愛のふる郷   第3章  戦時下の吾が青春日記
第4章 豆本 武勇伝


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羽田 宏手記 本文に入る前に                 編集子
 半世紀前(52年)の日記をもとに回想したのがこの文である。 昭和14年には作者も18歳の青春時代である。 現代の18歳なら、青年としての希望と将来の豊富の実現のために大きな夢を持って邁進しているだろうが当時の青春は一体何だったのか 「戦時下のわが青春日記」と題しているのは作者が凡そ一般的な若い時代とは打って変わった、戦時下の非常時にあって己が本分を尽くすことに、営農の面からも、青年としての資質の向上の面からも全力を以てぶつかっていたに違いない。 青春等考えられない、そんな姿が髪髴として浮かんで来るのである。 何れにしても戦時下である。 きびしい銃後にあって、次々と家庭の柱とも頼む主人が召集されて行った中で暗くなり勝ちな地域を、若い青年の力で少しでも明るく盛り上げてゆく、姿が思い浮かぶのである。
 こうした苦難の末に昭和20年、敗戦を迎えるのであるが、国民は戦時中にも勝る苦しみを負わなければならなかった。
 幸いにも日本人の勤勉と平和日本の憲法の下で世界にも例をみない敗戦国の発展を見たが、経済成長の日本にも全般的な国の発展にひずみを生じて百年の輝かしい記念の年を迎えた時期に地域の衰退を見ることは誠に遺憾とする処だ。 氏の半世紀に亘る営農の体験から信を得て、「湧別」の首長として町づくりを任された重大なる責を負い、過疎は時代の流れとしても、個々の町民が一層の幸福を得て住みよい郷土となるよう願って、日夜町づくりのため寧日ない日々である。

川西とのご縁  私が川西に来たのは、小学校6年生のこと、2学期から川西小学校に入学し、次の年湧別尋常高等小学校に通うことになった。
 当時の思い出は、湧別の学校は今の体育館のところだった。 私の家は川西の2号線の5線でしたので、湧別まで約5キロメートル余の悪路を通ったことも大変なことだった。
 吹雪の日や、雨の降る日、暑い日なども、友達と仲良く通ったものだ。 江沢君・菅井君と3線で別れ、4線では佐々木君と、5線では佐藤君と別れると一人になってしまう。 なんでこんな遠い所に住んでいるのだろうと恨めしく思ったものだ。
 冬には馬橇にのせてもらったり、夏は湧別川で泳いだり、そして当時私の家は経済的に一番苦しかった時代で、授業料(高等科は義務教育でなかったので授業料が月1円か1円50銭)を滞納して3ヶ月間休校したことなど忘れられない事である。
 昭和12年、日華事変がはじまった年に学校を卒業すると、丁度その年今迄小作をしていた人が大阪へ行ったので、その土地で農業を始めた。 藁屋根に藁の壁内側に板を打ちつけ、新聞紙を貼って、隣は馬と同居しての生活、今まで何とはなしに、農作業を見ていたが、いざ自分がやって見ると分からないことばかりだった。 3日も続けて畑耕しをして、ハローをかけても土が乾いてカチカチに固まって土魂ばかり、麦を蒔いても芽が出なくて、雨が降ってようやく生え揃ったりした。 だから隣の人に教えてもらったり、昭和14年の金銭出納簿を見ると、燕麦1俵3円60銭の時本題が3円19銭と高い農業の専門誌を買って勉強したことが思い出される。


戦時下の営農  昭和14年の1月のこと、長い間紋別で闘病生活をしていた兄が亡くなったので父と姉が川西に来て本格的に農業に取り組むことになった。
 昭和14年には戦争も長期戦の様相を呈し、川西からも青年の先輩達が次々と召集になり銃後の緊張も一段と増して来ていた。
 国家総動員法の公布・物価統制令、米の配給制・国民徴用令など、次々非常時下の国の政策が実施されて行った。 その年、我が家の経営面積は4町5畝で作付は次の通りであった。
作物名 面 積
町反畝
作物名 面 積
町反畝
作物名 面 積
町反畝
馬鈴薯
裸  麦
甜  菜
亜  麻
稲  黍
130
30
20
20
15
小  麦
燕  麦
デントコーン
唐  黍
大  豆
40
60
20
30
15
菜  豆
小  豆
牧  草

合  計
10
05
10

405
 当時の北海道農業試験場の指導方針は作物はその風土に適合し、安全確実なものを選定すべきであるが、そのうちでも麦類・玉蜀黍・飼料根菜類・牧草等の自家飼料作物を赤クローバー・ペッチ類・縁肥大豆・ルーサン等の緑肥作物とを加え、然る後に種々の販売作物を選択するという心がけが大切である。
 尚販売作物は麦類・亜麻・菜種の如き早期に収穫し得る作物を適当に配して早期収入を挙げるという心掛けが大切であり、又甜菜の如き収穫安全で価格の安定せるものを加味して収入の安全を図ると共に之によって土地の改良を図ることが望ましい。
 その他夏収作物も適当に組み合わせて労力の分配を円滑にすることや、輪作式を合理化する等の視点に対しても留意し・・・・とある。 だから地域の作物形態は面積の大小はあっても、全体的な形だった。 その中で4町5畝は小農の部類といってよい。
 以上は昭和14年当時の農業の指導実体だ。 これはあくまで農家保護の冷害対策・地力保全・農家の生活を守ることを重点にした内容と言えるのだが、戦争がし烈となり我が国が攻勢から守勢に転じた段階に於いて農業はあくまで国民自活の道であり軍部に対する協力態勢に外ならなかった。 いわゆる軍事産業と主食の増産に主力を置いた政策に変わってゆくのである。
 さて、私は昭和14年の一冊の日記を手にして戦時下のこの年の私の動向についての記述が当時の銃後の川西の生活全般に関わることだと思うのでこの知念について日記をもとに、当時の農作業やら川西の様子を回顧することにした。 今から52年(半世紀)前の記録(日記)をまとめて見る。
 昭和14年は、前述のようにまだ戦局も差程深刻な段階に至ってないだけにまだ銃後の川西といえどもどこか、人間的な温か味が感じられるが、ここで昭和14年の国の動きを箇条書きで紹介しておこう。

一、 日本軍海南島に上陸(中国の拂印に近い島)
二、 ノモンハン事件(日本敗退)
三、 警防団・令公布(消防団を改称)
四、 各地の招魂社を護国神社と改称
五、 横綱双葉山・安芸海に破れ、70連勝ならず
六、 砂糖・清酒・ビール・木炭・絹織物に公定価格
七、 愛馬の日が設けられ「愛馬行進曲」流行
八、 学生の長髪・パーマネント禁止
九、 物価統制令実施・国民徴用令公布
十、 青年学校の義務制化
十一、 白米禁止令(7分づき以上は禁止)

苦難の冬  1月1日、新年拝賀式、10時から学校の所為と・青年・それに地域の人達が小学校に集まって、除雪もスコップでの作業だから2日も3日もかかってしまった。 道路は関係する人達が先頭は裸馬で荒道を破り、次に馬橇を通し何回も何回も繰り返して道開けをする。 それに青年は小学校の除雪も皆でやった。
 1月15日から亜麻運搬だ。 秋に亜麻会社が川西の中の中心部の畑を借りて受入をして積み上げたのを青年団の人が総出で馬橇に枠をつけて1台に25束から30束ほど積んで湧別の工場まで運搬したが、吹雪があったりして3日から4日かかった。
 次は秋に脱穀したままの燕麦を唐箕にかけて調整し荷造り、供出割当33俵を馬橇で2回運んで検査を受けたら4等だ。 かついで足場を上り倉庫に積むのも結構骨の折れる仕事だ。
 2月に入ると、零下20度から最低28度と厳しい寒い日があり、あまりの寒さで仕事を休むこともある。 住宅は粗末なもので家の中の水桶は氷が張って、毎朝お湯を沸かしてとかすわけだが、中々解けないで周りの氷はだんだん厚くなってくる。 布団の襟は朝になると真白になり、掛布団の上はガバガバと凍っている。
 青年学校の授業・学科の検閲があったり、先輩が兵隊に行くので送別会。 出発の朝は4時に起きて学校に集まり、雪道を歩いて湧別駅に行き7時35分の列車で万才をし小旗を振って車窓から姿が見えなくなるまで見送る。 無事生きて帰れるかどうか、知る由もないが「俺もあとで行くぞ!」 と心に誓っていた。
 秋に皮をはいで還送させた玉蜀黍を叩いて調整荷造りをする。 初めて16貫の俵を下からかつぐことが出来たので何回もかついで見たと、書いてある。

 馬小屋から糞出しをするのも大変な仕事で糞はカチカチに凍って、一寸油断をすると後の方が高くなって馬が前のめりになる。 ツルハシで糞を砕いて投げる。 これも中々の仕事である。
 3月に入っても時々吹雪があるが日差しも春らしくなり、春耕の準備が始まる。 馬橇で湧別から肥料運び風が強くて湧別川の堤防の上は行きがなくて土が出ている。 肥料18俵を積んで堤防の上は2回に分けて運ぶ。 それでも堤防のなかった数年前のことを考えれば、いかに堤防の恩恵を両岸の住民が身にしみて感じているかがわかる。
 3月下旬から、俵編みがはじまる。 燕麦棹をすぐってみご縄であんでゆく、今日は10俵・今日は15俵と毎日毎日積み上がってゆく俵を楽しみにし乍ら今年の予定110俵を編み上げると4月に入る。 それに薪切り、薪割りをして積む。 その頃は「もう編み終わったかい」「薪切りはこれからさ」と近所の人の話題は俵編み・薪切りで春を待つのである。
 その年、20日過ぎ湧別川が増水して、堤防を守るためと、湧別橋が心配なので古俵とスコップを持って焦る様にと全域に伝えられた。 行って見ると湧別橋は大きく傾いて、橋板は水につかって手の施し様もなくただ見ているだけ、大変なことになった。 雪が解けてから馬車が運ぼうと思っていた肥料運搬、湧別橋は傾いて漸く人が通れる位、やむなく四号線の人を頼んで湧別市街から湧別橋の東側まで運んで貰い。 橋の上は2人で肥料をかついで渡って橋の西側まで運ぶ、35俵の肥料を馬車に積んで家まで送りつくと夕方だ。 畦立をつくったり、丸太を削ってローラをつくったり、種芋を掘り出したりして春を待つ。


農耕期
土の温かさが身にしむ
 ●〜農耕期に入った。 馬車が堆肥を運び、フォークで撒布して耕す。
ハロー・ローラをかけ、畦立をし、肩から箱をかけ、肥料筒を持って肥料・種子を蒔いて、ハローで覆土する。 裸麦・小麦・燕麦・甜菜・亜麻・1町7反が終るのに朝早くから頑張って11日かかった。
 雪解けは湧別川も増水したが、川西の古川の水も増えた。 桟さんと堀部さんの間と、藤本さんと今井さんの間には通称一本橋で人が通行していた。 タコで杭を打ってその上に丸太の上と下とを削って2本並べた橋である。 藤本さんのところは、杭が長いので水面から丸太まで高いが桟さんの橋は杭が短いので水が増えればすぐ丸太に水がついて通れなくなってしまう。 それに 「この間、○○さんが一本橋から落ちたんだって」 と話題を賑わした。 その後何年かたってこの2つの橋も関係者の皆さんが12月の末から1月にかけて緑蔭の町有林に朝暗い中に出掛け、木を伐採してバチバチで運んで晩には真暗になるのが通例だった。 橋材を集めて早春暖かくなると、男も女も、老いも若い人も総出で杭を削り、モンキを引き製材をして橋板を並べてみんなで橋をつくった。 当時は掛橋さんの橋・小川さんの橋・山下さんの橋も関係者の皆さんで造ったのである。 馬鈴薯を蒔き、玉蜀黍・大豆・小豆・稲黍・菜豆が終る頃は5月も末になる。 息つく暇もなく除草が始まる。 甜菜の間引き・鍬を持って毎日毎日の除草、稲黍の根草とり、一畦一畦馬の後についての除草機かけ、その間川西の人々は交代で湧別橋の復旧に出役したが7月末になってもまだ人が漸く渡るだけ、馬車は川の浅瀬を選んで渡り、精米所へ行ったり、買物をしたりした。 しかし雨が降って少しでも水が増えると、減るまでじっと待つしかない不安な日々が続いた。 列車の合間を見て鉄橋を渡って中湧別まで行ったこともあった。 その頃に水辺のスゲを刈って干す。 暇を見てはスゲ縄をなう。 10尋20尋と数えてこれから収穫する麦類や豆類の2才の覆いをしばるのだ。 海霧で膚寒い日があったり、畑の土が流れるような激しい夕立があったり、うだる様な暑い日があったり、その間も召集会状が来て千人針や、寄せ書きをしたり、送別会や駅前で出征兵士を送ったりの日が続いた。


収穫の秋を迎える  裸麦を刈り、亜麻を抜き、小麦・燕麦と天気を見乍ら刈ったり束ねたり、積んだり雨が降れば心配し、晴れた日は暗くなるまで働き、約1ヶ月かかって収穫が終わった畑は雑草を鋤込む畑耕をする。 日中は暑く虻がひどいので夜明けを待って畑耕しをし、少しばかりの秋大根・燕麦を蒔くと9月になる。
 その年初めて仔牛2頭を飼うことにした。 一本松で仔牛を買ったので父と2人で7時の汽車で元紋別まで行き、一本松で牛2頭を受取り引いたり追ったりしながら小向まで来ると昼になる。 暑い日だったので橋の下の川で仔牛を休ませて弁当を食べる。 又歩き出すのが牛も足が痛いのか道路を歩きたがらないので傍の草原を歩かせる。 沼の上を通り家に付いたのは8時過ぎだった。 掘立小屋、屋根も壁も燕麦桿の牛小屋をつくってはじめての牛飼いに胸を躍らせるのだった。
 休む間もなく、しま草(野草を刈って束ねて5把づつ組んで立てて1組という自然乾燥させ冬の家畜の餌や敷藁に使う)刈りが始まる。 島草刈りはあまり天候は気にかけなくていいので雨が上がるとすぐ刈り、又雨が降り出すまで刈る。 1人3人で、35組の日があったり、100組を超える日が続いたりで多い日は180組位刈るのである。 湧別のお祭り(9月15日)迄に970組を刈終わった。 今年始めてデントコーンを2反造ったので仔牛を含めても充分だろう。 農作業の合間を見ては青年学校の訓練がある。 16日は歩哨、分列行進、20日は各個訓練、舞台訓練、25日には目測・歩測・射撃訓練等が行われた。

悪路との闘い  下旬から馬鈴薯の収穫、鍬で掘り、集めて馬車で運搬する。 私のところは号線でない私道なので砂利は入っていない。 雨が続くと方々に大きな穴ができ、ドロンコ道は自転車を押しても泥まみれになって車が廻らなくなる。 仕方がないので自転車をかついで砂利道まで行かなければならない。 馬車も穴を外して通るようにするが、すべって穴に落ちると馬車が大きくゆれる。 そんな道の運搬であるから1回に10俵前後しか運べない。 雨があがると水を流して土を入れて、道直しをするが、砂利を入れないからすぐ大きな穴になる。 号線の道路は秋になると共同作業で草を刈り、冬になると総出でツルハシで砕いてスコップで積んで運ぶ。 雪が解けると又皆で砂利を道路上に拡げて整らす。 地域の道路も橋も地域の人達の出役でなされるのである。
 10月に入ると、玉蜀黍を刈ったり、稲黍を脱穀したり、夕方になると裸麦を焼いて穂を落として次の日は唐竿で脱粒する。 積んである大豆や菜豆・小豆は、唐竿で脱粒し、燕麦は足踏脱穀機で1日3反から4反・におを5つから6つ脱穀できた。

再び冬の訪れ  甜菜の収穫が終わる頃小雪が降り出す。 オホーツクの海が荒れ出すのもこのころからで、夜寝静まった中で海鳴りだけが絶えない。 その頃は毎年の様に住宅や畜舎の壁の修理をしなければならない。 土を掘り藁をきって水を入れ、素足で糞で壁土を練り、壁の穴をふさいで冬を迎えるのだ。 甜菜の運搬が終わると雪が積もり、馬橇での島草の運搬・原野に積んである島草を家の周りに運び、冬に焚く薪を集めると12月も末になる。 31日は朝から押切で草を切って正月1週間位牛馬に食べさせるのを蓄えて新しい年を迎える。
 昭和14年の一年間日記を見乍ら、当時の農作業や地域の状況の一部をまとめて見たが、今から半世紀のこれが実体なのだ。
 昭和16年には太平洋戦争が始まり、暗い苦しい戦いが続いて、昭和20年原爆投下を機に敗戦を迎えた。 その後日本人の勤勉と努力によって驚異的な不幸を成し遂げ、特に昭和35年からは、高度経済成長期に入った。 このことは湧別町史をみても昭和40年代から大きく湧別の農業の変動が窺われるのである。

第4章 豆本 武勇伝
まえがき   東京にて 宮田慶三郎

 およそ一年ほど前に、北海道湧別町の高久喜三郎さんにお目にかかる機会があって、ふる里の少年時代の思い出を書くことを約束しました。 そののち、体の不調がつづくやら業務の忙しさにまぎれて、約束を果たすことが出来なくて、今日まで延引になりました。
 4,5日前に高久さんからお電話を頂き原稿の締切が過ぎたのでおわびいたしました。
 そこでこの書状を書くことになりました。
最近老化による視力の低下などで、ペンを執ることが困難となりましたので、私の古い著書の中から、北海道に関係の随筆「夢」から拙文の一扁である「豆本武勇伝」をお届けいたします。
 これを代わりに使っていただければと思ってここに差し上げますが如何でしょうか。
かって小学校の同級生で交友をいただいた、ただ一人の生き残りの友人だった、本間資義君も他界され、今は寄るべき思い出となるものは
 ・荒れ狂った、オホーツクの潮騒
 ・流氷に追われて岸辺にはい上る毛蟹の群れ
 ・咲きほこる、はまなすの花
 ・川西小学校の運動会
 ・紋別通りの運送橇の鈴の音
 80年経った今日でも忘れ得ぬ夢物語であります。 何かとまとまった思い出をものにしたかったのに、心残りです。
 次に掲げた一文は、私のかっての作品の中で1950年に発刊した 「夢」 の中の一文を選んで見ました。 この文は、私が幼い頃、北海道紋別郡湧別村の生地である川西の宵宮祭を題材としての一場面を抜粋したものであって、私の少年の頃のふるさとの出来事として残っていたものとご理解下されば有難いと思っています。


 1950年 豆本武勇伝

 明治の終わり頃か大正の初め頃だった。
 「遠からんものは音にも聞け! 近くばよって目にもみよ!。我こそは、・・・・・・・」 長い名乗りをあげて、おもむろに旅の老人は腰の太刀を抜いて立ち上がった。
 この老人は、どこからこの北のさい果ての村まで流れて来たのであろうか。
 村の宵宮祭のただ酒をたらふく飲んで、少し腰がふらついているが正眼に構えた姿は、武家の出身らしい。
明治も終わる頃には、武士を忘れないこんな変わり者がいた。
 刺し子のよごれた上衣と、古い仙台平の袴はよく似合っていたし、その頃では見ることのできない、長髪を赤い布で結わえた姿は、いっそう私たちの興味をそそった。
 試合の相手をするのは、村の評判の武勇伝の持ち主で、あだなを自ら 「武さん」 と名乗っていた。
 炭焼きをなりわいとしていた。
 「伊藤藩の武術指南の4男である」 といっていたが、そう信ずる人はあまりいなかった。
 しかし、彼の堂々たる体躯と髭を蓄えた風防は誰が見ても強そうに見えた。
 私はここで当時流行の 「豆本」 について少し説明しなければならない。 明治の終わりから大正の始めにかけ 「豆本」 という小講談本が、子供や大人の間でも流行した。
 値段も1冊5銭と安いせいもあって、人気をよんだものである。 大きさはポケット手帳位で、厚さもそんなものであった。
 豆本といえばこの時代の誰でもが知っていた。 ともかくそのほんの主人公は、ものすごく強い。 その武勇伝を面白く書いてある。
 荒木又右衛門、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道等々の武勇伝は人気があった。
 豆本のテーマは権力に立ち向かう武勇伝だから、とても面白い。 めっぽう強い主人公が人気の原点だ。
 活動写真が人気を呼んだ時代になって、豆本は映画になり、目玉の松ちゃんこと尾上松之助が評判になった。 姿をパッと消すことは、活動写真の技術としては簡単である。 いま考えると馬鹿らしい話であるが、これも源作は 「豆本」 であるといってよい。 「豆本」 が売れなくなったのは、活動写真の出現のせいであるという人もある。
 さて豆本は、この北の村でも例外なくもてはやされた。 私など 「豆本」 を読むことを父からやかましく意見されたことがある。 これを読むと学校の勉強をしなくなるという理由からである。
 私の村の 「武さん」 事 「佐藤武臣常信」 という男は自慢の武勇伝以外の話はしなかった。
 例によって村の宵宮祭で少し酔いが回って武勇伝を語っていた。 まあt日露戦争で敵と渡り合った決闘の話も彼の自慢話の一つであった。

 武さんは、たしかに強いに違いないし、村人にも彼の話は面白かったが、あまりそれをそのまま信ずる人は少ない。
 この武さんも例外なく豆本の愛好者である。 少し酒がまわると、昔の侍の言葉になる。 自分のことを 「拙者」 とか、「それがし」 とかいった。
 こんなとき、この村の宵宮祭に、旅の武者修行老人(ほんとうは、物を上手にそるための浪人姿であったのかもしれない)が現れて、一緒に酒を飲むことになったから、話は佳境に入るわけだ。
 武さんは上機嫌になった。
「拙者、この村に住む佐藤武臣源の常信というもの、貴殿にお見知りのしるしとして一献差し上げよう」
 老人は、 「これは有難き幸せに存ずる」
 これを見ていた私の家の作男の兼吉という男、この若者もまた、豆本の愛読者であわて者であるが、よく忍術の物真似をして、人差し指を真中にして、両手を合わせて印を結ぶのだが、一向に姿が消えないと、あわてて入口の扉に飛び込んだりする男だった。 みんなが笑うと平気で自分も笑うのである。
 兼吉は、この試合をさせる仕掛け人となった。 兼吉は、この老旅武者によって武さんの腕を試すことに胸がおどったのである。
 「これから大試合が始まるぞ!」 と大声で叫んで廻った。
 兼吉が大きな声で叫ぶと、たちまち4,50人の人が集まった。 勿論、”老武者”は大小二本差してはいるが、よく磨き上げたナラの木刀である。
 木刀のない丈三位兼吉が薪用の白樺から選んで大小二本を彼に渡した。
 「ご老人を相手にしたのでは、拙者のこけんにかかわる。 平にご容赦願いたい」
 「何を及び申そう。 それがしあえて貴殿のご教導を願い申す」
 老人にこう言われると、武さんも後には引けない。
 武さんの顔も厳しく変わって来た。
 「居並ぶ村人も耳をたててよく聞け、われこそは・・・・」 長い名乗りがすんだ。
 「ヤアー、ヤアー」
 互いに掛け声も勇ましい。 見物人は手に汗してこの結果を凝視した。 武さんは兼吉が与えた手拭いで、しっかり鉢巻きをして、大刀を大上段に小刀を下段に構えた。 宮本武蔵流である。
 まさに豆本に書いてあるとおりの立ち合い、兼吉は審判に回ったから利口である。
 大正のはじめの平和な時代では、こんな場面を見ることは少ない。
 まさに世紀の一戦?

 「これは本物だよ」 兼吉は得意だった。
 見物の村人はいつも武さんの武勇伝を聞きあきて、武さんの一撃をくらったら冥土行きかもしれないと案ずる人もあった。
 いや、むしろ老武者の方に同情する村人が多かった。 私もそうだった。
いつも村人から馬鹿にされている兼吉は、このとき、薪の束の上に腰をおもむろにおろし、どこから持ってきたのか扇子を膝の上において、審判官然として座った。
 私の父が、宮本の影響は大きいと、嘆息を洩らし乍ら見守っていたことを私は思い出す。
 突如、武さんは
 「エイッ!」 掛け声で、老人の脳天めがけて打ちかかった。 老人は少しも動ぜず、軽くあしらうように打ち払うと、武さんはもんどり打って倒れたが、心得たもののように、老人の足元で宙返りして、再び立ち向かう構えをみせた。 それが田舎廻りの芝居の立ち合いのようで、様になっていなかった。
 武さんは額から汗を流している。
 そのとき、兼吉は老人の方に扇子をあげて、「勝負あった」 と宣した。
 まことに適切である。
 「遠く我らの如き及ぶものに非ず、無礼の段、平にご容赦下さい」
 村の人は何も言わなかった。
 武さんは、
 「まことに、ご教導、有難き千万、拙者如きのはるかに及ぶところに非ず、貴殿は、日本広しといえども知名の方と存ずる。 さしつかえなくば、本当のご高名を洩らし賜れば武臣こと源の常信、身にあまる幸せに存じ奉る。」
 これまた、豆本通りの挨拶である。
 老人は莞爾として答えた。
 「拙者、すこしばかり事情があって名を名乗ることは出来ぬ」
 長髪の頭から鉢巻きを静かに取りながら、居並ぶ人々に一礼して酒をうまそうに呑み干した。
 私はそれ以来、どうしてか豆本を読まなくなっていた。 別に理由はなかったのだが・・・。
 老人は私の家で一泊して身の上話をした。
 「あなたは強いですね」 父が訊ねると、

 「剣道は初段くらいですよ」 と笑って見せた。
 「お元気ですね。 お齢はいくつですか」 「そう安政元年生まれですよ」
 「私は元治元年生まれです」 と父は答えた。 長髪の老人はもう侍言葉は使わなかった。 「あすは本祭りだし、もう一夜如何ですか」
 「有難いが・・・娘が枝幸で待っているので・・・」 老人は翌朝早く起きた。
 長髪を整えながら、草鞋の紐を締めて、静かに立ち上がった。
          (了)

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