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2006/12/29
○ 北の風風力8b、波浪6b 気温ー2度 吹雪
重いです。
一昨日の雨からの雪が、それから降り積もった雪の下で、クリーム状になり、車の轍に大きな爪痕を残しています。
雪掻きを行うにも、これらの解けて重くなった雪が、除雪機のローターを固定するボルトを破損させ、2回も取り替えをしながらの雪掻きとなりました。
 幹線道路の除雪も滞り、海岸への道には厚く降り積もった雪が、写真撮影の邪魔をしてくれます。
除雪のしていない道を、長靴以上の高さの雪を掻き分けながら、海岸へと向かうと目の前に、消波ブロックに当たって砕け散る波が、数十bもの自分の前に降り注いで、一歩一歩の前進を阻んでいるように思え、カメラを防寒コートの胸の中にしまい、轍を頼りに一歩うつ進みます。

気温が思う程下がっていないため、体感温度は低く感じられないが、横殴りから向かい風と変わるにつれ、だんだん下を向いて歩くことになります。
何枚も写真を撮れないまま帰宅となる。

 27〜30日にかけて、餅つきを行っていた年越し風景も、すっかり過去のものとなってしまいました。
これは、時代が変わったのではなく、女性の意識の変化ということなのでしょう。
善悪の問題ではなく、社会が求めるものと守るものの、峻別が行われなかったこと。
 国の危機的状況に置ける時、男性の出番ですけれど、平時に置いて女性の果たす役割の重要性は、男性の比ではないと思います。
自分の所で、餅つきが行われなくなったのは、昭和62年ごろだと記憶しています。
湧別から紋別へ、餅米を持ち元紋別の倉庫で、餅米をふかし臼でつきあげる。
 自分がつき、兄貴があいどり
 自分があいどり、兄貴がつく
 次兄と4兄がともに、つきと、あいどり
 父がそれを観ている。母が餅を蒸かしている
小さい頃は、漁が良い年は27〜28日に餅をつくが、漁がない時は30日の深夜、31日の早朝につく、これは、31日には借金取りが取りに来ないため、わざと深夜に餅つきを行うのが、この頃の漁師の家庭でみられた光景であり、ついた餅を隣近所に配りあうのが、近所付き合いの習わしとなっていたように感じた。
 


2006/12/28
○ 爆弾低気圧
また、再現になるのか?一昨年の1月に発生した暴風雪が、この地域の漁業にもたらした影響は計り知れないダメージとなって、漁業者に襲いかかりましたが、その余波も収まっていないなか、2日前からの異常な暖気から大雨となり、この時期として考えられない異常気象とも言える。
予感したとおり異常な暖気から異常な寒気へと続き、今朝から暴風雪となって襲いかかろうとしています。

コンピューターのディスプレイに天気図が、28日03:00、28日09:00、29日09:00と表示され、全国の波浪方向28日09:00、雨予報28日07:00などが目の前に表示されていますが、今秋の暴風雨からの災害を彷彿させてくれます。

 昨日の漁業者会議のなかで、ホタテの種苗生産に向けての方向を、模索するなかでみられる多くの発言といえば、不公平の解消や損得などの意見が多く、大局からの方向決定を得て詳細の意志決定と以て行かなければ、何のための協同組合といえるのか、甚だ心許なく感じます。
一時の方策を論じてみたとて、大自然を相手とする1次産業となれば、まず論じるのは自然の驚異を想定した方策を、多くの意見の中から取り入れ、且つ、細部に取りかかるようでなければならず、大局からみるというのはそういう原点からの指向を重ねなければ、自然からの恩恵を頂く産業とはいえない。
一時凌ぎの方策は、それらの積み重ねが高じた結果、葉っぱだけが茂て見えるという、うわべだけの方針に過ぎず、何らの方策としては愚かな者を、依然として創り出して行く事になる。
今、漁業にとって考えなければならないのは、人の育成であり質の向上だと思うのだが。
 先人の人々をみるにつけ、自分は果てしなく思う事がある。
頭だけが良くなって、利益至上主義、市場至上主義、自由平等権利主義(?自分だけ)がまかり通っている。
人を前にして、自分は何時も思う事があります。
人は年齢、性別、職業などと関係なく、自分にないものを持ちうるが故に尊敬に値すると。
しかし、その反面、勿体ない事だとも。
損得や、上下を超えたところで手を繋ぐ時が、何時か必ず来ると信じていましたから、当然にこの異常気象のなかで、この生産資源を守り維持するとなれば、多くの知識や見識を一極に集中し、難局を打開する途を講じる事が重要だと思いますが。
 如何せん
見識が無さ過ぎます。

 「和を以て尊しとなす」
人は間違いを起こしやすいものだから、何事も話し合って決めるようにしなさい。
聖徳太子が「十七箇条の憲法」を定めた中心となるものです。
1条にも7条にも、前と最後に重ねて定めたように、人は弱いものであるから決定や行動には、話し合いを最優先としなさいと基本原理をいっているが、自分は理想は大切ではあるが、話し合いにはその原点となるべき、個人の自立が無ければ、先の大戦のように、戦後からの社会のように、悪戯に途無き路をつくるように、魑魅魍魎をつくらないように、個人の自立があってこその話し合いでなければならないと思う。
烏合の衆の話し合いからは、何も生まれる事はないと思えます。
 「天は人の上に人を定めず人に下に人を定めず」
福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭の一文です。これは、子供にも分かるように書いたものです。
「文明論之概略」に多く出てくるものですが、明治維新当時の世界観からの国民自立への道標として書かれたものが、今必要な第一の書物と自分は思えてなりません。
知識は必要なものであるが、見識こそ重要視されなければならないと、謳っていると自分は思います。
 見識とは何か。
「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」
「仁」「智」は慈しみや思い遣りの心
「忠」「孝」は人に尽くす心構え
「義」「礼」「信」は人が修めなければならない、見識、常識
今の世相・時代のなかでは、必要のないものとされているものばかりです。
上に立つものや、教えを授けるものが修めていなければならない最大の基本理念であり、これがないものを烏合の衆と呼ぶ。
 今問題になっているものの根っこにこそ、これを当てはめてみればよく見えてくると思うのですが。
烏合の衆が、縁者を頼り、地域を頼り、企業を頼り、団体を頼って、指導者や政治家となるくらい国を危うくするものはなく。
教育や養育に携わるものが、烏合の衆では何も創る事など出来ません。
 自分を含めて、恥ずかしいものです。

クリスマスの夜、夢を見ました。
小学何年生の時なのかは、定かではないけれども、朝起きると枕元に靴下が大きく膨らんで置いてありました。
街の賑わいに、自分と関係のない世界の事だと、師走の人の行きかう姿や慌ただしさに、一人背中を向けて薪割り、水汲み、スルメ作りに神経を集中していた時の事、嬉しくて舞い上がった事が夢に出たのでしょう。
 この歳になって思います。
父の心の一端が、やっとこの歳になって知りました。
父の望んでいたものは、子供としての努めや孝行ではなかった。
言葉で親として、先輩として、漁師の先達として話しかけて欲しかったのだと。
父となり、祖父となって身に浸みてきます。

 自分は未だに、彷徨っているのかも知れません。
未完のままであるから言えることがあります。
知る事も知らなければならない事も未だにあります。
降りしきる雪を眺めるにつけ、何も知らない自分の浅はかさも、夢から教えられました。
その様に見る夢の時、不思議な事にセピア色の世界ではなく、ありありとした原色の世界。
父も母も兄も姉も、総てが明るい色となって蘇って来つつあります。
断片でしか観ることの出来なかった、その時期、時期の周りの景色や家族の顔と顔
 自分で描いてきたセピア色の世界は、コンプレックスから来るものなのか、両親の人生を垣間見、自分の断片とつなぎ合わせてみると、少しずつ少しずつ脚が歩むように、繋がって行きます。
雪の質感に、暖かさを頂き微笑みが自分に現れています。

 暗くなった外の景色が、現実に戻してくれます。
何か最近、愚痴のような言葉が多くなってきたなぁ〜〜〜なんて


2006/12/24
○ 日曜日 気温−4度 北西6b 晴れ 
総合計画の事で、無い頭をフル回転させるも、如何せん・・・器のなさなのでしょう。
計画の策定よりも、行政組織のあり方が何時も気になっています。
協働の街づくりと言っていますけれど、実態は何も変わることなく、町民に負担を求める内容ばかりが目に付き、町民とともに協働の街づくりを行うという姿勢は、感じられるのだろうか?
 25日、明日になります。
自分は地域づくり部会に入って、協議し策定に協力をするわけですが、何も変わろうとしない現況の儘で、自立から合併へと推移をしたとしても、中央への依存意識の儘過ごしてゆくんだなぁ〜〜〜なんて
街づくり、地域づくり・・・何処に違いがあるのだろう
街づくりとは、行政による整備事業の言い換えなのだろうし、地域づくりとは地域スタッフ制のように、地域と行政職員の配置から導き出される、意思の疎通なのだろうが、これとて、明文化しただけで終わりを迎えるものでしか無い事は、明らかなように街づくり及び地域づくりとは、取りも直さず人づくりにおいてしか、生き残る事は出来ない事は明白です。
年々過疎は進み、高齢化は拍車がかかるように広がり、少子化は人口の減少により、最もスピードを増す事になるでしょう。
 これらの、現況を打破する方策はただ一つ、人づくりに総合計画の根幹となるように位置づける事が必要となってくる。
器にあった、歳出歳入を図り、補助金や交付金に頼る意識を改め、若い者が住みやすい地域を創り出す事が急務となってくる。
 提案1,議員の報酬をボランティアとし、議員数を住民1,000人に4人位に引き揚げ、会議や委員会を休日及び夜間に設定する。
 提案2,行政職員数の早期削減は難しいところから、民間に行政職務の移管を進め職員を派遣する。
 提案3,住民の負担を最大限に軽減し、保育所の無料化、給食費の無料化、学校給食費の無料化、町施設の無料化、住宅料の公平化及び最大限の       削減化。
 提案4、公共事業を、道路及び緑化事業並びに住宅の建て替え等に限定し、無駄な事業は見直しや廃止。
なんて、思いつくままに書き込んでみたつもりです。
 産業がないのなら、誘致を進めるのではなく、産業を創り出してゆく、それも、民間主導で・・・
 行政職員に、お金を委ねない事。
 非常勤職員に、現職の労働者なり企業人を登用する。それもボランティアにて
きつすぎるかな・・・・


2006/12/21
○ 日記に書き込む事が億劫になっているわけではありません。
有り過ぎて書き込む事の時間的余裕が持てないと言った方があっているかも
 今月になって、2回目の不幸が仲間の家に訪れてしまいました。
17日の最終船揚げ作業の最中に、訪れた不幸の知らせは、作業を終えた午後1時頃だったでしょうか。
 社会教育中長期計画策定住民アンケート配布を終え、ニシン漁も終盤を迎えようとするも、荒天が続き出漁が叶わなく、最終の営漁にも倦怠感のような感覚を感じ始めて、決断を迫られつつあるなか、牡蠣貝のノロウィルスによる風評被害も顕著となり、市場の牡蠣貝価格が低落を続け、全国の牡蠣貝生産者にとって、どれだけの痛みを被っているかなど、マスメディア関係者など意識すらせぬ儘に、報道の垂れ流しをし続けるのでしょう。
腑に落ちません
 ノロウィルスの発生原因の特定が出来ていない現状では、食中毒予防・感染予防のための一大キャンペーンを張り、国民の意識向上に努めるのが本来の報道の姿と自分は思うのですが。
今回のノロウィルスは、新種のものか進化したものかを早急に検査特定してゆこうとしなければなりません。
 病原菌などは進化しても人間社会の進化となれば、逆に見習う価値も出てくるかも・・・

20日告別式を終え、取越法要も終え、19時体協役員会が中湧別の倖(しあわせ)で行われました。
参加者4名 会長 副会長1名 事務局長 監事1名
 会  長 体育指導員 バレーボール協会会長
 副 会 長 社会教育委員 スキー協会会長
 事務局長 文化協会会長 社会教育委員長 
 監  事 体育指導員会会長
なんて、4名での話し合いでは、この4名が何らかの役職を持っているため、話が延々と深く広く時間が幾らあっても、足りないくらいに熱っぽく語り合いが持たれた、前向きな人達の語らいの場でした。

 今、総合計画の原案が手元に届き、一瞥して3ヶ月内での策定には、苦難が予想されます。


2006/12/11
○ 毎日何回も港と家を往復する事が日課となってしまった。
まだ船が浮かんでいる事で、一年の後片付けが終えられないで居る。
 朝と晩に暖機運転のために、港を行ったり来たり・・・ついでに写真も撮りながら
社会教育中長期計画の、アンケート用紙を前浜地区半分と、登栄床地区半分を配り終え、帰りに海岸沿いを走らせていると、海に船が見える・・・第8義代丸でした。
家に帰り、防寒着を着込み港へ向かう。
圭一と出港し、大波のうねりの中を水深10bに4つを投網する。
 明日は、何時頃に楊網となるのか、朝陽が海を照らしてからの事・

一つ隣の街で、45歳の母が子ども2人を殺す事件が発生しました。
いじめや、不審者と同じく、この田舎の街でも都会と同じような事が起きてしまった事に、なんとも遺憾を禁じ得ない。
子どもの将来を悲観して・・・・
 馬鹿な事を言うものではありません。
親が子どもの未来を消し去る事こそ、悲観の何ものでもないのではないでしょうか?
心身に障害を得たとしても、子どもに何の罪があるというのか、ましてや、子どもを守る存在であるはずの親が、子どもの将来の光を奪って良い道理というものが在れば、教えて欲しい。
自らが生を縮めるのは構わないとしても、子どもを生かすのが親の責務であり、その親が生き残っては、それは、尊属殺人である。
何事があっても、尊属殺人は許されるべきではない。
 と言っても、自分自身父を2回、死ぬ一歩手前まで追い込んだ事があったから、なをこそ、してはいけないと言える。
何があって、このような事をしてしまったのかは、判断をする位置にはないし、するべきではないのも承知はしているつもりですが、敢えて苦言を呈しなければ。

悲しい事です。
思うだに、辛く苦しい思いが込み上げてきます。


2006/12/10
○ 寿命の事を考えさせられました。
「硫黄島最後の郵便配達?」だっけかな?
テレビ放送で見ましたが、自分の浅学で間違いも多々あると思いますが、記憶を辿ります。
 栗林忠道中将守る、日本軍2万9千人、対する米軍6万1千人で戦傷病者が、太平洋戦争で初めて逆転した米軍史では、沖縄戦、サイパン戦に続く日本軍が玉砕した中では大きな被害を出した作戦でした。
西欧諸国が日本軍に大きな賞賛を与える事柄がありました。
どのような作戦においても、数が劣勢であろうが無かろうが、全く関係なく末端の兵士に至るまで、戦闘意欲が失われる事がないという、およそ西欧諸国では考えられない事が、現実に目の前の戦闘で繰り広げられている事に、恐怖を感じない兵士は居ない。
何故このように、兵力差、物量差、情報量の差において、劣る戦いに於いて、西欧では降伏をする事に、恥じる事はなくむしろ当然の事であった。
それが、目の前の日本の兵士達は、まったく違っているのである。<従軍記者の談>?
 テレビでは、全く取り上げられもしなかったが、硫黄島にはレーダーがあり、サイパンから出撃したB29がレーダーに捕捉され、硫黄島から飛び立った迎撃機によって、度々被害を被っていたし、サイパン島も硫黄島から飛び立った爆撃機によって、被害を出していた経過があり、硫黄島を攻略し占領を終えて、日本本土を爆撃した飛行機が硫黄島へ帰る事が、最大の効果を生むのである事から、何としても手に入れなければならない島であった。
爆撃と、艦砲射撃によって、1メートル四方2dという爆弾が、兵士の上に落とされたが、島に掘られたトンネルによって、36日間もの間日本軍の兵士達は、戦ったのであるがその事を記憶している日本人は、ほとんど居ないというのが悲しい現実です。
米軍史上最も多くの犠牲を出した作戦として、多くの人が記憶しているから、今回の映画にもなるのであり、自分が評価するのが両国側から見た戦史という点で、着目している。
 自分たちは、このように身を犠牲にして、皇国のために散っていった人々を、尊敬の念を込めて誇れる。
このように、誇れるものある。
 自分の寿命
齢57
早いものです。
年の移ろいは早く、心の移ろいは果てしない。
身体は老いて行きますが、心は比例して若く、宇宙の果てまで見果てぬものを求めて、旅を続けるものなのでしょうか?
我が心に煩悩の火が、明々と燃え上がってゆくのは何故?
身体に痛みが走る度に、一つ一つ煩悩の揺らめきが、何かを求めています。


2006/12/08
○ 雪掻き
降りました。まず、船に降り積もった雪を取り除きます。
その後、朝ご飯前に、雪掻きをしようとするが、本日の気温ー3度湿度85%ですから、降り積もった雪が重く、トラックで排雪をする。
1/5屯トラックで、5回港へ排雪、雪を海中に投棄したが、終わった後のご飯は美味しいというよりも、身体の節々が痛くて悲鳴を上げている状態です。
 昨日、8日のスキー協会総会に向けて、出席できないという事で会費を委任するために、酒井さんが訪問する。
本日は、13:30から社会教育委員の会議が開かれます。
第5次中長期計画の、町民に対するアンケート協議の最終と、平成18年度報告事項と18年度残りの計画の協議が為されます。
 その会議最中に、もしかしたら天候次第でニシン網の投網がなるかも知れません。
その時は、会議を中断して船を出港させる事も考慮に入れ、天候と会議とをおつむへ確かに入れておきます。


2006/12/07
○ 04:00 昨日11:30に仲間の漁船と荒天が少しの合間おさまって来た間隙をぬって、出港しニシン網を楊網。
船が激しく揺れる中を、神経を集中し楊網を続けるが、6つ目の網が「しけて(網敷設したものが流され動く事)」下の仲間の網に絡まっているものを、何とか外して仲間の船の楊網が終えるのを待ち、一緒に帰港し荷揚げを終えたのが12:50。
6つのニシン網のうち、1つは海底の流木数本が絡まり、網を切断する。2つ目は絡まった網の切断を数カ所したので、2つの網が使用不能となった。
荷揚げが済んでから網外しを始め、ニシンのみを外し、キュウリをそれから外しにかかるが、16:30外が暗くなったので、出面さんを帰すため本日の作業は終了。
 というわけで、04:00から倉庫に仕事に向かう。
キュウリを外し終えて、網をタキのを圭一と出面さんにまかせ、船の暖機運転をしに港へ行き、帰って直ぐに市場へ出荷。
 ニシン5sー84箱、キュウリ10sー34箱
08:00 2回目の船揚げ。
幸運丸
勇盛丸
寿丸
漁栄丸
昌福丸
豊漁丸
恵祐丸
敦美丸
富丸
智恵丸
曙丸
長栄丸
龍王丸

大型船
幸丸
宝栄丸

13:00頃、天候が回復、気温5度
積もった雪が、アスファルトの路面部分で解ける。

15:00 雪が降ってきました。
荒れそうですので、船を岸壁から離す作業をし、本日の作業は終了。


2006/12/05
○ しんしんと、降りしきる雪がうっすらと積もり、歩みを早める一歩一歩の足跡には、点々と歩みの一時が刻まれています。
早朝に船の暖機運転をし、暖機中の待機時間を有効に使うために、舷側から排出されている循環水の出口の異常がないか確認し、旧漁港の埋立の進歩状況を確認、新漁港の災害復旧によるところの、浚渫作業から排出される、海砂の山となっている船着き場及び南防波堤を、横目で見ながら、何時もの海の波浪の現況を確認するところへ行く。
辺り一面の真っ白な景色と、海の一部分しか露出しない雪の中での確認は、うねりと波頭と風向きの総合的な判断が、この時期における最大限の漁師として、一番の関心事となっている事は、言うまでもないでしょう。
新聞から、拾い上げたものですが・・・・
- カンボジア船乗り揚げ事故:木材や座礁船の撤去作業が終了−−中泊町・小泊沖 /青森(毎日新聞) (5日11時1分)
- 重油流出タンカー「昭星丸」多度津にえい航 - 四国新聞 (3日17時41分)
- 防波堤にボート衝突 3人重軽傷 西宮 - 神戸新聞 (3日17時23分)
- 1万トンクラスの船が突然沈没 上海・黄浦江 - 人民日報 (3日17時16分)
- 豊島沖のタンカー衝突:タンカーを多度津へえい航 /香川(毎日新聞) (3日13時1分)
- 漁船転覆:いけすロープに接触 けがなし−−宿毛湾 /高知(毎日新聞) (2日16時1分)
- 豊島沖のタンカー衝突:重油の抜き取り完了 流出は最大60キロリットル /香川(毎日新聞) (2日15時1分)
- 事件事故裁判:海山に計3遺体 /大分(毎日新聞) (2日13時2分)
- <茨城貨物船座礁>パナマ船籍の船長を書類送検 海保(毎日新聞) (1日19時42分)
- 重油流出、養殖ノリ被害−豊島沖タンカー衝突 - 四国新聞 (1日16時21分)
- 養殖ノリ業者、怒りと落胆-タンカー衝突重油流出 - 四国新聞 (1日16時19分)
- 貨物船船長2人を書類送検=茨城・鹿島港の座礁事故−海保(時事通信) (1日15時0分)
- 鹿島沖の貨物船座礁事故、インド人船長を書類送検(読売新聞) (1日13時41分)
- ニュースBOX:座礁事故の対策本部解散 /茨城(毎日新聞) (1日11時2分)
身近では、
不明の漁船漂着 船長は行方不明 海中転落か  2006/12/04 14:02
 【利尻富士】三日午後、宗谷管内利尻富士町の鬼脇漁港から出漁したまま帰港せず、稚内海保が捜索していた同町鬼脇、漁業鶴谷昭吉さん(66)のカレイ刺し網漁船「第32政運丸」(一六・三九トン、鶴谷さん一人乗り組み)は四日午前、同漁港から約三十キロ南東の留萌管内幌延町浜里の海岸に漂着しているのが見つかった。船内に鶴谷さんの姿はなかった。

 同海保によると、船体に目立った傷はなく、燃料も残っていた。同海保は、鶴谷さんが操業中に海中に転落したとみて、巡視船などで付近海域の捜索を続けている。

このように、何事もないように見える海の上には、常に危険が付きまとっているというのが現実です。
 自分は、漁船漁業が全盛期を謳歌していた頃、オホーツク海、日本海、太平洋上でこの時期の気象の変化が、如何に危険なものかという事を、耳で聞き、目で見、肌で感じてきた昭和の小漁師ですから、トップヘビーから海に姿を消してしまった漁船も数回目撃をしています。
冬の荒海ほど、漁師としての真価を発揮する場所はないと、旅をしていた頃の石巻の古漁師に教えを頂いた事があります。
トップヘビーとは、船の重心が上にある状態を指す言葉で、この時期のトップヘビーとは、船が波浪の影響を受け、波飛沫が船に着き氷となって段々厚く重なり、重心が逆転する非常に危険なため、カケヤかハンマーで氷を打ち砕き、重心位置を取り戻す作業が、何回も何回も繰り返し行わなければならなく、甲板員として漁船に乗り組んでいた頃、一番嫌な仕事の一つでした。
 ちなみに、漁船員が使う言葉
デッキ、バグデッキ、ダンブル、ポラード、ゴヘ(ゴッヘ)、アスタン、もらい、スターン、逆さもらい、タチ、レール、カイシング、オモテ、トモ、ブリッジ、シングルライン、レッコ、イッテコイ、トップヘビー、ボトムヘビー、アンカ、シーアンカ、トローリング、キャプスタン、ドラム、ラインホーラー
などなど、ごく一部分です。(記憶が薄れていっている)

15:30 ニシン網を投網するために出港する。 6タンカ投網
今晩は、前浜青年部の総会が行われます。
圭一も今回で、部長を交代するようです。
 明日の網揚げは、何時頃に出港できるか?
 


 2006/12/04
○ 昨日テレビを見ていたら、NHKの深夜番組で教育基本法を論じる特集がありました。
賛成論者2名、反対論者2名に傍聴する保護者を含めた方々で、主として論じられていたのは学校選択制のことでした。
各論者の意見を拝聴していて、まず感じたのは各者が語る論点の意味を識別する事に、着目したのではなく学校選択制を賛成とする1論者の、相手方の説明を聞いている態度でした。
明らかに相手を論破しようとする姿は、まだ意欲として認めるとしても、相手方が説明を続けている間、不敵な笑みを浮かべたり、説明を終えない間に幾度も反論をしようと発言する姿に、この論者にはたして教育を語る資格があるかどうかという事に自分の神経を傾注していったのは言うまでもありません。
教育は個人の尊厳に関わる大問題であり、国の基本中の基本原理となるものだと思うからです。
個人の権利は尊重されなければなりませんし、その権利を保護して行かなければならないのは、言をまつまでもない事ですから、何人なりとも自由に意見を発する機会の均等を得る権利も有するわけですが、その権利を行使する以前に、発言を最後まで聞く義務もおうことでなければ、主義主張の平行線を辿る事は自明の理となって行く危険性が、いつまでも付きまといお互いの必要とする政策なり提言なりが視聴者に届くはずはないと思ったのは自分だけなのか?
学校の選択制とは、個人の権利の主張に他ならず、競争原理・市場原理を教育の現場には持ち込むべきではないというのが、自分の考えるところなのですが。
今の、教育に語られなければならない最大の要因とは何か?
1,死というものの教育が全くと言っていいほど為されていない事
1,個人の権利を尊重する事を重要視するあまりに、個人の尊厳という最も大切な部分の教育が為されない事
1,いじめやいじめによる自殺は、教育現場と離れたところに問題があり、保護者への親として大人としての教育が等閑にしてきた事
1,教育委員会の機能は、教育における施設・資金・人材の確保均等化にあるのであって、教育現場への教職者と委員会の相互の理解と協力が在って機能しうる。
1,教職を尊崇の念を以て、保護し協力が為されなければ、教員自体がサラリーマンと何ら変わるところ無く、悪戯に酷使を続ける結果を生む事に繋がりかねない。
1,行政・地域・家庭が何のために学校が必要なのかを共通認識し、想いを一つにして問題解決に取りかからなければ、旧態依然の問題が次から次と、むしろ悪化して我々の目前へと現れる結果を生む事に栂なる。
では、今何故、教育基本法の改正が必要になっているのか?
そもそも、現在の教育基本法の発生を考えなければならない。
終戦を迎えて、国民が狂喜乱舞したごとくに思われていないか?
終戦と思われているが、8月15日は終戦記念日ではない。
連合軍が中国で東南アジアで、太平洋の島々で恐怖に打ち震えた連合軍の兵士達が、一番に日本という国・国民に対して思った事は、日本人の持つ国民性を根底から崩壊する事にあった。
欧米諸国が持つ、戦闘に対する観念が、日露戦争ののち大東亜戦争(中国から東南アジア)、太平洋戦争(太平洋)の終結に至るまで、日本軍人及び民間人の理解しがたい精神にあったから、この民族性を崩壊させなければ何時又、恐怖の存在として復活する危険があったという事情から、憲法の発布後取りかかったというのが事実なのではないかと思わせる、外国人記者の従軍記事を垣間見ると、国体を完全な民主国家に変え、国民性を「滅私奉公」に代表される道徳的理念の崩壊と結びつけて考えないと、記者達が異口同音に言葉や記事で発している兵士や民間人への驚嘆や畏怖も勿論畏敬の念で、その後の作戦や戦略を描いて米軍の損耗を回避しようとするが、戦いの度事に畏怖が増幅されていった事に起因しているのかも知れません。
 自分は歴史が大好きですから、かなりの書物は読んできたつもりなのですが、教育の荒廃は戦後のGHQが取った政策により、従来の国民性がタブー視されたと同時に、教育者が自らの責任を戦犯に被せて、何ら自己反省のない儘に180度、教育の転換に完全に埋没した事に起因しているように思う。
平和憲法と言うが、憲法の発布は少数によるGHQ内部の国体の破戒にあった事は、周知の事実であり最近現憲法は個人の記録にあるように、日本人の手によるものだという認識を持つものも現れるに及んで、ここまで、破戒が浸透しているのだという事を改めて感じ得ない。
日本人は、もっとも平和を愛する国民性を持っているのであって、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教のごとく、殺生は禁じているが異教徒は人間とは見なさないという現実も、覚えておく必要がある。
あくまでも、このような意見は極論であるが、一朝事が起きれば殺戮を繰り返してきた歴史から鑑みるに、遠からずではあると思う。
日本人にはその様な宗教はない。
例外的に、キリスト教徒が自国民を奴隷として、商人に売り払った事はこの国で安土桃山時代に起こっていたのだという点を除けば。
これも、カトリックとプロレスタントの違いから来る歴史の汚点ではある。
 学校選択制導入を述べる論者は、私学で許されているのだから、公教育でも公平に許されるべきだという論陣。
学校選択正反対を述べる論者は、市場原理を公教育に持ち込む危険性を論陣。
どちらにも、言い分はあるが、それらの意見を戦わす以前に、まず教育の根幹を為す民族性を論じるべきであり、その事に戦前戦中の事柄を持ち出すべきではない。
もっとも、それらに言及する論客は、民族性自体が戦争を誘発したのだと、もし、言及するのであったとしたら、それは無知以外の何ものでもない。
 今、現実に北朝鮮の置かれている現況を鑑みたら、70数年前の我が国が置かれている状況とにているのではないか?
拉致や麻薬、偽札など、犯罪国家としては同一には語るべきではないけれど、国家の置かれた状況はよく似ていると思う。
当時の天皇を頂点とした国体を鑑みる時、政府と軍部で矛盾した動きが今回の戦争を導き出した事は歪めない事実ではある。
日露戦争にみられるように、政府と軍部との危機感に於いて共通した認識のもと、国策遂行にあたった事例と、天皇を頂点とする統帥権の乱用による軍部の独走は、許される事ではないが、当時の満蒙の置かれていた状況を考えれば、あながち否定ばかりでは辻褄が合わなくなっていた事も、見逃してはならないとも思う。
自分はA級戦犯には、全く罪はないと思っている一人です。
あの当時、誰が内閣を組織したとしても、開戦は避けられない状況にあった。
日本に罪があるとすれば、日清戦争に勝ったのが、そもそもの罪なのであって、一番の罪人は誰かと自分に問われたなら、自分は即座に答える事が出来ます。
 万死に値する犯罪人はというと、それは、ペリー・・・・・
この人物が日本に姿を現さず、欧米諸国が日本に触手を伸ばし、植民地化していたならば、数々のそれ以後の戦争は避けられた。
中国人に、侵略国家と言われる事もなく、中国自身民族自立など出来ず、韓国に至っては完全な植民地となり、牛馬に劣る扱いを受けたものであったろうし、それらも我が国も同然に奴隷と化していたであろう事は、東南アジア諸国をみるまでもないであろう。
この国は不幸にも、危機感があった。
外圧という無かれ、危機感がもたらした明治維新であった事は周知の事実として語らねばならない。
 当時の人々が善人ばかりではない事は自分も承知。

では、ちょこっと明治維新の話が出たついでに、西郷南州をご存じでしょうか?
彼の本名とは?隆盛・・・違うんですねこれが・・・
 では、どうして隆盛という名前になったかというと。
これは、本人が間違いをそのまま認めたという事です。
本名は、隆永というのが本当のところ。
では?何故?
西郷が東京を離れ、使節として旅をしていた時、明治の氏姓名の登録時、西郷の本名を誰も知らなかった。
大久保利通(一蔵)が西郷の名前を思い出せないままに、確か隆盛という名前だと戸籍に登録をしてしまった。
西郷も、大久保が言った事だから、取り消さない。
そのまま、西郷隆盛になってしまった。
では、一蔵、吉之助と呼び合うほどの幼い頃からの友でありながら、何故に間違いを犯してしまったのか。
それには、この国には、言霊信仰があって、名前を呼ぶ事はタブーとされていた。
  何故?
古くから、名前には本人の魂が宿っていると信じられていて、生前中絶対に名前を呼ぶ事は許されない事となっていたから。
大岡越前の守で名高い、大岡忠相も越前・お奉行と呼ばれているように、主君であってもそれは変わる事がなかった。
だから、一蔵(利通)と言えど、家族と言えど、吉之助・吉どんとは呼んでも、隆永とは呼ばれる事がなかったから、一蔵をして間違いを犯してしまったという事。
まして、西郷自身が訂正もせずに、そのまま隆盛と呼ばれる事に抵抗を示さなかった事から、後世まで西郷南州こと隆盛となっている。
これ本当の話・・・・です。


2006/12/02
○ 粉雪が舞い、辺り一面が銀色の世界に変わりゆく時間を、何事もなく過ぎてゆく事はたやすく感じます。
告別式に後数時間、機械の暖機運転を行いながら、油圧機器も作動させパイプ周りの冷えを取り除くために、2時間弱船の側にトラックとともにたたずんでいる自分。
 降りしきる雪がフロントガラスにあたり、その冷え切ったガラス面を間欠ワイパーが、時間差を於いて雪を払いのけて、目の前百数十bの雪景色から岸壁へと繋がる景色を、何の感覚もなく視野に入れ思い込んでいる事がありました。
木村拓哉主演による、「武士の一分」内容も何も知らないし、テレビに映し出された侍の姿が、或る部分で自分の人生の一部分にも繋がっている事に、違和感なく脳裏に刻み込まれていたのだと思います。
「親の一分」「人の一分」「男の一分」「漁師の一分」「大人の一分」なんて、書き出していたらきりがありませんね。
今日の告別式は、現職町長の御母堂という事で、漁師仲間の母の葬儀ともなりますが、こういう事に対して、私事と公事の区別が曖昧になって来ている事の危機感ははっきりと感じます。
大人としての振るまい、仲間としての馴れ合い、そんな事が何時も感じられ、これで良いのだろうか?とも・・・・
 人は必ず死というものを迎え入れなければならない宿命があります。
そも、生とは死を意味する事でもありますから、どう生きるという事、生かされるという事は、死に向かって何を為すべきなのか、死を意識し今をどう生きるかという事の、問い続けなのではないかと思うから。
雪を目の当たりにした時、その白さに感動を覚えるか、当たり前の景色ととらまえるか。
感動を覚える時には、一事が万事、目の前にするもの総てを受け入れ、新たな事柄と捉え精神性を高めてゆく事に繋がり、当たり前の景色ととらまえるという事は、目前の事象に関係なく自身の事柄に生きがいを感じる。
海の白い世界と陸地の白い世界を繋げる流氷に感動し、雪解けから芽を出す息吹に感激し、青々とした暖かな世界に躍動し、暑い地表に原色を見いだす事の脈動、秋の枯れ葉の落ち行く様に憂いを感じる鼓動。
それらの中に、神を見いだし仏の意志を感じる心を、与えられた人々。
冠婚葬祭に、それらが繋がってこない今の風俗が、私事と公事の区別さえ失われようとしているのかも知れないと、ハンドルを握りながら雑駁に感じている。

 告別式の時刻が近づいているので、この後は、後の事として・・・

 08:45 宮ノ森センターに到着し、曙町の葬儀の係の意見により、昨日の会場に弔問客用に敷いていた、座布団に代わりイスの設置に取りかかる。
会場にはイスの設置限度があり、220脚が限度であり通常ならば、5脚×2列となるところ6脚×2列として、葬儀社の到着が遅れているために独自の判断にて設置する。
11:00 告別式
12:00 納棺の儀
12:30 火葬場へ旅立つ
14:30 取りこし法要
15:00 告別式並びに初七日法要、49日法要を終える
15:30 船の暖機運転を開始
15:45 ニシン網投網のため出港
      港から0,30マイルを経過するも波浪激しく投網断念、反転帰港する
天候の変調により、北西風と西風と、風雪が間断なく続きニシン網の操業にならない


2006/12/01
○ 網走東部、中部、西部に強風波浪注意報、北見市に強風注意報、紋別東部、中部、西部に強風波浪注意報が発表されているとは信じられない、海岸の波の穏やかさに唖然としながら、寄せては返す波を眺めているしかない状態に、内心苛立ちを感じています。
3bの波の高さには危険を感じなくとも、北西の風強くとなれば穏やかでは居られなくなります。
 昼頃から、通夜のお手伝いに会館へ向かいます。
明日は告別式となる事から、本日の網刺しはどうなる事やら、仲間の状況をみてのこととなるでしょう。


2006/11/30
○ 03:30 風と波の音が聞こえないのをいぶかしく感じ港へ、海岸へと風と波の状態を確認のために忙しく、トラックを走らせながらあっちこっちと雪道をタイヤを雪に取られないように、神経を使いながら確認作業を続ける。
 結果、出港が出来ると判断。
04:00 港を出て、一路昨日の順路を辿る。
波のうねりはまだ消えては居ないが、網揚げには何の支障もないと判断し、ボンデンを掴まえ作業に入る。
 暗い中で、船に雪が少し積もっているので、救命チョッキをしっかりと締め直し、一歩の歩みに神経を集中し、集中させながら網揚げを終了。
港の寸前で、風が北西になり雪がちらつき始め、海上の黒く暗く感じる雲も低く垂れ下がり、朝陽が射し込む前の帰港となった事に感謝しつつ倉庫へと戻る。


2006/11/29
○ 今日は、会議が目白押しに並んでいるので、ニシン網を11:30に刺しに出港しました。
予報的には、心配がないわけではないけれども、昼過ぎからの出港とはならないための処置です。
13:30 社会教育委員の会議生涯学習部会が始まる。説明が長い・・・・異様に長い。
本人曰く、17時位までかかるかな?なんて言っていたのが頷けるが、自営業にはきつい言葉ではある。
16時から組合による部落懇談会が前浜地区、丁寧地区の組合員を集めて組合2階会議室にて行われるのだが、出席は叶わない状況になる。
部会長として、協議中の会議を抜け出すのは叶わない事ですが、それにつけても苛立ちが強くなるのは、煙草休憩が取れない事と進み具合が想定以上にノンビリとしているためでしょう。
17:45 やっと会議が終わり、家に帰る途中に港へ天候と波の確認のため車を走らせ、港へ近づくにつれ不安が・・・・
電話で確認。予報が変わっていました。
2bの波の予定が3bとなり風向きも、西から北西に変わり、吹雪模様となり、これ以上網を海に入れておけないと判断。
18:00出港。
真っ暗で雪が横殴りに降っている中を、漁場めがけて船を走らせます。
暗い中でも、波頭が白くなっているのが見える。
船が横に傾き、斜めにかしがりつつ一番遠い網の処まで何とか着いたけれど、もう波がうねりが高く強く、網を捕まえる事が危険と判断し港へ向けて反転帰港となる。
 帰りは、風に向かってに操船となるため、操舵を代わり機関の回転を微妙に操り、舵を波やうねりに合わせながら、一路一路と一瞬の油断もままならないと感じる(30数年ぶり)レーダーで波の枚数と海岸線のうねりの枚数、港の距離とを瞬時に判断しながら何とか港の寸前で、操船を交代する。
明日は、網揚げとはならないでしょう。


2006/11/28
○ 02:00 港へ・・・・北の風風力7、うねりが強く出漁を断念
04:00 出漁するも、0,5マイルにて、反転帰港
05:30 風速が少し治まりかけているのを確認、出港。0,75マイルカレイ網を楊網するも、2タンカを揚げて反転帰港、荷揚げをし倉庫にて網外しを終えて、出面さん方に網タキ(網を投網出来るように納める作業)を任せて、再度出漁する。
カレイ網を2タンカ揚げ終え、ニシン網0,25マイルを揚げ帰港11:00
11:30 倉庫に網を搬入し、昼食をとり作業開始が12:30
アブラガニはこまい(小さい)けれど、身がぎっしりと入っているので、フンドシ(カニの裏側、三角の部分)が美味しいです。
オイラン(カジカの一種で、2本の角の部分が花魁の「かんざし」のように出っ張っている姿からきている名前かな?)が増えてきているから、漁の終盤になってきているのは確か。
ドンコ(お腹に吸盤がついた軟体魚)もかかり始めてきましたから、オイランと同様にやはりカレイ網の終盤でしょう。
 底建て網の手網部分に、サンマがかかっていて、作業が大変そうです。こんな事などあり得ないから、こんな処にも変調を感じられるし、サロマ湖の緑館(温泉?付きの宿泊施設)の波打ち際にサンマが大量に打ち上げられているし、ここの港の中にもサンマが入って、釣りの人やらタモで掬う人やらで、結構賑わっていましたが、こちらの港はサンマは終わっているようで、釣りの人も現金なもので居ないとみるや、誰もいなくなります。 
本日の作業終了は、16:30
腰の負担も言っていられない状況の中、気温の低下が確実に進んでいるのを、自身の身体の冷え具合で確認が出来る。
 風邪の症状は軽くなってきてはいるのだが、痰がきれないのが悩みといえば悩みかな?
煙草が旨く感じられないのも、風邪の影響からなのかも知れませんね。


2006/11/25
○ 雪に覆われた暗く早い時間帯に、トラックの荷台に積もっていた雪を取り除き、一路漁港へと車を走らせています。
砂浜は暗い中にも真っ白な光景に覆われて、ヘッドライトの明かりを辿り海へと目を転じてみれば、ウミネコが波間に漂い、気温の低下に海水温の暖かさから発する湯気が毛嵐となって波間に漂っています。
04:50 風は無風状態
13:00 より、登栄床漁港での船揚げ作業が始まります。
恒例の行事となり、この後明日26日湧別漁港の小型船の上架作業に移って行きます。
26日には、湧別町スキー協会役員会があり、議案と役員改選が話し合われ、次期会長が決まります。
 鈴木法幸さんから、来年1月13日寺子屋塾の講師派遣要請が来ています。
28日には、社会教育委員生涯学習部会が開かれる予定。
30日には、漁業権申込最終日、企画委員会ビックウェーブ役員会が開催される予定。
 そろそろ、役職を離れ大局から、漁業やこの土地、この地の事を考える時が来ているのかなぁ〜〜〜なんて独り善がりに過ぎませんが、この地の生きる事を許され、育まれてきたものにとっての残された恩返しとでも云うべきなのでしょうが、大層な言葉とは裏腹に頭と口が付いてきていないのが現況では、致し方在りませんが。
なにか、形として残したいものだと考えますので、今更でしょうが勉強をしているつもり。




2006/11/24
○ 08:00 ホタテ漁船上架作業
昨夜からの、暴風が穏やかになり、風向きも変わりつつありますが、寒気が勢い付いているみたいです。
漁港内では、サンマが捕れだして義父も暗い中を、タモ網で5箱ものサンマ(漁体は小型)を捕まえてきました。
腰の具合も少しづつ、快方に向かっているように感じます。
まだコルセットを付けていなければ、歩行すら充分ではありませんが、少しづつ・・・・
 このような時には、横になって読書三昧が良いかと、テーブルに見終わったものが散乱して、大分頭が混乱してきたようです。
たまに雪がちらつき、だんだん冷え込みがきつくなって来ているのでしょう。
波が治まる気配を感じさせないままに、風が北西の季節風となって一段と、防波堤を越える波頭が飛沫となって昇進丸へと降り注ぎ、港にはサンマを釣る人の影が、疎らに寒さに身をかかめながら、数匹のサンマを釣り上げているのが見えます。
 トラックに暖を取り、それらの風景を眺め港を一周して、家路へと戻ります。
16:00 漁業権の申込の方法が、今年度より変わりました。
従来の申込方法とは若干異なり、本人が印鑑を持参し申込を行うのですが、本日4時より漁業権の申込説明会が、組合3階会議室で行われます。
それらの説明を受け、来期の漁業権の行使方法を考えなければならない、大変に重要な期間となります。
 漁業を取り巻く環境の変化や、天候や気候といった自然環境の変化、地域経済の特性における変化等々が、この地域漁業にも端的に表れ、それに追い打ちをかけるような大時化や洪水といった、ホタテ漁業における甚大な災害はなんら、公的機関の補助の対象とはならないばかりか、独立独歩の気力さえ押し流すような天候や気温の急激な変化にたいし、なんら効果的な方策を見いだせない組合の温もり体質に、危機感を持つ組合員ははて・・・・何人いる事やら。
15:40 組合に説明会を聞きに行く前に、外は吹雪模様となっています。
綿帽子のように軽くはない雪ですが、確実に降り積もって路上の境界も怪しくなっています。
 いよいよでしょう・・・・
「わたぼうし ふわりぽたりと あきのくれ」         駄句

 なにをやっているのだろうなぁ〜〜
何かしら、時間が残り少なくなっているというか、身体の残量期間が残り少ないって云うか、耐用年数が迫っているというような、若い時分からカウントダウン方式で、生きてきたつもり。
なんだろう?この頃むやみに般若心経なんてものが、胸の内に過ぎっては消えるのだが、お題目すら思い浮かばないのに何故?
 いよいよ、おつむの限界が近づいたのかな?


2006/11/17
○ 雨が雪に変わりました。
とうとう来るべきものが来ましたね。
06;00 登栄床漁港から養殖施設沈下作業のため出港しました。
漁場7の施設3本のうち、栄浦方面境界より2本湧別方面の施設とその施設から湧別側2本目を沈下し、漁場3に戻り仮採苗施設の沈下をしボンデンを設置し、帰港する。
2回目の沈下作業に沈石を積み込み出港。
漁場3航路脇の半端になっていた施設を沈下し、漁場3採苗よりの施設を沈下し、漁場7富武士漁港航路脇の施設を沈下、帰港。
3回目の沈下作業に沈石を積み込み出港。
漁場3三里側2本を沈下、11:45帰港し乾し場と倉庫へ。
13;50 ニシン網を刺す5タンカ。このときより雪に変わる。
漁港へ帰り、倉庫前のニシン網及びカレイ網にシートを被せる。
16:00 ホタテ代議員会。
平成18年操業実績及び平成19年の操業計画の報告
新造船謙造計画を説明される。

平成19年は今年度の影響をもろに受け、最悪の営漁計画とならざるを得なくなりました。
この時、石川啄木の「はたらけど はたらけどわがくらしらくにならざり じっとてをみる」


2006/11/15
○ 20:26 津波警報が発令される。
テレビにテロップが流れ、北海道太平洋側1b、オホーツク海側2bの津波。
津波到着時間21:20、かけ急ぎ港へ、義代丸、龍王丸が港の外へ避難し、自分はアンカー綱を張り、船を岸壁から離す作業に取りかかる。
21:05終了しトラックで待避、湧別町全域に避難勧告が発令され、家の若い人達と孫を避難させ、自分はもう一度港へと向かう。
家の周りは全戸避難をしたが、義母が動かないため自分たちは待機となるが、10月の大時化と洪水の時も矢張り動かなかったので、今回もと思ったが案の定でした。
歳も歳であるから、一度思いこんだらもうどうしようもありませんが、役場災害対策の職員が見回りに来て、もう避難をしていないのはあなたの家だけですから、なんなら私どもが説得に当たりましょうか?
こう言い出されてはどうしようもありません、一度家に入り、強行に説得をし避難をさせてから自分も上湧別町文化センターTOMの駐車場へと入り、ラジオの津波情報を聞きながら待避状態。
23:45 津波警報が津波注意報へと変わったので、家路につくが直線道路上に車のバックライトの赤い光が連綿と続き、綺麗な光景を見ながらの運転操作を続ける。
 ぶつくさと文句の嵐に、何もなかったのが何よりの事と内心安堵を浮かべて、公害が立ち去るのをじっと待つ身の、何と幸せな事でしょう。
避難は何回しても構わないから、何事も起こらない事が一番でしょう。


2006/11/14
○ 真っ暗な水平線と格闘する事2時間余り、波の合間に湯煙が立ち上がっています。その遙か彼方に空と水平線との境界も見えない中に、うっすらと漂う灯りとも言えないものが微かに微かに見え隠れしています。
人魂の色とは明らかに違うが、それとて何か自分に記憶にある波に浮かぶものの中には、存在していない色なのです。
1時間ほどで、船の灯りと判明したが、でも、この時にどの船?底引き船?タンカー?貨物船?ロシア船?どれとも違う・・・
分からない。
 妹の事が頭をよぎります。
今現在、何処で何をしているのか?何の連絡もしなくなって、もう何年経つのでしょうか。
探して、話をして・・・それから?
人が人生を歩んでいる時、その人生に何を語ればよいと言うのか、自分には判りません。
自分には、しなければならない事がふんだんに在りすぎて、どれから手を付ければよいと言うのかさえ、分からなくなっているというのは甘えなのでしょう、分かっている筈なのにそれから逃げている、
04時30分、ほっき桁網船が出港して行きました。
うねりはまだありますが、予報が好転しているための判断でしょう。
自分は、養殖施設の沈下作業へと段取りをしながら、06時30分登栄床漁港へと向かいます。
南からの風速が強いけれど、南南西に変わる予報を信じて、石を積み込み出港して行きます。
登栄床漁港へ着き、乾し場へ。沈石24個×3連・1尺2寸玉27個をユニックに積み込み岸壁へと移動する。
3隻並んでいる船外機船を外に出し、2隻を繋留して、沈石を積み込むため作業岸壁へと船を移動し、ユニックから船に荷物を降ろし、出港する。
漁場5−1の4本のうち志撫子側から、沈下作業を開始する。
2本半を沈下し、漁港へと戻る。
漁港の作業岸壁に着岸させ、乾し場へユニックを運び沈石及び玉を積み込み、船へと移動し出港するが、仲間の各船は風速が強く待機していたが、自分の船が出て行くと後に続く。
漁場5−1の4本、沈下を終え沈石が残っているため、漁場3の航路側施設の沈下を開始するが風速が強くなったのと沈石が残り少ないために半端で船の荷物を空にして漁港へと帰る。
 11時50分、家に着き食事をし、13時45分ニシン網5タンカを刺し終える。
本日の作業はこれで終了。
 旧漁港の埋立も、ほぼ完了に近づいています。
家に入り、身体を休めるため横になり、マッサージ器を使用しながらテレビを見ていたら、災害の報道とともに男の子の虐待からの遺棄殺害事件を報道しています。
このような事件が後を絶つ気配すら在りません。
なんという事なのでしょう。
命の重さと儚さを、知ろうともしないのでしょう。
我が身一つの命さえ、生かされている事も感じないのでしょう。
可哀想でなりません。
このような人を作り続けた教育の恐ろしさを今一度考えてみませんか?
何時の時代にも、猟奇的な事件は或るものですが、このように総ての分野で男女も貴賤も老若男女も分け隔てなく起きる事は、異常としかいえないと思います。
一億数千万人のこの国には、自立できるものがなくなりつつあるのもまた事実。
外交を重ねるたびに、我が身を売るような交渉が続きます。
輸出が好調な時には、必ず諸外国からの輸入が滞貨として、帳尻を合わせるかのように洪水のように入ってきます。
このような役人が、何時現れたのでしょう?
大人といえない人が、歩いています。
親といえない人が、歩いています。
男といえない人が、働いています。
女といえない人が、歩いています。
何時からこうなったのでしょう?
 という自分さえも、大人になりきれてはいませんが。 


2006/11/13
○ 真夜中、深夜、早朝、どちらの形容詞で表せば良いのか、迷うこの時間午前3時、言うところの丑三つ時です。誰もいない港にトラックで暖を取りながら、船の見守りを続けつつ、たまに廻ってくる仲間との時化の談義に時間を費やしながら、ラジオ深夜便を聞いています。
今日の題は、作詞家「佐藤惣之助」の唄を放送していました。『赤城の子守歌』『男の純情』『人生劇場』『人生の並木道』『青い背広で』『湖畔の宿』『緑の地平線』などのヒット歌謡曲がある。楠木繁夫、ディックミネ、高峰三枝子、藤山一郎など、懐かしい顔ぶれの声が流れています。
良いなぁ〜〜、当時の歌い方の何と自然な事。
 こんな事をしながら、時は流れ(ほんの数時間?)
ラジオからは、何時もの宗教の時間に変わっているのが伝わります。
有名な僧侶が、説法を電波を通して話していますが、なにせ高齢な為口調が自分に判断できない部分が多くありすぎました。
 市井の女性の名を挙げて、仏の言わんとする事を彼女たちは、普通の語り部のように簡略に伝えているというような、語りだったと思います。
悟りと煩悩は紙一重であると、悟りの中に煩悩があり、煩悩の中にこそ悟りそのものがあるのだと。
その事を、時間を費やし、自分のような凡愚にも分かるように、かみ砕きながら多くの言葉とともに電波に乗せて下さっていました。
このような時間に、このような言葉、今の自分に必要だとも思います。

ふれあい体験文集の選考を、やっと終える事が出来ました。今回のは凄かった〜〜〜〜です。
前々回も、一次選考が無く、編集にも選考にも、多くの方々にご迷惑をおかけしてしまいましたが、今回もそれ以上と思われる内容で、量が半端な頁数ではないから、選考委員に選ばれた方々(代理人も含めて)頭を選考会議前に下げておきたいと思います。
子ども達が、作文に向かう前の段階、ふれ合いの定義付けの部分で、説明を子ども達にするのに苦慮したのが伺える、作文が多かったのが目立ちました。

青少年だよりがやっと、やっと一応出来上がったと言えるまでになりました。
これから、メールで数名に配布し、校正されてくるのが、こわいですね。
もう自分の範ちゅうから、逸脱している分量と内容になっていますから、町民会議の中に、青少年だよりに関する委員会なり部会を設けて、専門的に取り扱って行かないと、この分野には学校教育及び家庭教育に立ち入る部分が実に多くなり、専門にする必要もあり、人員も多く確保して行きつつ複数の意見が集約され、広報となるようにして行かなければならないとも思いますが。
町民会議の専門分野的組織としては、青少年センター廃止後の、夏休み及び冬休み、祭典時の見回り等の人員確保と連絡調整に、町PTA連合会及び単PTAと町民会議と連動する意味から、町P連を町民会議の防犯部会(町防犯協会と連携)に集約し活動を願うと言うような構想もあります(まだ自分の胸中だけですが)。
町民会議の組織体系としては、議長をトップに副議長2名(主任民生委員・町P連会長)、事務局長、事務局5名(防犯・広報・文集・教育委員会・子ども支援課)の関係が執行部となります。
現在、事務局長の事務が実に多く、多忙を窮めるため、これを緩和し尚かつ縦の繋がりではなく、横の連携を柔軟に活用して、町の子ども達の育成環境の構築にあたる事を目標とする。
なんて、自分には無理な役目とは思いますが、誰かが手を付けなければならないのなら、それも一興かな?なんて不謹慎かも知れませんね。



2006/11/07
○ 低気圧の接近で、昨日にニシン網とカレイ網を刺さないで一夜明けた朝、無風状態で目の前の150b沖では、義代丸、昭和丸の両船がニシン網を揚げています。
遙沖には底建て網漁船が時化の前に、網起こしをしているのが灯火の揺らめきによって確認が出来ます。
04時30分、肩すかしを食らったように面食らいながら、倉庫の冬支度を一人でしています。
06時00分、朝食を取り、07時から出面さんを使っての乾し場整理が始まりますが、養殖で使用した浮き玉(尺玉、1,2尺玉)に付着したフジツボを、器具を使用して丁寧に取り除く。
 前回の暴風雨による、大災害の風害によってシートをはぎ取られたままになっていた、古いニシン網や目の粗いカレイ網を日射から防ぐ目的の厚手のシートを、固定するロープを取り替えやり直す。
今は使用していない、養殖のジャバラ篭(2寸目、3寸目)を覆っていたシートも、日射による風化と災害による劣化とで、そのままにはしておけないために、浮き玉の収納に使用していた鉄枠2個に入れ直し、上部にカーペットを乗せシートと鉄枠の角との接触による破断を防ぎながら、厚手のシートを被せ風と日射から防ぎ、乾し場の面積を今以上に確保する作業は、養殖施設の越冬作業が終了し、もう一個鉄枠が空になった時点で、この作業をもう一回行って終了となる。
11時20分、乾し場での作業を終え、ジャバラ篭を収容していたモッコ『漁獲物を陸揚げする為に使用するもの(網で出来た敷物)』を浜の倉庫に格納して、出面さんを使用しての作業は終了となる。
12時15分、風が強くなったので、船を岸壁から離すため、船主方向と船尾方向のアンカーロープを、腕力のみで張り終え家に帰りパソコンの前に座ったと同時に携帯の音源がなり、義代丸からの連絡で風雨が強くなり昇進丸が岸壁に触れようとしているとの通報で、急遽港へ向かう。
横殴りの雨風と、雷の炸裂する中エンジンをかけ、ドラムを使用しての作業を終了するが、アンカーロープの強度に不安を覚えたため、ハサミとアバリ(網を作る時に使用する糸を巻いておく器具)でマユ(強度を確保するためにロープを燃糸で巻く作業で、色々な組み方や巻き方がある)をする。
バケツをひっくり返したような、風雨と雷が鳴る中作業を終え家に帰り、又パソコンの電源を入れテレビのスイッチを雷の間隙をぬって切ったり入れたりを繰り返す内に、画面にテロップが流れてくるのに愕然とする。
 佐呂間町若佐地区に竜巻が発生し、死者3人重軽傷数十人との事に脳裏を義母の兄夫婦の顔が浮かびます。
テレビの各放送局を、連続してチャンネル移動を繰り返すが、NHKしか災害の報道はなく即インターネットを手がかりにするが、これとても北海道新聞が僅かに災害の地点と災害の規模を伝えているのみで、情報社会に入っている筈なのにこの体たらくは、災害の当人や近親者にとって何の手助けにならない事も実感したが、そんな事を思いながら現地の停電により電話は通じず、急ぎ状態を確かめるべく車の人になる。
 兄夫婦は怪我もなく、無事にいる事を確認し、紙一重とはこういう事を言うものだと。
現在住んでいる町営住宅は、竜巻による災害の地点から100〜150bの地点。
佐呂間町若佐地区の道路整備により、古い住居があった地点は災害が発生した工事現場建物から、竜巻が通過していった方向にあり、竜巻が幅数百b距離にして一qであったから、以前住んでいた住居はまさにその中にあった事になる。
前向きに考えると、亡くなった人や家族、重傷や軽傷を負った方々には軽率な言い方とは思えるが、不幸中の幸いとも言えよう。
 なにせ、年も年なのであるから、避難家族や工事作業員のように、センターに避難する事もなく住宅で災害が通り過ぎ、復興を見届けられる位置にあると言う事も、安堵の範ちゅうにはいる。
兎にも角にも、異常気象の為せる業と言ってしまえば聞こえも良いが、災害から全く縁遠い地区に住む隣人としても、今年の一年はまだまだ残しているものの、これからのこの地区に降りかかって来るであろう災害を予感させるものであったし、災害の最終的な規模や影響はこれから、目に見える形で見えない形で現れてくると思うが、過疎化に拍車がかかるような結果に終わらなければ幸いなのだが。


2006/10/26
○ 毛嵐が海一面に漂っている中を、2マイルの漁場を目指して走っているのだが、なんだか船のローリングが微妙に自分に不安な感じを与える。
船橋の窓ガラスは、排気管の暖気によって急激に暖められて、煙突に巻いている石綿が乾くと同時に湯気を出すためにガラスというガラスが曇り、ウエスで拭き取りながら走ってはいるのだが、次から次と曇ってきてきりがないので、回転窓を回すスイッチを入れ、右側の窓を少し開けると、サンマ漁のサオが邪魔になるけれどその隙間から、暗い海に目をこらしじっと伺うとうねりは「やませ」風は「北西」となって、深い波のうねりを作っていたのです。
 今の自分にとって、このうねりが腰にどんどんと痛みを運んできてくれるのです。
紋別の底建網漁の無線が聞こえてきますが、潮が速くて起こせないとか、風が強くて前が見えないとか、安心の出来ない内容のものが、頻繁にやりとりされている中、漁場に着き作業灯を付け、操業にはいって網を揚げ始めましたが、これが又、昨日カレイが少し見え始めたので、0・25マイル陸側に投網をしたのが大当たり、1タンカに50枚くらいづつかかっていました。
 風が強いのとうねりが深いのが相まって、網揚げがしづらかったのですが4タンカを揚げ終わり、1・8マイルの2タンカを揚げる。
かかっていました。1タンカ目が250枚、2タンカ目が150枚くらいと、大漁でしょう。
 04時15分、幸運丸が漁場に入ったので無線連絡をし、今日の投網順位を報告して04時30分投網開始を告げ05時15分、沖側2・25マイルに4タンカ、1・7マイルに2タンカを投網し終了となる。
 11時過ぎに、網外し作業が終了。
腰に気を遣いながらの作業、ホッカイロを3枚も腰に貼り付け、コルセットでがんじがらめに腰を固定しながらの作業は、ただでさえ腰に負担がかかるが、休むわけにもゆくまい。