東芭露部落史
序章

第1章 湧別開拓略史

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序章
第1節 研究目的      これまで北海道に生きる人々を対象とした研究は、「出来事」や「政策」を中心に論じた歴史学的研究、生業の「システム構築」については論じた農業経済的研究、「社会集団」について論じた農村社会学研究などの視点から行われてきた。しかし、歴史学的研究、農村社会学的研究では、生業を対象としたものは少ないといえる。また、農業経済学的研究も、1つの生業としたものが多く、そのため短い時間の流れの中でしか人々の様子をみることができなかったといえる。北海道に生きてきた人々の生業の歴史的変化を追うことは、彼らがいかに生きてきたのかを示すひとつの事例となるのではないだろうか。そこで本研究は、開拓から現在に至るまでの生業の歴史的変化の過程を論じることを目的とする。また、本稿では、生業活動の変化を中心に扱うものとする。
 上記の目的を論じるために、本研究では紋別郡湧別町を対象とした。湧別、特に芭露の人々は開拓以降、ハッカ栽培、畑作による販売作物耕作、酪農と生業を大きく変化させていたからである。ハッカ栽培は導入当初は投機的な作物として避けられていたにもかかわらず、後にハッカの大生産地として多くの人々の生業となった。第2次世界大戦前後には国の政策の影響で、畑作による販売作物が生業となった。しかし、寒冷地ゆえに生産が不安定であったために、乳牛飼養を中心とする酪農が生業として確立して現在に至っている。この様な生業の歴史的変化の過程を明らかにすることを目的とする。

第2節 本論構成  本論は以下のような構成で、前節で述べた目的を明らかにする。
 第1章では、北海道開拓の政策方針、土地に関する法令を中心に述べる、そのうえで、湧別の開拓過程について述べることとする。北海道開拓は1868(明治2)年の開拓使設置とともに開始する。同時に、土地に関する諸法令が制定された。その後、1886(明治19)年に北海道庁が設置されると同時に開拓政策は、一変した。積極的に民間資本を導入によって開拓を進めることとなった。殖民地選定後、多くの入植者によって湧別の開拓が本格的に始まった。また、当時の様子を入植者に対して行われた過去の聞き取り調査をもとに、開拓初期の状況について述べる。
 第2章では湧別の生業の変遷をのべる。湧別の生業としては戦前のハッカ栽培、戦後の酪農といったつの主産業がある。戦前の湧別では、ハッカ以外のものは耕作されていなかったといっても過言ではないほどの状況であり、酪農は、戦後になってから拡大した現在の湧別における主産業である。そして、それらの間に豆類・麦類・甜菜などが販売作物として耕作された。
 第3章では、湧別の生業にともなう社会組織の変遷について述べる。戦前、全国的に農会と産業組合が組織される。この組織の役割は前者が「農政と技術指導」を目的とする組織で、後者は「経済の発達」を担う組織であった。その後、国は戦時体制下の農村経済の統制強化を図るため、農会と産業組合を1つの組織として農業会に統合させる。戦後、農業会の事業を引き継ぐかたちで、農業協同組合を1つの組織として設立することとなった。このような流れの中で湧別においても同様に組織が成立していった。
 第4章では、聞き取り調査の結果をもとに、東芭露の人々がどのような過程を経て酪農を生業となったのかを述べる。東芭露では1960(昭和35)年から15年間の急激な過疎化によって、2003(平成15)年3月31日現在、12世帯・42人が居住する湧別の中でも人口が少ない地域である。

第3節 研究手法  湧別における生業の歴史的変化の過程を文献資料を中心に論じる。具体的には町史、地区史とともに、戸数・ハッカ価格などの量的資料などの文献資料を中心とし、合わせて研究協力者の聞き取りを行う。特に、生活状況やハッカ栽培の状況、生業に関する個々人の変遷など、文献資料に残されにくい資料は、聞き取り調査と文献資料とで相互補完・比較対照を行うこととする。
 本研究を行うにあたり、2002年7月26日〜29日の予備調査、2003年9月25日〜10月1日及び同年10月15日〜26日の文献収集・聞き取り調査、計22日間、湧別町にて行った。なお、聞き取り調査は東芭露在住の専業酪農家を対象に行った。

第4節 研究対象地  本研究の対象地である紋別郡湧別町は、北緯44度15分〜43度59分、東経143度24分〜143度46分の北海道の東北部、オホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置する。東に佐呂間町・常呂町、西に紋別市、南に上湧別町・遠軽町・生田原町と隣接し、北はオホーツク海に面している。そして、湧別市街を中心に「八」の字型に西部及び東南部に広がり、東西29,4km、南北31,2km総面積は344,3平方kmである。このうち湖(サロマ湖・シブノツナイ湖)を除く大部分が山林で、河川沿いに原野が広がっている。帰港は、オホーツク海型気候地域として日照時間が長く、降水量が少なく、冷涼であり、年平均気温は5,5度、年間降水量600,5mmである。人口は5,266人、1,855世帯(2003年4月1日)[湧別役場 2003:1]であり、うち15歳以上の就業者数は2,861人(第1次産業:1297人 第2次産業:596人 第3次産業:965人 分類不能:3人)[湧別HP]である。第1次産業のうち農業に従事する人は671人、273戸(専業:153戸 兼業:120戸)[湧別HP]である。
 本研究で特に対象とする芭露は、湧別町内でも東部に位置し、戦前はハッカ栽培、戦後は酪農と、開拓当初より比較的明確な基幹産業があった。特にハッカに関しては戦前世界シェアの約80%を占めた北見ハッカの一大生産地であった。戦後、海外産の安価なハッカによりその姿は消え去ったが、反面、酪農という新たな産業を確立した。これらの間には戦中・戦後の食糧不足による畑作も行われていた。また、東芭露は、1950年代前半800世帯を超す地区であったが、2003年4月1日現在で12世帯・42人のみと、芭露で最も人口減少が激しかった地区である。

第5節 先行研究  北海道の人々や生業卯を対象とした歴史学的研究は数多くあるが、本稿ではそのほとんどの基礎的資料となる。「北海道史」について紹介する。戦前の「北海道史研究は」拓殖事業と共に行われており、人々は政策の客体として扱われてきたものが多い。そして、その結論は経済的なものに帰着した。また、人々自身も歴史的意識が薄く、「子どもを預かる教師たちすら、 自分の周囲の事物にも歴史にも無関心で」[榎本 1976:239]あった。このような背景のもと、開道50周年記念事業として1918(大正7)年に「北海道史」が北海道庁によって編纂され、1 9 3 6 (昭和11)年に同じく北海道廳編の『新撰北海道史』が編纂され、「北海道史」研究の基準となった。
 戦後、これまでの素材をもって社会経済史的視点によって研究がすすむ。この契機となったのが、1 9 5 0 (昭和25)年に奥山亮著の『新考北海道史』である。その流れの中で、1 9 6 3 (昭和38)年に北海道立総合経済研究所編著の『北海道農業発達史』などが出版されている。しかし、行政府の政策研究から離れたものは少なく、長期にわたる時間の流れの中での人々を主体とした研究はほとんど行われていない、また産業史研究として、湧別を含めた北見地方のハッカ栽培発展の過程を述べた、千葉燎郎の「薄荷」がある。
 北海道の人々や生業を対象とした農業経済学的研究では酪農が対象となっているものも多くある。特に、北倉公彦の『北海道酪農の発展と公的資金』では対象地として湧別があげられているので紹介する。同研究は、戦後酪農が急速に発展の要因の1つを、補助事業や制度金融のような「公的投資」とする前提で、「公的投資が地域の酪農構造を大きく変革し得た要因」〔北倉 2000 : 3〕を明らかにすることを目的としたものである。これを示すために「公的投資は政策目的の実現に向けて、一定の条件を満たす地域や酪農経営群を対象に行われる「選別性」を」〔北倉 2000 : 237〕もち、「地域あるいは経営群が公的投資を実施することにより、実施しなかった地域あるいは経営群との間に各種の格差を生じさせる「格差形成作用」を有する」〔北倉 2000 : 237〕という2点の仮説を立て、対象地でそれを証明している。
 農村社会学的研究では主に道央稲作地帯が対象となっているものが多い。そのため、本稿では直接引用はしないもの、次の研究は地域形成の「変化」を対象としているので紹介する。松宮朝の「北海道農村地域形成の変容一三市町村における集団活動の比較分析から−」である。同研究は「近世後期以降、国家主導の開発政策の影響が極めて強い点が指摘されている北海道農村地域」〔松宮 2000 : 99〕を対象とし、「地域形成の変容がどのように進展しているのか」〔松宮 2000 : 99〕その要因を「道央大規模水田地帯三市町村」〔松宮 2000 : 99〕を比較分析することで明らかにすることを目的としている。結果、「国、道の政策の転換が地域形成の変容の大枠を規定するものの、地域集団の活動形態が、農村地域形成の方向性を大きく左右して」〔松宮 2000 : 〕おり、特に「政策推進に先行する集団活動、集団活動を結びつける水平的ネットワークという2つの要素の重要性」〔松宮2000 : 114〕を明らかにした。そして、これは「従来支配的だった「宮」主導の影響力が著しい北海道農村地域形成という把握」〔松宮 2000 : 99〕の再考を追るものであるとしている。
 また、文化人類学的研究として、松永和人の「農業生産構造の変化に伴う村落生活の変化の追跡調査一福岡県ハ女市近郊農村の事例研究−」をあげる。同研究の対象地は、九州福岡県だが、その対象地は湧別と同様に生業を大きく変化させた地域である。松永は、対象地(ムラ)が変化する2つの条件として「@農業生産構造の(米・麦栽培中心の農業から菊栽培中心の農業への)構造的変化、Aおよび、非農しかも、外来の非農の増加」〔松永1982 : 6〕をあげ、これらが、「ムラの社会組織、さらに氏神祭祀を中心とする年中行事などにどのような影響を与え、それらにどのような変化を引きおこしているか」〔松永1982 : 6〕を明らかにし、「究極的には、ムラの変化を理論的にいかに説明するかということ」〔松永 1982 : 6〕を目的とした。結果、「年中行事の存続には、@経済的基盤(農業生産上の基盤)ということより、社会的基盤の実質的内容として、住民間にコンフリクトがみられるか否かということがかかわっている」と結論づけている。



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第1章 湧別開拓略史



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 本章では、北海道開拓の政策方針、土地に開する法令を中心に述べる。そのうえで、湧別の開拓過程について述べることとする。
 北海道開拓は1868 (明治2)年の開拓使設置とともに開始する。当初は行政府による直接的な開拓が行われ、移民に対しても開拓をすすめるうえで必要なものは全て保証されていた。しかし、1886 (明治19)年に北海道庁が設置されると同時にその政策は一変し、積極的に民間資本を導入し、行政府は間接的に開拓をすすめることとなる。開拓にとって必要不可欠な土地に開する法令も、開拓使設置以降、数度にわたって改正された。そして、道庁による開拓政策の1つとして行われた殖民地撰定によって、湧別の開拓が本格的に始まった。また、実際に入植者として開拓をおこなった人物に対して行われた過去の聞き取り調査をもとに、開拓初期の状況について述べることとする。

第1節 開拓政策と諸法令  明治新政府は「蝦夷地」の開拓をすすめるため、1868 (明治2)年に開拓使を設置した。同年の太政官布告には「諸藩士族及庶民ニイタルマデ志願次第中出候者ハ相応ノ地割渡シ開拓シ披仰付」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 68〕と、移民が奨励されている。その背景には、次のような新政府の思惑があった。明治維新後の急激な国内状況の変化によって失業者が増加した。特にそれまで特権階級であった武士がその特権を剥奪され、経済的基盤を確保するためいわゆる「武士の商法」を行ったが、結果的には多くの者が失敗し、新政府に対する不満を抱くようになった。これらの人々の不満を北海道開拓に向けると同時に、開拓をすすめるというものである。つまり、特権を失った士族階級の不満を北海道開拓に向けることで緩和し、開拓をすすめるという明治新政府の思惑があったのである。
 開拓使は、開拓をすすめるために1872 (明治5)年から10ヵ年を目途とし、前述した太政官布告の趣旨にのっとった「開拓使十年計画」を立て、実行した。また、一連の開拓に則して、1872 (明治5年)に「地所規則」・「北海道土地売買規則」など土地に開する規則が制定され、開拓後の土地の所有などを前提として移民を奨励するといった内容で開拓がすすめられた。1877 (明治10)年には本州と同様に土地所有権を明確にする「北海道地券条例」も制定された。同条例は、各種土地を測量し、その結果面積を記載した「地券」を交付されてはじめて土地私有権が確定するという内容でもあった。しかし、「開拓使十年計画」では、道央・道南の開拓がすすみ、道東、特にオホーツク海沿岸の開拓までには至らなかった。
 1882 (明治15)年、「開拓使十年計画」の終了とともに開拓使が廃止され、函館、札幌、根室の3県が置かれ,翌1883 (明治16)年には農務省北海道事業管理局が札幌に設置されて、いわゆる3県1局期に入った。しかし、この時期には開拓の成果をあげることができず、1886 (明治19)年からの3県1局の体制に代わって北海道庁が設置され、より活発に開拓がすすめられるようになった。
 道庁時代の開拓方針は、これまで移民に対し多額の保証をしていたにもかかわらず、予想通りに開拓がすすまなかったということを反省し、大きく転換した。1886 (明治19)年に道庁設置とともに公布された「北海道土地払下規則」は、貸下期間10年以内に成功した者に対して、その土地を0.3h a=l円の割合で払い下げ、その後10年間は地租並びに地方税を免除するというものであった。また、それまで1人約33h aに限定されていたものを但し書きで「盛大ノ事業ニシテ此制限外ノ土地ヲ要シ其目的確賞ナリト認ムルモノアルトキハ特二其櫓下ヲ為スコトアルヘシ」〔北海道廳内務部 1893 : 1〕という例外をもうけた。同規則に関して述べた北海道長官・岩村通俊の言は方針転換を明確に示している。「移住民ノ奨励保護スルノ多シト雖モ、渡航費ヲ給与シ、内地無類ノ徒ヲ召募シ、北海道ヲ以テ貧民ノ淵薮ト為ス如キハ、第一宜シキ者二非ズ、自今以後ハ貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン、是ヲ極言スレバ人民ノ移住ヲ求メズシテ資本ノ移住ヲ求メント欲ス」〔湧別町史編さん委員会 1965 : 217〕こうして移民に対する保証に使われていた財源を減らし、その余剰金を、道路開削・港湾の修築・電信電話の布設・鉄道敷設などのインフラ整備のために利用した。またこの規則の施行後は、士族・一般移民に対する保証が廃止された。つまり、行政府が直接的に開拓を行ってきたのに対して、これ以降、行政府は間接的に開拓をすすめ、実質は資本を特った入植者が開拓を行うこととなったのである。そしてさらに開拓をすすめるために、貸付期間10年以内に成功した者に対してその土地を無償付与し、その後20年間は地租及び地方税を免除することを定めた「北海道国有未開地処分法」が1907 (明治40)年制定される。これによって1人あたりの貸付面積が大幅に増加した。この方針にともなって、より開拓をすすめるために「殖民地」の選定が行われ、湧別でも実施される。

第2節 湧別の開拓過程  湧別の開基は、1882 (明治15)年に網走郡役所を辞職した半沢真吉が、農業を目的として現在の湧別町市街地周辺に移住した時とされている。しかし、半沢は同年10月に紋別戸長に就任したため湧別を去ることとなった。その後も開拓の重要性を感じていた半沢は、根室県勧業雑報通信員として「当郡中農事二着目スルハ湧別村ヲ除キテハ他ニコレアルヲ見ズ」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 72〕と湧別を紹介している。半沢が去った後、和田麟吉、長沢久助、徳弘正輝らが移住した。和田麟吉は「開墾耕作の結果、穀類の収穫を得て、ようやく主食の自給ができ」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 72〕た。このことは、1883 (明治16)年の『根室県勧業雑報』に「農業紋別郡湧別村ヲ最トス、和田麟吉ヲ云フ者半沢真吉ニツギ着手セリ、半沢ノ報告ニヨレバ馬鈴薯ノ如キハ1顕大体206,70匁、小モ3,40匁ヲ下ラズト云フ」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 72〕と記されていることからも確認できる。そして、1884 (明治17)年には長沢久助と徳弘正輝は、鍬による開墾農耕では開墾が進まないことを理由として、根室県知事宛に「開墾資金500円、牛馬2〜3頭、プラオやハローなど」〔湧別町史編さん委員会 1982 : 72〕の貸与を求めたが、この申請は聞き届けられなかった。また同年、和田麟吉は駅逓業に転向している。その後、湧別開拓が進展することはなかったが、前述の殖民地撰定事業により、転換期を向えることとなる。
 その後、1886 (明治19)年、北海道長官岩村通俊の命により、全道を対象とした殖民地撰定が行われた。岩村はその施政演説で次のように述べている。

   全道殖民二適スベキ土地ヲ選定シ、其原野山沢ノ幅員、土性地質ノ大略,樹
   木ノ積量、草木ノ種類,河川ノ深浅、魚類ノ有無、飲用水ノ良否、山河ノ向背、
   寒暖ノ常変、水陸運輸ノ便否等二至ル迄精細工検定調査シ之ガ図誌ヲ製シ、以
   テ移民ノ来テ農桑牧畜其他ノ業二就カントスルモノノ需メヲ持タント
                                 [湧別町史編さん委員会 1965:217−218]

 岩村を中心とする北海道庁の政策は、前述のとおり北海道開拓を行政府が直接資本投資をして行うことから、民間の豊富な資本を受け入れ、行政府はインフラの整備など間接的な役割を果たすという方針に転換した。だがそのためには、民間の資本や実際に開拓を行う入植民を受け入れる体勢を整える必要があったため、彼らの生活に必要不可欠な情報を調査し、開拓の基礎情報を得るために殖民地撰定か行われたのである。
 湧別でも下湧別原野がその撰定地とされ、調査が行われた。史料1は、その結果である『北海道植民地撰定報文』の該当箇所である。殖民地撰定は、地理・面積・土性・植物・排水・用水・運輸・気候の8項目に関して行われた。全て入植者にとっては必要不可欠の情報であり、農業を行う上で土地についての情報はいうまでもないが、実際に入植してから生活物資、農作物を搬送するための輸送手段を確保するために運輸についても重要視された。
 この殖民地撰定に基づいて、対象殖民地の区画測設が1889 (明治22)年から1917 (大正6)年にわたって行われ、湧別の区画測設も1891 (明治24)年に実施された。区画測設は欧米の農村区画を参考とし、北海道の実情に合わせて行われた。まず基線を設け、それと直角に交わる基号線を設け、それと並行して約550mごとに碁盤の目のように区画道路を引いた。区画の単位は、約1.65km四方の大区画をつくり、それを9等分して300個の中区画とし、さらに、それを6等分して小区画(間口約180mx奥行270m)をつくり、この小区画約5haを1戸分と定めた。この撰定事業により、湧別の開拓がさらにすすむこととなった。
 撰定後の湧別では、屯田兵村予定地、約4,280h aを除く、約7,750h aが、1,492区画に側設され「北海道土地払下規則」に基づいて1892 (明治25)年に貴下出願の募集が開始された。この結果、高知県出身者を中心に本格的な入植が始まり、入植者のほとんどは、原野の北部に居住し開拓を行っていった。
 史料2・史料3は入植者の詳細である。多くの入権者は、畑を耕すことも困難で、既に開墾されている畑を借り受けたり、屯田兵村の家屋建設現場で出稼ぎをしたりといった状況であった。また、1895 (明治28)年夏季に2度の霜害により凶作となり、例年の1/2もしくは1/3の収穫しか得ることができなかった。かろうじて実った豆類も野生動物によって食べられてしまい、生活に貧窮した人々は、資本家に食料の確保を求めた。その負債は「高知県民連署凡四連署凡四百圓徳嶋県人連帯凡百圓」〔河野 1975(1898):120-122〕までになり、さらに、渡航費用や食料費用分があったため借入金は膨らむ一方であった。この状況は、ほとんどの入植者に農業経験がなく、北海道に来て少しでも開拓・開墾をすれば、金銭がすぐに得ることができると考えていたことが要因であったといえる。
 1896 (明治29)年において一戸あたりの平均耕作地は約1.5h aで、主な作物はソバ・大豆・小豆・小麦・大麦・トウモロコシなどであった。しかし、その多くが自給作物であったため、それを販売して十分な利益を上げるまでには至っていなかった。住居は、「基線二沿ヘシ敷戸ノ他ノ他ハ悉ク幕閣ヒ小屋ニテ其ノサ大抵長三間幅二間半位トシ又之レ二建増」〔河野 1975(1898):122〕したものであった。ただし湧別では、当時の北海道ではめずらしい公選協議員による協議会が行われていた。道内の多くでは、村の総代のみが土木・衛生・警備などの自治を行っていたが、湧別では市街地から8人、殖民地から8人、その他の地域から2人の計18人の協議員を公選し、年1回の協議会を開いていたのである。
これは「高知県人ハ自治ノ心二富ム」〔河野 1975(1898):122〕ということが要因であろう。

第3節 開拓初期の状況  本節では湧別の開拓初期の状況を述べるために、芭露の奥農場に入植してきた人を最初の入植者とし、彼らの状況について述べる。それとともに、東芭露に入植した人物についての資料を用い、当時の状況の一時例として述べることとする。
 芭露の開基は、奥三十郎が農場開設の下見に訪れた1896 (明治29)年とされている。奥は、殖民地撰定に基づく芭露原野区画測量の前に100万坪の貸下げを受け、岐阜・福井県下で小作移民募集を行った。その条件は開拓自立できるまでの味噌、農具、種子などを保証し、将来的には地主となれるなどであった〔湧別町史編さん委員会 1965 : 226 山本 1974 : 92〕。翌1897 (明治30)年、この募集に応じた65人が、芭露で最初の入植者として入植し、開拓が始まった。
 まず、奥農場に小作移民として入植した人物(以降、M氏とする)についての資料である。

 M氏
   越前(福井県)から岐阜県下に農作業用の稲刈鎌を行商にきていた人から楽土北海道の話、味噌などの保証、将来は地主になれるとの話を聞き伝えた岐阜県武儀郡洞戸村や近隣の人々と十三戸は一握千金に胸をふくらませ、家財を整理して、引越し荷物をまとめ米原(まいばら)から川船にて下り、一昼夜にして敦賀、越前福井を経て越前三国港に集結した。三国港に集結した一同は、一週間余滞在し理洋丸に乗船、日本海沿岸の各港に寄港、小樽で小樽丸に乗り替え日本海から宗谷岬を経て沿岸各港に寄港しながら湧別港へ、岐阜から三国港を経て湧別上陸まで一ケ月余、幸い天候に恵まれ順調な航海であった。湧別沖で慣れない船旅を終えハシケで湧別港に上陸した。浜湧別では民家に一泊、翌日は各々が荷物を背に湧別四号線を経てサロマ湖岸のテイネーに至り、ここから奥漁場の船頭小野鶴治(のちに本間牧場牧夫)のあやつる磯船でサロマ湖から芭露川口を迂回して芭露川をさかのぼり現三号橋より約五十メートル下流にある古川の畔にあったアカダマ(楡)の大木のある地点で上陸し農場事務所(現清水隆二宅)に達し一同は事務所に仮泊した
                                             [山本  1974:93]

 時代は下って、1912 (明治45)年に東芭露に移住した人物(以降、K氏とする)に関しての資料である。

 K氏
    私は郷土佐渡で百姓をしていたが、明治45年春、先に北海道に移住していた知人が里帰りしてきて、「湧別というところは薄荷がよくでき、しかもビールびん二本分(一組)の薄荷油は十五円もしている。このため大変好景気だ。」といい「一緒にいかないか。」と渡道をすすめた。狭い佐渡で暮すよりは、と考え一家をあげて移住する決意をした。
  父母と妻子それに妹を伴った私は、船で新潟まで渡りそこに一泊、そこから汽車に乗った。当時は鉄道網も整備されておらず、勿論急行列車も走っていなかったので、新潟一直江津一高田一小山とまわり道をして青森に着いた。
  連絡船で北海道に渡った私達は、室蘭を経て滝川に至り、根室線で池田まで来、そこからの野付牛(現北見)を通って網走に到着した。
  当時、湧網線は勿論石北線も留辺蘂までしか開通していなかったので、網走からは船で湧別に向かうことになった。
  折悪しく天候が悪く海が荒れて船が欠航になったので、網走で四日間も宿につく破目になってしまった。  一緒に来た知人夫妻と私の家内それに妹は一時も早くということで歩いて湧別に向かった。
 私は年老いた両親と小さい子供を連れて宿についた訳だ。家内たちは常呂で一泊し、サロマ湖沿いに歩いたそうだが、その間の砂浜を歩く苦しさを後年まで語っていた。
 私の方は、四日後ようやく天候が回復したので船で到着した。当時はまだ港の施設がなかったのでハシケで上陸した。
                                              〔秋元 1977 : 2〕

 これらの資料から、北海道にある広大な未開墾の地を開拓すれば作物が多く実り、すぐに自分の土地となるという言葉を信じて入植した人々の状況をみることができる。また、芭露に入植した人々の動機は、「一握千金」を求めてのことであった。K氏が入植を決意した背景には、「成功して、いずれ故郷に戻る」という意志を持っていたためであり、北海道に永住するために移住したのではない。これに開しては、研究協力者の祖父母・父母等もいずれは帰郷をするつもりで入植したという聞き取りによるものである、
 続いて、入植直後の状況である。前者は農場主と契約したいわゆる小作人であり、生活物資や農具に不自由することはなかった。対して後者は、誰とも契約することなく当初から個人の力のみ開拓する必要があった。この相違は開拓初期の状況、特に家屋に関して違いがみられる。
  
 M氏
    初代支配人 千葉宗助の指示によって飲料水に便利、水害の憂いなく開墾地を見渡せる地点として事務所付近の川に沿ったところを選び、雑木の丸太で二間に三間、掘立小屋造りの四戸分の棟割長屋を建て、草草き、周辺を草囲いし、入口に踏をさげ、床には上筵敷とし、夜の灯はカンテラ、煮炊き暖房は焚き火 という生活が初まつた。この小屋を俗に“いも小屋”と呼んでいた
                                              〔山本 1974 : 93〕
 
 K氏
    開拓民は、入植と同時に自分の住む小屋を作った。この小屋は着手小屋と呼ばれるもので柱はなく丸太を斜に支え合わせた、いわゆる拝み小屋でゆかもなく土の上に笹を敷き、その上にいなきびがらなどを並べたような、ごくせまい小屋であった。笹ぶき明りとりの窓もないこんな小屋だから、本州各地からの開拓民にとって、冬の寒さがしみたようだ。たいていは二、三年で柱のある普通の家に建て替えたが、中には五年間もその小屋で暮らした人もいた 
                                              [秋元  1977:2

 M氏のいう「いも小屋」とは、のちに栽培が始まる馬鈴薯の種薯を住居におろし保存したことから名づけられた。「いも小屋」という名前だけを聞くと「みすぼらしく」思えるが木の壁があった分、K氏の「笹ぶきの拝み小屋」、「笹を敷いた床」よりはしっかりしたものであったと考えられる。ここに、小作人とそうでない人との違いが現れている。
 では、実際の開拓状況はどうであったのだろうか。奥農場は「重粘土、湿地、平坦地は葦が繁茂している悪条件」〔山本 1974 : 93〕であった。

 M氏
   貸与された鋸と斧で伐木し、幹、枝、笹、雑草などを焼き払い、平鍬で開拓の鍬をふるつたが、七月に入植した直後であるため大根と「そば」の種子を播いたていど。収穫はまずまずであつたが、当初は不慣れのため開墾に困難した。少し慣れてからは、案外楽に作業ができ、鍬をもつての開墾も粗放にして畦に当たるところを起して播種し、翌年に至り全部を耕して播種したという。その年湧別二号線から種薯を購入し、翌年から馬鈴薯を栽培した。 
                                              [山本 1974:94]

 K氏
    開拓の仕事は、先づ、うっそうたる森林の大木を切り倒す作業から始まった。直径が四尺も五尺もある桂、赤だも、やちだもなどの大木を一日がかりで切り倒し枝を払う。残った太い幹は、機械も馬もない当時のこととて、人力で動かすこともできずそのまま放置、自然にくさるのを待つよりしかたなかった。切り倒した幹が朽ちて片付けられるまでには十年もかかったということである。 こうして切り倒して放置された木と木のわずかな空間を丸ぐわと唐ぐわで、一くわづつ耕して畑を作っていた訳だが、強い笹の根、木の根を丸ぐわでたたいておこすのは、並大抵の苦労ではなかった。その根を拾っては一ケ所に集め、木の枝、草と一緒にもやした。こんな辛い作業が毎日毎日何年間も続いた。
               …中略…
 わずかに耕された土地には、いなきび、そば、馬鈴薯、かぼちやなどが蒔付けられた。
                                              [秋元 1977:2・3]

  両者とも実際の開拓において非常に苦労したこと様子がみられる。しかし、「重粘土、湿地、平坦地は葦が繁茂していた」M氏の入植地ではそれほど大きな木々があったとは考えにくい。対してK氏の入植した東芭露は山間部であったため巨木を切り倒す必要があったため、その作業はより困難であったと考えられる。作物に関しては、K氏がどの様な経路で種子を手に入れたかは不明ではあるが、供に同じ作物を栽培していた。ただし、彼にとっては入植の原因ともいえるハッカ栽培は入植後すぐには行うことができなかった。
 しかし、順調に開墾を行っていたM氏に大きな障害が訪れる。収益をあげることができないと見込んだ奥は、1899 (明治32)年7一方的に契約を破棄し、農場を閉鎖した。その結果、資力のあるものは帰郷することができたが、それが適わない人々は、行政府からの賃下げ許可を受けずに入る「無願入地」をして生活していく道しか残されていなかった。
つまり、両者のおかれた状況がほぼ同じになったといえる。
 続いて両者の食糧事情に関して触れておきたい。前述の通り、両者の状況がほぼ同じになったということが、その食料入手方法が似通っていることからみるためである。ただし、M氏は奥農場が存続していた間はある程度の食料を入手することができたので、農場の閉鎖にともないそれも適わなくなってからの状況である。
 
 M氏
    春、フキは近くにいくらでもあつたが、ウバユリは付近一帯を採りつくした。芭露川ではヤス(小刀を棒に結びつけたもの)で鮭鱒などをとったが、あるとき五尺余(一、五メートル)もある大きなイトウを突いたときは兄と二人して大格闘の末ようやく水揚げした。また蚊帳を網にしてチカをとつたときは僅かの時間に石油箱十ぱいほどの大漁をしたことがある。
              …中略…
 フキはチカをだしとし塩だけで味つけし、十五年間も味噌正油は全然かわなかった
                                              [山本  1974:96]

 K氏
 大正二年、三年は全道的な大兇作で、いなきび、かぼちやなどは殆んど実が入らず、わずかに収穫された馬鈴薯で露命をっないだ。
 冬、食べるものがなくなり、雪を掘ってふきの根を見つけ、それを食べたとか。馬鈴薯を煮るのに塩がなく、つけもの汁をさらしでこして食べた
              …中略…
 当時、米一俵は五円位であったが、開拓民はとても手の届かない宝物で、盆と正月にお目にかかればよいほうであった。
                                              [秋元 1977:3]

 K氏の述べた状況は凶作時のものではあるが、前述した開拓状況を考慮すると凶作とならなかった年でも農作物以外のものにも依存していたと考えられる。このようにみると、生活物資もままならない状態で食料も山や川といった自然に頼るしかなかった。
 入植当初、いなきびを主食とし麦・米はその気候上栽培が困難であった。やがて、1902(明治35)年頃から麦の栽培が始まり、1928 (昭和3)年頃米の栽培が始まった。麦に開しては販売作物として出荷できるほどにはなっていたが、米は冷害などによって、3年に1度程度しか収穫できなかった。そして、馬鈴薯、南瓜やトウモロコシなどを主食の代わりとしていた。1913 (大正2)年の小学生の弁当は「米を僅かに入れたものは一、二 他は麦だけだった。これを公開してから、みんなは威張って食べるようになった。季節によっては南瓜、トウモロコシ、馬鈴薯を弁当として持ってくる者も少なくなかった」〔山本1974 : 425〕という。
 最後に、多くの入植者がそれを望んで北海道にやってきた、土地所有について述べる。
前述のように、入植者に貸付された土地は1戸にあたり約5haであった。K氏は「入植者といっても、始めから自分の土地を開墾する訳ではない。あくまでも開拓許可をもらって、官地を借地するのである。当時土地の貸付けは、農業経営の意欲ある者は誰でも受けられたが“五ケ年以内に六割以上開拓した”という踏査官(支庁役人)の実地成功検査に合格しなけれは、付与(無償交付)されなかった。」〔秋元 1977 : 3〕と述べている。
 奥農場の閉鎖によって、自力開拓を強いられたM氏については、1900(明治33)年、「測量のため測量官が芭露にきたとき、すでに …中略… 数戸が入植しているのを見ているのを見て驚き、無願入地をひどく叱られ哀訴嘆願、測量官から払下げ願を提出することを教えられたが、これを書くものもいなかった。」〔山本 1974 : 96〕とある。
 結局、字を書ける人に頼んで貸付願書を作成してもらい、北海道長官宛の願書を網走支庁に提出して受理・許可となっている。「無願入地」という行政府側としては望ましくない行為であっても、後日、手続きさえ行えば許可された状況は、早急に開拓をすすめようとしていた行政府の意図が如実に現れている。「無願入地」であっても、許可を受けての入植であっても、耕作したぶんその土地が自分のものになるということは、開拓をより積極的に行う要因となっていた。


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