは、湖口開削の成果の現れにほかならない。 水位の低下安定はまた、芭露方面など湖岸地帯の湿地を農耕適地に一変するとともに、春の洪水禍のなやみからも開放した。 芭露6号線の平地で2〜3bの井戸を掘ると、海草やクルミが出てくることは、かって湖の入り江の波打際であったことが想像される。
 ちなみに、此の堀さく工事関係に支出された村費を、計上年度でみると、昭和2年500円(堀削費400円、雑費100円)、同3年950円(当初600円=堀削費300円と設計費200円および雑費100円、追加350円=堀削費300円と雑費50円)の計1,450円であって、理事者や村会の並々ならぬ英断のほどがうかがえる。 そして施工については、

 施工上最狭部を選んだのが、たまたま常呂との村界付近になったが、すでに大正14年からの三里浜住民らの実績もあった。 また、湖の水位が高いのだから、掘れば流出して道は開けるといった基礎認識で着手したのが本音で、学問的にも技術的にも精度の濃いものではなかったようだ。 ところが、後日、ある工学博士が来村して視察した際「これは、どなたが設計したのですか」と、工学的に実に綿密な設計でなされているとの印象(評価)をもたらしたほどに・・・・すばらしい成果・・・<谷口勇談>

であったという。 こうした大成果に関して、当時の新聞が痛快な評価を掲載しているので、参考までに抜粋するが、時日および事実関係の誤りや誇張がある点を割引いて参照されたい。

   ○北見タイムズ(昭4・5・25第11号)
   「林由一社長の新湖口視察記」
 折から村会に招集された村議全部と漁業組合員町有志と拾余名発動機船にて正午出帆現地に向かった。 午後二時常呂郡と紋別郡の郡境たる新湖口に到着蒸気船と共に湖内に入航した、 先づ新湖口と言えば若干の人夫が掘鑿したるものなれば僅々二三十間の排水溝の如きものと誰しもが予想していたるに豈図らんや巾数百間深さ六七尋の大河となり湖水はごうごうと流出し誰が見ても人口堀鑿などとは見る能わず数百年前よりの大自然とより見られぬ、小樽港を数十倍したろ大築港の如く一大偉観である。 直ちに湖内を一浬程西なる三里番屋にと向かった、船付場はカキ殻で自然の桟橋が出来ており船は横付けにして一行拾五名は上陸するや俗に三里の殿様・番屋の村長の称ある岡島氏を初め部落民全部が羽織袴の正装での出迎に恐縮しつゝ奥谷氏の宅に於ける一行歓迎会に招待される・・・・・

   ○湧別新聞(昭9・2・5第161号)
   「湖口を開いた漁民一揆の歴史」
 サロマ湖堀鑿湖口の改修工事は多年関係住民の要望として窶々要路に対し・・・・前記サロマ湖湖口の堀鑿は大正13年頃当時の漁業組合長大益康夫氏を筆頭に漁菜専務安藤経歳氏釣物組合長森田三吉氏等の首唱にはじまり、同年3月28日には百六十名の地方住民が、夜陰に乗じ無願の堀鑿を断行すべく烽火を掲げ遂に司法権の発動を見るに至り、此の歴史的漁民一揆の幕は閉じたが其の後常呂村の反対に会い幾多の波瀾曲折を経て昭和3年4月安藤経蔵並びに谷虎五郎の両氏が上京し政治的工作によって遂に湧別漁民が凱歌を奉するに至ったものである。
 工事は昭和3年5月2日下湧別村民の賦役の堀鑿にはじまり其の後村当局が六百円の工事予算を計上して工事に着手したが実施の結果工費の不足を来たし一時工事の前途に暗影を認められたが時の村長武藤籐五郎氏並に西田主席等の英断に依り更に六百円の専決処分を行って漸く水路の完成を見るに至った。
 時隅々地方住民の至誠神に通じたか昭和4年4月21日天佑とも称すべき大暴風雨起りオホーツク海の激浪水路に向かって襲来し(注=加えて融雪増水の湖水がオホーツク海からの激浪で崩された堀さく溝を一挙に拡大奔流した)一朝にしてサロマ湖は約百間に余る歓喜の扉を開いた、古言の如く鬼神門を開いたのである・・・・


 この記事の中に「司法権の発動」とあるのは、無許可(無願)に対する警察官の強権制止のことで、 「乗馬で駆けつける途中を待ち伏せして、警官を引きずりおろす」などの住民の抵抗もあったと伝えられている。
 本町にとって画期的な成果を収めた湖口開削の完成であったが、その陰に、当初の堀さく目的とは裏腹な現象が派生したことも、忘れてはならないことである。 それは旧湖口を擁して栄えた常呂村當沸地区の著しい凋落であった 「常呂村史」には、

 昭和4年下湧別村三里番屋付近に同村民の手に依り湖口を掘開したるに、従来在りし當沸湖口は地盤高き関係上自然閉鎖水位低下したる為め、牡蠣の斃死著しく・・・・・総ての魚貝類減少し百年の悔いを茲に残すに至り、之がため當沸は益々衰徴した。

と記されて、怨念すら感じさせるものがあるが、着工前の「常呂村漁民の反対」や、着工後の「常呂村民の妨害」などを考え合わせると、時代が時代だけに悲喜や明暗の深刻さが想像されるところである。 この問題は50年を経て昭和54年に第2湖口の感性(漁業編参照)をみて、解決の糸口をつかみ、種々の角度から分析検討がなされている。

(3)一級町村時代
一級町村に昇格  村勢の充実は、昭和14年の戸口が1,877戸、11,417人を数えるにいたり、昭和15年4月1日から一級町村制が施行されて、自治機能の面で嬉しい昇格となった。 しかし、戦時体制という厳しい情勢下では、

 本村は4月1日を以て一級町村制施行せられ村将来永久に記念すべき事績を見、急速新村機構整備に遭遇したる所なるも・・・・招集事務、貯蓄奨励、軍事援護、物資調整事務並に新体制に関する事務等諸般の事務輻輳し且複雑多岐に亘り言語に絶する状況にして而も之等の事務は総て寸時も忽にすべからざる重要性を有し、特に事変従軍勇士の遺家族の安定保護及物資の消費節約、成算拡充自給自足の徹底を図り戦時生活の万全に其の完璧を期し得ざりしは洵に遺憾とする次第なり。<事務報告>

というように自治機能は発揚されなかった。
 昭和18年に1,2級町村制は廃止され、二級町村は指定町村となっている。

村三役と役場機構  一級町村制施行で、いまでいう三役が役場に顔をそろえることになった。 村長は、とりあえず二級町村制時代の森垣幸一が残留して村長臨時代理者となり、6月30日に執行された村会議員選挙による新しい村会で、7月24日に村長選挙が行われ、あらためて森垣幸一が初代村長に選任された。 歴代村長は次のとおりである。

  森垣幸一 昭15・7・24〜19・7・22
  村上庄一 昭19・7・23〜21・11・7

また、二級町村制時代には、上席書記が村長を補佐する最高の任にあったが、一級町村制施行と共に、村会の同意を得て助役が任命されることになり、昭和15年8月12日の村会で興部村上席書記であった村上庄一を任命する件の同意が成立し、同月29日に初代助役に就任した。
 歴代助役は次のとおりである。
  村上庄一 昭15・8・29〜19・7・22
  安田重雄 昭19・8・23〜21・11・7
 なお収入役は前に引きつづき吉田綱貞が留任した。
 このように、町村経済力の充実による自治体の独立を骨子とした一級町村制は、支庁長が任命する村長が村会の選任へ、地方費支弁の職員(書記)配置がなくなって、上席書記に代わる助役制の設置など、一説の人件費が村費丸抱えに変わった。 昭和15年の職員数は、
  書記9名、技手2名、書記補8名、臨時雇3名、計22名
で、三役と会わせて25名の布陣であったが、こうした職員数の増員は、時局を繁栄して本来の自治業務よりも、むしろ戦時体制による委任業務の増大にあったことは、前項の記述が証明している。 物資調達係、軍事援護係などの新設がそれで、その後、選挙区の進展とともに緊急業務量は増大の一途をたどり、それに伴い職員も逐次増員され、昭和19年には26名になっている。
 戦争がもたらした変革は、単に職員の増員に止まらず、職員の中から軍籍者の応召が相次ぐという事態を招来した。  このため7名の欠員を生じ、昭和18年に女子職員を採用して補充するという事態になった。 いまでこそ役場の女子職員は、何も珍しいことではないが、当時は鉄道駅員、郵便局員など公務員に女子が登場するということは、時局柄とはいえ珍しいことだったのである。 これによって事務体制の組織補強の必要から、昭和19年8月21日に課制が施行され、総務、産業の二課制となり、調整係(勤労動員、義勇隊)、防衛係(防空監視)など、決戦体制的な係の配置が見られるようになった。 そして応召職員は9名にも達し、翌20年6月の職員体制は男子15名、女子13名の計28名という組織になり、三役を加えて31名の大世帯になった。
 昭和20年8月15日の終戦により、戦時色業務は消滅したが、代わって戦後処理業務が混乱した社会情勢と経済事情の中で輻輳し、事務量はいっこうに減少しなかった。 同年9月末には応召職員の復員帰属が会ったことから、女子職員10名の整理(退職)が行われ、10月1日から機構は次のように改められた。
 総務課  庶務課、調査係、戸籍係
 財政課  財務係、税務係、出納係
 産業課  農産係、水産係、畜産係、林産係、商工係、拓殖係、土木係
 社会課  援護係、健民係、民生係、教育係

 
翼賛政治と村会  挙国一致の戦時体制強化のため、国民運動再編成の一環として、既成政治団体以外の国民組織による 「万民翼賛、上意下達、下意上通」を掲げて、昭和14年10月12日に「大政翼賛会」構想が発表された。 翌15年1月に総理大臣を総裁とする中央組織の旗揚げがあり、以下これにならって、地方翼賛会(道府県単位)は長官が会長となって統轄し、網走支庁には支庁長が統轄する総括支部が、町村には町村長を支部長とする単位支部が置かれるという形で、全国組織が整備された。 本町でも同年1月に結成されたが、大政翼賛会は公事結社であったから、これにより従来のすべての政党、結社、労働組合などの政治活動団体が解散を命じられて非合法化され、国にあっては挙国一致の行政組織体系、村にあっては挙村一致の行政組織体が実現することとなった。
 挙村体制の末端機構は、昭和15年8月に出された「部落会町内会整備要領」に基づいてなされ、それまで区長のもとに編成されていた区組織の改編が行われたが、これについては次項「隣保班制度」を参照されたい。
 いっぽう、国、道、町村の各級行政は翼賛政治一色となり、各級議会は翼賛議会、選挙は翼賛選挙といわれるようになった。 翼賛選挙は昭和15年4月30日の衆議院議員選挙から適用され、本町でも同年6月1日の村会議員選挙が「市町村会議員選挙対策翼賛選挙貫徹運動基本要綱」に基づいて行われて、次の人々が翼賛会推薦で当選している。
□ 第15回  24名
  梶井佐太郎、小林定次郎、横山勇、多田直光、茶山秀吉、中原万助(昭15・12転出)=横山精一(繰上当選)、伊藤金一、友沢喜作、南川保一、渡辺義一、真坂浅吉、島崎卯一、新海忠五郎、大口丑定、武藤友右エ門(昭18転出)、大沢重太郎(同)、大野新造,島田和三郎、土井重喜、佐藤源治、国枝善吉、落合定雄(昭19転出)、武藤富平、近藤義俊(死去)=藤原政重(昭17・9・29補充当選)

 こうして、上は国会から下は町村会まで翼賛議員で固められ、戦争遂行のために全会一致を果たすようになった結果、村界の自主機能は消滅するにいたった。
 第十五期の村会議員は、任期が昭和19年5月までであったが、戦時特例により改選せずに、引きつづき戦後の制度改正まで重任したが、その間、地方制度改正で、昭和21年10月から村会は正副議長制をとることとなり、国枝善吉が初代議長に就任した。

 なお、昭和15年当時の選挙有権者数は2,141人であった。

燐保班制度  昭和15年8月に「部落会町内会整備要領」が出され、それまで区長のもとに編成されていた区組織が改編されて、徹底した上意下達と戦時行政浸透のため、部落会町内会の下に、さらに、

 隣保団結の精神に基き、地域共同の任務を遂行するとともに、道徳的錬成を図る。

ことを目的として隣保班が設置されることになった。 通称「隣り組」といわれ、下達(命令)に従って貯蓄増強、公債消化、金属回収、遺家族援護、物資配給、防空訓練、指示通達、各種出動割当など、一家の支柱や働き盛りの青壮年を軍隊に送ったあとの老幼婦女子の必死の活動は、涙ぐましいものがあったし、奔走する末端班長の心労はたいへんなものであった。

 戦局の悪化とともに、昭和18年3月31日限りで、機能しなくなった区長制が廃止され、農事実行組合、漁業集団、旧町内会単位に新たな部落会町内会が組織されるとともに、いくつかの部落会町内会を統轄する連合部落会町内会制がとられるようになった。 さらに従来独立していた衛生組合、火災予防組合、森林防火組合、道路河川保護組合、納税組合を吸収併合して、それぞれ連合会の部とした一元体制がとられるようになった。当時の組織状況をみよう。
区 分 連 合 組 織 単 位 組 織
 組織別 役 員 役  員
 部落会 14 98 55 167
 町内会 35

なお、従来の区長会議に代わる機関としては、系統組織を網羅した36名の常務委員で構成された村常会が設置された。 「常会」というのは、この時期に用いられた集会をさす用語で、 「部落常会」 「班常会」といったように、各級集会が頻繁に行われて、上意下達がはかられていた。

太平洋戦争の苦難  昭和16年12月8日ついに、日華事変から太平洋戦争(大東亜戦争)へとエスカレートして、第二次世界大戦の様相となり、戦禍による民生のゆがみは例えようもないものになったが、これについては章をあらためて詳述する。

戸口の推移  戦時中の人口政策として 「生めよ殖やせよ」という合い言葉があり、10人以上の子持ちになると、大臣や長官から賞詞が与えられ、とても名誉なこととされていた。
 区 分  戸  数      人           口
 年 次     男       女       計    
 昭 15 1.928  5.990 5.846 11.836
 昭 17 1.930 5.990 5.899 11.889
 昭 18 5.235 5.527 10.762
 昭 20 2.098 6.350 6.485 12.835

戦時即応の税制改正  昭和2年に村税として創設された特別戸数割は、昭和15年になって制限外の賦課が行われ、村税総額の100分の68・978に達し、1戸平均32円96銭8厘となり、村税の大半を占めたが、戸数割は見立割に根拠がおかれていたため、各個の税額を決定する村会に対し、住民は強い関心を寄せるありさまであった。 しかし、昭和15年3月の税制改正で、重税に類する戸数割は廃止され、村民税に姿を変え、1戸当りの村民税負担は3円98銭と、著しい低減をみた。
 この税制改革は、戦時体制に基づく統制強化に即応して、昭和15年3月29日に改正「地方税法」の公布をみたもので、町村の主要税源であった特別税戸数割および特別税反別割(道税付加税)が廃止され、新たに村民税と舟税、自転車税、荷車税、金庫税、犬税などの物件税が独立税として、町村税源とされた。 このため、村では公布の年の10月予算組替えを行ったが、改正基準による税収算定(予算)は、

   独立税総額      1万840円
   国税付加税       9,016円
   地方税付加税     6,342円
      計       2万6,198円

と、改正前に組まれた年度当初予算税収の9万0,812円に対し、3分の1にも達しない減税となった。 中でも、年度当初予算の特別税戸別割6万2,641円が、改正法の賦課最高額の制限によって、村民税7,363円と激減したのが異色であった。 昭和14,5年の税収を決算書で比較すると、次のようである。
 区 分   村     税  同上の歳入に 
 対する比率
 特別戸数割反別割 
  ( 独 立 税 )
  各種付加税
 年 度
 昭 14  45.220円24銭  25・86% 33.173円22銭   12.047円02銭 
 昭 15  26.261円00銭  15・66% 11.974円25銭  14.286円75銭 
こうした減税による財源不足は、分与税(国からの配付金)が公布されて、調節される仕組みになっていて、昭和15年度には4万2,158円(歳入の25・27%)の公布を受けている。 次に昭和15〜20年を通算(昭19資料欠落)した税収と分与税公布の状況をみよう。

    歳入総額   159万4,983円18銭
 うち税収総額    33万8,500円18銭(21・25%)
      分与税    36万6,061円00銭(22・90%)
しかし、村税の軽減と分与税の増大は、増大する戦時委任事務に対し、原則として国が経費を負担するという意味が含まれていたので、業務と財政の両面から自治行政を統制拘束されることは避けられなかった。

   
財政規模の増高  一級町村制の施行により、いちおう自治権が拡大されたことは、それなりに財政規模の増高を促した。 その一例が役場職員の増員と、その給与の全額村費負担で、役場費の予算に対する支出比率が、

 昭13〜14  24・67%
 昭15〜20  46・65%
と跳ね上がっている。
 そして、何よりも財政規模の増高を促したのは、国の軍需物資調達による経済成長と、統制経済による物資の欠乏からくる必然的な物価の上昇であった。 後者は物価統制令で取り締まられてはいたが、闇流通の横行からインフレーションを防ぎきれず、昭和10年から10年の間に、物価は2倍にはね上がってしまった。 従って財政支出は経常費決算で、

 昭16  13万8,346円82銭
 昭17  15万5,272円56銭
 昭20  30万  261円44銭
と膨張し、昭和16〜20年(昭19資料欠落)の5ヵ年間通算収支総額(臨時費も含む)は、
 歳入  159万4,983円85銭
 歳出  115万4,685円88銭
で、一年平均の歳入は33万0,996円余となり、前期の約2倍に達するものとなったが、その内容は国や道からの交付金、補助金などの増額があって、村費比率は一段と低減している。 ちなみに、5ヵ年間通算歳入の内訳をみると、次のようである。
 配付税、交付金、補助金
     55万9,946円37銭(35・1%)
 村税 33万8,500円18銭(21・18%)
 財産売却積立金
     26万9,551円26銭(16・9%)
 歳計繰越金
     24万1,501円17銭(15・1%)
 雑収入、手数料、寄付金
     10万1,694円00銭(6・4%)
 村債  8万3,790円00銭(5・3%)
 なお、5ヵ年間通算歳出のうち31万6,689円17銭は臨時費で、これによって時局的事業や昭和16年の水害による災害復旧土木工事、および登栄床と信部内両国民学校の新築など緊急事業が実施されたが、昭和20年度は終戦の混乱で臨時費事業は行われず、歳計剰余金26万8,000余円を出している。

 
自作農創設
農地開発営団事業

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