東芭露部落史
第2章 湧別における生産

第3章 湧別における社会組織

昭和の小漁師topへ
湧別町百年史へ
東芭露部落史topへ






2




































 
 本章では湧別の生業の変遷を述べる。湧別の生業としては戦前のハッカ栽培、戦後の酪農といった2つの主産業がある。ハッカは、開拓が始まってから数年後に生産され始めた作物である。
 戦前期の湧別では、ハッカ以外のものは耕作されていなかったといっても過言ではないほどの状況であった。酪農は、戦前から若干行われていたものの、ハッカが販売作物としての価値がなくなる戦後期になってから拡大していき、現在の湧別における主産業である。そして、それらの間に豆類・麦類・馬鈴薯・甜菜などが販売作物として耕作された。この販売作物は、特に第2次世界大戦前後の作付統制、食料不足によって増産されたものである。

第1節    ハッカに関して

上へ 第1項 ハッカとは
 
 現在でも北見地方の特産物としてハッカは有名で、土産物としてハッカ製品が生産販売されている。しかし、穀物やジャガイモ、トウモロコシといった現在北海道を代表する農作物とは異なり、どのような作物で、その栽培・商品化までの精製過程はあまり知られていない。そこで、本項ではその性質や商品となるまでの過程を述べることとする。 ハッカはハッカ科ハッカ属の多年草であり、西洋種と東洋種に大別することができる。国内で栽培されているものは東洋種で、道内栽培種は主に赤茎丸菜種(通称赤丸)がほとんどでる。ハッカは精製過程において、ハッカ脳とハッカ油に分別される。前者はいわゆるメンソールで、無色針状の結晶で独特の香りを発する。有名なメンソレータムをはじめとした医薬品、歯磨き粉、菓子の材料、化粧品として使用される。後者は、無色透明もしくは若干黄色がかった色をしており、ハッカ脳とともに独特の香りを発する。これは、鎮痛剤・胃薬といった医薬品、酒などの香料、その他様々な芳香剤として使用される。国内で栽培されるものは「外国産のものに比べて苦味が強く、芳香の点て劣るので、多少用途が狭い。」〔千葉 1960 : 200〕また「一般に東洋種の薄荷は、油の含量と品質で西洋種に劣るが、脳分では、量質ともにすぐれており」〔千葉 1960 : 200〕戦前期には「日本産のハッカ脳が世界の需要の大半を満た」〔千葉 1960 : 200〕す状況であった。「世界の需要」という言葉から分かるように、ハッカの市場は国内よりも海外が主であった。そして、その市場の中心はロンドン・ニューヨーク。であり、他には「ドイツのハンブルク、フランスヘの直輸出や東南アジア・インド・中国」〔千葉 1960 : 200〕などがあったが、ロンドン・ニューヨーク市場での取引額には遠く及ばなかった。この状況は、第1次世界大戦での豆類輸出の増加にともなう減産を除いて、第2次世界大戦の勃発による輸出・流通の困難、その後ブラジルなどの海外生産品の増加による価格暴落によって生産価値がなくなるまで続いた。
 次いで、ハッカの栽培・収穫、商品となるまでの精製過程についてである。ハッカの栽培は種子ではなく種根を畑に植える「分根法」で、春・秋の2季のいずれかで植えられる。
 植え付けの前に畑を耕して整地し、種根を植え付けていった。「その畑に始めてハッカを植え付けた場合は「畝」を作ったため「畝バッカ」と言い、一度目の収穫の後は、多年草であるので再び畝を作る必要はなく雪が降る前に畑をおこし、翌年には一面にハッカの芽が生える。これを「床バッカ」と言った。」〔聞き取り 2003/9/26〕除草は、ハッカ栽培における重労働の1つであった。特に床バッカの場合は、一面にハッカが生えている間の雑草を除草するには、器具を使うこともできず手作業で行うしかなかった。「もし、10面の畑を持っていたなら、1日1面ずつ10日かけて除草して、11目目には最初の畑に戻る。夏の間はこの繰り返しで、腰痛すら感じなくなるくらいだった。」〔聞き取り 2003/9/26〕1農家に10面以上の畑があったわけであるから、その苦労ははかり知れない。そして、いよいよ秋の収穫になると、更に重労働が行われる。収穫は9月中旬から10月上旬の約1ケ月で行われ、全て手で刈り取られた。1人1日0.5 h aが平均とされ、刈り取ったハッカ茎は乾燥させるためにハッカ小屋に運ばれ、互い違いに縄で編まれた後、そこに干していった。刈り取ったハッカ茎は必ずその日のうちに干された。約10日後刈り取った薄荷は、充分、乾燥させてから蒸留器につめ、蒸気で脳油分を油出して、これを冷却して水分と分離すれば、薄荷取卸油」〔千葉 1960 : 199〕となる。取卸油を更に精製するとハッカ脳とハッカ油になるが、農家が自前で精製できるのは取卸油までである。この作業は、ハッカ小屋の近くにある蒸留器を設置した小屋で行われる。この設備は上層農家では個人所有していたが、ほとんどの農家は数軒で所有するか、設備所有者にハッカ茎をそのまま販売するか、施設を有償で借りて精製した。

第2項 国内・道内におけるハッカ栽培の経緯
 
 近世の国内におけるハッカ栽培は、岡山・広島・山形が主産地であった。その起源は、1817 (文化14)年ころに備中(現岡山県)在住の秋山熊太郎が、江戸から苗を持ち帰って栽培したことにはじまるとされる。彼は、取卸油を製造し薬種商・菓子商などに売り利益を得た。その後、広島・山形でも栽培が始まったとされるが、その詳細は不明である。
 時代は下り、1880(明治13)年に1,800 k g のハッカ油輸出額が統計にあらわわれている。〔蔦保氏の教示による〕。湧別で栽培されていたハッカの源流である山形では「明治10年頃までは徐々に増進し14年には市価暴落のためほとんど中止したること1,2年なりしも、17年の好景気につれて勃興し稀に見る盛況を呈し」〔蔦保氏の教示による〕とある。
 このような山形の状況を知った根室県官吏が、山形県置賜郡を視察し、輸出作物として有利であり、運搬が容易であることなどからハッカ栽培の奨励する報告書を県令に提出した。しかし、自給自足、国内・道内食料生産を目的としていた政策と異なるため、実現することはなかった。
 しかし、この報告書と前後して、北海道にもハッカが導入されていた。ただし行政府の指導ではなく、民間による試作程度のものであった。1884 (明治17)年頃、日高地方の門別と渡島地方のハ雲が最も早く試作された。特にハ雲の徳川農場では1888 (明治21)年に約0.5 h aの作付けが行われたが、1892 (明治25)年には完全に消滅してしまっている。また、胆振地方の虻田、有珠などでも試作されたが、定着することはなかった。そして、上川地方ではじめて本格的に普及する。 1891(明治24)年、山形県東村山村から上川郡永山村に屯田兵として移住した石山伝衛門によってハッカ種根が導入され、初めて「経営的に栽培・製油が行われ」〔北海道立総合経済研究所 1963 : 594〕だ。その後、北見を中心に道北・道東へと種根分与が行われ、広く栽培されるようになったのである。

第3項 湧別におけるハッカ栽培の経緯

  湧別村でハッカを最初に栽培を始めたのは、少年時代に横浜の薬種商店でハッカに関する知識を有していた渡部精司であった。渡部は、湧別村に団体入植した時にハッカが自生していることを見つけ、これを故郷・会津若松に送り、ハッカ油の含有量などの調査を依頼した。その結果、十分な含有量を確認することができ、作物として栽培を始めることができたならば利益を上げると考えた。そして自ら北海道庁・札幌農学校へ赴き、永山村でのハッカ栽培の事実を知って種根を入手して湧別村に戻り、1896(明治29)年にその種根を植え付けた事が湧別村でのハッカ栽培の始まりである。渡辺は、この時に収穫したハッカを東京・山形などの業者に送り、価格の照会をしたところ、それぞれから買い入れをする旨の回答を得られたため、ハッカ栽培の可能性に確信を持つこととなった。その後、近隣入植者に対しハッカ栽培を奨励したが栽培の経験もなく、毎年相場が変わるので投機作物とみられたため、拡大することはなかった。その中、岡山県や山形県出身でハッカ栽培の経験を有する者らが栽培を始めた。その栽培状況は、種根の増殖を主とし、経験があるとはいえども十分に精通していたわけでもなく、ハッカ蒸留や販売に関しても素人に近いものであった。実際、「製油は小包便で山形県に送って販売を委託」[湧別町史編さん委員会 1965:264]するといったものであった。1898(明治31)年、山形県出身の入植者が、ハッカ栽培に興味を示し、翌1899(明治32)年山形から種根を取り寄せて植え付け、山形から取り寄せられて蒸留器によってハッカ油が精製され販売し、利益を得ていた。その後ハッカは湧別を中心に斜里・興部・北見・常呂・美幌と北見地方各地に広がっていた。そして、湧別ハッカの名前は道内を越え本州の商人にも伝わり、1901(明治34)年山形の仲買人、横浜の小林商店が、1903(明治36)年には、ハッカ輸出の拠点であった神戸の鈴木商店からも仲買人が訪れるようになりハッカ相場地が永山村から湧別村に移って、名実ともに道内ハッカ生産の中心地となったのである。
 しかし、1910(明治43)年4月に、湧別村は下湧別村(現 湧別町)と上湧別村(現 上湧別町・遠軽町・生田原町・丸瀬布町・白滝村)に分村し、これによってハッカ作付け面積の97%が上湧別村内となった。湧別には芭露を中心とした約15haを残すのみとなった。
 湧別のハッカ栽培は、1901(明治34)年に武藤留助によって、現在の芭露市街地近辺で始まった。ハッカは潮風に弱いという性質があったものの順調に生育し、入植農家の主要な収入源として耕作地は拡大していった。1906(明治39)年にハッカ仲買を目的として芭露に転居した人物によると
 
      当時、芭露地帯には約100戸の入植者があったが、ハッカの作付け面積は2町歩くらいで、
     買付はしなかった。42年に仲買を始めたが、この年は4缶ぐらいの買付に過ぎなかった。44年
     の高値で翌大正元年は急激に増加し、ハッカ景気でわきたった。
                                          [湧別町史編さん委員会 1982:533]
とあり、大正期にはハッカ単作の農家が誕生し、「芭露ハッカ」という呼称も生じたほどであった。その後1914(大正3)年に勃発した第1次世界大戦期に価格高騰により豆類の増反に対して面積も半減する。しかし、それによって起きたハッカ生産量の減少による反動で価格は暴騰し、大戦の終結とともに再びハッカ栽培が始まり、一時期は主食用の麦類を除けば、全てはっか畑となる。とくに芭露川流域はハッカ栽培に適した気候であり、その中心地である上芭露に仲買人が殺到して「産地市場化し、旅館、料理飲食店が繁盛して100戸近くの市街を形成し」[湧別町史編さん委員会 1982:535]た。また、「薄荷の取引時期は毎年10月から年末になり、その時期には遠軽町より、長岡、金辰、多瀬の大手薄荷仲買人と、地元仲買商人との間で取り引きする為に農民の出入りが盛んで、料理屋は昼夜の区別なく酔客が横行する程繁盛」[上芭露自治会記念誌編集委員会 1991:2]した。

 芭露のハッカについて、当時を知る人々が語っている。それに関していくつか言及する。
まず、芭露で始めてハッカを栽培した武藤留助に関しては次のような資料がある。

     暮れかかる芭露原野の一本道を武藤留助は、一頭の子馬を引きながら歩いて
    来た。「やあ、武藤さんか。子馬をどうしたんだい」と企画の農家に声をかけられ、
    武藤はうれしさを顔面にあらわしながら言った。「ハッカが予想外に高く売れたの
    でなあ、子馬を一頭買って来たんだ。農家はやっぱり馬がないとだめだからなあ」
    と得意げだった。「武藤が馬を買った」という話は、たちまち入植者の間に広がった。
    明治34年、芭露地域で入植者で馬を持っている者はいなかったのだ。それが「ハ
    ッカを売って買った」というので、多くの人が武藤家へ聞きに来た。
     「湧別原野西一線に高橋長四郎という人がいる。この人ならハッカの種根を売って
    くれる。耕作法は私が教えてやるから」と、枯葉やってくる人たちに教えた。
                                         [芭露農業協同組合 1999:25]
 前述の通り武藤は芭露で最初にハッカ栽培を始めた人である。そして、その彼が馬を買ったとした人々は驚き、ハッカについて武藤に尋ねに行ったのである。続いて、1923(大正12)年に遠軽から西芭露に入植し、「ハッカの峯田」と呼ばれるほどハッカの栽培に熱心であり、西芭露のハッカの育ての親とも言える峯田繁蔵が語ったものである。

     大正12年の秋に畑500ヘクタールを2,000円で買った。金がないので4人の保証
    人を頼み、ハッカ収穫で払うことにした。それが大正13年は豊作で100組とれた。
    私は30円で売った。それでも3,000円の総収入。借金を払ってなお1,000円残っ
    た。
     米が一俵8円で麦なら4円30の時。私は以前、別の村で畑作をしていたが、5ヘク
    タールで平均200円の収入。それが、ここでハッカ作りをしている人は1,500円から
    2,000円なんですよ。
                                        [芭露農業協同組合 1999:25]
  このように、大正期の芭露はハッカ景気に沸き立っていた。峯田自身もその利益で「ハッカ御殿」と呼ばれる。戦前ではめずらしい瓦葺の家を建てている。毎年収穫後には朝から酒が食卓に並び、飲食店は大繁盛であった。また、「農家の中には商人のまねをして料理屋の2階を陣どり、東京から入る電話で相場をいち早く聞いて農家を回り、ハッカの買い付けをやったが、それで財をなした人はいなかった。」[芭露農業協同組合 1999:26]という。
 ハッカは相場変動によって大損害をもたらすこともあった。1931(昭和6)年に価格が下落したうえに凶作であったため、それまで贅沢に暮らしていた農家は、一気に赤字経営となった、そのため、ハッカの青田売りが行われる用になり、農家に金銭を貸していた商店主は農家を回ってハッカ取卸油を借金のかわりにもっていった。この時期の話として「農家の中には、ハッカ油のかわりに小便を入れたカンを床の間に置いておいたところ、商店主がハッカ油と思って持ち帰った」[芭露農業協同組合 1999:26]  という。このように投機的な作物では利益と損害を受けつつも、ハッカ栽培が続けられた。
 1940(昭和15)年、北見地方のハッカが根ぐされになり大凶作になったものの、芭露だけは、その地質の違いによって平年並みの収穫を得た。しかし、第2次世界大戦によって1941(昭和16)年から作付け統制が始まると、ハッカの作付け面積は激減する。戦後、一時期復興するものの、安価な海外品が輸入され、合成ハッカの発明によって現在ではほとんど栽培されていない。

第2節 ハッカ以外の畑作販売作物 

上へ  本節では、ハッカ栽培と酪農の間に行われた畑作による販売作物について述べる。

第1項 豆類

 ここで述べる豆類とは、大豆・小豆・金時・青エンドウなどのことである。入植当初から大豆や小豆は、味噌・餡などの原料として、豌豆などは自給野菜として耕作されていたものの、本格的なものではなかった。
 しかし、1914(大正3)年に勃発した第1次世界大戦により、輸出作物として市場での価格暴落したため青豌豆を中心に販売作物生産高で1位となった。これは、大戦の主戦場であったヨーロッパ諸国を食糧不足に追い込んだことから、日本はそれを補う国として考えられ、特に北海道の農村に大好況をもたらした。主に青豌豆の生産を増やす農家が続出し、自給作物の畑も豆の耕作に変え「豆を売って米を買う」[湧別町史編さん委員会 1982:503]という状況にまでなった。さらに豆成金が現れたことによって、販売作物の中心となっていた「ハッカまでが巻き添えを喰らうありさま」[湧別町史編さん委員会 1982:503]であった。この好景気によって造材業に従事していた者や商人までがにわか農家として荒地を開墾し豆類を耕作するなど、一躍農家の収入源となった。しかし、この状況も1919(大正8)年に第1次世界大戦が終結すると同時に終わりを告げた。豆類を含めた全ての輸出作物は大暴落し農家は大打撃を受け、さらに青豌豆は外注の被害があったため、豆類の耕作は急激に減少した。そして、第2次世界大戦による戦時体制時には麦をはじめとする主食となる作物の増産が重要視されたため、目目類の生産は増加しなかった。
 戦時中に減少した豆類も、戦後の食糧不足にともなって大豆を中心に生産が増した。その後、小豆は「赤いダイヤ」として市場での取り引きも活発に行われたものの、冷害や虫害に弱い豆類は輸出作物の1種として耕作されるようになっていった。

第2項 麦類

 小麦、大麦、裸麦などを含めて麦類といい、これは、耕作・収穫など主として生産に関係した条件が似ているためである。
 大麦と裸麦は同種の植物であるが、小麦は別種の植物で穀粒の性状も違う。大部分の小麦は粉食、大麦・裸麦は粒食とされている。また、燕麦・ライ麦などは、あわ、ひえなどと一緒に雑穀として扱われている。北海道における麦類は、水稲耕作が盛んになるまでは畑作農家の主要食糧としてきわめて重要な意義を持っており、北海道のように冷涼な気候に適し、その適応性は開拓当初より認められ行政府の奨励作物となり、畑作農家で輪作作物の1種として耕作された。
 小麦は主に自給作物として耕作されてきたが、戦時中の作付統制、戦後の食糧不足の時期にかけて、販売作物として確立した。その後も耕作は続いたものの、近年の輸入自由化によって、安価な海外産のものが輸入され始めたことにより、豆類と同様に輪作作物の1種として耕作されている。
 大麦も大部分を食料とし、一部が飼料として利用されてきた。その他僅かに醸造用にも利用された。入植当初には主要食糧として耕作されたが、前述の第1次世界大戦中の豆ブームなどで、減少傾向をたどるようになった。第2次世界大戦前後の食糧危機には一時増反したものの、その後はさらに減少し続け、現在ではほとんど耕作されていない。
 また、燕麦は戦前期において軍馬、生活物資や造材の運搬などに利用された馬の飼料として、年々需要が拡大し増反されていった。1901(明治34)年に旭川に陸軍第七師団が設置されていたため、軍需用として利用されていた。戦後は食糧難の時期に主食代用品として食べられていたものの、自動車の普及によって馬の飼料としての需要がなくなり、急激に減少していった。

第3項 馬鈴薯

 馬鈴薯は前述の通り入植時からの重要な自給作物であった。しかし、第1次世界大戦の勃発で、輸出農産物としてのデンプンの価格高騰し、豆類とともに空前の景気をもたらした。第1次世界大戦後にはその価格が暴落し、馬鈴薯は自給作物として耕作されるようになる。
 再び、1935(昭和10)年以降は、馬鈴薯はデンプンの原料となり販売作物としても耕作されるようになった。特に第2次世界大戦中には政府による強制割当作物となり、又アルコールの原料としても耕作された。戦後は主食代用品として耕作された後に、湧別にもデンプン工場が建設され、1955(昭和30)年以降の5年間、全盛期として耕作された。
 やがて酪農が主要産業となるとともに馬鈴薯の耕作は減少し、現在は自給作物として耕作されている。

第4項 甜菜(ビート)

 湧別で甜菜が耕作され始めたのは、昭和期に入ってからである。1935(昭和10)年に網走から芭露までの鉄道が開通し、輸送手段が確立したことが耕作の契機であった。その後、戦時体制にともなう強制割当作物に指定され増反していった。戦争の激化によって砂糖が輸入されなくなり砂糖の代用品として特別に肥料が割り当てられ、農家でも砂糖の配給がなくなったため自給作物としても耕作された。また、砂糖の代用品としてではなく、「肥料不足を補う堆肥づくりの家畜肥料として」[芭露農業協同組合 1990:8]も重視されていた。戦後には寒冷地適作作物として奨励され、馬鈴薯を抜き生産高で1位となったものの、現在では甜菜を飼料として利用することもなく、ほとんど耕作されていない。

第5項 トウモロコシ・南瓜

 トウモロコシは入植初期から自給作物として、また家畜の飼料用として耕作されてきた。
これも、戦後の食糧不足時には主食代用品として利用され、食糧事情が好転するとともに生産高は減少していった。しかし、湧別に缶詰工場が建設され、その原料として再び生産高が上がった。南瓜もほぼ同じ過程をたどってきた。現在では、自家用として耕作されており、秋の収穫時期にはおやつとして食べられている。
 ただし、トウモロコシと同種でも、飼料用のデントコーンの耕作は増加しており、酪農家のほとんどはこれを耕作し、自家用飼料として利用している。

第6項 亜 麻


 亜麻は茎が繊維の原料となり、種子は油の原料(亜麻仁油)として販売できるうえに、栽培も容易で、夏に収穫できるため換金が早いという様々な利点によって多くの農家で栽培された。
 そもそも北海道で亜麻が栽培されたのは、1886(明治19)年に近江麻糸紡績会社が、北海道の気候風土に適した作物であることに着目し栽培を奨励したことが始まりである。
 行く年には北海道製麻株式会社が設立され、1890(明治23)年に操業を開始すると、道庁も奨励し販売作物となった。湧別で栽培されるようになったのは1917(大正6)年に日本製麻株式会社の湧別工場が操業を開始してからである。亜麻は栽培しやすい作物であったが、連作が出来ず一度栽培すると7〜8年は同じ土地で栽培できないという特性があり、前述のような利点があるものの拡大しなかった。しかし、戦時体制になると、軍需衣料の原料として奨励され「作付面積ニ対シテハ指導官庁ヨリノ作付配当ニ基キ農会ト協力ノモトニ之ガ割当面積ノ完全消化奨励ニ努メタリ」[湧別町史編さん委員会 1982:511]と着実に増反された。
 戦後の一時期は栽培が続けられたが、輸入繊維や化学繊維が出回るようになり、価格の低迷から徐々に生産高は減少した。そして、1965(昭和40)年に、日本繊維株式会社の業績不振から湧別工場が閉鎖になり、その前後に栽培されることがなくなった。

第3節 酪 農  本節では、戦後期から現在にかけ湧別の主産業である酪農の変遷を述べる。酪農が生業をして確立するのは戦後であるが、戦前から牛の飼養は行われていた。これは戦後の酪農の前段階としてとらえることができるため、戦前の酪農の状況から述べることにする。

第1項 戦前の湧別における酪農

 湧別において牛が飼養され始めたのは、徳広正輝による農場経営である。徳広は土地の払い下げを受けて湧別河畔で牛の飼養を行いながら、馬鈴薯、麦、豆類の耕作を行った。
 徳広の入植当時の様子は次のようなものであった。

  明治20年、徳弘正輝が網走から牛7頭を導入、湧別川畔に放牧したのが始めてである。種類はつまびらかではないが、エアシャーの雑種(エアシャー種と短角デボン或いは但馬牛との雑種)と思われる。当時の状況からして搾乳の目的としてよりも、肉畜的な要素が強かったものであろう。徳弘の導入した牛は、網走の原、山田共同牧場からであったが、逐次これを増殖し、30余頭に達した。この牛は紋別郡内に分譲されたものと推察される<古老談>
                                   [湧別町史編さん委員会 1882:573]
 この資料によると、徳弘は、1887(明治20)年に網走から7頭を導入し、湧別川河岸で放牧を始めた。しかし、これは今日の湧別における酪農の直接の源流とはいえない。現在、湧別における酪農の中心は乳牛を飼養し搾乳した牛乳を販売することを目的としていた傾向が強かったからである。なお、ここでいうエアシャー種は「飼養管理が比較的容易で、放牧に適するばかりでなく、乳がよく出るのみならず、肉質も良好」[林・榎 1960:237]短角種は「早熟で肉付きが良好であるばかりでなく、乳量も少ないので子牛の生育に適する」[林・榎 1960:237]ものであった。徳弘に続いて農場がいくつか開設されたが、大きな成果を挙げることはなかった。
 約20年後の1907年「明治40年下生田原の安立治七と安立啓三郎が乳肉兼用牛を飼養した当時は、牛乳は1升6銭が相場であったものの販路に恵まれず、自家飲用のほかは畑に投棄した。」[湧別町史編さん委員会 1982:575]という状況で、乳牛飼養は行われていたものの、一般には普及することはなかった。
 1909(明治42)年、芭露の内山牧場開設が、湧別における本格的な乳牛飼養の始まりといえる。内山牧場の支配人であった大口丑定はせっきょくてきに牛の繁殖を行った。大口は、1913(大正2)年に岩手県小岩井農場から2頭の種牛を導入し、バター製造の技術を習得した後に製造器具一式を購入し、自家製バターを販売した。続いて1916(大正5)年、湧別市街地に大成舎という牧場を開設し、遠軽、留辺蘂周辺まで牛乳を1日約90リットル販売した。同時に農場周辺の農家に酪農を奨励したが、やはり定着することはなかった。
 ここで、北海道全体の酪農形成について述べておく。第1次世界大戦後の不況は、農作物だけでなく、乳・肉の価格全般に波及し、暴落し生計が成り立たなくなった者が農地を放棄することとなった。肥料をほとんど用いない「掠奪農法」を行ってきた結果、地力が衰退していたこともその要因となった。このような状況は全道に及び、道庁は、従来の「掠奪農法」を根本的に撤廃し、家畜の堆肥を利用して耕作する輪作農業を推進する政策に転換した。これによって、「乳牛の飼養が耕種と有機的に結びついた。」[林・榎 1960:241]、いわゆる酪農が形成されてゆく、北海道では1919(大正8)年以降、甜菜糖業の発展とあいまって、甜菜の茎や絞りかすで乳牛を飼養し、牛の堆肥を利用して甜菜を栽培する形態がとられた。また1921(大正10)年に、酪農先進国であったデンマークの技術を取り入れるために技術者を派遣し、1923(大正12)年にはデンマークの農家と5年間の契約をもって、札幌・十勝で酪農経営を行い模範例とした。ここに、北海道における酪農の素地が形成され、1927(昭和2)年から始まる第2次拓殖計画に引き継がれて、さらなる発展を遂げる。
 第2次拓殖計画は、種牡牛・繁殖牝牛・一般牛のほとんど全ての購入に際し、補助金を交付し、その繁殖を促すことを目的とした。また、生乳や乳製品の加工・製造・販売を確立するために設立させた酪農組合と、それらを統合する製酪組合聯合会を中心として、バターやチーズなどの製造、乳製品の共同販売を行わせた。
 製酪組合聯合会は、乳製品の関税を撤廃したことによって打撃を受けた畜産業界の牧場経営主が集まり、商標・品質などを統一して、バター市場を開拓したことなどに始まるが、その後は道庁の酪農政策のもとで、北海道酪農の中心組織として発展する。このような政策転換によって、それ以前は農家が数頭の乳牛を飼養し、その乳を売って生計を補うという副業でしか過ぎなかった道内の酪農業は確立していった。牛の飼養方法も夏季は山野で放牧し、牛種もそれに適したエアシャー種が多かったが、第2次拓殖計画実施によって、単なる副業としてではなく輪作農業の1部として畜牛が普及し、飼養方法も夏季放牧から年間通して牛舎で飼養するものに変化した。
 湧別の酪農もこの政策転換の影響を受けた。湧別では「毎月現金収入の得られる」〔芭露農業協同組合 1990 : 15〕乳牛飼養に関心が集まり、1929 (昭和4)年の内山牧場閉鎖にともなって、同牧場の乳牛が周辺農家に売られ牛を飼養する農家が急速に増加した。特に芭露では、牛を買い入れた農家によって酪農組合が設立、集乳所の設置からその傾向をみることができる。また、1930 (昭和5)年の製酪組合聯合会の遠軽工場、統く1939 (昭和14)年の同中湧別工場の操業開始によって、大正期までの流通末整備による生乳の販売が広がらなかった状況は解消された。その後は、第2次世界大戦などの戦時体制においては、接着剤・カゼインの原料となった牛乳は流通続制がひかれ大半を供出することとなり、乳製品は兵士や幼児、病人の栄養補給のために増産された。これによって、牛の飼養状況はほぼ変わることなく維持された。
 図1は、戦前の湧別における畜牛数の推移である。1932 (昭和7)年を境に急激に増加しているものの、1936 (昭和11)年から大きな変化は起こっていない。

第2項 戦後期の湧別における酪農

 第2次世界大戦後、極度の食糧難によって家畜に与える飼料を人間が食べざるを得ず、最終的には道内の畜牛の多くが密かに殺された。この結果、全道の乳牛数は、1944 (昭和19)年の84,691頭をピークとして減少し1949 (昭和24)年には52,804頭まで落ち込んだ〔北海道 1979:613〕。このような状況の中で湧別の乳牛数は、戦前のそれとほぼ変わりなく維持している。その要因は「粗飼料の依存度が割合高かった」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 582〕ためである。湧別でも食糧難は深刻な問題であったが、畑作によって収穫された豆や麦などの滓、牧草を利用することが可能であったためである。
 戦後しばらくの間、湧別における生業は戦前の畑作が引き続き行われた。しかし、作物の収穫は不安定なものであり、さらに1953 (昭和28)年から3年間連続して起こった冷害が、酪農への転換を促すこととなった。道庁は、この連続冷害に際して全道的な対策を発表し、その中で湧別を含む北見西部沿海地帯の問題として「酪農経営(混同経営)の拡大をはかるべきである」〔北海道農務部 1957 : 40-41〕とした。これに先立つ1954 (昭和29)年に湧別では農村建設計画書を策定されており、これには「安定経営方式に転換する、すなわち乳牛を中心とした所謂酪農村を現出」〔北倉 2000 : 158〕させるべきであるとしている。このように、道庁だけでなく湧別も酪農への転換を志向していたのである。
 これに拍車をかけることとなったのが、1956 (昭和31)年、国による集約酪農地域の指定である。集約酪農地域とは、その地域の農業のために酪農が必要であり、都道府県知事による振興計画の妥当性が認められた場合、農林水産省が指定し全ての振興策をとることができるというものである。同地域内には、支庁の出先機関として集約酪農事務所が設置され、それとの連絡・調整機関として農業改良相談所、家畜保健衛生所、酪農検査所、営農指導員駐在所などがあり、その系統に市町村、農協などがあった。また、事務所への協力団体として、市町村役場、地方議会、農協、農業委員会などによって構成された地域建設協議会が設置された。道内では1955 (昭和30)年度から3年間で24ヵ所がその指定を受けた。集約酪農地域の指定を受けてから様々な事業が展開していった。指定以前から始まっていた道有牝牛貸付制度によって、乳牛の頭数もさらに増加していた。同制度は、明治期にも行われたいわゆる「仔返し法」ともいえるものであった。市町村及び農協などを通して、家畜を持たない農家に乳牛などを4〜5年間無料で貸し付け、借り受けた農家は最初の1年で生産した牝子牛を返納する義務があるが、返納した牝牛の総数が借り受けた牛と同じ数になった時点で借り受けた牛は無料で払い下げられるというものである。この制度と並行して政府による牝牛貸付制度や、農協などの金融機関からの導入制度も行われたため、乳牛の数は飛躍的に増加した。また、それまで搾乳した乳を芭露、東芭露といった各地区におかれていた集乳所に生産者が持ち込んでいたが、乳業会社が集乳車を配置し生産者宅前まで有料で集乳するようになり、乳の輸送労働が軽減された。1956 (昭和46)年には農協を中心となって集乳のほかに生活物資の配送、農作物の集荷を行うようになり、2年後には冬季もトラックで集乳するようにもなった。戦前に一部で行われていたに過ぎなかった乳牛の人工授精も、1950 (昭和25)年の「家畜改良増殖法」などにより発展はみせていた。
  道は、1951 (昭和26)年に北海道家畜人工授精整備統合5ヵ年計画を立て、道立家畜人口受精所を設置して全道にその技術を広げた。その成果により、1956(昭和31)年に道内乳牛の人工授精実施率は80%〔北海道 1979 : 610〕に達した。その他、酪農に必要なものとしてサイロがあげられるが、1952 (昭和27)年時点では95基で31%の普及率であったが、1960 (昭和35)年には約70%に普及した。これによって、デントコーンの作付が増加し、サイレージが利用されるようになり、飼料体系も大きく変化した。1957 (昭和32)年には国有貸付のトラクターが導入され、深耕、牧草収穫時に利用された。
 集約酪農地域の指定を受けてから約10年後の、1967 (昭和42)年に、第1次農業構造改善事業地区指定を受け、翌年から3ヵ年、牛乳に開するものを基幹作目として実施された。農業構造改善事業とは、地域農業の担い手の育成や、農地利用集積の促進・経営体の発展を支援し、地域農業の構造改善を図るために必要となるソフト活動・ハード施設の整備を目的としたものである。第1次事業は芭露のみが対象となり、土地基盤整備として、草地の造成改良15h a、暗渠排水1958 h aが行われ、近代化施設としてトラクター6台、作業機16台が導入された。また、融資事業として乳牛導入72頭、乳牛舎23戸、サイロ38基、堆肥盤14基、尿溜19基、ミルカー5台が導入された。
  第1次農業構造改善事業が終了した3年後の1973 (昭和48)年に第二次農業構造改善事業に指定され、1976 (昭和51)年から6ヵ年計画で開始された。第2次事業は、芭露のほかに湧別地区、計呂地地区も指定を受けた。芭露では、基幹作目として牛乳に肉牛、甜菜、馬鈴薯なども加えられた。事業内容は、土地基盤整備として、暗渠排水38h aが行われ、トラクター27台、作業機145台、バルククーラ― 133基などが設置された。  融資事業では、乳牛50頭、畜舎62戸、乾燥舎12戸、堆肥場39戸、尿溜33戸、サイロ58戸、バンクリーナー48戸などが導入された。第2次事業ではバルククーラーの導入が主な目的であったともいえる。バルククーラーとは、搾乳機で搾った牛乳をパイプラインによって直接保存器に送り込み、生乳を冷却・貯蔵することができる機械である。これによって水で冷却する方法よりも急速に冷却することができ、長時間の保存が可能となった。この導入まで乳質の保全のために酪農家は次のように苦労し、様々な工夫をしていた。

     たくさんの集乳缶に搾った乳を、乳質を落とさぬようにどう管理するか…
    落等防止は収入に直ちにひびくことなので頭を痛めた。特に夏季間はなやみ
    の種で、流水に浸したりして、たいへんだった。
                              〔湧別町史編さん委員会 1982:595〕

 このような悩みを解消するために導入されたのがバルククーラーであった。また、ミルカーと呼ばれる電動の搾乳機も使用されており、乳質の保全と同時に、生産者の労働の改善にもなっていた。2度の構造改善事業や、個々の酪農家の努力により、1978 (昭和53)年には芭露地区で牛乳生産10,000トンを突破した。
 その後、国際的な課題となった農作物の自由化や、後継者問題など新たな課題が生じているものの、図2、図3で示すように生産を増やしてきている。


第3章 湧別における社会組織      
  本章では、湧別の生業にともなう社会組織の変遷について述べる。明治期から第2次世界大戦開戦時ま で、道内はもとより全国的に農会と産業組合が組織される。この組織の役割は前者が「農政と技術指導」を 目的とする組織で、後者は「経済の発達」を担う組織であった。その後、国は戦時体制化の農村経済の統  制強化を図るため、農会と産業組合を1つの組織として農業会に統合させる。戦後、農業会の事業を引き継 ぐかたちで、農業協同組合が設立することとなった。このような流れの中で湧別においても同様に組織が成 立していった

上へ 第1節 農会   本州以南では明治初期の段階で、農事会・農談会等の名称で近隣の20戸程度の農家が集まり、農業技術の改良などに関する会合が行われていた。これらをうけるかたちで、1881(明治14)年に大日本農会が設立された。北海道においても、勧農協会が道庁役人・札幌農学校関係者・地方有力者などによって組織された。この時期の本州以南における農会は、茶や生糸などの販売組合にみられるような商品生産の促進を目的とした動きや、農業に対して研究熱心な篤農家の主導による農業技術指導が行われていた。
 しかし、北海道では、行政府による開拓政策によって比較的優遇されていた経緯もあったためか「自主的展開の微弱」〔田畑 1984 : 118〕さがあり、本州以南のそれと比べて、農政の補助的かつ官制的な役割を担っていった。 1899 (明治32)年に「帝国農会法」が制定され、帝国農会が結成された。そのもとで、各地の農事会・農談会は任意団体から法定団体となり、名実ともに行政府の農業政策の下部組織の機能を果たすこととなった。
 では、湧別ではどのように農会が組織されたのだろうか。1899 (明治32)年の村予算科目に「農談会補助金」という項目があるが、いつ組織されたか、またどのような事業を行っていたかは不明である。そして、同法のもとで、湧別でも1900(明治33)年に湧別村農会が成立した。その設立には、和田麟古、渡部精司など14名が中心となった。ただし、法定団体ではあるものの加入は任意であった。その初期における事業は、次の通りである。
   (1)  農事に関する各種指導。試験講習および調査。
   (2)  肥料の共同購入および農産物の販売斡旋。
   (3)  病虫害駆除および農具改良。
   (4)  産業組合、農事組合組織の設立勧誘および指導。
                             [湧別町史編さん委員会 1982:606]
 しかし、実質的な動きはなく、湧別村農会としての事業が具体化するのは1901 (明治34)年以降のことである。事業内容は次のようなものであった。

    1901(明治34)年 :菜種の栽培が600町歩に拡大したので有利な販売
                 のため共同販売組合が組織されると、農会も協力して
                 「菜種検査規則」を設けて生産物検査を施行
    1904 (明治37)年 :農会が主体となってハッカの共同販売事業を実施し
                 て差益金17,000余円をあげる
    1905 (明治38)年 :道有種牝馬の貸付を受け馬産改良を促進
                             [湧別町史編さん委員会 1982:606]

 1904 (明治37)年のハッカ共同販売事業は、本研究対象でもあるハッカに関することのため具体的に述べることとする。
 当時ハッカの流通は、商人と契約を結んだ仲買人が、個々の農家に赴き売買するという方法をとっていた。また、この年は例年よりも豊作が見込まれたため、商人たちは逸早く農家を戸別訪問した。例年ならば大きな混乱もなく取引が成立するのだが、同年は日露戦争が勃発した年で、ほとんどの戸主が招集をうけて不在だったという例年とは異なる状況だった。このような状況で戸主が留守の家庭は、大きな利益を求める商人たちの標的となった。そのため、仲買人による買い叩きを阻止することを目的として、有志数人が湧別村農会に働きかけて共同販売体制を確立した。その相談会開催通知に当時の状況をみることができる。

        今や薄荷の収穫製造を終え、販売せんとするに方り、近年奸商輩徘徊し、
       戸主応召家族の老幼婦女なるに乗じ種々の滑手段を回らし、利益を墟断せ
       んとするの噂有之兵村の如き、農業を以て本とし、殊に薄荷の如きは唯一
       の特産物にして、一年の計画多く薄荷に持つに関わらず一に商人の掛引きに
       罹り其利益を削減するが如きことありては一家の不利益は勿論、従って地方
       の盛衰にも大い関係にあるにより、右等の不幸を避け相当代価に販売するを
       講ずるは目下の急務と被存候に付、諸君と其方法を講究致度候条明十三日午
       前九時迄万障繰合屯田市街地禅寺に御参集相成度北欧申達候也
       明治三十七年十月十二日
                                    湧別村農会長 石川正之助
                               〔湧別町史編さん委員会 1982 : 530〕

  同年のハッカ取卸油の生産量は2.4 tに達し、共同販売は全村に拡大した。この結果1.2kg当たり5円という価格協定が破れ、5円15銭から5円45銭までの間で取引され、17,000円以上の利益をあげることとなった。経過報告会では300入以上が出席し、石川農会長の「多数生産者を陥穿せんとしたる者が如きは、公徳を無視し不義の甚だしきものなり。」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 531〕という発言に対して、拍手喝采が起こった。
 つまり、湧別村農会成立当初の役割は農業指導というよりもむしろ農産物などの流通に関するものであったといえる。これは当時の農法が、肥料を利用せず同じ作物を連作するなどといった「掠奪農業」であったため、農業技術の革新をそれほど必要としなかった。むしろ農産物をいかに販売するかに農業経営者の意識が注がれていたためであると考えられる。
 1905 (明治38)年に行われた帝国農会法の改正により、これまでの任意加入から強制加入制となったことにより会員が増加した。そして翌年の総会において役員選挙が行われ、農会正会員で農業経営者である鈴木峰次が会長となった。以降、湧別村が上湧別村分村にともなって、下湧別村農会となるまでの事業は

(1)郡農会主催の短期講習会場の誘致開設。
(2)道庁委託輪作試験地の指定獲得
(3)害虫駆除防止策の樹立励行。
(4)作物試験場設置目的で湧別原野一、二三二番地の五町歩の無償貸与を受ける。
(5)優良種苗の培養配布。
(6)農業雑誌や新聞などの輪読奨励。
(7)水稲試作物の設置補助。
(8)地力減耗対策として「施肥奨励規程」を設け、堆肥舎築造や金肥購入に対する奨励金交付。
                               [湧別町史編さん委員会 1982:607]

 などであった。(1)、(2)、(4)は村外の農会及び道庁との関係、(3)、(5)、(7)、(8)は農業技術指導、(6)は農業技術指導にも関わるが一般教養の普及をそれぞれ目的としていた。それまで目立った事業を行ってこなかった農会が、農業技術指導と官制的役割を担うようになったことを示している。
 これは、1904年に行われたハッカ共同販売を成功させ、法改正による会員の増加などが要因となったためであろう。
 1910 (明治43)年4月に上湧別村が分村したことによって、同年5月26日に農会も分割され下湧別村農会に再編成された。その事業展開は前述のものを継承しつつ、1914 (大正3)年に網走外3郡農会において「管内勧農方針を確立」〔北海道庁網走支庁 1917 :127〕するための農事改良必須事項27として定めたものをもとに行われた。これには必須事項を「定ムルニ当リテハ、農事試験場北見支場、網走支庁、郡農会ガ中心トナリ、道庁ヨり係官ノ出席ヲ求メテ、数次ノ調査研究ノ結果、長官ノ承認ヲ得テ決定サレタルモノニシテ、単ナル当局者ノ思付デ変更ヲ許サザルモノトシテ、管内農業指導ノ根本ト」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 608〕しており、道庁を中心とした官制的な性格が色濃くあらわれている。
 1922 (大正11)年に新農会法の施行により、会費の強制徴収権が付与されたことで財政が安定したことによってさらにその体制がより確固たるものとなった。
 このように、農会としての機能を果たし始めたころ、第1次世界大戦後の不況、1930 (昭和5)年に起こった世界恐慌、1931 (昭和7)年から1935 (昭和10)年にかけての冷害凶作によって、農家は経済的な困窮を極めていった。この状況の中で、農会は技術指導にとどまらず、村経済更生計画の制作・実施、農家の団結を勧める農事実行組合結成の奨励を行った。また「(1)生産物の共同販売と肥料の共同購入など経済営為の斡旋。(2)産業組合成立の推進」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 609〕も行った。
 1940 (昭和15)年に行われた「農会法」の一部改正と、翌1941 (昭和16)年の「農地作付統制規則」、「農業生産統制令」などの法令が制定された。これは戦時体制の強化を目的としたものである。これらの法に基づく農会の事業28は、個々の農家に対する指導から、国による全体指導的なものへと移っていった。そして、1943 (昭和18)年、農業団体の一元化を目的とした「農業団体法」の制定によって、その事業を下湧別村農業会に引き継ぎ、湧別村農会は解散した。

上へ 第2節 産業組合  1890 (明治33)年に制定された「産業組合法」により、全国的に産業組合が組織される。産業組合の目的とは、金融(信用事業)、生産物の販売(販売事業)、生産資材・生活物資の供給(購買事業)、農業施設の共同利用(利用事業)などであった。しかし、北海道では計画による開拓の途上であるなどの理由で開法の適応が困難であるとされ、勅令255号「北海道二於テ農業者ノ設立スル産業組合二関スル勅令」が、1891 (明治34)年になり制定された。次の資料から当時の状況を読み取ることができる。

       産業組合法が発布せらるるや、北海道に於いても亦その設立を見るに至っ
      た。然しながら新開農村においては、特殊な場合を除き、
      1.共同心に乏しく、
      2.土着心なく従って永遠の計なく、
        …中略…
      4.人情・風俗・習慣を異にし、各人の富みの程度にも大差がないので、
      是が経営の中心となりそれに没頭し得る信望あり、経済的余裕のある理事者
      は頗る少なく、一般に経済的に困難な時代がったとは言え、頗る不振にあった。
                              〔芭露農業協同組合 1990 : 41〕

  「土着心がなく」という点に開しては、北海道開拓のために入植してきた人々の中には、前述の通り、「いずれ故郷に戻る」という希望があったことを示していると考えられる。「人情・風俗・習慣を異にし、各人の富みの程度にも大差がない」という記述も、入植者によって構成されていた村の状況をよく示している。この状況で特別法ともいえる勅令が公布されたにもかかわらず、組合の成立は遅々として行われなかった。これは道内の農家の多くが組合組織に関する知識をあまり持っていないにもかかわらず、宣伝広報活動が不十分であったこと、道内を総括するような組織がなかったことなどが要因とされる。
 仮に組合が組織されても、数年で休業してしまうものが多かった。大正・昭和期に入ると、全道的な大凶作や、翌1914 (大正3)年の第1次世界大戦勃発にともなう物価高騰により購買事業の必要性、戦後の不況などから道内各地で産業組合が組織された。しかし、当時の組合は小規模なものが多く、専任職員の不足や、独立事務所の設置困難、また、前述のような統括組織がなかったため経営難となるものが多数生じた。これを受けて、1917 (大正6)年に「強力な指導機関および組合相互間の有機的連絡機関」〔芭露農協共同組合 1990 :48〕として産業組合中央会北海道支部が、各支庁管内に下部組織として部会が設立した。
 同時に、「掠奪農業」から気候・地力などを考慮した多種作物による輪作といった「循環農業・適地適作自給農業」への転換が各地で行われていった。その結果、産業組合に農村経済が強く結びつき、北海道の産業組合は組織として確立していった。
 このような道内の状況を背景として、湧別における産業組合が成立した。湧別の産業組合は、大正後期からの不況が深刻になるにしたがってようやくその重要性が認識され、まず、1928 (昭和3)年に計呂地地区と湧別地区に設立された。それまでは前節のとおり、ハッカなどの生産物は農家と仲買人との個別取引が慣例であったが、不利な条件での取引を防ぐため、場合によっては農業技術指導を目的とした農会が共同販売を斡旋することがあった。このようなハッカ共同販売の成功などを経験したことによって、農家の間でも次のような考えを持つものがあらわれたことによって、産業組合創立のきっかけとなった。
 すなわち、農会の共同販売に「応じたわれわれは共同販売の必要を自覚し、併せて僻地における諸物資の高価なことを免れ経済更生に役立てたいと、販売購買事業を主とする産業組合結成を思い立ち、同志と計らい一般に呼びかけたが、趣旨の理解が容易でなくようやく3部落農民の3分の1役60名ほどの賛成を得て、出資額1口30円で1、800円とし設立手続きを経、昭和三年三月保証責任計呂地信用購買販売利用組合が認可成立し」〔湧別町史編さん委員会 1965 : 322-323〕だ。同組合が設立した2年後の1930 (昭和5)年、金輸出解禁によって乳製品の輸入が激増した。そして、国内乳製品の価格が暴落しだのをうけて森永野付牛練乳工場の原料乳買入を制限したことに端を発して、その販売ルートが産業組合を通すものに一本化された。これによって、芭露の酪農家が個人的に同組合に加入を申し入れはじめたため、1931 (昭和6)年に名称を東湧産業組合に変更しその区域を、芭露を含むものに拡大した。しかし実情は、「芭露原野一帯の産業組合未設置の地方は、本年東湧産業組合区域拡張により加入可能となりたりたるを以て、その加入を勧誘したるも産業組合に対する理解乏しく、多数の加入者を見るに至らず」〔湧別町史編さん委員会 1965 : 323〕というものであった。
 これは、芭露の多くの農家がハッカを主とした生業活動を行っていたため、酪農家のような行動を早急に行う必要がなかったという当時の状況をよく示したものといえる。同組合の設立当初の事業としては共同販売事業とともに、湧別市街地から日用品や食料品などを仕入れ、1日かけて運搬したうえで組合員に供給していた。また、肥料や縄などの藁製品も取り扱っていた。
 このように徐々にではあるが組織としての役割を果たしつつあったが、1935 (昭和10)年、1村1組合とする組合強化を目的とした行政の指導に基づき、保証責任計呂地信用購買販売利用組合は保証責任湧別信用購買販売利用組合を吸収合併し、保証責任下湧別村信用購買販売利用組合と改め、芭露市街地に本部を、湧別、上芭露に支所を置くこととなった。そして、同組合も、前節の農会と同様に、戦時体制強化を目的とした事業に行うことになる。農業生産資材の配給、農村金融の統制、農産物の集荷統制などの流通過程における統制機関としての役割を果たすようになり、農産物から日常品・食料品に至るまで農家が売買する全ての物資が組合に一元化することとなった。そして、「農業団体法」によって解散し、下湧別村農業会に事業を引き継ぐことなった。

 
第3節 農業会  前述の通り、国を挙げての戦時体制確立のため1943 (昭和18)年に「農業団体法」が制定された。同法の目的は「農業関スル国策二 塵シ農業ノ整備曼達ヲ圖り且會員ノ農業及経済ノ曼達二必要ナル事業ヲ行フコト」〔中央農業協力會 1943 : 2〕であった。
 主な事業は農会・産業組合のそれを継承したものであったが、さらに強力な統制権が付与された。たとえば、不在地主であっても、農業会の会員とされ加入・脱退の自由は否定された。また、「農業生産統制規程」に基づき、農作業や作付作物を指示し実行させる権利も有した。総会で選出された会長も行政府から任命されなければならず、副会長・理事も総会で選出されるがものの、任命権は会長が有していた。また、会長には会長専決処分が許されており、本来総会において可決すべき会の重要事項を独断で決定し、総会で事後報告を
することが認められていた。このことは、農業会自体が行政の代執行機関であったことを裏づけするものであった。
 湧別においても同様であった。同法制定の翌年、「農業団体法第88条ノ規定二依り其ノ法人二対シ解散ヲ命ス」という内容の北海道長官命により設立した。ただし、会長の選任に関して問題が生じた。「會長ハ總會二於テ推薦シタル省二就キ市町村農業會二在リテハ市町村長(町村良二準ズルモノヲ含ム)ノ意見ヲ微シ地方長官」〔中央農業協力會 1943 :11〕が任命するという同法第29条に関して、市町村長の兼任を望む行政府の意向と、農会長もしくは産業組合長などを専任の会長とすることを望んでいた農家側が対立したのである。  結果的には、前産業組合長が専任会長として任命された。これに関して、全道217名のうち専任会長が108名、兼任会長が109名であったのに対し、網走支庁管区では26名のうち、専任会長が17名、兼任会長が9名という結果となった。この背景として、湧別には他と比べて不在地主が少なく、有力農家が多かったことがあげられる。設立後は、食糧作物を中心に、援農労務者の受け入れ、農作業にともなう物資の配給のほか、「木炭の増産(車両の燃料)、針葉油の採取(航空機の燃料)、イタドリ葉の採取(タバコの原料)、イラ草の採取(繊維原料)、軍用兎供出(防寒用毛皮と肉)、末期にはトーキビの芯(接着剤原料)の集荷督励」〔芭露農業協同組合 1990:65〕も行った。東芭露在住のK氏は「豆類やトウモロコシなどの食料作物の供出により、自分たちが食べていくことも大変だった。」と述べており、本州のような空襲などの被害はなかったものの、戦時体制の様子をうかがうことができる。
 このように戦時体制の一環として設立した農業会も、第2次世界大戦の終結により、その機能を農業協同組合に引き継ぐことになる。

第4節 農業協同組合  戦後、連合軍総司令部の指令により農地解放、農業会解体、農業協同組合法制定といった「農地改革」が進められた。そして、1947 (昭和22)年に「農業協同組合法」が制定され、各地で農業協同組合が設立した。その業務内容は、戦前の産業組合のそれと同様、金融(信用事業)、生産物の販売(販売事業)、生産資材・生活物資の供給(購買事業)、農業施設の共同利用(利用事業)などであった。 
 湧別においても農業協同組合の設立への活発な動きがあったが、その区域に関して各々の意見に相違があったため、設立自体は網走支庁内でも遅かった。そして地区に関する意見の相違が要因となり、湧別には、下湧別村芭露農業協同組合 ・ 下湧別村湧別農業協同組合 ・ 下湧別村上芭露農業協同組合 ・ 下湧別村計呂地農業協同組合が設立した。これは、一般的に1行政区1組合であった当時の状況の中では、1行政区域に4組合が設立するという少し異なる状況であった。

 では、なぜ1行政区域に1農協設立とならなかったのであろうか。これに関しては、次の資料に、地理的な要因・人的な関係性が述べられている。区域問題に関しては、当時の湧別の様子をうつすものと考えられるためここでみておきたい。

   村内ではこれらの情報と、資料をもとに農協設立について各種の意見が出さ
  れたが、最大の論点は区域問題であった。
  下湧別村農業会の役員会の席上でも、農協の設立について各種の意見が交換
  されたが、当時の村内情勢から、「この際村内各層の意見を集約し、それによっ
  て農協設立の方向を見出そう」と、農事実行組合、農民同盟などの代表者その
  他村内の有識者の参集を求め、農業会本部の事務所2階で農協設立についての
  懇談会が開催された。その当時の状況を(湧別)農協設立発起人の一人であっ
  た現組合長の羽田宏(現・湧別町長)は、「集まった顔ぶれをどのようにして
  選ばれたかは記憶にないが、農業会本部の会議室で開催された農協成立につい
  ての懇談会には私も何回か出席した。既に総司令部からは発せされた農民開放
  指令による農業会の解散と、農業協同組合の設立並びにその内容は、全般的に
  理解されていたが、具体化する段階で意見が多く出されたのは、設立する農協
  の区域をどうするかであった。
   当時、下湧別村農民同盟の委員長であり、北見地方農業協同組合推進委員会
  の常任委員であった内山繁太郎をはじめ芭露地区の出席者は、全村一円とする
  農協の設立を主張、私も農業の地域的経済単位と組合経営の立場から、行政区
  域を単位とする村内1農協で将来に備えなければならないと提唱したが、湧別
  側の出席者は、この際湧別地区で農協を設立しようとの考えが多かった。
   回を重ねるごとに、芭露側としても下湧別村の広大な面積と地形、組合と組
  合員の密着性、交通事情等から、村内1農協の設立は容易にまとまらない。湧
  別地区がテイネー川以西を区域として分離、独立することも止むを得ないと、
  最終段階に人って合理的地域性を主張して計呂地が独立、芭露地区全域を区域
  として設立しようとの協議も、上芭露の一部の人たちによって上芭露が独立し、
  結果的には全道でも数少ない、村内に4農協が設立された。」
                      〔芭露農業協同組合 1990 : 83-84〕

 まず地理的な理由については、現在でも湧別市街地と芭露市街地の移動には、自動車で15分程度かかる。当時の交通手段を考えても、地理的に離れていることは明確である。また、湧別町の地形もその理由としてあげることができる。湧別市街地を中心とする地区はオホーツク海に面し、海風が吹き付ける平野部である。対して芭露市街地を中心とする地区では、市街地はサロマ湖に面しているものの、上芭露・西芭露・東芭露は直接オホーツクからの風を受けない。さらに、これらの地区から湧別市街地に行くには芭露市街地を経由するためおよそ2倍の時間を要する。そして、このような地理的な要因は、生業活動にともなう共同作業、また学校などを通した生活の中で構築されるであろう人間関係の妨げとなったと考えられる。
 やがて、財政的な理由により芭露農業協同組合上芭露農業協同組合は1951 (昭和26)年に吸収合併、計呂地農業協同組合は1953 (昭和28)年に対等合併した。この後、芭露農業協同組合は2002(平成14)年まで芭露地区の生業や生活に深く関わっていった。
 湧別には、上記の4農業協同組合とは別に湧別村開拓農業協同組合(芭露および、計呂地を区域とした)と湧別開拓農業協同組合(湧別市街地を中心とした地区を区域とした)が1948 (昭和23)年に設立している。この開拓農業協同組合とは、1945 (昭和20)年「都市疎間者の就農に関する緊急措置要綱」や、1945 (昭和20)年8月以降「戦後緊急開拓事業」のもとで、本州から疎開を目的としてやってきていた人々外地引揚者や復員軍人などが入植し、彼らによって設立されたものである。戦後入植者の多くは、既存の農家が放置していた傾斜地など農地として適さない場所に入植し、また農業未経験者も多く、国からの助成はあったものの経済的に困難な状況が続いた。このような背景で彼らの団結心は強く、開拓者連盟を全道的に組織し、既存の農家とは別に農業協同組合を設立した。
 これが開拓農業協同組合である。事業は総合農協と変わらなかったが次第に経営困難に陥り、1957 (昭和32)には両農業協同組合が合併し、湧別村開拓農業協同組合となった。そして、1971 (昭和46)年度をもって開拓諸制度が終了し解散、個々の判断により芭露・湧別農業協同組合に加入、もしくは、1974 (昭和49)年に設立した湧別町畜産農業協同組合に加入し、この湧別町畜産農業協同組合も2002(平成14)年に湧別農業協同組合と合併し、現在に至っている。

上へ