第5編 産業と経済
第2章 農 業
(1)営農定着への曲折 (2)戦時の農業統制 (3)営農様態の推移 (4)天災とのたたかい (5)主な作物の推移
(6)〜(12)は次ページへ
(6)ハッカ王国の栄枯
(7)米づくりの消長
(8)主な畜禽の推移
(9)優良馬産地の形成
(10)酪農郷への道程
(11)農事振興のための施設
(12)関係団体および機関
第2章 農 業
(1)営農定着への曲折 | |
自給から換金志向へ | 自己資金の乏しい多くの開拓者は、とにかく自給自足によらなければならなかった。開墾に精を出すための食糧自給が耕作栽培の総てだったのである。 麦類、稲黍、馬鈴薯、南瓜、玉蜀黍、野菜が主食用、補助食用、副食用として播種されたが、無肥料でもかなりの収穫があって、自賄いのほか、あたらしい入地者に分け与えることもできたというが、ここでは故郷で栽培し、常食としてきた米への愛着はいっさい断ち切っての雑穀ほかの自給であった。 開墾の進展につれて換金作物栽培の思いがつのったが、運輸条件の整わなかった本町は生産物の市場性が低く、明治33年の作付反別は、もっとも先進的な屯田兵村においてすら、 33年耕地面積81余町、作付反別菜種300町、稲黍125町、大麦40町、小麦30町、裸麦、馬鈴薯、玉蜀黍126町、大小豆其他豆類65町、蔬菜其他100町、薄荷30町 <兵村誌> という状況で、販売作物とみられる菜種と薄荷を合わせても330町歩で40%に過ぎなかったから、奥地の状況は推して知るべしの状況だったのである。 |
菜種の栽培と販売 | 開拓という苦労は、耕地を開墾すること、食糧を自給すること、そして換金作物を作り最低必要な日用品を購入する資金を得ることを、同時に悪条件のもとで行うということであった。 当初、開墾作物として重宝がられた菜種は「囁ロ」とも記され、新墾地に作付けされることが多く、販売換金作物の第1号的存在であった。 屯田兵村では明治31年に札幌に菜種製油工場創設をみて、需要が生じ商人の買い付けが盛んになることを予期し、同32年に100町歩、同33年300町歩、さらに同34年600町歩と菜種の作付を拡大した。 ちなみに明治34年当時の屯田兵村の開墾畑地は約1,000町歩であったから、菜種が60%を占めたわけである。 そして同34年には生産した菜種を有利に販売するために、屯田兵村に共販組合が結成され、以後、耕地の拡大とともに経営面でも進歩的な動きがみられ、本町の開拓営農に指導的な範をもたらしたのである。 菜種は春蒔付終了後の新墾地に作付けできる作業上の至便と、少ない種子量で粗雑整地畑にもよく生育し、開拓の成功検査を受ける場合にも進展を早める手段としても有利であったから、現金収入源として明治36〜40年頃までは、主作物の首位にあった。 |
ハッカ王国の始動 | 菜種の首位の座に、いとも簡単にとって変わったハッカ(薄荷)、明治30年代に試作が活発になり、同34年の仲買人の来村を契機に販売作物としてクローズアップされ、作付面積は増加の一途をたどり、同35年には4町歩耕作のハッカ専業農家も現れるほどの爆発的人気となった。 屯田兵村でも同38年には共販体制を固めて実効をおさめるなど全村にハッカ熱がひろがったが、特に芭露方面はハッカ耕作の適地として、以後のハッカ王国の地歩を固めた。 こうして、入植早々に道庁の奨励作物外のハッカが、本町の開拓者によって北見国の特産物として名をなすに至ったが、その陰には、当時の入植者がハッカを、 「価格変動が激しいので投機的作物だと批判し、耕作することは山師的だと警戒した」という中で、有利性を信じて定着をはかった先人の労苦があったのである。 ちなみに、明治末期の北見国のハッカ生産は世界の約80%を占めていて、 「北見ハッカ」として世界に名声を博していたが、その4分の1は本町産のもので 「湧別ハッカ」として自負し、特に芭露方面では「芭露ハッカ」と称して主産地意識を伝統化して、戦時中に生産の低迷をみたが、生産と伝統は戦後まで続いた。 |
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産業奨励運動 | 明治43年10月20日に村長兼勧業奨励委員長兼重浦次郎の名で、勧業案が各地区の勧業奨励委員及び勧業奨励三女委員に示されたという記録がある。 次の趣旨と項目を掲げ、各自急を要するものから実施に移すよう奨めたものであった。 戊申詔書の御趣旨に基き・・・今や吾国の人口は5500余万、米一ヵ年の需要高は700余万石を要し、300万石の不足を告げ外国より輸入しつつあり。 明治70年には人口7000万に上る統計なる由、かかる状態なるに漸次生存競争激烈は免れざる所各自勤倹産を治め、公には国家のため御勧励相成度・・・・ 1,秋耕の実施 2,堆肥の製造 3,勤倹貯蓄 4,小麦及び菜種の秋蒔 5,種子の交換分配 6,桑園の造成 7,緑肥の栽培 8,産業組合の設置 9,水田の造成 10,共同販売 11,俵装の改良 12,肥料資金と共同購入 13,果樹の栽培 14,生産品の加工 15,種子の選択 16,冬期間の副業 17,納税 18,青年夜学会 19,伝染病の予防 20,時間の励行 21,労働時間の伸長 22,道路橋梁の補理修繕 |
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第一次世界大戦景気 | 大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、参戦被災国への農産物輸出が急速に進展し、わが国の経済は輸出の好況で空前の景気上昇をみ、これを「大戦景気」と称した。 特に輸出の花形であった豌豆、菜豆、大豆、小豆などの豆類と澱粉の相場が異常な高騰を示したため、本町でも豆類と馬鈴薯に作付が集中する傾向がみられ、ハッカ耕作を一時期沈滞させたものである。 この景気は大正8年まで続いたが、その中途の同5年には湧別線鉄道が本町まで開通して農産物の市場搬出に大きな利便をもたらし、重量農産物の商品化に拍車がかかったから、穀物商の暗躍とともに、 「豆成金」 「澱粉成金」にあやかって、競って輸出作物の耕作に傾いたのは、やむを得ないことであった。 ちなみに、大正5〜6年ころの青豌豆は、地域によっては1俵5円が5倍の高値を示し、澱粉も同5年に4円であったものが、その後15円近くまで高騰したといわれ、一部では、 農村のおかみさん達は丈夫な歯まで抜いて金歯に入れ替えた。 というナンセンスまでささやかれたものであった。しかし一面で、この好況は大正2年の大冷害による凶作や不景気で、漁場や造材に稼働するなど農外収入に依存しなければならなかった農家経済を立て直し、生活水準も手製の衣類から市販のズボン、メリヤス、ゴム靴などに移行するなどの恩恵をもたらしたものであった。 当時の狂奔ぶりを示す資料として、網走支庁管内 「拓殖状勢」から豆類の作付状況をみると、本町の増反は次のようであった。
また大正12年度家屋税賦課台帳では、 土台付 741棟(52・2%) 掘 立 419棟(29・5%) 草 葺 258棟(18・3%) 計 1,418棟 という記載があり、全棟数から同年の農家専業戸数1,115戸を差引くと303戸、その303戸がすべて市街地の土台付家屋と見なしても、あとの土台付家屋438戸は農家であり、これは農家戸数の30・9%に相当し、これらは大戦景気で新築改築されたものと思われる。 家屋の改造に伴いストーブが著しく普及し、タンスや柱時計なども整えられ、他府県では大正7年に米価の暴騰による米騒動がみられたが、本町では米食率が向上し、のちの水田耕作の導火線ともなるなど、農村生活は大きく塗り替えられて、向上を果たす結果となった。 |
第一次世界大戦景気 | 大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、参戦被災国への農産物輸出が急速に進展し、わが国の経済は輸出の好況で空前の景気上昇をみ、これを「大戦景気」と称した。 特に輸出の花形であった豌豆、菜豆、大豆、小豆などの豆類と澱粉の相場が異常な高騰を示したため、本町でも豆類と馬鈴薯に作付が集中する傾向がみられ、ハッカ耕作を一時期沈滞させたものである。 この景気は大正8年まで続いたが、その中途の同5年には湧別線鉄道が本町まで開通して農産物の市場搬出に大きな利便をもたらし、重量農産物の商品化に拍車がかかったから、穀物商の暗躍とともに、 「豆成金」 「澱粉成金」にあやかって、競って輸出作物の耕作に傾いたのは、やむを得ないことであった。 ちなみに、大正5〜6年ころの青豌豆は、地域によっては1俵5円が5倍の高値を示し、澱粉も同5年に4円であったものが、その後15円近くまで高騰したといわれ、一部では、 農村のおかみさん達は丈夫な歯まで抜いて金歯に入れ替えた。 というナンセンスまでささやかれたものであった。しかし一面で、この好況は大正2年の大冷害による凶作や不景気で、漁場や造材に稼働するなど農外収入に依存しなければならなかった農家経済を立て直し、生活水準も手製の衣類から市販のズボン、メリヤス、ゴム靴などに移行するなどの恩恵をもたらしたものであった。 当時の狂奔ぶりを示す資料として、網走支庁管内 「拓殖状勢」から豆類の作付状況をみると、本町の増反は次のようであった。
また大正12年度家屋税賦課台帳では、 土台付 741棟(52・2%) 掘 立 419棟(29・5%) 草 葺 258棟(18・3%) 計 1,418棟 という記載があり、全棟数から同年の農家専業戸数1,115戸を差引くと303戸、その303戸がすべて市街地の土台付家屋と見なしても、あとの土台付家屋438戸は農家であり、これは農家戸数の30・9%に相当し、これらは大戦景気で新築改築されたものと思われる。 家屋の改造に伴いストーブが著しく普及し、タンスや柱時計なども整えられ、他府県では大正7年に米価の暴騰による米騒動がみられたが、本町では米食率が向上し、のちの水田耕作の導火線ともなるなど、農村生活は大きく塗り替えられて、向上を果たす結果となった。 |
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大戦後の反動不況 | 湧きに湧き、浮きに浮いて、我が世の春を謳歌した大戦景気ではあったが、約5年ほど続いた好況は、大戦の終結と交戦国の復旧で、その後は空前の一大不況に暗転した。 参戦被災国の復旧による輸出の激減は、生産過剰となって相場の暴落となり、大戦勃発以前よりも安値を記録し、高値追いの思惑がはずれたばかりか、販路も求められず、 売れ先がないので、せっかく収穫した豆などは発芽したり腐ったり・・・・しかたなく家畜の肥料にした。 米は高騰するし生活は苦しいので、いもを食って出稼ぎに行くものが多かった。 <計呂地> という惨憺たる窮地に陥落したのである。加えて輸出作物の連作強行による地力の低下が表面化し、大正8,9,12年には気候不順による災害の追い打ちがあって、反動不況の様相は悪化の一途をたどった。 こうした中で、大正11年末には各地に金融機関の行詰まりが発生し、同15年5月には、当時旭川から道東に根を張り、農民とかかわりの深かった糸屋銀行(旭川)が破産するという事態に陥った。 道庁では関係町村の要請を受けて、その対策として北海道拓殖銀行に糸屋銀行のあとを継承させたが、昭和2年3月ついに突入した金融恐慌状態を反映して、徹底した担保保証主義となり、本町でも大きな事変として、 昭和に入り信太寿之の所有であった当地域の全域は、北海道拓殖銀行の所有(昭和2年4月13日)となり、明治末期より大正にかけて直接的なつながりのあった信太との関係は、ここで完全に切れ新しい局面をむかえた。 つまり信太の小作から拓銀の小作に変わったのである。 <信部内> という変転がみられた。 政府は立て直し策として、昭和4年11月に金輸出解禁を断行したが、世界的な経済恐慌の中では効を奏せず、貿易不振に陥った結果は、生産縮小が行われて空前の失業者を生じ、相場は有って無き低落に追い込まれ、そのしわ寄せは農産物価格の慢性的低落となって農村経済を圧迫し農業恐慌を現出した。
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天災の二重苦 | 農業恐慌にあえいだ農民の中でも、本町も含めて北海道の農民のあえぎは殊のほかであった。 それは、北海道を襲った連続的な天災による、大凶作が重なったためであった。 昭和6,7,9,10年と続いた大凶作の痛手が、いかに深刻なものであったかについては、節を改めて記述する。 |
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更生営農の営み | 反動不況の中で、本町の場合はハッカ耕作の復興があって、わずかながらも曙光をみた。 豆景気に押されて生産減に陥っていたハッカが、大正8年になり1組あたり9円50銭=3月現在から、8月には35円と急騰したのが誘因で、これによってハッカ耕作は再び軌道に乗り、以後、順調な発展をみるものとなった。 しかし、総体的な農家経済は農業恐慌と凶作の二重苦のもとに推移したことはいうまでもないが、このような背景の中にも農民は必死に活路を求める力を潜在させ、自力更生の道を模索するようになった。 ハッカ耕作の復興も、もちろん、その一例であったが、活力はやがて、より豊かな視野と発想をもたらした。 要約すると、 【作付反別】 <村勢要覧>
(2) 大戦景気に起因した米価の上謄と、米の主食としての市場の安定性に着目した水稲の試作。 (3) ビート耕作に付帯して、地力の増進を図る大廐肥増産のための畜牛飼育による有畜農法への転換。 (4) 農業構造確立の一環として、馬産改良を志向し、所得税の一翼とする。 (5) 耕作所得の不安定と減少を補うための乳牛飼育による複合的農業経営。 (6) 化学肥料(金肥)の効果的活用による生産量の安定維持。 (7) 適地適作と輸作のかね合いにゆる地力の保持。 などが不屈の農民魂によって営まれ、それはやがて、農事全般の改善を促進するために、 (1) 農業技術員の配置。 (2) 農事実行組合の結成。 (3) 産業組合の設立。 と、体系的な営農活動へと進展した。 これらの営みについては、あらためて後節で詳述するが、漸進した成果の一端を抜粋してみよう。 【馬産状況】 大3=219頭 大15=500頭突破 【乳牛飼育戸数】 大14=28戸 昭6=84戸 昭8=192戸 【網走支庁管内販売肥料消費率】% 昭元=100 昭3=120・3 昭5=158・4 昭7=182・8 |
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農山漁村経済更正運動 | 概述した反動不況の慢性長期化による農家負債の累増と、農村経済のどん底状態に対し、これを打開するため政府は、昭和7年10月6日に 【農山漁村経済更正計画に関する訓令】 (農林省訓令第2号)を発して、生産販売、購買の統制、金融の改善、産業組合の刷新、産業諸団体の連絡統制、備荒共済施設の充実などを骨格とした施策を推進することとし、この実施を地方庁に強調した。 と同時に、併行して精神教化を骨子とする「自力更生運動」も幅広く展開され、道庁でも営農合理化方針を樹立して、告論、訓令を発して町村に計画の樹立実施を勧奨した。 本町においても、51名の経済更正計画実施委員を委嘱して着手したが詳細は業政変に記述したので参照されたい。 |
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米作への取組み | 故郷で米を主食として生活してきた開拓農民の、米作への郷愁は絶ちがたいものがあった。 それは米食の慣習にはぐくまれた執念であり、味気ない雑食にあきたらない本能的な欲求でもあった。 この切実な心情は、古くから個々の試作の営みがあったが、いずれも尻切れに終わっていた。 したがって、 米は正月、盆、祭のときだけで、12月はじめに冬山造材に行き、正月近くに山から下りてくるときに、親方から5,6升の米を借りてそれを正月用にした。 という古老の話でもうかがえるように、米の消費が極めて少なかった。 その後、大戦景気などで農家の米食が伸びつつあったのもつかの間、大戦景気で上謄した米価が、その後も高値相場で推移し、反動不況に泣く農民の消費をさえぎってしまった。 このことが米の自給を切実なものとし、いっぽう田尾戦後の畑作農産物の価格下落にもかかわらず、比較的に価格の安定した米の生産奨励が、政府の食糧増産制作に併行して行われたこともあって、自給と販売の両面から米作の有利性が認識され、大正8,9年ころから試作〜造田が進んだ。 大正13年7月27日には美幌尋常小学校において、北見造田大会が開かれ、宣言決議を行い、実行委員をあげ、顧問に木下、小池の両代議士、前田、野坂、貴田、田口の各道会議員、林田支庁長および各町村長を推した。 決議は、 (1) 治水排水の実行 (2) 拓殖銀行よりの造田費借出 (3) かんがい工事の7割補助 というもので、本町からも数名の実行委員が選ばれ、水田造成が本格化することとなった。 その後、米は昭和6〜10年(8年を除く)の冷害で減反が進み、自家用程度の耕作に低落したが、根強く続耕したのには、昭和17年に制定された 「食糧管理制度」があった。 この制度は政府が生産者から保証価格で直接買い入れて保管し、消費者に適正価格で売り渡すというもので、生産者価格と消費者価格の二重価格による直接統制方式であって、生産者価格は、従来も他の農産物より比較的安定していた米価を、さらに相場に左右されない安定したものとしたから、自家保有米以外の売り渡しは大きな魅力であった。 参考までに第一次世界大戦以来の米価と、食糧管理制度以降の米価を比較してみよう。
しかし、地理的に米作の北限地帯にあったことから、種々の品種改良や栽培技術の改善が行われたものの、冷害に左右されやすいという弱点は完全に克服されず、やがて本町農業の主要作物の座から消える運命となった。 詳細は節を改めて記述することとする。 |
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戦時統制下の営農 | 日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)と長期戦を闘う過程においては、総てが国家統制下におかれ、統制配給による営農資材で、指定された国策作物の耕作に専念し、生産物は国家管理に近い状態におかれるというありさまであった。 従って、軍需保証的な価格に対する配慮はあったものの、特産、名産といった地域の伝統的作物は極端に減反され、ときには天災にもろく採算がとれないことも覚悟のうえで、国家のため、戦争のために 「奉公」という名の営農を強行しなければならなかった。 このためハッカの作付が減少したのは当然であった。 なお、戦時の統制については節を改めて詳述することとする。 |
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畑作経営の転換 | 戦後の食糧難の一時期を経て、逐次農業統制が解除されるにおよんで、 「本年中薄荷栽培面積一挙に倍の250町歩に拡大した」<昭24事務報告>とあるように、食糧本位の作付から商品作物への転換がみられ、また、自由経済下の営農確立のため、自給肥料増産奨励策として堆肥場および尿溜設置費100万円の転貸、道有貸付牛の導入、畜牛購入資金転貸条例の設定など各種施策が実施されて、乳牛飼養の志向が高まり、昭和25年の乳牛関係は、 飼養戸数250戸 飼養頭数568頭 をかぞえたが、時流に対する本町の農業は、 (1) 食糧事情の好転による食糧作物重点の営農が目標を失った。 (2) 農産物価格の自由化は貿易復活による農産物輸入もあって、昭和27年以降生産過剰による価格の低落傾向をみた。 (3) 退潮していた米作にあわせ、昭和28年以降の凶作で畑作も打撃を受けて農業収入が激減した。 という事態に直面し、重大な転機にたたされた。 このため町農政をはじめ営農全般に再検討が加えられ、寒地農業確立に向けて思い切った有畜経営の選択となり、昭和初期に志向された有畜複合農業は、大きく酪農本位の形態に転換され、町農政の積極的な助長策と農業協同組合および農民の意欲的な取り組みによって、10年を待たずに次の成果をみた。 昭35 乳牛飼養578戸 2,365頭=専業農家の60%が酪農に転換 昭37 飼料作物反別2,274町歩=全耕地面積の43・3% 昭39 東地区水田全面廃耕 そして、昭和40年代に入って生産額のうえで、作物収入を上回る畜産収入農業に変容したことは、前章で記したところである。 |
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(2)戦時の農業統制 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時局作物 | かって、陸軍第7師団が旭川に設置(明32)されたとき、上川盆地の農民に新しい恩恵がもとらされたという。 それは、糧抹(米、麦、野菜)や馬糧(燕麦)の供給を近隣町村に求めたからであった。 その後、日露戦争(明37〜38)で兵力が拡充されて、それら農産物資の軍需が拡大されると、次第に全道に調達がひろがっていった。 しかし8,本町方面は、それにかかわる記録はないし、開拓状況から考えて、かかわりがあったとは思われない。 第一次世界大戦〜満州事変と進行するにつれて、本町方面にも軍需とのかかわりが反映したもので、これを称して 「時局作物」というのである。 時局作物が端的に営農を左右したのは、日華事変勃発(昭12)後で、長期戦に備えて国策としての増産奨励が行われたのである。 食糧としての米、麦、大豆、馬鈴薯、玉蜀黍、馬糧としての燕麦、大豆、甘味としてのビート、繊維としての亜麻などは、その代表格として位置づけされ、軍需作物としての性格を深めていったのである。 なお、時局作物の増産については後述する種々の統制が行われたのであるが、本町における作付状況に、その推移をみると表のようである。 【単位・町】
なお、この表の数字については、応召や軍需工業への徴用による就労人口の減少などによる耕作面積の縮小(不作付地の増大)が、次のように進行していたことを考えれば、ことさらに時局作物の色彩を強く感じるのである。 【不作付地調(下湧別村)】 昭14 81・1町 昭15 84・2町 昭16 268・2町 昭17 385・4町 <北海道統計誌> |
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営農物資統制と配給 | 昭和13年に自由経済は統制経済に移行し、 「物資統制令」が交付されて、一般民需の消費抑制が打ち出されたが、農業生産に不可欠の肥料も配給制となり、同13年に 「肥料配給統制規則」、翌14年には「肥料調整規則」が布達されて、肥料消費は食糧作物が優先し、作物ごとの施用順位および基準施用量が定められ、不急の作物には施用制限ないし施用禁止借置が発せられ、ハッカは施用が禁止されるという厳しい推移となった。 しかも、太平洋戦争(大東亜戦争)突入(昭16)後の肥料生産と供給の悪化は、生産増強のかけ声とは裏腹に営農をさいなみ、農民は配給肥料の不足を補うために堆肥の増産、緑肥作物の作付にも狂奔せざるを得なくなったが、地力の減退、生産の不振はおおうべきもなかった。 それは、昭和15年からの米の配給制度事情の悪化(商業の章参照)や、次の全国的な肥料供給量が明らかに物語っている。 【主要販売肥料の供給量】 <日本現代史大系>
一方農機具も鉄鋼原料が軍需(兵器)本位に統制されて窮屈となり、昭和15年には「農機具配給規則」の二つで流通経路は示されたものの、生産の激減で肥料同様に配給が少なくなり、農家は破損した農機具の修理に腐心し、肥料の減少とあわせて生産水準の維持が困難な状況におかれた。 |
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生産管理と組織統制 | 太平洋戦争(大東亜戦争)に入ると一段と統制は強化され、昭和16年12月に勅令をもって「農業生産統制令」が発布され、同令に基づく「農業移動統制規則」も布達されて、農会が職権で、 (1) 地区内の農業者に対する作付統制 (2) 労働力不足を補うための農作業調整 (3) 農機具および役畜の共同利用の指令 (4) 離農統制 などを行使できることを規定し、それらの策定計画と結果を地方長官に報告することを義務づけしたのである。 次いで昭和17年には「食糧管理制度」が発足し、米については善良を国が買い上げて管理することとなったが、こうした一連の法統制と併行して、その推進体制の整備強化が行われ、次のようになった。 (1) 生産計画、供出計画、配給割当などの農業統制の策定は農会の責任とする。 (2) 肥料、農機具、農薬など営農資材の供給業務は商社、商人を排除して、統制会社〜産業組合〜農家の経路で行う。 (3) 農産物の集荷業務は仲買商人を排除して産業組合に一元化する。 こうして農会と産業組合が末端農政の推進機関として。国政〜道政〜村政の手足となったわけであるが、昭和19年にいたって、されに「農業団体法」の公布があって、農会と産業組合は統合されて農業会の設立となり、生産から供出までの一元的統制が行われた。 |
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戦後の延長 | 戦後の食糧事情は昭和20年の大凶作もあって、極端な窮迫から配給の遅配、欠配がつづき、社会不安から食糧危機を現出したことは行政編にも記述したとうりで、増産、供出の統制は踏襲強化された。 そうしたすう勢の中で、戦時中に制限作物として白眼視されながらも500町歩台の作付を維持してきたハッカまでが、宿料の割当供出量を超える生産をあげるため(自家保有食糧確保のほか、横流しも考えてか)、昭和21年192・2町歩、翌22年179・3町歩と作付を減じ、特に主産地である芭露方面の農業構造を変容させる結果となり、戦後復興後の再建に困難性を残すものとなった。 政府は打開の一策として、昭和22年3月に挙薄津促進のため、衣料などの報償物資、肥料や農機具の特別配給などを実施して、公定価格の不足を補う挙に出たが、インフレーションの昂進のテンポには追いつけず、 ビートの如きは糖蜜にすると飛ぶように売れることから、副業的な自家製造が行われて、精糖会社に原料不足を嘆かせ、その出荷奨励策として出荷者にたいする精糖還元を行ったが、この管弦楽が1斤500〜600円で闇売りされた・・・・<古老談> というありさまであった。 さらに同年7月にインフレ抑制の物価体制の一環として、公定価格の大幅改訂が行われ、米を例にとれば、昭和20年当時の12倍弱に当る1俵700円に値上げされたが、インフレーションや闇の高騰物価と見合うものではなかった。
暗躍する闇ブローカー、供出督励の目をくぐる農家の横流し、必死の買い出し庶民、取締に狂奔する警察をはじめとする司法当局、それは、いまにして思えば、例えようのない敗戦のあがきの一図であった。 参考までに終戦混乱期の主要食糧の作付反別を表にしてみよう。 【昭和25年の作付】
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(3)営農形態の推移 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経営類型 | 初期開拓者を大別すると三つの類型があった。 その一つは殖民地貸下げを受け手入地し、成功検定により自作農となったケース、その二つは農場など大地主の所有地に小作農として入地したケースであり、以上の二つは他の一般町村と同じであったが、本町の場合は別格の屯田兵という三つめのケースがあった点に特色がある。 兵村は、明治36年に屯田兵制度の廃止により、屯田兵も成功付与に準じて自作農となり、同43年の分村で上湧別村に帰属し、本町の農業史のうえでは短い歴史に終わった。 また分村は学田農場関係の地域も上湧別村に帰属することになったので、小作入地者の面でも大きな変動があったわけである。 したがって本町の農業者の経営類型の初期的定着は大正年代初期ということになる。
次いで経済更正計画の推進から戦時統制農業へと進むが、太平洋戦争(大東亜戦争)中の資料がないので、日華事変までの推移でみると、理由が判然としないが農家戸数減を小作農で占めていることと、総体的に兼業化(副業化)が進んだことを示している。
太平洋戦争(大東亜戦争)中に食糧増産のために自作農創設が推進され、昭和17年には第一弾の農地解放が行われ(行政編参照)、戦後は抜本的な農地改革(行政編参照)が行われて、ほぼ自作農体制が整い、経営類型は大きく塗り替えられた。
昭和36年に「農業基本法」が制定されて、農政の一大転換がみられ、同時に進行していた農村の過疎現象で、経営類型は選択的拡大経営と省力化のあおりにより大きく変転した。
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農用地の規模 | 屯田兵村開拓後の明治35年当時の耕地は、「全村耕地面積3,116町歩の3分の1が兵村」<殖民公報>と記録されていたものが、同38年には、 現在耕地田3反、畑4,818町3反にして主要産物は薄荷、菜種、大小豆、裸麦、大麦、玉蜀黍、馬鈴薯などにして、明治37年の輸出高は概算10万円<殖民公報> と一般農家の耕地も拡大した。しかし、明治43年の上湧別村の分村により、耕地面積は1,252町7反歩と約4分の1に激減し、本町の農業規模は著しい縮小をみた。 その後、同45年に志撫子川沿670余町歩の貸付告示と信部内の信太農場の開設、大正4年には計呂地および床丹原野の増区画貸付などで、入植者が増加し、大正元年60戸、同2年111戸、同3年44戸など開拓が進んだ。 ちなみに大正2年の耕地面積は、1,495町歩であった。 その後の推移としては、
があるが、戦争の影響は不作付地の増大となり、せっかくの耕地を荒廃させたことは概述のとおりである。 ちなみに、戦後の昭和23年の耕地は田187町歩、畑4,802町歩の計4,989・8町歩であった。 戦後の本町農業が、抜本的な見直しにより構造改革が進行したことは概述したとおりで、酪農の進展とともに草地も営農上の大きなポイントとなった。
終戦までの1戸当りの経営規模を明らかにする資料は見あたらないが、農家と数と耕地面積から単純計算すると、農家1戸当りの経営面積は次のようであった。
本町が酪農を志向し、その後、農業基本法制定による農政の転換や過疎化現象があって、機械化経営が進行すると、1戸当たり経営規模は着実に拡大されていった。 |
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畜禽飼養の規模 | 畜禽導入の動機は、まずは自家用ということで、役畜としての馬、動物タンパク源としての豚、鶏が粗放飼育で家畜として農家の生活に加えられたのにはじまり、やがて繊維源としてのめん羊が・・・・ここまでは他となんら変わらない本町の様態であったが、たび重なる天災の試練から、有畜複合経営〜酪農本位経営へと意義ある展開をした点に、大きな特色を持つにいたった。 詳細は畜産関係の項で後述するとして、飼養経営の推移の概要を掲げるが、畜禽飼養には時代の波が4つあって、その時代の波ごとに畜禽飼養の様態が特色をみせている。 (1)自家用の時代 流れとして、第一次世界大戦後の反動不況〜昭初期の天災で営農が疲弊するまでは、農民の中に畜産という格付けは明確でなかったと思われる。 日々の開墾〜即自給食糧の初期から、換金作物の模索〜菜種、ハッカの栽培、大戦景気の成金作物と推移した中では、土壌相手の営農以外に考える余地がなかったと思われるからである。 したがって家畜といえば耕作器具導入による耕馬の必要が第一であって、耕作営農の動力として家族同様におかれたのであった。 また鶏の場合は故郷の伝に習って、手っ取り早い栄養源としたのであった。 古い資料が内ので裏付けできないが、大正15年の「村勢一斑」にその片鱗がみられる。 馬=1,292頭、牛=111頭、豚77頭、緬羊=6頭、山羊=12頭、鶏=5,257羽、七面鳥=8羽 (2)耕馬、産駒、軍馬としての馬産本位であった時代
(3)馬産停滞、酪農志向、そして養鶏模索の時代
(4)馬匹減退、酪農躍進の時代
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主要作物の作付 | 営農様態の変遷とともに作物の作付にも変動をみたことは、すでに関係各項で記したとおりで、昭和25年までの主要作物の作付状況も概観してきたが、酪農進展後の作付状況にふれていなかったので、ここに概要を掲げる。
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肥料施用 | 初期の開拓の頃は土壌が肥えていて作物ができ過ぎるほどであったから、施肥のことなど考えることはなかったという。 それは原生林が長い歳月を経て、天然の腐植をくりかえし蓄積し、ゆたかな壌土を形成していたからであった。 従って無肥料耕作が長い間つづけられ、 「ハッカなど5〜6尺にも伸びて、刈取り後の残り茎を刈払わなければ作業に支障があった」 「作物全般に茎や葉がぐんぐん育って、これでは実がいつなるのかと心配した。茎や葉の分が実にまわればなあと思ったことがある」 といった開拓者の話が伝えられているほどである。 しかし、こうした経過は知らず知らずの間に地力の消耗減退を招来し、大正8年以降の経済更正計画の中で反省されることとなったのは当然の帰結であった。 「金肥」(金で買う肥料)と呼ばれる肥料の最初は、「魚粕」 「大豆粕」 「油粕」などであったが、より農産物の商品化のうえで効果的な生産の安定剤として、資本主義工業が「過燐酸石灰」 「硫安」 「石灰窒素」 「硫酸加里」を市場に流通させ、政府も増産制作として金肥施用を奨励したので、明治年代中期から、次第に全国に普及するようになった。 本町で金肥(化学肥料)の施用がいつごろから行われたかは明らかでないが、次の記録や証言から、大正初期に商人の売り込みで過燐酸石灰の施用がはじまったものと思われる。 4号線の伊藤商店が最初に過燐酸を仕入れたのは汽船当時で、航行中に海水を被って損害を被った。 次いで生田原駅(大3・10開業)を利用し、230俵積の貨車で1〜2車仕入れたが、販売は容易でなかったようだ。<古老懐旧談> しかし、当時の農家の肥料知識はきわめて乏しく、登熱を早める過燐酸石灰の肥効のみが珍重され、麦類などの主要作物に薬品のように貴重なものとして施用されたに過ぎなかったという。 また、大戦景気当時の豆類栽培が無肥料略奪法であったことから、 農会技術員が肥料知識としての3要素(窒素、燐酸、加里)を話しても、皆目理解できず、堆肥のみを肥料と考えていた。 <古老懐旧談> というありさまであった。 大戦景気後の地力消耗を農産物物価の低落による農業恐慌は、農政の有畜農業による堆厩肥増産と金肥の併用を奨励する指導となり、これによって化学肥料に対する認識が高まるとともに、施用が促進される結果となったが、本町農会では、昭和6〜7年の凶作対策に、産業組合などと図って肥料資金の貸付を行って、営農救済を行ったほどであった。 ところが、日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)と悪条件が累積すると肥料の供給が窮迫し、堆厩肥および緑肥の増産を余儀なくされた。 このことについては戦時の農業統制の項で述べたが、 昭13 肥料配給統制規則 昭14 肥料消費調整規則 昭18 堆肥増産奨励金制度 といった借置に対して、本町では次の対応があった。 昭12 コンモンベッチ13町4反、クロ−バー23町=以上緑肥作物 昭14 コンモンベッチ9町4反、クロ−バー23町9反=以上緑肥作物 昭15 コンモンベッチ11町5反、クロ−バー85町5反=以上緑肥作物 昭18 堆肥増産督励班設置 戦後、工業生産の復興とともに、肥料使用量も、昭和26年には戦前の水準を超え、耕種肥栽培技術の進歩とともに、有効に試用されるようになった。 また、 硫酸根肥料 硫安、過燐酸石灰、硫酸加里 無硫酸根肥料 尿素、溶性燐肥、塩化加里 と多岐な試用がみられるようになったが、土壌の酸性化に対する警戒から、無硫酸肥料の試用が増加したのが戦後の特色である。 本町では、化学肥料の多用が不可避の傾向による土壌の悪化矯正のため、酪農推進にあわせて自給肥料の生産を奨励し、施肥の合理化を図って今日におよんでいる。 |
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農機具の改良 | 開拓使の開拓方針は大陸式農法を指標としていたから、様式農具を導入することを志向し、明治7年7月には 「西洋農具貸与規則」を制定したほどであった。しかし、本町の初期の入植者は故郷での主として 「米作り」の経験しか持たない人達であったから、ほとんど鋤鍬を主とし、鋸、マサカリ、鎌を頼りに開墾に挑んだのであった。 けれども平鍬は労多くして能率があがらないことから、丸鍬が考案されるにいたった。 この丸鍬は古丹(中湧別)の笹館豊吉の造ったのが初めといわれているが、これで能率が倍加したという。 ほかにも、 唐竿(脱穀脱粒用)、柄棹打台(同)、唐箕(夾雑物調整用)、千刃(摘籾摘花用)、手回し扇風機(調整用) など手作業農具が用いられていた。 しかし耕馬が導入されるようになると、農具から農機具へ様態が移行し、プラオ(耕転用)やハロー(砕土用)が用いられるようになり、 徳弘正輝は所有していたが、使用したのは見受けなかった。<明27入地の土井菊太郎談> 宮崎寛愛がプラオを岩内から取り寄せて使用法を伝授した。 <古老談> などのいい伝えがあるが、入植初期で馬が少なく、しかも馬格の小さい土産馬であったから、利用の域にいたらなかったのかもしれない。 明治30年代に入ると、 35年末の耕地面積は3,116町に達し、原野農民の総数650余戸、其内約3割は洋撈(プラオ)、肥撈(ハロー)<明36「殖民公報」> とあり、1戸平均の農用地の増加をみるにおよんで、プラオやハローが普及しかけたようであるが、入植者の経済事情は可知を認識しながらも入手できなかったのが実態であったと思われる。 小川清一郎の「開拓の記録」に、 明32 入植 明36 貸付土地の成功検定合格、2歳馬21円で買入れ。 明37 3歳馬にプラオを借りてきて耕転の練習をする。 とあるのが、そのあたりを物語っている。 大正年代に入ると工業技術や農機具の考案が進み、昭和年代にかけて長足の進歩改良が農機具にみられ、大正年代に「手曳除草器」 「畜力除草器」 「足踏式脱穀機」 「たこ足式水稲直幡機」などが、昭和年代に 「畜力馬鈴薯掘取機」 「動力脱穀機」 「牧草刈取機」などが相次いで本町にも顔を出しはじめ、漸次普及していった。 しかし、戦時下の物資統制は生産供給が著しく減退し、せっかくの農機具改良普及は全面的に足踏み状態に陥った。 |
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機械化革命 | 戦後の農業経営の一大変革の一つに機械化による近代化があげられる。 その発端となったのは、昭和25年の朝鮮動乱(南朝鮮支援する国連軍=アメリカと、北朝鮮を支援する中国の朝鮮半島解放戦争)を景気とした、わが国工業界の復活と経済の上昇で、鉄鋼工業、金属工業、石油工業の飛躍的発達が、農業事情をも一変させるすう勢となったのである。 加えて農村電化が進行し、石油エネルギーと電気エネルギーを背景とした各種動力機械が次々と開発されたのである。 本町における初期の機械化のあら筋をみよう。 昭21 農業会が軍用キャタピラ式トラクターの払い下げを受けて農耕用に改造(燃料は木炭)して2〜3年使用した。 昭25 個人で「児童耕転機」を導入する者が現れ、芭露農業協同組合でもトラクター牽引の深土耕を兼ねる耕転機を導入。以来昭和27,8年ころから耕転機が普及しはじめた。 昭25 「ハッカ蒸留機」および「全自動脱穀機」が導入された。 昭32ころ 動力搾乳機「ミルカー」登場。 昭32 国有貸付トラクター1式を導入した。 昭46 「ハッカ刈取機」が導入された。 農業機械が大型化し、本格的な機械化革命が進行したのは、なんといっても昭和36年制定の 「農業基本法」によるところが大きく、同法では産業所得格差の是正の一環として農業の近代化を促進するために、 1,営農の選択的拡大による大型化 1,機械化による営農の省力化 を相関させて推進することを謳っていた。 たしかに理想的で、開拓使が指針とした大陸式農法が、開道90年で開花した形になったのであるが、現実には、 (1) 農業の先行き不安から離農者が続出して、その跡地取得から選択的拡大が促進された。 (2) 若年農業者(後継者)の転出で労務事情が悪化し、その補完として必然的に機械化が促進された。 という厳しい農村事情もあったのである。 増加の経過を次の表からみてみよう。 この間、農業構造改善事業など各種補助事業(行政編参照)が実施され
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(1) (2) (3) (5) 百年史topへ 第1章産業構造の推移 昭和の小漁師topへ
(4)天災との戦い | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
農業災害 | 気象条件に大きく左右される農業は、つねに天災を気にしながらも、災厄と同居の宿命を背負って経過した。 ことに低温積雪地帯にある本町の農業の歴史は、幾多の災害を乗り越え克服して、基幹産業としての伝統を綴りつつ今日におよんだと言っても過言でないほど、水害、風害、霜害、冷害などの被害が累積している。 開拓初期の被災については、状況資料がなく、明らかにすることができないが、被災の大きな場合は農業放棄にまで発展したほど深刻なものであったことが想像(次項の学田入植者の例など)され、開拓と営農の進展を大きく阻害する結果となっていたことは確かである。 また、それに対する救済策がどのようであったかも、実態を明らかにする資料はない。 大正年代以降については、いく分資料があり、昭和年代にはいると、かなり詳細な資料が残されているので、それなりに記述しよう。 |
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洪水の災禍 | 水害については、その発生状況を防災編で詳述しているので省略するが、次のような痛ましい状況が伝えられている。 明治31年9月6日の洪水で農家の不安が昂じ、学田農場入植者は飢餓の恐怖から士気を失い、ついに湧別その他に逃亡するものが続出した。 <学田> 季節的な8,9月の洪水は、収穫を目前にしてすべての農作物を水底に沈めた。 積み込んだ麦類のニオ(刈り取ったものを畑に円筒状に野積みしたもの)は無惨にも押し流され、流れ猿南瓜や西瓜の実を見送る耕作者の表情は、暗く悲痛なものであった。 同時に農家経済を破壊し尽くし、流域農業の発展を著しく阻害したのである。<川西> 以下、次項からは水害禍を除く凶作について、年代的に記述することにするが、戦後 「農業災害補償法」=農業共済組合が発足するまでは、恒常的な法制に恵まれなかったので、再生産の道は特にけわしかったのである。 |
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明治時代の災害 | 故郷の府県の農法をたよりに入地した初期の開拓者にとって、北辺の自然の厳しさは想像をはるかに超えるものであって、予備知識や対応策の乏しい耕作は、作付の適期を知るはずもなく、 作付後れし為及新墾故霜害多々ありき<明29河野野帳> というように、晩霜あるいは早霜のため、しばしば霜害を被むったようであるが、開拓者にとって最初の大きな受難は、明治25年の大冷害であった。 それは、 春季以来気温低く、作物の生育不良にて遂に凶作に陥りたるが、就中稲は希有の凶作となった。 即ち春季以来気候寒冷の為例年に比し播種並に種苗期遅れ、爾来降雨なく、早天続きたれ共気温割合に低く稲草の最も必要とする高温を受くること能わざりし為、稲茎は萎縮し生育不良にして甚しきは枯死腐敗したるものすらある状態であった。 <北海道凶荒災害誌> と記されていて、畑作の状況は明らかではないが、後年の大冷害の例からみて、本町もこの天災をまぬがれなかったものとみられる。 のちに昭和6,7年の冷害に匹敵する気象の変調が原因であったと伝えられていることが、そのあたりを物語っている。 |
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大正時代の災害 | 大正2年に明治35年以来の大冷害に痛められている。 作況調べでは平年作の56%弱(全道平均)の収穫であったと記録されており、 平年に比し各地共気温著しく低く、降霜も平年より約半箇月早く、9月14日初霜を見、加うるに8月27,8日の両日には暴風雨の襲来あり、之が著しく作物の登熱を害し遂に未曽有の大凶作を現出するに至った。 移住後日浅き者は僅かに茅屋に雨露を凌ぎ、糧食欠乏するも衣服、什器、家畜等売却すべき物無く、巳むなく山野に木草を求め又は楢の実を拾ひ集めて食すると云ふ悲惨なる状態であった。 <北海道凶荒災害誌> 9月14日の大霜害は豊かに稔った作物に全滅に近い打撃を与え、馬鈴薯のみで飢えをしのがなければならなかった。 <信部内> の記録のように厳しく、農民の生活を窮迫に追い込むものであった。 このため 「北海道凶作救済会」が設けられて義捐金募集が行われ、食糧の供与、金品の至急が行われたが、支給対象は地方税戸数割の2分の1に当たる82銭の納付者中、4分作以上の被害を受けた者の4分の1に当てられ、網走支庁管内では罹災戸数2,998戸のうち229戸が、その対象外とされた。 しかし、この救助については、 罹災者の救済に当り妄りに金品を給与するときは徒らに依頼心を助長し、却て惰民を養成するが如き不結果を来すべきを以て・・・・<北海道凶荒災害誌> という苛酷とも思われる基本的姿勢が行政サイドにあったのである。 なお、本町の救助戸数などは明らかでないが、 開拓途上の移民にとって意外な大災害のため、農民は経済的な負債によらなければならない窮状となり、開墾に当たり艱難に耐えて成功した者の中にも、収益が少なかったため生活必需品の店借り、あるいは現金負債のため低所得者となった者も少なくない。 このため、ようやく取得した土地所有権を明渡して小作農に転落した者も少なくなかったようで、大正3年には村内全農民の30%の小作農が新に生じたほどである。 <古老の回想> という悲惨な状況が伝えられている。 その後は、特筆するほどの冷害はなかったようであるが、早害が多発したもようで、 大5 大早ばつとなり農産物は枯死の状態となった 大9 凶作で離農転出者相次ぎ農家の経済的苦難がつのった など、早害の記録があり、ほかにも、 大11 6月下旬の大降霜 大15 冷害凶作 が記録されており、大正4,7,8,11,12年の水害と併せて考えると、ほとんど連年にわたり、大なり小なりの天災を被っていたのである。 このうち大正15年の冷害は、 大正9〜10年ころから造田が進んで、水稲耕作への意欲が高まっていたときであったが、特に水稲の被害が他の作物よりひどかった・・・・・<古老の回想> と、米作に厳しく、これは以後の水田と冷害の関係を示唆するものであった。 |
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昭和6年の冷害 | 明治35年、大正2年を上回るとも劣らぬ大冷害が、第一次世界大戦後の慢性不況で苦悩する農民を襲ったのは昭和6年であった。 本町の被害状況と救済状況を 「北海道凶荒災害誌」にみよう。 (1) 作 況
(2) 凶作の原因 初春以来の気候甚だ不順にして、4月に入って高気圧は殆んど東漸し、兎角本道に冷気をもたらし、低気圧も亦その勢いを増して本道を襲い来ったため降水量も異常に多く気温低冷にして再び停頓を来し、平年を下ること一度内外を示して、融雪期が著しく遅延した。 従って農作の播種も頗る遅れ、加うるに5月の中頃には736粍の猛烈な低気圧が日本海より襲来して日照の著しい寡少と共に、天候は尚依然として順に復しない為、作物の生育も進まず・・・・・更に8月に入って天候可なり恢復の色を見せたのも束の間同月下旬殊に24,5日の両日、29,30の両日には異常の冷気に遭遇したため、当時出穂開花中であった水稲は特に著しい被害を蒙ったのである。 (3) 収穫皆無農家の実情 1,未熟の小麦を製粉し澱粉粕を混ぜて塩にて調味団子に為し常食として露命を継ぐもの。 2,南瓜、玉蜀黍粥に炊き常食とするもの。 3,野菜、南瓜、澱粉、麦粉を雑炊して家畜の飼料に類する食料に飢えを満たし活動の原動力を求むるもの。 (4) 救済借置 イ、御下賜金配分 72戸173円 (救済戸数の3分の1) ロ、義捐金の配当 410円 (内訳は米代164円、鰊代246円) ハ、義損品の配給 給与戸数 152戸 (要救済戸数の3分の2) 義損品 生甘藷=10俵、衣類=22梱、学習帳=46冊 ニ、救済義捐金支出による食糧給与 米 給与量=28俵 給与日数=628日 鰊 57俵 給与戸口 205戸=1,127人 ホ、種苗等給与 1戸当24円(現品) ヘ、救農土木工事(次項の昭7参照) ト、 学齢欠食児童就学対策 チ、土功組合への貸付=年利4分8厘、2年据置10年年賦払 |
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昭和7年の冷水害 | 前年の冷害の被害が慢性不況と重なって、再生産が危ぶまれるほど窮迫した中で迎えた翌7年の雲行きは、農民ばかりか、行政関係者や一般村民の切なる願いも空しく、前年を上回る大凶作の追い討ちとなり、2年連続の大凶作で農家経済はもちろん、村行財政、他産業にも深刻な打撃を与えた。 この年の救済が前年を上回ったのは、前年並みの冷害に加えて、水害と霜害が重なったためであった。 本町の被害状況を 「北海道凶荒災害誌」にみよう。 (1) 作 況
右の畑作冷害のうち霜害は次のとおり。
(2) 凶作の原因(要約) 6月11日から約1ヶ月に及ぶ晴天模様のため早害を蒙むり、その間6月29日に晩霜があり、その後は夏の多雨寡照が続き、7〜8月は10度内外の低温で、それに水害が重なって前年に連続した大凶作となった。 (3) 救済借置 (イ) 御下賜金配分 230戸627円 (ロ) 義損品配分 衣類=15梱、石鹸=1個 (ハ) 水害凶作羅災者に対する政府払下米 水害に対する貸付米 16俵 凶作に対する貸付米 413俵 (二) 水害羅災者に対する食糧給与 給与戸口 14戸=79人 米15俵および副食代52円 (ホ) 凶作羅災者に対する食糧給与 給与戸口 452戸=2,604人 給与日数 20日 米494俵および副食代741円 (へ) 菜種種子配給 給与戸数 53戸=反別10町歩 種子量 500合 (ト) 製炭事業資金割当 1,400円 (チ) 国有林官行造材 延213人=375円 (4) 救農土木工事 (ィ) 地方費道稚内〜網走線 工事区間 下湧別村 工事期間 1月4日〜2月3日 総事業費 3,088円(労賃) 延出役者 2,162・5人 (ロ) 請願事業(昭6〜7継続) 出役者は被害度の高い者から優先せしめるため、施行庁と村との間に労務供給契約が結ばれ、稼働者の調整が行われた。
(5) 医療救護 (イ) 蛔虫駆除薬の配給 児童数 155名(単復校児童53名と以外校貧困児童102名) 配給錠数 300錠 (ロ) 出張診療(村請負)
診査場所 湧別小学校 患者数 60人 なお、2年連続の災害に対し道庁には臨時救済事務部および北海道凶作救済会が設置されて、一元的な義捐金募集と救済対策が展開されたが、この年10月に「農山漁村経済更正計画に関する訓令」が示され、自力更生運動も提唱されたことは、前節および行政編で述べたとおりである。 しかし農家の疲弊は極限におかれ、 水稲、豆類は収穫皆無という寒地営農の困難性を嘆かせ、畑作3分作の被害と共に凶作を一層深刻なものにした。 また唯一の換金作物となったハッカも一般経済不況のため大暴落(組15円)とんばり、農家経済はいっきょに貧困の極に達し、脱落離農者が続出する危機を現出し、小作農も激増した。 <古老の回想> という状況がみられた。 |
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昭和9年の冷害 | 2年連続大凶作のあとの昭和8年は、まれにみる順調な気象に助けられて、作況もまれにみる豊作となり、経営的には苦しい中ではあったが、再生産の希望をよみがえらせ、精神的には立ち直りをみて、米作農家は久し振りに米飯にありつく喜びをかみしめたのであった。 ただ、全国的な豊作のため、豊作貧乏(例えば米1俵5円)というありがたくない傾向もみられ、農家経済が立ち直るまでにはいかなかった。 農家は来年の連続豊作にかけたのである。 しかし、豊作の喜びと連年豊作のかけも束の間、翌9年には7月下旬〜9月上旬の低温がたたって、またしても冷害凶作の悲運に泣かなければならなかった。 「北海道凶荒災害誌」から本町の状況をみよう。 (1) 作 況
(2) 要救済戸数
(イ) 政府米の臨時交付(数量不明) (ロ) 政府米貯蔵庫建設補助金交付 建設地 下湧別村役場構内 規 模 木造本屋21坪および下屋9坪 補助額 1,190円(工事費1,800円のうち) (ハ) 義捐金ほかあるも不明 |
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昭和10年の冷風害 | 連続凶作はまたしても現出され、昭和6,7年の再現となった。被害の実態からいえば、昭和9,10年連災は6,7年より比較的軽かったとはいえ、低迷する景気と6,7年の後遺症の累積を考えれば、甲乙つけがたいものがあった。 この年は5月下旬の降雨低温、7月中旬の多雨寡照、8月29日の台風、9月の低温、9月26日の台風と、連続的に冷風害がたたみかけた。 のが凶作の原因で、経済更正計画の努力に水をさし、農家経済はどん底に陥った。 このため、関係機関に対し救済について運動した結果、「集中指導冷害町村」に指定され、経済更正計画と連動した施策が行われたが、詳細は不明である。 しかし、この2年連続の災害が、特に米作に偏っていたことから、水田に対する耕作者の認識に異変を生じ、 東の水田地帯は拡張を中断し、それまで80戸を数えた世帯数も11年にはには37,8戸と急減し、10年に565町歩あった水田も11年には352町歩と減少するに至った。 <東> 来る年も来る年も冷害凶作の年であり、各戸の食糧にも事欠くようになり、水田に対する絶望は強まった。 こうして徐々に水田はまたもとの畑に変わりはじめ、信太寿之の熱意で始められた水田も、全水田が廃田となり、膨大な費用と労力は水泡に帰した。 また、畑作に変えて主に馬鈴薯、麦類の相当の収穫を得たものの、その単価は低く、最悪の時には野積みのまま捨てざるを得ず、畑作にかけた夢も消え去った。 <信部内> 昭和10年には農家全戸数の半数以上が小作農に転落するに至った。 <芭露> などの事態を生じたため、本町の農業は根本的に営農構造の転換に迫られ、寒冷地農業安定の高級策として、逐次、酪農を導入した有畜農業へ移行する姿勢がみられるようになり、米作は自家消費米の生産を目的に、3年に一度の収穫を覚悟のうえで耕作するに過ぎないものとなった。 |
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戦時中の災害 | 「昭和15年が半作以下の凶作」<川西>という記録があり、昭和16年の凶作は道内各地で耳にするところであるが、戦時増産が叫ばれていたときのことなので、士気に影響する凶作は、戦果同様に秘匿されて好評をはばかったものとみえ、被災のほどは不明である。 しかし、本町では概述(防災編)の水害もあり、昭和14〜16年ごろは大なり小なり凶作の憂き目にあっていたことが推測できる。 行政編(食糧危機)でふれた昭和20年の冷害は、春先から全道を包み込んだ低温と降雨のため、低温多湿寡照型の大凶作となり、晩生種はほとんどみのらず、敗戦の衝撃と重なって空しさにおおわれ、食糧危機を現出したのであるが、戦争末期〜戦後混乱のため詳細資料はは不明である。 |
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戦後の災害 | 昭和25,26年に「玉蜀黍、豆類全滅の霜害」とあるのは、芭露以東の山峡部であったようであるが、特筆するには至らなかったようである。 □ 昭和28年 (1) 気象概況 6月初旬からの低温が初期生育の不振を招き、7月中旬の低温が早生種に、8月の低温が中晩生種に一部障害をもたらした。 (2) 網走支庁管内作況指数 80・6% という小型冷害であったが、本町は9月27日の豪雨で洪水が発生し、芭露のごときは3〜4分作に止まった。 □ 昭和29年 (1) 気象概況 早春来の低温、5月の暴風雪害で生育期と出穂の遅れを生じ、8月中旬の降雨寡照、9月の15号台風で登熱が進まなかった。 (2) 網走支庁管内作況指数 60・4% (3) 救済の概要 (イ) 経営資金の貸付と償還猶予 (ロ) 農林漁業資金などの償還猶予と利子補給 (ハ) 主要作物の再生産用種子確保 (二) 飼料の確保 この被災は、大正2年以来とも、昭和6,7年以来ともいわれた厳しいものであったが、ハッカの芭露では、 水稲、豆類は収穫皆無となったが、一縷の救いは、この年ハッカが全国的な減少もあって一組1万円となり、戦前戦後を通じ最高価格を記録したことであった。 という場面もみられた。 □ 昭和31年 昭和31年は豊作型で持ち直したが、農作物価格の低落で豊作貧乏を余儀なくされたところへ、昭和31年にまたも凶作の悲運が襲い、昭和29年を上回り明治以降最大といわれる規模の被害をもたらした。 (1) 気象概況 生育前期の6月に入って低温多湿寡照(雨量は平年の2倍)が続き、7〜8月も低温寡照(日照時間は昭和29年の57%)で、特に7月上旬と8月下旬の異常低温が決定的な打撃となり、著しい生育遅延をもたらした。 (2) 網走支庁管内作況指数 51・2% (3) 救済の概要 (イ) 国費による救農土木工事 (ロ) 経営資金の貸付と各種資金の償還猶予および利子補給 (ハ) 主要作物の再生産用種子購入助成 (二) 飼料の確保と家畜の導入 なお、昭和29,31年と続いた凶作で農家経済が窮迫したことから、その救済が寒地農業安定上の政治問題に発展し、政府資金が貸出されるようになったことは特筆すべきことで、本町の1戸当たり借入は0数万円であった。 また、全国各地から見舞いの金品と励ましの声が多数寄せられて、沈みがちな心に慰めと活をもたらしたが、これを契機に本格的な酪農志向の浮上をみたのである。 □ 昭和39年 昭和37年は長期気象予報が悲運にも的中して、7月下旬〜9月中旬の長雨に加えて8月の暴風雨で冷害模様となり、翌38年には5月の暴風被害があって、農家の負債は徐々に累積していたところへ、昭和31年以来という冷害の追い討ちにあった。 (1) 気象概況 6月中旬の低温で生育が停滞し、7月上旬の低温寡照と同中旬の異常低温が早生種、中生種に影響、8月中旬の低温が中生種、晩生種に影響、そして9月28日の強い降霜で登熱が停止した。 (2) 網走支庁管内作況指数 67・9% (3) 救済の概要 (イ) 救農土木事業の実施 (ロ) 天災資金の貸付 (ハ) 制度資金の償還猶予および利子補給 (二) 再生産用種子および越冬用飼料の確保 この被災のときのことを、山峡部で痛めつけられた古老は次のように回想している。 9月28日に強霜がやってきて、零下5度ぐらいまで下がり、特に大豆、小豆、菜豆などは完全に凍結状態となり、収穫は皆無だった。 また、救農土木工事に出役した東地区の人たちは、次のように回想している。 30数年にわたる水田経営の全面廃耕にふみ切り、先行き大きな不安を持ちながらも、早速救農土木事業の土地改良に取り組まなければならなかった。 スコップ、ツルハシ、鍬などの手労働による過重な労働だったが、筑全員が出役して寒風が身に沁みる中で難作業(明渠1,300b)を年内に完成させた。取り壊される畦、水路、変わりゆく田の姿をさびしげに見守る長老たちの姿が、いまも印象深く思い起こされる。 □ 昭和41年 昭和40年5月29日は、予想もしなかった晩霜があり、特にビートが被災し、再播、廃耕とあわてさせられたが、幸い他の作物の好況でうめ合わせができた。 しかし、翌41年は耐冷性作物にもおよぶ冷害となった。 (1) 気象概況 融雪遅延でかかりが遅れて生育に支障をきたし、7月上下旬と8月初旬の低温湿潤が早生種、中生種および晩生種の一部に影響、さらに8月19〜21日の集中豪雨があり、秋の冷降霜などが重なって未登熱に終わった。 (2) 網走支庁管内作況指数 73% (3) 救済の概要 (イ) 天災資金の貸付 (ロ) 制度資金の償還猶予および利子補給 (ハ) 再生産用種子および越冬飼料の確保 □ 昭和44年 昭和42,43年は天の恵みと耕作技術の進歩で豊作となり、負債償還に弾みがついてホッとした感じであったが、昭和44年はまたまた暗転した。 (1) 気象概況 6月上旬までの低温で苗立ちが悪く、その最中に所輪38年に次ぐ暴風害似合い、7月中旬からは低温日が多く、長期の曇雨天が早生種、中生種に影響、8月11〜23日の異常低温と日照不足が晩生種に影響をもたらした。 (2) 網走支庁管内作況指数 60% (3) 救済の概要 (イ) 天災資金の貸付 (ロ) 農産物規格の増設(低品位の格付けと価格設定) |
(1) (2) (3) (4) 百年史topへ 第1章産業構造の推移 昭和の小漁師topへ
(5)主な作物の推移 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菜 種 | 菜種は蕎麦(そば)同様に、春の蒔付終了後の新開地に作付けできるという営農上の利便と、少ない種子量で粗雑な整地でも生育しやすいという利点があって、開墾地初期の主作物として珍重された。 また、こうした有利性は貸下地の成功検定を早めるうえでも効果的であったし、道庁でも奨励作物として指導していたから、なおさらであった。 明治31年に札幌に北海道製油株式会社(菜種からの搾油工場)の創立があって、採油原料としての菜種の市場性が高まりつつあったことを反映して、本町でも、 明32=100町歩 明33=300町歩 明34=600町歩 と作付の伸びを示したが、このことは、同時に新開地の拡大を裏づけるものであった。 明治34年には屯田兵村に共販組合が結成されるなど、初期の商品作物として、主要作物の首位の座を占めるに至った。 ちなみに明治33年当時の取引相場は、1石当たり6円50銭が9円50銭に高騰するという好況下にあった。 その後の作付状況は明らかでないが、換金作物としてのハッカが台頭する明治36,7年ころまでは、畑作の主役であったようで、ハッカの急速な台頭、第一次世界大戦景気による豆類への移行、さらには新開地の減少により、菜種の影がうすれ、大正4年に24町歩、同8年に10町1反歩の統計がみられる程度になり、やがて思い出の作物として姿を消した。 |
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麦 類 | 開拓初期から自家食糧として裸麦、小麦が栽培されていたが、品種は丸実系とチンコであったと伝えられている。 やや遅れて大麦の栽培もはじめられたが、開拓期の麦類の耕作は、無肥料で反収3〜5俵を得たといわれ、ときには土地が肥沃すぎて茎葉のみがいたずらに成長して、結実がみられないこともあったという。 開墾の拡大とともに作付もふえたが、運輸事情などから自給食糧用以外への道はきびしかった。 明治35年ポン川に転住した今村信次郎が、初めて(年度不詳)裸麦を播いたところ、1反半から5石5斗穫れたとか。 それから自家用として芭露にひろがり、主食化するにいたった。 裸麦の収穫期になると、農家では夕刻から一定の場所で、穂先に火をつけて焼く「麦焼き」をした(この方法は昭和20年ころまで用いられていた)。 焼き落とした物を筵にひろげて竹の唐竿で叩いて脱穀してから、手つきして精白し、大鍋で何回も水炊きしてから食べた。
上表はハッカや豆類などの契機の陰にかくれて推移した時代の漸増のあとであるが、麦類が販売作物として安定したのは、戦時の農業統制であった。 それは、米の食糧管理制度に準じた麦の作付統制と供出の義務づけによって、
戦後は、昭和30年代からの酪農志向と、貿易の自由化によりアメリカ、カナダ、オーストラリア方面から、良質の麦類が安価に輸入できるようになったこと、国民全般の食生活の変容で麦を食べなくなったことなどで、国内産麦類の需要が著しく減少したという状勢が重なって、麦類の生産は凋落の一途をたどった。 また、一面では、 本町の裸麦、大麦の作付は、販売よりも農家自体の主食としての生産の比重のほうが大きかった。 それが、農家の主食が麦から米に変わったことも、麦類の作付減少の要因になっている。 <市川太平談> という事情もあった。 ところが、昭和40年代後半からの全国的な米の生産調整(稲作減反)という農政の一大転換に伴い、政府では水田廃耕後の転作問題と全国的な適地適作の見直し、それに輸入穀物類の動向(正解的な需給事情と絡めて)などをふまえて、麦類の国内生産奨励に乗り出し、昭和50年以降本町方面においても、秋蒔小麦の積極的な作付奨励施策が推進されるようになった。 そのため、麦類作付が増反傾向に転じ、コンバインの導入による機械化と乾燥や貯蔵施設の整備で、昭和55年からは急激な増反をみるにいたった。 作付の下降〜上昇の経過をみよう。
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豆 類 | 大豆、小豆、手亡、金時、うずら、青豌豆など、かなり多くの種類が作付けされ、明治33年に「大小豆其他豆類65町」<兵村誌>の作付をみているが、雑穀相場とは無塩の自給作物であった。 ところが、第一次世界大戦は豆類を自給作物から、一躍輸出農産物の座に引き上げ、市場の暴騰で販売作物の王座にのしあがったのである。 主力は手亡と青豌豆で、作付増反者が続出し、自給食糧の作付を豆に代え、 豆を売って米を買う・・・・・ という成金光景を現出し、ハッカまでが巻き添えを喰うありさまであった。 しかし、大戦後の反動不況で、相場は暴落し、販路も圧縮されて、好景気は一朝にして消え去った。 その後、青豌豆は夜盗虫の逐年発生増の痛手をこうむるようになり、とかく豆類は冷害に弱く、価格相場も不安定なことから、大面積の耕作が定着しなかった。
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馬鈴薯 | 明治6年に開拓使はアメリカからスノーブレーキほか数種の優良品種を輸入し、官園で試作培養して一般の普及に努め、根室官園でも同13年頃から種子の分配をはじめた。 こうした奨励策により、馬鈴薯は開拓者の食糧作物として急速な普及をみた。 本町でも同16年に和田麟吉が試作し、「根室県勧業雑報」に、 一顆大ナルハ206,70匁、小3,40匁、早害デ3分方不熟なれども1反二付13石6斗ヲ得タリ と報じられている。 また用途については、時の紋別戸長半沢真吉が同雑報に、 菓子トナリ、酒精トナリ、飴トナル。味噌トナリ白玉粉ノ代用トシテモツトモ風味ヲ覚エ、旦生薯1貫目ヨリ精白澱粉100匁ヲ得タリ。 と記述し、栽培奨励の資に供されている。 和田麟吉の試作以後栽培は絶えず、明治18年に根室で開かれた北海道物産共進会に出陣した徳弘正輝の馬鈴薯は褒状を受けている。 このように、古くから試作が行われた馬鈴薯は、寒地農業のうえで耐冷作物として、また備荒食物作物として注目され、冷害凶作の年にも収穫皆無ということはなく、入植者たちは例外なく馬鈴薯を耕作して、自給食糧にしていた。 したがって作付面積は必要限にとどまり、 明治29年ノ反当収量20俵<河野々帖> 1俵12,3銭位で需要も少なく、あまり作らなかった。<小川清一郎談> というようなことから、大正3年になっても作付は77町歩(農家1戸平均8畝)にすぎなかった。 それが、第一次世界大戦の勃発で、大正5年には279町歩余りと急増をみたのは、輸出農産物としての澱粉の価格高騰が、豆類と同様に空前の景気をもたらしたからで、道内各地に澱粉工場の操業がはじまり、澱粉原料として馬鈴薯の商品価値は、農家の垂えんの的となった。 本町でも大正7年に75,400斤の澱粉生産が記録されている。 しかし大戦後の反動不況で澱粉の価格が下落すると、にわかに馬鈴薯は軽視され、作付面積は、 大 8=103町 大13=95町 大14=93・8町(収穫23万4500貫〜3万9865円) 昭 4=105町歩 昭9=133町7反(1戸平均1反2畝余) と、自家用生産にとどまるものとなった。 馬鈴薯が再び商品作物として頭角をあらわしたのは、昭和10年代に入って村内に澱粉工場の操業をみるようになってからのことで、それに戦時の奨励作物としての作付割当が伴って、次第に上位の座を固めるものとなった。 その増勢は戦後の食糧危機の時代までおよび、次のような伸びを示した。 昭11=172町6反 昭12=225町 昭13=347町 昭14=440町(軍需用酒精原料の作付割当70町歩を含む) 昭15=553町3反 昭23=587町6反 戦後の昭和24年9月に薯類の統制が撤廃され、農業生産全般が復興の気運になったころ、食糧事情の好転とインフレーション経済の終息もあって、農産物価格の低迷をもたらしたが、同時に商品としての澱粉事業を志すものが続出し、本町でも、この前後に多くの澱粉工場の操業がみられ、安定作物の馬鈴薯作付は、さらに増加して、昭和31年には753fと、全耕地の15%を占めるに至った。
(馬鈴薯生産の比較)
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燕 麦 | 明治5年に開拓使がアメリカから種子を輸入して普及に努めたといわれているが、本町方面では「明治33年作付概況」<兵村誌>にも燕麦の作付記録はなく、 明治35,6年ころ道庁の指導と斡旋により種子を得て栽培した。 <清水彦吉談> というように、ようやく畜力が必要となるにおよんで、馬匹の導入とともに、飼料として作付がみられるようになったというのが、本町における燕麦の歴史のはじまりである。 したがって、自家用飼料(耕馬用、冬山などへの出稼ぎ役馬用)としての耕作に止まり、後進地域ゆえに商品性は成立しなかった。 ところが、日清戦争(明27〜28)で戦力としての馬の重要性が高まり、軍馬の増強が進行するにつれて、その糧秣としての燕麦の比重も高まり、旭川に陸軍第7師団が設置(明34)されてからは、急速に燕麦の需要が増大し、供給源が全道にひろがっていった。 また、おっぽうでは開拓の進展とともに輸送力、造材業などの要として馬の存在価値が上昇し、燕麦の民需も増加し、燕麦は急速に商品作物化の道をたどるすう勢にあった。 当時の燕麦の流通は、本道では明治36年に軍用燕麦の直接購買が開始され、全道的に農民の共同販売組織が結成されて対応し、生産の50%を占める軍用が市場を左右して民間相場を支配していた。 従って軍需が作付の消長にも大きく作用したわけで、日露戦争(明37〜38)は北海道産燕麦の地位を不動のものとしたわけである。 本町における作付は明らかでないが、紋別郡全体としての統計に、 明35=18町9反<道庁勧業年報> 明44=611町<北見の繁栄> とあるから、その拡大のほどがうかがえよう。 その後、軍用燕麦の需要はさらに拡大され、民需の上昇もあって、本町でも作付反別は、 大3=116町 大4=250町 大8=343町 大14=380町 昭3=647町 昭14=739町 と増加して、戦時中は600町歩台は動かず、ハッカに次ぐ栽培面積を占め、時局作物の座を誇ったものであった。
昭22=460f 昭28=360f 昭36=441f 昭37=451f
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亜 麻 | 亜麻は茎が繊維原料として、種子が油(亜麻仁油)原料として販売でき、耕作が簡易で、しかも夏作なので換金が早いという利点があったうえ、時局作物として奨励された時代もあった。 北海道で亜麻の耕作が緒についたのは、明治19年に近江亜麻糸紡繊会社が、亜麻が北海道の気候風土に適することに着目して栽培の道をひらいたのにはじまり、翌20年に北海道製麻株式会社が設立され、同23年に操業を開始すると、道庁の耕作奨励もあって、重要商品作物になったという経過があるが、本町で耕作がみられるようになったのは、それより遅れて、大正6年に日本製麻株式会社の湧別工場が操業を開始してからのことである。
作付面積に対して指導庁よりの作付配当に基づき農会と協力のもとに之が割当面積の完全消化奨励に努めたり<昭15「事務報告」> ともあるように、作付割当があり、作付面積は逐年増加し、戦後の一時期まで尾を引いたが、当時は増産奨励施策として生産者に対する衣料の還元配給があった。 昭13=250町 昭18=335町 昭20=367町3反 しかし、戦後の繊維工業の一大改革は化学繊維の台頭を生み、亜麻の 需要は急速に減少し、昭和37年の作付は、100fを割り、同39年の作付を最後に姿を消した。 なお、日本繊維工業株式会社湧別工場は、昭和40年12月に閉鎖された。 |
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ビート(甜菜) | ビートの耕作普及は、開拓使の農業施策の一環に掲げられ、明治4年に札幌官園で試作され、根室官園でも同10年にアメリカから種子を輸入して試作しているが、産物の運搬にはかなりの輸送力を必要とするだけに、明治期における本町方面は運輸上およそ無縁であった。 第一次世界大戦の好景気で、佐藤の国内消費が増大して以来、輸入抑制の国策によって本道の甜菜糖業の振興策が進められ、大正9年の十勝の製糖工場設立に合わせて、ビート耕作の奨励が道庁と製糖会社によって積極的に進められた結果、本町方面にもビートの耕作がみられるようになった。 この年に西1線,川西の10数戸の農家によって初めて採種用ビートの栽培が行われたのが、それで、同11年から原料根の耕作販売が行われるようになった。 栽培技術の普及などのため、耕作改良組合も組織され、大正14年に耕作者145名で2組合が発足した。 当初のビート耕作は、比較的輸送に恵まれた湧別地区と芭露の一部に限られていたが、昭和10年秋に湧網線鉄道が計呂地まで開通するにおよんで、芭露方面の作付増加をみ、主作物の仲間入りをするようになった。
(1) 甘蔗糖輸入の壮絶に代わる甘味資源として作付割合が行われた。 (2) 肥料不足を補う堆肥づくりの家畜飼料として重視された。 このため、ビートを耕作しなければ肥料を配給しないとか、ビート耕作者に限り砂糖の割増還元配給をするなどの甘言策がとられたほどであった。 作付面積も要請にこたえて、 昭=164町 昭20=186町8反 と伸びたが、その陰には、次のような笑えないナンセンスもあった。 (1) 肥料欲しさに割当反別を消化しても、配給肥料は有利な他作物に流用した。 (2) 配給停止になった砂糖の代替品として自家用甘味料に、相当量の原料根が消費された。 したがって増反はみたが反収量は激減し、昭和11年の反収5,181斤に対し、同15年は2,113斤と60%減のありさまであった。 もちろん戦局の進展による労働力不足から、栽培管理が行き届かないことや、肥料の絶対量不足ということもあったが・・・・ 砂糖の代替品としてのびーと糖蜜の自家消費は終戦後にも受け継がれ、さらに闇商品化へとエスカレートした。 自家製造のビート糖蜜は1斗缶入が2,500〜3,000円で買人が群がるありさまで、闇商売のために作付増加をみたと思われるふしが、昭和22年の204町歩にうかがわれた。 こうした自家消費量(糖蜜製造用)の増大による原料確保難から、製糖会社では集荷策として、原料根10,000斤(6d)に対し130斤(7・2s)の精糖還元を行うという報償法法を講ずるなど、ビート一つにも世相が反映されていた。 経済が安定した昭和27年に172町歩と減少したが、同年の冷害で翌28年には冷害対策として251町歩に増加、この年「甜菜生産振興臨時借置法」など、政府の施策も活発化したが、同30年の豊作で翌31年また195町歩と、100町歩台に減少した。 しかし、昭和32年の芝浦製糖北見工場の開設をはじめ、美幌、斜里にも製糖工場が進出するにおよんで、ビート耕作はクローズアップされ、作付も 昭32=264f 昭33=336f と伸び、昭和35年には生産額で馬鈴薯を抜いて、販売作物の首位を占めるにいたった。 ところが、製糖工場の進出にかかわって、戦後における農民運動史上特筆すべき事件があった。 それは原料ビート集荷区域変更問題から、湧別地区農民が決起したもので、次のような動転があった。
【ビート生産の比較】
ちなみに、一時期の支庁管内のビート生産状況の資料をみると、本町の生産事情は表のようであった。 |
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玉蜀黍 | 「とうきび」と呼ばれてなじんできた玉蜀黍は、開拓の初期から秋の味覚として、自給保存食料として、あるいは畜禽の飼料として、コンスタントに栽培がつづけられてきたが、戦時中と戦後の一時期には、米や麦の代替食糧として配給食糧の対象にされるなど、食糧作物として重要な地位におかれ、精白して込めに混ぜて主食にした思い出を持つ人も多い。 また、乳牛導入による有畜複合営農の進展とともに、飼料としての価値が認識され、そのため飼料作物として玉蜀黍は欠くことのできない存在になった。
その後、戦後復興と食糧事情の好転で玉蜀黍の作付は減少し、乳牛飼料にはデントコーンがとって代わり、さらに食品用として加工向けのスイートコーンが顔をみせる時代になったが、いずれも玉蜀黍(コーン)の同類であることにちがいはなく、一族の命脈はつづいている。 |
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果 樹 | 本町における果樹栽培の歴史をみると、形成のうえで2つの大きなポイントがあった。 その一つは開拓初期の屯田兵村における営みで、 明治30年上野徳三郎が札幌地方からリンゴ、サクランボ、スモモなどの苗木を取寄せて裁植したのが、湧別地方に果樹が植えられたはじめであった<土井菊太郎談> 苹果(リンゴ)は明治30年末の調査によれば湧別全村に亘りて僅かに21本の裁植を見るに過ぎず<兵村誌> といった程度であったものが、のちに「上湧別リンゴ」として市場に出回るようになった陰には、明治31年に南兵村の数名の人々が苗木を購入して植付けたことにはじまり、翌32年に5,000本もの苗木が移入され、各戸5〜10本を植裁するようになったという経過があって、それが実を結んで定着したのである。 兵村以外では果樹の生育上、 湧別は浜に近く、開花期に海霧のため着果しないことが多いのと、リンゴの場合は腐らん病の発生があって・・・・ という状況があって、振興を見ないままに廃絶の道をたどったようで、わずかに安立大三(5号線)、亀田伊三郎(緑陰)、本田栄作(計呂地)らが、自家用程度ないしは営農の一端に複合させた程度に過ぎなかった。 求め得た資料から生産額をみると、次のとおりである。 昭6=1,239円 昭8=4,855円 昭10=3,266円 もう一つのポイントは、半世紀を経た戦後のことで、昭和28年に新農村建設計画のために現地調査を行ったことに起因している。 調査に当たった北海道大学教授桃野作次郎が、計呂地川支流流域の傾斜地が果樹栽培に好適であることを指摘したのにはじまり、従来から同地でリンゴを栽培していた本田繁が、これを契機に本格的に果樹を加味した農業経営を計画し、29名の同志を勧誘して昭和31年に北海道果樹協会の傘下に加わり、湧別支部を結成するまでに発展した。 同38年当時の支部の記録では、 会員=72名 リンゴ=8・5f 水蜜桃=1・0f 梅 ブドウ サクラ桃など と上向いていたが、その後、消費者志向の流れが変わったことや裁植技術および品種改良の難しさなどがあって、後継者の見通しがはっきりせず、酪農化の波の中で低迷をつづけており、昭和49年の農業基本調査では果樹類の作付面積が5・03fと減少している。 生産の統計も「果樹その他」に包括されて、表の数字しか見られなくなった。
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加工食品用作物 | 古くは加工食品用作物の代表格として、稲黍(いなきび)と蕎麦(そば)があった。 稲黍は開拓当時の重要な食糧で、米や麦に代わる主食であったが、その高揚の最たるものは、餅米の代役をつとめたことで、餅やおこわの材料として重宝がられ、餅米が入手できるようになってからも、独特の風味や色合いが喜ばれて作付は途絶えず、昭和20年代まで耕作されていた。 また、蕎麦は比較的寒冷地の適作で、圃場整備の行き届かない荒地でも耕作が容易であったから、開拓の当初から耕作されて、蕎麦粥、蕎麦かき(粉を熱湯でねったもの)、手打ち蕎麦などにして主食に供したものである。 特に手打ち蕎麦は、いわゆる「ご馳走」のたぐいに扱われ、祭典、盆、年越しや来客のもてなしなどに作られていた。 稲吉備同様に、米が入手できるようになってからも、欠かせぬ嗜好食品用として耕作されていたが、めん類の市販が活発になるとともに漸次退潮した。 戦後、食生活の変化から流通革命が進み、その所産として、農産食品の缶詰と冷凍食品化が着実に台頭した。 この流れにそって耕作が定着したものにアスパラガス、スイートコーン、南瓜(かぼちゃ)がある。 アスパラガスの作付は、昭和28年から本格的になったが、本町の気候風土に適し、反当収入も多いことから、農業協同組合が積極的に奨励し、町でも助成したので定着が急速に進んだ。 アスパラガスは苗を植付けて3年目から収穫され、しかも6月から7月半ばからまでの短期間に収穫されるということが、反当収量の多いこととかかわって、比較的耕作面積の少ない農家に定着したのが特色である。 推移を表でみよう。
スイートコーンが耕作されるようになったのは、昭和41年ころからで、缶詰会社と出荷契約するようになったことによる。 その後、食品工場が町内に進出するにおよんで、原料不足をきたしたため、耕作者がにわかに増加した。 耕作地は上芭露を主産地に、次第に東芭露、西芭露にひろがり、昭和50年に上芭露に建設した湧別産業株式会社冷凍食品工場で、需要は決定的なものになった。 また、畑作専業農家にとっては、青草鋤き込み方式がとられるようになったので、地力増進のうえからも重要な作物となった。 ところが、湧別産業株式会社が昭和53年に行き詰まったことから需要に多少の変動をきたしたが、食品加工用作物としての命脈は着実に保たれている。 ちなみに、スイートコーンの取引価格は、生産者庭先渡しで1s当り30〜40円で、反収にすると5〜6万円ぐらいになる。 冷凍食品工場が冷凍食品として、スイートコーンにつづいて南瓜を手がけるようになって、開拓以来の自家用食糧作物であった南瓜も時代の脚光を浴び、加工原料用として、自家用以外の契約栽培が行われるようになった。 他の作物に比して手間や肥料があまりかからないという有利な面もあり、また価格面も、庭先渡しが1s40円ぐらいで、反収にすると4〜5万円にもなるので農家に喜ばれており、あけぼの食品や湧別産業(昭53年閉鎖)に供給されて今日におよんでいる。 |
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飼料作物 | 飼料作物のうち燕麦については概述したが、燕麦以外のものは、そのほとんどが自家有畜営農とかかわって推移してきた。 牛馬の飼料が主体で、本町の有畜農業の動向が、初期の馬匹優位から現在の酪農本位への変遷を物語るように、飼料作物の栽培種類もそれに対応して変遷してきている。 これを戦前と戦後で区分けしてみると、主な飼料作物は次のようである。
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