東芭露部落史
第4章 東芭露における生業の歴史的変化
終 章
参考文献
第4章 東芭露における生業の 歴史的変化 |
本章では、文献資料と聞き取り調査をもとに、東芭露の人々の生業がどのように変化してきたのかを述べる。東芭露は湧別でも開拓開始が遅く、明治後期になってからである。生業はハッカ・畑作・酪農と変遷した。 現在、東芭露は営農している人々全てが酪農を専業としている。また、東芭露は湧別の中でも人口が少ない地区である。これは、1960 (昭和35)年から15年間の急激な過疎化によるものであり、2003(平成15)年3月31日現在、12世帯・42人が居住している。 |
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第1節 入植初期の東芭露 | 東芭露への入植は明治後期から始まる。東芭露は、湧別でも最も市街地から離れている場所に位置し、明治期にはバロー原野東の沢と言われていた。沢という言葉は、川を意味するものである。東芭露にも2本の川が流れており、入植者も川沿いに入植した。そのため、「隣の沢」などという言い方が現在でも使用されている。 東芭露における最初の入植は1909 (明治42)年のことであった。入植許可は9月に下りたものの、それ以前に岐阜県出身者4戸が、同年末に1戸が入植した。翌1910(明治43)年1月にさらに4戸が入植し、本格的に開拓が始まった。 その後、同年中にさらに16戸、翌年から3年間で計45戸が続々と入植した。彼らのほとんどは、岐阜県、福島県、千葉県からの団体入植で、個人で入植した者は数名であった。岐阜団体は上芭露との境近辺に、福島団体は西側の沢に、千葉団体は東側の沢にそれぞれ入植した。 最初の入植が行われてから5年間で70戸となった東芭露では、開拓とともに自らの子供の教育を心配する親も多かった。そして、幾度となく行政府に学校の設立を要請した結果、1913 (大正2)年に、上芭露尋常小学校付属東の沢特別教授場として開校した。次の資料は開校当時の学校生活を語るものであるが、当時の東芭露の状況を示しうるものであるため引用する。 当時の服装は男も女も着物であった。三大節などの式には、はかまをつけて 学校に行った。はき物は夏はぞうり、それもとうきびがらやすげで作ったもの であったし、冬はつまごやわらぐつをはいていた。 べん当といえば、夏ならいも、秋になればかぼちや、そして冬にはしばれ、 いものだんご、というように、米や麦のべん当を持ってくる者はいなかった。 …中略… 同級生たちも内地から来て間もない者が多く、それぞれの出身地のことばで 話すので、よくわからず困ったものだ。 〔秋元 1977 : 5〕 この資料によると、服装は和装で履物も季節によって異なり簡素なものであったようで、食料も開拓初期段階を示すように、代用食品ともいえるものが主食であった。特に、言葉で不自由した点は興味深いこととしてあげることができ、前章第2節の「人情・風俗・習慣ヲ異ニシ」〔芭露農業協同組合 1990 : 41〕を示すものである。上記の資料にもあらわれているが、開拓当初の主食は、いなきび、ソバ、馬鈴薯であった。特に、いなきびは主食とされたほかに、その粘りを利用して餅として食べられた。しかし、いなきびも毎年収穫できたわけではなく、早霜などで十分に実らない年もあり、その年のものは「煮ても、たらたらして粒にならなか」〔秋元 1977 : 10〕ったという。ソバは開墾してすぐに種を蒔いても収穫でき、手打ちソバやソバかき、ソバだんごにして食べられていた。馬鈴薯は入植してから収穫できなかった年はなく、重要な食料であった。塩ゆでにしたり、いもだんごにしたりと様々な調理方法で食べられていた。入植後3年ほど経てから麦が収穫できるようになり、手臼で精白して主食としたものの、収穫できなかった年はその代わりとしてトウモロコシを引き割りして主食とした。 前述の教授場は、子供たちの教育のみならず、青年会・処女会・夜学の指導も行い、当時の教師は東芭露「教養人」として扱われた。青年会は、青年男子が組織し、活動としては、学校の薪を寄贈・神社の清掃や祭りの準備・夜学での学習などであった。また、「特筆すべき活動としては、歌舞伎の公演があった。わざわざ隣村まで出向いてそれを習い、毎夜遅くまで練習し、祭典余興として公演を行い、何の楽しみもない部落民に大いに喜ばれ」 〔秋元 1977 : 5〕ていた。 教授揚が設立した年に、それまで上芭露に包括されていた東の沢から、「芭露東の沢」として独立したうえで、地区内を5組に分割し、祭事などが組内で行われていくこととなった。この組制は地区内の人口の減少とともにその数は変更されたものの、現在でも残っている。 開拓初期の東芭露における交通事情は、芭露市街地を基点として上芭露に続く道はあったものの、東芭露(当時は東の沢)までの道はなかった。入植者は1910 (明治43)年に総出で上芭露までの道を開削したが、「湿地帯ぱクモ”の割木を敷きつめ、川には丸太を投げ渡した見るからに未開地」〔秋元 1977 : 8〕のような道でしかなかった。 1916 (大正5)年、造材運搬を目的として下生田原(現 安国)までの峠道が開かれ、1920 (大正9)年には、東芭露・下生田原連絡道路として町道に認定された。続いて、1922 (大正11)年には、西の沢(現 西芭露)に通じる山道も開削された。なお、バスなどの交通機関は昭和期に入ってから運行され始めた。 |
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上へ | 第2節 東芭露における 離農者と営農地跡 |
本節で述べる離郷者とは、東芭露で営農をしていたものの、何らかの理由でそれを辞め他の地で新たな収入源を見つけて、東芭露から出て行った者のことである。戦後の東芭露の人口は、1951
(昭和26)の873人がピークであり、その後減少する一方であった。 その流れは1960 (昭和35)年から始まり、1975 (昭和50)年に一応の終止符が打たれ、その後大きな変化は起こっていない。現在は12世帯、42入である。 離郷者の減少が最も激しい1960〜1975年の15年間はちょうど「高度経済成長期」にあたり、池田勇人内閣による国民所得倍増計画に代表されるように、重工業など第2次産業の発展が目覚しかった時期と重なる。東芭露に限らず、全国的に農村の過疎化が始まった時期ともいえるだろう。 表1は、束芭露における1960 (昭和35)年〜1975 (昭和50)年の15年間に離郷した世帯を示したものである。この15年間で世帯数は、133世帯から36世帯にまで激減している。湧別の他地区の離郷状況を示す数値を入手できなかったため、その比較はできないものの、「東芭露の過疎化は芭露内でも一番激しかった。」〔聞き取り 2003/10/24〕という状況であり、実際現在の東芭露の世帯数及び人口は芭露で最少である。 続いて、東芭露から離郷した人々の営農地跡について述べる。前述のように、束芭露における急激な離郷は1960 (昭和35)年から15年間で行われた。 1960年からの5年間に離郷した人々の状況は、「終戦直後の食品農業から文化生活を維持し得る金をとるいわゆる(七桁)近代化農業への変遷に伴い、沢また沢の急傾斜な然も狭陰な小規模農業では最低の生活すら思うにまかせぬ現況となり余儀なく転居入植、また転出転業の方法がとられたるなり。」〔石川 1963 : 4〕とある。この資料にも戦後入植者の苦労が示されている。戦後入植者が入植してきた時には、すでに畑となるような平地は、先に入植していた者によって開墾され所有地となっていた。そのため、平地のない傾斜地に家を建て、その周囲にわずかばかりの畑を開墾し自給作物を耕作していた。しかし、食料事情が好転した後には、現金収入を得て生活物資を購入する必要が生じ、狭い耕作地ではそれもかなわなかったのである。写真1・2は、樺太からの引き上げて来た後1946 (昭和21)年に戦後入植し、1970 (昭和45)年に離郷した者の住居地・井戸の跡である。場所は地図2で示す@の場所である。現在は、牧草地として整地されているため、畑の跡はみることができないものの、等高線から急傾斜地であることがわかる。写真2は、柱などの建造物の痕跡は残っていないものの、当時住居の周りには必ずといっていいほど植えられた常緑樹をみることができる。また、写真1の井戸の背後の木はふもとの道まで続いており、「この木は並木として下の道まで続いていた。」〔聞き取り 2003/10/25〕 離郷が始まった当初の5年間に離郷した人々は全て畑作を専業としていた。戦前からハッカ栽培をしていた人々は、戦後のハッカ価格の下落によって小規模の耕作地では生計を立てることが困難になったのであろう。残念ながら平地に居住していた人々の営農地跡は、現在全て牧草地として整備されているため、はっきりわかる痕跡を確認することはできなかった。写真3は地図2で示すAに残る井戸の跡である。写真2のように井戸の地上部分は残っていないが、牧草地の中に数ヵ所このような穴があいている。また、写真4はこの井戸の跡から矢印の方向に撮影したものである。この資料に写っている約700uに、「かつては2・3軒の家があり、畑を耕作していた。」〔聞き取り 2003/10/25〕という。この面積は約0.7反であり、おそらくは住居周辺以外にも畑を所有していたと思われるが、往時の東芭露の状況を知ることができる。 1965 (昭和40)年を過ぎると、畑作専業農家とともに牛を導入し、畑作と酪農を兼業していた人々も離郷し始める。写真5は、乳牛を10頭程度飼養しながら畑作をしていた人の営農地跡である。地図2で示すBで、幹道から軽トラックで5分程山中に入った場所である。道を挟んで両側に畑があったと思われる跡が残り、離郷の際に植林していったため、人工林となっている。当時離郷者は離郷の際に植林していったため、自然林の中で人工林がある場所はほとんど営農地跡と考えてよい。〔聞き取り 2003/10/25〕この跡地には写真6のようなコンクリート製のサイロの跡が残っていた。サイロ跡の周囲の平地は非常に少なく、道から約3,40メートルで急斜面となっている。 このような畑作と酪農を兼業してから離郷した者は8人おり、うち3人はほぼ酪農専業農家であった。彼らは1970(昭和45)年以降に離郷した者が多く、一時は酪農で生計を立てようと努力したものの、所有面積が少ない、人手が足りない、大型機械導入時の負債などが原因となって離郷したのである。 [聞き取り 2003/10/25,26] |
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第3節 生業の変化 | 本節では、東芭露における生業の変化をハッカと酪農を中心に述べる。 第1項 ハッカ 第2章で述べたように、東芭露を含む湧別における戦前の生業はハッカ栽培であった。 東芭露でハッカ栽培が始まったのは最初の入植の翌年である1911 (明治44)年で「適作として薄荷が主産栽培された。この年薄荷蒸留釜三、四基設置」〔石川 1952 : 1〕されていた。そして、ある程度の開墾が進み販売作物として本格的にハッカが栽培されるようになったのは、入植から8年目の1916 (大正5)年のことである。「漸くに主産ハツカもこのころ適作なるか年産著しく上昇して、不便不如意のうちにも一応の営農の安定性を認めるに及んで部落民鼻しく生活にいそしみを見い出した。」〔石川 1952 : 1〕とある。この頃から、ハッカ栽培が東芭露の生業として定着し、戦後まで変わらずその地位を保ち続ける。特に1932 (昭和7)年から1941 (昭和16)年の約10年間がピークであった。「部落中にその芳香がただよう程で」〔秋元 1977 : 10〕あり、当時の様子をしる住民も「沢中ハッカの匂いがして、何もしなくても服にその匂いが染み込んだ」〔聞き取り2003/10/25〕という程、東芭露の畑の全てがハッカ栽培に用いられていた。戦後、ハッカ栽培は復興し、1954 (昭和29)年には価格も最高値を記録したものの、次第に衰退し、現在では自家用に利用するために栽培されているに過ぎない。 第2項 酪農 東芭露で牛の飼養が始まったのは、1933 (昭和8)年頃のことである。当時は4軒ほどの農家が乳牛を飼い、搾乳していた。1936 (昭和11)年には搾った牛乳を一ヵ所に集めて加工する施設も設置された。しかし、当時の乳価では酪農を専業として生計を立てることは不可能で、毎月一定の収入を得ることができることから副業として乳牛が飼養されていた。このように、戦前及び1952 (昭和27)年までは、東芭露において酪農が生業となることはなかった。しかし、1953 (昭和28)年から続く冷害凶作によって、東芭露の人々も畑作を生業とすることに危機感を覚えた。そして1956 (昭和31)年に湧別が集約酪農地域の指定を受ける前年の、1955 (昭和30)年には森永乳業株式会社からの融資牛5頭と個人購入による2頭の計7頭が、すでに東芭露では導入されていた。その後、道有牝牛貸付制度などを利用して牛を導入する農家が増加し、畑作から酪農に移行していった。本研究協力者3人のうち2人も、これから3年程の間に牛を導入している。1965 (昭和40)年には、地区内73戸中、19戸が牛を飼養しており、飼養頭数も25頭になった。その後、畑作を辞め、酪農のみで安定した収入を得るためには、規模拡大、多頭化、機械化が不可欠となり、1976 (昭和51)年から始まる第2次農業構造改善事業によって経営規模が拡大した。現在では、東芭露在住の12世帯のうちの8世帯が専業酪農家である。 |
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上へ | 第4節 専業酪農家への過程 |
東芭露に居住し専業酪農家として生計を立ててきた3氏に聞き取り調査を行った。本節では、3氏が離郷せずに、畑作中心の経営から専業酪農家と転向した過程について述べる。 第1項 事例1:O.H,氏について 協力者 0.H.氏 1935 (昭和10)年生まれ(69歳) 家族構成:0.H.氏・妻・子(男2・女1)現在は妻と2人暮らし 実労働人数:3人(○氏・妻・子(男)) 所有牛 親牛(搾乳する牛):40頭 子牛(全て牝):約30頭 計70頭 年間搾乳量:約300 t 聞き取り日・場所:2003(平成14)年9月27日 0.H.氏宅 〇家の入植過程と戦前の状況 O家が東芭露に入植したのは、協力者O氏の祖父(以降O祖父とする)であった。O祖父は愛知県出身で、まず明治後期に現在の芭露地区に移住した。移住当時は同地で漁師をしていた人物のもとに身を寄せ、後にその家の娘と結婚後、分家して農業を始めた。しかし、水害によって農地に被害を受けて、1913 (大正2)年に東芭露に入植することとなった。O氏の父(以降O父とする)が2,3歳の時であったという。 O祖父が入植した時は東芭露で本格的なハッカ栽培は行われていなかった。開墾の手順として、開墾が終わるとすぐにソバの種を蒔き、それを主食としていたという。ソバは、畑となった土地に生える他の草の根を腐らせ、種を蒔く時期が6,7月であったため、雪解けと同時に始めた開墾がちょうど終わる時期と重なっていたためでもあった。この過程を繰り返しながら開墾し、畑を広げていった。やがて、ハッカ栽培が始まり、大きな収益をあげることとなった。O氏によると「戦前、ハッカで収入を得ていた頃は、家に3人くらいお手伝いさんがいた。」〔聞き取り 2003/9/27〕という記憶から、O家の経済状態をみることができる。 O家の酪農家への過程 O氏は1954 (昭和29)年に遠軽高等学校を卒業後、東芭露にて家業であった農業に従事し始めた。氏の父親も存命で現役で働いており、他に母・妹2名とO氏が主な働き手であった。耕作面積は8町歩で、自家用として麦・小麦・米を、販売作物として馬鈴薯・大豆・小豆・甜菜を耕作し、冬季は近隣の山で造材業に出稼ぎに出て生計を立てていた。当時から、O氏は将来の農業に対して不安をいただいており、農業を辞めたいという希望は抱いていたという。これは、いずれ入手不足となり、広い耕作地で生計を立てることは困難であろうという考えがあったからである。実際、O家の耕作面積は、1戸あたり5町歩を標準となっていた東芭露でも広かったため、よりそのように感じていた。O氏は当時ではめずらしく高等学校を卒業しており、同級生の様子を見聞きするたびにそれを実感していった。 将来への不安などの悩みをかかえていたO氏だが、25歳の時に一念発起し「60歳までに、畑30町歩・山林50町歩を入手し、ある程度の貯蓄をしよう」という目標を立て、農業を続けることを決意した。そしてO氏が27歳の時に、当時では非常にめずらしいトラクターを自費100万、農協からの借入金100万計200万円で購入し、他農家の畑を耕して手間賃を稼ぐことを考え、実行に移す。その後、各戸にトラクターが導入されるまで約7年間は春・秋各25日間の他家の仕事と自家の仕事を行いつつその仕事を続け、年間30万円程の純利益をあげた。年間80万円あれば生活ができるといわれた時代においてかなりの収入源となっていた。この時期に、自宅から1km以内の肥沃な畑を購入し、耕作地を広げ、冬季は近隣の逸材所で出稼ぎもしていた。 O氏が牛を導入したのは1940 (昭和30)年頃である。そのきっかけは、畑に必要な堆肥の入手と、「日銭」といわれる安定した収入源の確保であった。畑作による販売作物の収入は当然年1回であったため、牛乳を売ることによって得られる月々の収入は魅力的であったという。しかし、この時点では専業酪農家となる意志はなかったうえに、O父は牛の導入には大反対したという。O父は、以前に牛を数頭飼養していた経験があり、「日中は畑仕事をしなければならない上に、朝晩に搾乳の仕事が増えるだけ」という考えを持っていたという。また、牛を導入すると年中家にいる必要があり、畑作と冬季の出稼ぎで生計を立てた方がよいのではないかという考えもあったようである。これに対してはO氏も全面的に反発したわけではない。「もし当時、現在のように商品作物を機械で植え付けできていたならば、畑作を続けていたかもしれない‥・。」〔聞き取り 2003/9/27〕という言葉にもその考えがあらわれている。結果的には、O氏の意志が強かったため牛を導入し、畑作と酪農を兼業することとなった。購入した牛に牝牛を産ませ2年に1頭ずつ増やしていくという形をとり、徐々に販売作物の栽培を減らし牛を増やしていった結果、畑10町歩・牛20頭、つまり畑作50%・酪農50%で収入を得る状態が、最も安定していたという。 しかし、1967 (昭和42)年に始まる農業構造改善事業によって状況は一変した。O氏が述べた最も安定していた状態とは、現在のような設備を持たずに牛の飼養ができた時代のことであった。農業構造改善事業は、O氏にとってその全てが望ましいものではなかったといえる。行政主導で行われた事業では、ある程度の規模がない限り金銭を借り入れることができなかったため、いやおうなく規模の拡大をすすめざるを得なくなったのである。 結果、借入金を返済するためにも、規模の拡大にともなう労働の増加の面でも、より厳しいものとなったのである。さらにO氏の場合は、牛の体調不良や農作物輸入自由化にともなう牛乳生産の抑制によって、年間320 t の生産が270 t まで落ち込み、計画通りの返済が不可能となった。O氏は、「これによって、「60歳までに、畑30町歩・山林50町歩を入手し、ある程度の貯蓄をしよう」という目標の全てを果たすことができず、69歳の現在でも現役で働いている」〔聞き取り 2003/9/27〕ということであった。 第2項 事例2:N.M.氏について 協力者 N. M.氏 1934 (昭和9)年生まれ(70歳) 家族構成:母・N. M.氏・妻・子・子の妻・孫(2名) 実労働人数:4人(N. M.氏・妻・子・子の妻) 所有牛 親牛:70頭 子牛(すべて牝):30頭 計100頭 年間搾乳量:500 t N家の入植過程と戦前の状況 N家が東芭露に入植したのは、協力者N. M.氏の祖父(以降N. M.祖父とする)であった。N. M.祖父は、岐阜県出身で明治後期から大正初期に、道内・幌加内に移住し鉱山で働き始める。その後2,3年働き、西芭露に入植していた同郷の人物を頼り、大正期に移住する。西芭露では同地の農家から生計を立てることの程度の畑を借り、小作人としてハッカ栽培に従事していた。そして、1929 (昭和4)年に、東芭露にあった入植地は徳川公爵家所有山林のうち3町歩程払い下げを受け入植する。その後、ハッカ栽培をして生計を立てていた。 N家の酪農家への過程 N家は、1950 (昭和25)年までハッカ専門の畑作農家46であったが、その後、1961 (昭和36)年まで馬鈴薯・麦類・豆類・甜菜などをハッカとともに販売作物として耕作していた。 N. M.氏は1958 (昭和33)年に牛を導入し、畑作と兼業し始めた。この牛は国の貸付牛であった。導入後は1頭増えるごとに、販売作物を耕作する畑を5反ずつ減らしていき、1965 (昭和40)年頃飼養牛が20頭となった時点で、収入の7割が酪農によるものとなった。牛の飼養を始めてからも耕作していた甜菜は、その葉をサイレージとして牛の飼料として利用していた。この時期にN. M.氏は酪農業によって生計を立てようと考えることとなったという。そのきっかけは、販売作物による収入では家族を養うことができないと判断したためである。戦後の主要作物であった馬鈴薯は澱粉の需要の減少し、豆類も3年に1度訪れる冷害によって凶作になり安定した収入とはいえなかった。また、自家用として耕作していた米も、その気候によって3年に1度極少量のみ収穫できる状態であった。また、生活できるだけの収入を得るために必要な畑を、N. M.氏と妻、祖母のみで耕作することは不可能に近かったためでもあった。 酪農がN家の生計の中心となった後1970 (昭和45)年頃には、牧草の収穫などのために小型のトラクターを購入した。このトラクターは、あくまで酪農にともなう仕事の機械化を図るためであった。1976 (昭和51)年から始まる第2次農業構造改善事業によって、東芭露内に、トラクター4台、など酪農に必要な大型機械が導入され、それらを共同利用することによって幾分か楽になったという。 そして、1982 (昭和57)年に長男が就農し、1985 (昭和60)年には専業酪農家となった。N. M.氏は「息子が家の仕事を始め、トラクターなどで機械化が進んだとしても、その分、飼料作物を栽培する畑は増加しているから、仕事量は減るどころか増えている。」 〔聞き取り 2003/9/28〕と述べ、慢性的な人手不足は解消されていないとも述べている。 第3項 事例3:N.T.氏について 協力者N.T.氏47 1933 (昭和8)年生まれ(71歳) 家族構成:N. T.氏・妻・子(女2) 実労働人数:2人(N. T.氏・妻) 所有牛 不明 年間搾乳量:300 t 未満 聞き取り日・場所:2003(平成14)年10月26日・N. T.氏宅 N家の入植過程と戦前の状況 N家が東芭露に入植したのは、協力者N. T.氏の祖父(以降N.T.祖父とする)であった。N. T.祖父は、1912 (明治45)年に、福島県団体10戸の一員として入植し5町歩が給付された。N.T.氏の父が11歳の時で、N. T.祖父を含め計7人での入植であった。N. T.祖父は福島県の農家の長男で、「内地に戻ると、こまかいことが多くてイヤだ」〔聞き取り 2003/10/26〕という考えの持ち主であったという。しかし、故郷に戻らないつもりで入植したわけではなく、1,000円貯めて故郷に戻ることを目標としていた。しかし、N家が故郷に戻ることはなかった。N家も戦前はハッカを約8町歩栽培していた。 N家の態農家への過程 N. T.氏が就農したのは、1947 (昭和22)年であった。N.T.氏は自家の畑を耕作するとともに、出面をしていた。当時は出面で1日180円の収入があったという。東芭露では、1960 (昭和35)年頃までの冬期間、男は近隣の造材所で、女は洋裁の手伝いをするなど出稼ぎに出ていた。N家の耕作地はN氏の代まで広げることはなかったが、1964 (昭和39)年、東芭露内で引っ越した時に近隣の離農者跡地6町歩を購入し、所有地を拡大した。これを契機として近隣の7,8軒共同で、国からの半額補助を受けてトラクターを購入した。このトラクターは大型のものであっため、比較的小さな畑を耕作する際には不便であったので、翌1965 (昭和40)年、7軒共同でトウモロコシ畑用に小型のトラクターを購入した。 その後もN. T.氏は、近隣の離農者跡地を積極的に購入し、最終的には27町歩まで拡大していた。しかし、拡大した耕作地で麦類、甜菜、トウモロコシ、ハッカ、豆類を栽培していたものの、十分な収入を得ることができず、牛の導入を検討し始める。特に、N家の場合はN. T.氏の他に実労働者は妻しかいなかったため出面を雇う必要があり、その費用が1日800〜1,000円かかった。出面は繁忙期のみに雇うとはいえ、その出費は年間を通すとかなりの額になったため、N家の生計を圧迫していた。 N.T.氏が牛を導入したのは、1969 (昭和44)年である。その時、ハラミと子牛2頭を購入し、同年ハラミを売却した金銭で15頭の子牛を購入した。N. T.氏は牛の導入に必要な費用を農協から5ヵ年で借り受けた。N. T.氏は「この頃は、畑作と兼業ならば牛は7,8頭いれば経営が成り立つと間いて始めた。」〔聞き取り 2003/10/26〕と述べている。この通りに考えるならば、計17頭の牛を所有したN.T.氏は、十分経営が成り立つこととなる。ただし、N. T.氏が所有した牛は全て子牛であったため、最初の子牛が妊娠し、搾乳できたのは2年後の1971 (昭和46)年のことであった。その後着実に牛の頭数を増やし、1978 (昭和53)年には専業態農家となり、親牛10頭と数等の子牛を飼養しながら、必要な飼料作物と自家用の野菜などを耕作するという状況になった。この状況は1994 (平成6)年に離農するまで大きな変化はなかったという。 N. T.氏にとって、農業構造改善事業は東芭露に大型トラクターなどを導入した事業という認識で、機械化によってある程度仕事は楽になった程のものであったようである。 |
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終 章 | 上へ | 湧別の開基は、1882 (明治15)年に半沢真吉が、農業を目的として移住した時である。 しかし、多数の入植者によって本格的に開拓され始めるのは、1886 (明治19)年に行われた殖民地撰定と、1891 (明治24)年に実施された区両側設後のことである。この後、1892(明治25)年に貸下出願の募集が開始され、高知県出身者を中心に本格的な入植が始まった。彼らのほとんどは、原野の北部に居住し開拓していたが、畑を耕すことも困難で、既に開墾されている畑を借り受けたり、屯田兵村の家屋建設現場で出稼ぎをしたりといった状況であった。 1896 (明治29)年において一戸あたりの平均耕作地は約1.5h aで、主な作物はソバ・大豆・小豆・小麦・大麦・トウモロコシなどであった。 その後、1896 (明治29)年に渡部精司が、湧別村で始めてハッカの種根を植え付け、岡山県や山形県出身でハッカ栽培の経験を有する入植者らが栽培を始めた。やがて、湧別村での生業の主軸がハッカとなる。 1901(明治34)年山形の仲買人、横浜の小林商店が、1903 (明治36)年には、ハッカ輸出の拠点であった神戸の鈴木商店からも仲買人が訪れるようになりハッカ相場地が永山村から湧別村に移って、名実ともに道内ハッカ生産の中心地となった。 しかし、1910(明治43)年4月に、湧別村は下湧別村(現 湧別町)と上湧別村(現上湧別町・遠軽町・生田原町・丸瀬布町・白滝村)に分村し、これによってハッカ作付面積の97%が上湧別村内となった。湧別には芭露を中心とした約15h aを残すのみとなった。 湧別のハッカ栽培は、1901 (明治34)に始まった。ハッカは潮風に弱いという性質があったものの順調に生育し、入植農家の主要な収入源として耕作地は拡大していった。大正期にはハッカ単作の農家が誕生し、「芭露ハッカ」という呼称も生じたほどであった。その後、1914 (大正3)年に勃発した第1次世界大戦期に豆類の価格高騰により豆類の増反に対して面積も半減する。しかし、それによって起きたハッカ生産量の減少による反動で価格は暴騰し、大戦の終結とともに再びハッカ栽培が始まり、一時期は主食用の麦類などを除けば、全てハッカ畑となる。この時期から、第2次世界大戦よる作付統制が行われるまで、湧別ではハッカ栽培が生業となり、人々は相場の変動に一喜一憂した。 芭露はハッカ取引の現場として多くの人々が集まり、栄えていった。また、行政府の政策などにより、ハッカ以外にも豆類・麦類・馬鈴薯・甜菜などが販売作物として耕作され、牛の飼育も若干行われていた。 戦後しばらくの間、湧別における生業は戦前の畑作が引き続き行われた。しかし、作物の収穫は不安定で、さらに1953 (昭和28)年から3年間連続して起こった冷害が、酪農への転換を促すこととなった。道有牝牛貸付制度や、北海道家畜人工授精整備統合5ヵ年計画による人工授精の増加、サイロの普及などにより牛の飼育数は増加していった。そして、1956 (昭和31)年の国による集約酪農地域の指定により、行政府によるてこ入れも始まり、酪農村へ転換していった。さらに、1967 (昭和42)年に第1次農業構造改善事業、1973 (昭和48)年に第二次農業構造改善事業にそれぞれ指定された。前者では、3カ年計画で牛乳に聞するものを基幹作目として実施され、土地基盤整備と融資事業が芭露地区で行われた。後者では、6ヵ年計画で牛乳に加え、肉牛、甜菜、馬鈴薯なども基幹作目とされ、土地基盤整備と融資事業が、芭露、湧別、計呂地各地区で実施された。特に融資業では、バルククーラーの導入が行われた。東芭露において専業酪農を生業とする3氏の聞き取り調査によると、これら行政府の政策が本格的に始まる前から乳牛を導入し、畑作と酪農を兼業していた。そして、農業構造改善事業とともに酪農の大規模化か始まり、専業酪農家となり現在に至った。 本研究では、開拓から現在に至る湧別の生業の歴史的変化を概観するにとどまり、なぜハッカ栽培や酪農が湧別の生業となり得たのか、特に平地の少ない東芭露で専業酪農が成立したのかについては言及することができなかった。ハッカ栽培に聞しては、湧別の気候が栽培条件に適していたことや、運搬の容易さ、販売利益の高さなどが要因となったと考え得るが、本論でも述べたように湧別以外での道内でもハッカ栽培が行われていた事実を考慮すると、断定することはできない。また、東芭露における専業酪農に関していえば、畑作に変わる収入源の確保や、労働力不足、そして、多くの離郷者の発生により余剰地ができ、それらを利用したことによって多頭大規模酪農に必要な土地の確保できたことが聞き取り調査からみることができる。しかし、これら全ては道内各地で起こった事例であるため、東芭露特有のものとは言い切れない。専業酪農については、根釧地方などの酪農と比較検討する必要がある。今後は、本研究をもとにさらに詳細な歴史的変化を調査し、他地域との比較検討を行いたい。 また、本研究では社会組織に関して深く言及することはできなかった。今後は地域内での社会組織の変化も重要なテーマではあると同時に、地域外の社会との関係によってもたらされる社会組織をみることも重要であると考える。第3章で述べたハッカの共同販売によって成立した社会組織は、地域外の市場に対するためにうまれたものである。現在、湧別の酪農は、近年の農産物自由化や「BSE問題」、「食の安全性」に関する問題など新たな局面と対峙している。これまでより大きな問題である分、個々の農家では対応しきれない局面であり、湧別農業全体の問題として取り組まなければならないだろう。既存の社会組織の中心である農業協同組合に加え様々な社会組織をもってそれに対応しなければならない。また、湧別では道内でも早い段階で、湧別外から嫁入りした女性を中心に「はまなす会」という集団が成立した。彼女たちは、女性の社会的地位を確立し、湧別の社会に貢献するために様々な行動を起こしている.このように、湧別外の社会や人々との関係をいかに構築していくかによって、生業も変化していくことだろう。 本研究を行うにあたり、聞き取り調査にご協力下さった湧別町東芭露の皆様に深く感謝申し上げます。また、湧別町役場民生牒・税財諜、湧別町立図書館、湧別町農業協同組合芭露支所、湧別町在住の蔦保太毅さんからは貴重な資料を提供して頂きました。ここに深く感謝申し上げます。 1 本稿でいう湧別とは特記しない限り、戦前の下湧別村、戦後の湧別村、現在の湧別町行政区域を指す。 2 本稿でいう芭露とは特記がない限り、現在の湧別町宇芭露・上芭露・西芭露・東芭露を含めた地域をさす。 3 その中でも、移民を開拓政策の客体としてではなく、主体として考察した論文集である榎本守恵の『北海道開拓精神の形成』というものもある。 4 後に、無償付与が廃止され売払い制度となり、租税に関しても払い下げ30町歩以上の者に対しては、3年以上納税することを定めた。 5 この前年、1 8 9 5 (明治28)年に石川県輪島出身の坂田長右工門が単身で農業と漁業を営んでいたという〔芭露開基100年記念事業実行委員会 1997 : 8〕が、坂田に関しての詳細は不明である。 6 K氏のご子息が、東芭露在住のため聞き取りができた。 7 『湧別町史』、『湧別町百年史』には1 8 9 8 (明治31)年に閉鎖とある。 8 ただし東芭露に入植した人物は「無願入地」ではなく、行政から入植許可を得てからの入植であったことを明記しておく。 9 1 8 9 7 (明治30)年、湧別における食料を含めた生活物資の価格は、米1表=6円20銭、塩1俵=56銭であった。なお、米価は港のある湧別市街地からの輸送費を含んでいた。また、結氷により船による輸送が冬期明けには9円20銭まで植上がりした〔山本1974 : 423〕。 10 ニューヨーク市場では主にハッカ脳が取引されていた。また、「薄荷脳は大部分が日本産で、ほとんど市場を独占するような地位」〔千葉 1960 : 201〕にあった。 11 風通しをよくするため屋根と柱のみの小屋で、幅3.5〜4. 5m、奥行きは任意。 12 湧別村とは、現 湧別町・上湧別町・遠軽町・生田原町・丸瀬布町・白滝村の全てを含む広大な行政区域であった。 13 おそらく5ヘクタールもしくは50ヘクタールの間違いであると思われる。 14 「乾燥地で度土の下が石原であったため」〔芭露農業協同組合 1999 : 26〕という。 15 特にブラジル産のものが有名である。これは、戦前にブラジルに移民した日本人によって広がったものである。 16 大麦と裸麦は、植物学的には同種であるが、裸麦はふ皮が離れやすく穂から麦粒を脱穀するときはふ皮が同時に離れてしまう性質から「裸」麦と呼ばれるようになった。これに対して、大麦は皮麦ともいわれる。裸麦は耐寒性に弱く、大麦は強い。〔遠軽町史編纂委員会 1972 : 722・723〕 17 飼料用のトウモロコシ。食用としても特別問題はないものの、味は良くない。 18 飼料用作物を乳酸発酵させたもの。 19 排水路では地下水位の低下や農地の余剰水の排除が十分にできない場所に施工し、降雨後に農地に残留する余剰水を地下に埋設した配水管で効率的に排除するもの。 20 糞尿を牛舎から排出し、堆積させる機械。 21 同年は芭露農協創立30周年であったことから、盛大な記念式典が行われ、酪農関係者に対して表彰が行われた。〔湧別町芭露農業協同組合 1978〕 22 当時の湧別村の行政範囲は、現在の生田原町・遠軽町・上湧別町・白滝村・丸瀬布町・湧別町を含む広大なものであった。 28 同会発足に関しては、法定資格者(農業経営者)の半数の同意によってのものであった。〔湧別町史編さん委員会 1982 : 605〕 24 1900 (明治33)年の『村費報告書』において「村農会事業起ラザルタメ必要ヲ認メズ」とある。〔湧別町史編さん委員会 1982 : 606〕 25 ハッカ価格は価格協定を結んだ商人のもとで毎年相場が変動した。そのため、常に平穏に取引が行われていたわけではない。 26 石川正之助は戸長を兼任しており、名誉会員であった。 27 網走管内の生産増加を図るために緊急事項とされた農業政策が10箇条述べている。内容は、作物品種改良、家畜の飼養奨励、施肥・輪作などの奨励〔北海道廳網走支廳 1917 :127〕である。 28 作付統制・生産資材割当・食料供出・軍馬買上げなど〔湧別町史編さん委員会 1982 :609〕があげられる。 29 1 9 1 3(大正2)年、開拓状況の発展と、組合員の増加などを理由に廃止される。 30 設立当初は有限責任計呂地信用購買販売利用組合として設立し、1 9 3 4 (昭和9)年に保証責任に変更した。〔芭露農協共同組合 1990 : 55-56〕。ここでいう「・・責任」とは次のようなものである。産業組合の組織には無限責任、有限責任及び保証責任の三種があった。無限責任組合は組合財産をもってその債務を完済することができない場合に、組合員の全員が連帯して無限の責任を負担し、有限責任組合では、組合員がその出資額を限度として責任を負担し、保証責任組合は、組合員の全員がその出資額のほか一定の金額を限度として責任を負担する組織であった。 31 遠隔地に居住し土地だけを所有し、小作人から小作料を徴収する人のこと。寄生地主ともいう。 32 下湧別村農会および保証責任下湧別村信用購買販売利用組合を指す。 33 農業協同組合には、総合組合とその他組合に区分することができる。前者は、農業会の財産を引き継ぐことができる後継者的存在である。そのため、経済的基盤が不可欠であり、設立認可の審査も厳しいものであった。後者は、特に何の制約もなく設立認可申請をすれば認可された。但し、15人以上の出資者が必要などの基本的なことは変わらない。 34 1948 (昭和23)年5月23日設立認可。本部・上芭露市街地、支部・芭露市街地 35 1948 (昭和23)年5月23日設立認可。本部・湧別市街地 36 1948(昭和23)年5月5日設立認可。本部・上芭露市街地 37 1948 (昭和23)年5月23日設立認可。本部・計呂地市街地 38 1990 (平成2)年時点での役職である。 39 2002 (平成14)年2月に芭露農業協同組合と湧別農業協同組合が合併し、現在の湧別農業協同組合となった。 40 湧別では「都市疎開者の就農に関する緊急措置要綱」に基づき11戸の請人割当があった。しかし8月15日の第2次世界大戦終結により、結果的に9戸45人が戦後入植者として同年10月、東芭露に入植した〔湧別町史編さん委員会 1965 : 337・338〕。 41 この農協の解散時に大きなトラブルが発生した。1 9 7 2 (昭和47)年の総会において解散の決議があったが、畜肉を中心とした独立組合の設立を望む独立派と、決議を尊重する合体派に分かれた。その結果、紛糾解決、負債整理などにより設立まで3年の時間を要することとなった。湧別町畜産農業協同組合は酪牛と肉牛など畜産を生業とする組合員によって組織された。〔湧別町史編さん委員会 1982 : 633-634〕 42 営農を辞めたことから離農者ということもできるが、そのまま東芭露に居住した者もいるため、それと区別するために離郷者とする。 43 特にオンコが多い。このことは、調査時に研究協力者から教示を受けた。 44 安眠のために乾燥した葉を枕に入れて利用するなどである。 45 その他4世帯のうち、1世帯は干魚の加工などをして生計を立てており、1世帯は営農していないものの、東芭露在住である。2世帯は離農し、束芭露に在住していないものの籍は東芭露に残したままの状態で、夏季には東芭露にある所有畑で自家用野菜などを栽培している。 46 戦中期及び、戦後の食料難の時期には供出用の食料も耕作していた。 47 協力者N氏は、1 9 9 4 (平成6)年に離農し、現在は遠軽にて1人暮らしである。 現在、酪農業を営んでいないが、他の2名と同年代であり、東芭露にて畑作・酪農を営んでいたことから、事例の1人として扱うこととした。 48 他農家の耕作を手伝うなどして、賃金を得ること。また、そのような人のこと。 49 ただし、この補助は馬鈴薯を約10町歩生産することを条件としたものであった。 50 妊娠している牛のこと。 51 1987 (昭和62)年に発足。年に1回『はまなす』を発行し、農協婦人会への参加、経営簿記の習得、湧別の未婚男性と本州の未婚女性の交流会の実施などを行っている。昨年はウィーンからピアニストを招待し、ピアノコンサートを行うなど、今後もより活発な活動が期待できる。 |
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参考文献 | 秋元守編. 1977.『東芭露学校・部落の歩み』湧別町,東芭露部落 芭露農協共同組合、1990.「四十年史」湧別町.芭露農業協同組合 1999.「五十年史」湧別町.芭露農業協同組合 千葉燎郎. 1960.「薄荷」「日本産業史体系2北海道地方篇」 PP199 - 210 地方史研究協議会 東京,財団法人東京大学出版会 中央農業協力会. 1943.『農業団体法』不明,中央農業協力会 榎本守恵. 1976.『北海道開拓精神の形成』東京,雄山間出版 北海道農務部. 1957.『北海道農業振興対策大綱・冷害恒久対策として』札幌,北海道庁 北海道立総合経済研究所. 1963.『北海道農業発達史』上巻 札幌,北海道立総合経済研究所 北海道庁.19 18. 『北海道史』札幌,北海道庁 1936.『新撰北海道史』,第1巻概説 札幌,北海道庁 1937.『新撰北海道史』,第2巻通説1 札幌,北海道庁 1937.『新撰北海道史』,第3巻通説2 札幌,北海道庁 1937.『新撰北海道史』,第4巻通説3 札幌,北海道庁 1937.『新撰北海道史』,第5巻史料1 札幌,北海道庁 1937.『新撰北海道史』,第6巻史料2 札幌,北海道庁 1937.『新撰北海道史』,第7巻管轄略譜・年表・統計・索引・編纂路程 札幌,北海道庁 北海道庁網走支庁. 1917.『網走支庁拓殖概観』札幌,北海道庁網走支庁 北海道庁内務部. 1893.『現行北海道土地貸下拂下規則』札幌,北海道庁 石川生. 1952.『部落沿革史』湧別町,沿革史編纂係 上芭露自治会記念誌編集委員会. 1991.『郷土のあゆみ』湧別町,上芭露自治会 上芭露小学校 北倉公彦. 2000.『北海道酪農の発展と公的投資』東京,筑波書房 河野常吉編. 1975 (1898).『別巻U 北海道殖民状況報文 北見国』札幌,北海道出版企画センター 松永和人. 1982.「農業生産構造の変化に伴う村落生活の変化の追跡調査一福岡県ハ女市近 郊農村の事例研究−」『トヨタ財団助成研究報告書』W−004東京,トヨ タ財団 奥山亮. 1950.『新考北海道史』札幌,北方書院 山本重正編. 1974.『芭露80年の歩み』湧別町,芭露部落史編集委員会 山内義人. 1941.『北海道煉乳製造史』東京,大日本製酪業組合 湧別町芭露農業協同組合. 1967.〜1968. 『事業報告書(第20〜21年度)』湧別町,湧別町芭露農業協同組合 湧別町芭露農業協同組合.1969〜1989. 『事業報告書(第22〜63年度)』湧別町.湧別町芭露農業協同組合 湧別町芭露農業協同組合.1990〜1999. 『事業報告書(平成元年度〜10年度)』湧別町.湧別町芭露農業協同組合 湧別町史編さん委員会.1965.『湧別町史』湧別町.湧別町長清水清一 1982.『湧別町百年史』湧別町.湧別町長清水清一 湧別町役場.1989〜2003.『世帯人口統計表』湧別町.湧別町役場 |
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史料1 | 下湧別原野 地理 南ハ山ヲ負ヒ中央湧別川アリ、其支流「ナヨサネ」川ヲ以テ上湧別原野ト界シ北一般海二臨ミ東「サルマ」湖ヲ限リり西「シブヌシナイ」川及ヒ「シブヌシナイ」湖ヲ以テ紋別原野二隣ル之ヲ下湧別原野トス地形北西ヨリ南東ニ長ク海岸ヨリ山麓二至ル壹里乃至壹里半土地高低概ネ大差ナシト雖モ山麓二近ツキ拾尺乃至拾ハ尺許ノ階級ヲ成シ或ハ漸時高キヲ如フ其地概ネ楢槲生長シ稍乾燥二失スルモノゝ如シ然レモ平行ノ地ハ土壌肥沃ニシテ乾湿二失スルコトナク湿地ハ湖辺ノ低地ノミ 面積 壱千八百五接七萬六百坪 内 六百八拾受萬七千貳百五接坪 平野樹木地 百六接受萬貳千八百坪 同草原地 貳百五指萬千五接坪 同湿地 百五接萬坪 同泥炭湿地 六百壱接参萬九千五百坪 高原地 右ノ内平野樹林地草原ハ耕耘適地ニシテ高原ハ放牧二適ス湿地及ヒ泥炭地ハ排水行ヒ難キヲ以テ殖民ノ見込ミナシ。 土性 河畔ノ樹林地ハ褐色新沖積土上層ヲ成シ下属一般砂礫ナリ表土厚薄素ヨリ不定ナリト雖モ壹尺五寸乃至四民ニシテ砂礫二達ス内部ハ樹林原殆ント相半シ黒色ノ壌土七八寸乃至貳尺其下赤色ノ沖積土又ハ砂礫ナリ高原モ梢同状ナリト雖モ地形高キヲ以テ自ヲ乾燥二失スルモノヽ如ク且表層浅ク四五寸乃至壹民ニシテ赤色ヲ呈セリ而シテ湿地ハ淡黒色ノ壙質土三尺乃至五尺ニシテ下層ハ全ク粘土或イハ粘土砂擦ノニ層ヨリ成シ、湖辺ノ卑湿地ハ泥炭ニシテ深キ八九尺二至ルモ底土ヲ見ザルモノ多シ 植物 河畔ノ樹林地ハ楡、アカダモ、白揚(ドロ)、山胡桃(クルミ)、ドスナラ、桂、辛夷(ヒキサクラ)等生長ス之ヲ上湧別原野二比スレハ較々小且疎生ナルモノヽ如シ、壹反歩平均貳拾本トス。下草ハヨブスマサウ、劉寄奴草(ナナツバ)、小薊(アザミ)、ヤマソテツ、フキ、イラクサ、ヂダケ、木賊(トクサ)ノ類混生シ発育良好ヨブスマサウ、劉寄奴草ノ如キハ最モ能ク成長セリ草原ハ艾(ヨモギ)、茅(カヤ)、唐松草、フキ、蕨(ワラビ)、劉寄奴草等密生シ所々萩ノ雑生スルアリ湿地ハ蘆、菅、ヤテ、茅、茂生シ其回壹尺乃至三尺許ノ赤揚(ハンノキ)、アカダモ、疎生ス高原地ハ楢、槲(カシワ)ノ疎林ニシテ其幹囲三尺乃至ハ尺トス梢山麓二接スル地二於テハ白揚、赤揚、楡、刺楸(セン)、ヤダモチ、等雑生シ下草ハヂダケ、艾、茅、唐松草、蕨ノ類ニテ之ヲ平原ニ比スレバ発育ノ程度梢不良ナリ 排水 湿地ハ原野中最低地二位スルヲ以テ水気皆此二停滞シ加スルニ冬季湖口閉塞シ湖水ハ乍チ該地ヲ漲溢スルヲ以テ排水ノ工事実ニ困難ナルモノゝ如シ 用水 湧別川及ヒ支流「ナヨサネ」「マクンベツ」川共二精澄ナルヲ以テ沿岸ノ地ハ河水ヲ用ユル最モ便ナリ「サルマ」「シブナイ」二湖ノ如キハ潮汐干満シ且ツ湖中二注入スル渓水アリト雖モ湿地ヲ通過スルカ為め皆汚水ニシテ只タ上流僅二清浄ナルノミ故二湧別川及ヒ「マクンベツ」「ナヨサネ」川ノ河畔ヲ除クノ外ハ井ヲ設ケサルヲ得ズ 運輸 沿海二一ノ経路アリ以テ紋別及ヒトウフツへ往来シ又湧別ヨリ西南二向ヒ僅二足跡二由ル一條ノ小路アリテ上湧別原野二交通スルヲ得而シテ本原野ハ湧別川ノ下流二位スルヲ以テ河身深広ニシテ梢船楫ニ便ナリ 気候 此地ハ全道ノ北部二位スルヲ以テ之ヲ石狩及ヒ十勝等二比スレハ梢寒冷ナレト雖モ夏季ハ概ネ東南風除々吹来り静朗ノ日多ク殆ント大差ナキモノゝ如ク冬季ト雖モ之ヲ根室地方二比スレハ遙力二温暖ナリト又初霜八九月中旬初雪ハ11月上旬ニシテ積雪ノ量ハ海辺二在リテハ貳尺五寸「イカンベツ」川岸二於イテハ三尺ヨリ三尺五寸ヲ常トスト云 [野沢 1986(1891):389-392] |
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上へ | 史料2 | 明治二十七年高知団体(泰泉寺広馬ら十数戸)、広島県人(河井豊吉ら十数戸)が川西方面に来往、翌二十八年に礼文利尻団体(池田関太郎、上野徳三郎=札幌農学校出身=ら六戸)が二号線付近に、高知団体(西沢収柵ら七戸)と徳島団体(田村熊三郎ら数戸)が川西に、渡辺精司ほか四十五戸と横沢金次郎ほか二十戸が四号線付近に来往、引きつづき石川、福井、徳島の各県から来往するものが増加し、同年には浜市街方面にも茨城県から遠峰栄次郎ほか数戸が来住して漁業をはじめた。<土井重喜述> [湧別町史編さん委員会 1982:92] |
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史料3 | 高知県団体 …略…明治二十七年秋本国ヨリ渡航セルモノ11戸及ヒ後志国岩内郡二在リシ該県人数戸始メヲ当原野二入ル同廿八年春移住スルモノ二十九戸此 年ノ移往者ハ皆土地ノ貸下ヲ得タリ同廿九年移住セルモノ三十三戸不幸ニシテ已二給地乏シク僅二十戸ノ外ハ土地ノ貸付ヲ得ル能ハス前移住者ノ貸下地ヲ借リテ耕作シ又ハ屯田兵屋建築工事等二出稼セリ 徳島県人 明治廿七年二戸同廿八年十三戸移住ス同廿九年宮崎寛愛等ノ勧誘ニヨリ凡六十戸渡来セシカ已ニ貸下ゲヲ得ヘキ土地乏シキヲ以テ此年ノ移民八十四五戸ノ外ハ土地ヲ得ル能ハス前移住者ノ貸下地ヲ借リテ耕作シ又ハ他ノ業二従事セリ又去リテ踪跡ヲ知ラサルモノ十戸二至ル 福井県人 明治廿七年五戸同廿八年七戸移住ス其内十戸ハ貸付地ヲ有ス 石川県人 明治廿七年廣瀬彗正等ノ誘導ニヨリテ移住スル者十三戸徒二大地積ヲ占領セント企テ却テ失敗ヲ招キ去テ他二赴クモノ三戸アリシカ後復夕移民ヲ加ヘテ二十五戸二至ル其内貸下地ヲ有スルモノ十八戸 礼文団体 明治廿七年礼文島二在リシ上野徳太郎渡邊精司等四十八名団結シテ当原野二移住ヲ企テシニヨリ礼文団体ノ名ヲ生セリ此団体民ハ実際着実ナル農業者少ナク計書齟齬シテ廿九年迄二移住セルモノ十三戸ノミ各県人ノ集合ナレドモ有力者多シ 右ノ外広島県其他諸県民ノ移住アレドモ何レモ少数ニシテ特二記スヘキモノナシ [河野 1975(1898)120-121] |
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東芭露離郷者数 | 表1 1960〜1975年、東芭露離郷者数 資料:『東芭露学校・部落の歩み』
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