上芭露開基百年 | 郷土のあゆみ | 第3章 教 育 |
第4章 産 業 |
教 育 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、学校教育の変遷 | 上芭露地区に小学校が設置され、その後高等科の併置、更に戦時中国民学校となり、戦後の民主的教育の中で、小学校・中学校と変わってきた。 経過については84年の「郷土のあゆみ」に詳しく述べられており、又、中学校、小学校の統合についても記載されている通りであるが、そうなった時代背景と住民がどの様に対応したかについて振り返ってみた。 |
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二、学校の整備と統廃合 | 昭和4年までの新制中学校施設整備事業に続いて、同25年から学校施設整備計画が実施されたが、湧別町は当時小学校12校、中学校9校(うち小学校との併置校8校)をかかえており、校舎施設、教材、体育施設などの整備充実は経済復興途上にある町村にとって容易でない現実の連続であった。 しかも戦前からの老巧校舎、戦後の資材不足の時に建てられた劣悪校舎などの支障が表面化し、新学制発足10年して早くも教育施設の抜本的改革が迫られていた。 また一方では人口の動きに黙視できない兆候があらわれてきていた。 経済復興と共に産業構造が著しく変化して、第2〜3次産業の進展に伴って、農村人口の都会への流出が始まった。 特に劣悪な地帯に入植した、戦後開拓者の離農が始まり、戦後のベビーブームもおさまり、出生率の低下は人口分布と学校配置の間にアンバランスを来すことが予想される様になった。 以上の2点から町では昭和32年に「教育施設整備5ヶ年計画」うぃ立て、その方途について議会でも審査がされた。 その結果、財政と施設の関係だけでなく、中学校の教科担任の問題、生徒の減少によるクラブ活動の問題など、予想される教育環境、教育効果などを考慮して湧別町の教育体系を抜本的に見直す論議が出始めた。 昭和33年に本町の地理的条件等を考慮して中学校を2校とする案が浮上し、「中学校統合計画」案が承認される事になった。 しかし、学校の統合問題は地区住民の学校に対する限りない愛着の情と相反するもので容易に行くものではなかった。 ところが農村の実態は全国的な高度経済成長とそれに伴う農業構造の変革の波は否応なくこの小さい地域にも押し寄せ、離農に一層の拍車がかかった。 ちなみに本町では、小学校のピークが昭和33年(2.362名)、中学校は昭和38年(1.124名)で小中合計では昭和35年(3.229名)がピークであったものが、10年後の昭和45年には(1.414名)となって半数にも達せず、実に56%の減少を示している。 |
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三、湖陵中学校の誕生 | 戦後教育の中で6・3・3制いわゆる小学校6年、中学校3年、高校は義務教育ではないが、3年の制度は現在まで続いているが、昭和30年代に於いて中学校は湧別町に10校あり、湧別中学校を除いては総て小学校との併置であり、小規模校に於いては中学校が1〜2学級の学校もあって教科担任を主体とする中等教育には沿わない実態があった。 又、芭露中学校では4〜5学級の年度もあって併置校から中学校単独校の設置が強く要望される一面もあった。 湧別方面に於いては昭和36年信部内、37年登栄床の2中学校が湧別に統合し、町2校の一方は目的が達せられたが、芭露方面は容易ではなかったが昭和38年志撫子中学校が湖陵中学校に、計呂地も39年に統合して湖陵中学校は統合校としての歩みを始めた。 上・東・西の3中学校の統合は地区住民との話し合いに時間がかかり合意を得られないでいたが、東芭露が昭和41年に上芭露を飛び越えて一足先に統合した。 湧別町百年史では異変と表現しているが、後年小学校の統合に於いても東芭露は昭和52年に上芭露を通り越して15年も早く統合した。 その事は、その当時住民感情を大きく阻害した一面を持ち、時代の流れとは言え頭越し統合という既成事実を以て後の統合を有利に運ぼうとした為政者の意図や隣接する自治会の感情や、考慮を全く無視して一方的に統合した東芭露に当時大きな批判が上芭露地区内になった事は当然と言えよう。 湖陵中学校の発足については前述の様な経過で発足したが、上芭露では絶対反対をする風気が強く「ムシロ旗」を立てての反対運動もあった。 然し昭和44年に至って、小学校との併置校であり、小規模校では十分な中等教育を行う事は出来ない等が考慮され西芭露と共に湖陵中学校に統合することが決定された。 その時点でも上芭露は丁寧以東の小学校を1校とする事に強く反発する決議が行われ、平成3年迄の約23年間もの間、上芭露小学校が存置されていた事を付記しておかなければならない。 |
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四、湖陵中学校 | この様にして湖陵中学校に昭和44年から通学する事になったが、ここでは、平成3年以降の卒業生(上芭露出身者)の状況や湖陵中学校の教育がどの様に行われているかを簡単に記録に残して置きたいと思う。 1,平成3年以降の学校長及び勤務年度
個人情報の保護のため記載を除外する。 |
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五、湖陵中学校の沿革 |
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六、小学校の変遷と統合まで | 上芭露に小学校が設置されたのは明治41年1月27日であり、その年を部落の開基と定めたのは、昭和32年に開基開校50周年の時である。 明治41年の5月には13号に校舎(36.5坪)を新築して校名を上芭露教育所と改称し、児童生徒の教育が行われる様になった。 それから8年目の大正5年に早くも16号の高台に学校が移転した経過については資料が残っていないが、芭露の沢は薄荷の耕作に適していた事から急速に入植者が入り、大正2年には東芭露、西芭露に分教所が設置される様になり、上芭露も東の沢と西の沢の分岐点である16号が急速に市街地としての形ができ、又部落の中心地であった為であろう。 高台が校舎敷地として選定されたのは、低い土地は水害の恐れがあり、又内地府県でも学校は割合に高い所が多かった為ではなかろうか。 この場所は土地が重粘土の為、グランドは水はけがが悪く飲料水も良い水の出る場所はなく校舎適地とは言えなかったが、昭和25年町が学校施設整備計画を立て、上芭露には昭和25年に屋内体育館が建築されたばかりであったが、校舎は老巧校舎で新築しなければならない状況であった。 昭和26年に十勝沖地震が発生し、その為校舎は大きく傾いた。 本当はそれ程でもなかったのかも知れないが、町では直ちに危険校舎の認定を受け災害による補助を受けて翌年新校舎を完成させる事が出来た。 この新校舎はブロック造りでその当時は珍しく、他の町村から見学に来ることもあった。 しかし、現在の工法からみれば粗悪な建物であった。 それは、戦後わずか7年後の事で建築技術、資材不足等の面から止むを得ない事であったのかも知れない。 その頃の学校の状況は次の通りである。
その時でも上芭露は小学校を芭露小学校と統合する事を強く反対する事を区内で議決していた。 然し、離農の傾向は予想以上に進み、上芭露市街地の人の中にも他町村に出る者が多くなり、急速に小規模校になっていった。 その経過を卒業生の数で見てみよう。
しかし時代の波は全国的に過疎化と云われる現象を起こし、特に山間地帯の農村は激しく翻弄されてしまった。 町が小学校の計画を立案してから20年以上にわたって小学校を守ってきた当地区も平成3年にPTAが統合を決議し、自治会もこれにならわざるを得なかった。 正に「郷土のあゆみ」にも記されている様に断腸の思いであった。 今、百年を迎えるに当たってこの事を振り返ればm栄枯盛衰は正に世の習いであり、時代に変化に抗すべき何者も持たなかったと思う。 |
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七、芭露小学校へ | 上芭露小学校が平成3年3月を以て廃校となり、上芭露自治会内の子ども達は4月1日より芭露小学校に通学する事となった。 一種の寂蓼感と表現出来ない諸々の思いは交錯していても時間は一時も待っていてはくれない。 父兄は複雑な思いをかかえながらスクールバスに子ども達を乗せてやった。 平成3年から早くも15年が過ぎて行った。 その間の事柄を記載し、どの様な小学校教育を受けているか簡単におってみる事とした。 1,芭露小学校の概要 本校の歩みは、明治35年、馬老簡易教育所を創設、明治41年の芭露小学校の独立に始まる。 昭和52年に東芭露小学校を統合、昭和55年志撫子小学校の統合を機に新設芭露小学校となり、同年11月18日、新校舎完成落成祝賀会が行われた。 昭和62年計呂地小学校、平成2年西芭露小学校、平成3年上芭露小学校と順次統合し、現在に至っている。 創立103年間で2.690名の児童が巣立っている。 本校の所在する芭露市街は、湧別市街より12kmに位置し「国定公園サロマ湖」に面して風光明媚な環境にある。 父兄の職業は、農業、漁業、団体職員、会社員、公務員など、多種多様である。 中でも酪農、養殖漁業は本町の基幹産業である。 保護者や地域の人たちの教育に対する関心は高く、学校環境の整備や学校行事への参加協力、PTAの専門部の活動は活発で、相互の親睦や研修行事等についても意欲的に参加が見られる。 2,芭露小学校歴代校長(平成3年以降)
3,芭露小学校の教育 「めあてを持ち、学び続ける子」 重点=学力をつけ、心を耕すこと ◆進んで学び、正しく判断し、実践する子 ◎まなびつづける子<知> 「指導方法の工夫」 「興味関心の持てる教材の開発」を中心に研究を進めていきます。 ・主体的に学習できる子どもを育てます。 (個人目標の設定、家庭学習の指導) ・基礎基本を大切にし、1人1人に確かな学力を身につけさせます。 ・2学期制の利点を生かし、学び方を身につけさせます。 ◎やさいい子<情> 日常生活の中から、協力し団結する心、感謝する心を育てます。 ・学級やにれっ子班活動を通して、協力し、助け合う子ども達を育てます。 ・自ら考えさせる題材を提示し、心を耕す指導を行います。 ◎ねばりつよい子<意> 夢と希望を持たせ、目標に向かって、ねばり強く努力する指導を行います。 ・にれっ子マラソン、なわとびチャンピオン大会を通して、がんばる姿勢を育てます。 ・大きな目標に向かっての小さな目標を設定し、スモールステップごとに取り組み、 振り返りができるような指導を行います。 ◎げんきな子<体> 環境や季節にあった運動を通して、体力と技術の向上に努めます。 ・中休み、放課後の運動を通して、日常の体力づくりを行います。 ・食事とバランス、安全について考えさせ、健康な体を育てます。 4,上芭露出身卒業生 個人情報保護のため省略します。 |
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topへ | 一、農地取得の状況 | 開拓以来農地はその時代を羽石ながら激しく移り変わって来た。北海道は内地府県の様に先祖から受け継いだ農地はどんな事があっても守り通して子孫に引渡して行かなければならないという義務観念は少ない。 従って戦後自作農創設法によって総ての農家が自作農になったが、農家がどんな経過をたどったのだろうか。 国によって自作地を与えられながら、経営を見れば明らかである。 やがて経営を上手にできる人は上手に出来る様になり、農家はその階層を大きく分化して来た。 現状に於ける状況は農業が幾世代にも続いて行く考え方を持てなくなっているのかも知れない。 ◎年代別入植農家戸数 明治41年 38戸 大正3年 72戸 昭和13年 107戸 昭和22年 113戸 昭和52年 47戸 平成3年 37戸 平成17年 15戸(農業経営者のみ) これに見られる様に、開拓当初約40戸を数えた農家が5・6年の間に倍増し、上芭露のほぼ全域に入植したのは薄荷栽培の適地であったからであろう。 昭和13年頃100戸を越え、昭和22年頃上芭露は戦後開拓の適地がなく新規入植者はなかったが、農家戸数はこの頃最多になっていた。 土地所有者の状況は、国有地の払い下げを受け自作農で出発したものの、冷害凶作や病気になる者、又入植地の条件が悪い等で資金不足になり、資金の借入等によって小作になる者も多く、農地はかなり激しく所有者が変わっている。 湧別町史によると大正年間の冷害や不況によって村内の約半数が小作であったと言われている。 こうした小作を解消する為、村に於いても戦後の農地改革になる前、上芭露西3線から7線迄の間、約145町歩を22戸の農家に昭和17年に売渡している。 戦後「自作農創設特別措置法」が昭和21年12月に施行された。 これは日本の農業は府県はもとより、北海道に於いても不耕作地主が多く高い小作料は農家の経営を圧迫し、小作制度そのものが農民を奴隷化しているという批判が戦前からあり、敗戦によって日本に入ってきた進駐軍の意向が強く作用した結果である。 この法律の施行により、小作地は総て国に買上げられ、耕作者に配分される事になり、この実施機関として農地委員会が設けられ、昭和21年12月22日の選挙で村では小作層5名、地主層3名、自作層2名が選出され、上芭露からは小作層から吉田、吉氏、地主層から横山吉太郎氏が選出され、農地の買収・売渡しの業務が行われた。 その後昭和26年に農地委員会は解消して農業委員会となった。 昭和28年頃最多となった農家戸数もその後減少の傾向になり、離農者が出ると土地の配分には、その地域の農業委員、農協の役員が当っていた。 昭和30年代から50年代迄は離農者が出ると配分を希望する者が多く出てのうぎょういいんはこの話合いに苦労する時代でもあった。 マタ、区には農家の規模拡大と農業経営者の若返りを目ざして農業者年金制度と農地を取得したい農家に、農地取得資金制度を設けた。 農業者年金制度は、自作地を他の農業者に買渡、若しくは貸付けした場合、マタ自分の後継者に農地を生前贈与し、経営権を委譲した場合、年金を70歳になるともらえる制度で、農地の移動は大きく促進された。 又農地を購入したいが資金の足りない農家に対し低利率の農地取得資金が貸付けされた事もこの地方の農家が一定の規模拡大を可能にする事が出来た原因の一つである。 然し平成年間に入ると、農家は後継者の問題や健康上の理由、年齢等の事があって、農地取得の傾向は急速に変わり、借入はしても購入はしないという状況に大きく変わってしまった。 この事は国が食糧自給率の向上、又北海道は食糧基地にしての重要性を声高に言ってはいるが、今一つ具体的な政策を打ち出していない事に大きな責任があるだろう。 農地は所有しても貸付している戸数が10数戸あり、実際に耕作している農家とほぼ同数になている現況は時代の移り変わりとは言え確かな見通しを持たない不自然な状況になっている。 |
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二、薄荷の開祖 | 渡辺 精司氏 かって北見の農業にとって一時代を画した、薄荷生産、特に芭露の沢は北見管内の4分の1に達していたと言われ、その経過については「郷土のあゆみ」に詳しく述べられている。 ここではその薄荷を北見方面に持ってきた「薄荷の開祖」と言われている、渡辺精司氏についてふれてみようと思う。 精司氏は、福島県会津若松城の東方小田垣の郊外で、その頃薬種卸商人であった渡辺清三郎の長男として、文久3年(1863年)に生まれている。 少年の頃、横浜の薬種商「小林商店」に奉公し、この時に薄荷の製油方法についての知識を得ていたものとおもわれる。 その後、明治15年4月北海道開拓の志を以て、その視察のため函館から陸路江差〜寿都、小樽に着き7月には帰郷している。 明治19年8月になって一家を挙げて札幌に移住し、「網」を創る会社の亜麻の買付に従事して150円の利益を得た。 これを資金として、同県人を頼って礼文島、香深村に転住し、ここで雑貨商を経営し、5年間で約1.500円の利益を得たと言われている。 渡辺は、かねてから念願の農業経営に着手する為、上野徳三郎等と明治26年8月から約1ヶ月間、宗谷、網走地方の山野を踏破し未開の農業適地を調査した。 この時、紋別から湧別村に向かう途中、藻別の湖畔で野生の薄荷が雑草の中に自生しているのを発見した。 薄荷に知識のあった渡辺は、近くに住むアイヌに刈り取らせた乾燥薄荷6〜7kgを得る事ができた。 その後の湧別方面の調査で、湧別原野は肥沃な土地で農耕に有望であることを確かめ薄荷栽培を中心とした農業経営をこの地に拓くことを決意し、早速この年、道庁に20万余坪(約66ヘクタール)の未開地を払い下げるべく願い出たが、この時期は区画選定中のため認められなかった。 明治26年12月、福島県に母を迎えに帰郷の折、先の乾燥薄荷を横浜の小林商店に持参し採油した結果、約4kgの薄荷から13・5gの製油を得ることができた。 これによって益々湧別原野に於ける薄荷の栽培が将来有望な作物である事を確信した。 明治27年3月、渡辺は薄荷の栽培をしていた山形に赴き若干の種根を入手、礼文島に戻り上野など仲間47名と札文団体を組織して、湧別村殖民地に47戸分(約233ヘクタール)の貸付けを受けて移住した渡辺は西1線7番地に入地した。 山形で入手した苗は枯死してしまったので渡辺は種根を入手するため、道庁に道内栽培者の紹介を依頼し、札幌農学校、鈴木武良教授から上川郡永山村で栽培している事を知らされ、直ちに永山村に赴き、植松戸長の斡旋で、山形県から永山屯田に入植していた石山伝右ェ門から種根6貫目を譲り受け、中央道路を駄送して持ち帰り開墾に植え付けしたのが明治29年5月下旬であったという。 これが北見の薄荷栽培の起源である。 渡辺は簡易な蒸留器で製油し薄荷栽培の自信を深め、四号線に居住していた高橋長四郎や他の人々にも薄荷の根を分け近隣に広がりをみせていった。 特に高橋は「薄荷の高橋」と言われる程、専門的な技術を持った耕作者になていった。 渡辺は次第に薄荷が普及するのを見て、小林時代の知識を生かして小樽から亜鉛板、鋼板を取り寄せブリキ職人を入れて薄荷製造器の製作販売もしている。 明治30年は冷害、31年は水害で凶作の年であったが、薄荷は凶作にも強い事が照明され、学田農場の信太寿之監督の心を動かし、学田農場では積極的に増反を奨励し、明治33年以降急速に栽培が広がっていった。 この様にして湧別更に学田が種の供給基地の様になり、上芭露地区の開拓にも重要な販売作物として植えられ、特に上芭露を中心として東西を含む芭露の沢は薄荷の栽培に適していた事から急速に増友され、地域発展の原動力になった。 渡辺精司氏のこうした努力の跡をみると氏は農業経営よりも豊かな商才を持ち、その先見性と行動力には感服の外はない。 氏が上芭露の初代の郵便局長になられた経過は判らないが、当時、地域の有力者又は資産家を登用して制度の安定を図ろうとした政府の方針に沿ったものであったと考えられる。 今、上芭露が開基百年を迎える時、薄荷の耕作はなくなったとは言え、その足跡は不滅のものとして永く語り継がれなければならない。 ■ 湧別村(ハッカ耕作の収支) 昭和36年殖民広報による ◎ 収入 取卸油 30円 平均3組(1組10円) 1反当 計 30円00 ◎ 支出
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三、庶民金融 | 社会が発展していく過程の中で金融はどの様に行われていたのだろうか。 現在の様に信用組合、農協、漁協、等が信用事業を幅広く取り扱う様になる以前は、講、無尽、等が各地で行われており、上芭露に於いては戦後になっても、市街地を中心にして行われていた。 然し、それ等の資料はなくし記憶している人も殆どいなくなっている。 以下、記載する講は東方面に於いて行われていた講の内容を示すもので、第6条にある年利1割5分は現在の我々の感覚からすれば驚きである。 だが此の時代に於いても更に高利の貸金を業とする者もおり、こうした講、無尽が広く社会の互助的な意味を持つ金融組合の一種であったのであろう。 積立金組合規約
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四、歴代農協役員・農業委員 (平成2年以降) |
農協理事 上田 定幸 昭和58年〜平成9年 黒田 正晃 昭和61年〜平成9年 遠藤 義見 平成10年〜現在 農協監事 長谷川 隆 昭和61年〜平成3年 上田 一義 平成4年〜平成14年 上田 範幸 平成15年〜現在 |
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五、農業委員 (平成2年以降) |
農業委員 中川 藤男 平成2年〜平成8年 平成15年〜現在 遠藤 義見 平成8年〜現在 |
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六、農事組合の推移 | ◎ 農事組合(農事実行組合) @ 農事(実行)組合の結成 湧別町に農事実行組合が誕生したのは、大正15年5月に北海道庁令で「農事実行組合設立奨励規程」が公布され、積極的に組織化が指導されてからのことで、翌昭和2年に川西地区に下湧別第1農事実行組合が結成されたのが最初であると、湧別町史に記されている。 芭露方面には、昭和4年1月上芭露共栄農事実行組合が結成され、前後して上芭露農事実行組合も組織された。 昭和5年7月には芭露第1農事実行組合が結成され、精米用発動機と籾摺機を購入して共同利用を開始し、昭和6年には西芭露第1農事実行組合、西芭露農事実行組合の結成と普及していく。 昭和8年以降、経済恐慌で行き詰まった農村振興策として「自力更生」を合言葉にした「経済更正運動」が展開され、産業組合拡充計画が実施されて、農事実行組合は産業組合における、事業展開の基礎組織として重要な役割を担っていた。 また、昭和4年に設立された香明治射場共栄農事実行組合の苦役には、次の実行項目(抜粋)が掲げられている。 一、毎朝3時起床すること。 但し9,10,11,12月各月は4時、 1,2,3,4月は5時 二、堆肥反当100貫以上を生産すること 三、夏作蒔付は5月中旬頃終了すること 四、除草は品種により3回以上行ふこと 五、秋耕は全地行ふこと 六、集合時間厳守すること 無届欠席は過怠金1円を徴収する (筆者の小高い丘の上には板木があった。 この板木をたたいて起床の合図とした) A 組織の任務 その後も地域的に農事実行組合の結成が増加をし、日華事変、太平洋戦争とたどる戦時下にあっては、時局作物増産と物資統制という国策によって、行政機関や農会、産業組合、農業会の末端機関として、生産割当と供出の消化、生産資材や生活物資の配分、行政の伝達、諸調査など重要な任務を果たした。 こうした組織も戦争終結とともにGHQの司令で農業会が解体され、昭和23年3月には一応の終止符をうったが、農業協同組合が設立されるにおよんで、呼称も「農事組合」と改めて再生した。 農協設立当時の昭和23年には、44農事組合が組織された。 農事組合の活動は農協の下部組織として、農協と組合員個々の間に介在し、組合員の意志の集約、農協事業の推進、諸報告、連絡事項の通達に重点がおかれ、また、設立が任意制であったことから大小まちまちで、2〜3人で構成するものもあった。 10年後の昭和33年には開拓による入植者の増加により48農事組合と最高を数えるに到る。 B 組織の変遷 (芭露農協) 昭和30年代後半より、高度経済成長政策と農畜産物の自由化など農業環境の変化にともない、離農による過疎化現象や交通事情の変転により、合理的な統合が進行して、昭和43年には30農事組合に減少し、53年には25組合、平成2年では22農事組合に減少した。 C 上芭露地区農事組合の変遷
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七、農協の合併 | 湧別町農業は、酪農、畑作地帯としてその基盤確立に向けて取り組んで来た経過があるが、日本経済のグローバル化に相まって、各種自由化等が進展する中で、産地間競争の激化、農畜産物価格等の低迷、加えて農業者の高齢化、後継者不足農地流動化の停滞、規模拡大に伴う設備投資の償還圧増加など、厳しさを増す農業情勢の中、組合員農家は懸命の努力を続けている。 一方、JAも組合員農家の減少に伴う各事業の総体的な停滞に加え、平成14年パイオフ解禁に伴い、農協金融システムの確立のための抜本的整備が進められているところであり、財務面、経営管理面等に於いて現状より更に高いハードルが課せられた状況にある。 このような状況の中において、経営改善を進めていた湧別町畜産農協が、昨年自立再建を断念し、湧別、芭露JAに吸収合併の申し入れをしたことに伴い、町内JA合併検討委員会が設立され、町内JA合併について検討を進めてきた。 湧別町畜産農協の欠損金処理に万全を期す事を前提に推進委員会へ切り替わり今日まで鋭意推進合併を推進してきた処である。 今回、現在の農業、農家、農村社会がかかえる諸問題と目まぐるしく変化する環境並びに今後予測される社会・経済の質的、構造的環境の変化に対応して行く必要を認識し、次のことを基本に新JAを設立し、所期の目的を達成しようとするものである。 ・組合員経済の向上と地域農業の確立 ・JA組織基盤の強化とJA機能の確立 ・次世代のための人づくり、組織づくり、地域づくりの実現 JA事業合理化、効率化による労働生産性向上と組合員負担の軽減、また今後この合併を契機にさらなる飛躍のためJAが将来にわたり組合員と生活を防衛する真の砦となるために広域合併を目指すものとする。 |
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八、新JAの農業振興方策 | ○ 基本方針 1,湧別の現状 今日までは、湧別地区と芭露地域に分かれ、それぞれの地域特性を生かし、農業の発展を目指してきた。 その中で、中規模酪農経営を中心とし、酪農と畑作が有機的に結びついた農業経営をすすめてきた。 また3JAが並立する中においても、麦生産組合、酪農ヘルパー事業、乳牛検定事業は、町内一地域としてJAの枠を越え、効率的な運営が行われてきた。 畜産環境整備事業においても、同一歩調で整備が進められ、一定の成果があげられている。 2,農業振興の基本的考え方 酪農を立体とした、酪畑混合農業地帯の現状を踏まえ、持続的農業の発展を図ることを基本とする。 当地域ではコントラ組織、酪農ヘルパー組織等の地域支援組織と有機的に結びついて家族経営が現状において主流であり、今後もこれ等を基本とするが、法人経営成立の条件等も視野に入れ、均衡のとれた地域農業を目指す。 ○ 基本目標 1,JA取扱高65億円を目標とする。 2,安全・安心・安定した良質な農畜産物の生産と供給ができる産地づくりにつとめる。 3,農業・農村の振興を計ることを通じて、価値ある食糧の生産に努め食生活や地域産業の活性化に貢献する。 4,農業者の創意と工夫を生かし、地域活性化を計る。 ○ 重点方策 1,農業振興対策 ア 酪農経営 ・良質な飼料の確保・適正な飼料管理・乳質改善 ・糞尿処理施設の一層の改善と効率的な利用 イ 畑作経営 ・輪作体系の確立・計画的な堆きゅう肥の投入 ウ 肉牛経営 ・事故率の軽減・計画的な出荷体制の確立 2,農業基盤整備対策 ア 農地の流動化、集約対策、農地斡旋時における農地集約化。 農地の遊休化を阻止するため、農地活用と粗飼料生産を目的とする農業生産法人を新設し 農地の有効利用を図る。 イ 土づくり対策 地区毎に既存計画に基づき、暗渠・明渠整備等のほ場整備を推進する。 ウ 農業経営者育成対策 農業者自らが「青色申告」が出来るよう、研究会を通じて援助する。 農業者の財務管理(資産と借入金等)と営農技術管理能力を高める。 3,ゆとりある生活と自然と調和した農村の確立 酪農ヘルパーの計画的利用による休日の確保。 農村環境の整備(景観林の整備促進)。 都市住民との交流を通じて農村の豊かさをPRする。 (仮称情報発信農場認定制度の検討) |
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九、コントラ事業 | (地域畜産活性化総合対策事業) ◎作業受委託事業の概要 1,事業の目的 芭露地域の基幹産業は農業である。 酪農と畑作を基幹作物として一部肉牛を取り入れた経営が行われてきたが、近年消費者のニーズの多様化、農畜産物価格の低迷により一段と厳しい状況となっている。 酪農では、年間を通じた労働力強化となってきており飼料給与体系の改善、飼料作物収穫管理作業等を委託して労働強化を解消しなければ若者の農業への定着化が益々厳しさを増し、農業、農村の脆弱化が懸念される。 また、労働を緩和するため機会の導入も多くなり低コスト生産とは逆行していることから、これらの対策として作業受委託事業を導入して、労働の緩和と機械経費削減を図り若者が夢と希望の持てる農業を創造する。 2,事業の必要性 @ 芭露では、酪農と畑作に一部肉牛を取り入れた経営が行われているが、酪農では平成3年4月からの牛肉輸入自由化に伴い、牡犢を始め個体価格の低迷により所得は大巾に減少した。 この所得減をカバーするため乳牛頭数を増加して、かろうじて所得減をカバーしてきたが、それが結果として大きな労働強化へとつながってきている。 経営、経済の良否にかかわらず労働軽減を図るため、新たな機械導入をせざるを得ない状況下に追いつめられた経営体も現れ出してきており、この悪循環のイタチゴッコを断ち切り 「ゆとり」 ある農業経営を定着するため、飼料作物栽培管理作業等を委託する作業受委託事業が急務となってきている。 A 酪農家の労働時間は、北海道立十勝農業試験場で調査した結果では、経営牛1頭当たり(育成分は経産牛に加算)飼育管理で118時間、飼料作物栽培管理で15〜17・6時間を費やしている。 現在1戸当たりの経産牛は52頭程度であり、家族の総労働時間は7.000時間にも及び、1経営体の労働可能者数から算出すると、1人当たり年間労働時間は3.000時間以上となっている。 この事業導入を期に飼料作物貯蔵施設の整備を行い、飼養管理時間の短縮、飼料作物栽培管理作業を委託して、経産牛1頭当たり100時間まで合理化を進め、1人当の年間労働時間を当面2.500時間程度まで短縮して 「ゆとり」 の創出を図り経営の安定と、若者が魅力の持てる農業・農村を創造する必要がある。 B 各酪農家に、作業受委託事業に対しどのような考えを持っているかを調査した結果、早急に必要である農家は28戸(33.3%)、2〜3年以内に希望する農家が20戸(23.3%)、様子を見ながら早い機会にという農家が12戸(14.3%)あり、従来通り共同又は個人でやりたいとの意向を持つ人が24戸(内、近年中に縮小又はやめる酪農家が12戸)あるが全体の方向としては、この労働強化をいくらかでも軽減しようとしている人が多くなっており、これらの実情を充分ふまえ、3ヶ年計画で、酪農家の希望に負託した事業展開を実践しなければならない。 3,機械導入による事業効果 @ 現 状 現在1〜5名単位の個人及び集団で所有のハーベスターにより収穫作業を行っている。 1,牧草については、乾燥調製をしているが、ここ数年間収穫期に天候不順が続き良質乾燥調製が困難となっている。 2,サイレージ用とうもろこしも、適期が短く現在の労働力では、飼養管理に時間が掛り適期収穫が困難である。 3,年々多頭化飼育を進める中で、粗飼料面積も増加し経営者の高齢化が進み、個人又は集団だけでの労働力では、飼養管理に時間がとられる為、農業機械の効率的作業体系が組織化出来ない。 A改善される点 1,コントラクターを活用することにより、経営コストの低減を図る。 2,良質粗飼料の増産と労働の軽減を図る。 3,サイレージ調製により、良質獅子猟の給与を行い、乳牛の飼料効果を高める。 |
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十、スイトコーン耕作組合 | 昭和58年、230町歩の作付があったが、60年より内外諸情勢により耕作面積も最盛期の22%と減反となり、今年度から作付けの主であったジュビリーがなくなり、新種もピーターコーン、ハニー系となり、小麦の作付けが増加した為、スイトコーンは麦作の前作物として反別を保持している。 ○スイトコーン作付戸数・面積・生産量(平成3年〜17年)
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十一、芭露川 | 芭露川は上芭露の17号線で西の沢川と東の沢川が合流している。 昭和53年から国営明渠排水事業によって改良されたが、それ迄は原始河川であった。 大雨の年には氾濫して大水害を起こし住民を悩ませた。 然し母なる川でありこの川によって我が郷土は造られて来た。 此川には沢山の魚がいた。 今でも川下の方では「キウリ」が春光に遡るので有名な川だが「赤ハラ」ウグイの一種で、普通のウグイより少し大きな魚で腹の両側に赤いすじがあるのでそう呼ばれている。 春先の雪解け水の時に上がってくる。 釣る事も出来るし、タモアミですくったり「ヤナ」や「ドウ」を川に仕掛けて取る人もいた。 骨が多いが結構うまい魚である。 その他「ウグイ」 「ドジョウ」 「ドンコ」 「ゴタロウ」 「川エビ」 「川ガニ」 「ウナギ」 「八目ウナギ」 など色々な川に住む魚がいた。 川は曲がりくねっていたので曲がり角の処は深くたまりになって居り、流木や根木がたくさんあって格好の魚の住みかだった。 「ウグイ」は動作が速くてなかなかタモ網にかからないが 「ドンコ」 は「カジカ」 とも言われて口が大きく動作がおそくてのろまなので良く取れた。 釣り針でなくても糸の先に 「ミミズ」 をつけただけでも釣れたので、子ども達にも高にされていた。 釣っても食べる処も少なく駄目な魚だった。 「ドジョウ」 は体が細長くて釣ってもなかなか釣れなかったが、タモ網には良くかかった。 「ドジョウ鍋」 は開拓地では御馳走と迄は行かないが良く食べられた。 「川ガニ」 は爪の所に黒い毛があって、川岸の粘土の所に穴を掘って住んでいる。 カニは甲羅に似せて穴を掘るというが、大きな穴には大きな 「カニ」 が入っていた。 時期によって脱皮をする。 脱皮をしたすぐのカニは体全体がくたくたで柔らかくなる。 こんな時は肉がないので誰も取らない。 秋に一斉に川上に向かって上る時があるので 「カンテラ」 を下げてつかみに行った人もいた。 大きな 「ウナギ」はあまりいなかったが、小さな八目ウナギはたくさんいた。 川の浅瀬に数匹が頭をそろえていた。 秋になると鱒や秋味が川をさかのぼってくる。 この魚は獲れない事になっているので取った人はいないと思うが開拓の頃迄はわからない。 とにかく昔は自然豊かな川で、子ども達の遊び場だった。 魚を取ったり、夏の暑い時は少し深い所で近くの子供達が泳いだりした。 川が平均に浅かったので止めて水田に水が引かれた。 上田さんの水門の所は深くて、市街の子供達の格好のプールだった。 大勢の子供が唇をむらさき色にして泳ぎに夢中になって短い夏を楽しんだものである。 この川も原始河川の頃は、大雨が降ると増水して畑に上る事も度々あった。 橋も流されて学校へ行けない事も出来た。 三木さんの所の橋は、観月橋と正式には名付けられている。 その由来は知らないが、明治の人は風流な名前を付けたものだ。 だが誰も観月橋なんて言わない。 三木さんの橋で通っていた。 この橋の北川が増水する度に欠けて通れなくなる。 大人の人が一時通れる様に長い木を渡してくれる。 子供達は手をつないでおそるおそる渡ったものだ。 もう一つ大きな橋は16号線にかかっている橋だ。 この橋を昔の人は源太郎橋と言った。 川向に加藤源太郎さんが入植していたからだろう。 加藤橋と言ったら良さそうなものを語呂が悪かったのか、みんなローと伸ばさないで、ゲンタロ橋と言った。 この橋も流失したら長い橋なので、役場では大変だった様だった。 とにかく曲がりくねった川でも川の両側には柳やタモの木、ハンノキが生え清らかな流れで女の人達は野菜を洗ったり、選択も出来た。 人は川の流れと共に生き、水の恩恵によって、大自然の中に生きる者の幸せをかみしめながら生活する事が出来た。 この川にも大きな時代の流れの中で、大変革の時がきた。 昭和53年からの国鉄直轄明渠排水事業が導入される事になった。 17年の歳月をかけ総工事費365、200万円をかけて工事は完了した。 とりあえず、水害から農作物は守られる様になり、総ての橋梁は立派な永久橋になって住民は安心して暮らせる様になった。 だが河川改良のせいではないのだろうが、あれだけいた川の魚は、どこへ行ったのだろう。 所々に落差工が設けられた為、さかのぼる魚もいなくなった。 現在は死の川になった。 子供の賑やかな越えもすっかりなくなった川面を眺めて思う事は、所詮人は二兎を得る事は出来ないのか、近代文明の生活の中にドップリとつかって自然の良さを思うのは我儘な郷愁なのかもしれない。 立派に完成した河川も増水の度に土砂が川底に堆積し今後に問題を残している事を付記しておく。 |
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十二、国営直轄明渠排水事業芭露地区事業概要 | 一、事業の目的 この地区は、湧別町東部に位置し丘陵地からなる酪農畑作地帯である。 現況排水路は、自然河川のままで蛇行が著しく断面も狭小のため、排水機能が十分発揮されていあに状況であったため、過湿被害を呈し農業経営が不安定となっていた。 このような状況を打開するため、この事業により排水改良を行い農業生産性の向上と、営農労力の節減により、経営の安定を図ることを目的とした。 二、事業概要 調査計画期間 昭和49年〜昭和51年 (3ヶ年) 事業実施期間 昭和52年〜平成5年 (17ヶ年) 芭露地区国営直轄明渠排水事業の竣工にあたって 芭露地区国営直轄明渠排水事業促進期成会 会長 長谷川 隆 芭露川は本町と佐呂間、遠軽、上湧別の町界附近に源を発し、芭露地区を貫流してサロマ湖にそそぐ川で、その延長は約35km、町内最大の流域面積を誇り約153平方kmを擁しております。 芭露8号線迄は築堤工事が完了していましたが、それより上流は原始河川のままで、開拓当時から春先の融雪による増水や台風による豪雨で河川が氾濫してその度に畑地の決壊や橋が流されるなど住民生活に大きな不安になっておりました。 こうした問題を解決する為に色々と運動の結果、昭和52年から国営による事業が決定し、工事が実施されてまいりました。 工事は順調に推移いたしましたが、地権者との折り合いには大変な苦労があり流路決定に伴う用地買収、補償、汚濁水を湖まで流さない為の沈砂池の問題等、解決しなければならないことが多く、開発建設部、役場、農協の担当者は本当に大変な御苦労があったと思います。 又、工事竣工を目前にして平成4年には台風17号による記録的な出水によって西芭露幹線は大きな被害を受け、この修復には新規工事以上の御苦労があった事と思います。 多くの困難をのりこえ、計画に入ってから17年の歳月と総事業費約36億5.000万円の巨費がつぎ込まれ、10数社の工事業者の誠意をもった工事努力によってここに竣工を見る事が出来ました事を心から喜び合いたいと存じます。 然し、計画当初115戸を数えた受益戸数も過疎化の中で大きく現象いたしました。 又、河川に生息していた多くの魚類も、農業の近代化と流路の直線化によってその姿を見る事は少なくなりましたが、ここに住む人々によって母なる川、芭露川は永遠にその流れを止める事はありません。 この工事が将来にわたって住民の生活に大きな幸せをもたらしてくれる事を確信して止みません。 終わりになりましたが竣工にいたる迄、開発建設部をはじめ御苦労をいただきました数多くの工事関係者の皆様方に心から感謝を申し上げますと同時に、期成会発足以来適切な御指導と御協力を下さいました期成会役員の方々、本当に有難う御座いました。 厚く御礼申し上げて御挨拶といたします。 |
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十三、16号沢川の改修工事 | 16号沢川は上芭露の製法の山地に源を発し、青山家の南側を通って市街地の中を道々の西側の側溝を16号まで流れ、病院の前を通って芭露芭露川に流入していた小河川であった。 この川は市街地の中を通っているため、大雨の度に氾濫して市街地の人たちは難渋していた。 このため、昭和30年頃、凶作による救農土木工事を利用して、森田家の前から道々、町道を横断し、安彦小三郎氏の所までチカに1メートル管を埋設して流し、芭露川まで流すよう改良されていた。 この方法で若干改善されたとは言え、台風などによる大洪水になると、横断管の鉄格子に大量のゴミがたまり、溢れた水は市街中の道路を流れ市街を水浸しにする事が度々あった。 又、安彦氏の所から芭露川の間は河川敷地もなく、畑の境界を流れていたので畑が決壊し、畑の所有者に迷惑をかける事も多かった。 こうした事から、自治会を挙げて町に状況を説明し、抜本的な改善をして地域の住民が安心して生活できるよう強く要請した。 平成9年に町では、この16号沢川を根本的に改良すべく計画を立て横断管による通水を止め、明渠によって芭露川まで流入させることになった。 水路については色々な案が検討されたが、福原敏春氏と森谷忠雄氏の畑を用地買収し、道々の西側溝にに通じる水路が決定された。 事業は、平成9,10,11年の3ヶ年継続事業で行われ、積ブロック方式、函渠工(ボックスカルバート)3ヶ所によって町道、道々を横断し、総事業費、約1億5.500万円を投入して工事は完了した。 更に深く下げ、16号沢川に連絡することによって、公民館の方向に流れていた水を遮断することが出来、この方向の水害も起きなくする事が出来た。 これ等の工事によって永年大水の度に水害に悩まされていた上芭露の市街地は大雨や融雪時の水の心配は解消された。 尚、この工事のため、水路に建てられた旧消防分遣所と車庫は、当時は自治会の所有となっていたが、町によって解体処分がなされた。 |
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十四、事業所の閉鎖 | ◎ 遠軽営林署上芭露担当区事務所 大正9年遠軽営林署より、上・西・東芭露地区の国有林を管理する為、上芭露、16号に上芭露担当区事務所が設置されていたが、平成4年4月より営林署の呼称が「網走西部森林管理事務所」となり、上芭露も上芭露森林事務所となって所員が1名配置されていたが、平成4年を以て所員の配置は終わり、大正以来長年に自治会員から親しまれて来た担当区も森林事務官が週2,3回通ってきて事務を執っている現状である。 平成17年現在の状況 ・管理面積 約5.630ヘクタール ・人工造林地 約4.000ヘクタール ・森林事務所職員 1名 ・芭露地区作業員 0 歴代芭露事務所 森林官(平成2年以降) 清水 健児 平成2年〜4年 高橋 幸勝 平成4年〜5年 高橋 邦宣 平成5年〜6年 前田 隆 平成6年^7年 三田 良雄 平成7年〜10年 野畑 英輝 平成10年〜14年 澤野 勝三 平成14年〜15年 森 孝二 平成15年〜17年 小川 真路 平成17年〜現在 戦前、戦後を通じて、5千町歩の国有林からは良質の木材が多量産出され、炭坑の抗木、鉄道の枕木、建築用材、パルプ薪炭等、数多くの用途に向けられ、戦後の一時期までは冬山造材として、農家の副業収入の場であったし、昭和30年代以降、最も多い時は25〜6名の営林署作業員が常時勤務出来たのも、仕事の少ないこの土地にとって安定した働き場所となっていた事は事実である。 |
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十五、上芭露雨量観測所 | この施設は気象庁が水防法に基づいて設置し、遠軽土木現業所が管理をしている。 芭露川水系の雨量を観測する所である。 ここで得られたデーターは芭露小学校の裏にある水位計と併せて毎日時間毎に、湧別町役場、遠軽土木現業所に自動的に通報される様になっており、インターネットを通じて情報が得られる様になっている。 こうした事は芭露川が平成10年頃、幾度か台風による増水によって芭露小学校や芭露の市街が床上浸水し、大きな被害を受けた事があった。 その反省からいち早く雨量を測定し、今後の被害を最小限度に止める為の施設の一つと思われる。 |
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十六、部落共有林 (学校林) |
湧別町では昭和35年頃に、全町の部落毎に学校林と名づけて町有林の一部を開放し、部落民に植林作業を行わせて将来の教育費の一部にしようとした。 上芭露では、東芭露に約14町7反歩を借り受けて、約14年間位部落民で管理したが、昭和49年町は方針を変更し、町が直接管理する事とし約490万円で町が買収した。 このお金はPTAが管理し、後年上芭露地区公民館が建設された時、舞台幕、放送施設等、自治会負担の部分として使用された。 |
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十七、林 業 | ◎上芭露の森林の状態 芭露の沢は原野、林野と呼ぶよりも、樹海という字句がふさわしい天然の密林であったと思われる。 良質のエゾマツ、ナラ、セン、カツラ、シラカバ、タモ、ドロ等およそ亜寒帯の樹木がほとんど繁茂し純成材、混交材とさまざまな林相を形成していたと思われる。 こうした千古斧鉞を知らない森林は開拓当初から貴重な資源であり、多くの森林業者、加工業者が入って経営が行われた。 この事については「郷土のあゆみ」でも取り上げられているので、少し別の角度から上芭露の林業を見てみよう。 上芭露の市街を中心にしてみると東方面の王子山林、西方面の山林地帯、東と西の沢の中央にある山林の3つに大別できる。 先ず東方面の山は現在王子山林となっているが、町史によると大正5年北海道庁が公売し、三井物産株式会社が買い受けたとされている。 終戦後、財閥解体が行われ、三井は系列会社の王子製紙に委譲したと言われている。 現在は、トドマツ、カラマツ等の人工林と自然林の見事な林相になっている。 西方向の林地は、もとは日本製麻株式会社の所有であった。 古老の談話によると昭和10〜11年頃、農家に売り払いしたもので主としてカラマツの人工林が多い。 中央にある山林地帯は、古くはシャクシバローと呼ばれており、徳川家達公爵の所有であった。 昭和8年頃売却して、現在は主として農家の所有になっており、カラマツ、トドマツの人工林になっている。 ◎森林組合 昭和15年に「森林法施行規則」が制定され、下湧別村でも森林組合が結成された。 この組合は、組合員数約630名があり、事業量においても道内トップの座を占めていたが、組合長のワンマン経営、融通手形の乱発等による、放漫経営によって昭和53年倒産し、再建に努力したものの、昭和55年に釧路地方裁判所北見支部は破産宣告を行い、事実上湧別森林組合は解散された。 ◎新組合の誕生 昭和56年6月新組合の設立総会が開かれ、直ちに設立認可申請を行い、同年7月認可となり、新しい組合の発足となった。
湧別森林組合は、「造林事業」 「下刈り事業」 「除間伐対策」 「整備地域活動支援交付金」 に対する対策等、懸命の努力を払ってきた。 ◎遠軽地区森林組合の誕生 木材業界は、安価な輸入材に推され不況が続き、森林組合も町村毎にある組合がその機能を維持していく事は不可能になってきた。 平成16年になって、かねてより協議してきた、白滝、丸瀬布、遠軽、生田原、上湧別、湧別の6森林組合を解散して、遠軽地区を一円とする森林組合が結成された。 名 称 遠軽地区森林組合(遠軽町南町4丁目19番地) 面 積 26.170ha 出資金 30.387.500円 組合員 1.306名 (上芭露30名) ○ 事務所決定の経過 森林の面積は、湧別町が民有林では11.631haで、この管内最大であり、湧別町に事務所を置くべきとの意見もあったが、地理的な条件を考慮して遠軽町の現在地に決定された。 |
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十八、市街地区の衰退 | かって上芭露市街は商業の中心地として栄え、一時は芭露の市街を凌ぐ勢いがあったと言われている。 湧網線が開通し、芭露の市街に農協の本部が移ってからは、上芭露は衰退の方向を辿らざるを得なかった。 こうした経過については 「郷土のあゆみ」 に詳しく記されており、ここでは重複を避けたいと思う。 ◎農協店舗(平成2年以降) 昭和39年 事務所兼店舗新築(76坪)。 この頃から利用客減少。 平成 2年 芭露本部での利用が多くなり、金融業務廃止。 給油業務は継続 平成 6年 自家用車の普及により「大型スーパーの進出」等により事業所店舗、 事務所を解体。 一部委託方式とし、給油業務は継続 平成10年 委託者退職により、店舗委託中止、職員芭露より派遣。 平成13年 道々遠軽芭露線、市街地道路拡張の為、店舗、給油所共に 利用客少なく、先に見通しなき為、組合員の理解を得て閉鎖する事になった。 ◎和泉鉄工場 和泉鉄工場は平成5年の12月迄営業を続けられた。 子息の正氏は、父達三氏の後を継いで昭和14年高等小学校卒業以来一貫して鉄工業にたずさわって来られた。 昭和17年には機雷事故に遭遇、右手に重傷を負いながらも大変な努力家で、家業に頑張って来られた。 平成5年に鉄工場を止め、現在は遠軽に出て家を建て悠々自適の生活をしておられる。 ◎小林商店 小林商店は、長沢商店のあとを譲り受け、酒、塩、雑貨などを販売してこられたが、住宅と店が別々にあったので不便を感じる事が多かった。 そこで店の方は止めて建物を解体し、店は事実上廃業となった。 現在は、公営住宅に入居しておられる。 ◎伊藤商店 伊藤商店は、呉服、酒、塩、米、菓子類等を主として販売し大変に繁盛していた。 昭和40年代にはいると人口は減少傾向になり、加えて交通の便が良くなり、ディスカウントショップや生活協同組合、大型スーパー等、購買の様子はすっかり様変わりしてしまった。 道々遠軽芭露線の拡幅工事によって家屋を取り壊し、一時消防団員の宿舎に平成13年に入居したがその後、札幌に転出された。 |
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十九、冬期間の働き場所 | 上芭露と東芭露の境にある工場は昭和55年頃、矢崎保氏が始めた 「スケソウタラ」の加工場で、青森県の丸敏水産が本社である。 冬期間、約600トンほどの魚を寒乾しにするする為、女工さんが糸を通し、男の人が外に干す仕事になり、2ヶ月くらい外で干して4月に取り入れ、青森の本社に出荷して珍味や「ソボロ」の原料になる。 地元の畑作農家の人たちが、農閑期に働く事が出来、約男女で45人くらい働いている。 |
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二十、佐竹木工場 | 佐竹木工場として営業は続けられていたが、工場名に変わりはないものの経営者は「代表取締役社長 齋野太氏」に変わられた。 上芭露は特に一般産業はなく木材業界の不況の中にあって、佐竹木工場の存在は大きく今後の発展が望まれるところである。 |
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二十一、農業に関する年表 |
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