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- 人はなぜ認められたいのか:アイデンティティ依存の社会学/石川 准著 1999年 旬報社刊
石川さんはやはり面白い人です。
ある日、石川さんは白杖を置き忘れ、弟の家により、留守宅を家捜しして、白杖の変わりになるものを探したそうです。
そして、機能的には最適なストックと適切性には最適な傘を見つけた。
ストックはその長さゆえ、白杖の変わりとはなるけれど、スキー場でもない街中で使うのは変。傘はその長さゆえ、白杖の変わりになるには短すぎるけれど、街中で使うのは変ではない。
石川さんは適切性を取り、傘を白杖代わりにし、外へ出て、あえなく一つ目の角で電柱と激突。悔しい思いをしたとか。
人はなぜ適切性にこだわるのでしょう?(笑)
イソップに「キツネとブドウ」という話があります。
あるひ きつねが ぶどうのきから ぶらさがっている ぶどうを みました。きつねは たべたいと おもいました。 きつねは とびつきましたが ぶどうは たかすぎました。 きつねは いいました:「このぶどうは すっぱいんだ。」 そして いってしまいました。
「負け惜しみ」ですね。
これがキツネが「ブドウは甘いからこそ食べてはいいけない」と悟ると「やせ我慢」になる。
「やせ我慢」から「文化」「哲学」「思想」は生まれると石川さんは仰っています。
石川さん自身、網膜剥離で体育の授業を見学しなくてはならなくなった時、先生より女の子達の方へいって、フォークダンスをしなさいといわれ、激しく抵抗。高校になり、それが嫌なら、準備運動をしなさいといわれ、「男のプライド」をかけて、準備運動、更には激しい運動までして、失明。悔やんでも悔やみきれない時、人は「やせ我慢」から自分の生き方を模索するのではと書かれています。
「克服」と「文化」それを模索しつつ、「思想」が生まれるのであり、「やせ我慢」と揶揄する事は慎むべきとも言ってます。
例えば、「ろう文化」手話という「言語的集団」の「思想」を生み出そうとしているのですから。
もうひとつ、石川さんは三人の貧しい女の子の話をしています。
最初の女の子は身にあるものすべて欲しがる人に与え、空から銀貨と新しい身に付けるものを授かります。
二番目の女の子は最初の女の子の事を知り、同じように欲しがる人に与え、空から銀貨と新しい身に付けるものを授かります。
三番目の女の子は最初の女の子の事を知っていたけれども、欲しがる人に与えず、凍え死にます。
石川さんは三番目の女の子に対して、「自分らしさ」を望んだのではないか。「負け惜しみ」とするならば最初の女の子の事を知っているから優しい子にはなれない。「やせ我慢」とするならば空からの贈り物に対するやせ我慢となる。
適切性が果たして本当に適切なのか。
人はなぜ価値にこだわるのかに話は続きます。
「存在証明」受けてアイデンティティが成り立つとされてます。
例えば子供が「私とパパとどっちが役に立つ?」
そして、アイデンティティは「所属」「能力」「関係」から成り立つとされており、失うのでつらいものはと問うとだいたいが「関係」と答える。
「寝たきりでも家族や友達がいる方がいい」と「孤独でもバリバリ仕事をしている方がいい」究極の選択して下さいと聞くとだいたいが前者を取る。
ただし、現在、「所属」を失う事により、アイデンティティがずたずたになる「リストラ」があるのも事実。
アイデンティティのどれかを失った時、
「存在証明」する方法には「印象操作」自分が価値あるものと見せかけるもの。しかし、背伸びした分、自己評価を下げる危険性あり。
「補償努力」「汚名返上」しかし、得られるのは「彼/彼女は○○としては、××だ」程度。
「他者の価値を奪う/絶賛する」消極的であり、絶対的存在証明されるわけではない。
ここまで、石川さんは辛口を通し、別な手段として、「価値を作り替える」この事により自分の尊厳、誇りを守り得られる。
「裸の自分の価値を実感する」存在証明など必要なくなり、自由となれる。
石川さんはこれを「アイデンティティからの自由」「存在証明からの自由」と呼んでいます。そして、今の世の中の事を「アイデンティティゲーム」と呼んでいます。
家族の形態は近代になって出来上がったものらしい。
そして、仮説として農業社会と産業社会という比較をすると子供の役割は農業社会において有用な存在であり、産業社会において無用な存在となってしまう。
#手伝えるという価値観でそうして、どちらが子供を可愛がるかという設問をした場合、産業社会の方が子煩悩となる。
そこで子供への愛情の負担は女性に一手に任されてしまう。
障碍児家庭の手記を年代順に拾っていくと60年代の異議申し立て時代が大阪万博により個人主義に向かった70年代に専業主婦全盛期で母親にすべて負担係り、必死に我が子を守ろうとした。障碍持たれた我が子の行き場もない。我が子には人並みに出来るようにと余計力はいる。自己犠牲ゆえ、心中なんかも多発した。
70年代後半、子供を取り巻く環境が徐々に改善され、保育所や障碍者教室、日常的なところで人々の協力得られるようになる。子供に尽くすのではなく、子供の価値を信じるようにもなってくる。
80年代、その子の個性として障碍を認め、自分の人生も大切にする。しかし、まだまだ社会の母親に対する圧力は強かった。
90年代になり、更に親たちは変わり、障碍持つ我が子を地域でも受け入れられるよう活動し、「自分がいなければ・・・」的な母親は少なくなり、我が子をあるがままに世間に受け入れさせる活動に変わったと語られています。
一方、感情社会学という視点で社会を見ていくと感情労働としての主に女性の役割が重くのしかかってくる。作り笑顔という営業スマイル。「管理される心」をセラピーするカウンセリングもまた共感疲労という問題を内在させてしまい、「正しい感情」「逸脱した感情」感情には差異はなく自分を責める必要ないのに、これを管理する社会が出来上がっている。「やがて」宙づりにされるこの感覚を真剣に取り組まなければやがて高いつけとなって戻ってくる。
1999年時点の石川さんはこう述べられています。
例えば感情表現が異なる二つの文化があるとします。
α文化は感情をはっきり表さない。β文化ははっきり表現する。aとbという人がいるとして、たまたま映画などで同席し、感動のクライマックスで二人とも感動しているけれどもaはα文化の人、bはβ文化の人。お互い理解に苦しむわけです。
この時、それぞれの文化の価値観で相手を評価する。これを普遍主義というそうで、仮にaがβ文化の存在を知っている場合はbはβ文化の人なのかと認識します。これを文化相対主義というそうです。
ところがここに落とし穴があり、片方の文化しか知らない場合、理解に苦しむ誤解と別な文化を知ってるために同じ文化で感情をはっきり示す性格なのに別文化の人と思い込む誤解。
知らずに誤解する方はそれほど問題にはならないですが、思い込む誤解は危険がつきまとうため、文化相対主義は否定された考え方となっているそうです。
要は個々人の付き合い方が大切で、文化という固まりで人を判断してはいけないという考え方から来るそう。
ひとつの国に共存する文化としてマイノリティ文化がありますが、イギリスなどはミドルクラス、労働階級があり、労働階級の反学校文化があるそう。つまりは学校で習った事は社会に出ても役立たず、学校をさぼって社会勉強するというもの。実際的には学校文化の方がその性質を絡め取り、いつまで経っても階層社会である結果となっているらしいですが。
日本ではなかなかマイノリティ文化は育ちにくく、暴走族なんかも数年だけの理由なき反抗で終わってしまいますし、存在証明を得たがっているいう見方も出来ます。会社社会にしても徹底的な管理社会の一方、労働者のやる気次第で柔軟に対処できる仕組みのため、欧米のような労働者運動も生まれてこなく、労働者はサラリーマンとして企業に組み込まれていった。
マイノリティ文化がどうしたなら生まれ得るのか、フリースクール、音楽、演劇、思想学問の再構築、トランスジェンダーなライフスタイル今世の中は多岐に渡り、マイノリティ文化が営まれている。
その価値を石川さんは提示したいのでしょうね。
僕は観ていなく判らないのですが、「新世紀エヴァンゲリオン」が「アイデンティティ・ゲーム」の代表例としてあげられています。
「君には、君にしかできない、君にならできる事があるはずだ」
「存在証明」をかけた話の結末は「そうだ、僕は僕でしかない」「存在証明」が不要であると気が付く終わり方。「エヴァンゲリオン」オタクの間でも賛否分かれ、「存在証明」から自由になる難しさが語られたとか。
「存在証明」に対しては「終わらない日常を生きるスキル」を身に付けるサブカルチャーというものもありますが、果たして存在証明から降りられるのか疑問との事。
女子高生の「降りたふり」なんかは「超かったるい」といいつつ、相手を探るアイデンティティ・ゲームの見方も。
アイデンティティ・ゲームからいかに自由になるか、難しそうですね。
テクノ依存症
テクノ不安症
どれだけ当てはまりますか?パソコンのみではなく、携帯電話に関しても言えるでしょうね。
石川さんのスクリーンリーダー開発の話やオーバークロック、DOS環境でのモバイルアクセスなどからクラッカー・サブカルチャーまで紹介し、情報テクノロジーが人にとって両義的なものであり、「できる」事の存在証明にはまる。道具が「マシン」となり、道具を操る事に釘付けになって、それが自己目的になる。
コンピュータ産業の思うつぼと締めくくってますが、利用目的の再確認、必要なのではないでしょうか?
インプットされていない命令を受けて反乱起こす『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック 1968年作品)のHALを生み出さないためにも。
今年(2003年)は鉄腕アトム誕生の年ですし。(笑)
人間の性別はいくつあると思いますか?
何を馬鹿な、男と女しかないだろう。
そうじゃないらしいです。
男と女としても16種類になります。男と女と単純に二分出来る訳ではないらしいですが、ひとつまず石川さんは男と女として話されてます。
性同一性障害をご存じでしょうか?
身体の性と心の性が一致していない障碍です。そして、この中でも性転換手術を希望する/受けた人をトランスセクシュアル、略してTSというそうです。手術を受けなくとも、例えばホルモン搾取や生活様式を変える事で気持ちの収まりがつく人の事をトランスジェンダー、略してTGというそうです。
トランスセクシュアルの人のアイデンティティは生まれ持った「身体」と「身分証明書」の性別変更、リアルライフテストのパッシングによって始めて、性転換手術が認められ、存在証明でき、獲得できます。
間違った「身体」で生まれた事を否定し、社会の自己証明となる「身分証明書」を書き換えなければ達成されず、更には性転換手術後、「本来の性別」とみられるかリアルライフテストで望む性として外見的に適用されなければ、性転換手術は許可されないとの事。背が低すぎ、声高く、華奢であったら、男とは観られないですし、背が高すぎ、声低く、髭が濃いと、女には観られないですから。
性同一性障害を医療や社会は「個人の障碍」としていますが、「男か、女か」を決めるのは「社会」。「社会的障碍」であるはずなのに、身体の性と心の性が一致している人々が「マジョリティ」として形成された社会ではそれを認めようとしない。
人間の根元的なアイデンティティで苦しみ、もがく人がいる事も気付くべきと石川さんは仰ってます。
「人はなぜ認められたいのか」読み終えました。
石川さんは「障害学」と同様ここでも個人の社会に対する「同化」「異化」のベクトルと社会の個人に対する「統合」「排除」のベクトルを提示し、移民を例に取り、「異化」から「同化」へ努力するけれども社会は「統合」に組み込まず、「排除」のままの状態を示す。その時、移民はどこに向かうべきか、Roots思考を示し、マイノリティを見つけ出すだろうと語られています。
「障害学」で言えば、肢体不自由がリハビリを続けたところで、「出来ない」レッテルははがされないというヤツです。
そして、石川さんは誰でも「マジョリティ」と「マイノリティ」を抱えている。その双方のポジションの位置関係をいかにコントロールさせていくか、「マイノリティ」を社会の中で「異化」のまま、「統合」させれればそれぞれのアイデンティティが素敵なものになるのじゃないか石川さんはそれを提案し、参加される事を望みますと締めています。
「参加される」とすると「新興宗教」になってしまいますね。石川さんは「あたなにも薦めます」と締めています。
お勧め本を読んでいて 2003-02-08 著作 2003-02-24 更新