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昭和の小漁師top


2006/10/22 (日)
 15:25 昨日の天気予報による一時的に雪との予報が、外れませんでした。
薄暗い固まりのような雲が、山から丘陵地帯を流れ海を覆い尽くすように低くあくまでも低く垂れこめて、一瞬の陽光も心には温かさを運んではくれません。
そして午後になり、この時間になって雪が降るような空間をつくり始めています。
何回も何回も、港へ足を運び、船の様子を確認をし、倉庫前に回って遠別へ返却のチョウチンの集まり具合を確認するという、もう何日も続く自分の役割となっています。
その度ごとに、旧漁港の埋立の進捗状況を確認しながら、行ったり来たりを繰り返す。
目の前に、養殖施設の玉付け作業と、施設の沈下作業時期の見極めなどが迫っています。
何日漁を足止めされているのでしょう。
 最近、本を購読しても、新聞を見ても、テレビの放送を眺めても、何かしら釈然としないものが込み上げてきています。
現実、町青少年健全育成町民会議のふれあい文集は、事務局に任せているとはいえ、人任せにするわけには行かず、宙をにらんでボーとしている始末。
町の、総合計画策定地域づくり部会へ思いを馳せて、集計したアンケートを見、ネットを閲覧して情報を収集し、自らの街づくり素案と整合を図りながら思案を重ね、この後に続く社会教育中長期計画策定に向けての素案づくりも視野に入れながら、地域づくり部会での整合を図っていますが、これが又、思案以上の業物でしょうか、力量のなさに完敗となるのでしょうか?

 ホームページの更新も、日記帳がスムーズに変換を出来ない状態が続き、入力の意欲を削いでいます。
でも、まだメモ帳での入力が出来るのがまだましだという事でしょうか?
 
 自分の街も後何年かを経て、合併をする事でしょう。
なにか、自分も含めて町民がかわいそうでたまりません。
なぜこうなるのでしょうか?町民のためと称して行政の行き過ぎたサービスがあり、議会機能の質の低下、資質の鈍化、議員の資質の問題などが結果として行政の波状をもたらしたと?
教育行政にしてもしかり、特別行政となるべくして設けられているはずの教育委員会の基本的役割を認識できない、委員の議会承認による特別行政の停滞というより機能停止。
こんな事で、街づくりも人づくりも出来うるのだろうか?

 なんて毎日考えているわけではないのです。
自分の力量のなさを、今頃になって埋めようとしているわけではないと思うのですが、学生の時分に図書室や図書館での、本に埋まって自我を忘れるというか、何かに夢中になる事で不満や憤りを押さえ込んだ時期と案外似て非なるものかも知れませんが、懸命に日本史を調べ民族史を探索し、自らに欠けている思考の断片を繋げる努力をしています。
何故、今の時代社会が混迷をしているのか。その原因は何処にあるのか、何処から来たものなのか、何処から踏み違ってきたものなのか、など、言いだしたらきりがありません。
親が子どもを殺し、子が親を殺す。
苛めが、あいも変わらず社会問題となり、金銭至上主義がまかり通る。
自ら命を絶つものが年間3万人もあり、完全失業者が300万人もいる社会。
 このような時には、何を基準として生きて行けばいいというのか、生きる糧となるものはなにか?
今そんなものを探しています。


2006/10/18
○ 腰をやっちゃいました。
慢性のギックリ腰が起きたのです。
大時化と洪水による急激な運動と、時化の船の保安上何日もの徹夜での監視による、一定以上の姿勢の継続による負担から来たものと思われます。
昨日、07時46分の組合通信「オフトーク」による、漁場7の湖内水質改善により養殖施設玉付け作業解禁が放送され、満を持しての登栄床漁港から船外機船による出港となり、南東の風から発生した波浪を受けつつ操船をし、漁場7の施設3本の玉付けを終了した時、雨が落ちてきて海区調整委員の判断により、作業を一時中断の無線連絡が入りましたが、作業を終了していたため登栄床漁港へと帰港の途につきましたが、その時点で腰の鈍痛は激しさを増し船の走行時通常発生する波浪をも受け止める事が困難な状態となっていました。
 登栄床漁港へ到着し係船を終了し、ガソリンの補給、発電機への給油、ドラムの収容、船の清掃、それに、前日養殖施設復旧作業での資材や諸々のものが、片付けられていないために登栄床漁港内の休養施設までそれらのロープ類や資材、沈石などを自らで片付けをするという、不合理な事をもしなければ次回の作業に支障を来すと思われる事から、それらを腰の負担を鑑みながら終える事に集中し・・・その頃には、雨も止んでいて他船は又玉付け作業へと、漁場7へ向かって三々五々向かって行きました。
サンマ漁が始まり、(13日の早朝には帰港途中でサンマの群れを発見していたのだが、養殖施設復旧作業と自己の施設への玉付け作業とが重なり、出漁できないでいたもの)15日午後4時30分出港し、8フシ網で賄いサンマを約80s程度漁獲し、次いで7フシ半の網2枚を使っての午後9時までの操業でした。市場へは10s詰めで15箱出荷し賄い分としても同量分を確保し、まぁまぁとなった漁獲風景ではあったが、腰の負担を敏感に感じてはいた。

災害から停電、断水などを経て復旧を迎え、倉庫前の清掃が一段落をし、ふと海を再確認すると色が変わっていました。
川の増水からの濁った水が海を2色に変え、役立つ事の無かった堤防から稜線を経て峯峰から山へと目線を転じてみると、気が付かないうちに錦のクレバスが生活圏内まで、下りてきている事にすら気が付いていなかったのであり、殊更に自身の胸中が稀薄となっていた事に気づかされました。
 こういう災害に身を晒されてみなければ、災害とは、防災とは、といった事に無頓着なまま人生を過ごしてしまうのかも知れませんね。
そして、何よりも大切な事は、自然と人間社会との関係という意識しないままでも、人生を全うできる近代における社会の仕組みや生活様式の変化。
これらが、精神世界ではなく、現実世界と併行に共存できない不合理を考えさせられます。
 
 テレビで、中国の千手観音の舞踊を見ました。
現実に生きて、このような神の世界を垣間見られようとは、思いもしませんでした。その上、その舞踊団は全員が難聴者ですから、驚きも半端なものではありませんし、感動が胸を締め付け目から涙が溢れてくるのを止められません。
正面のリーダーが醸し出す、菩薩と思しき表情は何から発せられているのでしょうか?インタビューで団員が映し出されていましたが、その中には、日本の仏像を思わせる表情の人がいて、それも感動を深くさせる一員となっているのかも知れません。
本当に美しくも素晴らしく荘厳なものを見せて頂きました。

 最近、いじめがまた取りざたされています。
担任がいじめを誘発させたとの報道で、教育委員会が報道のやり玉に挙げられているのを、映像で何回も見せられている。
教員の資格とは?なんて、一部分だけを抽出して何が変わるのか、また、同じ事の繰り返しをして行くのか、進歩とは一歩一歩前身をして行く事だと自分は思っているのだが、報道側の反省が見られないし、地域の住民が言葉を荒げて、教育委員会側と学校側を攻撃していましたが、何故、当事者とは学校側と行政側だけなのでしょうか?
当の生徒側は、何もお咎め無し・・・変だと思いませんか?
精神世界が軽く見られる結果、この様な悲劇は後を絶たないでしょう。
現実の教育では、根絶は不可能です。
 「和」・・・この和という概念は世界中にありますが、この国には、聖徳太子が唱えた「和を以て尊しとなす」と、しかしこの憲法の条文には続きがあって、曰,以和為貴,無忤為宗.
   人皆有黨,亦少達者.是以或不順君父,乍違于鄰里.
   然上和下睦,諧於論事,則事理自通,何事不成?
この和という概念自体、聖徳太子以前からこの国に存在していた概念で、「和を以て貴しとなし、忤うこと無きを宗とせよ」これが一般に通じている1条ですが、「人間にとって和を保つことは一番大切だが、どうも和というものはしばしば乱れがちである。それは本来団結づべきなのに大局を見通さず、自分勝手な行動をする者が出てくるからである」
と言っています。これは和を大切にすれば何事もうまく行くと言っているようにもみれますが、でも、何事もうまくいっている時や機能している時は、和というものが協調ということでスムーズに運ぶというように考えられますが、今の社会のように、次々と信じられない事や考えられない事柄が起こり続けていると、「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんて風潮が勝手に一人歩きをしてしまう。
和という概念がこの国に、数千年も保ち続けてきた背景を考えて下さい。
この宗教とも言えるものが、保ち続けられるには共通の掟や道理がなければ、機能不全を起こす事でしょう。
 
自分は「いじめ」には背景が必ず存在すると思いますが、「一線を越える」事の危うさを教えていない。
一般に言うところの「しつけ」でしょうが、躾と書きます。
美しい身体と同意語です。
美しい仕草や言葉は美しい心から発せられると言います。
人は何時も、美しい心のままでは過ごす事は叶いません。
心というものは儚くも脆いものだと自分は思っています。
だから、或る程度の言葉や行動は許されるべきものだとも思いますが、或る一線を越えると犯罪にもなり暴力にもなると、古来から考えられているのだと思われることから、一線を越えてはいけないと家庭内や地域社会に教えられてきました。
その一線を、その担任も生徒も超えたのだと思います。
それならば担任教師は自殺した生徒の重荷を一生涯背負うのは当然の責務となるのは勿論、生徒の側も報いは受けなければなりません。
心に、疚しさの一部分を以て実社会へ出て行く事の恐ろしさを、また、その生徒が当然持つであろう家庭生活から発せられる実害は、考えただけでも身震いが走ってきます。
 プログを何件かはしごをしてみました。
皆さん評論家ですし高学歴が伺える内容になっていますが、教育の本質を何か見誤っているような気がしてなりません。
自分には、難しい議論や論理は叶いませんが、おかしいという感覚はなくしたくないと思っています。
自分はこういう事が起きるたびに「聖職の碑」(新田次郎)かな?を思い出しますし、地域を考える時に「破戒」(島崎藤村)を、人というものを考える時には「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)(この作品には自分は少し疑問を持ってます。それは、悪逆非道を繰り返していた罪人が蜘蛛を踏みつぶすのを躊躇っただけで極楽への当選者となりうるのかという疑問)考えます。

ちょっと、支離滅裂になっちゃいましたね。
これが自分なのですが。


2006/10/10
〇 今日で3日目になります。強風から始った今回の災害は、各地に甚大な被害を齎しました。
大雨による洪水の農作物への影響は、これから水の水位の下がり具合によるでしょうが、甚大な影響があると思われます。
漁業もかなりの被害を受ける模様です。この地でのこれからの対策として、漁業だけしか分かりませんが、朝6時から、港の清掃が湧別漁港を利用する、前浜組合員が総出で出役に当たります。
登栄床漁港利用の前浜組合員は、ロープ、船の移動などの出役がありますので、それが終わり次第出役となり、自分も旧市場横の倉庫前の流木やごみの撤去がありますから、どうなることやら?
 昨日から、沈船の見守りをしていますが、これとて、沈船の前後の船の移動は為し終えたものの、港へ
うねり」による振り込みが激しくなれば、自分の船が危険に曝される事になりうる為、他からの通報を受ける辱めよりは、自らによる監視を行うのも自明の理と言えなくもありませんが、果たして今の漁業関係者にそれが通じるかどうかは、はなはだ疑問ではありますが。
黙って、何時間も沈船を見守っていると、自分にも一抹の責任はあるのではないか?と思えてくる。
もらい綱の取り方の不備、アンカー綱の張り方の不備、色々な事故の要因はあるけれども、今回の沈船に至る船の渓流位置の配備、暴風雨による湧別川出水の港内流入の排水溝出口から、膨大な量の排水が船に流れ込む事は如何なる経験を経たとしても、想定する事は困難といえるでしょう。
したがって、誰にも責任は発生はしないけれども、何回も流入している水から船を守るために、危険を承知で徒歩による見回りを続けていたにも関わらず、何故その時間だけ見逃してしまったのかという、自責の念が起きたとしてもこれまたやむなしと・・・・

 06時00分。湧別漁港の清掃作業が始まりました。
ホタテ乗組員、定置漁業乗組員、前浜組合員の総員によるスコップ、ほうきでの流木やゴミの撤去です。
延べ人数100人余りが、休む間もなく懸命に働いた結果10時には終了。
 自分の倉庫前、南建設の作業員が上の写真の流木やゴミを、ボランティアで重機とダンプを出動させての撤去作業が半分ほど終わっていました。
今年で2回目の、倉庫前の資材を緊急撤去するのは疲れますし、気を抜く事が出来ない。なにせ、旧漁港の船泊から川の水位の最高到達点までの不足分が、総て市街へと流れ始める時間の経過が急すぎますから、対応にゆとりが持てるようになりたいと常々思っていましたが、対策を取れないままに今回も洪水と対面をしてしまいましたが・・・

 10時から沈船の上架作業が行われました。
それが終わり次第、龍王丸が今回の時化でアンカーが「シケル」(錨が利かない事)て強風により岸壁に接触したと思われるために、上架して様子を確かめようとの船主の願いだそうです。



2006/10/09
○ 今回の日記は、昨日から書き始めた方がよいと思いますので。
10月08日午後1時30分頃から、湧別川の水位が急激に上がり始め、警戒水位を超えましたので港町全域・曙町の一部芭露・上芭露・西芭露・東芭露に避難勧告が発令されました。
潮位の最高到達時間は、午後3時。
午後2時には、旧湧別港は水で埋まり、溢れた水が新港方向へと流れ始め、隣接する市場・湧鮮館も浸水被害を受けています。
港は、波浪が岸壁を越え、港の外側からも波浪から押し上げられた海水が、港へ続く道路方面から流れて来だしました。
 過去にも、洪水は起きましたが、今回の洪水は開びゃく以来の災害となる事が、容易に想像できるほどです。
午後3時を過ぎても潮位は下がらず、躊躇していた住民も避難を始めました。
こういう時の住民の判断は、なかなか関係機関の思うように進まないのが現状です。
1時間事に災害対策本部職員が見回りを続けている側で、風呂を沸かしているという事態も平然と行われている。
危険を避けるという事は、生活をして行く上で基本中の基本となる事柄で、危険を予見あるいは知った時には、何よりも安全を優先させる。
という事が被害を最小限に止める先人の知恵であり、対策上最優先項目となる・・・・のだが?
 実態はというと、個人個人の判断任せ。
と言っても、言う事を利かない人が多いのも事実。我が家もその中にはいるのだろう。

 午後4時、圭一、奈都子、昇太を避難させる。保険福祉センターが避難場所ですが、いったん戻ってくる。(若い人は誰も避難していないからと)、世帯を持っていながら、自己の危機管理の範ちゅうを、他人の動向に依存するという、自分の遺伝子を受けついでいる人間から発せられた言葉に、愕然としながら、中湧別の奈都子の兄の元へ、避難するというのでまずは自分が避難する時の荷物となる存在が一つ減ったという感じで、港と旧市場横の倉庫と家の周りを頻繁に見回りながら、洪水の変化を見回るが、雨風ともに物凄く、歩くのもままならない状況という事です。
川水の水位、海水の潮位ともに全くと言っていいほど下がる気配をみせない。
道路や倉庫など至る所に、上流から来る流木やゴミで、車の走る範囲も制限されている。
その流木やゴミが少しずつ少しずつ、高い所へと広がりを見せている。
昨夜から一睡もしていないので、午後8時、一度家に戻って仮眠を取る。

 09日午前01時、02時、03時、04時、05時と1時間に2回の頻度で見回りを、トラックと徒歩で交互に続けているが、また、満潮の時刻へと近づいています。
昨日から見ると、ゴミの最高到達高さからみると、幾分低くなってきた感じがしています。
相変わらず、暴風雨が激しく予報を狂わせています。


2006/10/07
○ 今自分は、湧別漁港の第8昇進丸を夜どうし見守る為に、トランクと共に風に斜めに背を向けて、ノートにキーを叩いています。
暴風警報が発令されて、4時間30分。
北東の風19b、風雨ともに凄まじく、トラックもサイドブレーキを引いていなければ、風に流されてしまいます。
船は木の葉のように縦に横に斜めに揺れまくって、一時として落ち着いていません。
家でのテレビ報道で、宮城県と岩手県で座礁が起きて、タンカー船とサンマ漁船が事故を起こしています。
それぞれで死者が出ているようです。この低気圧と、熱帯低気圧、台風の3つが合体しての暴風ですから、各地で災害が出ないほうが奇跡ともいえます。
 この地でも、自分が來地してから初めての凄まじい暴風になっています。
午後2時、オフトークで登栄床漁港に係留している船の持ち主は、休養施設へ集合するようにとの放送があり、急ぎ圭一と共に向かう。
前浜、中番屋、三里の各組合員が集合し、暴風が予定されるので、岸壁に置いてある機材や資材を固定するなり、撤去するなりするようにと、それに、南岸壁に係留している各船は北岸壁の随所に移動するように、と、自分たちの東岸壁の船外機船や船内外機船は、今は風向きが係留に影響しないので、そのままという事に、合議は終わり、まず来たついでで船を見回ってから帰ろうという事になり東岸壁へと向かう。
船へと近づいた時、何か浮かんでいます。
白い色で、救命胴衣も浮かんでいます。
釣りに来ている遊漁船かな?でも、仲間が集まって引き揚げようとしていますが、その物は海中へと気泡を出しながら水中へと没して行きました。
 その物は、自分の隣の自治会長加藤さんの、軽トラックでした。
投げ鈎を持ち出す者もいます。結局、自分のホッキ漁の共同者である斉藤さんが、ボンベを使用して潜ってくれる事になり、自分も手伝いをし、トラックを引き揚げる事に成功して、帰って来ました。
 湧別漁港を、頻繁に見回りながら、倉庫からカレイ刺し網の足棚を4タンカ分、砂落としをするために洗車機を借り、洗った後、雨と風の最中干し棚にかけ終了とした。

 身体の各部が軋み出しています。
2006/10/08
○ 潮が満ちてきました。平成丸、寿丸、龍王丸の各船は岸壁に風の力によって寄せられている。その船の上を潮が舞い上がりながら流れて行きます。
道路は冠水し、タイヤのフライホールまで水が上がって来ています。


2006/10/01
○ 03時15分、湧別港の昇進丸のアンカー綱を緩める。サロマ湖から帰ってきたら、直ぐにD海域の網刺しに出漁するため。
合羽をトラックに積み込み旧市場横の倉庫に行き、モッコ6枚をユニックに積み込む。
04時20分サロマ湖登栄床漁港へ、28共宝丸(石垣恒夫代表7件共同船)に、道具を積み込みユニックをバックさせながら待機場所へ駐車させる。
 前浜稚貝健苗確保委員5名が乗り出港、06時10分、遠別漁組のチョウチン80本をユニックに積み込み。
自分のユニックは、玉・ボンデン・モッコ類を格納し、前浜の採苗乾し場へ移動、乾し場へ降ろす。
各自チョウチン33袋を割当散会。
 07時40分、D海域へ。
3マイルへ4タンカ投網。
2マイルへ4タンカ投網し湧別漁港へ。
08時50分、再びサロマ湖へ。
船外機船昇進丸で、ホタテ稚貝採苗施設の見回り玉付け作業。
13時00分帰港。旧市場横の倉庫へ・・・・
 遠別の、チョウチンに付着している稚貝・ヒルカイ等々の雑物を落とす。
ゴミを集積所へ投げ、外袋・ナカゴを洗車場で洗う。
明日のカレイ網を船に積み込み、本日の総ての作業が終了。
頭からゴミを被っているため、シャワーを浴び体の緊張を解く。
 本日は交通事故発生から6日、初七日です。
帰り際に事故発生現場に、花束が2つ供えられていました。
黙祷・・・
若い命はかけがいが無く、生きる力の向かう方向がちょっとだけ、脇道に入ったのでしょうか。
大きな大自然の中で生を受け
命の育みを一身に受け続けてきた。
若い力・若い命
今日も雲はただ流れゆくのみ
夢と言っても、今この時この一時が生きる夢
19歳                          この身も其処に向かう

 貧乏の極致に育ち、三度の食事をあてにせず
我が身の成長は、我が身で贖う事が常の中、妄想を極限まで高めて
作り笑いを懸命に作りながら、少しの金品を得るために、小学生が女工の中でちょこまかと動き回る
数百人の労務者に紛れ、その一人一人の動きと表情の行方を機知に捉え
やっと、得る金。
  37円  
ふと、小さい頃を思い出しました。    「蟹工船」「女工節」


2006/09/30
○ 今日で九月が終わりを告げます。養殖で開けて養殖で暮れた九月でした。
前浜の組合員も、大方は終わり登栄床漁港から湧別漁港へと自船をまわし、次の出漁に備えています。
まだ数件が仮取りから本分散へと移行したという話が伝わってきているのみで、詳しい状況は把握できてはいません。
あの事故から、縁戚関係にある組合員が協力して、自らの本分散を終えた後に、処理に移るようです。
部落で手伝う様な話は出る気配はありませんが、これとてさもありなんということでしょうか。他の組合員とて、自らの着業を控えての養殖作業の計画を建てているのですから・・・・
 暴風をもたらした低気圧も去り、うねりだけが残されました。
04時20分、サケマス小型定置、新栄丸が出港。04時25分、サケマス大型定置、北翔丸が出港。04時30分、ゆうべつ丸船団13隻出港、04時39分サケマス特別採補出港。
それらを見送りながら、前浜カレイ刺網部会組合員数名で出漁の、話し合いを持ち10月以降の様子を各自の見解を以て確認をしあいました。
 どのような方策で出漁体制を確立したからといっても、あくまでも確認事項であり部会組合員の資質に依存する事を期待しての、計画となっているにもかかわらず、敢えて、決め事の細部を幾多の方向から綻びを探す様な事は、部会の混乱を招く事に繋がるわけで、なんら前向きな発想とはならないと思うのだが・・・・

 毎日のように、子どもが事件に巻き込まれ死に至る事象が報道されています。
昨日も、自分の手元に不審者情報が届けられましたが、この不審者の出現には教育・地域・公共・企業など幾多の組織の役割があるがその機能は、完全にその部署特有の世界が構築され、連携も伝達もうまく機能していない。
そして言える事は、これらを枠に閉じこめている要因とは、自由と権利と平等の弊害が顕著に社会現象として表れてきたといえよう。
 何よりも命というものを優先とするならば、弊害があるところを破壊してでも子どもの命や権利を守るという、気概無くして守りようがないように感じる。
 報道を見るにつけ読むにつけ、「子どもの泣き声が聞こえた」「何時も親の怒鳴り声が聞こえる」「物音が何時も響いていた」等々、を拝見するたびに思う。
この人たちが、言葉を発信していたらと・・・・・そして、その事象を取り上げ対処するコミンテルンが子ども達の身の回りにあったとしたら。
地域とは、家庭の集合体ばかりではない筈で、その地域の中に公共の組織なり民間の組織がある。
地域の組織は、アンテナを張り巡らすばかりではなく、みずから情報を招集する努力も必要となってくる。
 それら発信する側と、情報を収集する側がうまく機能しなければ、子どもの命を守るだけでなく、育む環境さえも危うくなる法を整備する事と、法を執行する事。官とはそういうものであり、それ以上ではない。
それ以外の事は、民間・住民・地域等々の役目ではないかと思う。
 官の組織攻撃するばかりではなく、民間の力の有効活用を報道関係は知らしめるべき。
あまりにも、家庭をユウートピアとし、家庭に風土や文化の継承を依存し、子どもの育成を含め家庭をバンドラの箱のように扱ってきてはいないか?
 この国の本来の教育が瓦解して、七十年を迎えようとしている。
教育の改革と言えば、先の大戦に繋がり戦争を美化しているがごとく唱える者がいる。
戦時中の教育というものは、人間の文明という歴史が始まって以来、民の意志を一箇所に集合する必要から、数千年という歴史が示すように行われてきたものであり、ああの当時どの国でも行われたプロパガンダだと思う。
戦争を美化し、戦意を昂揚するために人は必ず、その方策をこうじるのでありそれが戦争というものの、本質だと思う。
 今この社会が崩壊を迎えようというこの時期にさえなお、先の大戦を口実に真の教育を考えないように、考えさせないようにしているものを自分は哀れと想う。

 家庭が子どもにとって最後の砦でなければ、子どもの未来はあり得ないように思うのだが、その家庭に子どもの命を守る能力が
失われつつあるのも事実としてある。
命を守るばかりではない家庭という存在自体が、急速に子ども達から遠ざかっている現況は改善されなければならない。
それには、古来から或る生活の知恵の一部を拝借しよう。
地域の教育力がそれだと思うのだが。
 「武士道」
この著をもっと多くの人が読む事を望む。
この中に書かれ表されている、武士ばかりではないこの国の民の、外国にない所作やものの哀れ、四季を拠とし、森羅万象を敬い身を正す、民の中に神や仏が存在する国は他には・・・・・?
 今回、総理大臣が交代しましたが、「美しい国」と言っている本質はこの事を言っているのではないかと思うのだが?
大正・昭和・平成とこの国は変わりました。変わってきました。庶民文化も・・・・

 もう少しで、第5次総合計画の部会会議が近づきつつあります。第4次・町民アンケート等々資料が送られてきた事から、もう少しだろうと感じられます。
部会長として新人でありながら、部会を進めて行くには荷が重くないかと感じます。
自らの、総体計画と部所事の流れを止めることなく進め、自らの意志を伝えるということにこの身が能うものかどうか
 人は自らの限界を知りうることも必要かなと・・・

 気温が確実に低くなり、その中で、部会員数名が一箇所に集まり「あらし」の風の中話し込むという事は、体が冷え込むという事で、手首は感覚が無くなり、首から入り込む冷気がジワジワと体を冷えさせるのにも関わらず、次から次と話題が湧き上がるように止まる事はない。

 前日の葬儀で我が町に、真言宗のお寺がある事を知りました。
「おぞいです。」「とろくさい」とも言います。意味は調べてみて下さい。方言と思います。
「高野山」「唐招提寺」「善通寺」「お遍路」「八十八箇所」と言えば連想されます。
 弘法大師・・・空海に繋がります。天台宗延暦寺、幾多の宗教宗派の開祖最澄上人と並ぶ、我が国の天才。
何故か人はこの響きに酔いしれます。

 自分も例外ではありません。


2006/09/25
○ あいかわらずのHP作成ソフトが順調に稼働してくれていません。システムが不調なのか、
ソフト自体が不具合を起こしているのか、全く分かりません。
今も日記帳に書き込むことが出来ずらくなっています。
 今日、登栄床地区中番屋にて死亡事故が発生しました。
智也の同級生です。相手は自分の同業者・・・と言うことは、双方とも自分の地区の同業者同士。
こんなの辛いです。まだ二十歳。来年早々成人式を迎えようという若者一人

 岡のカレイ網は絶不調、カレイは皆無状態に死にゴモ(アマモ)がムシロ状態にかかり、その場所を放棄
翌日はホタテ漁場D海区に投網。本日楊網した結果。十一箱・・・ゆるくないしょ〜〜〜
楊網後、場所を若干移して、投網を完了・・・・帰路につく04時45分
晴栄丸が養殖を終了をしていないので、ホッキ漁はまだ出来ずにいます。
したがって、圭一が舵を握って船長さんです。
少しずつですが、成長が見えてきています。

 朝の気温が10度を下回る様になり、トラックのフロントガラスの曇りも、なかなか取れないようになりました。
確実に冬に向かっている気配を感じています。
もう少しで、白鳥の飛来が見られそうです。
丁寧のサンゴ草(アッケシソウ)が紅く色づき始めています。
能取湖のサンゴ草から見れば、物足りない風情となりますが、これはこれとてみがいのあるものなのですよ。

 町民会議のふれあい文集の自分の編集分が終わりました。


2006/09/12
○ 今日は登栄床の本祭りです。登栄床地区は三里地域と中番屋地域が合体し自治会を形成しています。
11日に、登栄床神社の清掃を中番屋地域が担当し、前夜祭が行われました。
 15時30分に登栄床漁港へ着いた頃には、祭りも終わったようで神社の周りには人影もなく、
静まりかえっていましたが、市街へ帰る道すがら、雲間から陽光が降り注ぐ絶景に恵まれました。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い起こさせるような、数本の陽光の降り注ぎに感動を覚えるとともに、
如来の降りる途とも重なり、こんな光景を見ながら車を運転する事に、危惧を覚えたのも不信心のあらわれなのか?
 朝の気温が日増しに下がってくる事に、ある種の危機感も感じるのは自分だけなのだろうか。
養殖作業の遅れに、自然の為せる業と想いつつも、漁に出られる日数を考えるとき、今年度の異常気象に翻弄される、
第1次産業の悲哀をまざまざと感じながら、先達の闘争心に敬意を払わないといかんなぁ〜〜〜なんて思いながらの、
養殖作業の帰り。


2006/09/11
○ 朝から北西の風が強い中、漁場7へと向かう。昨日チョウチンをほろい、稚貝の選別が出来ないままに、緊急的に垂下しておいた資材を引き揚げ、
ヒルカイを取り除くための選別にはいるが、またも風が強くなり我慢しながら選別をし垂下作業を終えたのが、07時30分。
これからチョウチンを揚げるとなれば整理するのに要する時間は、2時間。その間に風がこれ以上に強まるとなると施設から脱出するのに容易ではない次第となる。
息子に舵を任せている以上、あくまでも任せて助言に止めるのが筋と、息子に判断を委ねる・・・・・
 中止と判断。
急ぎ登栄床漁港へと帰港の準備をし、08時20分に到着。疲れるなぁ〜〜〜〜
腰が・・・・
  腰が・・・・
始まったばかりなのに、まだまだ期間が長いのに。
確実に一日一日と冬に向かっています。
 行きかう波の波頭や飛沫に、青白さが消えて薄雪色が砕けて行くからかも
風の通り道・・・風紋にも薄暗さが見え始めました。


2006/09/09
○ ギックリ腰が起きてしまいました。04時50分登栄床漁港を本詰め作業のため出港し、漁場3の航路沿いのノシに昇進丸を付け
チョウチンを12本揚げ、作業をしている途中に起きてしまいました。
 港へ帰る事も叶わず、漁場5−1の施設で午後4時まで痛みをこらえながらの一日でした。港へ着き、船から降ろすものも急ぎトラックに積み込み、
乾し場へと急ぎ帰ってきましたよ・・・
 サロマ湖の水面を渡る風に秋の香りが仄かに感じましたが、その時ゴメが船の回りを漂う様にも何かしら、考え深いものがあるような気がしてくるのは?




2006/09/04
○ 今日はチョウチンの洗浄の日です。ホタテ稚貝仮取り(210万粒)が終わり、使用したチョウチン約210本を洗浄する事にしました。
徳丸さんに朝6時30分に来るように言ってあるので、自分は03時に登栄床漁港へと向かい、選別機と水中ポンプを船外機昇進丸から撤収し、
洗浄の準備に緑町の乾し場へと向かい、チョウチンの外ゴ(外袋)と中ゴ(中網)のモッコ(魚の荷揚げに使う網状のもの)をユニック車の荷台に積み込み、
06時30分を待つ。
 09時20分、洗浄が終わり施設の後片づけを終え、登栄床漁港へと向かう。
昨日、16時30分より行われた、稚貝確保委員会の会議で議決した内容により、余剰資材の後片づけに採苗施設へ向かい、仮分散をして垂下している施設の玉付け作業をし、後160本余りの自らの余剰採苗器(チョウチン)
のうち50本を船外機船に積み込み、乾し場へと降ろし作業終了。


2006/08/18
○ お盆の後のカレイ網の仕事は、昨夜からの豪雨と雷と強風とで中止になりましたが、ホタテ船団の操業後の投網に切り替わりました。
午後3時投網、午後6時楊網開始となり仕事の終了する時間は午後9時過ぎになる事でしょう。不漁の年にはえてしてこのように忙しくなるように出来てくるものなのでしょうね。
 護衛艦「ゆうべつ」の後援会は、会長の独善的な思考と言動によって壊滅的な状況に近づきつつあります。


2006/08/13
○ またあの日が近づいてきました。毎日新聞やテレビで見かける、靖国参拝と戦犯合祀及び高齢者の戦争体験から来る戦争反対平和祈願の文言とともに、A級戦犯の靖国神社への合祀を反対する言葉です。
自分が思うには、戦争を体験した人たちに語り部となって後世に伝えるべきものは、戦争の体験や戦争反対を叫ぶことばかりではないような気がしています。
誰しも戦争が悪しきものだということに異論を唱えようとするものはいません。でも、現実として起きてしまったのです。何故あの忌まわしい戦争が起きてしまったのか?何故多くの民間人が原爆や、空襲による悲惨な災害を受けなければならなかったのか?
そして何よりも、何故当時の指導者達が戦争を回避できなかったのか、問うべきものは数限りなく多くに及びます。
 報道でアンケートをとるような、安易な事柄ではないはずですし、今現在の社会・個人における病的な要因もあるいは、そこの整理が不充分なために起因されようとしているのかも知れないと思い始めています。
「国敗れて山河有り」
幾たびの 時を経てさえ まだ着かぬ
思考の停止や 呆けのつみびと


2006/08/02
○ もう何回芭露地区へと出向いているのでしょうか?「夏休み街頭補導」夜20時から、防犯協会の方々と青少年の安全を守る運動の一環として、今年度から町青少年センターを廃止して、町民会議がその部門を受け持つことになりました。事業は増えることになりましたが、町における青少年の運動を連動し連携強化を図るには、決して避けては通れない路でもあります。
 不審者がこの街にも出現するような時代となり、マスメディアを煩雑ににぎわしている事件を見るにつけ、対岸の火事ではすまされなくなってきています。
 どうしてこういう事が起きてくるのでしょうか?理解が出来ないような事があまりにも多すぎます。この国の何かがおかしくなってきています。
教育?そうばかりとはいえないと思われますが、やはり教育なのでしょう。
 テレビを見ていると、毎日どこかで偉いと云われていた人たちが、並んで深々と頭を垂れている姿を見ます。損得勘定でしか生きることを知らない人たち。誠や魂で生きて行きたいと・・・・自身に恥じない路を歩みたいものです。









2006/07/29

○ 何時ものカレイ網の楊網作業を終えて港へと辿り着いたのは07時10分、荷揚げ作業を終えて朝食をとり遠別の受け入れ準備に入ります。
 会議では10時頃着という予定でしたが、連絡が入るたびに30分ずつ繰り上がります。各委員にその度ごとに連絡を入れ直します。最終的に08時30分の登栄床漁港到着となりました。オフトークを前浜地区に流すように漁協職員の小倉さんに指示をし、加藤委員、柴田委員、竹村委員には作業船に使用する関係で30分前に登栄床漁港へと向かうように連絡をし、自分はチョウチンの垂下に使用する、3s石80個、1尺玉10個、1,3尺玉6個、ガソリン20リッター1缶をユニックに積み登栄床漁港へと向かい、竹村委員の天佑丸に資材の半分を仕分けして積み込み、登栄床漁港を出てチョウチンを垂下する自分の施設の浮上を終え、漁港へと戻り作業用岸壁に昇進丸を接岸させて、遠別からのトラックを待ちます。

 前浜地区の組合員の協力をお願いしていたら、多くの方々が駆けつけてくれましたし、都合の悪い方は昨日のうちに自分に連絡をしてくれていて、前浜もまだまだ捨てたものではないかな?なんて・・・・

 暑い・・・・

登栄床地区の積み卸しが始まり、その後が前浜でした。多くの組合員が地区を越え手を出して手伝います。やはり、漁師の仕事は早い・・・

 各地区の作業が終わり岸壁に集合し、冷たい飲み物を飲みながら色々な話題の一時の休息。

 湧別へ帰り、余ったものを乾し場や倉庫へ戻し、家へと戻ります。予約録画をしていた番組がありました。「天皇と靖国神社」という題材の朝まで生テレビです。この時期産経新聞に掲載された。A級戦犯合祀についての昭和天皇の言葉として、元宮内庁長官のメモが発表されました。この事は、時期的にこの日本国にとって誠に的を射る時節となります。

 まず、9月に予定されている自民党総裁選挙に関して、日本国首相が靖国神社へ参拝をするかしないかと云う事への、政治的プロパガンダに最適であり、8月15日の小泉首相の靖国神社参拝は現役として最後になることから、強硬的に行うという予想が出来ることからそれに対しての心理的圧力になるはずであり、メディアも意図的に参拝反対の国民の総意としてのアンケート集約を行うことも予想されることから、何故この時期にと・・・

 自分としては、この動きは心躍るものがあります。

太平洋戦争というように、この国の人が先の大戦を口にすること自体に、そもそも無理があります。この国では先の大戦は大東亜戦争という名の下に行った戦争であり、A級戦犯という戦争犯罪人はこの国には存在をしないからです。戦勝国側が戦敗国に対して行った裁判事態が報復であり、平和に対する罪という名の下に断罪をするというならば、あの当時A級、B級、C級というレッテルの元、罪もないものを犯罪人としたそもそもの張本人達は、一体誰と誰であったのか?

 自分の少ない勉強の元、先の戦争で我が国として断罪しなければならない人をあげるとすれば、近衛文麿首相であり、杉山陸軍大臣であり、松岡洋右外務大臣であったと思います。各人の詳細は何時かの時におきますが、満州の戦禍を納め我が国として、世界に孤立をなさしめ、アメリカからのハルノートの最後通牒を突きつけられるに至った、この3人の最大の罪。

 しっかりと学者先生達の論を聞いてみようと思います。


2006/07/28

○ 朝3時、薄明かりの中を沖へと向かう漁船群の航海灯の明かりが、6つ、南南西の風風力2,波浪0,水平線の彼方から少しずつ明かりが上へ上へと広がりを見せ始める頃に、ホタテ漁場へと到着し投網準備に船を所定の位置に配置する漁船群。

 04時5分前に、指揮船から投網指令が漁業無線から流れ、一斉に漁船が所定の位置から反転E/SE/Eの針路で船の針路を固定、投網をはじめる。12分後投網終了し下アンカーおよび下ボンデンを海中に投下する。これで投網完了です。ブリッジ内のプロッタにポイントを打ち込み投網開始地点へと船を反転移動させます。上ボンデンの位置に到着後再度プロッタにボンデンの位置を打ち込み船が潮流で流される距離を考慮して、敷設した網の上側へと移動させて、波間に揺れながら待つこと2時間、網の楊網開始です。

 揚げた網の数28反、漁獲『真カレイ21枚、黒ガシラ4枚、カスベ1枚、ホッケ6本』船の燃油70〜80リッター、カレイ労務者2名の賃金を勘案すると赤字になります。

 もう何日続くのでしょうか?この状態が・・・

陸の1マイル以浅では、全くの皆無状態が続き、その打開策としての沖の操業でありますけれど、沖の操業には順番制という輪番制とでも云いますか、操業船が毎日順番に移動しながら均等に漁獲が廻るようにというやり方なのですが、それも、魚がかかっていてからの話となります。

 困ったものです。農業も何日か成長が遅れているようですが、漁業に至っては今年度は異常といえる漁業が多すぎます。

 今日、遠別漁業へと稚貝確保委員が各地区1名ずつ、マイクロバスで向かいます。自分も稚貝確保委員ですが、自分は受け入れの方に回りますから、明日29日10時頃に登栄床漁港にて、昇進丸、その他1隻にて稚貝のチョウチンを前浜分40〜45本自分の養殖施設へ垂下し、管理します。

 20時より、芭露地区の街頭補導巡回ため向かう。

防犯協会芭露分団の方々の協力は、欠かせないものです。湧別には防犯協会として、湧別地区分団、芭露地区分団、上芭露地区分団があり、各地区分団には自治会会長のみならず、地域の良識のある方々が積極的に参加し行動をしています。

 町民会議では、青少年センター廃止後の話し合いはもっていなかったことから、今回の港祭り巡回補導並びに夏休み街頭補導の湧別・芭露地区の責任者の割り振りなどを想定して居らず、防犯協会の方から指摘を受けました。従って、今回の夏休み街頭補導の実施にあたっては、毎回自分が参加をし、巡回時期、巡回時間、巡回場所、人数の賄当てなどを、把握したいと思いました。

 


2006/07/25
○ 遠別漁業からの、ホタテ稚貝チョウチン(1本40袋)6,000袋の受け取りがあります。各地区から1名がマイクロバスにて遠別漁協に行き稚貝の受け取りをするのですが、、前浜地区から稚貝健苗確保委員5名のうち誰が行くか決定し、後の4名は湧別での受け取りをするという事を相談しなければなりません。明日26日中に・・・自分になるのかな?
 記録にないような不漁が続いています。カレイ刺し網漁業のことですが・・・
営漁計画が毎月狂っています。どのような年で漁を終えるのか今から不安・・・・


2006/07/24
○ 上の奥歯を抜きました。痛かった〜〜
食事が満足に噛みきれないから、結局猫マンマで流し込むといった状態が何ヶ月も続いていたから、体力に影響も出ていたのかなぁ〜〜〜なんて。
今年の港まつりは、低温の中で行いました。前日までは28〜9度といった気温が前日の夕方から、自分の倉庫でムカデレースの準備をしていた頃、山背の風が少しずつ少しずつ〜〜〜。
その風で、大漁旗の飾り付けは当日の朝早くに行うように決定。

今、秋のホタテ稚貝の仮分作業には、今年度の稚貝の穀高は例年以上に小さく、浮上作業を行うにも慎重に慎重を期して行わないといけないくらいです。









2006/06/02
○ ふと思うときがあります。最近の自分の言葉には、広がりが見えなくなったなぁ〜〜〜なんて・・・・
郷土史の関係と、合併騒動後の行財政改革の余波を受けての、人の流れや街の商店街衰退などを思い起こすときに、近隣の町村や山河を思い起こすことは叶わないことであったと思います。
 上湧別町における、湧別町とのしがらみや歴史のゆがみ、佐呂間町とは湧別町からの人の移入や、部落の編入がありその経緯が未だに、高齢者の耳鼻に留まっていること、常呂町とはサロマ湖の旧湖口が、湧別町の第1湖口開口により、大打撃を受けそれにより長い窮乏が続いたことが、未だに心の足かせとなり、合併が頓挫に至ったことは周知のこと。
 これらの事を鑑みるとき、この土地の本来の主は誰であったのかを、もう一度思い起こして頂きたいものです。 アイヌの人々の土地であるべき北海道の土地は、和人の開拓によって割譲され、土地の概念を持たないことを良いことに、開拓の名の下に搾取し、略奪をしつくした土地がこの、北海道の地であります。
 おかしいとは思いませんか?
何事もなかったかのように、街づくりを語り、人づくりを語り合う・・・
 いくら今日の繁栄を作り上げたのが移住してきた人々の労苦の末の、今の繁栄であったとしても、原型は搾取でしかないものなのだから、市町村の合併もなんら、弊害の起こりようがないもののはずなのだが、其処には歴史と風土とが搾取の上に飾られているから、なお、難しいものになっている。北海道の合併構想を進めるには、強権の発動以外に進むべくもなく感じるのだが・・・・


2006/05/29

○ もう一月近くも、HPを更新していなかったのですね。
なんという年回りなのでしょうか? 次から次へと計画が狂って、湧いてくるように難題が持ち上がってきた月日であったと思います。
 きっと、雑草のような自分を試しているかのように・・・・・・
この期間に起きたことと、自分が為したこととの時間との戦い。


2006/05/02
○ 札幌の生活時間のパターンは、田舎の感覚とは全く違って見え、何よりもそこら中に人があふれかえっているのが、圧迫を感じてしまいます。この様なところで人は生きて行くことが出来るものなのでしょうか?信じられません・・・・

 脱力感が湧いてくるのも、この場所が都会だからなのでしょうか?

 電話で湧別の様子が伝わりました。雪が降り積もっているとのこと。海は時化となり、船はアンカーで固定しているということです。だから、ゆっくりとしてきなさいといっても、この場所には余り長居はしたくありません。

 自分には、身の回りに自然が感じられないところでは、生きていられないのかも。

部屋の大掃除も終わり、智也が数日前に咳払いをした結果、助骨に痛みが走ったとのことなので、近くの内科医院へと連れて行き、診察の結果、助骨の回りの筋肉が炎症を起こしているとのこと、湿布薬と注射をして貰いました。明日から夕張での合宿が始まるからと、安心をしていました。そういえば、去年の母の葬儀の時に、苫小牧市での合宿が始まったその日に、急遽紋別へと呼び寄せたから、連休の合宿は今回が智也にとって連休合宿の初めての体験となる。

 美幸の心配は、徒労に終わって安心をし、明日の智也の合宿の出発にあわせて、自分も湧別へと戻りましょう。


2005/05/01

○ 港の北防波堤に波が舞い上がっています。「やませ」風が冷たくうねりもだんだん大きくなってくることでしょう。今日はカレイ網もニシン網も刺すことが出来る天候ではありませんから、気になっている娘の状態を確かめるために、札幌へと向かうことに決めました。車は「サーフ」は圭一へと遣ってしまったからには、圭一とて連休に予定があると思うから、義父の「クラウン」を借りようと思ったけれど、「カーナビ」が搭載されていないので、中古の軽自動車に古いけれど「カーナビ」が取り付けてあるので、それで向かうことにします。

 燃費を知るには良い機会となることでしょうから。「カーナビ」に住所を入力して、さぁ〜〜〜出発です。

 午前11時25分、土井スタンドにてガソリンを満タンにして、走り始めます。天候は曇天といったところ。風は無し・・・   途中、砂川SAにてトイレと食事を済ませ、一直線に札幌へと・・・

 午後4時18分到着。智也の出迎えを受ける。いきなり、大掃除の開始。なんということでしょう。部屋がカビ臭いではありませんか・・・・これは、強制換気の操作不備と直ぐに判明せり。夜の8時30分ころまでかかりました。娘が居るというのにもかかわらずにこのありさまといったら。自分の子育ての失敗かな?なんて、思いながらも、こんなに動き回るのは、自分の習性とあらためて自ら納得する始末・・・・

 とにかく、疲れてしまっていつの間にか、気が付いたら朝・・・・全く・・・・


2006/04/30

○ 午前4時に養殖作業のため、家を出る。

今回は漁場5−1の養殖施設4本を浮上する。甲板一杯に石が並ぶ。

一斉にはじめ、2日目には作業も慣れ、どんどんと進んでいく様は面白いものである。

 ホタテ養殖施設浮上作業終了は午前7時30分。早い・・・圭一がどんどん慣れてくるのが判る。

 家に帰り、風呂に入り時間まで、少し横になる・・・

紋別のセントラルホテルでの、父と母の法事。東京から忠洋兄が来ていた。今年で定年を迎えたようである。妻の実家の滝ノ上で定年祝いをしてくれたようで、何年か後に、こちらの方へ定住することを決めたようです。妻の定年には後数年・・・

 法事の最中、喪服の胸ポケットに「仏説摩訶般若心経」を仕舞い込み、読経に耳を傾け瞑想に入る。

 走馬燈のように、父と母が去来し、自分を幼いころへと誘う。砂原村の朝陽、駒ヶ岳に落ちる夕陽。

 人の一生を思うとき、川の流れのように感じるのは、時空の隔たりの一部分で蠢く、人の哀れさから来るものなのか?

 今の自分には、その様な感傷にひたる余裕すらない。


2006/04/29

○ 予想が大当たり。

午前2時に港を出港。防波堤を越えた辺りから、風が強くうねりも高い。船首部分が波に沈みそうになりエンジンの回転を、800rpmに落とす。船の速度7ノットでなかなか進みません。

 場所まで行って、ボンデンを掴めそうもなかったら、港へと引き返すことを決めて、静かに静かに船を進めます。日頃ならば5分で場所に着くばずが、25分船を走らせても一向に着く気配なし・・・・

 やっと、場所に着き、ボンデンを掴み「タイコ」(網を巻き上げる金属製の鼓)にアンカーロープを掛け、作業開始です。回りには1隻の僚船もなく、孤独な単独操業ですから、無理なことは極力避けなければならないのですが、この位ならばまずまず想定内と云うことで・・・

 カレイ網を、なんとか6タンカ揚げ終わるころに朝陽が水平線から、姿を現すと風も収まり、高かった波もやや平穏さを取り戻すようになり、ニシン網を揚げる作業をはじめる。

 午前5時・・・港へ到着。腰の負担が・・・・

家に戻り、倉庫へと網を降ろすと、ホタテ養殖浮上作業のゴーサインが出た様子。

 明日は、午前11時から父の3回忌と母の1周忌が、行われるので何とか今日中に、浮上作業を半分でも終えなければ、明日は法事に間に合いそうもないため、カレイとニシンを早く終わらせるように、作業を急ぎ発動機の昇進丸の養殖作業装備をし、11時30分にサロマ湖へと湧別漁港を出港する。舵をもつのは圭一・・・・2人での作業となる。

 まず、サロマ湖の漁場7に3本の施設があり、それを揚げ終えるのに要した時間2時間45分、登栄床漁港へと積み荷を降ろすために帰る。2d車に25kgの石を24個ずつ一まとめにして、割り当てられている場所へ石を降ろし、もう一回浮上を行うため港をあとにする。2回目は、漁場3の登栄床漁港近くの漁場へ3本の施設浮上に取りかかり、本日の作業終了となる。港へ帰り積み荷を降ろし、船の洗浄をして湧別漁港所属漁船の隣に繋留をして、家に戻る。

 つかれた〜〜〜


2006/04/28

○ 腕章が間に合いません。5月2日着と連絡が入りました。新井さんから・・・、この馬鹿者に一杯食わされたという感じです。 注文を受け付けながら、工場へと注文を取り次いでいなかったようで、マグネットステッカーの方は13日に到着していたから、しばらく待てば腕章の方も着となると、安心をしきっていたのが間違いでした。これだから、素人(自分)は困ります。事務員の経験がないために、確認という作業に慣れていない。それさえ、身に付いていれば避けられたことですのに。

 行政の方に、補助金の申請の遅れを、平謝りに謝るしか自分にはとるべき道は判らないから。どうなるのでしょうか?

 マグネットステッカーの配布に、腕章がないと二度手間となりますが、これも仕方がありませんね。

 事務局長も、アップアップ状態です。

五月連休が近づいてきました。身体も温度の変化により、疲れがたまるようになり、頭の方も支離滅裂状態。思考回路が分裂しているようなので、メモ帳に作業の書き出しを行いました。町民会議の3役会議の開催とハガキ出し(7日まで)・監査の日程とハガキ出し(7日まで)・総会資料作成(15日まで)・マグネットステッカーの配布(7日まで)・腕章配布(7日まで)・寄付金集め・校長会事務局へのあいさつ運動の日程調整願い(3日まで)・これはたまりませんね・・・・

 ホタテ養殖施設浮上作業が、佐呂間漁協で行われました。こちらでも、明日かな?

カレイ網を6タンカ入れました。ニシン網も6タンカ入れ、総計12タンカです。なにか明日は明日の風が吹くのかな?

 危険な予感・・・・が


2006/04/27

○ ニシン漁が続いています。春がいきなり目の前に来たという感じで、朝200分に沖へ出て、500分に港へ帰る。朝陽を眺める余裕さえなく、ただ網を揚げることに専念する、非常に神経の使う漁業です。倉庫でニシンを網から外して、大中小と仕分けし計量をすませ市場へと出荷をする。昨日はニシンが5s詰めで35箱ですた。今日はニシンが24箱、キュウリ魚が10s詰めで15箱でした。市場へ出荷をしてから、明日の漁のために、網を刺しに又沖へと出かけます。「ニシン漁」、水深3〜9b。沖だし00205マイル。全反{網の長さ}600b。本来は事故の無いように、朝日が射してからの、出漁となる漁法ですが、今は、暗い中を操業するのが一般的なので、危険の度合いが高くなっている漁業です。漁場の水深が非常に浅くなるため、ニシンの網をスクリュウ(スクリュー)に絡ませることが、多いのが特徴の漁業で、いったん、網をスクリュウに絡ませると、波打ち際が目の前にあるため、風が少しでもあれば船からアンカーを、海中に投げて船が陸に打ち上げられるのを防ぐ処置を施してから、スクリュウから網を外すか、僚船にロープで曳航を頼み、港の中でスクリュウから網を外す判断をしなければならなく、そのために、神経をもっとも使う漁法といえます。

 例年通りならば、3月に船を海に浮かべて、少しずつ漁をしながら、本操業へともって行きます。ですから、この時期には、もう身体も気持ちも、余裕を持って養殖の浮上作業へと身体が向かっていても不思議はない頃なのですが、今年の天候の影響で、3月中には4回ほどしか出漁の機会はめぐっては来ず、4月になっても悪天候が続き、やっと出漁が3日続いた程度なのですが、身体がいうことを効いてはくれません。

 こまったものです。

26日、午後4時より文化センター中会議室において、本町の子どもの安全を守るための全体会議というものを開きました。その席で、18年度5月〜19年度4月までの、活動の日程と配置人員を提示し、了解を得られましたので、いよいよ活動開始となります。

 マグネットステッカーの配布、腕章の配布、資金の調達等、まだまだ取りかからねばならない次項は、沢山ありますけれど何とかなることでしょう。


2004/04/24 
○ 毛ガニ篭漁船に続き、ホタテ操業船13隻が港を出て行きました。波浪注意報と濃い霧の中を・・・それを見送りながら、思います。3月9日に第8昇進丸を港に降ろしてから、4回の操業と増養殖研究会による、ホタテ2年貝標識放流の出漁2回のみですし、4回の操業はいずれも鰊刺し網漁で、この漁業は当たりもあれば外れもあるという漁業で、南風が吹くと決まって漁が皆無という、なんとも不思議といえば不思議な言い伝えのある漁業といえます。ですから、4回の出漁のうち2回は「カラ網」(市場に出荷する魚が無い状態)でした。毎日朝早くから、海を眺めては「ため息」が出ます。これも、自然相手の為せる技なのでしょうかね?
 出漁をする船と、川からの濁流を眺めながら思い巡らしていました。川を見ながら思うことは、オホーツク海気候と日本海気候、又は、太平洋気候との川の関係。オホーツク海には、一級河川は多くはないですし、大きな川はありません。これは、年間降水量が多くないことの表れといえます。反面日本海側には、石狩川という名高い川があります。これは、北海道の中央に聳える山々により、雲が遮られ、降雨量も降雪量も格段の違いがある所以でしょうから、川の規模も大きく異なるといえます。一方、太平洋側には十勝川や千歳川といった、大きな川がありますがそれとても、北海道の気候風土に大きく関わってくる、大河と云うこともいえましょう。オホーツク海は、大きな災害もない変わりに、大きな恵もないというには穿っている見方なのかも知れませんが。
 川の濁流を見ながら、考えが川とともに流れてゆきます。農業と漁業。どちらもこの国に無くてはならないものなのでしょうが、手厚く保護されている農業に対して、漁業はといえば保護の対象になっているのは、鮭鱒(さけ・ます)漁業と大手の漁業のみといえます。何故、自分もこの違いはどこから来るものなのかと、長年疑問に思ってきましたが・・・ふと、これには「国土」と「領土」に違いかなと思い中ります。「国土」には保全という責務が、太古からの歴史の流れがあります。世界共通に「川を制するものは国を制する」というように、文明は大河のほとりにうまれている、歴史上の事実があります。「国土」の保全・・・この流れに農業の歴史や、国の歴史が重なっていることも重要な位置づけとなるのでしょう。これに対して「領土」という概念から考えてみますと、この日本の国は、四方を海に囲まれていることから、「領土」の保全とは、国と国との外交が主体となり、沿岸の保全といえば、回りの諸外国と対照に、国に資源のある国と、無い国の姿勢全般に表れてくると云うことで、漁業に対する歴史も、必然的に守る姿勢ということからは、おおよそほど遠いものとなってくるものと思います。2百カイリ問題しかり、12マイル領海問題しかり、大陸棚資源問題における、東シナ海やオホーツク海の、海底資源や漁業資源に対する国の姿勢の欠如でしょうか。
 この「領土」認識の甘さが、端的に表れているのが「捕鯨の禁止」「商社による農海産物の輸入問題」「外国への農業漁業技術の輸出」など、あげれば枚挙につきないくらいにあげることができる、この国の弱さの出所といえなくもありません。
 この日本という国や北海道という土地に、戦略という物差しは向けれないものでしょうか?なんて脱線してしまいましたが。
町議会を拝聴して思うことと、今回の川の流れを眺めて思うことと、相通じるものがありました。この町の農業と漁業の格差、この格差は収入の格差ではなく、自治体という組織の甘え。
 この町の産業の中で、農業・漁業・商業・林業とありますが、商業と漁業への視線のなさには目を覆うばかりでしょう。林業にしかり、商業ベースには乗らない産業となった、林業といえどもその資産価値はといえば、他町村から喉から手が出るくらいの資産の保有残高でしょう。勿体ないといえば勿体ない話です。資産の価値はそのものを守り育てる、意識があってこそうまれてくるものといえましょう。このような時代を乗り越えて、この町を後世に引き継いでゆくためには、議会・役場・自治会それらの権威ある方々が、知識、見識、胆識を以て、公平に農業・漁業・商業・林業などに目を向けなければならないと思いますが。
 国が守るものとは、「国土」「領土」と「防衛」「教育」でしょうか。では、地方自治体が守るものとは、「郷土」「教育」「住民」でしょう。
なんて、思いながら、川や海を眺めていましたが、その時間といえば、30分くらいでしょうか。
 そろそろ、養殖浮上作業の準備に、取りかからなければならないとは思いますが、なかなかに天候と気分は反比例をしないようで、天候の不順が即自分における不純となるように、まったく、意識も意味も不明な人ですから。


○ 2006/04/22
やっと、湧別百年史が完成です、3年がかりでなんとか成し遂げられたことへの感謝が込み上げてきました。考えてみると、自分が思い込んだ物事の中で、初めてではないでしょうか?
 何年もかけて、成し遂げることを自分が出来るなんて、よく持ちこたえられたものだと感慨に浸る時間を得られました。肝心なのはこの後のことです。図書館へ出向き、その中にある蔵書の山脈の中から、何を探し出すか?
 今は、この気持ちを少し封印をしておこうと思います。
感涙にむせび泣くわけではなく、感嘆の中で物思いに時間を費やすのでもなく、頭の中の耳鳴りのような音との付き合いを、時間をかけて考えてみようかなぁ〜〜〜なんて。この音とのお付き合いは、何年になるでしょう。自分は、首を支えている軟骨の縮から来ているものだと感じているのですが?素人療法はよくない結果をもたらすことは十二分に承知をしているつもりですが、やはり、自分の身体のことになると、なかなかに決断は付けにくいものなんでしょうかねェ〜〜〜。
 話が変わって、一昨日から降り出した、大雨の影響で川の水位が上昇し、洪水のように木々や泥が混じった流れが、外海へと流れてゆきます。
港に中も、流木で漁船のエンジンをかけることが出来ない状態が続いています。この状態の中でエンジンをかけると、船底にある冷却水の取り入れ口「キングストン」といいますが、このキングストンで海中のゴミを、2段階に濾過してエンジンを冷やすのですが、キングストンの入り口でゴミが吸い込み口を塞いでしまうと、それはアウトです。そうなると船を陸上に揚げて、その部分のゴミを取り除かなければならないからです。その他に、キングストンの内部に、ステンレスで出来た小さく沢山の穴が開いた板が、取り付けられています。その部分にゴミが付着すると、まず順番としては、キングストン・コックというバルブを海水が船体内部に入らないように閉めてから、キングストンの蓋を器具を使用して外し、ステンレスの板を取り外して、機関室内部から甲板へと場所を移して、綺麗な状態になるまで掃除をします。それらに要する時間といえば、大そうな時間はかからないでしょうが。機関室の中へ入ったり出たりを繰り返さなければならないために、神経質にならざるを得ないのです。
またまた話が変わって・・・
「じり」のような「霧雨」のような小さい雨粒が、身体に蕗かかります。
 もう何日海へ出ていないのでしょうか?


○ 結婚式の翌日に、佐呂間町の老舗呉服店「三和」の専務(おばあちゃん)が15日午前2時42分に、浄土へと旅立ちました。
16日午後6時よりの通夜、17日午前10時より告別式と参列を致してきました。 義母の兄弟(長男)の子供達2男3女の3女?かな。
数年前に呉服店の社長(息子)を腎臓の病でなくし、その妻が自分の義理の親戚に当たります。佐呂間町の若佐地区に養豚業を営む(現在は高齢のため廃業)自分の義母の兄です。その娘さんが嫁いだ先が呉服店でした。 いろんな時にお会いをしていた方で、和服の好みが自分と相容れる感覚をお持ちの方で、妹の成人式、娘の成人式、嫁の花嫁衣装等々、自分が良いと思うものがぴったりと一致するという、上品で清楚な感じのご婦人・・・・ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 通夜、告別式と出席をしまして感じることがあります。 土地柄とでも云いましょうか、自分の住む湧別という片田舎と、佐呂間町という歴史も風土も似て非なる、土地であるにも関わらず何故か、違和感を感じてしまいました。喪服に身を包んでいるご婦人達(かなり高齢です。2人位若い女性がいたかな?)の身形が、上品さを感じました。話す言葉の節々に、歩く動作の節々に・・・これは、何を物語るのでしょうか?
 最近、自分の回りの世界が変わりつつあるように感じるのは?
身の回りで、確かに動いている時空とでも云いましょうか。 自分が住み慣れていた心の世界に入り込む時間の余裕がなくなりつつあります。人の蠢きの中で、生きてゆくことは全くといってよいほど、不慣れな人なのです。口数が多くて言葉が足りないと良く言われます。感性でしか言葉の表現を知り得ない人ですから、会議や集まりの中で人に言葉を伝えることが、非常に下手な人。
 気ままに、気の向くままに、生きて行くことは出来ないものなのでしょうか?
物事の順序、秩序、などというものに全くといってよいほど無頓着な生き方をしてきた人ですから・・・・
そろそろ、もう、潮時かな?なんて考えるときがあります。この世界から
 総てのものに張り詰める心の余裕さえなくなった今、朝陽や波の動きに言葉を見つけ、風や雲の揺らめきに言葉を知るように、このような空間に自分を置いてくれないかなぁ〜〜〜〜
 一杯、目一杯、遣る事が詰まっていますから、そんな事を考えている時間の甘えなんて許されるはずもないのですが。


○ 北見市「東急イン?IN」で仲間の息子さんの結婚式。 シャンペンで乾杯。その後はコーラー、ウーロン茶、オレンジジュース、ブラックコーヒーのオンパレード。お腹をさすればジャブジャブと波立つ腹部。
 料理はほどほどにして、ケーキカットのお裾分けを、列に並んでパテェシエに大盛りでお願いしま〜〜す。それをぺろっと平らげて、自分の席の後ろ部分のテーブルに並んでいるミニケーキを、両隣のお客さんに取ってあげます。そのついでに自分のはもっと大きめに、もっと数多くを・・・・式が終わりを告げるころには、もう口に入りません。
 こんなに、食べ物を人前で口にしたのは、記憶を辿ってみても思い起こすことさえ難しいくらい。
御陰様で、帰りの軽自動車の中には、睡魔に襲われながら懸命に運転に集中しようと頑張っている一人の青年がいました?。
 季節は春、睡魔も春、窓を少し開け放せば真冬・・・・

 


○ 再会が出来た流氷も、また、2日ほどで視界から消え去りました。
サロマ湖の氷の山脈も、また、幾日も経ずに消えて、「カキ」の施設に被害を与えて消えてゆきましたが、何かしら、今年の気象には不安な要素が感じられるのは、はたして自分だけなのでしょうか?
 融雪が進み、山々の雪が着実に、その体積を縮めようとしているけれど、気温の部分だけで現象をみても、やはり、平年の雪解けから春の走りへとは、続いてはいないような気がしています。
 最近、この町の郷土史研究会?なるものの勧誘が来ています。手始めに湧別小学校の沿革誌の、タイプうちを三沢さんという初老の方に、大学ノートに鉛筆書きしたものを、清書をと頼まれて、まぁ〜〜その位ならと、パソコンに向かったのは良いけれど、これが大変な作業になるとも知り得ないままに、安易に一太郎13を用いたのが失敗の始まり、4日目に何とか完成を見、プリンターに出力をしようとする前に、バックアップをとHDにフロッピーにと保存をした結果、今度は一太郎13が起動をしてくれませんし、他のプログラムで起動を試みた結果、何とか立ち上げることに成功をしたのですが、57頁にも及ぶ小学校の歴史が所々、無惨にも変形もしくは消失をしてしまっていました。
 なんということでしょう〜〜〜
またやり直しです。今度はWordに変換をしながらの作業です。 初めからWordでも良いのですが、自分は一太郎でパソコンを始めた経過がありますから、なかなかに踏ん切りが着かないままに、青少年だより、体協だより、諸議事録を一太郎で行っていましたが、たびたび不具合があります。
 でも、捨てきれないんですよねェ〜〜〜〜〜
そう言いながらも、今度は、議会の傍聴をしていたときに知り合った、と言いますか、自分が図書館前の栄町に住んでいた当時、谷口さんという東大卒(郷土では異例中の異例)で、大学の教授をしていらした方が、家の直ぐ側に居を構えていらしたので、草刈りやら除雪作業やら、自分の作業のついでにと、広範囲に執りおこなっていた時の方が、町のホームページを作るので意見をお聞きしたいとの申し出がありましたが、自分のホームページは専門の方々の力にもなんにもならないと、丁重にお断りをしたのですが意見だけでもとの言葉に、日曜日の午後1時ころに図書館では?と、谷口さんは・・・ではその時間なら・・・
 なにかしら、また自分の時間がどんどん少なくなっていっているような気がしているのですが。
それに、徐々にではありますが、仕事の方もそろそろ慌ただしくなってきましたし・・・
 こんなことで
どうなってゆくのでしょうか?


○ 春の色に変えつつある海を、小高い堤防の上から眺めて、港から13隻のホタテ操業船が、出港して行きその後を追うように、ホタテ漁場監視船が続いてゆきます。うねりではなく高い波をぬうように船体を波間に隠しながら、波頭が押し上げる船腹を「ゴメ」が3羽掠めてゆきます。
 宗谷方面の流氷の接岸が、雄武方面まで南下してきました。風の気まぐれがこちらに向いたとき、「タコ箱」漁業の「ボンデン」(浮玉を付け、船や海区の標示を付けた竹製もしくはプラスチック製のもの)が流氷に引きずられ、海底の漁業資材までもが流失する事故が、発生する危険も毎年のように起きる、漁業の歴史の流れ・・・・
 それを、心配するかのように、毛ガニ篭漁船3隻も波の高いうねりの合間を縫うように、出漁してゆきました。普段の海況ならば出漁を見合わすような、オホーツク海の高波のなかを・・・・
 昨日は、午後4時からホタテ稚貝健苗確保委員会の第1回目の会議でした。組合長挨拶の後、委員長、副委員長の選出があり、委員の互選として推薦から入り、前回の執行部留任と進み、各委員の意見発表、具申となりました。 委員から、放流時精算の重量買上よりも種苗粒数精算がもっとも組合員としての、平等とはならないか等の意見が2年前発言した内容とは、寸分違わない言葉での具申となり、その発言に対して各委員から、この買上に至った内容の説明と、重量買上が取り入れられてから3年間は、見直しを行わないようにとの委員会の申し合わせ事項を加味して発言するようにとの、職員からの提言もありまずまずの会議ではなかったかと・・・・
 もちろんのこと、自分も意見は申し述べてはおきましたが。 信用部へ頼み事。
 今回18年度の、子どもの安全を守る運動について、備品買い入れの予算の中で、補助金と寄付金の集積よりも、注文品の入荷が早くなるために、一時金として自分の口座と使用して、商品の支払いを行わなければならないことから、口座借り入れを起こすことは、出来ないかとの要請を、部長判断でお願いしたい旨・・・了承を得られたことに感謝しつつ、組合から自宅へと帰宅途中から、空模様が変化。


何時ものように港へと向かう・・・
昨夜の降り積もった雪が昇進丸に堆く積もっています。
前の船の雪を、その船の所有者の息子が、プラスチックのスコップで、船の雪を港の海面に投げ捨てています。
「おはよう」変わらない笑顔の口元から流れ出る、朝の挨拶です・・・
時化のため、波浪が港へ入り込み、港の中が外の海の「うねり」が入り、船が前後左右に動き回ります。
その、「うねり」で、ロープが急激に張ったり、緩んだりの繰り返しで、何年か前に龍王丸が岸壁に、船体を壊されたことから
港の中に、一船二船と全船が一本、あるいは二本と「アンカー」を
港の中に沈めて、そのアンカーロープで、岸壁と船とを離しています。
そのために、船に乗り移るたび、緊張を強いられます。
岸壁の端から、船に飛び乗るための、船の「カイシング」測舷とも云いますが。
そんな危険な一瞬を、当たり前の習慣として、日課となって雪掻きに船に向かう・・・
やはり、この港は尋常の港とはいえません。
港とは 船のゆりかご 母に似て 出船入り船 やすらぎのもと・・・駄句
浜辺から、波打ち際を見ていると、「ゴメ」が舞い降りたり、舞い上がったり、曇り空に何かを探しながら
懸命に波が砕けて、綿飴のようになった波間を、水中で脚を動かしながら
仲間と数羽漂っているのか、蠢いているのか
なにかしら、我が身を感じながら眺めています。
もうすぐ、船を港の海面に降ろしてから、一月がたとうとしています。
南から、桜・梅の便りが頻繁に届くようになってから久しく
真っ白な雪原を、車を飛ばしながら想う
国の広さと、自然の深さ・・・
北の風が、春を表すのも、もう幾つ・・・・


漁師殺すにゃ刃物はいらぬ 時化の3日もあればいい・・・
新人で第8宝来丸に乗り込んだ頃
「ボースン」(甲板長)が煙草をくゆらせ、ドラムのハンドルを操りながら口ずさんでいた言葉
19歳のまだ年端も行かず、生意気盛りの一匹狼を気取っていた頃
渡り鳥に憧れ映画では「怪談物」「風来坊物」青春物」が一世を風靡した。
街角に果物売り・野菜売り・夜には娼婦が立ち並んでいた時代
男は心意気と身体で女を養うものと
今ではアウトロー的で言葉にすら出来ない物語が至る所で蔓延っていた時代
何時しか時は流れ
この人も落ち着き?を取り戻したのかな


○ 今日記帳に向かって、白髪と薄くなった頭を指でかきなぐりながら、キーボードを叩いています。 指の回転といいますか、動きが一向に速くならない自分にいらだちながら・・・
 目で見た印象と、映像が自分のつたない頭の構造の中で、何回も何度も反復しながら精査をしてゆく、いま、書き込んでいる言葉の羅列も、情けの無いほど感情ばかりが先に立って整然とした文字につながってはいません。書き込みが終わって顧みると、誤字脱字は云うに及ばず、思考回路そのものも問われるような内容を目にするとき、不勉強の極みをただただ嘆くのみです。
 百年史を3年がかりで書き進めていれば、少しは文章の練習にも文脈の練習にもなるはずなのに、日記帳をかえし詠むと何も変化を感じないとは・・・
百年史は、一字一句間違えることのできない、編集委員と先人の想いと労苦が、写し絵のようにしみこんでいる結晶ですから、そこに自身の主管が入り込む隙間さえない状態をつづける意味の大切さを感じながら、タイプの練習にもと・・・繋がる・・・?
 日記帳は、自身の心の発露ですから、思うままに思い描くままに進める人と、見る人を意識して書き込みを進める人がいますが、自分はそのなかでどの部類に属するのか・・・・
 なんて思いながら、ただ書き込みをつづけています。
今朝、久し振りの凪に、ホタテ操業船と、毛ガニ篭漁船が港から出ようとして、出入り口で船が傾きました。今回の時化でまた流砂が堆積をしたのでしょう。潮位も丁度下げ潮に向かっていましたから、傾いたホタテ漁船を救助に、向かった船からロープが投げられ、そのロープを船首付近の「タチ」(船を係留しておくための支柱)に結びつけ、救助船がエンジン回転を挙げて引きます。しかし、8分の太さ(度量法で云う鯨尺、百貫法)のロープが引きちぎれました。
 それで、何回もロープを渡し直しても、傾いた漁船は動きません。 救助船を少し大きめの漁船(81ゆうべつ丸)に交代をして、引き直しを何回かしているうちに、みごと脱出・・・拍手が起きました。
 それで、急遽工事の代船が出動して、海底の砂を掘る作業が正午まで続いています。
自分は仲間との話の集まりの途中で、家に帰ってきましたけれど。 そうして、パソコンに向かっています。
浜の周辺から、波音が聞こえています。漁師はこの音に敏感で、天気予報も欠かさずみるようにしていますけれど、やはり最終決断は波打ち際からの音になります。
 北見枝幸方面では、流氷が漁労作業に影響を与えているというのに、自分の所へは2日しか接岸をしませんでした。 この接岸日数が影響を与えるのは漁業関係機関ばかりではないと思います。まして、自分の身体にも少なからず影を落としていることも事実ですし・・・
なにかしら、この時期になると、身体は自然と働く身体に変化をしているものなのですが(この感覚は言葉に表す事ができない)、今この時期になっても、まだ身体が正常な感覚に戻ってくれません。
 何なのでしょう・・・・


○ 飲み過ぎて、身体が云うことを利いてくれないから、なかなか外へと脚がむいてはくれません。でも、これから青少年健全育成町民会議の全体会議を開いて、1年の活動日程、参集規模、人員配置、予算計画、予算配分の下書きを決めなければなりませんが、その中に護衛艦「ゆうべつ」後援会の事務局の作業が入りますから大変です。予算の中の補助金は行財政のひっ迫で全額ではなく50%ですが、これが4月の年度替えを過ぎると事業予算の3分の1になりますから、寄付行為をするには補助金が少しでも多いに越したことはなく、今回は約33万円くらいは町民の浄財を頼りにしなければならない。でも、本来は地域の宝物であります子ども達の、育成環境と安全な環境を守ることは、町民全部の責任においてなされなければ、先人に対して言い訳にはならないでしょう。
 サロマ湖へ三里浜の一角にサロマ湖内の結氷した氷が溶けて動きだし、折からの南南西の強風にあおられて、山脈となっているところが北海道新聞北見版に掲載されていたのを思い出し、向かってみました。自分もここに住んでいる人でさえ見たこともない、物凄い光景がそこにありました。何枚も何枚も、倉庫一つ一つ位置を変えながら、カメラに納めました。


○ 何回港に足を運んだのでしょう。昨日12時に吹雪き模様の中、トラックで港へ昇進丸の様子を見に行ったときに、春の雪の特徴である湿雪にタイヤが思うように地面をかみ締めてくれないために、蛇行状態で危険を感じたので、その後は歩いて港や、昇進丸の様子を確認するのに、積雪が30pを超え長靴に雪が入り込み、船の側で時間をかけて見守ることが出来なく、また、北風が地吹雪状態で自分に向かってくるために、5分くらいその場所にとどまるのが精一杯・・・酷い大時化が一晩中続きました。
 市場に続く街灯も地吹雪で光も遮られ、顔を少しでも上げると雪が目にぶつかる状況の中、暗い道を一歩一歩と港へ家へとの往復が朝まで・・・
 朝の光が家に降り注ぐころ、家の回りの雪掻き作業も、非常に重い湿った雪でも、車を道路まで出すための、遣らなければならない北国の辛い作業です。
 一昨日、護衛艦の3役会議の席は、予想したとおりに事務局への指摘の連続です。 5,000円の会費を支払って総会の各事業や計画の話し合いではなかったようです。 自分への3役としての対応としか感じられませんでした。今回で事務局は降板させて頂こうと思います。会を止めるつもりはありませんが。
 国を想う気持ちに変わりはないから、自衛官の皆さんが母港へ艦を泊められるとき、少しでも労いの言葉や慰労を、出来る範囲で協力したいから。 会長が後援会を自身の所有物として君臨することには、もう慣れてはいたはずですが、人としてしてはいけないことってあると思うから、事務局長として少しでも路を踏み外さないように、後援会のために自衛官が職を失ったり、配置換えをさせられるというような、本来民間の組織や個人は自衛のため身を捧げている組織や人に尊敬の念を感じて、接するのが本意と自分は思います。何かしら気分が優れず、その日は、社会教育委員の会議を午後1時30分からやって、5時から委員の任期最後の懇親会ということで、最初の1時間くらい懇親の場を楽しみ、午後6時から3役会議で、1時間くらいで会議を切り上げて、懇親の場へ戻り2次会へと向かうように、委員の了解を頂いて向かったのに、話があっちこっちと飛び交い、総会の話になかなか戻ることもなく、延々と事務局への対応や、総会後の計画の話ばかりが続き、いったいこれは中学生の学級会かと思うけれど、事務局長である以上、会議の席を自ら立ち上げることも出来ず、じっと我慢我慢の3時間・・・時間とお金の無駄な浪費としか思えない内容の無い会議でしたから、自分を発散させるために、今一度社会教育委員の懇親会は当に終わっている時間なのですが、必ず約束した委員長はじめ数名は、2次会にいっていると思い何時もの店へと、危ういところで店には入れない危機一髪、1名なら大丈夫とのこと。嬉しかったし、安心してそれからの自分はフイーバーしまくり・・・騒ぎ、唄いまた騒ぎ・・・・終わったら一人店の中、もう04:00・・・鬱憤が晴れました。
 今日は、これから湧別高等学校50回卒業生保護者OB会です。場所は中湧別「親爺」校長先生とは今回でお別れになります。

最近愚痴が多くなりました。


○ 彼岸・悲願
前後七日間寒が終わります。
雪のお参り
心で手を合わせ
父母・兄弟・先祖に冥福と安寧を祈る
朝陽から想いをいただき
夕陽に想いをかえす

彼岸とは 名ばかり冬の 戻り鳥・・・駄句


○ いよいよ本番を向かえたようです。 朝陽が暖かみをまして海に反射をしてくれるようになりました。
まだまだ海が目覚めてはくれませんが、毛ガニ篭も解禁になり、市場にカニのオレンジ色が一角を賑やかにしてくれていますし、ニシン漁もまだまだなのですが、何匹か水揚げがみられるようになりました。 昨日はホタテの標識放流事業で、会員一同の協力と、生産部会操業船の協力で進められ、午後3時過ぎには終了することが出来ました。その後、ホタテ船から水揚げされたホタテを、町内の世帯に無料配布するために、買い物袋に20枚づつ詰め込む作業を手伝い、あとは湧高保護者による50期OB会のとりまとめを電話連絡で行いました。 明日の、護衛艦「ゆうべつ」後援会の3役会議の下準備をし、その前に行われる、第4回社会教育委員の会議の準備等も行う予定ですが、なにせ、強風の中久し振りの船上作業のため疲れてしまい、うとうととして、気が付いたら夜の12時過ぎて、なんということでしょう・・・・
 頭が動かないというか、回転をしないことは取りも直さず、組織の停滞となることが数件抱えている状況は、自分の身からでた不評となることに、少し、楽に・・・のんびり・・・・しなければねっ

かぜはきぬ ふところふかく かぜをうく
ただひたすらに まつみせと           駄句


○ にわか雪の降りしきる中に自分は立ち止まって、海岸線から海を眺めています。 消波ブロックの整然と並ぶ列に波飛沫がぶつかり、高く鳥のように舞い上がっています。 北北西の風が頬を過ぎる朝の海辺に、鴎が波泡に水面下で脚を激しく動かしているのでしょう。見えるものと見えないものにも物語があるように、頭の中と心の中にもよぎるものと浮かび上がるものがあり、決して一縷感情でみられるような単純ではないものが確かに確かにあると思います。
 髪を風に靡かせ、ふと思い出に身体を震わせる
 離れているのが苦しいほどにこみあげるものが
 北の風に吸い寄せられるように足を出す
 愛しい人の言葉に待たされるように
 寂しい人ほど上をむき
 悲しい人ほど下をむくように
 南へと南へと下る人へと心づくしの真心を送る
 愛染明王人恋しく狂い泣き
タンカ(カレイ網、ニシン網を入れる木材の容器)の材料が昨日森林組合から運び込む。 今朝からタンカ作りです。
 湧別高校の人事異動で、古林校長先生や土門先生らが転出します。土門先生は智也が3年A組の時C組担任でしたので、送別会をと森支部長さんより連絡があり、OB会を開き送別の催しをすることとなりまして、自分が湧別方面の連絡係ということで、今日一日連絡とタンカ作りとの併用となって、やっとパソコンに向かったのは19:52です。
 日記帳を先にして、町史はそのあと・・・・
昨日からの雪で、今朝の朝日で雪は一面に輝きを放ちなんと美しい土地と季節なのでしょうか?
 
 ひかりなす たばとはなちて ゆきにみる
 陽炎ほのかに うかぶよすがと         駄句


○ 薄紅の 唇さみし 朝のくも
うかびて春の なごり雪とは           駄句

 今回、自分の側で漁夫の妻達が、舞い踊っています。 老人の慰問、文化の発表会、イベントへの参加等々、大変に喜ばしいことです。これが自らの趣味の延長線上に、新しい文化の継承となってくれれば・・・・歓迎そのものなのですが、一抹の不安も覚えています。
 仲間と集い何かに目指すことは、自らを高める文化や体育であれば。 一過性のものに終わることなく、継承を次の目標に据えながら、楽しみや憩いといった生活に欠かせないものにまで昇華してくれたらと願いながら。
 何年前になるでしょうか。 ミニバレーというスポーツが若妻の方々に広まったときがあります。 近隣の漁婦連や、管内の漁婦連、北海道の漁婦連、町内のスポーツのイベントなど、それは大変なくらいの活躍をみせたものですし、夫達も陰ながら応援したものです。 しかし、自然消滅をしてしまいました。 多くのサークルはその原因は特定できます。 それは、自らを高めるためのものではなく、自分のためだけにしか捉えてはいなかったということと、後継者ともいうべき仲間を参加させなかったこと、それに大会に出場するのは自分たちでなければならなかったこと。 
 これは、スポーツとはいいません。
今回の芸能の発表は、大変な練習の成果だと思います。
自らが打ち込めるものであれば、必ず多くの人の共感は得られるはず。
踊るもの、唄うもの、観るもの、おのおの楽しみを分かち合うことの大切さを、今一度原点に返って、仲間づくりをするのではなく、仲間として間口を常に開く、度量の広さとおおらかさを、このグループに願うのは自分だけなのでしょうねっ


○ 今朝今年の海開けを告げる、毛ガニ篭漁船が船上に篭を満載して出漁しました。 6,0マイル沖にイカを餌として篭に詰めて、海中に投下します。 2回出漁して全篭を沈下させ翌日から、フル操業になって市場に春の賑わいがみえるのです。 もう少しでホタテ漁船も操業が始まり、この港も活気を取り戻すことでしょう。
 明日は3回目の小型漁船の下架作業です。 前浜の所属漁船が全て海面に浮かび、今年の始まりとなります。
海を毎日眺めながら思うことがあります。 遠い記憶の中に埋もれていた、幼い頃の断片が少し筒ですけれど、頭によぎることが多くなったような気がします。 自分史でも書き込むことのなかった、部分部分が鮮明にカーキ色の像となって断片がよぎります。 
 映像となってくるのも、長い年月を必要とはしなくなるのでしょうね。 父が往き母も後を追うように姿を消し、次姉もガンという病気ではあったけれど、言葉を交わすこともなく記憶の中の思い出となりました。 その頃から何故か自分が気を許した感覚の時に、過ぎるものの気配がしてくる。 何かを伝えたいのか・・・其れは自分の感覚では計り知れないけれど・・・
 護衛艦「ゆうべつ」後援会の3役会議の日程が決まりました。 28日午後6時より、中湧別町の飲食店内にて、会食をしながらという会長代行より事務局長への伝言でした。 会議用の総会案の資料を事務局と作成して、検討することになります。 この回は民間の方々が、「ゆうべつ」という艦名の自衛隊船舶の乗組員への慰労という名目で設立した団体ですが、設立段階の趣旨はふっとび一個人の役職の乱用に利用されているといわれても仕方がない状況ですが、何とか最初の頃に会員の熱意を受けて軌道修正を図ってきたつもりですが、如何せん自分の器量の範囲を逸脱している現況では、廃艦を数年後に控えたこの艦の存続期間中まで持ちこたえる手立てしか自分には残されていません。 無情というべきなのでしょうか、無惨とでも申し述べるべきなのでしょうか? 
 任期少しの生涯学習部会の会議を、午後1時半より文化センター2階会議室にて行いました。 会議の進行は、提案案件で進めるべきなのでしょうが、自分の考えとして、社会教育委員としての部会である以上、委員個人の前年の評価課題、任期中の評価課題等を持ち寄り、その意見を集約して全体会議への生涯学習部会の活動とするというのが、自分の部会長としてのとるべき立場という思い込みがありますから、そのように会議を進めようと図ってみたつもりなのですが、これも器量不足というべきなのでしょう。 委員数名からの指摘を受けたということは、会議の進行に自分自ら水を差しているというほか解釈が出来ないのですが・・・・難しいものですね。
 委員というものの役割として、会議の総意として結論を出すものなのか、委員個人のその立場や活動の範疇から、当町の社会教育への提言というべきものを発言し集約するべきものなのか・・・・自分にはその見極めがまだ覚束ないでいるのですが・・・
 今日は、青少年活動では子供の安全を守る運動として、役場商工観光課へ出向き趣旨説明をし、商工会事務局への協力要請をし、当町の各学校を廻りPTAと学校の協力をお願いし、副議長への次回会議へ向けての経過報告を経て、一日が終わりました。
 終わるに当たって、図書館から借りていた「母性の復権」を読み、少し頭の柔軟体操を試みようとしましたが、これがなかなかに手強くて・・・

すすむとも もどるもつかず みちばたを
ただおもいやる 路の残雪               駄句


○ 想いって通じるものですね。 子供の安全を守るために今行おうとしている運動の下拵えが出来つつあります。 個人団体を問わず子供の育成に関連した会議を開く前に、運動の範囲、日程、期間、人員、予算の概略が出来上がろうとしています。 町民が自ら動きつつ子供の安全な育成環境を守る運動とは、町民自ら作り上げなくては意味をなさないものだから、誰かが音頭をとらなければなりませんねっ。
 熱が下がらないから、頭痛薬を服用して役場町長室へと行きました。 空は真っ青に晴れ渡り庁舎内は人事異動の内示が出た後とて、気分はるんるんなのに身体がだるい・・・・やっぱ少し寝よ・・・・
 北国の春は遠くからやってきます。 渡り鳥のコースと同じように、南から桜前線が駆け上がってくるような暖かさとともに来るようなものではありません。
 水平線の微かな辺りから、光の色が暖かみを増すように、山の頂が輝きだし陽光の反射が斜面を下るように、春の足音は北の方から少しずつ確かな足取りで南へと下りおりてゆくものなのです。
南の土地では、梅の花が咲き出してきました。




○ ひどい嵐です。
昨夜からの暴風雪は、海岸部に高波と暴風をまき散らして、「ゴメ」が低空でしか羽ばたきのいとなみを取れない状態とは、春の風の範疇を超える凄まじさです。
 山々の峰も薄明かりの中にとけ込んで、春の山姿を写してもくれません。 波は浜辺のコンクリートブロックを包み込んで飛沫を舞い上がらせて、国有地の牧草(雪の中)地区に潮の華を降り注ぎながら散ってゆきます。
 雪解けの雪原は、光を浴びて眩いくらいに輝きを放つこの時期ですが、暴風によって砂が舞飛び雪原の色をみるみる変えてゆきます。
 昨夜の昇進丸の見回りといえば、3回目の見回りで仲間と話し込み、幾時間が過ぎて別れた後船を見ている途中で車の中で寝込んだようです。 携帯の着信音によって目覚めましたが、風雪は激しくなるばかり。
 3月も残り僅かとなり、4月の新学期に向けての運動のために、動き出さなければならない案件がけっこうあります。
なにかしら、思考回路の柔軟性が失われているように思えてならないのですが、加齢とは思いたくない心境で、社会教育委員の会議の任期終了に伴い、資料提出のために費やした時間の方は終わり、安全確保運動の役員や関係各所への手配等々がまだ少しかかります。
 今晩には、護衛艦「ゆうべつ」後援会の3役が紋別で会談を持ちます。 その後、正式な3役会議となり、総会へと手続きは進みますが、これが紆余曲折を経なければ進まない事となってくるために、事務局サイドとして歯痒く感じられて来ることも予想され、何ともならないもどかしさを抱えながらの事務処理は気の進まない組織の進行となってきます。 なんとかなかないかなぁ〜〜〜まったく。
 珠に、保育所にでも顔を出してみようかなぁ〜〜。 おつむが固まってきたと感じたら、まずは、子ども達の顔を見ること・・・・
これが無心になれる方法になっています。
感じる心が失われていると感じたら、無邪気な空間に身を置いてみるのも一興かな。  


○ 体協交流会が終わりました。10:00から始まった交流会の始まりは、1階和室3部屋を通して使用し、実行委員長高桑さんの挨拶に始まり、体育協会会長工藤君の開会挨拶を行い、講習会に入りました。講師は教育委員会社会教育課課長補佐、絹張さんの体育に関する話を拝聴し、多目的ホールでの体育協会加盟団体の参加者にて、ホールボーリング3台とストラックアウトの室内版を時間まで楽しませて頂きました。その後和室へ戻り、6チームの順位発表から懇親会へ入り、抽選を交えながら楽しい一時を過ごすことが出来ました。15:00に閉会の万歳三唱を副会長の自分が努め後片付けに全員で取り組み終了となりました。
 交流会恒例である2次会へ、中湧別町の最近開店した店で、自分は基礎スキー少年団の反省会に少年団の役員の父兄と来ていたので知っていた「倖わせ」 へと場所を移して22:00間で盛り上がりながら一日の終わりでした。
 2次会の途中で携帯の着信音が鳴り、北見市の渡辺さん(昨年ホタテ稚貝放流時に雇った方)から連絡があり、今年も使って欲しいとの連絡がありましたが、養殖作業の取り決めが発表されるのは、まだ1ヶ月以上前なのでその旨伝える。
 スキー協会の参加者金澤くんと伊藤君は、交流会終了後五鹿山スキー場のセミナーハウスへ、基礎スキー少年団の充電式ドリルとドリルの刃を接収のために、先に帰り自分に連絡を入れた。
 今晩から暴風雪になります。 昇進丸の見回りに定期的に港へ向かうことになるでしょう。 非道くならなければいいけれども・・・・


○ 二度寝が続く、まだまだ漁師の身体と気構えにはなっていないようだ。5時40分慌てて港へカメラを担いで向かう・・・・
港突端へとついて水平線はと見てみれば、水平線と大空との境界線上に少しの空間があり、そこから赤みがかった色がみえています。灰色より黒くなった雲をどんどん上へと辿れば、空がもう明けているとは・・・・
 展望台へと急いで向かう(もう色の変化を映す機会はないのに)。やっぱり無駄足でした。それではと古川側へと向かってみるけれど、昇進丸の動きが気になり港へ戻ってみると、係留している各船ともアンカーロープを時化に向かって張っているではありませんか。早いですね〜〜〜船ってそんなに大切に扱わなければならないものなのでしょうか?大切に扱うものなら神棚に飾っておいた方が良いのにと思って、まだ早いと自分に勝手に言い聞かせて、シブノツナイ方面へと軽自動車を走らせます。
 海岸道路を川西に向かい、突き当たりから海岸方面へと向かいます。右手には牧草地に残雪が残り、農家の境界と町の収用地との境を作る鉄条網が整然と遙か遠くまで向かっています。左手には防風林がシブノツナイ湖方面へと続き、アスファルト道路から砂利道に入って500bくらい続き、海岸線と牧草地の柵に沿って続く道を紋別方面へと1キロb走らせると、シブノツナイ湖口を砂の流入を防ぐ目的(シブノツナイ湖には、シジミ・ボラ・ワカサギ等が漁獲され、紋別漁協と湧別漁協の漁漁協によって漁業権が設置されるため、道や国の政策)によって設置された河口部分のコンクリートによる構造物があります。この構造物と紋別と湧別の境を流れオホーツク海へと流入する湖と海と繋ぐ川に架かる橋を渡ると二十数年前に海岸から0・5マイル水深12bにホッキ漁船「第五昇進丸」が沈んだ場所であり、海から引き上げられたものを砂に埋められているところでもあります。そのところを感慨深げに思い出しながら、縄文時代のシブノツナイ遺跡が少し雪解けが進み遺跡が顔を出している。200〜300ともいわれている竪穴住居跡ですが、自分にはいまの遺跡範囲の中で20位かなと思う場所も写真に納めてきました。
 今日の写真行で思いました。海岸線から防風林が消えていっていることを・・・・縄文時代から、この非常に厳しい土地に人が住み、営みを遙の年月続いてきたのは、オホーツク海からの海風と流氷による寒気を防ぐ先人の知恵が、営利を優先とした結果失われてゆくということ。その結果この土地に環境が大きく変わり、そのうえで人々の営みを維持するために、膨大な国家予算や道予算を消費した、まだ続けているということの重大性にもう気が付いてもいい頃だと思うのだが・・・・
 人の営みは便利が良いに限る。
我慢をして生きる必要はない。
豊かに生きるということは便利さだけで語るべきではないと思います。
豊かに生きることを楽に生きることにすり替えてはいないでしょうか?技術革新で生活のレベルもスピードもどんどん加速してゆきます。生活には不自由に生きるということも必要になってくるのではないでしょうか?
 この土地は、国策上も防衛上も人口増加を緩和するという政策上も、大いにお金をふんだんに注ぎ込むことによって、今この土地の辺地を感じさせない便利さがあります。農家の玄関まで伸びるアスファルトの道、1軒の農家しか利用することにない、道路と農地へ渡るトラクターを通すためだけのコンクリート造りの橋が1町間隔に1つと。
 大都会や中、大企業からの税が交付金・補助金として土木工事等に注がれます。町の行政全般にかかるお金の大部分は、自ら納めた税収入で賄われているわけではないことも百も承知で、行財政改革や町村合併を語るこの体質を改めない限り、本意の改革はならないと思うのだが・・・・
 本来、不自由に生きてゆかなければならない土地に住み、なお、この土地に生きてゆくとするならば、不自由を心豊かに楽しむ位の心構えが必要となってくるものなのだが?
 そんなこんなで、10時半から町体育協会の交流会がはじまります。
交流会が終われば、体協だよりの編集がはじまりますよ・・・・


○ 今日の輝きは、何時もの夢の中にあるのか?現実が夢になっているのか?その夢が現象なのか?
人はその夢さえ夢としてしまうのかな。 夢は何故見るのでしょう、夢は夢でしかないものなのでしょうか・・・・自分は57歳。
 家庭と仕事の面では大黒柱として凛としていなければならないものなのに、未だに勉強の毎日です。人と知り合うことに異常なほどに貪欲なのは何故なのでしょう? 自らが整理できない頭の中を見事にイメージとして人に伝える技術を持ち得る人がいます。 頭の構造が違うのでしょうか。自分はそうとは思いたくはない。
 日常の出来事に、一喜一憂しながら自然の営みに敏感に反応するそんな自分でありたい。
今日で「青少年たより」の編集が終わりましたが、提出を要請していた写真が揃わないので、揃った写真を掲載しました。これって不公平なのでしょうか?本来事務局として、出来映えはともかく送れている写真があれば、連絡をして提出を促すなり、自分がカメラを持って写してゆくようにすれば良いものなのでしょうが、大人が地域の青少年に関わるものとして、ルールとかマナーを基本に据えなければ成り立たないと思うのは自分の未熟さなのでしょうか?
 その反応を見てみようと思いますので、敢えて印刷製本に出しました。来月5日には町民に配布されます。イヤな自分が少し存在しています。
11時に町議会の傍聴にゆきました。傍聴人は2人傍聴席にいる原田さんに、記者席に座っている谷口さんです。
 実際に見たり聞いたりしないと、分からないものですねっ。
見る角度を変えて見てみると、迫力があるものです。何回も傍聴をしている自分ですが、この度は、議員として傍聴をしてみました。
 延々と続く資料説明ですが、その提出資料には職員の何回も作り直した労力が込められています。
議員は議会の数日前に配布された資料から、質問を思案し文章にして提出します。
 その提出された資料と質問とが議会本会議の論陣となります。
今回と前々日、傍聴して書き殴った書類が手元にあります。
 情報の漏洩という問題が自分には判りませんので、この場所には残しませんが議員には資質というものが大切なものということを知りました。
4時からは組合役員室で、ホッキ部会がありました。12年度の事業報告と決算報告、部会費の決定、収支予算、日産量の取り決め、部会マンガン降ろし日時場所選定など、今年度稚貝放流前の漁の会議です。
 5時40分。福島さん宅へ、土地の賃貸料3万円を持って今年度の契約をしてきました。


○ 朝陽が雲に邪魔されて、良い風景が撮れませんね〜〜〜。気温も高くなり、空の色が明るい色が多くなりました。船の出港が少しだけど多くなりましたよ。タコ箱漁業の各船が海開けの港を出て行きますが、朝陽の方向へは一隻も向かってくれないなんて、無情を感じませんか?
 ニシン漁もはじまっているけれど、サロマ湖の中だけの限定したニシン漁です。このニシンは外海へとは出て行かない種類の魚ですが、漁体は大きいですよ。6年ものと同じ位かな?いよいよ昇進丸にニシン網を積み込みましたが、湧別川からの雪解け水が出ていませんし、山に峰の雪解けがかもし出す動物の絵姿もまだまだ浮かび上がってくれません。それと堤防や道路脇の野生わさびも顔さえ出していません。五鹿山の桜とか、スキー場の雪解けでバーンに道筋が出来るはずなのもまだまだですよ〜〜〜〜
 一区切り仕事を終え、久し振りに定例議会の傍聴に行ってきました。議会風景は自分の好きなものの一つです。傍聴の記録がノートにして9ページ分になります。面白かったなぁ〜〜
 自分は今、子供の安全を守るための運動の準備で町にお願いなどがありますから、議会の傍聴は真剣そのものでした。16時から増養殖研究会のホタテ貝移動調査といって、毎年2年貝を採捕してホタテの耳にドリルで穴を開け、アゲピンといった垂下養殖で使用するプラスチックでできた釣り針にある魚が逃げないように「アゲ(かえし)」を付けたものをドリルで開けた穴に通します。そのアゲピンを通したホタテ2年貝をホタテ漁場に散布し、4年目になったときホタテ操業船に漁獲された枚数と位置を記録し、移動距離や移動場所を特定しホタテ稚貝放流事業に役立てようとする研究会としての一大事業です。民間規模でこの様に調査をするというのは、大変に労力も時間もかかる仕事ですが、なんとか出来るときに出来る事をという前向きな展開と自分は思います。漁業を取り巻く環境も、自身の所属する漁協も大変なときですし暗い話題ばかりですが、この様なときこそ自らが本意として自立してゆこうとする仲間と歩む姿勢が求められていると思います。
 議会を傍聴して思うことは、戦略のない戦争のようなもので進もうとする道が一本なのか方向はどちらなのか、暗中模索の中に迷い込んでいるような感覚がしました。この町は何年か後に合併をします。行政改革も必要です。でも、何かおかしい気がしています。
 この町を愛する人はいったい何人いるのかな?この町に生きこの町に朽ちる。この土地が好き、山があり森があり田があり川が流れ湖も海もある、この町にないものといえば、この町を愛する言葉かな? 
 自分はこの町に縁あって住むようになった29歳の時です。この町を調べようと今の宮ノ森センターが公民館と図書館であった時代、仕事の合間を縫って通ったっけ・・・・流氷が好きで好きでたまらなくて、オホーツクから離れることの出来ない自分がこの町に来ました。この町の行政の裕福さは目を見張るものがあり、青年部の研修においても、PTAの研修においても他の町に言って議論をしてはその話題が何時も出てきたものでした。それから町長が3人代わり(清水、羽田、加藤、現在は奥谷)の方々ですが、現在の役場庁舎に始まり、あれよあれよという間にハード面の整備が進み、気がついたら町の基金が何年か後には底をつくというように、なんの手立てもないままに町民が負担を強いられることに・・・・これって、町民の責任ですか?民主主義の見地から言うと矢張り町民の責任なのでしょうねっ。
 議会の報告は、今度の機会に・・・・


○ 今月で何回目かの社会教育委員の任期が終わります。23日の生涯学習部会、28日の社会教育委員の会議をもって今年度と任期中の総括を行わなければなりません。任期当初は、合併に揺れうごめき、うわさ中傷がどこからともなく飛び交ってきました。会議では、合併協議会をにらみ社会教育委員の会議も上の空の感が歪めなかった委員の方々でしたが、合併が破綻をして自立に向けての行政改革を会議の当初に説明を受けての、自分の発言でした。「社会教育中長期計画の策定を教育委員会から諮問を受けて、何回かの会議を経て設置した背景があるからには、社会教育に関わる行政改革は行政側から行うものではなく、策定した委員の会議が先だって課題評価ののち、教育委員会に答申してからの改革とならなければ、社会教育委員の会議の存在に関わるし、町民のニーズに沿った行政改革とはならない。」なんてねっ
 08:00第2回目の船降ろし「政運丸」「徳英丸」「長栄丸」「勇盛丸」「北斗丸」「恵佑丸」「富丸」「順成丸」「敦美丸」「曙丸」「幸祐丸」「龍王丸」港が賑やかになってきました。湧別漁港の海底掘削も終わり、掘削した砂が堆く積み上がり何万立米になるのか凄い量です。ここ何日かの低温で海面に降ろされた船が次々とエンジンをかけますが冷却水が上がりません。このような現象は本当に珍しいことです。自分にも経験がありませんね・・・・一二隻はありますがねっ


○ 今日は一日中、子供の安全確保のための方策に終始した一日であった。平成18年の一年にわたる安全確保運動の日程スケジュール、人員の配置、確保人員、協力団体個人の範囲等々の下拵えが出来上がったので、あとは予算の手当を受けての役員会を招集のため、町議会事務局へアポをとり午後の議会休息の間隙を縫っての議長をはじめ数名の議員へ、子供の安全な環境を守るための協力を要請する。
 議員には、町行政への予算確保へ向けて協力要請と、民間への寄付金の助力をお願いし、企画課との連携を図り首長への助成への段取りに追われた。疲れました・・・青少年健全育成の会議の運営として安全への運動には、民間が中心になって運動を図らなければ、地域の教育力が問われ、自治の形骸化と進む関係上退くわけには行かない大問題です。
 この次に来るものは、4校のPTAの動きをどう引き出すか・・・・PTAが先陣を切る形での運動でなければ、子供の安全を守る運動といっても、それは地域主体の運動であった、当事者としての親の意識付けにはならないから、なんとしても、PTAを動かさなければ・・・
 それにしても、器量が欲しい・・・・


○ 朝早く、写真器材をもって何時ものコースを回ります。 浜辺に流氷の欠片もない港周辺に、何時もの下手糞ながらの意欲も削がれて行きます。岸壁の突端へ、砂浜へ、展望台へと朝陽を追いながら、コースを回ると大体30分位かかります。
 家に帰り、猫の「ナナ」の餌・水替え・糞の取り替えと毎朝毎晩の恒例の行事が続き、今日は五鹿山まつり当日、スタッフは7時半までに集合となって、事務局長は結婚式の発起人、事務局は急の仕事でスキー協会からの出席は自分と斉藤君だけでした。
 テントをかけ、大回転コースのポール立て、ゴールのネット張り、そり滑り競技の参加賞の点検、スキー協会の備品の撤収、協会負担金の納入などが、目白押しに続きます。競技少年団の父兄や指導員達のリズミカルな動きに触発されながら、時間が過ぎて行きます。
 9時受付開始となっていますが、今日は西風が全道的に強く五鹿山スキー場では雪は降らないけれども、風がお見舞いしているためリフトが何時止まってもおかしくない位の強風の中、9時をすぎた頃からぼつぼつと子供を連れた親子?が少しずつ増え始めました。受付を30分遅らせて開会式の始まりです。上湧別スキー協会の会長寺田さんの挨拶から上湧別町教育長の来賓挨拶、五鹿山スキー場常務の挨拶が終わり、いよいよ湧別町スキー協会主催のそり競技開始。順調にお客さんが集まり、参加賞が捌けて行きます。嬉しい一時です。
 楽しい一時はあっという間に過ぎません。閉会式が終わり、後片づけを粛々と進め、自分はスキー協会の備品の運び出しを一人で終える事が出来、セミナーハウスでの関係者の昼ご飯と実行委員長の下田さんの総括で締めくくりました。
 湧別に帰り、倉庫に備品を運び込み、港の昇進丸の見回りを終え一日の終わり?
まつりの最中に上湧別小学校の校長先生がキャノンのデジタルカメラに300o位の望遠レンズを付けて子ども達の表情を追っているではありませんか。羨ましいやら、悔しいやら・・・・後で先生に見せて貰ったら、道楽ですと・・・あぁ〜〜〜〜くやしいなぁ〜〜〜
自分もニコンではあるけれど、D70(腕は追いつかないけれど)・・・まいいっか〜〜〜


○ 真っ赤な朝陽に誘われて、急ぎ浜辺へと向かいます。 昨日の雪が積もり、その前の雪解けによる道路や土の氷のため、足が滑っておいそれとは歩けません。 危ない危ない・・・・・
 企画委員会の懇親会で酒を身体に入れたため、車を駐車場に留めたものを歩いて向かっている時、この様に危険を承知でゆっくりゆっくり足を進めていても、もんどり打って仰向けに転び、したたかに後頭部を強打したおりスキーキャップ(帽子)を珍しく被っていたために、頭部の打撲は大事に至らなかったように、自分の身体の実年齢はしっかりと高齢者に向かって着実に歩んでいるのを肌で感じる事が出来たから、その経験がまだ身体に残っているから、足元の感覚がゆっくりとゆっくりと足を前に運ばせているのでしょう。危険な時期でもあるから・・・・まして、これが船の上でならもっと滑る状態がよそうされるから・・・・
 と言いながらも、写真を撮るために岸壁の最先端へと歩みを進めます。 本当に本当に危険な状態です。 コマ送り状態で5分の1歩ずつ歩みの鈍いカメさんのように・・・・
 今日は組合の総会です。管理委員会の選挙は定数以上の届けがなかったため、無投票になりました。 監事選挙もありません。 理事は定数より1名多い届け出がありましたから、選挙になります。 選挙がない事は活性化には結びつかない事は承知はしているけれど、やはり選挙は好きにはなれません。 今回の選挙は特に記す事は出来ないけれど、毎回のように選挙には人情も血の繋がりも、地の関わりも絡みますから・・・・
 今年の次は来年の議会議員選挙、その次は町長選挙と続いて行きます。やだなぁ〜〜〜〜
昨夜、企画委員会「ビックウェーブ」主催【タイツマン】の好評なのか、湧別高校のある教諭から電話がありました。今年の文化祭で「タイツマン」を生徒にやらせたいので、詳細を教えて欲しいとの事。 ワークショップは可能か?「タイツマン」の舞台発表は可能か?金額はどの位か?な等々・・・・早速文化センターへの中継に入りました。自分たちの手がけた企画が好評だった事は、その後の疲れも吹っ飛びそうな嬉しさです。 その電話の教諭というのは、智也の卒業のおりに父兄で開催する教諭や学校への感謝の集いのような集まりが毎年恒例になっていますが、そのおりに、自分とその教諭とが先頭に立ち、まつけんサンバを踊った共演者ですから・・・・


○ 平成18年度の漁業の始まりを告げる、第1回目の船降ろし作業が午前8時から始まりました。「漁恵丸」「昇陽丸」「鳳丸」美咲丸」義代丸」弘恵丸」昭和丸」「良優丸」「福寿丸」「登詳丸」「登詳丸」「昇進丸」・・・
 7日から港の採掘作業が西村組によって進められています。 昨年12月から大時化の連続で港入り口の水深が異常に浅くなり、小型船でも出入港が難しいくらい流砂が堆積していましたから、国の災害事業で始まりましたが予定より浅くなっているために、採掘作業がはかばかしく進みません。 船を降ろし気の早い人は船にニシン網を積み込み、春漁を始めようとしています。午後2時から一隻の船が出て行きましたが、2隻目が出港しようと港の出口に差し掛かる頃、船が座礁をしてしまい、後続の2隻が引き返すという事態が発生。 おりしも、1回潮で港の水深が午後6時に干潮に向かっている時。 採掘作業の引き船に曳航され難を逃れる。 潮の潮位を考えなければならないのが今のこの港の現状なのだから、慌てなくても・・・・と
 一日中天気であるはずが、雪が舞い飛ぶ空模様に、「三寒四温」「春に3日の天気なし」とは良くぞ言ったものです。


○ 企画委員会主催事業「タイツマン」3月7日・午後7時開演でした。初めてあった方々なのに何故か親近感が湧いてきたのを感じました。開演時最初は、お客さんが退いているのを感覚で掴めていましたが、徐々に徐々に圧倒されてくるのが空気の微動からも感じられ、終演をむかえ扉から出てくる観客の顔と顔・・・・
 満足以上のものを得られたのではないでしょうか。 終演から後片づけが始まり、舞台だけの部分が終わったのが午後11時30分でした。足下が覚束無くなるような疲労を覚えたのは自分だけだったのだろうか?
 リボン食堂で会員が勢揃いし、スタッフ(出演者全員)を待つまでの時間が短く感じるように、感想や興奮を語り合っていました。企画委員会立ち上げよりこのかた、この様な興奮を表している会員を目にすることも初めての印象でした。
出演者全員が集い、宴が始まり話が方々から飛び交い、語らいの席がさながらロックのステージの中にいるような感覚です。 このままの雰囲気で公演を続けられることを願いながら、時間の経過も忘れ話が尽きる事のない空間を満喫してきました。
 午後3時からカレイ部会役員会です。 カレイ部会の総会前の打合せでしたが、自分の居場所は、此処にはなく文化センターにもう一体の自分を運び込んで、ホールの状況を想像しています。 今回で役員という柵の中の一欠片が、終わります。というよりも終わらせたと言うべきでしょう。 何時までも、役員で執行部の中心でいてはいけません。 若い者に経験を積ませるのも一興、遣りたいようにしたいようにさせるのも一興。 若い力を信じて、微笑みながら観ていましょう。

 船底塗料を塗りながら、船底の状態を確認し、錆止めをして行きます。浜風が冷たく、長い時間仕事をしていられません。
 


○ 冬の朝、しんとした中に陽光が少しずつ白い世界に輝きをもたらしてくれます。
ダイヤモンドダスト・・・・何時見ても新たな感動が呼び覚まされてきます。
 朝起きて、智也が残してくれた雑種の猫「ナナ」に湯たんぽを入れに、スーパーハウスへと通います。えさを取り替え、糞の後始末、凍ってしまった飲み水の入れ物も取り替え、中の掃除と続きまして冷め切った湯たんぽを抱えて終わりですが、此を一日に2回。
 今日は前浜組合員目黒さんの次男坊の結婚式です。
午後3時からの開催ですが、自分は未就学児スキー教室があるために、時間には間に合いそうもありません。
明記されている指導員の動向如何にかかっているからです。
第1回目の未就学児スキー教室を行った子供も、今は小学5年生です。
スキー講師派遣事業で、何時でも会える子ども達ですが、授業の開始前に子ども達が整列をするとき、毎回未就学児スキー教室と少年団の講習での子ども達が成長を続けているのを見て、自らの未成熟を恥じているのは言を待つまでもない事ですが、子ども達の何倍もの努力をしてこその指導とならなければと思い続けます。
 子供との触れ合いを続けているからこそ、少しでも環境作りのアンテナを敏感に鋭敏にと・・・・


○ 今日は自分は酔っています。 丑年会の幹事を仰せつかって何とか無事に終える事が出来ましたが、自分には何も残ってはいません。
残っているとすればそれは悔い。
家に帰って、まず目に飛び込んできたのはテレビのオリンピックの回想番組です。
誰もいない部屋に一人酔ったしわくちゃのじじい一人です。

 陽炎を 思い起こすも 我ひとり
 遙か平原に 漂う雪雲             駄句

笑い顔が浮かびます。
それぞれの笑み、良いですね。
 何も思い起こすことなく、宴に侍る事がどんなに幸せな事か・・・・

今日、スキー授業の終わった後に、少年団の父兄の一人と滑る機会を持ちました。
来週からは幾多の人と共に講習が始まりますが、それと違った気構えが伝わります。
滑る事とは違った意味合いで、何か通じるものがある事をスキー技術の指導をしている中で分かりました。
 若くても感じる事は伝わってくるものなのですね。
こんな人がこの町にも着実に育ってきているのです。
親としてではなく、大人としてでもなく。
一人の人として・・・・・
 面白いものですし、また、楽しからずでもあります。
酔っているので今日はこの辺で


○ 流氷が接岸しましたが、挨拶に出かけられません。
今日9日は、告別式へ09:30生田原へ出発しますから、その前の一時の出逢いになるかな?
 この頃は、事業や行事が目白押しになっています。 子ども達に対する安全確保の運動をまた開始しなければならない状態となってきています。地理的にみればこの土地は北の果て、最果ての地となっているというのに子ども達を取り巻く環境といえば、都会と何ら変わらない傾向があります。
 これはいささか変でしょう。
毎日毎日子ども達と触れ合っていると、感じるのです。 意識がここに無い事を・・・
目の前に大人がいても、目に入っているのは仲間ではなく、友達でもなく、相手という人
人という文字を使っている事にも疑問に感じるように、自身に向けられた事にしか注意がない。
 時代が変わったのか、環境が変わったのか。
そんな事はないはずなのに、そう思えてしまいます。
 かわいそうになってきます。
この事は、一杯書き込む事がありそうです。
自分自身の子ども達一人一人に対する言動や行動にも。

 徳丸さん(雇用)の奥様が亡くなりました。一度も会った事はない人なのですが、7日朝に携帯に連絡が入っていました。
気を遣っていても、連絡をくれた事に感謝しなければなりません。
海上自衛隊に勤務していたとき、大湊で一緒になったという事です。
遺影からは、満面の笑みを浮かべてこちらを見ています。
 難病(肺にカビが進入付着)になって、10年になるという事です。


○ 立春が過ぎました。
昨日図書館へ出向き、蔵書5冊を借りました。
今読んでいるのは、「日本の戦争」(田原総一朗)です。
 一度は彼の本の中で、自分が興味のある部分での彼の思想なりが垣間見られるならばと思っていたのですが、並んでいる夥しい本の中で手招きをしているではありませんか。
 なんてことがあったなら・・・・
もう少しで読破します。
想う事も、感じる事も、やる事も多分にあるのは分かっているのですが、随分と自分の中身が薄くなったような気がしてくるのです。
 人と話をしていても、幾通りの受け答えが浮かんでこない。
加齢から来るものか、無知が露呈してきつつあるものなのか・・・・
 引き出しも、数に限りが見えてきたように思います。
このままではいけない。
無知なら無知なりに何かをしなければと、思うのですが浮かぶのは読書だけ・・・
読んでも読んでも、身体に入ってこないのは何故?
幾度も読み返すのですが、身に入らない。
この辺が限界なのかな?
自分の限界はもっともっと前にあったような気がしています。
 観念の世界を旅をしてみたいなぁ〜〜〜〜
上の写真は、スキー講師派遣の一こまです。手前に写っているのが自分のストック。
 カレイ漁の網作りは、1日の午前だったかな?2日だったかな?
こんなものです。自分の今の頭の構造は・・・・
 久し振りに徹夜をしました。
網の目数を数えながら、思い描くのは?
一人の一生
人との出会い
流されたのか?流れたのか?


○ 2月になりました。 一気に月日が加速しているように感じます。
 1月中に終わる予定の網仕事も、浮子の方は26日に終了をしていて、アシ棚(沈子)がなかなかに終わらない。イライラしてきているのが自分自身感じます。 これが終わらないとニシン網作りに入れないから・・・・

 自立さえ 求めないとは 思うとも
 心うらはら 顧みるつき               駄句

 朝に浜辺へ雪道をかみ締めながら行きます。 厳しいしばれが織りなす、陽光の一瞬一瞬の色景色の変化が雲の影響か、何の関係かは判断がつきませんが、確かにたしかに色が深紫から変化する感じが見えてこないのです。
 流氷も知床には接岸をしているのですが、オホーツク海中部海域には流氷の接岸が遅れています。
遅れる事は自然のもたらす影響なのでしょうけれど、春先の流氷の離岸の時期が遅れるのは、漁業の年間の計画には大幅な影響をもたらします。
 昨年の中国国内での化学薬品の河川への流入で、アムール川へ薬品が流入しそれが氷結し流氷となってオホーツク海へと流れ始めたのは昨年の事です。ですから海域への薬品の影響を考えれば、流氷の接岸イコール春先の薬品の氷解となり、漁業への影響は目に見えない形で進行するのだけれど、流氷が接岸をしていない今ではまず、影響は少ないとみるべきでしょうが、オホーツク全体をみると如何とも・・・・
 スキー授業講師派遣の時間の前に書き込んでいます。
自分は楽しみでしている事が、協会指導員に迷惑になっていないのか、いつも連複して感じるようにはしています。
 出来る事に感謝
 させていただけることに感謝
 自ら楽しめる事に感謝
 子ども達と触れ合いを持てる事に感謝
 何時でも新しい発見に感謝

 唯摩菩薩心経


○ 生きて下さい。
生きていて下さい。
生きることを止める前に、少しだけ人に優しさを与えて下さい。
必ずあなたに帰ってきますから・・・・優しさが
生きて下さい。
生きていて下さい。
生きることを止める前に、少しだけ人に辛さを訴えて下さい。
必ずあなたの周りに一人はあなたに耳を傾ける人がいる筈ですから
生きて下さい。
生きていて下さい。
あなたを必要とする人が・・・・いるから
あなたに助けを求めている人がいると思うから・・・きっと

 この言葉は、昨年12月21日に新聞の片隅に、3行でしかのっていなかった小さな命の消えた事を知らせる記事を見たとき、余りの儚さにふと書き殴ったものをのせてみました。
 その子は懸命に生きようとしたのだと思います。
でも、生きようとしても生きられない命もありますから、命の重さを考えたとき比較するべきものではない事は分かっているのですが、自ら命を絶つ思いがあるなら今一度、誰かに・・・・訴え続けて下さいと・・・・生きる事は辛い事、悲しい事の連続でもありますがでも、生きていて欲しいから
 


○ 1月29日     湧別町親子いきいき協議会主催講演事業を行いました。 町文化センター内にて2会場に設営し、1会場は講演、2会場は数学者秋山仁先生主催の網走数学ワンダーランドの会員4名による、数学の体験学習と銘打ってマンホールの図形や、ひまわりの種の配列に種の保存や生き残りの羅列の組み合わせの妙等々が、親子にいきいきとした感銘を与える内容となった。 一方の1会場では網走市在住の僧侶で、学校評議員や刑務所の教科員などを歴任している方の講演にて、自分は社会教育委員会の生涯学習部会部会長として、親子いきいき協議会会長で、講演の挨拶等があるためこちらの方を拝聴していたが、同時に同じ会場内で自民党幹事長武部勤の講演が行われていて、そちらの方へは湧別町の主立った方々が陳列(?)
 朝まで降り続いていた雪がすっきりと晴れ渡り、日差しが眩いかぎりに雪面を映している様は北国ならではの一瞬の感動の造詣

 峰々に 輝きそそぐ いてる日は
 そもたちばなの 華ととらえん                  駄句

 ふむゆきに おとのさやけし 朝のあと
 ははのことばの おもいなつかし                駄句 

 姉の寿命を聞いたのは、もう後4日後です。
昨年5月岩手県水沢市にて63年の生を終えた時、何故か安堵の気持ちを感じたのは何故?
今月の27日は、東京の義兄、原田喜三郎の3回忌でした。 近親がその生を終えるとき自分には安堵の感情が湧き上がります。
いけない事でしょうけれど

 人が生きて行く上で、色々な感情が心の中に蓄積されて行くのでしょう。まして自分は凡夫
菩薩のように仏に向かっているわけではないから致し方ないと言えばそうとも言えるのでしょう。
「般若心経」を今一度、勉強してみようかな?


○ 昨日、中番屋の関野君が競技スキー少年団のポール設定の時、ポールに躓き転倒。足首が骨折し今期のスキーは絶望となるだけでなく、家業の牡蠣漁業も影響が出るだろう。当協会の基礎スキー少年団の指導員をはじめ、学校スキー講師派遣にも端的に影響が出来るのは仕方のない事でしょう。 早く完治を願うのみ・・・・
 最近、学校へのスキー講師派遣での指導でも、基礎スキー少年団の指導でも感じている事ですが、教えるスキーと楽しむスキーとの違いが明確になりつつあります。 言葉や文字にするには、凡夫すぎて的を得ていないので今は差し控えるのが賢明と、経験上思います。
自分がスキーの指導資格を持つ指導員に講習を受けて何年になるだろうか?
 日常の動作の中にスキーに通じるものは何一つもなく、落下するスキーの上に立ち、操作をするというのは如何に難しい事か、一番上の子供が小学一年に上がるときからのスキーライフですから、全日本スキー連盟の教本からは得るものがない事が、やっとわかったという年月ですから・・・・
 一度は、教授してほしかった三浦翁ですが先日他界しました。 初心者に恐怖感を与えず、効率よく上達に導く指導方法を体験したかったなぁ〜〜〜
 自分の指導する、明確な伝達方法は「視線」・・・これさえ意識して滑る事が出来れば一挙に中級者まで到達は可能であると断言できます。・・・個人差も運動能力も関係なしに・・・
 
 最近、腰が痛みます。胸にじりじりとした痛みが走るのは、肺ガンの可能性があるのかな?
加齢から来るものではなく、煙草から来るものではないかと思い当たりますが、煙草を止める気はさらさら無く、天命を享受するというのが自分の生き方。
 健康検査も何の検査も受けるつもりもなく、ひたすらただひたすら日々を健気に生くる。

 たおやかに ただたおやかに いくるみの
 なみのわたげの とびゆるはてに                駄句


○ 毎日が網作りとスキー授業、少年団との戦いが続いているようです。今月中に終わらせたいとは思うのですが、それらの間に昨年の湿った雪が粘土のようにスコップを受け付けてくれません。
毎日、身体が少しでも楽に感じたときや、網作りの合間、スキー授業の合間、少年団の合間など、トラックで2〜3回程度雪投げに排雪場所へ行き交っています。
 図書館へも、だいぶ通っていないなぁ〜〜〜〜。予約していた書籍もまだ返却をされていないようで連絡がありません。 「靖国論」(小林やすし?)
 相変わらず、世間の平和呆けは治らないようで・・・・「ほりえもん」問題が連日連日取りざたされていますが、政治の場でもその問題ばかりが野党が与党を攻撃できる切り口なのでしょうか?
 テレビでも、新聞でも・・・・
ほりえもんの問題は、確かに問題なのでしょう、検察当局が乗り出すぐらいですから、確証も重大性もあるとは思うのですが。
 今、新聞の片隅に少しだけ、テレビニュースでの放映も少しだけ・・・
YAMAHAの無人ヘリコプター中国輸出は、国賊とも言える大問題であるばかりか何年後か何十年後日に確実に、我が国にこの技術輸出がもたらす害を鑑みると、この問題に気がつかずに連日違う視点ばかりを探り出し、これでもかこれでもかとばかりに「ほりえもん」に国民の注目を釘付けにすることも、ある種の意図が隠されていると見なければならないと思うのは自分ばかりなのでしょうか?

 悲しきかな保守よ。
日本国に忠実な保守はもう生き残ってはいないのだろうか?
保守とは、親米ではなく我が国の国体にてらしての保守・・・

 海鳥の たゆる波間の すがごおり
 ゆれるすがたの ちまた千鳥かな・・・・              駄句


○ 寝込んでしまいました。
昨年12月の25日辺りから、身体に異変が起きていたんですね。
生まれて初めて、のこの時期の重い雪投げを朝晩と続けているうちに、身体のあちらこちらから痛みが走っていたのを見逃していたのです。
迂闊と言えば迂闊でした。
初めは声帯に痰が絡んでなかなかに取れなかったので、咳払いを何回でも繰り返しているうちに肺が負担過剰になっていたのです。
でも、雪投げを休めばよいのに休まない、この強情さが仇となった次第・・・
 美幸が2日に札幌に帰り、今日5日には智也も帰ります。
○ NHKシルクロードの映像を見ていて思います。
歴史の流れと、人の営みの流れが営々と続いていることを・・・・
 最近特に思うのは、物事の本質とは?
今の社会のように、複雑に入り組んで成り立っている社会というものの中で、万象を考えたりするときに底流に流れている基本となるものを、共有して取り組まなければ解決もあり得ないというように・・・・
一人で、思考するときにはどの様な発想もあり得るものでしょうが、解決に向かおうとするときにはまず例を挙げるとするならば木の成り立ちを連想してみる。
土壌があり、それに根が生え伸び、幹を通して水分や栄養分を枝葉に送る。
逆に枝葉から二酸化炭素を吸入して酸素を排出する。
この様な表面上の二面性だけではなく、木々自体が日照権を確保する戦いを経ながらも、果実を実らせ種を運ばせる工夫を巡らす。
 実に人間以上に多面性を有している、この自然の生業に学ぶべき点が実に多くあるのもゆいなるかな。
事件や事象の様々な様相に面して、解決の鍵は一つになければならないはずでは?
事象に振り回され、表層の一面を捉えて解決をしようとする事は逆に、本質から遠ざかる結果を生み出してはいないでしょうか。
 自作PCの部品を個別に注文をしました。
メモリ・・・P/S:T533UB1GB DDR2 1GB533MHZ PC-4300 ZRANK64MXB CL4 SuperTalent
OS・・・ホームページビルダー10サービスパック(毎回ケチってサービスパックを購入して後で後悔)
DVD・・・I-O DATA ATAPI対応 内蔵型DVDスーパーマルチドライブ ホワイト [DVR-4550LE] [エレクトロニクス]
 今回はこの様な仕様で組み込みたいと思います。


○ 昨日から寝ていませんが、実家への挨拶に元紋別へ行きました。午前中に落石の兄夫婦へも・・・・・
帰ってから屋根の雪下ろしです。
ベランダに積もった雪(高さ50cm×幅150cm×長さ1800cm)この部分は終わりました。
両親の部屋の片屋根(高さ50cm×幅890cm×長さ900cm)この部分は3分の1で身体が動かなくなりました。
アウトです。
美幸が仕事のために午後1時30分のバスで札幌へと帰りました。
今晩は智也が友達と、二階の部屋で湧校の同級生本間君と飲むそうです。
風邪の特効薬(乳幼児のシロップ1本と栄養剤1本)が少し効いてきたようで、身体の熱は治まっているようですがなかなかに疸が切れてくれません。
咳の方は楽になりました。
寝ている時に、本を読みあさっています。
「南方熊楠」
日本の神「上」「中」「下」
「更級日記」
「提中納言物語」
テレビでは、箱根駅伝をやっています。元旦の社会人駅伝と毎年自分の恒例です。


○ 喪中ですから、新年の挨拶はご遠慮致します。