愛のふる郷 第3編  川西の文学

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 第2章 養子物語


第2章 養子物語
友澤喜作 手記
はしがき
本文に入る前に
 友澤喜作さんの 「養子物語」 という手記は一つの変転、極りない、人間の相縁、奇縁というものを思わせる。 一方その背景に川西という土地での、明治、大正、昭和の面影を偲び乍ら、その風土を推察することができる。
 喜作の叔父、友沢乙吉夫妻が、お人好しなるが故に、先祖からの財産を失い、土地を捨てて、見知らぬ北海道に渡り、各地流浪の末、ふとした事から、落ち着いた処が川西であった。 元来漁師であった乙吉には、この昼なお暗い大木の茂る土地を開拓してまで、農業をやろうとは考えなかったが、叔母は農業の経験があり、土地に落ちついて、じっくりと営農しようとする気持ちがあり、双方の心が微妙にからみ会って、一時期別れて住むような事になり、しっくり行かない時もあった。
 それでも入植十年、川西の一等地を取得し漸く農業者として、一応の成功を収めたのであるが、乙吉夫妻は子宝に恵まれなかった、ために妻の姉の子が7人もいる山口県に行って養子を1人貰って来ようと、訪れたのが、喜作との出会いなのである。
 兄弟7人の末っ子に生まれた喜作としては、日常的に何の不足もなく、両親兄姉から可愛がられて暮らしていたし、何も好んで北海道の開拓地に養子に来なくてもよかったのであるが、叔父の甘言に乗せられて、一旦約束してしまった。 親からダメだから断れといわれても、子供心に約束を翻すことは喜作には出来なかった。
 半信半疑の気持ちが北海道へ渡る記録の中にあらわれている。
それが川西に来てからの養父母の暮らし方には、内地から来た、喜作には異様とも思える程、強烈な、野性的というか、原始的に思えたのである。 それに加えて遠く郷里から離れても、人間的な温かみがほしい。
 喜作としては養父母の冷たい接し方に深い絶望感に打ちひしがれたと思ってよい。 そんな中で、きびしい仕事の余暇に、学校に通わせ、高等科を卒業、又青年としても文武の道を修めさせてくれた事は、自らが文盲であり、養子に学問を身につけさせようと悟ったのであろう。
 喜作の優秀性と共に、自ら求めて修練に励んだことは、川西の地域性から、青年活動として団員の先輩、同僚の大きな影響があったのである。 喜作が成人してこれからという時に兵隊にとられ、シベリア出兵を加えて3年半という長年月の愛憎が浮き彫りにされている。
 この困難な中で、喜作夫婦の固い絆と信頼が多額の借財を20年の年月、血のにじむ努力の末、完済するという、涙の苦闘がはじまることになるのであるが、後年、川西の先達として行政、産業、民生、教育等の各分野に亘って町に大いに貢献された方の手記として、敢えてとり上げ後世に残すことが、然るべき教訓であろう。

第1節 運  命 一、生い立ち

 山口県大島郡東和町字外入、ここが私の呱々の声をあげた土地である。 この地は、山口県東端の広島県界に近い場所で瀬戸内海にある多くの島の中で最大の屋代島と呼ばれる静かな島で、現在は行政上4町に区別されており、4町併せて約140平方キロメートル(湧別町は340平方キロメートル)という面積である。 この島は東西20余キロメートル南北は広い所で10キロメートルだが、東端の私の生まれた村は、東西10キロメートル、南北3キロメートルの細長い村だった。
 瀬戸内海の多くの島が望まれ、風光明媚で冬でも雪を知らない暖国で育ったのである。 住民は大半が漁師であり、鯛やふぐなど高級な魚も多く獲れ、生活も安定した平穏無事の中に平和な日々を送っていた。
 さてここで私の出生について記しておこう。 私は明治28年12月8日、この島で初声をあげた。 父迫田市十、母迫田センの末子である。
 兄4人姉2人と80を越えた祖母との一家10人の家族である。 幼少のころから、何不自由なく末っ子で皆に可愛がられ温室育ちのような環境で地元の小学校に入り義務教育4年を卒業した。
 その翌年、明治40年2月のこと、突然北海道から叔父友澤乙吉の来訪を受け、その叔父の強っての要請と、幼い私が甘言につられて、友澤の養子として北海道に渡るという、意外にも波瀾に富んだ苦労の人生が待っていようとは夢にも思わなかったのである。
 それでは私の養父母にかる、友澤乙吉夫妻のこれまでの足跡を養父母の語った中から、そのあらましを、ご紹介しよう。


二、養父母の渡道

 友澤乙吉とテフ夫妻は、私が後日北海道へ連れて来られて、養父母になった人である。 温暖の瀬戸内海の小島から、一転して朔風荒ぶ、荒野に只一人孤独と寂漠の中に、放り出されたようなことになったわけだが、友澤のつれあいが母の妹で名はテフが私の叔母にあたる縁故であったことを先ず述べておこう。
 この養父母は、山口県大島郡家室四方村に先祖伝来の漁師で生業をたてていた。 隣村で親の遺産を受けつぎ、相当裕福に漁師を営んでいたことを両親に聞かされていた。 所が人の保証のために、財産を失い素っ裸になり、将来のあてもないまま、「北海道移住民募集」 に応じた。 北海道には魚が沢山獲れると聞かされ、先祖伝来のふる里を後にして、渡道下わけだが、その折、私の実父迫田市十に3百円を旅金として借り受けた。 明治27年1月10日、内地出発、北海道永山に道教の知人が屯田兵として先に渡道して居るので、便りをして、永山に落ち着いて、1ヶ年知人の家に滞在不馴れながらも開墾を手伝っていた。
 元来農業経験がないので網走管内に行けば魚が沢山居るときき、当時中央道路を北見に向かって石北国境を越え、旭川から湧別浜まで30里の道のりを自分は徒歩で、妻テフを駅逓車にのせ身の廻りの荷物を積み出発した。
 当時村は3里毎の駅逓があり、途中熊に何回となく出会ったとのことである。 元古丹(今の中湧別)に着いたら、日はとっぷりと暮れ、宿はないし途方にくれていたら、遙か彼方に、かすかな灯を見つけて尋ねていった処、アイヌ部落であった。
 アイヌと会ったのははじめてで、驚いたが言葉は通じないし、思案に暮れたが、手まねをして、泊まれという事が、判明できたので、泊めてもらった。
 親切にしてくれるので暫くお世話になった。 やがて夏秋にかけて鱒や鮭が湧別川に遡上していくらでも獲れるので、棒でなぐってとることができたが、その保存方法も分からないので、困っていたら、浜へ持って行けば売れると教えられた。
 アイヌに連れられて、遠峰という大漁師の家に行き、塩切りの要領を教えてもらい、帰って樽につけ、塩叺に入れ背負って売りに行ったら、鱒1本2銭、鮭4銭だ、これではあまり貯金もできないと思った。
ということで、アイヌは親切にお世話してくれたものの、一までも、居るわけにも行かず、紋別に藤野又十という大漁師がいることを聞いたのでそこえ行って雇夫として使ってもらうべく中湧別を後に出かけた。

三、川西5線に入植

 当時は紋別道路はなく、又湧別川に渡船で川西につき、歩いて今の5線まで行った処、見知らぬ人から土地を買わないかとすすめられた。 養父は買う意志はないが、養母は内地で畑仕事の経験があったので、その土地(西5線26番5号線上角の土地)5町歩の未開地を 「5円」で買うことができた。
 土地所有者は福井という人であった。 そこで居を定めた2人は、拝み小屋を建てて一生懸命、開墾をはじめたものの、熊は時々出没するし、夏は蚊・虻がむらがり寄って来るし、農業に馴れない養父はとても、一生を過ごす気になれず、1ヶ年我慢してやったものの翌年正月、遂に養母と別れ、家出して紋別の大漁師、又十の雇いとして働くべく出かけた。 今の信部内湖畔を通り湖水口へ行く渡船守りに渡してもらったら、何処へ行くかと聞かれたので、又十の処へ行くと言ったら、秋田県人で戸山という、人が 「私は郷里、秋田に妻子が帰って来いというのでこの仕事を引き受けてもらえまいか」 と云われ「金になるか」と聞いたら、「大金にはならんが可成りの金は残る」 というので、引き受けることにした。
 そして鍋釜その他、家財道具、夜具一切をもらって渡船守をやる事にした。 富山産は親切に、仕事の要領を教えてくれ、護身用に龍を彫ったサヤ付のアイクチを懐からとり出し、「身から離すな、何者に出合うか分からないから護身用に上げよう」 と、細々と注意をされて、別れた。
 養父はその時43才だった。 当時は海岸線ばかり往来するので、人馬もよく通行した。 人は2銭、馬は5銭であった。 12月になり、大分金もたまった。 暮れ近くなって真夜中のこと、叫び声に渡し馬に行ったら大男が立っていて「腹が空いたから飯を食わせろ」というので食べさせたら、「小遣いをくれ」 というので財布から一つかみやったら「こんな目くされ金」といって投げつけた。

 「目くされ金とはなんだ!」とこちらも言葉を返したら、火の燃えている薪をふり上げて、正に叩かんとしたので、咄嗟にふところから、あいくちを振りかざしたら、すぐ薪を置き、あやまって、今度は「泊めてくれ」 と云う。 「お前のような不心得者は泊めるわけにはいかん!」 と断ったらトボトボ紋別方面へ向かって出て行った。
 後で復讐にぅるやも知れないので、渡し守の権利を引き受ける者を見つけて、こんな危険な処に居るのがつくづくいやになり、有り金と身近な荷物を背負って、妻の処へ帰った。
 「俺も辛抱をして、酒一滴も呑めない処で渡し守りをしたので、金を大分持って来た」 といって塩叺から金を明けたら、養母は、内地で財産をなくした後は、少しでも金を持ったら、皆酒を買って呑んでしまったので、全く信用せず、金は盗んで来たものと思い込み、「今にも警察が来るから早く持って出て行け」 と云ったという。
 「しかし俺は、いくら貧乏しても人の金は一銭も盗んだ事はない」 といっても、信用できず、その晩は養母は今に警察が来るかと心配で一晩中ねむれなかったということである。


四、3線の土地取得

 一年近く酒を呑まなかったので、街に酒呑みに出かけ、湧別川の渡船を渡して貰い、その時高知県出身の広瀬某に出合い、土地(現在の友澤所有地)を買えとすすめられ、案内してもらってその土地を見せて貰ったら、3線づきの方約1町歩は開墾してあったが、桂・楡・楓・等大木ばかり、密生しているのに驚き、「こんな大木の生い繁っている土地は木も伐れないし開墾に困難だからいらぬ」 といったら、「お前の入っている土地は、地味が悪いので木が太くならない、将来性がない」 という。
 そこで木は、広瀬が杣夫を頼んで伐ってやるからと云って、しゃにむに、すすめられ、大体買う約束をして、四号線に行き、酒を呑み、帰って塩叺に入れてあった渡船賃を勘定したら、2百40円あった。
不足分を妻に出せと云ったが中々承知しなかったが、養母としては一人で一生懸命開墾して、明治30年、31年に400戸の屯田兵が来るから、馬鈴薯や裸麦の種子を買い上げるというので、汗みどろになって働き、大半はそうした種子代でもうけた金であったが、色々土地のこと話した結果60円の追加分を出すことについて渋々ながらようやく承知した。 合わせて、300円で買ったという、経緯がある。
 「この土地は、今度俺が買った土地より質が悪いから、将来性がないとの事だから3線に引っ越すことにしよう」 と言っても、養母は中々承知しなかったようだ。
 養母の力でこれまで開墾した土地を、簡単に手離せないという気持ちなのであろう。
やむを得ず元の畑は、養母にまかせ、新しい土地は養父が別に耕作をし裸麦を蒔いた処、夏に名手その出来栄えは、全く比較にならない生育ぶりであることから、再び養母に話して聞かせたが、引っ越しを承諾しない。 そこで無理に連れて行って見せた処、「百聞は一見に如かず」 で生育の大した違いを見て”ビックリ”秋の収穫を済ませて、引っ越したという事である。


五、移転し営農軌道にのる

 明治32年、3線に引越して夫婦共々の営農をはじめた養父は、早速家を建てることにした。 先ず信部内川向いの燐寸製軸工場の長屋を買った。 この長屋は掘立ながら巾3間、長さ10間に及ぶ大型のものであったが、長屋や小屋もかね得るものであった。 時期は既に秋も遅くなっていたので壁も塗れずに草で囲い入居した。
 ところが暮れになって、火災になり全焼し内地から持って来た柳行李一箇をかろうじて出しただけで、食糧の裸麦、イナキビ、豆類、等も全部焼けてしまい、途方にくれたという。
 翌明治33年春、又前記信部内から、3間×10間の柾葺きの古家を買って、近隣の人々に手伝ってもらって家を建て入居した。
 以来2人で力を併せ、平鍬で朝早くから夕方暗くなるまで、いろいろ困難を克服して働いたという話しは、渡しが養子に来て何度も聞かされた。 
 新しく取得した土地は、土質もよく、無肥料でも、天然肥で、裸麦反収2石5斗(約360キログラム)から3石(約450キログラム)位獲れたとの事、当時主要作物は、裸麦、菜種だけで、自家用に金時薯を作った。
 当時川西の土地の価格は、高い土地で5町歩で50円から80円、易い土地では、30円位で売買されているのが相場だったが 「長州(山口県出身なので友澤と呼ばず長州というのが通称だった)は何程の金を持っているのか、3百円も出して頭がおかしいのではないか」 と噂されたという。
 明治34年に紋別道路が開設され、明治35年湧別川に釣橋が架橋され便利になった。 作物はよくできるし、2人で喜び、永住する気になり腰を据えたのであった。
 明治37年日露戦争が始まり、物価は上がり、農産物も高く売れるので、農業も馴れ年々貯金も出来て来た。
 叔母は、内地敷きの百姓気分で、裸麦、菜種など、元草まで丁寧にとるので他の農家より反収をあげ、人一倍働いたと申しており、明治37,8年頃から生活も安定した。

 だが、一緒になって10年になるというのに、子供がいない。 そんなことから、家畜でも飼おうと、馬2頭、鶏20羽、犬2匹、猫3匹も飼って居た。 渡道以来13年目、子供はないし、友澤家を継がせる子供を貰いたいと人に手紙を書いて貰って、山口県の迫田(喜作の家)にも出したが、「お前にやる子供はいないと迫田から返事が来たときにはガッカリした」 と後日話していた。
 友澤の川西入地から明治40年頃までの開拓と営農の努力は、養父母の折々の話しを総合して記録したものであるが、川西の入植者、先輩の方皆に言えることであるが、部落あげての開拓意欲が実を結び、北海道有数の農業生産を挙げる畑に仕上げて下さったことに対しては、報恩感謝せずには居られない。

第2節 喜作養子となる 一、叔父の帰郷

 明治41年の2月、友沢乙吉(養父)が山口県の故郷を出てから、14年ぶりに迫田市十の家を訪れた。
 さすがに寒い北海道から来ただけに、その服装を見ても内地の人が目を見はるような姿であった。
 赤毛布のモヂリ外套をタスキにかけて、足には藁沓をはき、帰郷した姿を見て、両親や兄姉等も夢のような感じで迎えたのである。
 末子の渡しは、まだ一面識もなかったが、約1ヶ月の滞在中、北海道の実状を面白可笑しく、事細かに、父母や兄姉に話されるのを聞いて、何とはなしに北海道へのあこがれを感ずるようになっていた。
 叔父は北海道であらゆる辛抱をしてこしらえた財産を、他人にやるのはいやだから迫田家から、友澤家を相続する子供を一つ貰いたいとの交渉がはじまった。
 両親も兄姉達の遠い北海道に養子にやる子供は一人も居ないと断固承知する様子は見受けられない。
 母が申すには 「お前は知らないが、あれのつれあいは私の妹で、余りやかましい事ばかり云うので、弟は2人共他に出て行き、遂に他家で亡くなったいきさつがあるので、行ったらひどい目にあわされるから絶対行くでない」 と陰に廻ってこんこんと言われた。
 叔父も皆に交渉しても見込みがたたなかったものの、あきらめきれず父母、兄姉等が不在になると、私に北海道に連れてゆくべく色々を手なづけていたのである。
 お酒がすきで 「酒を買ってきてくれ」 と1円出し(当時1升が56銭)その釣銭を皆くれたり、魚を買って来いと言ってお金を出し又釣銭をみなくれて、1ヶ月余り滞在している中に貰ったお金は、12円60銭も貯金ができたのである。 私は小父さんは何程沢山のお金をもっているのかと思ったものだ。

 「お前が北海道へ行くなら、何でも買ってやる」といわれ、無邪気にも北海道の実情は知らないが、叔父の云うことを信じ「第一にお金」「第二に金ボタンのついている外套、及び革靴を買ってくれるか」と言ったら「買ってやる。その他お前の希望するものを何でも買って上げる」と言われて、幼い私もその事にすっかりほれて、前後も考えずに両親の止めるのも聞かず渡道することを決意した。
 両親・兄姉の驚きの顔が、今でも瞼に浮かんで来るが、若いとはいえ男だ、一度返事をしたものを、翻す気にもならず、最後には両親、兄姉共にしぶしぶ承諾、賛成してくれたので、子供心に安心した。

二、ふるさとを後にして

 私が養子を承諾下ので、まだ12才の子供のこと何時心変わりするか分からない、早々に出立しなければということで、直ちに身の廻りの品を揃え支度をして貰い学用品も兄が「北海道には近くに店もないだろう」と云って半紙百帖を買って荷造りをしてくれる。
 出発の用意もでき、日取りも決定したから親類及び友人宅へお別れの挨拶を済ませ、別れの水盃を両親、兄姉等とのみ交わした時はなんとなく心寂しい気持ちに打たれ、熱いものがこみ上げて来るのであった。
 いよいよ3月10日午前9時入港の汽船に乗って無邪気にも両手を挙げ「万歳」を唱えた。 波打ち際で見送りが沢山いたが、眺めてみると両親が顔を手拭いで覆って居る姿を遠く見ていたら思わず涙がポロリと流れた。
 あとは養父のそばで色々途中の話を聞かされ間もなく愛媛県三津ヶ浜に停泊、直ちに上陸し松山に住んでいた、母の3番目の妹サク叔母宅に泊り、道後温泉に入浴し、一夜を明かした。
 叔母とお別れして午後3時再び乗船して、瀬戸内海を四国香川県多度津港に停泊して伊勢屋旅館に宿泊し2夜の夢を結ぶ。 朝食を済まして金比羅神社に参拝するので宿を出た。 鳥居口を越えたら鹿の群れを見て、飼料1皿2銭で買い与えたところ喜んでたべるので可愛かった。
 石段を登り、両側に土産物を売る店が建ち並んでいた。 神前迄960階段、左側唐金の神馬銅像を眺め神社に参拝した。 この本殿に詣で瀬戸内海の景色やら、大小沢山の島々を眺めたときは、何とも例えようのない、いい気持ちであった。
 下山して宿に帰り一休みして荷物を背負い、宇高航路船に乗船して、岡山の宇野港に上陸、汽車で神戸まで来て下車、3月13日午後2時神戸館に泊まる。
 明くれば、14日今日は楠木正成をお祀りしてある、湊川神社の祭典であるということで、養父に連れられ参拝した。 大変賑やかで中でも祭典の済もうが盛大で面白く見物した。 市中を見るとさすがに貿易港だけに港は出船入船で黒煙が天を覆い太陽も黒ずんでみえるのである。
 夕方北海道移住民を乗せる室蘭行きの大きな船が出港するとのことで、急いで乗船場に行き、生まれてはじめて大きな汽船に乗船した。
 3月15日朝、横浜港に投錨、ここで荷物の積み卸をする為、養父は、私を置いたまま、上陸した。 夜になっても帰らず、だれ一人知人は居らず、日は暮れる。 寂しさの余り、郷里の父母や兄姉の事を思い出して、夜もすがら眠ることもできず、泣いていた。
 あまりのことに、室付のボーイさんが、自分の部屋につれて行き、センベイなどをご馳走して色々なぐさめてくれたが、中々思い切れず、いよいよ故郷が恋しくてたまらなかった。
 ボーイの話によると、この船は、16日お昼までに出港するので帰って来るから心配するなと云われたが不安であった。

 養父は、出港直前になって、お酒に酔い、いい機嫌で4合瓶の酒を5本持って私に落花糖を買って帰って来たので先ず一安心した。
 船は出港し翌17日昼過ぎ宮城県仙台萩ノ浜港に入港、ここで半日、貨物の積み卸しをするとの事で、横浜港での寂しい思い出があたので一緒について行くと言ったが、又私を残したもも上陸する。 今度はお酒3升持ち帰って来た。
 これからまずは一路北海道の玄関である。 函館港に入港した。 19日であった。 ここで上陸しはじめて北海道の土を踏んだ。
 北海道はさすがに寒かった。 山々には所々に雪があった。 市中の道の悪いのには実に驚いた。 直ちに宿についたが「北海道」という旅館、20日は市内を連れられて見物したが大火のあとで焼け野原になっていた。
 かねて内地で約束の店頭にある、金ボタンと外套と革靴が目につき、買ってくれと言ったが、ここは船着の場所だから、品物が悪くて高いから、先で買ってやるといって、買ってくれる意志は見受けられず、北海道の上陸したら、段々と薄情になり、いよいよ内地の父母が陰で 「行でない」といわれたことが身にしみて来た。
 21日午後2時頃に出航となり荷物を背負ってとぼとぼと乗船場に行き乗った間もなく函館を後に出航する。 室蘭港には夕方の入港、下船し 「たまる屋」旅館に宿泊したら移住民で満員、一枚の寝具に3名迄の割合で寿司詰めの状態、実に窮屈な思いで一夜を明かした。
 室蘭の町は狭い貧弱なところで見物する程の町ではなかった。


三、道内の旅

 室蘭からいよいよ汽車に乗るのだと云われ、長い間汽船に乗ったので珍しかった。 しかし北海道の汽車の遅いのには驚いた。 この先は何と云う処かときいたら、これは旭川行きの汽車だが途中の状況は列車内で教えてやると云われた。 しかしお先真っ暗だ。 室蘭駅を出発したのが3月23日午前6時であった。 白老駅についたら 「ここはアイヌ人が沢山いる処だ」 と聞かされた。 間もなく乗車して来た、アイヌ人を私ははじめて見たが、珍しかった。
 内地の汽車より、速度が遅く、岩見沢の駅には10時に到着した。 乗り替えて旭川行きの列車にのった。 途中神居古潭についたら、ここにもアイヌの人が沢山いる処だと教えられる。
 旭川駅に着いたのは午後1時過ぎであった。 旭川は第七師団があって兵隊が沢山いる。 市街見物等旁々師団に連れて行かれた。
 歩兵26・27・連隊の前を十市各連隊の前には歩哨が立っていた。 継ぎに特科隊の騎兵、工兵、車重隊、を見ながら通り、上川神社の前に出て、神社に参拝し、旭橋を渡って帰って来た。
 目につくものは金ボタン外套と革靴で養父に買ってくれと迫ったがここは兵隊の払下げたもので品物が古いものだから、モット先で買ってやると云って買ってくれないので、いよいよ不安に思った。
 駅前まで歩き一泊して、翌日名寄行きの汽車に乗った。 名寄についたのは、3月24日午後4時過ぎであった。 その夜 「吉野館」 に泊まった。 翌朝、昼食を済ましこれから汽車が通っていないので歩くのだと云われ私もそれなりの覚悟をした。


四、難渋の北見路

 草鞋、3足を買い1足を履き、2足を腰にしばり、教科書や半紙百帖その他、常用品、日用品で約3貫目(12キログラム位)を背負って、叔父は、赤毛布とモジリ外套を巻いてタスキにかけ、同じように草鞋を腰に歩きはじめた。
 私は内地で1里(4キロメートル)も歩いたことがないのに、叔父の歩行にあわせて一生懸命歩き、上興部の木賃宿に泊まったが1日10里(40キロメートル)歩いた。
 翌25日は、上興部を出発、前日同様わらじ3足を用意して興部川二興橋にかかった時は全く日が暮れ、足が痛むので雪の上に座ったら 「ここは北海道でも一ばん熊の多くでるところだから、今に熊が出て、引きさかれるぞ!」 とおどろかされ、ビックリして痛む足を引きづりながら高台にのぼったら、遙か彼方にチラチラ、灯りが見えるので 「あとどの位で行ったら宿に泊まれるか」  と聞いたら、3回ダマされて、ようやく興部の市街にたどりついた。 興部では山田という木賃宿にとまることになる。 宿についた私は草鞋の紐を解く元気もなく、そのまま座っていたら、宿の主人が紐を解いてくれ、足を洗ってくれたので、座敷に上がってようやくホッとした。 夕食も疲れたので食べずに就寝したが床に入ると、やさしい父母や兄姉の顔が思い出されて思わずマクラを濡らしていた。 
 明くれば26日は、又もや草鞋3足を買い腰に2足しばり、興部を出発、沙留という所へついたら吉田三次郎という人がなれなれしく養父と話し合うので、最早や家も近いのかと思ったら、養父が内地に行くときに、客橇に乗せてもらった人だという。 吉田さんは 「この子供大変足が居たがっているから私も帰り途だし馬橇に乗せなさい」 と云ってくれたが、養父は 「北海道の途に馴らさねば」 といって先へ先へと行ってしまうので致し方なく痛む足を引きずりながら、漸く渚滑三線の三木という駅逓宿に辿りついたのが、午後2時頃、最早何としても歩けないので 「意気地がない奴だ!」 とブツブツ怒りながらも、遂に三木宿に泊まった。
 翌27日紋別市街に辿りつき福井旅館にお世話になりようやく人心地がついた。 紋別は大分家も多く並んでおり、風呂屋もあって入浴に3回入ったら、足も大分楽になった。 夜は久しぶりにぐっすり眠る。
 翌朝 「家まで大分あるか」 ときいたら、もう僅かといわれたので嬉しかった。 又もわらじ3足用意して雪解けで朝の中はがりがりに凍った道を坂道を上り下りしながら小向の竹内駅逓につき一服して漸く明治41年4月28日午後3時頃、川西の家に着いた。


topへ 第3節 人間の錬成 一、川西の印象

 川西に着いてまず驚いたのは、家のお粗末なことであった。 内地の家が立派だったことから、特に印象があったと思うが、信部内の製軸工場の長屋(柾葺屋根)を移したのだから地元ではそう悪いとは云えない。 まだ開拓中の農家には拝み小屋に入っている人さえあった頃である。 叔母とは初対面であったが特別やさしい言葉もかけてもらえなかった。
 内地の父母が云われた言葉がしみじみ感ぜられた。 実の叔母なのに誠に薄情で永い旅路を足に豆をつくって苦労してようやく辿りついたことに対する労りの言葉もなかったことが、温かい家庭に育った私にはんんとも言葉には言いあらわせない、淋しい感じがしてそぞろに故郷を思い出していた。
 又食事も粗末な者で北海道の開拓者の苦労の程が偲ばれたものの、全開拓者共通ではなく、友澤家が特に節倹の家だったに違いない。
 翌29日は養父に連れられて湧別市街に行った。 当時の湧別の市街は学校、役場、お寺、郵便局それに商店、漁家などが集落をなしておりその戸数は概ね百戸足らずであったと思う。 それに四号線の四辻を中心として3,40戸の集落があった。
 市街では内地に差出す手紙を書かされた(養父は文盲である)
そして局から投函無事に友澤の家に着いたことを知らせた上、市街の主な建物などを廻って、帰りには三号線の田辺商店で11文の革靴を買ってもらったので念願が叶って実に嬉しかった。
 当時この湧別の友達の中でもあまり持っていない外套であり靴であった。 これで内地からの約束は果たしてもらったが、家に帰っても叔母が打とけず、何かよそよそしく親しみがもてないのが、ふる里を出て北の地に来た者として何となくしっくりしない気持ちが晴れなかった。


二、高等科に入学

 明治40年4月1日から入学するということで、お隣の熊本県出身の渡辺文雄さんに連れられて湧別尋常高等小学校へ行った。 そして無事入学式も終わった。(私は内地で小学校4年までは修了して来た)驚いたのは尋常高等小学校というのに教室は3教室で屋内運動場は5間×8間の40坪だけでどうして多くの生徒を収容して勉強するのかと案じた。
 所がいよいよ授業がはじまったら、運動場や、真宗寺を借り受け、お寺の行事のときや、天気の良い時は、グランドの木に黒板をつるして筵を敷いて、北海道らしい勉強ぶりでまあ納得したのである。
 入学当時は校長先生以下次の先生。
   校長  川添 健次郎
   先生  岡嶋 梅之助  後藤 徳三郎  田村 源治  今野  稀
        中山 みき    島村 戒三郎
 以上の7人であった。
 私たちの高等1年生は、高知県出身の島村先生に1ヶ年教えられた。
 明治41年4月から義務教育2ヶ年延長され1学期から屯田兵家族の一員である平野勇助先生が受持となりヶ年懇切真剣に教育された。 平野先生は書道の達人で私は字が下手であったが手をとって字体や筆法を教えて下さったので大変上達した。
 信望熱く尊敬された。 今野先生は誠に中の良い間柄であったが時々お酒を呑むと気が荒くなり、良く喧嘩をして繃帯をして登校され、「今日は皆にすまないが自習をやれ」 と云われると、平素真剣に教育して下さるので、生徒一同も誰一人不満な顔をあらわさないで従順に勉強していた。
 当時学制改革で小学校は4年までが2ヶ年延長して高等2年を卒業することができた。 高等1年の頃、はじめて札幌師範学校出の安岡与太先生、中野徳治の両先生が本課訓導として勤務された。
 一方明治43年4月に3教室を増築され、漸くきまった教室で勉強できるようになった。


三、安らぎを勉強にもとめて

 さて話しはさかのぼるが、内地から連れて来られて、湧別小学校に入学してからのことだが、夜勉強していると、遅くまでやるので石油を約3升位(3.4リットル)消費したと思うが時に養母に火を消された。 「お前が来ない打ちはヶ年に石油四合瓶1本(700ミリリットル)で充分であったのに僅か半年足らずの中に、3升も炊いた」 といってやかましく云われるので勉強も満足にできない有様で私も考えたすえ、床の中では火が危ないから、仮に火箸を焼いて穴を4ヶ所あけ、柳の細木をさして紙をなり、昔の「アンドン」 をつくり上から着物をかけて火の明かりが漏れないようにして、床の中に入って勉強したが、時々見つかって火を消されるのである。 これでは勉強できないということで、お隣の渡辺三次郎さんに頼み込んで毎晩行って勉強させていただいた。
 幸い明治41年12月川西特別教授所(小学校3年迄)が設置され、初代の後藤徳三郎先生に事情を話し頼んだら心良く承知して下さったので、どんなにひどい吹雪や風雪の晩でも欠かさず通って勉強することができた。
 又湧別小学校へは身体に故障のない限りは1日も休まず通学した。 4年間で吹雪のためとても家に帰ることができないので泊めてもらったのは4回あったが、四号線の中川商店や道教生の中山君であった。
 ただ首席で通してきた勉強も、養父等18名が道議選挙違反で公判のため根室裁判所に呼び出されて行ったため、学校を1ヶ月休み、そのために女生徒に首席をゆづらざるを得なかったことは、かえすがえすも残念だった。 選挙の話しはあとにゆづるとして、暖か味のない家庭でのさびしさ、切なさ、情けなさ、と事々味わっていた私には勉強に逃避することが何よりの安らぎであり、救いであり楽しかったのである。
 養母は、内地の父母が云ったとおり、誠に厳格そのもので、何事につけてもやかましかった。 学校に行く前には必ず一仕事しなければ、学校に行かせないと云われ、時間ギリギリまで使われた。
 天気のよい日は草鞋ばき、雨のときは下駄ばき、冬はつまご、である。 そうして4年間の勉学が実を結んで、明治44年3月21日、高等科を卒業することができたのである。


四、選挙違反事件

 北海道の北の果遠軽を開拓して、キリスト教の教義を生かした私立大学を設立しようとする一団が明治30年頃資金造成の一端として、1千町歩の原野を拓き将来は3千町歩を開拓使学校基本財産をつくり30年後にこの地に大学校を建設しようという偉大な計画で、その中心を学田と名づけた。 この主唱者は東北学院創設者の押川方義であり、実践者として学院出身で押川の信任が厚かった。 信太寿之が現地に派遣された。 信太は遠軽開拓にも大きな実績を上げた功労者であったが、一方湧別村信部内に原野1.500町歩の貸付けを受けて45戸の小作開拓者を入植させ、自らも牧場を経営していた。
 後年緑蔭地区に多額の私財を投じ5万円の補助金を得て、水田耕作のために貯水池に大投資を行うなど地域の発展に献身的な努力を重ね、住民から深い尊敬を集めていた人物であった。
 道議会議員に4回立候補し4回目に当選した人であったが、この時は第1回目であったと思う。 明治44年8月の或る日、区長、渡辺三次郎宅に集まり、川西に馬頭観世音の碑を建てる協議会が催され信太さんから碑にする角材を寄贈してもらうことに一決交渉者は小川清一郎と出口助次郎の両名に決めた。
 そこえ、信太の帳場長である相馬積太が来訪、 「信太先生が同義に候補として出馬するからよろしく頼む」 と依頼され、供応を受けたのを何某に密告された。 当日道議候補としては渚滑から岩田宗晴、雄武から田口源太郎と3名が出馬していて、それぞれ川西内にも運動員がいたのである。 当日馬頭観世音、建立の話に集まった人は、
 小谷幸九郎  江沢良馬  小西春治  三宮助次  宮田亀之助  友澤乙吉
 宮田 崇  本宮徳太郎  渡辺三次郎  滝本房吉  浅い代次郎  岩佐良馬
 小玉久助  小川清一郎  出口助次郎  作藤善食(市議)  菅原末吉(市議)
 相馬精太(市議) 以上8名がその場に居合わせたのである。
 最初から信太寿之を道会議員に当選させたら湧別原野は相当開発の度合いが変わっていたと思う。 その後16年の後、四号線の谷虎五郎が道議に出馬したわけだが、信太は最後に当選し、これから地域のために働いていただくべきとき、一期の中途で病を得て亡くなるという悲運があったのである。 信太は太っ腹の人格者で信部内の関係等前記のとおりだが、再三にわたる選挙戦のため、莫大な費用がかかり、遠軽の土地をはじめ、全地を失い、財産全て使い果たしてしまったといわれている。
 さてその選挙供応の件で前記18名の者が罰金30円という判決があり、これを不服として、異議を申立て、控訴したので、根室地方裁判所まで陸路徒歩で出かけたのが9月上旬であった。
 養父も18名の中の一人で、根村まで皆と行動を共にしたので私と養母とが留守を守って営農に励んだがその年、夏季の収穫時期に毎日のように雨が降りつづき、当時農作物といえば主に裸麦、菜種で裸麦は青くなるほど芽生するし、菜種は全然収穫できずダメになり、1町歩火をつけて焼き払ったという誠にいやな思い出が残っているのである。


五、青年活動に打ちこむ

 小学校(高等科)を卒業した明治44年7月に川西教授所が川西分校場に昇格し初代の校長が島村戒三郎であった。 4月に友人西沢鶴尾と2人で川西校の校庭に卒業記念として楓を植樹したが、西沢が1本、私が2本植えた(現在校門の南に大木となって残っている)
 校長が住む住宅がないので、校長は1年間5号線の自家から通勤された。 川西に青年会が発足したのは、明治35年といわれているが、それを遡ること3年(明治32年頃)位前から四号線の青年会があり、川西からこの買いに参加した者も5,6名いたといわれている。
 明治35年には、横山玉四郎・宮本光馬・出口助次郎・小川清一郎。 西沢健一等10余名が集まって川西青年団が結成されたことは、小川清一郎の「開拓の記録」にもくわしく書かれている。
 そこで明治44年当時の青年団の団長は小川清一郎・次に出口助次郎・伊藤代助等の先輩達であり、私は最初から会計を担当していた。 当時青年会員18名で基本金造成のため色々仕事をやったものだ。
 湧別川の築堤工事等もよくやった。 そして校長住宅建築の案が出て、三号線の森マッチ製軸工場が廃止になったので、その古家を買い役場から補助金をもらい、青年会で蓄積した金も出し、大工も頼まず、宮本正則・小川清一郎の両名が素人ながら大工をやり、皆で労力奉仕をして校長住宅を建てた。 完成したので島村先生家族一同川西に引っ越された。
 それから以降、小川市十・宮田関治・西沢田鶴雄・小松孝寿・小松真見・宮本正則・岩佐徳孝・川合清澄・それに私と10名が漢文(十八史略・作文・国語・歴史・地理・社会学等)を教えられ、毎晩5年間教えていただいたのである。
 大正元年から剣道を学ぶべく、みんなで防具を購入する金を共同事業をやったり、不足金を出し合って4組買い、5中隊3区の三好先生を頼み、学校に於いて出口助次郎・小川清一郎・伊藤代助・小松孝寿・小杉真見、小川浅十・岳上徳市・吉田金之助・それに私穂か命が2年間習ったがその後、四号線の石川林作・市川実蔵両先生に3年間指導を受けた。
 そして9月湧別神社祭典祭に毎年出場したが当時有段者も多く、四号線では飯豊健吾・石川耕作・西一線の浜口聖教、三号線に笠巻(本間彙の叔父)湧別市街には大東流柔術の武田忽岳という大先生も居られて時折敬子をつけてもらい軍隊に入るまで、文武両道を学んだのである。


第4節 兵 役 一、希望して軍隊へ

 青年会でいろいろ勉強させていただいたのも、先輩に恵まれ特に気の合った共と楽しく過ごして来れたからで、青年会の若者達が結束して、川西の風土を培って来たといってもよかろう。
 徴兵検査が近くなった。 養子の著しい成長の姿を見ても、養母は相変わらず、私には馴染めなかった。 小遣いもあまりくれず、お願いすると、必ず、ぶつぶつ文句を云ってしぶしぶ出してくれた。 一寸したことに対しても 「役立たずのお前が来て以来、経費がかかる」 と口癖のようにやかましく云われるのには、私もつくづく、いや気がさしていたのである。 そこで在郷軍人分会の飯豊分会長に、実情を話して、徴兵検査の結果は 「現役入隊」の扱いを受けるように、私の独断でお願いしておいた。
 徴兵検査の当時は、釧路連隊区司令官は、大島良三郎大佐、合格は当日発表になった。 司令官の前で 「友澤喜作、甲種合格」 と発表された時は嬉しくて転にも上る気持ちで躍り上がって喜んだ。
 時は大将年、欧州大戦の最中で軍隊の増強はしていたとはいいながら、長男などはなるべく現役入隊 「くじ逃れ」という形で、銃後の生産に配慮していたことはその後の大東亜戦争でも同様であった。
 特に養子である。 養親にとって見れば、ただ一人が頼みの綱であるのに何故私を温かい安住のわが家として愛育してくれなかったのだろうか、いくら考えても養親の気持ちを推し測りかねた私がとることができた、最後の反抗ではなかったか? そんな心の痛手を負いながら、更に苦しいと云われる兵営生活を敢えて選ばざるを得なかったという人の世の矛盾と非情に対して、幾度涙を流したことであったろう。
 思えば養子として川西に来て10年になるが、養母は結婚以来奔放な主人乙吉に仕え、破産して北海道に流れ、開拓地に入っては、1ヶ年近くの別居等、人の情けに頼ることなく、男同様に働き続けて来た、女性を見るときに、性格に更に諮り知れない強さと今生が身に染みついてしまったのかも知れない。 平静になって考えれば、それにしても、文武両道も、文句を云い乍らも、幾年も習わしてくれたのも、養親なのだ。


二、入  隊

 その後、予習教育を湧別市街の竹野軍医中尉に受け、大正5年11月30日、役場の市山実蔵さんに引率され、養父母に別れを告げて、旭川歩兵第二八連隊第九中隊に入隊したのである。
 第一期の検閲も終わり、南満州守備の任が下命された。 その準備を整え、4月26日 「みよしの丸」(3.900屯)の軍用船に乗船し小樽を出航旅順港に向かった。
 当時九中隊が軍旗護衛中隊で船中の歩哨勤務に当り、歩哨係長は村上上等兵、歩哨は清水清一、菊地幸一と私の3名が任命された。
 この3名が交互に歩哨に達、1時間交替で勤務していたが、越後の親不知の沖に差しかかった頃に大時化となり、波浪高く甲板の上に海水が打ち上げ、只立っていることが、不能な状態であった。 遂に菊地は、船に酔い歩哨に立つことが出来なくなり、清水と私の2人で勤めた。
 余り時化がひどいので、連隊長の福田栄太郎殿が心配されて、鳥取県、隠岐の島の西郷港に入港待避するよう命令された。
 実によい港で折りから桜花満開で目のさめるほど美しかった。
一同甲板に上がり大喜びしたが又もや玄界灘に入ると大荒れとなり、又船酔いが続出して随分ひどい目にあった。
 船はスピードを出し、黄海にはいると波は静かになり、海水は黄色を帯びて来たのも大陸の影響かと思う。
イルカの群れが船と競い合って進むのも誠に壮観という外なし。
 大正6年5月1日正午過ぎに旅順港に入港した。 子供の時私の兄は日清戦争、33年に北清事変、更には日露戦争と3回出征したと聞かされていた。 そして奉天会戦に頭部を負傷して金鵄勲章を下賜されていた。
 旅順港閉鎖に広瀬中佐が名誉の戦死をされ、難攻不落と称されただけあって実に要害の港であることが地形上納得した。


三、満州安着

 満州に上陸した隊伍を整え進軍ラッパに整然と旧市街を通り旧露軍兵舎に各中隊毎に入る。 第一大隊、第二大隊の12個中隊が各々割当てられた兵舎に入った。 旭川では12班であったが、旅順は兵舎の構造も違うので4ヶ班編成である。
 私は第4班であった。 各支給品を片付け整頓を終え、一同安着を見て心から安心した。 それから班長の案内で連隊内の建物将校官舎、酒保、医務室、炊事場等を見て廻った。
 夕食を済まし消燈ラッパの鳴るまで、北海道旭川の留守部隊に残留している友人、北海道の養父母、内地山口県の父母、兄姉にも安着の手紙を書いた。 消燈ラッパが鳴ったので床に就き旅順の第一夜の夢を見た。


四、日露戦争古戦場めぐり

 旅順についてはまず見る処は日露戦争の戦跡である。 戦争地として知られることは、戦い終わってまだ10年足りない年月しか経っていない。 いまだに生々しい感じが抜けきらない土地である。
 まず中隊長に引率されての戦跡見学は、白玉山に建てられた、表忠塔である。 ここでは長崎県出身者で伊藤由松という、58才の案内人の説明を聞いたが、高さ11尺(約36メートル)この塔の御影石は山口県岩国(私の生家の隣町)から持って来て建立したとのこと、円柱形で廻り階段になっており、下から100尺の所に展望台、形は大砲の弾丸を型どり1ヶ中隊修養できる設備で展望すれば旅順一帯一望でき、望遠鏡も設備してあり、すばらしい展望はいつまでも、瞼に残った。
 次は東鶴冠山に行く、旅順戦跡の中でここも激戦地で有名なところ、小高い丘のある場所、程度しか見られないこの場所が、世界的な築城家といわれたコンドラテンコ少将が指揮してつくっただけに、内部の砲塁は驚くべき堅牢なものである。 この丘の地中に暑さ2米に及ぶコンクリート壁を設けた洞窟ともいうべき要塞が建造されており、平坦な全面から何度攻撃してもビクともしなかった。 遂に工兵隊が地中穴を掘って進んだ所、地中のコンクリート壁につきあたり、これを爆破してようやく中に突入した。 中での幾日かの激戦の末ようやく占領したが湾曲したこの保塁内の戦いがいかに激しいものであったか?それは、コンクリート壁に残る無数の銃弾のあとを見れば明白である。
 さて最後の戦跡は203高地である。
203メートルという低い山だが、この頂上からは旅順港が一望できる要地であった。 したがって旅順を攻め落とすには203高地の頂上で観測した位置を後方高崎山にある砲兵陣地に知らせることによって、港内の多くのロシア艦船を撃沈することが容易なのである。 そのために203高地はいくら犠牲を払っても日本軍は占領したい所、又ロシア軍は占領されては困るという。 血みどろの攻防が繰り広げられたのである。
 はげしい戦闘のあとを物語るように、1本の木も生えていなかった。 焼きつくされたのである。 それに何の、しゃへい物もないこの山の頂上を目がけて、突撃して来る日本兵を、頂上から二重、三重に構築された塹壕から当時の新兵器「機関銃」(日本にはまだなかった)で撃ちまくるのだから、流石の日本軍も、攻撃をくり返すたびに大きな犠牲を払ったのである。
 司令官乃木希典の下には北海道七師団も投入された。 203高知の中段には乃木将軍の子息が戦死した場所に墓碑が建てられてあった。
 明治38年1月、203高地を占領、旅順港の敵艦は撃沈されたり、港外に逃げ出して支離滅裂! 陸海軍ともに大勝利をおさめて、日本は大国ロシアを破って戦争が終わった。


五、軍務と川西への思い

 こうして、これからの勤務地の、概要を見学し、先輩達の尊い御霊が鎮まりますよう旅順での訓練と勤務がはじまるのである。
 5月から本格的に、勤務割当、演習も毎日計画に基づいて、実施の段階に入った。
 気候は、南満州の一ばん南にある場所だけに、北海道よりもはるかに、暖かい。 私達の任務は戦争の終わった満州地域での治安の維持・また日本の各種権益を守るための任務で、一方きびしい演習に耐えながら、比較的平和な中での、然も割合気楽な任務といえるのである。
 その点北海道の開拓に汗を流す農家の姿を思うとき、まだまだ、軍人の生活は楽しいものがあった。 苦しみも、喜びも、悲しみも皆一体となって受けとめる同僚がいることが、何よりも団結の基であった。
 そんなことを考えると、遠く北海道そして湧別を思い出すのだ。 お世話になった先生方のこと、共に励んだ夜学の思い出、剣道の修練等常に思い出されたが、養父母のことは心から恋しいと思う感じにはなれなかった。 普通であれば希望して軍人になる必然性もなく、じっくり営農を手伝う身が、今満州まで来ていることの不自然さは何時も考えさせられた事である。 いくら若い時代から開拓に夢中で働きつづけて来た養父母ももう50歳を越えた年である。 若い者をあてにしたい年頃なのに何故、私に心許した会話さえ持てないのだろうか。
 私がこうして軍隊に来ている2,3年で今度は身にしみて家族の愛情というものに目ざめてくれるかも知れない。
 私はそんなことを時に漠然と思い養父母に対して申し訳ないような気持ちは絶えず持ちつづけていた。


六、シベリア出兵で異国の地へ

 南満州での訓練と、日常の守備勤務も1年8ヶ月の間をふり返って見れば、楽しくもあり、なつかしくもあった。 しかも過ぎし日、日露の戦役で悪戦苦闘を重ねて、の本郡を勝利に導かれた先輩達の骨を埋めた土地であったので、特にその感を深くしていた。
 大正7年5月19日、現役兵としてもう2年になり満期除隊の日も近いと思いながら勤務していたら、この日夜中隊長が全員を集合させ、「シベリア出兵のため、わが中隊が3日の間に出発するから、絶対秘密を守るよう」 と通達され、にわかに緊張した。

「シベリア出兵解説」
 大正6(1917)年11月ロシアで社会主義革命が成功すると、日本・アメリカ・イギリス・ふらんすなどの帝国主義諸国は、この革命に対する干渉をくわだて、協議を重ねた。 翌年7月に至って、チェコ軍救出を名目として総兵2万4千8百人(うち日本軍1万2千人)の出兵が決定された。 の本は大正7年8月から3ヶ月間にさきの国際協定の人員を遙かに超える7万3千人の兵をシベリアにおくり、バイカル湖以東を占領した。
 日本の意図は革命を圧殺してシベリアを占領し反革命政府を援助してこれを日本の勢力下におくことにあった。 しかし、連合軍が支援した反革命軍が敗北すると、アメリカをはじめとする他の諸国は大正9年1月に撤兵を声明し、日本だけが、治安維持、居留民保護などの名目を掲げて駐留を続けた。 これに対し革命軍が反撃し、列強も(米英拂等)日本の領土的野心を疑うようになり、これ以上駐留を続けることができなくなって、大正11年10月ついにシベリアから撤兵した。 又樺太からも撤兵した。 その間「尼港事件」などがありシベリア出兵に対して日本は戦費10億円・戦死者3000人、凍死者多数というむなしい犠牲を払ったといわれ、占領と勝利の企図もうちくだかれて、日本帝国があhじめて手痛い敗北をなめた結果となった。


 3日間の中に留守隊の朝日から26連隊に還送物をまとめたり、これから出発する地へ輸送する兵器その他の軍用品を取りまとめ、21日夜中に旅順を後に出発した。
 22日長春到着、南満州鉄道と東支鉄道の分岐の町であり輸送荷物の積みかえのため2日間滞在し寛城子から東支鉄道で貨車にのって広漠たる草原を2日間走り、ハルピンを過ぎ興安嶺の長いトンネルを通過して7月26日、守備地のハイラルに到着、中隊長命令で停車場及び貨車の守備をせよと命令されたので、命令通りの兵を指揮して任務についた。

 未知の所故、ロシア人に言葉をかけられても全然通じないので不便であった。 真夜中に歩哨が発砲して合図したので、護衛兵2名連れて歩哨の方向に行ったら、大男のロシア兵が防寒具を身にまとい、騎銃を持って立っている。 身の丈、6尺余り何者かと思ったが言葉が通じないので、手真似してようやく判断がついた。
 この兵隊は停車場監視の雇兵だということが分かった。 好意的に我々日本兵に握手を求めて近寄って来たので、言葉が分からず、思わず後退したが、表情でようやく意味が判明し固く握手をした。
 それから停車場へ行きいろいろと物品の名を聞き鉄砲のことは「イントフカー」 煙草のことは「パピロス」 その他いろいろ品物の名を聞き双方共ようやく安心した。 ロシア兵は「ヤポンスキーサルダート(日本の兵隊)が来てくれて私達も本当に安心した。」 と云い一昼夜の勤務も何等の事故なく終えることができた。
 貨車生活を半月余り経て兵舎がきまったのでそれからは楽々と起居できるようになった。 中隊長から炊事班長をやれと云われたが、炊事にいると各地を転戦できないので断ったら炊事勤務は転戦しなくても、論功行賞の勲章は甲だから、お前は経験者だしやれと云われ約7ヶ月間勤務に服した。
 大正8年2月から、大体本部付きとなり、ドイツ兵捕虜480名収容したので、監視にあたり、軍の連絡のため満州里、ツタ、ハルピン等各地に出張した。
 そして各国の軍隊とも接する機会が多く、余り危険なこともなく、無事守備の任務を終わり、大正8年4月22日、後続の仙台師団に引継を終了、交代して、貨物列車に乗車、ウラジオストク港に到着、蚤退治で襦袢、袴下をロシアのスープ釜で煮て清潔な身体になって、ウラジオで2泊した4月22日の夜半、内地の実父が耳元で 「喜作」「喜作」と呼んでいる夢を見て気になった。


七、故国への帰還

 大正8年4月27日、午前6時ウラジオから軍用船に乗船海路日本海を北海道めがけて航海して29日函館に入港、3年余ヶ月ぶりに故国の土をふんで感無量であった。
 函館に2泊の民泊は5名で北の誉酒造店に泊まり旭川行きの列車にのり8月2日懐かしの旭川の兵舎に落ちついた。
 留守隊に残った同年兵ともそこで15日間起居を共にした。 それまで支給されていた兵器の手入れ、支給品の洗濯、掃除をして返納を終り、暇なときは、入営以来のめまぐるしい生活を思い出して語り合い、帰郷の準備に外出して買物したり、内地兵や管外の友人や中隊長及び中隊付将校とお別れの宴を催したり忙しい。 或る日中隊長に山形出身の同年兵小林昌次君と私を事務室に呼ばれ 「今回、成績最も優秀な現役兵を下士官に任ずることになり、連隊で6名任官することになった。うち中隊では小林と友澤の2名を決定したので誠に名誉なことだ」 と中隊長から喜びとお祝いの言葉を賜り恐縮した。
 いよいよ満期除隊する当日、初年兵、2年兵全員集合し、中隊長以下将校、下士官、全員整列して、盛大な除隊式を挙行せられ、いちどうお別れしてなつかしい兵舎をあとに、旭川市四条の秋田屋旅館に1泊、内地除隊兵等管外の者と別れの宴を催し、8月17日涙と共に戦友と別れた。


第5節 借財との闘い 一、ふる里湧別に帰って

 我々同村の一行の桑原喜平・佐藤友次郎・佐々木久吾・松井時次と私の5名(藤田文治と今井義肥は一足先に帰った)は一緒に旭川を発ち富良野経由、カリカチ峠を越え帯広市を通過し池田駅で北見行きの列車乗りかえ、北見では黒部旅館に宿泊し、18日は一番列車にのって下湧別駅に着いたのは午前11時であった。
 駅頭には歓迎のため、桧森村長を始め各官公職の長、学校の先生、生徒、部落民やら青年団員等多数の出迎えを受けた。 駅頭に於いて桧森村長から有難い歓迎のお言葉を賜り、帰還兵を代表して私からお礼の挨拶を述べたが、3年半に及ぶ永い年月に見る湧別の移り変わりを見て感無量であった。
 12時を過ぎてなつかしい我が家に3年5ヶ月振りに帰ったのである。 私もあらたまって養父母に対し永年の不在にもかかわらず、元気で働いていただいたことを心から詫び乍ら今後の孝養について期する処があり、それなりに挨拶を交わす。
 養父母も喜んでくれ帰還を祝って、午後1時から部落の方々75名は本屋に、青年団員37名は離れ座敷に招待、これは養親が一切祝賀の宴を準備してくれ、一同お膳についていただき、代表して本宮徳太郎さんから歓迎のお言葉を賜り、私からも3年有余年留守中老人を支援いただいたので深く謝辞をのべ、祝宴を盛大に催したのであった。
 翌日は学校に於いて藤本と今井と私の3名のために部落の方々から歓迎会を盛大に催していただき、感謝の気持ちで胸一ぱいであった。


二、亜麻耕作のはじめ

 大正4年四号線の谷虎五郎が亜麻会社の誘致に奔走し、その結果、東二線に工場が建てられ、以来湧別の農家は主要作物の中に、亜麻耕作が加えられ、工場に協力していた。 家でも私が不在のため、多くもってくれなかったが5反歩程(約500アール)耕作しており、8月になり収穫にとりかかったが、抜取りの要領が分からず、湊夫婦と滝本夫妻それに我が家の3人併せて7人で、稲を苗代から抜取るような方法で抜いて見たが午前中に5畝程度抜いただけである。 「これは困った園芸作物をつくったものだ」 と心配しながら抜いていたら、四号線の長屋の爺さんが通りかかり、抜取要領を教えてくれて、午後から大いに能率もあがり、2日間で5反歩の抜取りを終わった。
 当時の主な作物は、裸麦・小麦・菜種・青豌豆・大手亡・それに亜麻が主体であった。


三、大吹雪の結婚

 私達の年代は兵役が徴兵制で男子は満20歳で徴兵検査をそして 「甲種合格」は現役兵として2ヶ年の兵役に服する義務があった。
 兵役の義務が終わってはじめて嫁を貰うのが通例で軍隊に行かない人達も大体その年に準じていたのである。
 私は現役2年に加えて更に1年半と概ね3年半の勤務で帰ったので一般の人より長いわけだ、それだけに色々嫁の話が持ち上がって来るが養父母の気に入った嫁の候補は中々なかったようだ。
 養親からどこの娘はどうかと聞かれたこともなかったのである。
 それを気にしていた先輩の小川清一郎さんは何かと陰になり日向になって心配下さっていたが、大正8年の秋になって、上芭露、青山鶴吉の2女(のう)を見合いの対象として引き合わせるべく話が持ち上がった。 勿論養親を通じてその話はあったが、息子も年だから嫁を貰ってという気持ちが全くないのである。 私は年としても何等早いわけでもなし、尊敬している、小川先輩の云われることだからお受けすべきだと思って上湧別村5中隊3区の松浦宅(松浦は小川清一郎の叔父)で見合いをしたのである。
 青山家は松浦の娘の縁付先になる。 その結果双方婚約を了解し、養親には残念乍ら賛成していただけなかったのだが、縁談は強引に進めていただくことにし、結婚式の日取りは12月11日と決定して事を運ぶことにしたのである。
 やがて結婚式の日も目前に吹雪が3日間続いてとても上芭露まで行けるような日ではないが、湧別方面は何とか馬橇も通れるということで婿入りのため前日本宮の馬を頼んで、小川、本宮、と私と3人がのり、猛吹雪の中を出かけたのである。 テイネーまで行ったら、あとは人馬の足跡もなく、ただ先も見えぬような猛烈な吹雪で馬も時々足を泊めるような状況である。
 難渋しながら馬橇は芭露9号線(ガンケ)まで行ったら、そこに5中隊3区の松浦清五郎が1人でカンジキをはいて、この吹雪の中を、上芭露青山に行く途中であった。 ここに小湊金吉の家があり立ち寄ったら、青山鶴吉(嫁の親)が来ており、この吹雪では婚礼の準備もできないので日取りをもばしてもらう可く出かけて来たとのことで、そこから馬を降りて、5人共徒歩で漸く青山宅へ着き、1日延ばして1泊して翌12日は青山家で婚礼の式を済ませた。
 通例であれば、青山家で立ち祝いの後、新郎宅で結婚式という段取りであるが、この吹雪の中ではそうしたことも省略せざるを得なかった。
 さてそのようなことで結婚は済ませて新婦共々友澤家に帰ったもののその後の養親の嫁に対する仕打ちの冷たさに私も少なからず心を傷める日々が続くことになるのである。
 自分の意に添わぬ嫁をもらったといって、毎日のごとく、小言を云うことに対して私もいささか業をにやしていた。
 「お前等に死に水はとって貰わぬ」 と云う養父母に対して、
 「ほんとうに腹からその気持ちですか」 と、確かめても養父も養母も同じだというには愕然とした。
 やむを得ず、島村先生、市山実蔵さん、本宮徳太郎さんの3氏を頼み、仲介をしていただいて、別居することに決めた。


四、別   居

 当時は5町歩の土地を2町歩を養親が耕作し、3町歩私達が耕作するということを決め、税金と交際費は一切私の方で負担するという内容での和解が成立したのであった。
 さて5月になって愈、蒔付けがはじまったら、約束もどこかえ破棄されて養親が3町歩、私達には2町歩作らせることに変更し、何と云っても聞いて貰えなかった。 別れに当たっては更に
 一、馬は一切使わせない。 (2頭いたが)
 二、農具も一切使わせない。(プラオ・ハロー等もあったが)
 三、収穫のための諸道具や筵も一切使わせない。
 等も追加条件となって、分けてくれたものは、夜具一組、食器二人分、食糧は秋まで食べる分として、裸麦5俵のみお金は1銭もくれなかった。
 これで税金と養親の諸経費一切を負担しなければならないとは、とても耐え得る話しではなかった。
 そこで山田さんの土地2町歩、小谷さんの土地1町歩借り合わせて5町歩を耕作することにして節約にこれ努めながら、夫婦力を併せて働いたのである。
 馬は友人藤本君から借りて蒔付けることができた。


五、養親の心

 川西では山口県人は友澤1戸のみであった。
 団体で入植したわけでもないし、同じ地域にいても近隣の人々との深いつきあいも少なかった。 私が来て学校に入り、青年団などで交流があって、これが部落との深い交りのはじめであったろう。 養親は家庭ではとにかくきびしく、終始和気に満ちた生活はとても望むべくもなかった。 だが人に頼まれたことは守って来たし、自ら人に嫌われる人でもなかったようだ。
 ただ一途に自らの仕事をコツコツとやって来たが、世事にうといお人好しであったようだ。 したがって他人の口車にのって時々失敗することもあったものの 「人様に迷惑をかけたこともなかったことは、神仏のお陰で皆さんから喜ばれている。 お前等も決して人に迷惑をかけないよう人を助けておけば何時かは自分にその報いが来る」 と言い聞かされた。 こうしたお人好しの養親が、私の不在中に、かまどを引っくりかえす程の借金を背負っていたとは、夢にも思わなかったのである。
 大正8年結婚後の状態については、前記の通りの別居で永い軍隊から帰って年寄りの養親にこれから楽をさせて上げれると張り切っているときに畑の大半は俺がつくるから息子には貸せないという、誠に情けない事態もとりあえずはあきらめていた或る日のこと、「友澤さんでは大きな借金あるらしい」 と噂をきいたと、友人から私の耳にはいったのである。


六、借財の重圧

 驚いて調べて見た、私にとっては青天の霹靂であった。
 内容は一つとしては、高知県人の森本何某の仲介によって、社名淵に8戸分の未開地を取得し、小作人を入居させたが相場にうとい養親は森本某の巧言にのせられて高い未墾地を買わされ、その代金を森本から借りて現在借財が3.500円あるというのだ。 これには流石の私も暫く絶句したままであった。
 そんなことを聞かされてから、世間の人々は養父の借財を私に持って来るようになった。
 ○ 軍隊不在中の酒代として4店から5百60円請求された。
 ○ 突然ある人から3年前に百50円貸したお金を支払ってほしいと申立てを受けた。
 ○ 連帯保証の借用証があるというので見せてもらったら、私の印が保証書に押してあり、証書は養親が書けないの     で部落の某氏の代筆であった。
 ○ 現在の所有地5町歩を担保として某氏から借りている金が700円あり、これは社名淵小作人が開拓するまでの食    料費として裸麦20石(50俵)を現物貸付したための借財である。
 これを総合して見ると
 一、小作地取得によるもの      3.500円也
 二、入隊中の酒代             560円也
 三、連帯保証による借財         150円也
 四、土地取得(小作人食料費)      700円也
     合  計              4.910円也
 これに3年余の利息を加えると凡そ6千円の借金が、私達夫婦に重くのしかかって来たのである。 (現在の金にして1億円位か?)
 借財が明るみに出てから養父母は今までの頑迷な処が幾分折れざるを得なかったようである。
 土地の分轄耕作についても、馬の使用についても、自分の勝手なことばかり云っておられない。 結局処理の段階で何の発言権もない姿で私のなすがままに委せざるを得なかった。


七、借財対策と苦闘20年

 大正9・10・11年3年程、私達の毎日は借金返済という大きな負担に、泣きながら、朝早くから夜暗くなるまで働き通した。 日常の生活費をきりつめ、購入先の店に話をつけて、最小限の品代にして年間借りることに協力ねがった。
 こうして予定の年賦の償還の実行に勤めたものの、5町歩の土地から獲れる収入にはそれぞれ限度があったので反別の増加を図り収入を増して借金返済を一年でも早く終わらそうと相談した。
 その結果、伊藤代助氏の仲介で我が家に程近い道路向かいの1戸分(5町歩)を売りたいという人が居るという話しがあった。
 借金に追われている最中にとても新たに取得などと思いながらも、妻の父(上芭露 青山)に話をしたところ、上芭露は薄荷景気で反200円以上の収入があるところだから、川西のよい土地で雑穀が50円位では話にならぬと買う気が更にない。
 それでも借金の整理を1日も早く終わらせるにはどうしても土地がほしい旨を養父に話して、私のシベリア出兵の一時金である軍事公債を積んであったのが利子を含めて600円を下し、不足分1.800円は青山に養父から借りて2.400円で取得することができた。
 それから全部の借財を完済するまでも私達の生活は、誠に口には云いあらわせない苦労の連続であった。
 地力に勝る川西の農業は、他の土地とは異なり、何を耕作しても相当の収量があったが、冷害凶作の年もたまにあって苦労を重ねた。
 大正10年から以降、男3人、女4人の子宝に恵まれたものの、10人の生活をかかえての、大きな借財の返済には固い意志と不屈の労力が必要であった。 石にかじりついてもなしとげるという意気込みで、子供達にも充分なこともできないまま、毎年毎年が戦争のような思い出が残る。
 この姿を見てさしもの養父母も、その気持ちが一変して私等が悪かったと申し、これからお前達に全権を委ねるからと云ってくれたので勇気百倍大いに努力を重ねて来たのであった。


第6節 曙  光 一、念願の完済

 昭和13年に、厖大な借財も19年かかってようやく整理がついた。
そしてその年の暮れには、店等もきれいに支払い2.000円の余剰も生じこれは預金したが、これも養父母の厳格なる指導のもとに健康でしかも、家庭も円満となり、信望の仕甲斐があったと、暮れには一同揃って神仏にお供物を上げて、ご先祖様のお陰と感謝して、年越しを済ませた。
 昭和11年2月9日、永年川西の開拓に従事して苦労をされた養母が永眠(享年80歳)されたが厳しかったといいながら、私達をよく導いて下さったことに対し感謝をしたのである。
 結局は第二次世界大戦に突入の兆も見え始め、それから数年間は、日支事変から大東亜戦争更に太平洋戦争と、我が国はじまって以来の非常時に突入することになる。


二、家の焼失と養父の死

 借金を完済した喜びも束の間、昭和14年7月6日夜、養父がカンテラを倒し、またたく間に火は襖に燃え移り、拡がって、丸焼けになってしまった。
 運の悪いときには致し方ないもので、折りからの暴風雨であった。
 豪雨のために湧別橋は洪水のため流失しており、消防自動車は渡れず、区の人々や消防手も駆けつけていただいたものの手の施しようもなく、見る見る中に、母屋(46坪)、離家(12.5坪)、厩(28坪)の3棟が灰燼となったのである。
 夜は土砂降りで、夜が明けてようやく止んだが養父と勝、初枝、重利の4人はお隣の黒田さん宅に避難させ、大変お世話になった。 幸い人畜に被害がなく、不幸中の幸いであった。
 私は夜が明けてから火事の原因調書を作製するから、警察分署(湧別)に出頭せよと連絡があったので警察へ行き調書の作製を終わり部長が親切に 「友人が道庁の建築課に居るから、農家にふさわしい設計をしてもらってやる」 と云って下さった。 色々と話しをしている中に、昼になったので帰ろうとした処本間義路君が来てくれて、
 「お爺ちゃんの容態が変わった」 とのことで大急ぎで帰ったが、死に目に会えず、黒田さんで死亡(享年87歳)太田医師の診断では心臓麻痺で息を引き取ったとのことで、川西の方々には、火災のあとかたづけ、養父の葬儀等大変なお世話になったことは忘れられない。
 吹貫小屋(現在の裏の小屋)21坪が焼け残ったので小屋の中に 「佛」を安置して、燕麦桿を敷きならべその上にむしろや畳を敷いて告別式を執行し、橋が通れないので中湧別5の3区川西の渡船に渡してもらって葬儀を終了したのであった。


三、家屋再興へ

 市男は高等2年、千代子、徳子は卒業して働いており、後4人は小学校に通学、皆が心を合せよく働き再興に専念してくれた。
 金は2千円の預金があるのみだが家を建築するのに相当の金がかかる。 私は借金にはコリゴリしているので適当な古家を探したが、思わしい家は見つからず、厩舎で3年暮らした。
 幸いにも昭和16年8月、志撫子の奥に居る岡田さんが内地に引越すので、「建築してまだあまり年数が経っていない良い家だからどうか」 と志撫子の多田さんから聞いて早速訪問して離した結果同情してくれ、総坪数38坪5合、畳、建具全部付けて2.000円で売買成立翌17年5月建前9月15日、湧別神社祭の日完成引越してやっと3年余にして気楽に足を延ばして起居できるようになったのである。


四、むすび

 私の生涯を語ればまだまだ長い、だが真剣な生活との戦いの記録といえば以上の事が主体であろう。 その中で特殊なことは 「養子という立場での複雑なからみ合いの中での川西の全般的な姿が見ていただければ幸いである。
 過去をふり返って見て私はやはり川西に住んだことに対して何等悔いはない。 かえって、川西を中心にした地域の結びつきから 「湧別村」に対する愛郷心が生まれ、公共に奉仕することの大切さ、喜びも、悲しみも苦しみも、今になって見れば、大きな満足感が残るのである。
 此の主機はあくまでも私の歩んだ一時期について述べたものであるが、その中に世の中の様々なことが捉えられ何等かの意義がある。 親戚といいながら、ふとした出会いが南の温暖な故郷をあとに、北海の開拓地にまで来て、家族の暖か味のない中で成人したが、養父母もやはり世間からお人好しといわれる通り、養子の私に対してもやはり一面では息抜きのできる人だったと思う。
 だから当時として勉強するのに石油が惜しいといい乍らも、夜学に通わせたり、剣道を習わせたり、青年としての資質をのばす面には特別強い制約はなかったと思う。
 兵隊から帰ったときに養親はもはや60歳に近く一人前の濃厚は無理な年であった。
 以降の借金整理については、私達夫婦で力を併せて一生の中で最も大きなエネルギーを費やした20年であったが、これも川西という地味豊かな土地であったればこそ大きな借財も返納することが出来たのである。
 水田でも耕作していたら、恐らく冷害の下で生活が破滅していたであろう。 ここにすべてを精算して、あとは子供の成長を見守りながら多くの公職を得て世間の皆々様に御恩返しができたことを幸せに思わずには居られない。

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