第5編 産業と経済

百年史topへ  第1章産業構造の推移   昭和の小漁師topへ

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第2章 農   業
 (1)営農定着への曲折 (2)戦時の農業統制 (3)営農様態の推移 (4)天災とのたたかい (5)主な作物の推移
 (6)ハッカ王国の栄枯  (7)米づくりの消長  (8)主な畜禽の推移  (9)優良馬産地の形成   (10)酪農郷への道程 

 (11)農事振興のための施設  (12)関係団体および機関


第2章 農   業

(6)ハッカ王国の栄枯    
野生ハッカのヒント  開拓使根室県の一等属吏掘貞亨は、県庁付近に野生ハッカが密生していることから、栽培可能なことを洞察し、明治18年に東北9県連合学事会に出席の途次、山形県置賜郡のハッカ栽培状況を視察して、輸出産物として有利なこと、運搬に便利なことを見きわめて帰庁した。 そして、
 1, 山形県より種苗を導入して試作すべきこと。
 2, 併せて移住民に種苗持込を命令されたいこと。
などの意見書を県令あてに提出したが、一属吏の卓見は未開拓の当時の状況から、陽の目を見ることなく葬られ、北海道庁時代になっても、多くの作物が試験場で試作普及されたにもかかわらず、投機的作物として批判が出こそすれ、いっこうに陽の目はあたらなかった。
 しかし、開拓者個人の発意と執念の灯は消えていなかった。 明治27年4月に礼文島から湧別原野西1線7番地に入植した渡辺精司も、その一人であった。 渡辺精司の郷里は福島県の若松で、家業が薬種商であったことから、しばしば横浜の薬種商に出入りして、ハッカに関する知識も確かなものがあった。 入植地選定の途次、たまたま野生ハッカが繁茂しているのをみて、これをアイヌに刈り取らせて持ち帰り、いったん帰郷のとき乾草にしたものを持参して横浜の小林商店製油場を訪れ、蒸留してみたところ相当量の採油をみたことから、ハッカ栽培に確信を抱き、入植と同時に栽培を企図した。 これが、北見ハッカの端緒となったのである。

北見ハッカの起源  渡辺精司は通信、情報、交通、運輸など、もろもろに恵まれなかった当時としては、よくもと思われる入念な手順で事を運んだ。 そのあたりを概述すると、
  まず種根を入手するため、道庁その他に道内の栽培者の紹介を依頼した。 これに対して札幌農学校(北海道大学の前身)の鈴木武良教授から、永山村(現旭川市内)で栽培していることが知らされ、渡辺は直ちに永山村に赴き、植松戸長の斡旋を得て、山形県から入植した屯田兵の石山伝右ェ門(山形県でのハッカ栽培経験者)に学び、石山から種根6貫目を1円20銭で買い受け、中央道路を駄送にたくして持ち帰り、開墾地に植え付けしたのは明治27年9月下旬のことであった。
といわれ、これが北見国におけるハッカ栽培の起源となった。
 さらに、渡辺精司は試作開始と同時に簡易な蒸留器を考案して、早速初収穫から取卸油を製造し、東京や山形などの業者に買入価格を紹介したところ、確答を得たので販売の見通しも立ち、ハッカ栽培の確信はいよいよ深まり、近辺の人たちにも栽培を推奨した。
 しかし、ハッカ栽培に経験のない入植者の多くは、山師的な作物として警戒し相手にしなかったが、その中にあって、岡山県から移住した有地護一は郷里でハッカ栽培の経験を持っていたので、関心を示し、
  明治29年秋同居人佐藤良平を永山村に遣し、苗根百余貫を求め、馬4頭を以て中央道路を駄送し、一部を越田兼松および高橋長四郎の二人に分配し・・・・・翌年越田は高橋に、有地は植松吉助に植松薄荷を譲渡して他業に移り、栽培は高橋長四郎、植松吉助ら山形県人によって維持された。

という経過をみた。 このように人を得て後年の盛況の起源となったハッカは、その後も個人の熱意で普及発展をとげ、北見の風土に適応して山間部開発を促進したのである。

主産相場地の形成  明治31年に学田農場に入植した山形県からの移民の中には、郷里でハッカ栽培の経験を持ち、関心の深いものが多かった。 中でも小山田利七は郷里で失敗したハッカ栽培の夢を、新天地で実現する希望を抱いて入植したといわれ、翌32年に郷里から種苗を取寄せて植え付けをはじめた。 これを知って同郷の石山雄八が4号線付近でハッカの栽培をしている高橋長四郎のことを知らせたところ、小山田利七はただちに佐竹宗五郎、小山田秀蔵を伴って高橋長四郎をたずね、種根を買い受けて同32年春に各自の開墾地で栽培を開始した。 この年、小山田利七は郷里から天水釜式蒸留器も取り寄せて、取卸油18斤を得、それを山形県北村山郡小田島村の小野金太郎に送って販売を委託し、97円50銭の収入をあげた。
 小山田利七の執念は農場管理人信太寿之を動かし、信太寿之は官庁その他にハッカの価格や需給状況を照会した結果、見通しを得て小作人に積極的な耕作奨励を決意し、種根の貸付を行って1戸3反歩を目標に、半ば強制的に栽培させることにした。 こうした農場の方針は、郷里での失敗にこりてハッカ栽培を冷淡な目でながめていた人々をも耕作させるようになり、学田農場で急速に普及し、
  明治33年薄荷30町歩=湧別役場部内
とあるのは、4号線の一部を含め、学田を主とした作付であった。 この年の小山田利七の作付は3反歩で取卸油36斤を収穫し、前年同様に郷里の小野金太郎に販売を委託して、117円を得たが、反当39円の収入は他作物にはみられぬ高額で、薄荷栽培に対する関心が次第に網走支庁管内に広まるものとなった。 そのあたりを各市町村史ににると、
  明治34 斜里=学田から種根を船で入れる。
        上渚滑=高橋長四郎から種根買入。
  明治35 興部=湧別から。
        野付牛(北見)=湧別村から。
        常呂=湧別方面から。
  明治36 美幌=湧別村から駄送。
のように、本町のハッカが北見ハッカの宗家になったことを裏づけている。 このように耕作意欲の強まったハッカ栽培の指針として、明治36年の「殖民公報」に、本町のハッカについて、次のように掲載している。
   湧別村ハッカ耕作の収支
 収 入
  取卸油    30円00  平均3組(1組に付10円)
    計     30円00
 支 出
  耕耡費     0円50  馬耕及び肥耕等(3年に1回を要する、1円50銭)
  種苗費     5円00  1反歩50貫、 1貫10銭
  植付費     0円50  男1人(但し植付は3年に1回3人を要する)
  除草費     4円55  4回、 1番女4人、他は女3人あて
  収穫懸垂費  5円00  刈取は夏3人、秋4人,其の他4人
  取卸製造費  1円50  男3人
  薪  代     0円30  半敷
    計     17円35
  差引益金   12円65
この他取卸製造機及吹貫小屋などを要する。
品  名 数 量 価 格 保存年数 償却資金 備    考


取卸受器
1組
1筒
2筒
2筒
10円50
5円00
0円60
2円00
10年
5年
5年
3年
1円05
1円00
0円12
0円65
釜代7円、運賃平均3円50銭
懸付
破損せざる限り
小 計 18円10 2円84
吹貫小屋 1棟20坪 20円00 5年 4円00 乾草時期の外は他の用に使ふ。
合 計 38円10 6円84
備考 取卸の製出高は初年目及3年目は1反歩2組乃至3組なるも、種根及び土地栽培法等によって差ありて、3組を得ること難く、2年目は最も収量多く4組乃至3組を得るに至るも、本村は3組を以て平均収量として計算する。

作付反別
学田 4中隊 5中隊 バロー原野 殖民地
明治35年 18町2 6町4 7町7 5町6 4町2 42町1
明治36年 80・0 60・0 50・0 20・0 30・0 230・0

 こうして急激な作付増加をみた村内の栽培状況から、明治36年からは、それまで北海道のハッカ相場地であった永山村から相場地が本町に移り、名実ともに主産地の座についたが、その背景には、当時、北見地方のハッカ生産は世界の8割近くを占め、海外市場に「北見ハッカ」の名声をとどろかせており、しかも、そのうちの実に4分の1が本町産であるという伸展があったのである。

換金上の優越性  投機的な作物が、山師的な作物だといわれた(後述参照)ハッカが、なぜ、こうも急激な耕作の普及をみて、ハッカ王国を形成したのであろうか。 もちろん、投機的、山師的な一端がなかったとはいえないが、相場の変動の不安定という要素を除けば、次のような利点が開拓者のおおかたの魅力となったことは確かである。

(1) 取卸油運搬の軽便なこと。
 先述したとおり、流通の道のひらけなかったころは、取卸油は小包便で山形県に送って販売を委託したというほどに製品が軽便であった・・・・取卸油は2反歩分の収穫を石油缶1個に収納できるという利点は、輸送事情の不備な時代において、へき地販売作物として歓迎された。

(2) 耕作の手間が簡便なこと。
 種根を1度植付けると長期間収穫できるので、年に1回の耕転で事が足りる利点は、開墾に忙しい開拓者にとって安心感をもたらすものであった。

(3) 風土と地味が適合したこと。
 湿地帯を除いて山間傾斜地にいたるまで、気候風土に恵まれ、加えて肥沃な地味が幸いしてよく繁茂し、雑草も少なく作りやすかった・・・・ポン川流域などでは草丈が背丈ほどにもなり、3反歩から21組も収油したという話がある。

(4) 反当収入が他作物より高いこと。
 ハッカは価格変動の激しい作物で、相場の騰落に一喜一憂したが、概して収量の多い年には下がり、収量の少ない年には上昇して、農家手取りを平均化しており、しかも、反当収入が他作物よりも高値であった。

ハッカ景気の功罪 作付反別の増加により生産量が増大すると、明治34年に山形県から仲買商人の来村をみ、渡辺精司のすすめで横浜のハッカ貿易商小林商店も出張買付を開始し、同36年には頭の貿易商鈴木商店も買付に進出するにいたって、概述のとおり本道のハッカ相場地が永山村から本町に移り、ために湧別市街は特にハッカ取引期間中に活況を呈したのであった。 ハッカ景気のすさまじさについて、明治45年2月に本庁を視察した網走支庁長長山浦常吉は、
 宮崎回漕店の取り扱った薄荷油は約千二百箱、価格26万円、多方面より輸出したるものと合算すれば優に40万円の収入ありしことは確かである。
といい、また「北見の富源」に掲載された同支庁長談では、
 薄荷作地方などでは、幾分か貯蓄も出来ていますが、併し風紀の乱れつつあるは概嘆に堪へません。 薄荷売買の盛んな時などは、賭博が流行して婦女子も之に耽ると云ふ有様です。 又例の白首屋と称する小料理屋の繁盛と来たら実に一驚の外ありません。 又薄荷売買当時金銭の取引は昨年10月17日より本年1月7日迄の僅々3ヶ月半に於て上湧別、遠軽局の取扱が6万円に上り、下湧別局は1ヵ年の現金取扱高が120万円、切手の売り上げが1万円に上との話である。
と、ハッカ景気の盛況を功罪両面から語っている。

 
買手商略相場  ハッカ相場は大手輸出業者の海外市場における先物売買取引によるものから、業者の営利を主体とする一方的な都合で買付価格が定められ、生産農民の関知し得ないものであったから、ハッカ商売は一名「泥棒商業」とまでいわれたほどであった。 大手商人が料亭の奥深い一室で買付値段を協定して、数千円といわれる違約保証金を積んで協定の確保を図り、価格を発表したから、買手業者の商略操作で変動は激しかった。 その経過を1組単位の買付価格でみよう。
 明34  6円50銭(永山相場)
 明35  4円50銭(永山相場)
 明36  5円(以下湧別相場)
 明37  5円15銭
 明39  5円90銭
 明40  4円10銭=米1俵とほぼ同じ
 明42  5円40銭
 明44  6円50銭〜11円50銭
 明45  9円〜15円35銭
 大 2  5円40銭=大凶作年なのに安値
 大 3  3円33銭=前例のない安値
右のうち、明治37,45,大正2年については、項を改めて詳述する。

取卸油の取引単位  ハッカ取卸油の一般的な市場取引単位は「1斤」(160匁)で、これは栽培当初少量の取卸油は瓶詰めにされ、ビール瓶1本の要領が160匁であったことによるが、北見方面では1斤単位が用いられず、「組」「駄」などの特異な単位が、太平洋戦争(大東亜戦争)後に「キロ」単位に改められるまで適用された。
 「組」というのは、2斤をもって1組としたもので、これが北見方面の基本単位であったが、たぶんに大量取引の便宜的必然性から生じた単位であった。 されに生産量が増加するにしたがい、陽気は石油缶に変わり、10組単位に詰められるようになったが、仲買商人に買い集められた取卸油が積出港まで駄馬で運ばれる際、駄鞍の積載が10缶で限度とされたことから、100組(10缶)を1駄というようになった。 つまり、「駄」はより大量取引の使宜的必然性をあらわしたものであった。
 なお、取引は仲買商人の水分鑑識と秤量によって成立し、均一価格であったが、昭和2年に農産物検査種目に加えられてから、脳分検査率によって価格差をつけるように改められた。

日露戦争時の共販組織  明治37年のハッカ収穫期に、生産増加を理由に仲買人を通じて、買付価格が1組4円50銭と流布され、戸主のほとんどが応召した兵村の留守家族は、仲買人のつけ入るところとなった。 これを守るため清水藤次郎、沢口作一らが主唱して農会を動かし、共同販売体制を固めて仲買人の暗躍を阻止することにした。 その相談会開催通知書が当時の状況を明確に物語っている。

  今や薄荷の収穫製造を終わり、販売せんとするに方り、近頃奸商輩徘徊し、戸主応召家族の老幼婦女なるに乗じ種々の榾手段を回らし、利益を壟断せんとするの噂有之当村の如き、農業を以て本とし、殊に薄荷の如きは唯一の特産物にして、一年の計画多く薄荷に待つに関らず一に商人の掛取に罹り其利益を減削するが如きありては一家の不利益は勿論,従って地方の盛衰にも大関係あるにより、右等の不幸を避け相当代価に販売するを講ずるは目下の急務と被存候に付、諸君と其方法を講究致度候条
明13日午前9時迄万障繰合屯田市街地禅寺に御参集相成度此段申達候也
    明治37年10月12日
                    湧別村農会長  石川正之助


この年の取卸油生産量は200駄といわれ、共同販売組織は全村的に拡大して、生産者の統一行動となった。 この生産者の団結の前に、鈴木、小林、大川各商店ら大手商人間の価格協定(1組5円)は破れ、5円15銭〜5円20銭〜5円30銭〜5円45銭と上昇し、共同販売による利益は1万7,000円以上を収める結果となり、経過報告会には300人以上が出席して、農会長の、
  地方商人が外来商人の爪牙となり、多数生産者を陥穿せんとしたる者が如きは、公徳を無視し不義の著しきものなり。
という挨拶に「拍手喝采が満堂を揺り動かした」<北海道農会報>といわれている。

サミュエル事件  ハッカ取引における買手商略を端的に露呈し、北見全域を混乱させ、北見ハッカの歴史上拭いきれない一頁となったものに、サミュエル事件があるが、これには次のような伏線があった。
  明治44年に小林、鈴木、矢沢、多勢の4大手業者で独占された管内ハッカ市場に、横浜の長岡商店が進出して、前4者の協定価格6円50銭を無視して20銭高で買付をしたのに端を発し、防戦に回った鈴木は8円で買付るなど協定が破られ、本町では11円50銭、野付牛では12円60銭まで高騰し品物が払底した。
このことは、ハッカ相場の設定に疑問を抱いていた生産者ばかりか、相場に関心の薄かった農民一般にも不振の念を抱かせるものとなった。
 ところが翌45年になると、長岡も協定に加わって買付価格を8円60銭に協定し、仲買人はその線にそって8円で買付にかかり、1週間後には7円50銭、最後は7円に引き下げて買取る手段に出た。 尻上がりの前年相場と逆さまなこの挙は、売り惜しむ生産農家が歳末支払いに窮する盲点を狙い打ちしたもので、結果は大手業者の思う壺に落ち込む羽目にいたった。 こうした実情に処して、次のような打開策が講じられた。
 上湧別村長兼重浦次郎は横浜地方の相場を調べた結果、協定価格の意外に安いことから、政治家を通じ、神奈川県知事に北見産ハッカを農会で集荷し一括取引するという条件を提示し、新たな買入業者の紹介を求めた。 これによってロンドンのサミュエル商会横浜支店が紹介され、両者は直ちに秘密交渉を進め、商会側が主張する「道農会が責任をもったら引き受ける」との要求に基づき、11月30日に道農会で道庁斡旋のもとに、商会と生産者代表間で1年委託販売の契約が調印された。
  両者の協約価格は1組9円とし、値上がりの場合は13円までは商会の取得、13円以上は両者で折半するというものであった。

しかし、この秘密協約はたちまち他業者の察知するところとなり、当初の業者協定価格は崩れて、3日間で9円から15円35銭に高騰するという大乱戦となった。 農家では、お互いに乗馬で親族知人に刻々変わる相場を知らせ合い、安売り防止に努め、ために「湧別の馬という馬は皆乗りつぶしてしまった」<北見薄荷工場15年史>ほど、北見ハッカは狂乱相場に操られて騒然としたのであった。
 この結果、せっかくの協約販売が危うくなったので、道庁、道農会、村長、警察分署長ら指導的立場の者が地区を巡回し、農家を説得して、ようやく10万4,000斤余をとりまとめ、サミュエル商会に委託したが、狂乱の影響は同商会に11万6,000余円の損失金をもたらすものとなった。
 サミュエル商会は長びく事後処理解決のため、対象4年12月に管内生産者969人を相手取る「貸付金残金及立替金請求」の訴訟をおこし、紛争は法定に持ち込まれたが、係争のさ中に同12年の関東大震災で所管の横浜裁判所が羅災し、一件書類が焼失したことで立ち消えになったといわれている。
 明治44,45年(大正元年)とつづいたハッカ騒乱の反動は、ただちに大正2年に露呈した。 この年は大凶作で、ハッカも3分作の減収で品不足であったから、農家は前2ヵ年の高値経験に照らして売り応じを渋ったが、大手商人側は2年連続の協定崩れによる損失を取り戻すため、策を案じて前渡し金(内金)による集荷を行い、横浜に送った蹟に円40銭と発表するなど、農家の売り惜しみの裏をかく商略で譲らなかった。 このため、野付牛では鈴木商店の事務所が破壊され、本町でも道路に火を炊いて不当をなじるなどの挙があり、なんとか色をつけろと騒ぎたてたが、結局は僅かの包み金で終わった。 次いで翌3年は3組で10円という前例のない安値で買いたたかれるありさまで、サミュエル事件の反響は厳しかった。
 その後もハッカ相場が大手商人に独占される情況は変わらず、昭和7年に産業組合を通じたホクレンの委託販売が開始されるまで、サミュエル事件後20年間つづいたのである。

芭露ハッカ  学田や屯田兵村で著しく作付面積が拡大して主産地を形成し、名声を博するにいたった「湧別ハッカ」であったが、上湧別村の分村で、
 明43  上湧別村 22,000組  165,000円
       下湧別村    540組    2,862円
                               <道庁商工業調査復命書>
というように97%余が新村区域となり、本町は湧別の一部と芭露方面にわずか14,5町歩を残すに過ぎないものとなった。 当時の状況を伝えるものに、下湧別村の湧別川の東西地帯については、
  北辺に薄荷が少ないので馬子に聞いてみると、浜が近いから潮風は薄荷にゃ禁物で出来が悪いとの説明である。<高橋安次郎「北見旅行記」>
があって、4号線の一部(高橋長四郎ら)以外は作付がみられなかったことを物語っているし、芭露方面については、明治39年にハッカの仲買を目的に中湧別から芭露に転任した庄司喜三郎の談として、
  当時、芭露地帯には約100戸の入植者があったが、ハッカの作付面積は2町歩くらいで、買付はしなかった。 42年に仲買をはじめたが、この年は4缶ぐらいの買付に過ぎなかった。 44年の高値で翌大正元年は急激に増加し、ハッカ景気でわきたった。
と伝えられているところから、分村後の本町のハッカのにぎわいは、芭露方面の急速な作付拡大によるものであったことがうなづけるし、事実、以後の展開と進展が、それを明確に立証している。
 芭露方面にはじめてハッカが作付けされたのは明治34年のことで、芭露6号線の武藤留吉が高橋長四郎から種根の分譲を受けて栽培したものである。 この年の作柄が良好だったので、翌年は耕作を拡大するとともに、数人の人にもすすめて耕作をひろげ4町2反、さらに同36年には30町歩と拡大された。 その後、
  明40 芭露原野14号〜西の沢4線道路開さく
   明43 上芭露地区殖民地増区画と16号〜東ノ沢23号道路開さく
   明44 東の沢、西の沢地区殖民地増区画

に伴い、東芭露、西芭露から、さらに志撫子、計呂地、床丹の奥地に開拓が進み、ハッカ耕作が着々と拡大された。
その経過は次のようであった。
  大3  3,380組 112町6反余(反当3組として)
   大5 12,324組 421町
                     <網走支庁拓殖概観>

こうして次第に網走支庁管内の主産地形成が進み、ハッカ単作的な集約営農の成立もみられるようになり、「芭露ハッカ」の呼称も冠され、ハッカといえば芭露、芭露といえばハッカを連想するぐらい有名になった。 従って、これからあとの記述は芭露方面のハッカを主流とした、本町のハッカ耕作の記録となる。

 
全盛期のハッカ  一時、第一次世界大戦の影響で、「ハッカ下落作付半減」<大6・芭露校沿革誌>とあるように、輸出豆類の好況で作付転換があって、大正8年には109町2反と減少をみたハッカの作付は、諸作物の反動低落の中で、1組価格が、
  大6=3円12銭 大8=17円50銭 大12=37円50銭
と高騰するにおよんで耕作意欲が復活して、
  大12=500町 大13=779町9反 大14=798町4反(4万8,000斤、43万2,000円)
と旧態を上回る伸びを示し、取引の中心地となった上芭露は、
  仲買商が集中して産地市場化し、旅館、料理飲食店が繁昌して100戸近くの市街を形成した。 郵便局の開設、志撫子や計呂地に通ずる山道の開通と、それは目ざましい発展ぶりだった。 <古老談>
という。 昭和年代に入って増反はさらに進行し、
  昭2=1,099町6反 昭3=1,440町2反 昭4=1,227町
と不動の首位作付を維持し、生産性においても、次の実績を上げていた。
区 分
年 次
農産物全体 ハッカ ハッカ以外の
反収(円)
作付反別(町) 生産額(円) 作付反別(町) 生産額(円) 反収(円)
昭 6
昭 8
昭10
4,068・3
4,298・6
4,624・9
438,548
835,451
570,500
1,185・4
1,184・2
1,267・0
176,449
345,312
321,000
14・88
28・32
25・34
9・09
16・05
7・43
※昭和6,10年は凶作年であった。
  作付の増加とともに、ほとんどの家に蒸留釜が設けられ、刈取ったハッカは縄で編んでハッカ小屋に吊り下げて干した。 ハッカ小屋が1戸に5〜6棟もあって、10月末ごろの季節には部落中にハッカの芳香が漂い、ハッカの里にふさわしい情景であった。 <上芭露>
  ハッカ栽培の最盛時には、本流、遠軽沢、6線の沢と、かなりの傾斜地まで開墾され、その9割以上はハッカの作付地であったが・・・・特に、大正12年に遠軽から入植した峯田繁蔵は、研究熱心で「ハッカの虫」といわれ、西芭露のハッカ生産に貢献した人でのちには「ハッカの神様」と讃えられ、現在も執念の栽培をつづけている。 <西芭露>
  第一次世界大戦後の反動不況は深刻で、農家経済を不振に陥れたが、特作ハッカの復活で支えられた農家は、その影響を最小限度に止めることが出来た。<計呂地>

これらは、全盛期のハッカをしのぶ一端を表現したものである。

戦争の影響  日華事変が長期化の様相をみせはじめて、敵対的な外交関係が諸国にひろがると、貿易商品としての道がと絶えて取引価格が下落し、
 昭14・9・18 価格統制で1組18円に据置となる
 昭15 雪害による発芽不良
 昭16 作付統制により不急作物となる
など諸種の制約があって減反をみるようになり、食糧作物に転換され、
 昭13=1,318・1町
 昭14=1,365・2町
 昭15=893・5町
 昭20=503・8町
 昭21=192・3町
と、昭和14年をピークに減退した。


戦後の消長  終戦後の食糧危機の中にあって、昭和21年にハッカの消滅を憂える熱心な人々が耕作者組合を結成し、増産対策や統制価格の改定運動を推進した。 そして、
 昭21 キロ当たり600〜800円
 昭22 キロ当たり2,400円
と価格が好転したが、食糧不足の社会状勢に押されて、昭和23年には96・6町と100町歩台を割るにいたった。
 しかし、食糧事情の好転と経済の立ち直りから、営農の自主性が回復するにいたって、ようやくハッカに対する関心がよみがえり、いっぽう市場面でも輸出再開とともに、海外向けとして曙光がみられ、昭和24年には道庁が増反奨励費を計上した。 その結果、復興の兆しをみせ、昭和27年には増反意欲の高まりから、春芽出苗1本2円で媒介される種根ブームを招来し、翌28年には430町歩の作付をみるにいたったが、
 (1) 戦中戦後の雑穀(食糧)の粗放耕作で荒廃した圃場が、ハッカ栽培に適しない状況に陥っていた。
 (2) 戦時中にブラジルで日本人移住者によって作付けされるようになったハッカをはじめ、外国産が市場を左右するようになり、安価なハッカ油が輸入されるようになった。
区 分
年 次
作付反別
 (町)
収  量
(組)
価  格
(千円)
昭 24
昭 25
12・20
186・0
3,001
5,580

34,596
区  分
年  次
作付面積
(ha)
収  量
(t)
生 産 額
(千円)
同上農産中比率
(%)
昭 35
昭 40
昭 45
昭 50
昭 55
255・0
68・0
107・0
57・0
17・0




22,240
12,172
18,126
17,240
6,899
5・4
3・0
3・3
0・5
0・3
などの要因があって、以後伸び悩んだ。 さらに昭和30年代からの化学工業の進行に伴う食品流通革命の進行は、人造ハッカの生産にもおよび、昭和29年に1組(1・2s)1万円を記録したハッカも、耕作の前途は厳しいものとなり、酪農転換の時流とともに減少の運命をたどり、昭和38年273・8f、同45年107fと次第に上芭露。東芭露、西芭露の一部に小集団単作経営が名残をとどめる程度の姿に変わった。

品種改良  永山村から導入されたハッカの品種は山形系の「赤円」と呼ばれ、北見の風土に適して急速に普及し、同種以外の栽培はみられなかったが、全盛期になると増産を意図する篤農家によって、先進地から異品種を取り寄せて試作が行われたとみえ、昭和9年3月の「北海道農事試験場報」<第8号>に、
  北見白毛=本種は下湧別村字芭露の一部に於いて「白木」又は「白毛」と称し栽培せられたるものにして、昭和7年北海道農事試験場本支場及農事試作物主任協議会に於て優良品種と決定せるものなり。
とあり、俗に「芭露白毛」と呼ばれた新品種が綴られているが、戦後までの大勢は赤円が占めていた。
 発起道農事試験場でも明治40年に北見分場開設以来、品種改良を行ってきたが、昭和17年に交雑育種法を採用してから研究がはかどり、昭和28年に「万葉」「涼風」の2優良品種が奨励されるようになった。 この新種は従来の反収おおむね3組(3・6s)を、4・7組(5・6s)に引きあげ、耐病性にも富み、特に万葉が急速に普及して、赤円にとって代わった。 その後、されに品種改良が進み、近年は「北東15号」により、8・3〜12・5組(10〜15s)の収油をみるにいたっている。 また峯田繁蔵によれば、
  戦前はほとんどを「赤円」が占め、一部「北進」という品種もあったが、戦後、遠軽に薄荷試験場ができるにおよんで品種改良が大幅に進み、含油率の高い「万葉」「豊葉」「綾波」「早生波」が開発されて、生産性を高めた。
ということである。

取卸加工の推移  開拓の当初から用いられた取卸装置は、「天水釜式蒸留機」と称されたもので、平釜の上に据えつけた桶に乾燥したハッカをかたく詰めて蓋をし,天蓋からパイプで粋そうに入れた取卸受器に蒸気を導き、冷却して取油するというものであって、1釜で50〜60連(5〜6畝分の原料ハッカ)を3〜4時間掛かって処理していた。
 昭和29年ころからボイラーによる蒸留に改良された装置が出現し、1釜80〜100連(約1反分の原料ハッカ)を1時間半で処理できるようになった。

 ハッカ耕作が小集団単作経営に移行しはじめると、作業の共同化が発想され、加工施設の改善が行われて、共同利用方式のハッカ蒸留施設が次のように新設されている。

 昭41 上芭露共栄農事組合員全員の出資による大量製造施設建設
 昭43 西芭露に近代的な蒸留施設が建設され、取卸の委託作業を行う

百年史topへ (8) (9) (10) (11) (12) 第1章産業構造の推移   昭和の小漁師topへ

(7)米づくりの消長     
米飯への執着  「米の飯」「米の餅」を主食とする食生活への郷愁は、水田耕作を経験した府県からの入植者にとって、絶ち難い愛着であり、本能的な執着であった。 その切実な心情は、明治31年に早くも学田における飛沢長助、南兵村の菊地勤らによる水稲試作となってあらわれた。 残念にも同年は大水害のため結果は得られなかったが、本町における水稲栽培の扉が開かれたのである。 屯田兵村でも水稲試作を奨励し、本部が各戸に種籾を支給して試作を命じたと云われ、
  明治34年灌漑溝掘鑿、35年造田耕作せしも冷温で収穫なく翌36年兵村解体により灌漑溝工事を中止、耕作も自然休止された。
という記録がみられるが、特に明治35年4月には、岩内郡茅沼村外2か村戸長役場の大柿千代太郎を、月手当25円で迎えて栽培指導に当たらせるほどの熱の入れようであった。 こうした屯田兵村の旺盛な水稲耕作意欲ではあったが、米作の北限地帯にいどむ試みは厳しく、灌漑溝幹支線6里におよんだといわれる大事業も、兵村解体と自然条件の前に頓挫し、明治38年の耕作は「3反歩を残す」<殖民公報>に過ぎなかった。 こうした試練は本町に限ったことではなかったようで、明治36年の網走支庁管内の状況として、
  水田面積2町7反、 収量4石、 反当収量1斗4升8合<殖民公報>
が記録されていて、耕作の少ないことと試作の進まないことを物語っている。 こうした状況に対し、農事試験場北見分場では、明治40年に5反歩の水田を拓き栽培試験に着手し、適合品種の選択育成や栽培技術の改良研究など、寒地北限米作の究明が行われるようになり、本町でも同43年に水田奨励費の予算計上があり、試作補助を行っているが、この試作補助は2ヵ年で中止されており、成果のほどは明らかでない。 その後の足どりは、
 大2
芭露7号線の清水栄吉が農事試験場北見分場の指導で2畝歩を試作、好天に恵まれて成功し、試作の稲束を教材として芭露小学校に提供。
 大3
信部内の信太農場で農事試験場北見分場から種籾5升の配布を受けて、小作人信太虎治に試作させ、1石5斗を収穫した。
 大5
基線4号において岩佐豊治が試作。
 大7
信太農場において信太虎治が試作。
 大8
東において佐藤弥助が湧水を利用して試作し、気候がよく米もよく穫れた。また下芭露(キナウシ)で松浦福松が試作に成功。
 大9
芭露6号線の山川茂が2反7畝の造田を行い、翌年引きついた茂手木源太郎は「坊主6号」を直播し、天候に恵まれて反収3俵を得た。
 大10
上芭露において江島亀吉が試作。
 大11
東芭露で梶井佐太郎が沢水を利用した水田に村農会から入手した「におい早生」を直播し、天候に恵まれ予想以上の収穫があった。 山田市左右衛門も梶井から種籾を分けてもらい試作。

など比較的良好な推移をみて、大正9年当時の試作者の平均反当収量が1石5斗前後をいうこともあって、試作意欲が高まり、大正10年53・7町、翌11年63町と水田面積が増加した。

 
大戦の影響  前項に記した大正年間の試作のころは、第一次世界大戦とその戦後期で、それが、造田米作に大きくかかわりをもつ時代となっていた。

 (1) 大戦による輸出農産物ブームで雑穀生産が飛躍的に発展し、農家所得をうるおしたことから、生活水準の向上により米の消費(常食)が拡大した。
 (2) 一面では大戦景気による諸物価の騰貴で、米価も高騰し、全国各地に米騒動(安売要求)がひろがり社会不安をかもしたことから、米の自給を切実なものにした。
 (3) 大戦終結後の反動不況は、輸出農産物ブームが終焉して畑作農産物価格の下落となったが、米は価格的に安全で、政府も食糧増産政策の中で米の生産奨励を行った。

などが、それで、前項末尾の水田面積の増加もその実情を示すものである。 なお、米価の高騰については、概に「営農定着への曲折」のところで記述したところである。
 こうして、水田耕作の有意性が認識されると、全道的に営農の目は造田を志向し、試作の域から造田計画へとステップした。 本町においても信部内の信太農場で、大正8年に80町歩の造田が計画され、シブノツナイ川流域と併せて中ノ沢にダム築設を進め、道庁から5万円の補助を得て同12年に完成し、両地区で約30町歩の水田が造成されて、水田は66・5町歩となった。 ところが、翌13年に中ノ沢ダムが出水により欠潰し、水田は50・8町歩に減少している。
 ここで注目しなければならないのは、信太農場の例にみられるように、自給生産を超えて販売目的の造田がなされていることで、信太農場の場合も約半分の面積はそれであったといわれ、このことは前述した背景(3)に符合するものである。

 
造田の進展  水田耕作には水利が必要であるが、前項の信太農場の造田以前の試作の過程では、ほとんどが湧水あるいは簡易な河川からの導水で耕作されていた。 しかし、耕作規模の拡大には計画的な水利条件が伴わなければ実現不可能なこと、また河川水系の大規模な導入利用には、法に基づく土功組合(ないしは水利組合)の設立が必要なことから、支庁管内各地の土工組合設立の気運とともに、本町でも本格的な造田拡大の動きが進行した。 土功組合の経過などについては後節に詳述するとして、造田進展の概要をみよう、
  大正12年に土功組合設立を企図した湧別川水流域の農民による「湧別土功組合」は、昭和4年6月に認可をみたが、この土功組合の灌漑区域は本村と上湧別村にまたがるもので、本村東地区776町歩が包合された。東地区は悪質土壌地帯が多いために、開放以来定着するものが少なく、畑作不振地帯として省みられないところであったから、造田は東地区開発にとってきわめて重要な問題であった。 村当局も水稲耕作実施指導地の設置、補助金申請による客土の奨励など、積極的な助長策を講じた結果、各地から小作入地者があり、地区戸数は80戸ぐらいにふくらみ、昭和7年待望の水稲耕作がはじめられ・・・・本町最右翼の水田地帯を形成するにいたった。<東>
  大正時代の末期に、石山一二、石塚勘藏は多額の金銭を投じて、当時としてはかなり大面積の造田を行い、冷たい沢水を引き入れ、直播きしたが、寒冷地に強い品種に恵まれず、大きな収穫は得られずに終わったようである。<西芭露>
  昭和2年に川西でも有志が主体となって、580町歩の造田を見込、川西土功組合の設立準備を進めたが、実地調査の段階で灌漑工事許可の見通しが得られなくなり中止のやむなきにいたった。<川西>
  昭和2年に内山牧場の田宮亀松、内山繁太郎らが、4号〜5号線の中間から芭露川水流の灌漑による下流20町歩造田計画を進め、30町歩をおよぶ水田が造田された。<芭露>
  昭和2年に現在の上田定幸のところで芭露川をせき止めて、下流8号線にいたる間の造田を完成し、次いで現在の長谷川隆の橋の下でせき止めた水を三木定夫のところまで、西の伝住直行のところでせき止めた水は16号線まで、東芭露の加藤積地のところでせき止めた水は遠藤省徳のところまでひき、それぞれ水利組合を設けて水田耕作がなされた。 そのほか沢水を利用した農家もあり、ほとんどの農家が、なにがしかの水田を耕作したものである。<上芭露>

こうして、昭和3年178・3町、翌4年216町と水田が増加し、水稲耕作農家も309戸を数えるまでになり、重要作物の仲間入りをするにいたった。

品種改良  厳しい自然条件に対決して、北限地帯に水稲の栽培を可能にするまでには、栽培技術とともに、たゆまぬ品種改良の努力の積み重ねがあった。
 当初の試作には東北地方から導入した「早生赤毛」種が播かれたが、その後、農事試験場による水稲栽培の研究の成果が上がるにつれ、農事試験場推薦の品種が主軸となって推移した。「農試北見支場1959年記念誌」によれば、
  大正、昭和の初期は道内品種改良時代であり、分離育種法によって品種改良が行われ、即ち、坊主系統のものが王座を占め、管内でも坊主系統の面積が多かった。 昭和10年頃からは、府県品種との交雑育種法による品種改良がなされ、まず富国が現れ次いで農林20号が育成され、管内では農林20号が現在に至っても最高の栽培面積を有している。
とあり、昭和12年の統計に表れた本町の作付品種にも、
  在来坊主4・4町、坊主2号23・3町、坊主5号4・5町、坊主6号108・5町、チンコ坊主3・7町、走坊主122・6町、玉置坊主41・4町、その他(におい早生、クリカラモチなど)13・8町
と、坊主系統がならんでいる。 また、「富国」種は、昭和15年の粳米作付277・4町中約12%の32・9町を占め。戦後は科学的な試験場の研究がいっそう充実し、
  農林20号、農林33号、農林34号、北海15号、北海116号、北育7号、北育8号、北育14号、北育15号、農林95号
などが推奨され、いっぽう農家各戸の研究心も高まって、推奨品種以外にも道内各地で好成績をあげた品種を導入するなど、20数種におよんでいるが、特に農林20号の栽培面積が首位を占めて経過した。

栽培法の推移  本道独特のタコ足播き種機による直播方法から、温床育苗による移植方法に代わる兆しをみせたのは、昭和10年ころからで、本町でも昭和12年に温床苗代設置補助を受けて、農会技師の指導で信部内農事実行組合が9坪の試験育苗を試みている。 その結果、全村的に普及し田植風景が見られるようになったが、その背景には、直播栽培の最大の難敵である「ドロット虫」発生と鴨の被害を抑止するという課題があった。 戦後は、育苗方法が、さらに温床から冷床、あるいは電熱利用などへと改良され進歩した。

連続冷害の苦難  昭和6,7,9,10年と続いた冷害凶作については、「天災とのたたかい」で概述しているが、その中でも、最も被害の甚大であったのが水稲であったから、水田耕作に期待をこめて造田を拡大したばかりの農家にとっては、想像もおよばぬ重苦となった。 当時の経過概要をみよう、
  昭和6,7年と続いた皆無作は、当時、世界的経済恐慌で不況のどん底にあえいでいた農村を疲弊の極に陥れた。 それでも昭和8年は豊作に恵まれて、労苦が報われたかにみえた。 しかし、全国的な豊作で、米価は石当り昭和2年の34円42銭から、同8年21円28銭と低落し、「豊作貧乏」という悲運に泣き、経済環境を立て直すにはいたらなかった。
 けれども、豊作で気を取り戻した耕作者たちは造田耕作の意欲をたぎらせ、次のように翌9年に水田面積のピークを現出したのである。
  昭6=337・2町 昭7=341・6町 昭8=463・9町 昭9=590・0町 昭10=565・2町 昭11=442・6町
                   <食糧検査所統計>
そのかいもなく昭和9,10年と再び皆無作にあい、農家は絶望のどん底に落ち込み、小作者はいち早く他に転出し、自作者と雖も造田資金の負債に絶えかねて脱落し、主作地の東地区では翌11年に37〜38戸に減少してしまい、そうしたことが、昭和11年の反別にあらわれている。栽培意欲を失った残存農家も造田はおろか、既成水田も不作付、あるいは畑に還元するなどの状態となったから、土功組合の存立も危機に陥った。
区  分
年  次
作付反別(町) 収量(石) 価額(円)
昭  6
昭  8
昭 10
昭 11
318・4
425・0
508・1
352・8
438
6,549
17
3,820
6,246
110,233
408
89,770
                             <村勢要覧>
※作付反別は前記水田面積(造田累計)のうち実際に作付耕作した面積。

戦時下の米作  日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)と長期戦の中では、食糧作物が時局作物の中に位置づけされ、特に米は国民食糧として、また軍需食糧として絶対の座に据えられ、昭和17年には「食糧管理法」が施行されて、米の生産流通は国家管理によることとなった。 このため、供出制度が施行され、村農会から各農事実行組合事に供出割当が行われ、一定の作付が強制されるようになった。戦時中のこととて統計などの資料が秘匿されたまま散逸して、詳細は不明であるが、耕地面積(田)として、
  昭12=449・1町 昭13=468・9町 昭14=442・9町
の記録があり、昭和11年の規模が維持されている。 しかし、作付反別が実際にどれだけであったかは知るよしもないが、ただひとつ残されている昭和15年の統計によると、
区分
種別
耕地面積(町) 作付面積(町) 収量(石) 価額(円)
粳米 378・8 277・4 1,703 58,157
糯米 48・0 305 13,344
378・8 325・4 2,008 71,501
 (1) 前年にくらべて15%も耕地面積(田)が減少している。
 (2) しかも不作地が15%もある。
などがみられる。 これは、
  戦争による応召などにより、次第に労働力も不足をきたすようになり、特に男の労力は極端に少なくなったため、水路の改修なども思うにまかせず、水利組合も自然解散するにいたり、水田の面積は非常に少なくなった。<上芭露>
  出征兵士の数がふえ、労働力は減少の一途をたどる中で、供出割当数量の消化は大変な苦労をした。そして相次ぐ冷害と労働力の不足から経営は悪化し、税金や土功組合費の滞納が急増していった。<東>

などの苦しい局面が増大して、低迷を余儀なくされたと思われる。太平洋戦争(大東亜戦争)が戦局悪化の様相をたどりはじめると、この傾向はますます加速したものとみられるが、終戦後まで食糧難が続いた昭和23年は次のようであった。
粳    米 糯    米
作付面積(町) 収   量(石) 作付面積(町) 収   量(石) 作付面積(町) 収量   (石)
145・4 4,362 20・5 451 165・9 4,813

廃田への道程  昭和初期の連続冷害による挫折感の深さは、戦中戦後の食糧増産の時代にも水田耕作の低落を進行させ、畑作と畜産の複合営農から酪農志向への路線を、着々と底流に培って推移した。 そして、戦後復興とともに農業生産と貿易も息を吹き返し、食糧の需給事情が好転して安定をみせると、
 (1) 食糧の入手が容易になり、農家の水田耕作に執着する度合いが薄らいだ。
 (2) 昭和28〜29年の凶作により、水田耕作農家なのに自家飯米にも事欠く営農を、またまた味わった。
 (3) 昭和27年ころから上川方面で発生していたイネヒメハモグリバエが、同29年には北見地方でも大発生して、収穫皆無の水田もみられた。
 (4) 昭和30年代に入って冷害凶作が相次ぎ、3年に1度しか穫れない米に対する営農上の評価が、さらに低落した。
などをふまえて酪農志向が表面化し、
  ついに昭和39年、水田廃耕の気運が高まり、10月に臨時地区総会を開き、水田全廃の議決をして、泣き笑いの30余年におよぶ水田耕作も終止符を打ったが、この記録はNHK「現代の映像」で、同年全国に放送された。<東>
  戦後、耕作技術や品種改良が進み、価格の安定とあわせて米作の魅力は増したが、昭和40年代に入り酪農の発展に伴って水田をやめる者が出はじめ、45年に米の生産調整が実施されると、ほとんどの農家が畑作酪農に転換した。<上芭露>
  昭46 福島地区全面廃耕で湧別農協管下の水田姿消す

といった様相が全町に波及して、昭和37年当時(共済組合資料)
  東地区(福島を含む)156・29f 芭露19・16f 上芭露12・67f 東芭露23・96f 西芭露5・97f 志撫子5・06f 計呂地30・23f 計253・74f
あった水田の面影は、急速に姿を消した。
区 分
年 次
作付面積(ha) 収  量(t) 価  額(円)
昭 30
昭 35
昭 40
昭 45
昭 50
229
257
96
23
545
728
46
101
10
36.350.000
47.342.000
4.793.000
13.682.000
2.442.000

百年史topへ (6) (9) (10) (11) (12) 第1章産業構造の推移   昭和の小漁師topへ

(8)主な畜禽の推移      
 明治27年に宮崎愛親(ひろちか)が同志を勧誘して入植した時、岩内から鶏を携えてきたのが本町における養鶏の最初とみられ、
  明治30年ころ飼料が欠乏して飼育を依頼されたことがある。<土井菊太郎談>
   明治35年の小川清一郎の家計簿に、卵代40銭の収入が記されている。
   大正4年の飼養状況は260戸(農家戸数の25%)で815羽であった。

にみられるように遅々とした足どりであったし、小川清一郎のように販売を志す者はごく稀で、何処の家でも庭先で粗放飼育を行い、自家用の卵と肉を得るのが目的であった。 したがって採卵とか肉質などにも無頓着であったから、強くて長持ちするブリマスロック種、名古屋種、ミノルカ種など雑種が多かった。
 しかし、鉄道開通や第一次世界大戦などの社会状勢の変化が必然的に需要を拡大し、採卵販売の道がひらかれてくると、大戦後の不況に対処する副業収入のため養鶏が普及し、
  大 8 605戸・5,111羽
   大13 5,257羽

と増加した。 この間、養鶏に強う関心を持ち研究熱心であった小川清一郎は、大正13年に宮城県柴田郡農会主催の養鶏講習会を単独受講して、200羽飼育に着手し、人口育雛も試みるなど、畑作と養鶏による複合経営の先ぺんをつけた。
 昭和年代に入って、養鶏の副業化には、雑種を一掃して、採卵率の高い白色レグホン種を導入することの必要性が認識され、粗放飼育から管理飼養(鶏舎、飼料など)への転換が説かれたが、管理飼養の技術的な問題や投資の問題が絡んで、農業収入源を大きく上昇させるほどの発展はみられなかった。 しかも、残念なことには、太平洋戦争(大東亜戦争)の激化とともに飼料の入手難という局面が伴い、多羽管理飼養は困難な事情におかれ、再び自家用粗放養鶏の域に立ち戻ってしまった。
区分 飼養戸数 飼養数(羽) 生産高
年次 成鶏 鶏卵数量 価額(円)
昭 6
昭 8
昭10
昭15
昭23
743
771
743
791
1.215
5.197
5.707
5.923
6.041
4.180
4.197
3.707
3.695
9.377
9.904
9.630
9.736
7.842
555.710
512.500
641.052
386.287
11.114
10.251
12.821
19.314
※ 右表のうち昭和15年の統計には、791戸のうち50羽以上飼養8戸、10〜50羽198戸とあり、採卵販売の一端を知ることができる。
 戦後は経済復興に伴う食生活の変革から、鶏卵と食鶏肉の存在価値が高まり、食品加工原料としても需要が拡大されたことから、価格も上昇し、換金の早い現金収入源として養鶏への関心が高まり、多羽飼養を志す農家がふえ
  昭27=14,413羽 昭38=34,853羽
という急増ぶりであった。 この間、昭和31年からは町が副業振興策を実施してバックアップしており、農業協同組合でも集卵事業を開始し、
  昭和32年に農協では集卵事業を開始し、この年の卵の販売高は670万円にのぼり、この金額は牛乳、ビート、馬鈴薯、ハッカに伍して4位を占めていた。<芭露農協>
という飛躍的な発展をたどり、昭和36年の町内3農業協同組合の取扱高は1,114万余円と、農業経営の一角に不動の地位を占めるにいたった。 しかし、その後は、
区分
年次
飼養戸数 羽数 1戸当羽数 鶏卵生産額(円)
昭35
昭40
昭45
昭50
930
428
140
44
23.258
8.094
4.019
1.544
25・0
18・9
28・7
35・1
11.619.000
3.217.000
※統計上その他の含活されている。
“            “     
にみられるように、昭和36年をピークに減退をつづけているが、これは、
  養鶏事業が次第に集約大型化(超多羽飼養)の方向に進み、専業経営者が各地に出現したため、本町でも清野広のように500羽飼育を試みた者もあったが、その程度では生産コストや流通コストの面で太刀打ちできないために、小規模経営は成り立たず、加えて、その後の鶏卵とブロイラーの全国的な生産過剰による、相場の不安定があり・・・・
によるものであった。

 「河野々帳」(明29)に「徳弘正輝の家畜中豚4頭」とあるのが、本町における養豚の最初であるが、大正中期、あでは特に記録に止める動きはなかったようで、
  鉄道開通後、野付牛(現北見市)方面の肉商人が豚の買付にくるようになって、ようやく飼育する者がみられるようになった。
  大正8年に開業した戸沢肉店で豚肉の販売をした。
とあるところから、大正年代後半になって、需要に即して副業的に飼養が行われたものとみられるが、大正14年の飼養は77頭に過ぎなかった。また、飼養の方法も鶏同様に粗放飼育であった。 その後の経過は、表のように一進一退をたどって戦時にいたり、戦後にかけて増加をみている。 戦争末期から戦後にかけての増加は、販売という目的よりは、食糧事情の窮迫による栄養源としての食肉自給が目的であったと推察される。
区分
年次
飼養戸数 飼養頭数 生産頭数 販売価格(円)
昭 4
昭 6
昭 8
昭10
昭15
昭21
昭23
昭25
56
44
57
125
69
217
205
221
216
97
157
291
139
410
406
440

148
133
288
105

90
90

986
887
1.368



昭和25年を過ぎて食糧事情が好転し、食生活の転変による食肉の需要増大がみられるようになると、養豚は副収入源として着目され、販売商品として飼養するようになり、町でも昭和31年から副業振興施策で、仔豚購入資金の貸付を実施するにおよんで、
  昭30=200戸〜304頭 昭34=401戸〜726頭 昭36=678戸〜2.048頭
と急速に養豚熱が高まり、販売も農業協同組合を通ずる共同販売に改められ、昭和36年のピークには町内3農業協同組合の取扱高合計は1,105万8,000余円にのぼった。 また、昭和35年6月に「湧別町納税奨励小家畜買付条例」=納税豚制度が設定され(昭43・4廃止)、広く一般納税者を対象に確実に納税を履行させる目的で、町が豚を貸付(8ヶ月以内)し、仔豚の売却を町が集約し、その代金を税に振り向けるというユニークな施策が試みられ、その後は、
区 分
年 次
飼養戸数 飼養頭数 生産頭数 販売価格(円)
昭 35
昭 40
昭 45
昭 50
406
215
48
14
725
777
413
178
1・8
3・6
8・6
12・7
5.519.000
5.164.000
19.584.000
10.250.000
  表にみられるように、鶏同様昭和36年をピークに減退が続く中で、多頭飼養の傾向をみせているが、これは、
 (1) 残飯や野菜屑を利用した在来の中途半端な飼養では市場性に欠ける。
 (2) 需給の波に支配される市場相場の不安定要素が多い。
 (3) 輸入食肉の流通や飼料価格の高騰で、生産上採算がとれない。
などの理由が、微妙にかかわった結果である。

めん羊  大正2年に大口丑定が陸別村からシュロプシャー種(毛肉兼用種)1頭、同じく岩手県小岩井農場からも2頭を買入れて、林佐重郎、多田直光に飼育させたのが、本町におけるめん羊飼養のはじまりである。 その後、大正末期にも大口丑定が女満別村からシュロプシャー種を導入しているが、趣味的な域を出ず、普及にはいたらなかった。その後も、
  大14=6頭 昭6=1戸〜7頭(生産3頭・88円) 昭8=6戸〜22頭(生産9頭・141円) 昭10=7戸〜49頭(生産15頭・225円) 昭15=7戸〜18頭(生産19頭)
とさしたる進展はなく、昭和10年ころ越智仁子が、初めて羊毛を糸にしてホームスパンを制作した程度に終わっていた。
 ところが昭和16年頃から物資の統制と配給で衣料品が不足してくると、繊維自給のためにめん羊飼育への関心が急速に高まり、市街地住民の飼養熱も加わって、頭数はうなぎ登りに増加していき、戦後、衣料事情が緩和されるまで続いたが、需要の旺盛なことから、1頭1万円以上で売買されたという。
  昭16=15戸〜23頭 昭17=92戸〜183頭 昭23=748戸〜1m144頭(生産102頭) 昭25=805戸〜1,200頭(生産102頭)
なお、この間の昭和22年には、ときの農業会が福島県から数10頭のめん羊を直接購入して、増殖を奨励したという経緯があり、農家以外の一般家庭の飼育熱もかなりのもので、一説には「最盛時には3,000頭を超える飼育があったのではないか」とも伝えられており、ブームのほどがしのばれる。
  終戦後の数年間、簡易な紡毛機による過程での毛糸の自家製造が盛んに行われたもので、その後、北海道紡毛株式会社が設立されて、毛糸の服地交換が行われるようになった。<湧別農協>
   終戦後は各戸に4〜5頭ずつ飼育され、毛糸、服地などの交換がなされていた。当時の農協青年部は羊毛集荷を事業の一つにとりあげ、春先には部員が手分けして各戸の揃毛を行い、その実績は全道的にも高く評価され、昭和34年8月2日には全道農協大会で特別表彰を受けた。<芭露農協>

しかし、工業界の平和産業が復興して、繊維製品の市場出回りが豊富になり、化学繊維工業の発達で衣料消費が革命的な変容をもたらした結果、昭和30年代後半から飼養頭数が減少の一途をたどり、昭和46年を最後に本町から姿を消してしまった。
区 分
年 次
飼養農家 飼養頭数 1戸当頭数
昭 30
昭 35
昭 40
昭 45
933
893
74
1.609
1.529
100
1・7
1・7
1・4
2・0

山羊  山羊がいつから飼養されるようになったかは不明であるが、上芭露「郷土の歴史」に、次のような記録がある。
  山羊は戦中戦後にわたって、何処の農家でも飼われた時代があったが・・・・
しかし、全町的に普及していたわけではなく、山峡地帯の一部農家が、不足する栄養の補給源とするために、牛のように飼養の手数が掛からない山羊を路傍で粗放飼養し、手っ取り早く濃厚な乳を得ていたもので、表のように1戸1頭程度の飼養であった、その後、酪農の伸展は山羊の存在を必要としなくなったため、昭和30年代後半には飼養がみられなくなった。
年次
区分
昭23 昭25 昭30 昭34
飼養戸数
飼養頭数
172
207
201
210
141
164
69
86

 愛玩用に飼育されたり一部食肉用に飼養されていた兎(家兎)が、毛皮をとる目的で飼養が奨励されるようになったのは、日華事変が勃発してからのことで、兵士の傍観被服の材料として軍需物資に指定されたためである。 昭和10年に148戸939匹であったものが、
  270戸2,896匹と増加し、1,260枚の毛皮が供出され、昭和13年は9割増が予想される。<昭12・事務報告>
というあたりに当時をしのばせるものがある。 これらの飼養の中心となったのが小学校の児童で、農家の子供ばかりでなく、ほとんどの子供が兎を飼い、毛皮の買上げ代金は小遣いにせず、愛国貯金に積み立てるという銃後の一端を担っていた。

 戦後は軍需の消滅で急減し、そのうえ化学繊維工業の大東による人工毛皮の出回りや、ミンクの毛皮など高級品に消費志向が集まって、再び愛玩用の域にもどり、めったにみられなくなってしまった。

蜜  蜂  大正年代に2〜3群の養蜂者があったといわれ、統計上では昭和8年に13戸46箱が記録されている。 また、甘味料不足の戦時中に蜂蜜の売買があったと伝えられていることから、地道に養蜂が続けられていたものと思われる。 様態としては、
  蜜は1貫目10円ぐらいで、畑作の豊作の年は蜜も豊富で、蜜源の品が多い山林の近くが条件としてはよかった。ときには内地から移動してくる人もいた。<古老談>
に共通していたと思われるが、戦時中の砂糖の配給統制が厳しかったころには、細々とした養蜂を余儀なくされていたものと思われる。
 戦後も湧別、上芭露、計呂地方面に養蜂業者が、開花期を追って来町する光景がみられたが、昭和40年ころから稀にみられる程になった。

ミンク  経済の成長に伴って、高級品に消費が志向されるようになり、昭和30年以降にわかにミンク飼育熱が台頭した。 北海道は、気候的にも適した地域であり、又世界市場に進出できる(輸出)製品とあって本町では、昭和35年から伊藤・福井(東)高野・佐藤(市街)大出(計呂地)らがらが先駆となって飼養をはじめた。 その後、経済の上昇に従って順調なのびを見せており、昭和56年現在では、飼養戸数5戸基礎ミンク6000頭を持ち、年生産2万5,000枚、生産高2億5,000万円と伸長を見ている。伊藤達治は生産〜加工まで一貫した合理的経営を行って注目されている。

百年史topへ (6) (7) (10) (11) (12) 第1章産業構造の推移   昭和の小漁師topへ

(9)優良馬産地の形成  
駄馬の入来  本道拓殖当初の馬匹の増殖は官用(宮馬)の飼養にはじまり、しかも、それは冬期間も放牧可能な童男地帯の自然養殖によるものであって、それが行政上の要地要所に配備されて、交通の用に供されたのであるが、やがて官用以外の一部が払い下げられて私有(民有馬)が認められるようになったという経緯がある。 従って、殖民の緒につくのが遅かった北見地方に馬蹄が印されるのは、開拓使根室支庁管内でも、根釧の要地にくらべて遅れていた。 明治7年に全道の地質調査を行ったアメリカ人技師ライマンの「来曼氏北海道記事」の一節に、9月の北見国踏査の際の事情が、
  北海道の北部は駅馬稀なるが故に、余輩斜里より枝幸迄旅具を運送するに始終用じ馬を用いたり
と記されているが、当時は、
  明6・9 釧路駅逓の馬5頭を斜里駅に移す。
   明9・7 斜里・網走・紋別駅逓へ根室から官馬10頭を移す

などにみられる駅逓馬の補充に止まっていたのである。民有馬についてみても、次表のように極めて少ないものであった。
年次
郡別
明 8 明 9 明 10 明11 明12 明13 明14
斜里
網走
紋別












10

13
                          <開拓使事業報告>
  このような状況の中で、明治17年に湧別駅逓所が開設されて、官馬25頭が駅逓馬として貸下げ配置をみたことで、本町では最初の馬匹の飼育となった。 その後、同19年は運送業を営むもの1戸があり頭数は54頭に増加したが、翌20年は23頭と減少、さらに翌21年は運送屋が廃業して駅逓馬14頭と減少した。 もっぱら交通運輸のための駄馬に供された。これら馬匹の状況は、その後も変わらなかったとみえて、年次は不詳であるが、
  村内の馬数凡180頭多くは市街人の所有運搬に使役す、農民の所有10頭計りのみ・・・<殖民状況報文>
と紋別外9ヶ村戸長役場管内の状況が記されている。 なお、この時期の馬匹の移入経路については、「管内畜産沿革史」に、
  明治17年十勝大津の人岩谷善十郎16頭の土産馬を湧別地方に牽来り売却したり。
   明治24年秋十勝国大津の人瀬川喜三郎内国種土産馬150頭を湧別地方に売却し多大の利益を得たりと言ふ

などの記述があるので、主として十勝地方の牛馬商によって持ち込まれたものとみられるが、系種あhいずれも土産馬(和種)で、労役以外の時間は、もっぱら簡易な牧野に放牧して、野草で粗放飼育するのが常であった。

農耕馬の導入  明治30年以降、農業開拓が本格化すると、農耕馬の需要が逐年高まり、いっぽうで、中沢牧場(明31/瀬戸瀬)、信太牧場(明32/信部内)、野津牧場(明33・川西)など、大地債払下げによる牧野経営の開設で牛馬増殖を土地付与の条件とされていたこともあって、馬匹の導入が活発になった。 移入経路については、
  根室の牛馬商稲田九門は根室で馬を買付、斜里を経て海岸沿いに来村し、土産馬や内国雑種などを1頭7〜8円から100円ぐらいで農家に売りさばき、買人が多いので苦もなく売れた。<岡山次郎談
とあるように、根室産馬が主流を占めていたようで、これが農家に定着して、本町の馬産の基礎となった。 参考までに野津牧場の当初の状況を付記するが、
  当才5頭、2才3頭、3才以上14頭、ウチ外国種1頭、他は土産馬にて体高4尺2寸5分から4尺7寸<明33・4調=馬匹現在表>
   牡馬玉風号 新冠産1回雑種青毛7才4尺9寸5分<明36・5調=馬匹現在表>

とあって、玉風号以外は名称もなく一連番号が付されていたが、当時は「私有牛馬仮規則」(明11・5)により所有の届出義務があったので、届出て鑑札料を払い、所有を証明する鑑札の公布を受ける時の都合上、無名の馬には番号を付したのであった。 ちなみに、玉風号は明治37年1月29日の道庁告示第48号で種牡馬に登録されており、野津牧場の意欲的な増殖計画の一端をうかがえるものがある。

馬匹改良の始動  馬匹改良については、開拓使設置以来の種牡馬輸入、種馬貸付、種馬検査法の施行、種畜取締の強化、道有種畜の出張交配など、一連の行政的な振興施策が背景にあったが、本町では、それらが牧場経営の千ぺんと重なって農家の意欲と融合し、馬匹改良と馬産振興の歴史の端緒を形成するにいたった。
 開拓の進むにつれて馬車や畜力農機具が普及し、農地も拡大の一途をたどったが、体格が劣り力も弱い土産馬では効率的な作業がのぞめず、農機具の操作にも支障があったので、当然のごとく馬匹改良の気運がもりあがってきた。
その足どりをみよう。
  明34 「馬匹去勢法」施行(のちの項参照のこと)
   明35〜36 浜市街の福吉休右ェ門が常呂村よりトロッター系洋種「初雷号」を導入し、料金を取って種付業をはじめ、和田勝三郎もトロッター系種牡馬を導入、いずれも良質の産駒を出現させ農家の関心を高めた。
   明36 村農会で道有種牡馬の貸付新生を行い、ペルシュロン系「初椿号」(2才)を借受け、北兵村の松浦厩舎で管理し積極的に乗り出す。
   明37 野津牧場の「玉風号」が種牡馬に登録告示される。
   明38・3 「網走外3郡産牛馬組合」が発足、湧別支部が創立して改良蕃殖の主導的役割を果たす。
   明38 網走とともに支庁管内初の道有種牡馬派遣による出張交配開始。
   明42 本間省三(奥農場)は以前からトロッター種「軍勇号」を7円の交配料で提供していたが、この年にペルシュロン種牡馬を導入。
   明44 内山牧場が湧別からペルシュロン種「朝日号」とアラブ系の種牡馬2頭を導入し有料交配を行う。 また岩手県小岩井農場から「福竜号」「第二カス号」「丸勇号」を導入し芭露方面の馬産に貢献。
   大 2 芭露の山中鉦三郎がトロッター種「べーベル号」とペルシュロン種の2頭を導入し、村内を巡回して交配したが乱交配で受胎率悪く失敗。 また東芭露の酒巻清吉も種馬を導入して交配を行った。
   大正初期 小向の竹内牧場から「ホマレ号」が出張交配し優良産駒を生産した。 また安彦作助が「第三クレベル号」の払下げを受けて交配事業を行った。 さらに湧別市街の武藤久三もアラブ系種牡馬「モルモン号」で出張交配を行い、優良な成績をあげた。


軍需や造材のかかわり  日清戦争(明27〜28)当時、本道から3,000頭余の軍馬徴発があり、以来、軍馬需要の増大路線は、北海道が広大な土地(牧野適地と目される)を擁することから、馬産適地として明治33年に軍馬補充部釧路支部の設置となり、軍馬資源地として重要視されるようになった。
 本町でも明治36年ころから軍馬の購買が行われたといわれており、米1俵(60s)6円ぐらいのときに、1頭50〜180円で買上げられる軍馬は、開拓途上の農家経済にとって、大きな魅力であったことはいうまでもない。 買上げられた農家では祝宴を催して近所の人に振る舞ったほど、農業所得のうえで比重が大きかったのである。
 いっぽう、開拓の進展に伴う造材業の勃興や流通物資の増大による、輸送手段としてより強大な馬匹の需要が高まり、農家の馬匹改良と馬産意欲は、これらの需要を背景に、みずからの改良を通じて農耕馬以外の領域にも拡大され、農業経営の一翼に位置づけされるようになった。

去  勢  開拓使設置以来の馬産振興の一環に「種牡馬検査法の施行」「種畜取締の強化」があったが、明治34年に交付された「馬匹去勢法」は、その具体的強化策であって、官有種馬の貸付や出張交配事業と表裏して馬産改良を推進するためのものであった。質の悪い馬を増やさないために、2歳になると登録種馬以外の牡馬は総て去勢するというもので、去勢された馬は「騙馬」と呼ばれたが、去勢を行うにいたった背景には、
  開拓地では管理飼育が行われず、放牧的な飼養が多かったので、牧野での天然交配による自然繁殖が野放し状態におかれていた。 このため劣勢因子の遺伝子を抑止できないばかりでなく、2歳になると牡馬同志が喧嘩をして、妊娠馬の腹を蹴って流産させたりする恐れもあった。
といった原始牧畜の悩み解消の願いがこめられていた。しかし、去勢に対する一般の認識が低く、当初は忌避する傾向もあったので、明治40年には奨励金交付制が施行された。(この年の全道去勢頭数507頭)ほどであったが、本町方面は去勢に対する理解が深く、
  昨38年道庁種牡馬の出張交尾あるや種牡馬3頭に対し105頭を配合し、ナホ産牛馬組合湧別支部の種馬及び民有種馬に対し交尾するもの約200頭に及べり、又同年馬匹の去勢を実行したるもの122頭あり、以て其改良に熱心なることを察すべし<殖民公報>
という記録が残されている。

公営種馬事業  「殖民公報」にある明治38年の道庁種牡馬による出張交配は、網走と本町が網走支庁管内最初の試みで、道の告示には次のように示されていた。
    種  類     種牡馬名号     毛色    配合牡馬数    料金  
  トロッター種  第7ポップエークルス号  鹿毛  25頭  8円
  トロッター種  北勇号  鹿毛  20頭  8円
  ペルシュロン種   春雨号  青毛  30頭  7円
  自4月22日  至6月5日  網走
  自6月7日   至7月20日 湧別
つまり、告示配合頭数は75頭であったが、実績は105頭におよんだわけで、それに民営の約200頭を加えた300余頭の牡馬に交配が行われて、改良に対する熱意が実証されたわけである。 この出張交配所がどこに設けられ、何年間継続されたかは明らかでないが、数年で中断されたようである。
 上湧別村の分村後、北兵村3区の農家は地力の減退から営農に行き詰まり、その打開策として馬産を取り入れた有畜農業の樹立を企図し、国有種牡馬の種付所設置運動を展開したことにより、大正2年4月に網走とともに支庁管内最初の種付所が、7号線(上湧別村域)に設置され、3頭の種馬が派遣されたのが公営種付所の発祥であった。 この種付所は、その後、施設整備を機会に6号線保安林が選定されて、厩舎および付属施設が関係者の資金と資材の拠出によって建設され、大正4年に馬政局十勝種馬牧場湧別種付所として発足したが、設置位置が本町区域であったことから、両村の共同管理下に置かれ、戦後廃止されるまで存続し、本町の馬産に数多くの歴史を綴るものとなった。 この種付所開設に伴う馬匹改良増殖は次表のように進行し、生産基礎馬となる雑種、洋種の牡馬比率が60・22%から67・94%へと上昇した。
区分 和種 雑種 洋種 合計
年次
大 3
大 8
344
109
209
45
553
154
377
289
355
281
632
870

15

11
19
730
713
466
330
1.196
1.043
なお、開設当初3頭に過ぎなかった派遣種馬は、配合牝馬の増加に伴い逐次増派され、昭和10年以降は8頭となり、派遣頭数において支庁管内随一の全盛期を現出した。
 国有種牡馬による優良馬産が一般に浸透してくると、民有種馬に依存していた芭露方面においても種付所誘致運動が高まり、大正11年4月に上芭露15号線に上芭露種付所の開設をみ、重種2頭、中間種1頭の種馬が配置された。 さらに、日華事変勃発による馬産奨励が進行するとともに、計呂地種付所が昭和13年に開設され、他町村に類例のない1村3ヶ所の種付所を有するにいたった。 このことは、本町の基礎牝馬の優秀性を明らかに物語るものであった。

名種馬の思い出  国有種馬派遣頭数において支庁管内随一を誇った本町の種付所は、種馬の優秀性と基礎牝馬の質の向上が相乗りして、生産馬の市場性が着々向上するにつれて近隣の注目を浴びるようになり、各町村から配合を希望して優良牝馬の索付けも多くなって、管内馬産の主導的存在を形成するにいたったが、思い出の名種馬の功績は、いまも語り継がれている。
 湧別種付所では「ローズ号」「ジャボン号」の当初から、「アーキテクト号」「ボークルール号」「良勇号」「ソージョン号」などと受け継がれたが、中でも良勇号はアングロノルマン種で軍馬の出産率がきわめて高く、生産者に稗益するところ大であったので、昭和8年7月に受益馬産家が主体となって種付所構内(いまの家畜市場裏手)に碑が建立された。
 上芭露種付所では「第4イレネー号」「第3レスカ号」「エムリュウ号」「アルピスト号」「豪桜号」などの名種馬が名をつらねていた。 中でも第3レスカ号は、昭和の初期に秀れた産駒を数多く出し、生産者の注目と期待を集めていたが、たまたま種付期間中に急性疾患により、惜しまれつつ斃死したため、昭和7年6月に関係者の拠金によって、種付所向い側の丘に記念碑が建てられた。 以来、第3レスカの碑前で上芭露の馬頭観音祭が、第3レスカの慰霊行事と併せて行われている。

人工授精  昭和10年代になって人工授精技術が開発され、優良種の精液を少量用いて受胎させる効率的な方法が用いられはじめたが、当初は、少量の精液で果たして受胎するものなのか、虚弱質の仔が生まれるのではないかなどの疑問にかられて抵抗があった。
 しかし歳月の経過とともに不安が解消されて、時間的にも、省力的にも簡易な人工授精が普及するようになった。
国有種馬派遣種付所では昭和12年4月から実施され、上芭露種付所では翌13年4月から実施されており、馬産最盛期には交配の80%が人工授精によるものであった。
 しかし人工授精が普及しても種付馬による直接交配が姿を消したわけではなく、戦時中の馬産増強時代には、東芭露の矢崎保が重種の「多萩号」ほか6頭を所有して、芭露以外の区域にも巡回交配を行い、計呂地の篠森勇次郎も芭露地帯を巡回交配するなど忙しさがあったのである。

軍馬増殖  日清戦争以来次第に高まった軍馬の認識は、陸軍の騎兵、砲兵、輜重兵などの兵科にとって不可欠の、戦力としての馬匹の需要を高め、農村がその供給源となったが、この状況は自動車工業が盛んになり、航空機が発達した日華事変当時も変わらず、馬は兵器とともに野戦で重要な役割を果たしたのである。
 昭和13年8月に「軍馬資源保護法」が制定され、軍馬の供給を容易にするとともに、軍用保護馬に指定された2〜17歳馬は、適切な飼養管理と普段の鍛錬を加えて、能力及び馴服(馴れ従う習性)を向上させることとされた。 そして翌14年3月には、4月7日を「愛馬の日」とする通牒が出され、馬事思想の普及、愛馬奉仕、馬匹品評会、馬の鍛錬会や競技会、功労者表彰などの営みが毎年行われた。さらに同14年6月には「種馬統制法」の公布をみて、地方別に生産区分が指定され、本町方面は小格輓馬生産地域となり、7月には第一回検定(馬倹)が、翌15年11月には第二回検定が行われて、優良種牝馬の登録がなされた。 馬事に関する戦時資料の散逸で、その実態は不明であるが、次のような回想が一端を物語っている。
  湧別の馬が、軍馬の購買、種牡馬の農林省や満州国からの買い上げ、さらに種牡馬育成地(各府県、道内の上川・空知方面)唐の買上に多大の実績を示したのは、湧別産馬の声価が高かったからで、それは、湧別に優良な基礎種牝馬がそろっていたこと、優秀な種牡馬の交配を受けられたことと共に、開拓当初から牧場が多く、産駒を4〜11月の放牧で育成を図ったため、骨格のたくましい体躯が形成されたことが原因である。 特に放牧については軍の強い要請があり、関係行政庁の始動や助成によって、牧野改良や施設の充実に万全を期して対応していたのである。 また牧場の大部分が海岸か湖畔にあって、夏期放牧が涼しいうえ、飲料水から適度の塩分を摂取されるので、理想的な条件の放牧が出来たのである。<土井重喜談>
 長期にわたる戦争は、軍人の犠牲者と同じく、軍馬にも多くの消耗を強い、せっかくの愛馬を散華させ、その補充のために次から次へと買上が行われたが、優秀な馬から持っていかれる農民の胸中は複雑であった。 それでも国のためと堪え忍んだのである。
 しかし、一面では府県から基礎牝馬としての需要も多くなり、本町の馬産事業はますます盛んになって、戦争末期には全牝馬に種付が励行されるほどの盛況であった。

湧別馬の名声  大正2年から村内2歳駒品評会、昭和4年からは網走管内2歳馬共進会(北見畜産組合主催)が、湧別馬倹場(湧別種付所構内)で恒例的に開催され、軍馬購買、種馬候補馬として農林省、満州国をはじめ、種馬育成地である各府県、上川・空知方面から高額で買い上げられるなど、数多くの優良産馬を輩出し、共進会後に開かれる馬市には数日間にわたって、道内外の家畜商(馬喰)が多数来村し、大いに活況を呈したものであった。 本町産馬が「湧別馬」と特別視されたほどに優秀であったことを物語る資料として、共進会での実績を次に揚げよう。
区分
年次
出場総頭数 うち本村
出場頭数
本村擬賞馬数 擬賞内容
昭14 88 10 1等=1, 2等=2
3等=3、 4等=1
昭15 101 15 12 1等=2, 2等=3
3等=6, 4等=1
 また、昭和16年に全国の名馬を集めて東京の代々木で開かれた「興亜馬事大会」には、本町の勝本幸太が生産育成した「第5玉楓号」(アングロノルマン系4歳牝馬)が、支庁管内でただ1頭選抜されて本道代表馬として出場し、天覧の栄に浴するという快挙があった。
 「湧別馬」の全盛期の飼養及び生産の状況を、求め得た資料からまとめてみると、おおよそ次のようであるが、太平洋戦争(大東亜戦争)になってからの記録は不明である。
区分
年次
飼養戸数 飼養頭数 生産頭数
昭  8
昭 11
昭 15
908
1.009
1.091
1.498
1.757
1.746
329
365
515
1.827
2.122
2.261
293
297
306
228
250
354
521
547
660

戦後の馬産  敗戦、そして終戦という事態は馬産に大きな転換をもたらした。 その第1は「軍馬」という字句や呼称が消滅したことである。 軍馬を中心とする馬政計画に支えられて伸長していた本町の馬産は、軍馬資源保護法や種馬統制法が廃止されて、一時目標を失い、
  馬産の方向を失って生産意欲薄弱となり、指導方針として農耕馬生産に向けられたが15%150頭の未交配馬を出す。<昭23事務報告>
というように繁殖は停滞した。昭和25年5月に「家畜増殖法」の施行をみて、役馬本位の改良増殖が唱導され、重種生産への移行の動きもみられたが、自動車運輸の台頭などで輓馬の需要が減退し、昭和30年ごろまで生産はむしろ減少傾向を余儀なくされた。
 ところが、第2の転変が食肉需要の変動という新しい作動で馬匹にかかわってきた。 昭和27〜28年に戦後復興が軌道に乗ったころ、食肉価格が高騰して屠殺用に消流する馬の価格も上騰したことが、馬匹生産に新たな方向を示唆し、 
  最近の馬屠殺の増加によって馬価格は急騰し、役地区であるべき馬の最低価格が肉価格によって支えられている。昭和31年には戦前戦後を通じ最高の価格を現出しているが・・・・<北見農協連10年誌>
という消流の変容が、不振に陥った馬産に活路を見いださせる結果となり、支庁管内の馬産振興策は現実即応的な姿勢へと転換され、食肉としての商品価値の高いブルトン種の輸入が試みられるようになった。 転変期の馬匹の飼養と生産状況をみよう。
区分
年次
飼養戸数 飼養頭数 生産頭数 生産価格
(千円)
昭 23
昭 25
昭 31
昭 33
1.335
1.125
1.014
1.056
1.612
1.845
1.648
1.590
123
165
177
176
1.735
2.010
1.825
1.766
230
224

214
220

444
444
376
561


10.490
16.830

種馬事業の転変  戦後の改革で種馬統制法が廃止されて、「種畜法」に代わると、国有種馬事業も廃止されて、施設や種馬などのいっさいが地方農業団体に移管された。本町でも昭和24年に北見畜産組合所管の湧別種馬所および家畜市場と種畜牧場が、湧別・上湧別農業協同組合の共同経営に移管されたが、思い出の名種馬として「多萩号」「安寒号」「赤力号」「大錦号」(昭25・60万円で購入して話題となった馬)「温梅号」「勝工号」「幸釧号」などがあり、昭和44年までつづけられ、のち個人に委託された。
 いっぽう肉用馬蕃殖にブルトン種が導入されるようになると、芭露農業協同組合が昭和31年に、フランスから「レストゼックス号」を輸入して、上芭露種付所に繋留して増殖を手がけ、その後も数頭のブルトン種種牡馬を逐次導入した。湧別種馬所にも昭和34年にブルトン種が導入されたが,馬産衰退の時流と共に、個人に委託することになり、本町の種付所の歴史に終止符を打った。

馬産の衰退  敗戦による軍馬需要の消滅、自動車工業の台頭による輓馬需要の減退で、農耕用役馬と肉用馬に活路を求めていた馬産であったが、昭和30年代半ばからの営農機械化の潮流は、農業基本法(昭36)による農業構造改善の波に乗って急速に進展し、大小機械化が馬に代わって効率的に耕作を支配するようになり、さらに離農者がふえて農家戸数が減少するに及んで、馬産と馬匹飼養は急速に衰退の一途をたどった。
区 分
年 次
飼養戸数 飼養頭数 1戸当頭数
昭 35
昭 40
昭 45
昭 50
1.015
704
466
161
1.435
760
483
167
1・4
1・1
1・0
1・0

競  馬  馬が入植民の開拓と生活に高い比重をもたらし、馬匹導入の関心が高まってくると、農民の士気をたかめ、乏しい娯楽の一環にもと草競馬が行われはじめたらしく、
  学田農場の移民親睦会が明治31年6月21日瞰望岩下の草原で馬耕請負にきていた4,5頭の馬で競馬を催した。<遠軽町史>
という記録がある。
 次いで明治34年に創設されたという「湧別競馬」のことがある。 主催者や開催目的などを明らかにする資料は不詳であるが、同36年の村費予算で馬場建設費138円60銭が計上されているから、一つには馬産振興、一つには娯楽提供という行政的配慮があったものと思われる。 また同39年度の事務報告によれば、基本財産として造成された馬場無償貸付することとし、その貸付対象者の選定について、議員発言に、
  競馬場は従来競馬界と牛馬市組合で経営してきたもので・・・
とあるから、両者が貸与を受けて経営し、競馬は競馬界が主体となって開催されていたようである。 毎年秋に、定期的にオハギ馬場(旧公民館裏付近)で催しされ、参加馬は地元及び近村はもとより、上川方面にも及び、草競馬としては屈指の盛況で、全盛期には「湧別競馬」の人気が広く喧伝されたという。
 大正中期まで続いたという湧別競馬の人気の盛り上がりは、馬産改良にも新風を注入したとみえ、明治末期に本間省三が妊馬で買い入れたサラブレッド系種牝馬の産駒「バロー号」が、大正の初め日本の三大競馬といわれた目黒競馬(東京)、根岸競馬(横浜)、淀競馬(京都)で優勝し、大正3〜4年ころ世界の檜舞台と称された上海競馬に出場し、競馬界に名声を高めたというエピソードが残されている。
 また、芭露方面でも草競馬の試みがあり、明治末年〜大正初年のころ、愛馬家によって原野道路(6号線橋〜4号線)で開催されているが、これについては文化編=スポーツを参照のこと。
 なお、戦後、農村の娯楽と重種馬産改良の趣旨で、各地で輓馬競争が行われるようになったが、芭露でも昭和7,8年ころ上芭露種付所で実施されて、人気を集めたことがあったという。

飯豊健吾頌徳碑   獣医として日露戦争に従軍し、戦後の明治39年3月に4号線に来住して家畜医院を開業した飯豊健吾は、名利に淡々とした人格者で、診療に際しては貧富の差別なく懇切をきわめ、貧者や弱者には治療費の請求を行わなかったという。

 畜禽医療機関の乏しかった明治末期から、昭和17年に病に臥すまでの獣医師としての生涯は、本町の畜産、特に馬産の振興に大きな支えとなって農民の信頼が厚かった。また在郷軍人分会長として、消防組頭として、すぐれた指導力を発揮して公的にも本町の発展に寄与し、全村民から尊敬され、昭和12年の開村記念式では村から表彰されている。

 昭和24年に永眠したが、生前に信仰の厚かった大口丑定、木村適造、友沢喜作、野津不二三らが発起人となり、同30年頌徳碑建立を呼びかけ、篤志寄付によって広福寺境内に「飯豊健吾頌徳碑」ができあがり、同年10月除幕式が行われた。



西川治六の事績  昭和12年9月に北見畜産組合下湧別村駐在技手として着任した西川治六獣医は、芭露農業協同組合技師(昭23から)、湧別町農業共済組合技師(昭25から)を歴任して、昭和44年3月に引退(昭41定年退職以後は嘱託)するまで、概述した人工授精の普及をはじめ本町の畜産振興ひとすじに、かずかずの事績をのこしたが、その研究は、ひろく全道的にも評価される貴重なものであった。
    【主な事績】
  2年以上連続不受胎馬の成績について(昭15)、直腸検査による馬の早期妊娠診断について(昭19)、牛馬の卵巣機能障害に対するホルモン治療(昭27)、馬の子宮内膜炎による不妊症について(同)、未経産牛の受胎率向上について(昭36)、馬の早期胎児の子宮内避走(昭43)、放牧牛の「だに熱」予防(昭37より毒血接種による方法で実績を上げる)
    【主な受賞】
 家畜衛生の普及と発達に貢献(昭23農林大臣)、馬事衛生の普及発展に貢献(昭22中央馬事会会長)、湧別町の乳牛の増殖改良に貢献(昭34湧別町長)、網走管内の乳牛の増殖改良に貢献(昭40北見地方農協連合会会長)、家畜人工授精の普及発展に貢献(ホクレン会長)、湧別町畜産功労者(昭42湧別町長=開町70年記念表彰)、北海道産業貢献賞(北海道知事)

百年史topへ (6) (7) (8) (11) (12) 第1章産業構造の推移   昭和の小漁師topへ

(10)酪農郷への道程   
畜牛の入来  開拓使以来、北海道の農業開拓は、他府県とは異なる自然条件に照らして、ケプロンの意見を取り入れ、アメリカ農業に習った開発方式が志向され、
  本道農業は家畜を組み入れた畑作中心の形態とすべきである。
という理念が根底におかれていた。 明治5年にアメリカから畜牛が輸入されて、東京官園で生産飼育が開始されて緒につき、同11年には根室牧場にも配置されたのが、道東への畜牛入来の最初であった。 それが、紋別郡での飼養となると、さらに遅れて、明治21年の「北海道統計書」に、
  紋別郡 2歳以上8頭 当歳3頭
とあるのが公式には最初の統計であるが、これは、明治20年に徳弘正輝が網走から牛7頭を導入したという記録と符合するものである。

畜牛飼養の先達  本町における畜牛飼養の元祖であり、先達いわれる徳弘正輝の畜牛飼養のあらましについては「河野々帳」に、
  徳弘正輝の話 明治19年官牛4頭山田寛に貸下し20年9頭・・・・
   徳弘正輝方村野正衛の話 牛25頭蕃殖し来りしが来年より搾乳及成牛販売の見込<注・明29当時と思われる>
   牛の種類はアイシャ<注記=エアシャー>雑種道庁より拝借(今拝借分数頭)

という記述もあるが、筋としては、
  明治20年、徳弘正輝が網走から牛7頭を導入、湧別河畔に放牧したのがはじめである。種類はつまびらかではないが、エアシャーの雑種(エアシャー種と短角牛デボン或は但馬牛との雑種)と思われる。当時の状況からして搾乳の目的としてよりも、肉畜的な要素が強かったものであろう。 徳弘の導入した牛は、網走の原、山田牧場からであったが、逐次これを増殖し、30余頭に達した。 この牛は紋別郡内に分譲されたものと推測される。<古老談>
のほうが妥当なようであり、これにかかわる記録として、
 明治26年高野庄六が湧別の徳弘正輝から牛10頭を買受け小向八十士の牧場に放牧したのが紋別における牛の飼育のはじめであった。<紋別市史>
  明治28年 紋別郡44頭<北海道統計書>

などが、徳弘正輝の先達ぶりと本町の畜牛の先進の一端を物語っている。
 しかし、明治31年の大洪水で、湧別河畔に放牧していた牛のほとんどが斃死し、この被害によって徳弘正輝は、ついに再起できなかったといわれている。
 徳弘正輝に次いで畜牛飼養を試み、本町における牛の歴史の先達となった人々はおよそ次のようであるが、おおむね肉畜としての域を出なかったようである。
  昭34 三沢長之助が学田で畜牛を飼育。
  昭36 寒河江豊吉が学田で畜牛を飼育(明38信太信之に買い取られた)。
  昭37 川西で小谷幸十郎が、次いで西沢収柵、滝本房吉らが短角牛を飼育し、肉畜として旭川の三光舎を経て陸軍第七師団に売却。
  昭40 イクタラ原野の安立治七と安立啓三郎が乳肉兼用雑種牛各1頭を飼育(2頭で250円で購入)


企業的牧畜牛  前項で記した先達の先験的な畜牛飼養の営みはあったものの、初期的な開拓途上という条件下にあっては一般農家の関心を集めるまでにはいたらず、牛は無縁に近い存在で、家畜といえば、もっぱら耕馬の導入に目が向いていたのである。
 そうした中で、当時、もっぱら大地積の土地取得の方便として、牧場経営を志向する農業資本の進出(開拓編参照のこと)があり、本町においても、信部内の信太牧場、川西の野津牧場などの例がみられた。牧場方式による開拓では、一般農業開拓に開墾の成功検査があって付与されるという貸下げ条件があったように、大地積貸下げ(企業条件付の売払地)〜成功検査には牛馬頭数の規程があったので、当然、企業者は牛馬の放牧に意を用いなければならなかったわけで、
  明38 信太寿之が牧場を開設し畜牛を放牧(20頭ほど)。
   明40 信太寿之、の津幾太郎ら大牧場経営者が全道から畜牛を購入し放牧。

などの記録が伝えられているが、信太牧場の例をみると、明治41年が成功検査期限であったが、既定条件に達する頭数を所有しなかったため合格延期となり、翌年200頭の牛を各地から買い求めて、ようやく合格したといわれており、当時の本町の畜牛は、おおむね信太・野津両牧場に偏在していたのが実情であった。
 しかし、牧場方式による企業経営は、日露戦争後の不況という事態に直面し、肉牛需要の減退から不振を余儀なくされ、相場が成牛100斤当り、
  明41=24円50銭 明42=15円50銭 明43=13円
と低落する状勢を反映して、明治43年には早くもの津牧場が全牛を、信太牧場も大部分の牛を売却して、大規模牧畜牛の飼育は終わりを告げた。

酪農の芽生え  肉用本位的な畜牛飼養の中にあって、搾乳を試みる動きも徐々に芽生えていたが、販路に恵まれなかったため、
  明治40年下生田原の安立治七と安立啓三郎が乳肉兼用牛を飼育した当時は、牛乳は1升6銭が相場であったものの販路に恵まれず、自家引用の他は畑に投棄した。
という状況におかれていたようで、こうしたことも一般農家への畜牛の普及が遅れた原因であったのかもしれない。
ほかにも、
  明39 三沢恒助が遠軽で搾乳販売を試みる。
   明42 信太牧場が4号線に搾乳所を設け販売を試みた。

などの試みはあったが、牛乳販売の方法だけであったから、いきおい乳肉兼用的な飼養の域にとどまっていた。明らかに酪農生産に着目した営みがみられたのは、芭露の内山牧場の開設(明42)が契機であった。
  明42 内山牧場(支配人=大口丑定)開設と同時に卯原内の峰村牧場からホルスタイン雑種1頭を160円で買入れ、乳牛飼育を行う。次いで佐呂間村の林某、常呂村の瀬川某からも買入れ乳牛増殖に取り組む。
   明43 4号線の戸沢栄吉が信太農場閉鎖時に畜牛、搾牛所、住宅を無償で譲り受けて牛乳店を開業。
   大 2 内山牧場が岩手県小岩井農場からホルスタインとエアシャー種各1頭の種牡牛を導入して蕃殖をはかる。
   大 3 戸沢栄吉が小向の斉藤某からエアシャー種1頭を購入し搾乳。
   大 5 内山牧場が空知の北村からエアシャー種4頭とホルスタイン種1頭の牝牛を導入し蕃殖用基礎牛とする。
   大 5 内山牧場が湧別5軒町(浜市街)に生乳販売牧場「大成舎」を開き牛乳販売=管理人に島田梅十。
   大 6 大口丑定が旭川の旭農場からバター製造技術者を招き、手回しチャーンやセパレーターなどバター製造道具一式を購入し、バター製造技術を取得。
   大 6 下湧別村統計に牛22頭が記録されている=まれに肉牛を飼育する他は大成舎6頭、戸沢牛乳店4頭と内山牧場のもの。
   大6〜7 内山牧場では1日1斗ぐらいの原料牛をバターにして売り出し、東京の明治屋にも送付販売(1£1円ぐらい)。またクリームに分離して札幌の旭東練乳に送付販売。
   大 8 野崎寿が登栄床に牧場を開設し、短角牛、ホルスタイン雑種、エアシャー種を飼養=管理人に斉藤金三郎。
   大10 戸沢栄吉が全牛を佐藤松蔵に売却し飼養を中止。
   大11 大成舎を三沢義男に売却

右のうち大成舎と野崎牧場について補足してみると、大成舎の牛乳販売は、湧別市街のみにとどまらず、中湧別、遠軽や留辺蘂方面にもおよび、日量最高5斗を直販したという。 さらに残余の牛乳は野付牛で牛乳販売を営んでいた相原幸四郎に送付販売を行うなど常に7、8頭の飼育搾乳を行って、市場拡張にも並々ならぬ努力が重ねられた。 また野崎牧場では生産した牛乳を分離機にかけてクリームにし、野付牛の森永工場に送付販売するとともに、飼養頭数も最高20頭をかぞえたこともあるなど、多頭集約経営にも意をそそぎ、いくらかでも畜牛飼養を夢見るものの注目を集めたものであった。 その後、昭和7年に野崎牧場は斉藤金三郎に譲渡され、新田又四郎が管理人となって継承されたが、戦後の農地改革のときに開放された。

 
肉用牛馬集約飼養の営み  大成舎や野崎牧場の例にみられるように、酪農の芽生えは消費需要の拡大〜市場開拓という事業的な営みが伴っていたから、大口丑定らが付近の農家にも酪農を勧奨したもので、市場環境の未成熟のため、ためらいが多く、一部の芽生えの範囲にとどまり、村全体としての双葉を見るにはいたらなかった。 もっとも、この過程には、第一次世界大戦の雑穀景気があって、牛に目が向かなかった時代相もあったし、その後の反動不況で、牛どころではなかった苦境が続いたこともあって、これが大きくかかわっていたことも見逃せない。 従って肉用牛も含めた飼養状況は、
  大12=20戸で84頭  大13=12戸で45頭

といった程度で、農業経営の体制にはほとんど影響が及んでいなかったが、畜牛飼育という視点に限ってみれば、酪農の芽生えと併行して肉用牛の集約飼養の営みがみられた。このことは酪農の機いまだ熟さぬときにあって、有畜農業を志す者が試みた自然の成り行きであったと思われるし、牛を飼育するという感覚や技術の面では、酪農の芽生えと同じように価値ある営みであった。 大正10年に、
  ・ 戸沢栄吉から牛を譲り受けた佐藤松蔵が肉用牛として飼養をはじめる。
   ・ 川西で宮田栄が短角牛10余頭を飼育する。
   ・ 5号線で横沢金次郎が短角牛を飼育する。

が、それで、いずれも乳牛飼育にはいたらなかった。 このうち佐藤松蔵の例をみると、漁業のかたわら畜牛を飼養したもので、有畜漁業という珍しいケースであった。現在の警察官駐在所の隣付近に短角牛7頭、エアシャー種1頭で開始し、のちには5月以後は登栄床以東〜ワッカ間に放牧し、11月になると舎飼いする方法をとり、大正13年にはホルスタイン雑種2頭を導入するなど多頭集約経営を進め、最盛時には20頭をかぞえたが、同15年に全牛を売却して牛から手を引いた。

恐慌と農政のかかわり  第一次世界大戦中の輸出農産物の好況にあおられて、不合理な略奪的営農がつづけられた結果、地力の極端な減耗をみ、それが大戦後の反動不況と重なって、農家経済は恐慌状態に陥り、離農者や不耕作地が続出し、空前の農業危機を現出した。
 そこで大正9年に北海道庁長官宮尾舜治が打ち出したのが、後世「宮尾農政」として評価された有畜農業化政策であった。宮尾農政は、「地力増進を基本とする有畜農業化」を理念とし、「デンマーク農業を理想とする酪農建設」を目標として掲げたが、これは開拓使当時ケプロンらが唱えた方針を大宗とし、酪農界の意見を入れてアメリカ式農法を一歩前進させるものであった。 そして、その中核に据えられたのが、「ビート耕作」と「乳牛飼養」であり、具体的には、
 (1) 甜菜糖業の再興に見合うビート栽培の普及奨励による輪作体系の確立
 (2) ビートと乳牛の組み合わせによる地力増進のための堆廐肥の増産
 (3) 牛乳生産による農家の毎月の現金収入の道をひらき冷害に堪える複合経営の確立
が提唱され指導された。 ひきつづき諸制度の整備が行われ、
  大15 畜産計画の統一により「畜牛馬奨励規則」 「酪農奨励規則」を制定。
   昭 2 第二期北海道拓殖計画実施により「種牡牛、蕃殖牝牛、一般畜牛の購入補助」「酪農組合の組織指導」「共同集乳所、クリーム分離所、その他共同施設に対する助成」を推進

など酪農の育成策が積極的に進められた。 これにより、本町における酪農も双葉から葉茎への成長の兆しをみせるにいたった。その道程については次項に詳述するとして、大正末期の畜牛飼養状況は次のようであった。
  大正14年 29戸 82頭<支庁統計書>
  大正15年 牝84頭 牡27頭 計111頭<村勢一般>

酪農の勃興 一部の芽生えにとどまっていた本町の酪農が、第一次世界大戦後の不況のどん底から立ち直ろうとする営農意欲の中で、双葉に育ち、葉茎への胎動を確かなものにしたことは、今日の酪農郷を思うとき、その基礎形成期として、本町の酪農史のうえに貴重なページを綴るものであった。
足どりの概要は、
  大13 加藤友吉が信太農場牧場跡で(大10入地)ホルスタイン雑種を導入し乳牛飼育をはじめる。
   大14 ビート栽培をはじめた(大9)湧別地区甜菜耕作改良組合を対象に、千葉県から補助牛20頭を導入し10戸に配分。同時に種牡牛「ハーゼルウット・ベッシヒーローキング号」を導入し蕃殖に着手=管理人に加藤友吉(昭25まで継続)
   大15 補助牛飼育者が主体となって「湧別畜農組合」を組織し、組合事業として4号線に集乳所設置


  昭3 信部内の拓殖銀行小作農が地主に折衡して融資貸付牛18頭を導入
   昭4 内山牧場の事業整理縮小(放牧預託事業は継続)により、芭露20余頭、ほかに上芭露,志      撫子、計呂地方面にも畜牛が買い取られた
   昭4 芭露酪農組合を結成し、翌年に組合集乳所を設置
   昭7 東の新田又四郎が種牡牛導入
   昭8 村費から種牡牛飼養管理費に補助金支出(畜産奨励費600万円)
   昭8 上芭露、東西芭露、志撫子をふくめた酪農組合を創立し、組合営集乳所を設置=2年を経       て解散
   昭8 16戸の飼育者で計呂地酪農組合を設立し、翌年集乳所を設置
   昭9 産業組合により川西集乳所開設
   昭10 東の鈴木平吉が種牡牛を導入
   昭11 東芭露に集乳所設置(昭17廃止

 と全村に酪農の芽が伝幡したことを物語っており、飼養と生産状況も次のように伸びていった。
区分
年次
飼養
戸数
飼養頭数 飼養頭数別戸数 牛の生産 牛乳の生産
1頭 2頭 3〜
4頭
5頭
以上
頭数 価格
(円)
搾乳
者数
搾乳
頭数
搾乳量
(石)
価格
(円)
昭 6
昭 8
昭10
昭11
84
129
178
179
135
225
393
379
20
24
38
54
155
249
431
433
45
65
-
-
24
35
-
-
10
20
-
-
5
9
-
-
49
62
90
123
1.960
2.080
4.050
-
-
75
-
121
-
135
-
203
959
1.633
1.821
2.491
7.793
13.064
13.075
20.168
           (-欄は資料不明)
なお上芭露、東芭露、西芭露、志撫子方面での酪農が、酪農組合の解散にみられるように、他の地域に比して普及定着が粗であったのは、ハッカ栽培とのかかわりからである。

戦時統制と戦後の混乱  日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)と進む中で牛乳は、カゼイン(接着剤)製造が軍の需要で大幅に増加したため、その原料として確保が要求され、「酪農業調整法」により強い流通統制が行われて、ほとんどがカゼイン原料として供出された。 さらに一般乳製品は、軍需のほか産業戦士や育児および病弱者などの栄養源として増産を要請されたので、酪農に対しては農耕飼料の配給、飼料作物の作付割当など、適切な奨励策がとられたため、昭和17年をピークとして、ほぼ200戸400頭台の飼養状況が維持されて経過した。
 しかし、終戦直後の経済混乱と食糧危機は、家畜の飼料まで割いて人間の食糧に回されるようになり、加えて農耕飼料の生産の低落と配給機能の停止があって、飼料事情は最悪の状況に陥り、そのうえ欠かすことのできない塩の欠乏で畜牛の健康が害され、蕃殖に障害を生ずるなど、乳牛飼養も危機的様相を生ずるにいたった。 このため、全道的に屠殺牛の増加がみられたが、本町の場合は、幸いにも粗飼料の依存度が割合高かったため、わずかな減少にとどまり400頭台を維持した。
区分
年次
飼養戸数 飼養頭数 生産頭数
昭15
昭17
昭23
198
230
194
421

417


425
463
422
73

68
54

41
127

109

改良増殖事業  畜牛の改良増殖は、開拓使時代から種牡牛の輸入による直接交配によって行われ、和牛(南部系役用牛)の更新が進められた。 肉用牛本位の時代は主として短角牛の輸入があり、本町でも繋留があった。 乳用種に移行すると各種の輸入をみたが、大正年代にはエアーシャー、ホルスタインの2種が圧倒的に普及し、次第にエアーシャー種より乳量の多いホルスタイン種の交配が支配的となり、昭和12年の本町のエアーシャー種の飼養はわずか3頭と減少し、やがて姿を消し、ホルスタイン一色となった。
 泌乳量の多募が乳牛の価値を決定するばかりか、酪農経営全体を左右することから、種牡牛の選定と飼養管理の充実向上を目的として、昭和8年からは種牡牛の飼養管理費に村費助成が行われ、同21年まで継続されたが、この間、6〜7頭の種牡牛が各地区の酪農組合に分配配置されて、乳牛の改良と生産に供用されたこともあった。

転機に処した酪農奨励  終戦後の酪農危機を打開するため、昭和22年末から全道的な酪農再建運動が強力に展開され、行政的に、
  昭23 大豆粕の放出
       増産奨励制度実施=牛乳1石に対し大麦3斗3升還元
   昭25 「下湧別村畜牛導入資金転貸条例」 「自給肥料増産施設資金転貸条例」 (堆肥場、尿溜)を制定
       道の「畜産振興5ヵ年計画」策定により、最初の具体策として「北海道家畜貸付規則」発足

の動きがあった、北海道家畜貸付規則は通称「道有牡牛貸付制度」といわれ、無牛農家に限り最初の牝仔牛で返納することを条件に、貸付牝牛を無償で払下げするもので、本町でも昭和27年に、この制度による導入が行われた。 この間、乳価も物価高に応じて上昇を示し、1升(1・8g)当りが、
  昭21=6円10銭 昭23=10円85銭 昭24=49円30銭
と、安定の方向がひらけた。 その結果、村内の乳牛飼養状況は次のように伸びた。
区分
年次
飼養戸数 飼養頭数 生産頭数
昭25
昭27
250
294
564

568
689
68
41
109
なお、この間には昭和24,5年を契機とした経済の立ち直りによる食糧事情の好転もあり、農業の転換期がしのび寄っていたことも見逃せない。 そのあたりを次の記録が物語っている。
  農家経済のひづみの兆候がみられ、本年に至り国内事情もいちおう落ちつきをみせ食糧事情も好転、統制経済撤廃の気運も見え、輸出を目してハッカ其の他特用作物を取り入れる経営の合理化に向かふ。一面農家戸数人口の増加で経営の零細化は必然で農村恐慌の事態に直面す。このような情勢に立って、経営合理化を図る基本策として5ヵ年計画を樹て・・・・又機械化導入に力を入れ余剰労力による家畜導入酪農経営を奨励するも、過渡期でみるべき成果は揚げられなかった。<昭25・事務報告>

人工授精  種牡牛による交配は、馬の場合とちがって、牝牛を種牡牛の繋留場まで連行しなければならない不便があった。こうした不便を解消するため、馬の人工授精より遅れて昭和17,8年ころから、牛の人工授精が試行されるようになり、次第に成果をたかめ、同19年以降支庁管内各地に人工授精事業がひろまった。
 昭和25年に北見地区農業協同組合連合会によって、人工授精事業の一元化整備がなされ、翌26年10月から芭露農協が人工授精を開始し、同30年4月からは、町内全農協が農業共済組合に委託して100%実施の道がひらかれた。この結果、種牡牛の繋留飼養は姿を消した。
 こうして、牛の精子が生理的に対外での生存能力が高く、外界の感応に対する抵抗性が強いという特質を生かした人工授精は、乳牛の改良増殖に画期的な変革をもたらしたのである。

酪農路線の本格化  転換期に直面した畑作農業にとって、昭和28年の冷害凶作は将来の方向を決定するうえで大きな契機となった。 そして同年「有畜農業創設特別借置法」、翌29年6月に「酪農振興法」の制定をみるにおよんで、最善の道として酪農振興が位置づけされ、有畜農業創設資金や乳牛資金の導入をみて乳牛がふえ、本格的な酪農路線定着の営みがはじまった。
  昭31 集約酪農地域の指定を受ける
       転貸資金に代わる「湧別町家畜貸付条例」制定(牝牛の5年貸付による10ヶ月以上成育の牝牛返還)=これによる貸付牝牛延233頭
   昭32 「国有貸付牛制度」設定(多頭飼育化の促進)=これによる貸付牝牛導入は、
       ・昭32 芭露地区・信部内地区に2群40頭
       ・昭35 東地区・福島地区に2群40頭
       ・尾萩地区に1群20頭
   昭33 「湧別町牝牛改良資金貸付条例」制定(酪農開発事業団の牝牛改良資金融資による優良牝牛の導入)
   昭34 町内乳牛頭数2,000頭達成記念式
   昭37 町内生産乳量5,000d突破

  
区 分
地区別
飼養戸数 飼養頭数 1戸平均飼養頭数
信  部  内
川     西
市街・4号線
東・福  島
芭     露
上・東・西芭露
志撫子・計呂地
46
69
44
130
75
51
132
316
469
193
526
421
164
461
6・87
6・79
4・38
4・01
5・61
3・49
3・49
547 2.550 4・66

  昭38 国費補助道有貸付牛8頭を計呂地地区に導入
   昭39 酪農開発事業団貸付牛28頭を計呂地に導入
   昭40 酪農開発事業団貸付牛を上芭露に25頭、東に18頭導入
        「湧別町優良種牝牛貸付条例」制定および「湧別町優良種牝牛増殖事業協会」設立
   昭41 町内乳牛頭数5,000頭、生産乳量1万d達成記念大会


   【昭和41年】
区 分
地区別
飼養戸数 飼養頭数 1戸平均飼養頭数
信  部  内
川     西
尾     萩
市街・4号線

福     島
芭     露
上  芭  露
東  芭  露
西  芭  露
志  撫  子
計  呂  地
44
58
20
19
91
21
57
27
19

41
75
688
841
90
157
892
213
705
215
25
38
340
822
15・64
14・50
4・50
8・26
9・80
10・14
12・37
7・95
1・32
4・75
8・29
10・98
480 5.026 10・48
こうして5,000頭を突破し、本町農業の不動の核となった酪農は、さらに多頭集約経営の道を歩むのであるが、上表地区別の飼養状況をみると、立地条件や離農過疎と農業基本法の相乗進行が酪農形成に大きくかかわっているということがうかがわれる。
 前記優良種牝牛導入施策の成果として昭和57年斉藤正孝(計呂地)飼育のホルスタイン種スリーオークス・オイラ・エリック号が2・5歳型で乳量日本新記録(1万3,224s)を樹立するという特筆すべき快挙があった。

ダニ熱予防  芭露の放牧場には、古くから「ダニ熱」が潜在し、汚染のない地域から導入した牛の羅患率が高かったので、これの予防法を研究していた西川治六医師は、一度ダニ熱に掛かった牛の血液を注射することにより、免疫的な抗体条件が得られ軽度に経過することの成果を得、昭和37年から放牧3ヶ月前に毒血2tの接種を実施して効果をあげて、現在に至っている。 乳牛2,000頭達成記念式での表彰は、こうした功績が讃えられたものである。

乳牛1万頭突破  昭和40年からはじまった「湧別町酪農近代化計画」(5ヵ年計画)の推進は、優良種牝牛の導入(乳牛の資質改善の項参照)、酪農経営の近代化および集約拡大などを促進し、本町の酪農を網走支庁管内屈指の域に躍進させ、全道的にも有数の酪農郷を実現させた。 昭和45年の農業センサスにみる本町の乳牛飼養頭数を、支庁管内の他町村と比較してみよう。
   【乳牛飼養頭数】       昭和45年
区 分
町村名
飼養頭数
    頭
飼養農家数
      戸
戸当り頭数
   頭/戸
東藻琴村
女満別町
美幌町
津別町
斜里町
清里町
小清水町
端野町
訓子府町
置戸町
留辺蘂町
佐呂間町
常呂町
生田原町
遠軽町
丸瀬布町
白滝村
上湧別町
湧別町
滝上町
興部町
西興部町
雄武町
北見市
網走市
紋別市
1.915
1.958
2.660
3.067
2.412
1.778
2.985
462
4.679
3.261
1.867
7.028
1.330
1.467
2.942
620
529
2.737
6.712
1.542
5.343
1.421
4.422
3.430
3.012
7.507
153
179
269
275
223
122
269
53
363
277
207
705
122
185
307
58
44
239
504
194
288
127
261
393
291
577
12・5
8・5
9・9
11・2
10・8
14・6
11・1
8・7
12・9
11・8
9・0
10・0
10・9
7・9
9・6
10・7
12・0
11・5
13・3
7・9
18・6
11・2
16・9
8・7
10・4
13・0
合  計 76.713 6.685 11・5
全  道 448.976 37.739 11・9
さらに、町、農業協同組合、農家が一帯となった酪農への取り組みは牧野造成(牧野の項参照)、草地改良の積極的な展開となり、また、
  昭45 ホクレン「乳用牝牛貸付制度」発足
   昭51 酪農短期大学芭露分校開設
   昭53 アメリカ、カナダよりの輸入牛導入開始
        酪農短期大学湧別分校開設

などの経過もあって、一面で、
  昭47 肉価高騰により乳牛流出(犢の生まれおちが70,000円)
   昭48 オイルショックのあおりで飼料の異常高騰

などの苦難もあったが、よく克服して、昭和48年には7,674頭と人口(7,176人)を上回り、同53年には1万887頭と、輝く1万頭突破を果し、盛大に「乳牛1万頭達成記念式」が催された。
区 分
年 次
飼養戸数 飼養頭数 1戸平均頭数 牛乳生産量
(t)
牛乳生産額
(千円)
昭 40
昭 45
昭 50
昭 55
517
479
398
360
4.476
7.159
9.094
10.710
8・66
14・95
22・83
29・75
10.797
18.828
21.104
30.666
331.544
817.510
1.375.946
3.644.000

肉用牛飼育の伸展  昭和35年に1戸で2頭、同38年は7戸で17頭、同41年は3戸で14頭、同44年はゼロと微々たる飼育にとどまっていた肉用牛が、昭和48年以後急速な伸びをみせた。
区 分
年 次
飼養戸数 飼養頭数 個体牛生産額(千円) 1戸平均飼養
頭   数
昭 46
昭 48
昭 50
昭 52
昭 55

47
32
25
26
12
801
1.807
2.325
3.824
141.768
695.910
733.595
1.221.440
1.354.000
1・71
17・04
56・47
93・00
143・22

 これは昭和47年に肉価の高騰で、乳牛の流出があったことも関連しており、せっかく形成した酪農の基盤をそこなうことなく、肉の消流に対応する新しい道をひらいたものである。本町における、この新しい息吹の対象となった牛は、もともとの肉用種ではなく、ホルスタインの牡牛であって、従来は酪農家に比較的軽視されていたが、これを肥育して成肉牛として、あるいは肥育用仔牛(犢)として、有利に販売することに着目したものであった。昭和48年に石油危機(オイルショック)で価格の暴落があって、先行き不安を思わせる局面はあったが、
 (1) 畑作から畜産への転換を、ホルスタイン牡牛の肥育飼養に求め、町費助成による初生犢の肥育試験を実施した。
 (2) 畑作からの転換のみでなく、酪農経営の多角合理化策の一環として畜産農業協同組合が取り組み、昭和49年の農業構造改善事業には類型として肉牛を位置づけした。
などで本格的にスタートした。 乳牛(生乳)の場合とことなり、食肉相場の変動による価格不安の要素をかかえてはいるものの、
 保育  6ヶ月(肥育用犢として販売)
 肥育 18ヶ月(生肉牛として販売)
の計画飼養が行われている。
 なお、昭和53年には乳牛1万頭達成式と同時に「肉牛3,000頭達成記念式」が行われている。

飼養事情の変遷  初期の畜牛飼養は、夏にはほとんど放し飼いで、「冬は集草を与え昼放牧夜舎付」<河野々帳>
いうように、野草を唯一の飼料とした粗放的な肉牛生産方法がとられており、海岸線に繁茂するハマナスの実を採食した牛は肉質が上等で高価に取引されたという。
 大正年代末期にビート栽培の奨励と関連したビートパルプの還元などで、粗飼料に変化をもたらし、堆概肥生産に主力がおかれたことから、冬は薬稈類を主とする残搾物が主飼料となり、舎飼いが行われるようになった。
 牛乳生産に目的が変わるにおよんで、乳量や脂肪率を高めるため、飼料の吟味と研究が進められ、粗飼料は禾木科牧草から、より栄養価の高いクローバー類に移行し、自家生産の大豆、玉蜀黍、燕麦などの挽割りや、大豆粕、ふすま、米糠などの購入飼料が濃厚飼料として与えられるようになり、デントコーンなど、飼料作物の栽培も行われるようになった。

 サイロの普及とともに、サイレージ原料のデントコーン作付面積が拡大の一途をたどるようになり、冬期間の多汁性粗飼料の確保がはかられるようになった。 さらあに飼育技術の改良進歩は、サイロのグラスサイレージにより年間利用の道がひらかれ、夏期も生草詰め込みにより飼料効率を上げることが出来るようになり、サイロは酪農経営にとって不可欠の施設になるとともに、サイロを通じて飼養の合理化がみられるようになった。
 昭和33,4年ころから配合飼料の給餌が行われるようになり、次第に全面的な購入飼料依存に移行して、デントコーンの作付が減少した時期もあったが、購入飼料の高騰(特に昭和48年の石油危機以降)から、デントコーンが再び見直されているものの、飼料の選択は牛乳の脂肪率(乳質等級〜乳価に影響)を左右するものであり、また、昭和53年以来原料乳価が据え置かれている事情もあって、酪農経営上いかに支出を控えて所得を高めるかという観点から、飼料の研究が進められている。
 なお、仔牛の育成には、一般に脱脂乳の給餌が行われていたが、近年、人工乳(カークミール)が開発され、合理的な人工乳への移行がみられる。 ところが、昭和52年から原料乳が供給過剰(生産過剰)ぎみとなったため、買上限度を乳製品メーカーと交わすようになり、余剰生乳を仔牛の育成に流用する傾向がみられる。

サイロ建設  大正15年に内山牧場で地下サイロを設けたのが、本町初のサイロで、穴を掘り周囲に3分板を張りめぐらした深さ3〜4b×直径2〜3bほどのものであった。
 昭和9年に大口丑定が、木造ながら地上サイロを築造し、これが畜牛飼養に好影響をもたらして、翌10年には島崎卯一がコンクリートサイロを建造するなど、逐次農家にサイロ建造が普及していった。 なかでも昭和11年に越智頼義が建造した煉瓦のサイロは、700余円を投じたもので、農家の年収が500〜1,200円ぐらいといわれていた当時としては、破格の豪華さで人々の目を見はらせたが、いまにして思えば、実に模範的で先見の明に価するものであった。 それを証する話題として、
  越智頼義の営農方式は、このサイロを通じて酪農に集中され、昭和17〜18年に満州国から派遣された酪農技術伝習生が預託されたほど、優れたものであった。
と語り継がれている。
 戦時中は型枠によるコンクリート造のサイロが多く築造され普及がはかられたが、戦争末期には資材不足のため中断のやむなきにいたった。
 戦後、酪農の普及進歩とともにブロック造サイロが著しい普及をみ、昭和27年には町内に95基をかぞえ、飼養戸数の31%にサイロがみられるようになり、昭和30年代からの酪農路線の本格化で100%普及した。 ブロックのサイロの次に出現したのが「真空サイロ」と呼ばれるサイロで、より有効な飼料を確保し、効果的に給餌するための真空式鉄筋ブロック造が、昭和53年から各種制度資金の導入によって進められた。 1,600〜2,000万円の2分の1が補助、残りの80%が融資によるものである。


乳牛資質と乳質の改善  乳質改善の面では、道が主催する「乳質改善共励会」がはじめられ、本町からも出品して優秀な成績を収めた。
  昭28 芭露酪農組合が最優秀賞(全道第1位)
   昭30 川西酪農組合が優秀賞
   昭32 信部内酪農組合が優秀賞
   昭37 川西第1酪農組合が優秀賞
   昭38 中央酪農組合が優秀賞

 昭和30年代の乳質改善は、いかに2等乳を少なくするかにあったが、これら知事表彰に輝く成果は衛生管理の向上や落等防止に大きな効果を波及させるとともに、以後、クーラーの導入により乳質改善保持が、いっそう増進された。
 乳質改善は飼料と生乳の取扱い管理が直接影響することは概述したとおりであるが、搾乳される乳牛の資質が基本的にかかわることももちろんである。そのため良質の乳を1頭の乳牛からより多く搾乳することと、優秀な後継仔牛を生産することを念願して、乳牛自体の資質改善も行われた。 昭和39年に町内の乳牛頭数は、ついに4,000頭を突破したが、資質面は雑種が大部分を占めていて、乳量あるいは個体販売のうえで先進地に比して不利益をまぬがれなかったので、関係機関が協議し、
  昭40 「湧別町優良種牝牛貸付条例」制定をみて、「湧別町優良種牝牛増殖協会」発
となった。 協会は年間町費200万円と3農協200万円の出資で、種牝牛を増殖するもので、種牝牛の導入は年間20頭を石狩、空知方面から購入して、町内酪農家に貸付され、昭和47年に目的を達して、優良種牝牛増殖事業は終わりを告げた。 この間、昭和43年には第1回「湧別町ホルスタイン共進会」が開催され、以後、関心の深い催しとして継続されているが、こうした努力がみのって、
  昭52 越智信の所有牛が3歳級乳脂量北海道1となる
という快挙を果たしている。

販売と集送乳  牛乳販売の初めは、明治35,6年ごろ信太牧場が個人の需要にこたえて、北湧小学校に通学する児童に託し、水筒に入れたものを屯田本部に届けたという。
 初期の市乳的な販売や生産乳の集乳については一部概述したが、生産乳の販売の大勢は、飼育者が共同(酪農組合)して集乳所を設置し、分離機を備え付け、技術者を雇って受入やクリーム分離に従事させ、脱脂乳は自家用に持ち帰り、クリームだけを乳業会社に送付販売する方法であった。
 本町最初の集乳所となった4号線の集乳所(大15・湧別畜農組合)は、各地域に集乳所が設置をみるまで信部内、中湧別方面一帯の農家に利用され、昭和14年2月に中湧別に北海道製酪販売組合連合会(酪連)の工場が開設されるまで、名寄や野付牛の乳業会社にクリームの送付販売をつづけて閉鎖した。 また、現湖陵中学校敷地のところに設置された集乳所(昭5・芭露酪農組合)では、内山牧場が使っていた分離機などの分譲を受けてクリームに分離し、鉄道開通まで馬車や馬橇で乳業会社に送付販売をしており、奥地に集乳所ができるまでは、上芭露や東芭露からも生乳が持ち込まれていた。 このように酪農組合の集乳所は、乳業会社の工場が進出するまで、自主的に共同運営されていたのである。 参考までに昭和年代初期の乳価をみると、次表のようである。
      原料乳価格表(標準乳価)=夏価格
           脂肪3・2%、1升当価格
区 分
年 次
1等乳
2等乳
昭 4
昭 5
昭 6
昭 7
昭 8
17・15
15・23
8・83
7・36
9・60
14・24
12・99
7・94
6・72
8・96
なお、昭和6〜7年と底値を示しているが、これは連続冷害と関連したものではなく、当時の世界的な経済恐慌に処して、昭和5年1月に金輸出解禁を実施したものの、厳しい恐慌にはなんら効果を示さず、かえって安価な乳製品の大量輸入となって、わが国の乳業界を混乱に陥れた結果なのである。 各乳業会社の操業短縮は原料乳の買入制限となり、森永練乳野付牛向上では昭和5年9月に45%の受入制限を実施したほどであった。 売れない牛乳をかかえた生産者に大動揺を与え、牛乳処理問題は深刻をきわめたので、その対策として北海道製酪販売組合連合会(酪連)は工事中の遠軽分工場を設計変更して製酪工場とし、工事を急いで同年10月21日に操業を開始するという一幕があった。
 酪連遠軽工場の操業により酪農の生乳生産と製酪の分業体制が明確になり、集送乳販売は産業組合の手に徐々に移行し、戦時「酪農業調整法」により、産業組合の業務と規定されるに至った。
 昭和14年12月に酪連中湧別工場の操業開始により、クリーム販売から全乳販売に変わったため、各地区の集乳所は廃止され、しかも軍需カゼイン製造のため供出販売に移行することになった。 つづいて同16年4月に戦時即応の企業統制により、酪連と乳業会社を大合併した北海道興農公社の発足となって戦後までつづいた。
 戦後の昭和23年2月に「過度経済力集中排除法」の指定を受けた興農公社は、北海道バター株式会社、雪印乳業株式会社に分割され、一部資産を森永乳業株式会社にも譲渡して、事実上3分割の形となった。 このとき遠軽工場は森永乳業に売却され、中湧別工場は雪印乳業に所属することになり、集乳区域も芭露から床丹にいたる芭露方面は森永に、湧別方面は雪印に編入されることになったが、芭露方面の一部生産者の間に、利害得失の関係から中湧別工場(雪印)に所属替えを希望する運動があって波乱をみたものの、結局は生産者の自由な判断にゆだねられ、大勢としては2分した形になった。
 その後、国民全体の食生活が経済復興〜成長につれて次第に向上した結果、飲用乳や乳製品の消費が著しく伸びて、生産乳の販路が拡大されたが、同時に乳業メーカーの集乳合戦も活発となり、本町は雪印乳業と森永乳業が競合し、
  昭26 森永乳業芭露集乳所開設
  昭28 雪印乳業乳業計呂地集乳所開設
  昭30 森永乳業計呂地集乳所開設
によって、集乳車が配置して生産者各戸前の車道まで有料集乳を行うようになり、中間受入機能が充実したので、工場や集乳所までの搬出の手間が省かれ、販売が容易になったという利点も生じた。 昭和30年代の集乳合戦は特に目ざましく、信部内地区の森永乳業への出荷や、雪印および森永の沼の上集乳所が本町の集乳にかかわる一幕もあった。
 馬車〜保道車、馬橇〜バチバチ、やがて夏機関はトラックでの集乳がつづき、道路の除雪が町道まで行われるようになってトラックによる通年集乳が実現したが、トラックの通年集乳は各乳業会社の企業合理化のきっかけとなり、工場や集乳所の統合集約を進行させるいっぽう、トラックによる乳業会社の集乳も逐次農業協同組合に引継ぎ、長距離集送乳の時代を迎えた。
  昭39 雪印乳業計呂地集乳所閉鎖
  昭41 森永乳業計呂地集乳所閉鎖
  昭43 森永乳業芭露集乳所休止
 昭和49年に農協系統の「農協乳業株式会社」北見工場(紋別)が操業するにおよんで、湧別、上湧別、紋別各農協管内の集乳は、雪印乳業中湧別工場から離れ、農協乳業に出荷されるようになり、軌を一にして、芭露農協管内の生乳も、森永乳業佐呂間工場から農協乳業へと出荷が変更された。

クーラーの導入  乳質の保全と集送乳の合理化のための技術開発は、酪農関係者の間では早くから強い関心が払われていた。 乳牛資質の改善や多頭飼養の進行で搾乳量が増加してくると、
  たくさんの集乳缶に搾った乳を、乳質を落とさぬようにどう管理するか・・・・落等防止は収入に直ちにひびくことなので頭を痛めた。 特に夏季間はなやみの種で、流水に浸したりして、たいへんだった。<古老談>
といった苦心が増大していたからで、そこに登場したのがクーラー装置とローリー車による集送乳方式で、酪農の歴史の上で世紀を画するほどの大革命であった。 おおまかにいって、
 (1) バルククーラー(動力3相電気使用)を各戸に設置して搾乳後の低温保全
 (2) ローリー車により各戸からクーラーステーションに集乳し低温保全
 (3) クーラーステーションから大型ローリー車で乳業工場へ送乳
というシステムになっており、本町では、
  昭43 12月1日よりホクレン芭露クーラーステーションが、旧森永集乳所を借りて運営開始
   昭44 9月に約5,000万円でホクレン芭露クーラーステーションを新築落成

が第1歩で、この時点では芭露農協がホクレンの委託を受けて、テイネー以東の牛乳を集乳缶で集荷冷却し、森永乳業佐呂間工場に引き渡すものであって、区域の集乳事業は芭露農協が担当し、工場への輸送は遠軽運送株式会社のローリー車が担当していた。 その後、芭露農協関係では、
  昭49 冷却施設改善事業を実施しユニットクーラー導入
       ミルクローリー車4台によるローリー集乳開始
       農協乳業北見工場操業開始に伴い7月21日より同工場へ送乳
       個人によるバルククーラー導入およびバーンクリーナー設置みられる
   昭50 動力3相電気導入
       個人によるパイプライン導入みられる
       4月1日よりホクレンのクーラーステーションを買受けて運営開始

  昭51 全戸にバルククーラー導入完了
の経過があり、湧別農協かんけいでも、
  昭48 信部内、川西、中央地区に動力3相電気導入
   昭49 信部内、川西、中央地区の全戸にバルククーラー導入および同地区にミルクローリー車配置
        福島地区に動力3相電気導入
   昭50 東地区に動力3相電気導入
        東、福島地区の全戸にバルククーラー導入および同地区にミルクローリー車配

の経過があって近代化が着々進行したが、バルククーラーや動力3相電気の導入が第2次農業構造改善事業など、補助事業により促進されたことは、行政編で概述したとおりである。 その後、芭露クーラーステーションは、
  昭50 7月11日より芭露、湧別両農協の共同運営となる
   昭52 10月1日より上湧別農協も共同経営に参加し、同農協の生乳取扱いを開始
   昭56 運営主体が芭露農協単独となる

と推移した。
 なお、電力を取り入れた機械化の例に電気搾乳機がある。 使用頭数の増加に伴う合理化、省力化に着目して、昭和30年代半ばから個人的に導入をみたミルカーがそれで、10年ほどでほとんどの酪農家に普及し、手で搾乳する光景は影をひそめてしまった。

    
飼料効率の改善  乳牛の質の改良による乳量や乳質の向上には、必然的に牧草や飼料作物の改善研究が併行して要求される。 昭和31年に集約酪農地域に指定された本町では、
  昭32 草資源開発展示施設を芭露牧野に設置
   昭35 集約草地造成事業開始=個人の草地改良を促進
   昭38 飼料作物効率利用モデル施設を湧別地区に導入(牧草の収穫・調整のためのハーベスタ)
   昭46 飼料作物効率利用モデル施設を信部内に導入(牧草の収穫・調整のためのハーベスタ)

などの事業を行い、大きな成果をあげている。 が、そうした成果の一環として、
  昭52 全道飼料作物共励会で田宮秀幸がコーンの部で優良賞受
と言う事績をおさめている。 また、昭和52年佐藤幸(信部内)が第7回日本農業賞個人の部最優秀賞の栄冠に輝いたことは、優良酪農経営農家としての栄誉で本町酪農の近代化合理化の諸政策が開花したものであろう。

内山之成報恩の碑  御園山のふもと芭露神社の境内に、「畏敬之人格者”内山之成氏報恩之碑”」が建っている。

昭和30年11月に建立されたもので、 パネルには、

  芭露開拓の先覚者内山牧場主内山之成氏の徳を讃え昭和30年秋大口丑定翁が之を建立す

と刻まれていて、今日の芭露の酪農開祖の功をしのんだものである。






酪農記念碑  昭和40年10月10日に芭露酪農業協同組合が建立したもので、内山之成の碑と同じく芭露神社境内にたたずまっており、芭露の酪農の歴史が刻まれている。
  天を敬い土を愛し人と和するは農業の道にして、酪農は農業に至るの近道なり。
と銘し、裏面には大要次の沿革が刻まれている。
  昭13 芭露酪農組合設立
   昭24 1月内山三友から牧場買受けて(109町5反7畝27歩)放牧事業および酪農組合有貸付牛制度はじまる
        法人芭露酪農業協同組合設立登記
   昭28 全道乳質改善共励会1位入賞(知事表彰)、全国乳質改善共励会4位入賞(農林大臣表彰)
   昭32 4月湿地牧野改良事業実施(30町歩)
   昭33 4月草資源開発整備事業実施(30町歩)
   昭37 4月ダニ熱対策牧野に指定さる
   昭39 4月町営牧野に移管
        酪農組合有優良種牝牛10頭導入

なお、芭露酪農組合の設立については、「酪農の勃興」の項で昭和4年と記したが、この碑には昭和13年と刻まれていて、酪農民の再結集が図られたことを物語っている。

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(11)農事振興のための施設
家畜市場  種馬種付け所が湧別6号線(大4)と上芭露(大11)に設置されて、馬産改良が本格化するとともに、畜産の品評会や共進会が活発に開催されるようになり、「湧別馬」の評価が高まったことから、振興にかかわる行事の会場としての機能も兼ね備えた湧別家畜市場が設置された。
  大正初期 家畜市場(6号線)=北見畜産組合(のち北見馬匹組合)
    ”3から  村単位の2歳馬品評会開催
   昭4から  管内的な2歳馬共進会開催

これら盛況をきわめた湧別家畜市場は、昭和24年1月に馬匹組合の解散(GHQ政策による)に伴い、北見地区農業協同組合連合会に移管され、同年さらに湧別農協と上湧別農協に払い下げられた。 その後の経過は、
□湧別家畜市場
  昭24 北見地区農協連合会より湧別家畜市場の払い下げを受け、湧別農協と上湧別農協の共有となる
   昭45 現家畜市場施設に改築

□芭露家畜市場
  昭35 芭露農協が家畜市場を設置し、年1回の市場を開設
   昭50 馬産減退により廃止

とあるが、かっては湧別馬でにぎわった家畜市場の風景も、本町の農業構造の変革とともに、牛へとバトンタッチされている。

公共牧野  北見畜産組合が開設した湧別牧野が、本町では最初の公共牧野であった。 この牧野は家畜市場とともに昭和24年に北見地区農業協同組合連合会〜湧別農業協同組合・上湧別農業協同組合と払い下げ(305町歩)られ、両農業協同組合共有となった。
  第2の公共牧野には、昭和7年ごろ芭露8号線の村有林170町歩を伐採して牧柵をめぐらした村営牧場があったが、現在は植林地にもどっている。
 本町第3の公共牧野には、昭和9年にキナウシに組織された芭露牧野改良組合(12名)が、2年計画で牧野施設をしたものであるが、その後、乳牛の増加とともに芭露酪農組合が内山三友から、昭和24年1月に109町5反7畝27歩の牧場を4万5,000円で譲り受けて、放牧を行い、同39年に町が土地を買収して町有牧野(芭露牧野)となった。
 現在の町有牧野の形がスタートしたのは、昭和38年に町議会内に牧野特別委員会が設置されてからで、牧野特別委員会は、乳牛飼養の多頭化に伴い育成牛飼養に苦労する酪農民の要望に対処するとともに、酪農郷建設に不可欠な公共牧野の適性配置を実現するために設けられたものであった。 用地の取得は、
  昭38=東地区買収
   昭39=芭露地区および川西畜買収
   昭40=計呂地地区買収

が行われ、この買収用地は合計312fであった。 それに町有地、国有借用地を加えて、利用面積455fを次の4牧区で開設した。
  昭39 東牧野(182ha)、芭露牧野(132ha)、川西牧野(107ha)
   昭40 計呂地牧野(34ha

その後、昭和46年に計呂地円山国有林の開放を受けて牧野を造成し、同46〜47年には内山牧場の追加取得を行うなど、牧野の拡張につとめたが、これらの町有牧野は、用地を町が用意して各農協に貸付て経営させる仕組みになっており、草地改良を義務づける反面、貸付料は当分の間無料という条件であった。
 さらに、昭和49年に芭露農業協同組合が組合営(団体営)の東芭露牧野を開設し、芭露奥地の酪農家の便を図っている。 牧野規模(面積=ha)の現況をみよう。
区  分
年  次
川西 芭露 計呂地 東芭露
昭57現在 108・6 95・0 152・0 55・2 50・0
なお、入牧状況(延頭数)は次のとおりである。
区分
年次
川西 芭露 計呂地 東芭露
昭51
昭53
昭55
23.000
30.000
42.068
25.000
30.000
41.893
15.240
18.360
17.809
8.760
7.650
10.365

9.180
11.903


研修センター  農業構造の変革と近代化に対応するとともに、酪農、畑作などの経営や農家経済について研修する場として、また諸種の飼料などを常置して啓蒙に資する場として、農業文化のセンター的機能を持つ「研修センター」が、第2次農業構造改善で次のように建設されている。
要   項
名   称
建設年月 所在地 面積(u) 備考
湧別町農業研修センター
湧別町畜産総合研修センター
昭52・10
昭53・10
東4線4号
芭露市街
349
1.039
木造平屋
鉄筋造2階建
なお、これらの施設は、社会教育類似施設又は地域集会施設としても利用され、農村文化の向上に寄与している。
   

家畜診療所  家畜の疫病、傷害などの予防および診断治療は、飯豊健吾の事績にもみられるように、獣医師(個人開業又は農業団体の嘱託)の労によって支えられて、湧別馬の名声をはじめ多くの成果をあげてきた。
 戦後、農業共済組合の発足とともに、家畜診療所開設構想が練られ、昭和25年6月1日に農業共済組合の付帯事業として、組合直営の家畜診療所が次のように設置されて、家畜の診療、防疫体制の充実をみた。
  芭露(市街)、湧別(4号線)、上芭露、計呂地
 その後、診療技術および機器の開発と進歩、さらには電話など通信連絡網の発達、自動車など機動力の充実があって診療所の統合が行われ、往診本位の体制に移行した。
  昭44・9・1 上芭露診療所廃止
   昭46・9・30 芭露診療所を芭露875番地に新築移転
   昭50・4・1 計呂地診療所廃止
   昭56 湧別診療所を廃止、統合新診療所を芭露に新築移転

 なお、農業共済組合経営の家畜診療所のほかに、次の2つの家畜診療所が、現在も個人経営で開業しており、本町の畜産に寄与している。
 ・計呂地家畜診療所  小野  巌獣医師
 ・錦町家畜診療所    篠田 一郎獣医師

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(12)関係団体および機関
農談会  本町の明治32年の村予算科目に「農談会補助金」というのが組まれている。 いつごろから本町で農談会が発足したかは不詳であるが、農談会の発祥については、次のような時代背景があったとされている。
  明治維新後、急速に発展した物流経済の農村浸透により、農家の自給自足経済は成り立たなくなり、営農の方向が貨幣所得に集中するようになった。 このため増産の手段として施肥の多用と多肥に耐える品種の改良が意欲的に行われるようになった。 こうした肥培技術を交換するために、明治10年前後から、各地に老農が中心となって、「農談会」と称する会合がもたれるようになった。

もちろん未開拓の北海道に、こうした時流が直ちに流れ込むことはなかった。
 本町の農談会の具体的な活動を実証する資料はないが、他町村の例をみると、おおむね次のような共同事業が行われており、本町の場合も大同小異であったと思われる。
 (1) 試作地を設けて栽培を研究する。
 (2) 優良種子および農機具の購入。
 (3) 農産物の販売。
 このように農談会は、のちの農会や産業組合の源流として、農民の創意で発足した点に当時の農民の気概をうかがわせるものがある。

農  会  明治32年に「帝国農会法」が公布(明33施行)されて、農談会、農事会などの農業団体は任意団体から法定団体へと衣がえされ、「農会」の名を冠して政府の農業政策の下部実行組織の機能を持つこととなった。
 本町では、法を受けて、当時指導的立場にあった和田麟吉、本間省三、西沢収柵、信太寿之、渡部精司、横沢金次郎、吉田喜代作、相場静太、平野嘉吉、関運喜、佐野達、畑山仲治、遠藤林蔵、上野徳三郎の14名が創立委員となり、法定資格者(農業経営者)の半数以上の同意を得て、明治33年9月に「湧別村農会」の創立をみた。 さらに同年10月には網走外3郡農会、12月に北海道農会と系統上部組織の結成をみて、脈絡を持つこととなった。 初期の事業としては、
 (1) 農事に関する各種指導、試験講習および調査。
 (2) 肥料の共同購入および農産物の販売斡旋。
 (3) 病害虫駆除および農具改良。
 (4) 産業組合、農事組合組織の設立勧誘および指導。
などが主なものであったが、
  村農会事業起らざるため必要を認めず<明33村費決算書>
とあるように、最初は模索が続き、逐次、必要に応じて事業の具体化がみられるようになり、当初は営農指導的なことよりも、
  明34 菜種の栽培が600町歩に拡大したので有利な販売のため共同販売組合が組織されると、農会も協力して「囁ロ(なたね)検査規則」を設けて生産物検査を施行
   明37 農会が主体となってハッカの共同販売事業を実施して差益金17,000余円をあげる
   明38 道有種牡馬の貸付を受け馬産改良を促進

など、流通対策的な事業が主であった。 なお、このときの農会構成は、農業経営者の任意加入で、会長は名誉会員である戸長が兼任していた。
 明治38年に農会法が改正されて、強制加入制となったことから会員は増加し、翌年4月には改正法に基づき総会で役員選挙が行われ、鈴木峯次が会長に選任され、正会員である農業経営者が会長をつとめるようになり、当時としては民主的な新風が注がれたのであった。 鈴木会長の在任中(明41・2辞任)の農会は、
 (1) 養蚕伝習所、稚蚕共同飼育場、生まゆ殺蛹場の設置。
 (2) 郡農会主催の短期農事講習会場の誘致開設。
 (3) 道庁委託輪作試験地の指定獲得。
 (4) 害虫駆除予防策の樹立励行。
 (5) 作物試験場設置目的で湧別原野1,232番地の5町歩の無償貸与を受ける。
など、積極的な事業推進の口火を切っている。 次いで兼重村長が会長の時代に移って、事業は着実に進展の経過をたどり、
 (1) 優良種苗の培養配布。
 (2) 農業雑誌や新聞などの輪読奨励。
 (3) 水稲試作物の設置補助。
 (4) 地力減耗対策として「施肥奨励規程」を設け、稚肥舎築造や金肥購入に対する奨励金交付。
 (5) 系統農会主催の小麦立毛品評会参加および農事講習会の受講奨励。
など、各種の農事振興策が展開された。
 明治43年4月上湧別村の分村に伴い、5月26日に農会も行政区域によって分割され、「下湧別村農会」の誕生となり、
 会  長 藤田松之助
 副会長 野津幾太郎
 評議員 6名
の役員構成でスタートしたが、大正年間に入ってからの指導大綱は、おおむね次の郡農会設定事項が基本となっていた。
    網走外3郡農会農事必須事項
 管内開拓の要素は農業に埃たざるべからざるを以て、之が改良を促し、生産の増加を図るは実に刻下の急務なるを以て、尤も緊急と認むる事項10箇条を選定し、農事改良必須事項と為し、大正4年より官民之が実行を期し相当成績を挙げつつあり、其の事項左の如し。
  第1、作物品種の改良(小麦、裸麦、燕麦、馬鈴薯)
  第2,家畜の増飼(大家畜3頭,小家畜5頭、鶏6羽)
  第3,施肥及び稚肥の奨励
  弟4、飼料作物の栽培(牧草5反歩、穀物畑として「燕麦、玉蜀黍」5反歩)
  第5,輪作奨励及び作物の配当
  第6,改良農具の普及(カルチベーター、唐箕、マニュヤホーク、コンシエラー)
  第7,病虫害の防除(麦の黒穂病、馬鈴薯疫病、夜盗虫、ウリハムシモドキ)
  第8,吹貫小屋の奨励(雨露を防ぐに足る簡易な構造)
  第9,畜舎及び家畜管理の改良
  第10,副業の奨励(養蚕、果樹、藁細工)
   この事項を定るに当りては、農事試験場北見支場、網走支庁、郡農会が中心となり、道庁より係官の出席を求めて、数次の調査研究の結果、長官の承認を得て決定されたるものにして、単なる当局者の思いつきで変更を許さざるものとして、管内農業指導の根本策とした

この間、大正11年に新「農会法」が施行されて、会費の強制徴収制度が確立したので、農会財政が安定し、それとともに専任技術員が配置されて農家の直接指導が開始され、著しく体質が強化された。
 第1次世界大戦後の農村不況から昭和初頭の経済恐慌、さらに続いた冷害凶作で、農家経済の極度な不振が長期に及んだ時代の農会は、単なる技術指導の域に止まらず、村経済更正計画の策定と実施の中核となり、農家の団結を奨め、農事実行組合の結成を促進して、集団指導の実をあげるとともに、
 (1) 生産物の共同販売と肥料の共同購入など経済営為の斡旋。
 (2) 産業組合設立の推進。
に主導的な役割を果たした。
 昭和15年、日華事変が長期化する中で、農会法の一部改正があって、新たな業務として農業統制に関する事項が加えられ、翌16年に農地作付統制規則、農業生産統制令など一連の法が施行されるにおよんで、それの統制権限を委ねられることになった。 こうして緊迫する戦時情勢のもと個々の営農指導は次第に希薄なものとなり、もっぱら国家的要請にこたえるための作付統制、農機具の共同利用、生産資材割当、食糧供出、軍馬買上などに重点が移り、性格は官僚的統制機関の様相を呈するにいたった。 なお、戦時の農業統制については行政編に概述したので省略する。
 そして昭和18年、「農業団体法」が公布されて、農業団体の一元化が行われるにおよんで解散を命ぜられ、翌19年2月に業務を農業会に引き継いで幕を閉じた。

農事実行組合  農会が結成を勧奨した農事組合は、農会の普及項目を組織的に実践させる集団で、網走支庁管内に最初の結成がみられたのは大正8年のことで、当初の組合は「農事改良実行組合」の名で発足し、
 (1) 種子の選択改良と採種圃の経営
 (2) 病虫害の駆除
 (3) 農機具の斡旋
 (4) 農産物の搬出
 (5) 土壌の改良
 (6) 緑肥作物の栽培と稚肥の増産
などを一般的な事業としていたが、本町では結成をみるにいたらなかった。
 本町に農事組合が誕生したのは、対象15年5月に北海道庁令で「農事実行組合設立奨励規程」が公布され、積極的に組織化が指導されてからのことで、翌昭和2年に川西地区に下湧別村第1農事実行組合の結成をみたのが最初である。 同規程では従来の農事改良実行組合を「農事実行組合」と改め、その位置づけは、
  主として市町村に於ける農事必須事項の実行を目的とし、市町村農会が其の地区内に設立せしめたる団体を云ふ。
とし、結成設立は農会を通じて道庁長官に届け出を要し、その事業に対しては農会を通じて応分の道庁補助金を交付することをうたっていた。 したがって上から指導組織された官製的色彩があったことは当然の成り行きであった。
 実行組合設立状況を詳かにする資料は明らかでないが、「網走郡農会創立30年記念誌」によれば、稚肥共進会入賞組合として、
  昭3 川西第1農事実行組合
   昭4 東農事実行組合

があげられているから、これらは先述の湧別第1農事実行組合につづいて、昭和2〜3年に結成されたものと思われる。 次いで芭露方面におよび、
  昭4 1月上芭露共栄農事実行組合が結成され、前後して上芭露農事実行組合も結成
   昭5 7月芭露第1農事実行組合が結成され、精米用発動機と籾摺機を購入して共同使用
   昭6 西芭露第1農事実行組合および西芭露農事実行組合の結成

と結成が進み、他地区にも農事実行組合の結成が普及したものとみられ、昭和7年には33組合をかぞえるにいたっている。
 昭和8年以降、経済恐慌で行き詰まった農村振興策として「自力更生」を合い言葉にした「経済更正運動」(村経済更正計画)が展開され、産業組合拡充計画が実施されて、農事実行組合は常に展開の基礎組織として活動したものであったが、その端的な例として農事実行組合の法人化があった。 これは各農家の産業組合加入を容易にし、産業組合員としての経済機能を作動させる目的のもので、各農家が法人農事実行組合を通じて産業組合との間に、共同仕入れや共同出荷など、農事改善と併行して経済行為を行うための強化策であった。 昭和8年に法人組合設立登記をした無限責任芭露第3農事実行組合(本間沢)の規約には、大要次のようにうたわれている。
  組合員共同の福利を増進し農村の健実なる発達を図る、その目的を遂ぐるため農業合理化方針に基づき樹立したる計画に依り組合員一致協力して事業を実行するものとする。
  1,農業経営改善に関する事項
  2,農家家計向上に関する事項
  3,農村社会改良に関する事項
  4,前各号の外組合の目的を達成するため必要なる事項
  ・・・目的及び事業の遂行に際しては下湧別村農会の指導監督を受け産業組合の補助機関として活動することは勿論・・・機構は庶務、技術、経済、社会の4部を置き事業を執行する・・・

また、昭和9年に設立された同じく計呂地第3農事実行組合の規約には、次の実行項目(抜粋)が掲げられている。
  1,毎朝3時起床すること。但し9,10,11,12月各月は4時1,2,3,4月は5時。
   2,稚肥反当100貫以上を生産すること。
   3,夏作蒔付は5月中旬頃終了すること。
   4,除草は品種により3回以上4回行ふこと。
   5,秋耕を全地行ふこと。
   6,集合時間確守すること。 無届欠席は過怠金1円を徴収する。

さらに、昭和9年に村農会が行った農業指導実施地設定による、指定組合となった川西第1農事実行組合の事業日誌には、次の項目が記されている。
  一、農村精神の振作  各年1回開催
    (1) 農村振興講話  (2) 農業改良講話
   二、団体の統制的活動
    (1) 負債整理組合  部落単位
    (2) 購買販売組合  村単位のものを利用
   三、農業経営並に組織の改善  強制的に実施せしむ
    (1) 有畜農業  (2) 多角型農業
   四、耕種法の改善  (実施状況省略)
    (1) 稚肥生産進度成績
    (2) 稚肥場普及成績
    (3) 緑肥利用並採取成績
    (4) 秋耕実施進度成績
    (5) 品種の改良普及成績
    (6) 噴霧器の普及成績
    (7) 病虫害防除成績
   五、生活の改善
    (1) 冠婚葬祭  (2) 住宅改善  (3) 食糧自給
 実施機構として主要作物改良部、納税組合部、道路保護部を設ける

これら3組合の例を総合すれば、当時の農事実行組合のおおよその輪郭が推測できよう。 なお村でも、こうした活動に対して、昭和10年に「農事実行組合事業助成金交付規程」を設けて、事業の発展を援助している。
 その後も地域的に農事実行組合設立が増加して、昭和19年には53組合に達したが、日華事変〜太平洋戦争(大東亜戦争)とたどる戦時下にあっては、時局作物増産と物資統制という国策によって、行政機関や農業団体(農会・産業組合〜農業会)の末端機関として、
  生産割当と供出の消化、生産資材や一般生活用品の分配、行政の伝達、諸調査報告など過大な責務を分担させられ・・・・<多田直光談>
というように、重要な役割を果たして経過したのである。
 こうした組織も、戦争終結とともにGHQの指令で農業会が解体されるに伴い、目的を失って昭和23年3月にいちおうの終止符をうったが、農業協同組合(農協)が設立されるにおよんで、各農協傘下に、呼称も「農事組合」と改めて、任意組合として再生した。 再生の農事組合は農協の下部機関組織として、農協と個々の組合員の間に介在し、各種連絡事項の通達、諸報告、組合員意見の集約などを主務とされ、かっての農事実行組合のような主体的な事業計画は持っていない。 結成状況は設立が任意制であることから、大小区々まちまちで、昭和36年には全町で91組合をかぞえたが、2〜3人で構成するものもあり、その後の離農過疎現象や交通事情の変転などから合理的統合が進行し、昭和55年現在は次のようである。
 湧別農協 16(信部内、川西、中央、福島、東区域)
 芭露農協 22(芭露、上芭露、東芭露、西芭露,志撫子,計呂地地区区域)
 畜産農協  6(信部内、東、計呂地地域)

産業組合  明治33年に「産業組合法」が公布され、金融(信用事業)、生産物の販売(販売事業)、生産資材や生活物資の供給(購買事業)、農業関連施設の共同利用(利用事業)などの経済活動を目的とする農民団体の育成が強められることになり、農民の利益が大きく擁護される道がひらかれたが、当時北海道は拓殖計画による開拓途上にあったので、同法を適用することは不適当であるとして、別に「北海道に於て農業者の設立する産業組合に関する勅令」が、同年6月に布告され、翌34年7月から施行となり、大正2年5月まで存続した。 しかし、この間、本町方面に産業組合設立の曙光はみられなかった。 そこには、
  ハッカや豆類など投機的作物の比較的好況と、村農会が共同出荷による販売斡旋を行うことがしばしばあるなど広範な活動を続けていたので、特に産業組合設立の気運にいたらなかった。<芭露方面>
 明治33年9月に村農会が発足し、産業組合の設立勧奨が農会創立の趣旨の一環に組まれていたが、農会自体が体質と内実の確立に急を要し、産業組合のことまで細かい配慮が行き届かなかったこと、農民自体が開拓〜定着の時代で、産業組合というものに対する認識や理解が極めて乏しかったことなど・・・・<湧別方面>

といった未開花の開拓営農事情があった。
 本町に産業組合が誕生したのは、勅令が廃止されてから、さらに15年を経過した昭和3年のことであるが、設立にいたった背景には次のような事情があった。
  大正年代後半から経済不況が深刻化するにおよび、農民の連帯による構成には産業組合が必要であるとの自覚が芽生えたのであるが、当時、生産物のほとんどが仲買人に買い取られるという戸別取引の慣行は、生産者を常に不利な立場におき、ときには青田売りといった前借り方式による不利にも堪えなければならなかったほどで、この窮状打開のため、商業資本を排除して経済自立を樹立しようと、先覚者有志によって産業組合設立の気運が高まった。 また側面的に、指導機関の農会が共同出荷による販売斡旋をしばしば行い、小麦1俵の商人相場2円60銭のとき、下湧別駅前倉庫渡3円5銭という刺激もあった。<昭40版・湧別町史>
以下、求め得た資料の範囲で、産業組合の設立から解散にいたる経過を綴ることとする。
□湧別産業組合<昭和3年設立>
 村収入役小玉九助が本務のかたわら熱心に産業組合設立を勧奨し、自ら設立事務を担当して、27,8名の組合員で創立をみたもので、詳細は不明であるが、組合長は小川清一郎、事務所を4号線市街(現錦町)に置いて事業を開始した。
 川西方面からの加入をみたのは昭和5年からで、組合長は、その後、国枝善吾〜小川清一郎(再)と引き継がれた。
□計呂地産業組合<昭和3年設立>
 農会が指導した共同出荷による共同販売斡旋に応じて共同販売の必要性を自覚し、併せて僻地における諸物価の高価な点を解消して経済更正に役立てたいと、販売と購買を主とする産業組合結成を思いたった伊藤庄恵らが、同志と計らい一般に呼びかけたが趣旨の理解が容易でなく、ようやく3地区農家の3分の1に当たる約60名ほどの賛同を得て、昭和3年3月認可の運びとなり、翌4年4月から事業を開始した。
  出資金  1,800円(1口30円)
  組合長  藤永栄槌
  事務所  組合長宅
  組合名  保証責任計呂地信用購買販売利用組合
 昭和5年乳製品の輸入で乳業界に混乱を生じ、原料乳の暴落による森永北見向上の買取制限に端を発して、原料乳の販売ルートが産業組合経由になったことから、芭露地区の酪農家が個人的に加入するようになり、さらに昭和7年からは、
  昭和6〜7年には開拓以来の大凶作に見舞われ、水稲、豆類は収穫皆無となり、唯一の換金作物であったハッカも経済の不況から大暴落をきたし、一部酪農家も原料乳の販売ルートが・・・・
ということで上芭露以奥からも個人的に加入するようになった。
□東湧産業組合<昭和8年設立>
 計呂地産業組合への芭露、上芭露方面からの個人的加入の申込という事態に対処して、計呂地産業組合では昭和8年に区域変更の臨時総会が開かれ、芭露原野一円を加える区域に改め、名称も、それにふさわしく「東湧産業組合」と改称し、事務所を芭露市街に移した。
  出資金  12,328円(払込済)
  組合員  395名
  組合長  藤永栄槌
  事務所  芭露市街内山繁太郎宅
  組合名  保証責任東湧信用購買販売利用組合
でのスタートであったが、当時の状況を昭和8年度事務報告では、
  芭露原野一帯の産業組合未設置の地方は、本年東湧産業組合区域拡張により加入可能となりたるを以て、その加入を勧誘したるも産業組合に対する理解乏しく、多数の加入者を見るに至らず・・・
と記し、全戸加入の至難であったことを伝えており、ハッカに支えられた芭露地帯農家の特質と無理解のほどがうかがえる。
□下湧別村産業組合<昭和10年設立>
 湧別産業組合も東湧産業組合も、ともに予期に反した組合加入率の伸び悩みに苦慮した。 それは出資の頭打ちと事業効率の停滞となって、産業組合法の趣旨にもとる結果につながるからであった。 未加入農家の加入勧奨に組合幹部は懸命の奔走をしたが、折り悪く昭和6,7,9,10年の冷害凶作が重なり、農家自体が産業組合どころでなく、組合未加入農家解消運動は、いまでは想像もつかない難題であった。 例えば、当時を知る人たちの、
  根強い産業組合への警戒心・・・・つまり、組合がごまかすのではないか。 こんな時に出資して損しないだろうか。という疑心を解消しなければならなかったが、凶作で疲弊した農家にはなかなか説得が通じなかった。<古老談>
 こうした回想が、それを物語っている。
 こうした局面の中で、昭和10年にいたって、産業組合の体質強化策として、1村1組合が行政当局にとって指導勧奨され,両組合は統合して「下湧別村産業組合」に衣がえした。 その成果があってか、同年の事業報告書には、
  組合名  保証責任下湧別村信用購買販売利用組合
  組合員  790名
  代表役員 組合長=大口丑定、専務理事=内山繁太郎
 運営機構  本部=芭露市街に事務所新築(7,600余円)
  支部=湧別、芭露
  配給所=上芭露、計呂地、床丹
 事業決算
   貯金高  7万3,590円
   購買高  9万5,228円
      益金   6,989円
   販売高 34万6,358円 
   余剰金  3万4,634円
とあって、招来展望の明るい成績を収めている。 なお、新築した事務所は、当時としては珍しいメートル法によるもので、北見地方でも屈指のモダンな建物であった。 なお代表役員は次のように推移した。
  昭12  組合長=島崎卯一
  昭13  常務理事=小湊金吉
  昭14  組合長=国枝善吾、専務理事=佐藤源治
  昭15  組合長=大口丑定(再)、専務理事=清水清一(昭18・12応召)
 この間、所和13年には北紋医療利用組合によって、上湧別に「久美愛病院」の開設をみているが、これは農民の手による北海道では初の医療施設であり、現在の厚生連上湧別厚生病院の前身である。
 また、特筆すべき存在として「産業組合青年連盟」(産青連)のことがあった。 産青連の最初は紋別郡内を一丸とした産業組合強化運動の実践的推進者たちが、盟友を契った青年を主体の集いで、その運動はやがて網走支庁管内全域に波及して、管内を一丸するものとなった。 青年らしい息吹があふれた運動は、旧弊を拭い去り、古い殻から脱皮して新しい農村を建設しようと、積極的に産業組合未加入農家解消に奔走したり、組合総会や各級集会などで理論と実践を掲げて曲直を論ずるなど、産業組合の伸展に寄与した功績は大きいものがあったが、当時は、全道的にも産業組合の危機ないし低迷がみられた時期で、上川、空知をはじめ、各地域に産青連運動の輪がひろがり、社会的な注目をあびたものである。 本町における産青連運動の足どりは、
  昭 8 東湧産業組合青年連盟発足
  昭10 下湧別村産業組合青年連盟に改組
  昭16 時局に処して解散
となっているが、この間、つねに郡内はもとより網走支庁管内の主導的立場にあり、リーダーの清水清一は、昭和16年の野付牛(現北見市)での産青連北海道大会において活動を打ち切るまで、最初から一貫して管内の委員長に推され、全道的に評価されていた。
 産青連の活動につづく、日華事変勃発による挙村挙国体制の強調で、未加入農家解消は急速に進展して、産業組合の体質は著しく強化され、昭和15年には組合員1,132名、出資15万7,950円(3,159口)と、全農家を網羅するにいたった。
 さらに、戦局の進展に伴い産業組合は、農業生産資材および生活必需物資の配給、農村金融の統制、農産物の集荷統制など、農産流通における戦時統制の代行機関化するにおよんで、従来、商業資本と絶縁できなかった農家の経済活動は、着実に産業組合に集約され、事業は一段と充実をみた。
 しかし昭和18年、「農業団体法」が公布されて、農業団体の一元化が行われるにおよんで解散を命じられ、翌19年に業務を農業会に引き継いで解散した。

 
農業会  中央、地方を問わず戦時統制が進行する中で、農業団体にも統制がおよび、昭和18年3月「農業団体法」が公布されて、統合整備が指令され、翌19年1月1日に農会および産業組合に対し解散が指令された。 これによって本町でも農会と産業組合を統合して「農業会」を結成することとなり、昭和19年3月18日に「下湧別村農業会」の発足をみた。
  会長  大口丑定  専務理事  緒方一志
が専任され、村内に耕地、牧野または原野を所有する者全員を会員として、農会および産業組合の財産を引き継いでの出船であったが、国策に基づく農業統制の総合的機関として位置づけされていたので、当初から官の支配下におかれ、しかも戦局は太平洋戦争(大東亜戦争)が泥沼状態に陥っていたため、農業団体本来の目的にはおかまいなしに、ただ、ひたすらに戦時農政の上意下達に徹して事が運ばれた。
 食糧作物をはじめとする時局作物の生産割当と供出督励を軸に、学生や生徒も含めた援農労務者の受け入れ、営農用物資の配給のほか、木炭の増産(車両用)、針葉油採取(航空機燃料)、イタドリ葉採集(タバコ原料)、イラ草採集(繊維原料)、軍用兎供出(毛皮用)の督励管理まで賦課された農業会の実態は、まったく官僚化し、農民を支配する統制機関へと変容した。
 終戦後は、農業団体の改組を規定する法的借置が急でなかったから、昭和22年12月に「農業協同組合法」とともに農業会の解散を定めた「農業団体の整備に関する法律」が発効するまで存続し、食糧危機克服の最前線に立たされて経過した。

畜産組合  明治35年に網走地区で結成された「網走産牛馬組合」が、同38年3月に網走支庁管内畜産者を網羅して「網走外3郡産牛馬組合」に発展したことにより、支庁管内の畜産に体系的な振興施策がもたらされるようになった。 同組合は各市町村に支部を置き、戸長や村長が支部長に就任して組織の拡充強化につとめるとともに、牛馬飼養技術の指導、種馬導入による派遣種付、市場開設など、生産から流通にわたる一連の事業を逐次実施した。 本町の家畜市場開設(2歳馬の任意出場)は大正初期といわれ、さらに、
  大3から  町村単位の2歳馬品評会
   昭4から  全管内的な2歳馬共進会
を主催し、産駒の優秀性を見聞して生産意欲を向上させる道をひらき、馬産改良に拍車をかけた。 また、各種事業を国の馬政計画に基づいて実施したので、有形無形に稗益するところが多かった。 この間、大正4年に「畜産組合法」の公布があって「北見畜産組合」に改組改称した。 その後、北見畜産組合は、
  昭12 専門技術員として西川治六が下湧別村に常駐
  昭13 人工授精事業開始
  昭17 戦時政策により馬事団体強化が図られ馬事単一の「北見産馬畜産組合」となる
  昭19 「北見馬匹組合」と改称
  昭24 占領政策による解散命令で、1月に資産を北見地区農業協同組合連合会に引き継いで解散

と経過したが、連合会に引き継いだ資産の中には、本町関係分として、
 一、湧別牧野  273町7反7畝20歩
 二、家畜市場建物  61・5坪
があり、下湧別支部が果たした役割の大きかったことを物語っている。 また、歴代組合長の中で、昭和12年9月に選任された本町の谷虎五郎(第16代)は、終戦までつとめ、もっとも長い就任を果たし、戦時中の多端な運営と重責を担ったことは高く評価されている。

家畜商組合  牛馬の歴史と共に歩んだ名物的な存在に牛馬商があった。 概述したように開拓当初の馬匹の導入は牛馬商の売りつけではじまっており、馬匹導入が増加するにつれて、その仲立ちをする牛馬商の台頭がめざましくなり、流通媒介者として存在価値が高まり、馬産振興の一翼を担う存在となった。
 牛馬商は、馬匹の取扱がほとんどであったことから、通称「馬喰(ばくろ)う」と呼ばれていた・・・つまり、馬を商品として飯を喰っているというわけで、馬産地北見地方の活況とゆかり深い小説「馬喰一代」(中山正男著)が出版されたことがある。 馬喰うについては、
  何頭の馬を、前の馬の尾と後ろの馬の手綱をつなぐ方法で曳きつれ、先頭の馬に馬喰うが乗って、町から村へ、村から町へと渡り歩いた。
  よその土地から来る馬喰うの中には不心得者もいたらしく、無知な農民に、欠陥のある馬を言葉巧みに良馬のように見せかけて、安値サービスしたかのように売りつけたり、追い金までうたせて交換したり・・・・

といった語り伝えがあるが、悪徳馬商から農家を保護し、牛馬商の信用を保持して、円満な取引と業界の繁栄を期するため、明治37,8年ころに「湧別村牛馬商組合」が組織され、農民との互恵的な運営をしたといわれている。
 湧別家畜市場、芭露家畜市場の開設は、湧別馬の名声にもみられるように、府県牛馬商の大量買付や軍馬購買などで道内でも屈指の活況を呈したが、市場は2歳馬出場に限定されていたので、2歳馬以外の媒介はほとんど牛馬商の媒介に委ねられ、牛馬商の存在価値は不変であった。 その状況を知る統計を次に掲げよう。
区 分
年 次
生産頭数 他からの移入頭数 他への移出頭数
昭 6
昭 7
昭 8
601
601
622
186
167
151
835
713
785
牛馬商は昭6年9月1日から試験による免許制度となり、名称も「家畜商」と改められ、戦時下の使命として軍用保護馬鍛錬指導員や買上げ軍馬評価員を委嘱された。
 戦後は昭和8年に「家畜商法」の改正があって、免許失格範囲の拡大など公正取引の強化が徹底され、前時代的な悪弊のはびこる余地は一掃された。
氏   名 取引頭数 金額(円) 備    考
浅野 新蔵 300 9,195,700 自昭23度
至昭29度
管内第4位
田中 寅夫 141 4,388,300 管内第12位
本町の農業が次第に酪農へ移行し、営農の機械化が進行して馬匹需要が減退するのに伴い、家畜商の取引も馬から乳牛へ移り、駄牛の淘汰、優良乳牛と肉牛の導入に寄与している。 なお、サロマ湖0年11月に北見地区農業協同組合連合会が、市場発展に貢献した管内優良家畜商の表彰を行った際、本町からも2名が受彰した記録がある。

土功組合  昭和4年6月13日に網走支庁長を組合長として設立認可をみた「湧別土功組合」は、大正12年に造田熱が高まる風潮の中で、営農の進展を米作転換に求める上湧別村の沢口作一、東地区の伊藤惣太郎ら17名が発起人となり、土功組合設立を企図したことにはじまり、7年の歳月を経て、ようやく実現したものである。
 湧別土功組合の当初認可面積は2,101町歩で、湧別川の水流で灌漑する水田は本町と上湧別村にまたがり、本町では東地区776町歩が包合されていた。 東地区は泥炭湿地や重粘土土地など低湿土壌地帯が多く、殖民区画地開放以来農業自立の見込薄で定着するものが少なく、畑作不振地帯としてかえりみられない区域であったから、水田造成は東地区開発にとって、きわめて重要な布石となり、村でも水稲耕作実地指導地の指定、あるいは補助金申請による客土の実地を奨励するなど、積極的な助長策を講じた。 そうした気運から水稲耕作に魅力を感ずる小作入地者も増加して、地域戸数も80戸をかぞえるまでになり、活気みなぎるものとなった。 そして昭和7年の春耕期を前に、総工費34万6,420円をかけた灌漑工事が完成したのである。
 灌漑工事完成とともに、待望の水稲耕作がはじめられたが、結果は空しく、前年につづく大冷害となって収穫皆無の憂き目にあい、当時の世界的な経済恐慌による農村不況と重なって、その打撃はきわめて大きかった。 翌8年は反当1・92石の豊作で愁眉を開いたが、全国的な豊作で米価が低落し、豊作貧乏の状況となった。 しかし豊作に勇気づけられて耕作意欲を回復し、昭和9年には水田面積のピーク(590町歩)を現出した。
 ところが、昭和9,10年と再び襲った大冷害は水田耕作者をどん底に陥し入れ、小作人はいち早く転出し、自作者も造田資金の負債に堪えかねて脱落者が続出し、東地区の戸数は半減するにいたった。 こうした状況を反映して、土功組合でも設立当初の工事借入金17万9,920円などの償還見通しがたたず、財政的に行き詰まってしまった。 その打開策は地区整理による政府の特別助成に待つ以外に道はなく、「北海道土功組合史」(昭13刊行)にも湧別土功組合について、
  財政将来の懸案、工事費及び冷害凶作に因る財政経理其他に充当したる未償還額は42万5,492円にして反当負債は20円強なるに、更に地区整理を行ふに於ては50円に垂らんとする現況にして将来之が償還の重荷に堪えざる所なり。 依って之が対策として極力低利債の借替に因る負債の軽減を図り、他面地区整理に依る除外地に対する工事費其他の公債は政府の特別助成に依る恩典に浴して其償却を企図するの外なしと思料す。
と、当時の問題点を指摘している。 再建策は、まず昭和13年に地区面積1,631町1反4歩の縮小認可から行われたが、耕作意欲を失った組合員は造田どころか、既成水田も不耕作あるいは畑地に還元するものが続出して、組合財政はさらに窮迫し、ついに最後の頼みの綱である国の助成ということになった。 同じような条件にあえぐ他の土功組合と歩調を合わせて政治的な解決のための運動が起され、曲折5年有半を経て、昭和19年12月に「土功組合地区内農地更生助成要項」が定めるところの、食糧増産に付随する土地改良および自作農創設施策に便乗して更生計画を樹立し、これが認められて翌20年5月に、助成金32万7,957円の交付を受け、40万9,000余円の負債を繰上償還して、ようやく組合再建をみるにいたった。 これと同時に組合員個々の負債も整理解消されて、昭和10年の凶作以来10年間の重圧から脱出することができた。
 その後、昭和23年に再び地区整理を実施し、地区面積361・98町歩(うち本町内108・49町歩)の認可を得て、組合財政は円滑に運営された。

土地改良区  昭和24年8月の土地改良法の施行に伴い、従来の土功組合は廃止され、代わって新法に基づく「湧別土地改良区」が、同26年3月31日付で認可となり発足した。
 水田耕作技術の向上と、戦後の食糧危機の体験から来る米への認識、されには食糧管理制度による米価の安定などから、米作は着実に安定するかに見えたが、昭和28,29年の連続凶作により、水田農家は自家用飯米にも事欠くありさまで、営農の安定をのぞむ気運は酪農志向へと定まり、土地改良区理事会での上湧別地区理事の強い反対にもかかわらず、昭和39年に東地区全面廃耕となって土地改良区から脱退し、本町内における土功組合〜土地改良区の歴史に終止符をうった。

農業協同組合の分立  昭和20年12月9日にGHQは、「日本農民を封建的桎梏から開放し、日本農民の民主的再建を期するため」と謳った「日本の土地制度改革と農民開放に関する覚書」を政府に手交し、農地改革を基本とする農業全般の構造改革が進められたが、同22年12月の「農業協同組合法」と「農業団体の整備に関する法律」の施行により、戦時中に官僚統制の末端機関として国策遂行に従属した農業会も、翌23年8月14日を期限として開放を指令され、代わって民主的な農民のための団体として、信用、販売、購買、利用の各事業を行う農業協同組合(以下「農協」と称する)が登場することとなった。
 新しい息吹の農協は、農家15人以上の同意によって設立が可能であったことから、民主的な時代風潮を映して、地域性に立脚した分立論が支配的となり、湧別、芭露、上芭露、計呂地に4つの農協が昭和23年春、いっせいに旗挙げした。 そして農業会の資産は、各農協組合員の農業会時代の出資額によって4農協に配分され継承された。 しかし、その後の曲折から、上芭露農協が昭和26年に芭露農協に吸収合併となり、さらに同28年には計呂地農協が芭露農協と対等合併して、町内2農協となって現在にいたっている。

上芭露農業協同組合  上芭露の全地区をまとめる構想で、横山吉太郎あらが発起人となり、昭和23年5月23日に設立総会を開いたが、上芭露第1農事組合と共栄農事組合の一部、新生農事組合が脱落して芭露農協に走り、上芭露市街を中心とした組織となった。 概要は、
  組合員  121名
  出資金  35万円(1,750口)
  組合長  福永章
  事務所  旧産業組合〜農業会時代の支部事務所跡
であったが、地区単一の弱小組織であったことから、その後の運営に行き詰まり、昭和35年には150万円前後の損失金計上に追い込まれた結果、同26年3月の総会で芭露農協に合併することが決定し、同月吸収合併されて短命に終わった。 当時を回想して古老の一人は次のように語っている。
  戦後の混乱期とはいえ、この小さな市街に農協の本部事務所が2つもあった(芭露農協本部も上芭露市街に)ことは、きわめて異常であり、農民の大同団結のうえから誠に遺憾なことであった。 それでも、3年間別々な組織にあった芭露の沢4地区の農民が、新たな出発をすることができたのだから、合併は一種の安堵でもあった。
なお、組合長は福永章のあと小林定八、小林久三郎と3代をかぞえた。

計呂地農業協同組合  計呂地方面が地域的な分立を志向した点については、かって産業組合設立に先駆したときと通ずるような印象があって、地域農民の伝統をうかがわせるものがあった。 志撫子、計呂地、床丹の各地を網羅する合理的な地域性にたって、昭和23年5月25日に設立総会が開かれ、
  組合員  465人
  出資金  96万円(3,203口)
  組合長  伊藤庄恵
  事務所  旧産業組合配給所跡
でスタートした。 ところが、昭和25年11月に床丹地区が佐呂間村に編入されたことから、同地区組合員の脱退があって組合員が急速に減少し、維持運営が困難をきたすようになったため、協議の結果、同28年7月に芭露農協との対等合併を行い、計呂地には支所が置かれることになった。

芭露農業協同組合  当初の構想は芭露、上芭露、東芭露、西芭露の芭露全域を区域とするものであったが、上芭露に別組織の動きが強かったため容易にまとまらなかったので、芭露、東芭露、西芭露に上芭露の一部が加わって設立の運びとなった。 高島千代吉ら36名が発起人となって設立準備が整えられ、昭和23年4月10日に設立総会。 5月24日に設立認可となり、
  組合名  下湧別村芭露農業協同組合
  組合員  421名(正組合員381名、準組合員40名)
  出資金  25万5,500円(885口)
  組合長  中原円次郎
  事務所  本部=上芭露(小山旅館)
         支部=芭露(旧産業組合跡)
でスタートしたが、事務所の配置は地理的事情を考慮してのことであった。
    【沿  革】
昭23 精米製粉工場(農業会より引継ぎ)に製麺工場併置=いずれも昭37閉鎖
昭24 有線ラジオ共同聴取施設完成=10月冬期洋裁学校開設=昭26まで
昭26 上芭露農協を吸収合併(正組合員447名、準組合員61名となる)=3月
農協青年部発足=7月
第1回農民祭開催(品評会、輓馬競走など)
昭28 計呂地農協を対等合併(正組合員716名、準組合員81名となる)=6月
本部を芭露に移し、上芭露と計呂地に支所を置く=6月
昭28 湧別町芭露農業協同組合と改称
昭30 農協婦人部発足=12月
昭31 農業共済組合と提携して人工授精事業開始
上芭露地区全域の暗渠排水事業実施
昭35 芭露家畜市場設置(年1回市場を開設)=昭50閉鎖
昭36 スノー食品工業設立に経営参加
昭37 クミカン制度(組合員勘定システム)採用し、営農相談室開設=8月
昭39 上芭露と計呂地の支所事務所および店舗を新築=8月
昭41 本部店舗および給油スタンド新築=8月
公共牧野(芭露、計呂地)造成改良に着手
昭43 設立40周年記念式=4月
第1次農業構造改善事業開始
ホクレン芭露クーラーステーションの運営開始=12月1日
昭44 新クーラースターション完成=9月営農改善5ヵ年計画策定
昭46 農村集団電話開通=3月
昭47 店舗がAコープシェーンとなる
昭48 開拓農協関係組合員25名が加入
昭49 ローリー車による集乳開始
昭50 ホクレンよりクーラーステーションを買受け運営開始=4月1日
湧別農協とクーラーステーションの共同運営開始=7月11日
東芭露に牧野用地取得
昭51 第2次農業構造改善事業開始(全戸にバルクーラー導入)
酪農短期大学芭露分校開設(通信教育)
後継者対策協議会(結婚問題)発足
昭52 事務所増築
クーラーステーションで上湧別農協の牛乳取扱開始=10月1日
牛乳生産1万d突破
昭53 設立30周年ならびに牛乳生産1万d突破記念式=11月5日

      【実勢の推移】
年   次
区   分
昭23 昭27 昭32 昭37 昭42 昭47 昭52 昭55
組 合 員 数
出資金(千円)
固定資産(”)
貯   金(”)
共済保有(”)
販 売 高 (”)
購 買 高 (”)
貸 付 金 (”)
借 入 金 (”)
381
1.020
1.653
5.623
-
23.737
6.145
4.749
3.874
723
10.516
14.306
30.426
23.796
42.536
53.879
64.392
50.742
650
19.664
16.474
69.689
100.585
98.873
66.354
227.389
200.568
465
27.146
27.109
123.982
144.460
193.327
75.854
212.255
148.820
369
27.555
33.048
234.442
396.150
302.044
221.973
320.813
309.655
282
49.441
32.254
453.150
770.550
539.277
383.875
373.042
262.390
244
78.333
127.254
1.376.416
1.250.630
1.267.810
1.066.937
1.237.012
731.500
200
121.090
170.009
1.497.494
6.302.130
1.733.463
1.395.131
2.204.757
1.715.780
   (歴代組合長)
 中原円次郎(昭23・6) 清水清一(昭28・6) 越智修(昭38・5)
なお、本部事務所は昭和10年に産業組合の事務所として建築されたもので、モダンな建物が、その後、一部修増築が行われてはいるものの、産業組合〜農業会〜農協と変遷した歴史を映して、いまも芭露市街にたたずまう姿に、40有余年の農業の歩みをみる思いがする。

湧別農業協同組合  テイネー以西の旧湧別産業組合時代の区域を網羅して設立すべく、渡辺満雄ほか27名が発起人となり、昭和23年3月1日以来数次の発起人会を重ねて、4月15日に設立総会、5月24日設立認可となり、
  組合名  下湧別村湧別農業協同組合
  組合員  408名(正組合員332名、準組合員18名)
  出資金  154万4,000円(3,088口)
  組合長  小川清一郎
  事務所  旧産業組合湧別支部事務所跡
でスタートした。
  【沿  革】
昭23 精米製粉工場操業(農業会より引継ぎ)=昭41全面閉鎖
昭24 北見地区農協連合会より共同牧野および家畜市場の移譲を受ける(上湧別農協と共有取得)
昭25 有線ラジオ共同聴取施設完成
農協青年部発足
昭27 湧別酪農組合結成=昭45解散
昭28 海砂による客土の土地改良事業470町歩=網走支庁管内1の実績
昭29 製パン事業開始(委託加工、学校給食)=4月、昭34・4閉鎖
町制施行を機に「湧別農業協同組合」と改称
再編成により農協青壮年部発足
昭30 ホクレントラック湧別事業所開設
農業共済組合に委託して人工授精事業開始
昭31 開拓関係組合員80名脱退
昭33 設立10周年記念式
事務所および店舗の一部改築
昭34 湧別甜菜耕作組合結成
昭36 農協婦人部発足
昭37 クミカン制度採用
事務所および店舗・給油スタンド新築
昭38 簡易郵便局開局=3月1日
農業機械倉庫建設
昭39 牧野開設(東・川西)
資材店舗開設
湧別種馬所を高橋喜次郎に委託
昭41 車両整備工場開設
農協青年部再発足
昭42 給油スタンド新築移転
農村集団電話開通
昭43 設立20周年記念式
電算システム導入(湧別農協、芭露農協、開拓農協の3者共同)
店舗事業を「くみあい」チェーン化
昭45 事務所および店舗の増築と店舗改装および家畜市場改築
昭47 農協だより創刊
店舗がAコープチェーンとなる
昭48 開拓農協関係組合員31名が加入
昭53 設立30周年記念式
      【実勢の推移】
年  次
区  分
昭24 昭27 昭32 昭37 昭42 昭47 昭52 昭56
組 合 員 数
出資金(千円)
固定資産(”)
貯   金(”)
共済保有(”)
販 売 高 (”)
購 買 高 (”)
貸 付 金 (”)
借 入 金 (”)
442
2.037
2.050
21.389
-
-
-
7.607
1.700
457
4.487
5.339
14.014
13.280
14.479
30.182
27.098
32.750
360
10.985
20.611
34.120
15.770
57.761
43.174
81.824
93.275
309
15.656
28.569
80.260
77.759
144.072
71.273
72.267
79.637
245
23.350
49.810
191.684
195.399
300.255
162.422
124.931
87.195
221
34.058
86.052
357.940
603.700
519.023
352.382
135.224
45.914
257
54.378
341.849
1.080.643
3.300.100
1.653.758
1.277.948
577.039
460.376
247
54.725
474.532
1.747.061
6.104.400
2.275.675
1.415.374
1.420.738
1.105.727
       【歴代組合長】
小川清一郎(昭23・5)、土井重喜(昭28・5)、渡辺満雄(昭30・5)、山重太郎(昭30・7)、鍵谷薫(昭32・4)、羽田宏(昭34・3)

畜産農業協同組合  昭和46年度をもって戦後開拓開始以来つづいていた開拓行政に終止符がうたれることになったことから、湧別開拓農業協同組合(開協)は、
 (1) 解散して湧別農協および芭露農協の組合員として加入する。
 (2) 開協の資産を分割して、湧別農協および芭露農協に吸収合併する。
 (3) 開協の資産を継承して、一般農協に衣がえして存続する。
かの岐路に立たされたが、行政サイドから一般農協への加入が望ましいとの指導もあって、昭和47年春の総会においては、解散して湧別農協および芭露農協に任意加入することが決議された。 ところが、決議とは裏腹に事後処理の段階で事が紛糾し、組合員の去就が明らかになるまで約1年にわたる内部対立、負債整理および出資金返還までに3年を経過するというトラブルを生んだうえ、結末は解散決議とはまったく異なる方向へと進んだ。
 事の紛糾は、解散して、一般農協への任意加入の決議にもかかわらず、それをいさぎよしとせず、独立存続を図ろうとする勢力があって、合体派と独立派に2分した形になったことに端を発したが、独立派には、
 (1) 開協の全国組織から今後の方向として、畜産中心の独立農協設立の働きかけがあり、その拠点として強い要望があった。
 (2) 事後の職員の進退や身分保障の面で、職員間に動揺があり、母体(開協)を守る意識が強かった。
 (3) 湧別農協と芭露農協の間に、受け入れ条件のうえで差違があるとして反発した。
という背景もあった。いっぽう合体派には、
 (1) 総会の解散による一般農協加入決議は有効であり、尊重されなければならない。
 (2) 開拓諸制度がなくなったのだから、町内の状況から第3の農協は不必要である。
 (3) 平等対等吸収(加入条件)については、両農協の間で町長の意向を汲んで話し合いがついている。
 (4) 存続しても組合員が散在していて、とび地状の組合区域になり、農業構造改善事業などの事業主体からはずれるので、精神的にひけ目を負うことになる。
という主張があって、役員も両派に分裂して譲らなかった。
 こうした事態は、町としても黙視することはできず、町長が主催して団体長会議(湧別農協、芭露農協、開拓農協)を数次にわたって開き、総会決議の銭で落着するよう調停に努めるとともに、職員の身のふり方についても、町長が協力することで説得したが、会議の内容が開協役員会に正確に伝わらなかったことも原因して、いっこうに収拾の目途がつかぬまま、組合員の意思の統一は実現をみるにいたらなかった。
 やむを得ず合体派と独立派の間で最終の協議を行った結果、合体派は組合を脱退して湧別、芭露両農協に加入し、独立派(残留組)は、そのまま開協を継続することで収拾することとなり、昭和48年4月に正組合員98名のうち56名が脱退し、31名が湧別農協に、25名が芭露農協に加入して、1年余にわたる騒動は終結するにいたったが、当初の解散決議は、ついに闇に葬られてしまった。
 残留した42名の組合員は、開拓農協から一般農協への切り換えを目ざして結集し、それまでの開協としての負債整理と、脱退者への出資金返還を図り、その目途がついた昭和49年7月8日、酪牛と肉牛の主畜本位の農協設立となった。
  組合名  湧別町畜産農業協同組合
  組合員  45名(正組合員42名、準組合員3名)
  出資金  696万2,000円
  組合長  鎌田雅彦
区分
年次
組合員数 出資金(千円) 固定資産(”) 貯金(”) 販売高(”) 購買高(”) 貸付金(”) 借入金(”)
昭54
昭55
45
45
38.995
44.001
12.024
12.024
248.252
355.181
890.197
882.981
476.964
849.601
875.005
955.773
757.229
725.623
  昭49 農業共済組合と提携して人工授精事業継続(昭30開協が開始したもの)
  昭49〜51 全戸にバルククーラー導入
  昭50 芭露鞍ーステーション事業に加入

 
家畜保険組合  農業共済制度の発祥は昭和4年4月1日にさかのぼる。 経済力が弱小で家畜購入の困難な小農層を対象に、3分の1の申込金で牝牛、耕馬の購入資金貸付事業を開始することになったときに、貸付の年賦償還期間(3年)における回収保全策として、斃死時の償還困難に備えて「牝牛耕馬共済規程」が設けられ、当該牛馬価格の100分の4の登録料を納付することによって、斃死時に価格の5割以内の共済金が交付されるという制度ができたのが、それで、次に記す家畜保険法と関連して昭和8年まで組合形成で運営継続された。
 もうひとつ、昭和4年3月28日に公布され、9月1日に施行されたものに「家畜保険法」があった。 これは、政府が大正6,7年ころから調査研究を進めていたもので、営農上投資割合の高い牛馬の斃死による農家経済の破綻を救済することを目的としていた。同法施行に伴い、網走支庁でも町村長会議が家畜保険組合設立について審議し、設立準備が成り翌5年1月18日に北見畜産組合総代会で設立が決議され、同年11月25日に創立総会が開かれ、12月12日に「北見家畜保険組合」の設立認可となった。
 前述の組合貸付対象牛に限らず、広く一般の牛馬甜菜対象が拡大された家畜保険組合事業は、支庁長が組合長に就任し、翌6年1月7日には各町村長に嘱託して業務を開始したが、当初は制度に対する農家の関心が乏しく、
  私の家では今まで馬の斃死したことはないし、今後も殺すようなことは決してしないから保険などは余計なものだ。<家畜保険10年史>
年  次
区  分
昭   5 昭   6 昭   7
組合員
加入頭数
219
235
448
839
3,385
4,694

 というように、加入勧誘は苦労をきわめたといわれている。 しかし当局者の粘り強い啓蒙により、管内的には表のように増加し、昭和14年の加入頭数は1万5,075頭をかぞえるにいたった。 この間、本町の加入状況については、表の数次がある。
区分
年次
保険加入可能頭数 加入予定
頭数
同割合
(%)
前年加入
頭数
昭 9
昭12
183
200
1,197
1,300
1,380
1,500
550
600
40
40
468
350
 なお、昭和14年には家畜保険法と併行する「農業保険法」の制定があったが、本町では実施にいたらなかった。

農業共済組合  戦後の農業の民主化と農地改革の一環として、昭和22年12月15日に、家畜保険法と農業保険法を統合改善した「農業災害補償法」が公布施行された。
  農業者が不慮の災害によって被る損失を補填し。経営の安定と再生を図る
ことを目的とし、市町村事に1組合の農業共済組合を設立して事業をおこなうもので、本町関係では次の2種類の共済制度を適用することになった。
  (1) 農作物共済
      水稲および麦類を耕作する農業者の強制加入方式による
  (2) 家畜共済
      牛馬を飼養する農業者の任意加入方式による
 本町における農業共済組合の設立は、昭和23年2月18日に設立発起人会(代表=清水清一)を開き、3月10日に設立準備会、3月31日に芭露共栄座で設立総会を経て、同年6月21日設立認可となった。
  組合名  下湧別村農業共済組合
  事務所  芭露農業協同組合内
  組合長  大口丑定
 発足後の共済事業の状況をみると、冷害被災度の高い本町では、水稲被害にしばしば農作物共済が適用され、家畜共済は任意制のためか、加入率が低く、昭和32年度でやっと30%に達する程度であった。 しかし、不安定作物である水稲の衰退や酪農転換路線の確立などから、農家の認識も改まり、制度内容も20余回の改正があって拡充強化され,農業共済制度本来の姿になりつつある。
        【沿  革】
  昭23・7  農作物共済事故に雪害が追加される
  昭25・4  農作物共済事故に虫害および鳥獣害が追加される
  昭25・6  直営家畜診療所開設(芭露、湧別、上芭露、計呂地)
  昭30・4  湧別農協、芭露農協、開協と乳牛の人工授精事業について契約し事業開始
  昭31・12 事務所を芭露市街に移転独立
  昭44・9  上芭露家畜診療所廃止
  昭46・9  事務所と診療所を統合のため事務所および診療所を新築移転(芭露875番地)
  昭48・4  米麦減反のため農作物共済廃止
  昭50・4  計呂地家畜診療所廃止
          畑作専業(麦類の規模耕作)に伴い麦に限り農作物共済再会
  昭54・4  畑作物共済制度実施される
  昭56・12 湧別家畜診療所廃止、新診療所および事務所完成移転(芭露248番地)
        【歴代組合長】
大口丑定(昭23・7)、多田直光(昭28・8)、越智修(昭31・8)、渡辺満雄(昭40・5)、中村秀男(昭45・7)、友沢市男(昭46・7)
        【家畜共済の状況】
区分
年次
引受状況 事故頭数
引受頭数 引受率(%) 死亡 廃用 疾病(延)
昭32
昭37
昭42
昭47
昭52
昭55
1.680
1.412
4.227
6.236
8.346
10.772
30・6
42・1
78・3
91・5
82・5
90・6
29
19
41
66
79
88
24
12
44
135
210
308
882
1.007
2.772
2.934
4.410
5.179
備考 昭和49年度から肉牛が加わっている。
        【人工授精実施状況】
年  次
区  分
昭40 昭45 昭50 昭55
実施頭数
受胎頭数
受胎率(%)
892
818
91・7
1.573
1.443
91・7
6.323
5.913
93・6
7.704
7.250
94・2

食糧事務所  農産物検査制度の起こりは、明治維新後の資本主義経済の発展過程において、農産物の商品化に伴い、特に流通の拡大をみた米の品質、容量、包装などについて格付けをおこない、流通の適正化を図る目的のもとに、米穀商人によって試みられたことにはじまる。 明治31年のことで、同業組合を組織して県外移出米についておこなったものである。
 しかし商人の一方的検査は生産農家からの買いたたきを容易にするという不具合を生ずることから、生産者の利益を擁護するために、県営など公営でおこなわれる傾向にあった。
 北海道で行われはじめたのは、「明治33年日高国において農産物改良組合が量目検査を行いたるに始まり」<北海道農産物検査所事業報告>という記録があり、本町でも同年に村農会が「囁ロ検査規則」を制定実施しており、いずれも不当買付を防止する生産者の自衛的借置であったが、進歩的なこれらの例は別として、一般には商人との自由取引が習わしであった。 体系的組織的に行われるようになったのは、大正初期から道庁の斡旋で組織された北海道雑穀商同業組合連合会が主体となって全道各地で行われるようになったのが源流で、網走支庁管内では、大正3年に十勝の高倉安次郎が北海道東部雑穀商同業組合設立のため、趣旨普及に管内各地を巡回していることから、前後して検査組織ができたものと思われる。 同業組合の検査は量目と包装を主としていたが、
  大2 大豆、小豆、えん豆、小麦などの品質検査が指定される
  大4 指定品目が12種に拡大され、品質等級を特級〜等外3級の9段階に分けられる
  大6 道庁の指導で産地検査を行うようになる
など技術を要するものとなって、検査は専門職員を必要とするにいたった。
 大正8年になって農産物検査事業は道営となり、道庁管下に「北海道農産物検査所」が設けられ、同業組合の大部分の検査職員は検査所職員に任命された。 しかし本町には北見支所の検査員の配置はなく、嘱託検査員が地元から任命されて技術指導を受け、庭先検査にあたっていた。 歴代の嘱託検査員は、
 湧別地区  国枝善吾、遠藤栄、小川一十
 芭露地区  小沢虎一、小湊金吉、長屋鉄次郎
 計呂地地区 市川梅太郎、古屋泰寿
らで、昭和11年に下湧別派出所、同20年に芭露駐在所、同22年に計呂地駐在所が設置されて選任検査員が配置されるまで業務を行っていた。 なお、この間、昭和17年に食糧管理法の公布により、米麦が国家管理となり、その検査が国営となるにおよんで、米麦検査の所管が農林省食糧管理局に移され、北海道農産物検査所と「農林省北海道食糧検査所」の2本建てとなったが、本町では農林省所管検査も併せて(委託)行っていた。
 戦後、食糧危機克服のため、昭和22年5月に国営検査品目の拡大があって、2本建ての合併一元化が行われ、農林省食糧庁管轄の「農林省北海道食糧事務所」となり、下湧別村出張所に改められ、芭露と計呂地は出張所の出先派出所となった。 さらに昭和26年、戦後復興に伴う食糧事情の好転から、機構改革が行われ「農林省北海道食糧事務所北見支所湧別出張所」と改称した。
 しかし、昭和36年の農業基本法制定以来の農政の変革や、食糧作物生産事情の変転、さらには本町の場合はらくのう転換という事情もあって、機構の改革整備が行われ、湧別出張所は昭和48年に閉鎖されて、上湧別町出張所に統合された。

統計調査事務所  昭和22年4月のGHQの指令によって、食糧危機突破のための需給事情把握のため、農林省に統計調査局が設けられ、それまで道府県や市町村首長管下の調査業務とされていた農林統計のうち、農作物の予想収穫高を測定する業務が分離されて農林省に統轄され、都道府県ごとに農林省の出先機関として「作物報告事務所」を設置することになった。 この結果、北海道では札幌に「農林省北海道作物報告事務所」が置かれ、平均5か町村ごとに出張所を配置することになり、昭和23年7月1日に本町と上湧別村を区域とする湧別出張所が役場内に開設された。
 昭和24年6月に機構改正があって、北見作物報告事務所が新設され、上湧別区域の分離をみた。 その後、食糧事情の好転に伴い当初の目的が希薄になると、内容に変更が加えられ、昭和25年4月から名称は「北見統計事務所湧別出張所」と改められ、水産、林産、畜産、農漁家経済、牛乳生産、物価賃金など、広範な農林省所管の一切の統計調査を担当するようになった。
 その後、昭和28年5月になって、上湧別区域と統合合体することになったとき、出張所は中湧別に移された。

農業改良普及所  耕作技術の改善普及や営農経済の向上のための指導については、かっては農会〜農業会の使命とされていた。 網走外3郡農会でも明治34年に技術員を嘱託したが、これが網走支庁管内最初の農業技術員であった。
 同38年には専任技術員が任命されて、各町村で行われた品評会や共進会の審査や農事講演の講師などにも出かけるなどしたが、たいへんな負担であったと思われる。 開拓定着が進むにつれて、大正8年に4人に増員されたが、広い管内の担当は指導上満たされないものがあったと見えて、同年湧別村農会で専従技術員の配置計画をたてたが、実現しなかったという経過がある。
 村農会に技術員の配置をみたのは大正11年のことで、地域巡回指導も行われるようになって、大いに農民に親しまれたが、農業会に移行してからは、本来の業務よりも食糧対策に追われるようになり、作付〜供出の統制上の目付役化し、農民からは「食糧増産技術員」と蔑視されて敬遠されたという一幕もあった。 こうした苦労は戦後の食糧危機の時までつづいた。
  昭和23年7月に「農業改良助長法」が公布され、必要な機関を都道府県が設置することとなった。 同法の目的とするところは、
 能率的な農法の発達、農業生産の増大および農民生活の改善のために、適切な知識および技術を普及させる。
ことにあり、翌24年4月1日各町村に農業改良普及員の配置となって、「網走支庁湧別村農業改良相談所」が役場内に開設された。
 本町には2名の改良普及員の配置があったので、1名を上芭露に分駐させて、芭露、計呂地方面を担当する形をとり、翌25年4月1日から1名増員されて計呂地に分駐し、計呂地、志撫子方面を担当した。 その後の経過は、
  昭27・5・1    所長制度がしかれる
   昭33条例改正 網走支庁湧別地区農業改良普及所と改称、業務の統一強化のため分駐廃止
   昭44・7     広域統合が行われ、「東紋東部地区農業改良普及所」となる

 東紋東部地区農業改良普及所は本町と上湧別町、佐呂間町を管轄区域とし、暫定的に本所を本町役場におき、上湧別町と佐呂間町に駐在所を置く形でスタートした。 昭和50年6月になって独立庁舎設置運動がはじまったが、湧別町役場新庁舎完成とともに、役場新庁舎内に移転し現在にいたっている。
 なお、歴代所長は次のとおりである。
西川照憲(昭27・5=上湧別所長の兼務)、山田豊(昭28・4)、相沢隆治(昭34・11)、大沢志男(昭41・8)、森永武男(昭44・8=初代広域所長)、相沢隆治(昭45・8)、田口弘(昭49・8)、吉田清(昭53・8)、井上章(昭55・8)、大日向昭四郎(昭57・8)

開発建設部農業開発事業所  昭和38年8月に落成し、翌39年に開設された「網走開発建設部湧別農業開発事業所」(栄町)は、湧別、上湧別、紋別、生田原、丸瀬布、白滝、佐呂間、常呂の各市町村を区域とする土地改良など農業関係の国費開発事業を管轄する現地事務所である。 事務所が本町に設置されたのには、スタート時点の事業が本町に集中していたからという経過があり、本町関係の現在までの施行事業は次のとおりである。
  明渠排水   計呂地地区  昭37〜41
           沼の上地区  昭38〜44
           東   地区  昭45〜49
           芭 露 地区  昭53〜63
           西 湧 地区  昭55〜63
  農地開発   上湧別地区  昭49〜60
なお、歴代所長は次のとおりである。
高橋貞次郎(昭39・4)、荒川豊(昭48・4)、横田昌治郎(昭53・4)、高橋勇(昭55・4)、森本正敏(昭57・7)

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